魂の重さ

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 さて久々の「魂の部屋」です。実は前回の第20話を書いてから約1年経ってしまっています。このコーナーを書くにあたっては、私は能動的ではありません。外(?)からの何がしかの働き掛けがあって書き始めています。こうして追加を書いているということは、それなりのきっかけがあったと言うことなのですが、それはある意味ではその時期がきたということなのでしょう。

 今回の内容は、とくにある程度このようなことに詳しい人には、今までと逆に首を捻られる内容かもしれません。ちょっと突飛な印象を持たれるかもしれません。

 ここのページで私が書く「魂の重さ」と言うのは3次元的な質量のことではありません。もっと概念的なものです。手ごろな言葉が見付からないので「重さ」と言う言葉を使っていますが、けっして何グラムとか言うものではありません。

 では本題です。個々の魂の位置づけを決めるものは「魂の重さ」ではないのか?という話です。(もちろん仮説です。)そして短刀直入に言ってしまえば、魂は重くない方が良いということなのです。

 人によってはここまで読んだだけで意味を充分理解してしまうかも知れませんが、もう少し細かく説明が必要だと思います。

 神(真理)というものは高次元の自然法則であると考えることも出来ます。例えとして適当かどうかはわかりませんが、われわれが石を空中に投げたとします。当然のことながらその石は下に落ちてきます。それを我々が見た場合、これはニュートンの万有引力の法則だなあと、考えたりするのが普通です。おなじ事を我々より低次元のものから見るとどのように見えると思いますか?(仮に見れたとして)そのものたちにとっては、明らかに石には「下に落ちようとする意志」があるように見えます。

 この事を我々に当てはめて考えると、我々には、「神(真理)の意志」があるように見えるのです。(我々にはどのようにしてもそのように感じられるので、神に意志があると考えても間違えであるとは言えないけど、そして上に書いたのとは別な意味での「意志」を持っているかもしれません。)おそらく、意志と法則は限りなく近いものであると思います。

 要するに、こうしたいとか、なぜこうするんだ?などのレベルではなく、「こういうものなんだ」と言うのがある程度悟りを感じた人の共通する感覚のようです。

 神に意志が有るかないかの議論はこの際本題ではないので、ちょっとだけ飛ばします。大事な事は、魂の世界も間違いなく我々より高次元の自然法則にしばられていると言うことです。

 と言うこと考えると次のような事が言えそうです。軽い魂はより(概念的)上に上がっていき、重い魂は自然と(概念的)下にいくと言うことです。

 いったい何を言いたいんだと、お叱りを受けそうなのですが、それは「魂の重さ」を考えて見れば自然と理解いただけると思います。(わからない人には解らないけど)

 では、「魂の重さ」とは何なのという問題なのですが、重い魂にはさまざまな「念」(たとえば怨念など言えばわかりやすいと思います。)がまとわりついているのです。ここで難しいのは、自我意識などもこの重さに入ってしまうのです。当然、「欲」の様なものもこの中に入ってきます。

 で、自我意識はしょうがないとしても、ひょっとしてもっと厄介なのは「成長しようという意欲」までもが、この魂の重さに関係してきてしまうと言うなのです。別な言い方をすると、熱心に自分の魂の成長を望むことは、自分の魂の重さを増してしまい、望んでいるのとは違った方向に進んでしまっているという可能性があると言うことなのです。

 また、生きようとする意志も魂の重さに影響を与えてしまうのだと思えます。自分がどうしようもない死を迎えたときは、それを甘んじて受入ざるを得ないのです。

 ここまで読んできて、なにか理不尽な感じがしませんか?私も少しそう思います。しかしこれはある種の自然法則なのでどうしようもありません。軽いものが上に行き、重いものが下にいく、これはどの次元であっても変わらない事なのです。

 極端に言ってしまえば、別に無理して上に行かなくても良いのかもしれません。しかし、我々が俗に言う神様は上の方にいるのです。(あるのです。)もしもそこに近づきたいのなら、魂は軽くしなければなりません。

 ついでに書いておきますと、重い魂はやはり重い魂ばかり集まった場所に行くことになるのです。(そこのことを地獄と呼ぶ)

(1998/08/13)


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