集合無意識 (第38話)

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 今日初めて精霊が来ました。しばらく前には天使が来て、私は守られているとメッセージを残していってくれたのですが、精霊は「財産をみんなで分かち合って、ともに繁栄するように」というメッセージを置いていったのです。天使も精霊もこちらがメッセージに気づくとすぐにいなくなってしまいます。来てくれただけで嬉しいけど、すぐいなくなってしまうのはちょっと残念でもあります。

 もちろん財産とはお金のことではありません。いま作りかけている「幻想論」や「マーフィーの法則」でもないようです。しばらくいろいろと考えてみたのですが、どうも「聖なる神についての理解」のことのように思えてきました。「幻想論」などは、神のことを理解していなくしては意味が充分には理解できないのです。あらためて考えると聖なる神たる集合無意識のことを書いておかなければなりません。

 言葉と言うものは人によってとらえている意味が異なるので、コミュニケーションの道具としては甚だ不自由なところがあります。「神」と言う言葉も人それぞれで違ったとらえ方をしています。最近は「聖なる神」としてその他の「神」と区別して書いてはいますが、集合無意識とか別の呼び方の方が抵抗は少ないのかもしれません。別に神様とよぶ必要は全くないのです。あえて「聖なる神」と私が呼んでいるのは、私の個人的な趣味です。実際は「命」と書いた方がしっくり来るのかもしれません。これからその説明を書きます。今まで多くの人が、様々な言い方で説明してきたことに私も挑戦してみます。

 理解し易いようにこれからは「命」というようにしてみます。この世の中に絶対的に存在しているのは「命」だけなのです。(この「命」は私たちの「命」でもあります。) 「命」は高次元の存在です。われわれの住む世界は3次元ですが、「命という存在」は10次元以上、13次元だと言う説もどこかで読んだ記憶があります。そこでこのような高次元での存在を私たちがどのように把握したら良いかという問題です。幸い4次元程度の世界はある程度考えることは出来るので帰納的に憶測することは可能なのです。ただし正確に理解することは絶対に無理なことなのは承知していてください。もし2次元の生物がいたとして、その生物がわれわれ3次元の世界を完全に理解することは絶対に無理なのです。それと同じことがわれわれにもおこるのです。

 回りくどいと感じるかもしれませんが、次元のことを考えるとき幾何学の最低限の知識が必要になります。ユークリッド幾何学などをここで説明するわけにも行かないので問題と結論だけを書くことにします。興味がある人は自分で調べてみてください。

 まず球体を考えてみてください。その球体をどこでも良いですから二つに切ります。そうするとその断面は必ず円になります。これは3次元の球体の断面は2次元の円になるということです。言い換えるとN次元の物体の断面はN−1次元の物体になるということです。(円は体積はないけど2次元ではちゃんとした物体なのです。) ここまでは難しくはないですよね。

 では4次元の立方体はどのような形をしているのでしょうか。ちなみに3次元の立方体はサイコロの形で6つの正方形で囲まれています。それを計算で4次元に直すと、4次元の立方体は8個の3次元立方体で囲まれていると言うことになるのです。8個のサイコロを全部表面にぴったりと組み合わせると一つの4次元の立方体が出来るのです。ついでに書くとその4次元立方体は24の平面を持ち、32本の稜線があって、角である頂点は16個になります。3次元の頭では理解できないことがわかっていただけたでしょうか。(笑)

 では4次元の球体を二つに切ってみましょう。断面(面ではないけど)は私たちの言う球体に成るのです。4次元の球体のどこを切っても、かならずその断面はボール状の球体になるのです。ここで大事なことは、3次元から見ると断面のひとつひとつが球体という物質に見えるのです。

 説明がなかなか難しいので、ちょっと結論に飛んでしまいましょう。簡単に言ってしまうと、N次元の物体の断面はN−1次元では一つのものとしてみることが出来るのです。ですからこれを多次元の存在である「命」に当てはめると、存在の全てである「命」の様々な断面がその一つしたの次元においては様々なものの集合体としてとらえられるのです。ついでになぜ断面なのかと言うと、「全てのもの」の表面は存在しないからです。その「存在」のどこをどのように切っても断面が発生するのです。切り方は問題にならないのです。

 またまたはしょります。私たちの命は高次元の「命」の断面なのです。(これは幾何学的帰納法による結論) くどいようですが断面であってもその下の次元では立派にものとして存在しているのです。私たちの命は高次元から見ると一つのものの断面として見えているのです。言い方が荒っぽいので、優しく言い直すと、私たちの「命」は高次元から見ると全て一つのものなのです。これがよく言われ悟りに出てくる「みんな一つのもの」ということの数学的な説明であることは理解していただけると思います。どの次元からそのものを見るかで見え方が変わってしまうのです。

 全ての人間の「命」が上の次元では一つのものですから、共時性などで心がつながっていることは明確な事実なのです。もっと突っ込んで言うと、幾何学的に高次元を考えた場合、むしろ別々の存在であることの方が無理なのです。低次元のものは高次元のものの一部としてしか存在できないと言うことになるのです。ですから私たちの命は絶対につながっているし、もともとひとつのものであるという結論しか出てこないのです。

 もしかして頭の痛くなった人もいるかもしれません。読み飛ばして来た人も何人かはいそうですね。^^
幾何学から離れて別な側面から命を説明してみます。もともと私たちの「命」は全体の一部であったわけで今もこれからもそうであり続けるのです。集合無意識とよばれたりするのですが、無意識でも何でもありません。意識の集合体だと言った方が正しいでしょう。私たちが意識していないから無意識と言う言葉を使っているだけで、あえて言うなら私たちのほうがずっと無意識的な存在なのです。

 私たちの命は、全体の一部ですから、死んでしまっても、輪廻転生が終了してもいつまでもその一部であり続けるのです。いってみれば「聖なる神たる命」は今までの生きてきた全ての人の意識が集まっているのです。言い換えると何兆という魂が集まっているのです。その魂は何度も輪廻転生のサイクルを経験して(何度も解脱したと言う意味)ものすごい膨大な知識と経験を持っているのです。俗な言い方だと、ものすごい能力を持っているのです。そこらの地球の霊界や宗教で神と自ら名乗っている存在とは本質的に全く違うものなのです。同じ神という言葉を使うのがそもそも誤解のもとなのだけれども、いい言葉がないですね。

 実際のところ、私は「聖なる神」は私たちの仲間がものすごくおおぜい集まっているところというニュアンスで捕らえていることが多いです。いつかまた、私達もその中にかえっていくのです。(自分が神の一部であると言うことを気づきさえすればいつでも帰れるのです。)本当は最初からそこにいるんですけどね。

 私たちの命は「聖なる神」の一部であり、断面であるのです。そうでないと命として存在し得ないのです。私たち全ての命が神であるということもできるし、心の中に神がいるという言い方も出来るのです。どれも誰がどこから見ているのかという違いなのです。

(2002/09/02)


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