フォースについて

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 フォースと言うのは「スターウォーズ」に出て来たあれです、あれ。日本語スーパーには、「理力」と訳されて表示されていた奴です。あの映画は、ほとんどの人が見ているので説明の必要はないと思うのですが、忘れてしまった人や他のことに気を取られて気が付かなかった人の為に、極々簡単に説明します。

 「フォース」とは主人公のひとり、ルークがオビワン・ケノービとヨーダに教わった、まあ簡単に言ってしまえば超能力のことです。これは「スターウォーズ」と言うストーリーの中では非常に重要な要素になっています。敵役のダースベイダーが使う「ダークフォース」と本質的には同じものなのですが、物語の中では「フォース」の騎士であったルークの父が、マシン?の力を借りて「ダークフォース」の使い手(悪の属性)のダースベイダーに成ってしまった(さながら堕天使のように)というような設定に成っています。

 さてこの「フォース」というものは、物語の中の話で現実とは全く関係のないものであると考える人は多いと思います。でもその考えはちょっと違うのです。この「フォース」というものは今までこの「魂の部屋」の中でふれていた「超能力」と本質的に同じものなのです。「スターウォーズ」の作者が物語の中で「フォース」と言う名前で使ったものは、私の言っている「超能力」と同じ概念のものを物語の中で説明しているのです。

 とりあえず、以後まとめて「フォース」という言葉で説明を続けます。この「フォース」というものは、「スターウォーズ」の物語が書かれるずっと以前からあったあったもので、ちょっとでもこの様なことに関心がある人にはなにも珍しい話でもありません。もちろん同様に私が「魂の部屋」で書いていることも、全然珍しい話でもないのです。ある特定の人達にとっては、極当たり前のことを書いているのに過ぎないのです。

 さてここからが最初の本題です。映画の字幕スーパーを訳したひとが「フォース」というものを良く理解していなかったため、「理力」と訳してしまったのです。これについては一部で賛否両論があったと思うのですが、この事に絡めて「フォース」というものをもう少し突っ込んで書こうと思います。

 作者の書いた「フォース」とは、禅(ZENと書いた方が良いかも)やヨガなどの「もの」のことなので、基本的には「無念無想」によってもたらされるものです。要するに「考えないで、感じとるもの」なのです。それに対して「理力」という言葉はそれと全く逆のものを表しているように感じてしまいます。そもそも「理」という言葉にそのようなニュアンスが多分にあるわけです。

 おそらくけっこう多くの人が、この訳に違和感を感じたと思います。確かに「念力」とか「感力」とか「禅力」などと訳すわけにはいかなかったと思いますが、逆のニュアンスの言葉に訳してしまったのは、大きな失敗だったと思います。

 と書いておきながら、実は最近この「理力」という言葉も全くだめと言うわけではないと思い始めています。その説明が今日の本題なのです。

 「理力」というものは実際にあるわけではないのですが、現実的には「論理的思考による力」というように考えていいと思います。くどいようですが「フォース」というものは「論理的思考によらない力」なのです。その意味では、この両者は全く反対のことを意味しているのです。

 ここで問題にしたいのは「論理的な思考」のことです。真に「論理的な思考」を実践している人は今の世の中でもあまり多くいません。多くの場合、自分は論理的だと思っていても本当は単なる思いこみであるといったケースがきわめて多いわけです。私自身の好みでいえば、本当に「論理的な思考」をする人には、好感を覚えます。逆に少しも論理的でないにもかかわらず自分は論理的だと考えている人には、ちょっとまいるなあと言う感じを持たざるをえません。

 この両者の違いは、時としてかなり明確であるのですが、時としてかなり曖昧にもなります。真に「論理的な思考」をしようと考えても実は非常に多くの障害があるのです。例えば、先入観というものは「論理的な思考」にとってもっとも障害に成ります。また、個人的な希望や欲なども「論理的な思考」を妨げます。また知識不足も重要な問題になるのです。数少ない「論理的な思考」の実践者は、自分の感情までも切り捨てて、と言うよりも計算に入れて判断を下します。それでもそれはなかなか大変なもので、普段かなり「論理的な思考」をしているにもかかわらず、ある種その人の拘りのあるテーマに関しては、「論理的な思考」な思考が出来ないなどというケースも出てくるのです。

 もう少し突っ込んで「論理的な思考」をいうと、自分の感情に流されることなく物事をきわめて客観的に判断をしなければならないのです。要するに「論理的な思考」においては自我はほんの一つのファクターでしかないわけです。あえていってしまえば、純粋な「論理的な思考」はある意味では無我であるということになります。

 ここまで読んでくださった賢明な読者の方は、私が言いたいことはもうお解りだと思います。純粋な「論理的な思考」は「フォース」ときわめて同じような特性を持っているのです。考えることを最優先にする「論理的な思考」と「感じること」を最優先する「フォース」。この二つは一見すると全く正反対のことであるかのようにも見うるのですが、実は兄弟のように近いものか、もしかすると同じ処をめざすルートの違いでしかないのかもしれません。

 この上の文章は、本当は論理的ではありません。別な言い方をすると、真に「論理的な思考」を得たものは、同時に「フォース」をも手にする。と、考えても全くの間違いではないということです。

 再び、アインシュタインの登場です。アインシュタインは学校では数学の成績は悪かったと言います。瞬間的に答えが解ってしまうのだけれど、その論理の過程を巧く言葉で説明出来なかったらしいです。まあ、彼が天才だったからとも言えるのですが、私に言わせれば、彼のこの現象は「フォース」の分類に入るのです。

 「フォース」にもいろいろなバリエーションがあります。「純粋論理」による「フォース」の発現もその一つとして考えることも出来るわけなのですが、実はもっと身近なところにいろいろとあります。基本的に「感」の強い人、第六感などをはじめ、射撃のとき無意識にトリガーを引くのも「それ」である可能性は高いのです。

 まだまだあります。剣道などでいう「殺気」を感じることもその一つであると思いますし。達人になれば一種の予知能力で危険を回避することが出来るようです。

 それにこれは音楽や芸術(アート)の分野にも多くの例を見ることができます。実はと言うまでもなく、一流のアーティストなどの実に多くの人達が、言葉はそれぞれ違っても、作品が「頭の中にふっと湧いてくる」と言うニュアンスの発言をしています。つい最近の直木賞作品もこのように湧いてきたものだとテレビで言っていました。

 この様な「フォース」のバリエーションは、実に様々な形で現実の社会に顔を出しています。いわゆる天才とよばれる人はほとんどの人が、この力を利用していると考えられます。

 もちろん、私達のような一般的な庶民でも、気づかずにこの力を使っています。ただしこれは全員が使えるというものではありません。ある条件が必要になります。その条件とは、「無我」(多くの場合、無欲)の状態、もしくは「精神集中」であります。言うまでもなく「精神集中」の状態はもうほとんど無我の状態です。無欲にも成れない、集中も出来ないと言う人は、この不思議な力の恩恵を得ることが非常に難しく成ってしまうのです。

 残念なのは私達が意識してこの「フォース」の力を使いたいと考えたとき、「無我」でも「精神集中」の状態でもなくなってしまうということです。もしも意図的にこの力を使えるのならば、その人は超能力者であるといえます。

(1997/09/05)


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