システムへの要請 (第43話)

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 前回の創造システムの続きです。今回は創造システムへの要請(時には指令)の送り方についてです。

 まず一番基本的には魂の希望があります。魂がどのような事を体験したいと望んでいるのかです。ただ魂の望んでいる体験はかなり漠然としたもので、そのままだとどのような未来が用意されるのかはかなり曖昧です。魂が体験として求めていることは、たとえば「愛を感じたい」、「愛を実践したい」、「悲しい体験をしたい」、「赦(ゆる)しをしたい。」などなど、多くの場合私たちは自分自身の魂の欲求について理解していませんから肝心な「今」として確定する為の「選択」の段階で別な選択をしてしまいます。わかり易いようにケースを想定していくつか例をあげて見ましょう。

 ある人の魂が「人助け」を体験したいと要望しているとします。するとその人の所に助けを望んでいる人が現れます。もちろんその人は「助けられること」を望んでいる人です。しかしそのある人が自分の魂の欲求に気がつかずにいた場合、その助けを望んでいる人を無視してしまうのです。そのつもりで注意していれば助けを求めていることが解ったとしても、そんなことが起るとは考えていないわけですから、まあ、他人事で終わってしまうのです。言って見れは最終的な選択の段階で魂の要望が通らなかったということです。本当は自分の魂が「人助け」のお膳立てをしたのわけで、全くの他人事だというのは間違いなのですが。このようなケースの場合、その人のところにはまた他の助けを求める人が現れます。魂が他のもっと強い要望を求めない限り、魂は同じ要請を出し続けるでしょう。そうするといつか「人助け」を選択するまで、同じようなことが起り続ける可能性が高いのです。もちろん助けてあげても、まだそれを望むケースがありえますが。

 たとえば「赦し」を魂が体験したがっていた場合、早くこれに気が付かないとちょっと厄介なことになるかもしれません。その人が「赦し」が出来るようなことが起るからです。誰かに何かされて、無事にそれを赦してあげられたらとりあえず魂も満足でしょう。しかし赦さないで別な行動に出た場合、また今度は別の人が「赦し」の元を作り出すのです。その人もその人なりの目的があって何かするのですが、それはこの際は関係ないのです。出来事は双方のリクエストに合致したものが起るのですから。またまた赦すことが出来なかったりしたら、結果的にというか現世的にいうと不幸な出来事が続いてしまうのです。

 もし悲しい体験があったら、思いっきり悲しんだ方が良いです。魂が納得すればもう悲しい出来事は起らなくなります。これはこれ以上書かなくてもわかりますよね。もしそれでも魂が納得しないようだったら、もっと楽しいことを体験しようよと訴えかけるのも方法です。

 さて、魂の要望を真っ先に書いたのには意味があります。それは要望を出すときには魂が窓口になっているからです。ですから魂の要望は最も基本的な要望だと言うことが出来るのです。しかし要望を出せるのは魂だけではありません。魂の窓口を通して私たちの現世的な意識からでも結果的に要望を出せるのです。私たちの考えていることや、言葉に出していること、行動していることは当然のことながら私たちの魂は一部始終見ているのです。それを魂が受け止めて要望として出すのです。あらためて確認しておきますが、私たちの自意識と魂は価値観が全く違います。当然のことながら希望するものも違うのです。極端に言うと魂は死などは恐れてはいません。あることを体験するために結果的にそれが死に結びつくものであっても、それほど気にしなかったりするのです。

 ちょっと話がそれぎみな感じもしないわけでもないので、話を戻しましょう。思考を通して創造の要望の仕方です。まず最も大事なのは確信の強さです。つよく確信していればいるほど魂はそのまま受け止めてくれます。それをその時々で反対のことを考えたりしていると、結局要望も曖昧なものになってしまいます。そしてもう一つ大事なことは考え方です。「神との対話」で出てきますが、「金が欲しい」と考えていたら、ずっと金が欲しい状態が続いてしまいます。何故なのかというと「私」が付いてしまうのです。単に「金が欲しい」と考えているとそれは「私は金が欲しい」という意味になってしまうのです。その場合結果的に創造されるのは「金を欲しがっている私」なのです。これは「神との対話」を読んでいるのなら当たり前のこととして理解できると思います。

 「私は幸せだ」といつも考えているのなら、「幸せな私」が用意されます。現世的にいま幸せだと思えなくても、とにかく「私は幸せだ」と考える必要があります。くどいようですが「私は幸せに成りたい」ではいけません。本当はもっと具体的なほうがいいんですけどね。なぜなら魂も同じものを幸せと感じている訳ではないので、そのままだと魂の幸せを実現しようとするでしょう。

 さて、わかり易いように例をあげて考えて見ましょう。誰かが金持ちに成りたがっているとします。その時に必要な考え方は「私は金持ちだ」というのが基本的なパターンでしょう。ただこれだけだとまだ弱いかもしれません。なぜなら魂はお金などには興味が無いからです。魂が「喜び」の体験を求めていたとしましょう。もともと魂は「喜び」の存在ですから、多くの場合「喜び」というキーワードには乗ってきてくれます。その場合もっと強い要望が出せる思考は、「私はお金持ちだから喜びにあふれている。私はお金持ちであることを幸せに感じている。」というようになります。魂の要望と現世的な自意識の要望とを上手くつなげて上げればいいのです。そしてお金持ちである自分を出来るだけリアルに想像して、それが喜びにつながることを魂に納得してもらうことが大事です。(もしその人が本当にお金持ちであることに価値を感じるのであればの話ですが)

 私の場合ですが、私は別にお金持ちに成りたいなどとは思っていません。ただお金に困るのは嫌なので、「私はお金には困らない。」というように考えています。要するに必要になったら必要なだけ以上のお金は入ってくるということです。あまり欲をかくと、自分自身の心の中でそれに反対する気持ちが出てきたりするので、「あるがまま」の自分が望んでいる程度の要望にしておいた方が実現し易いと思っています。私はこれからもお金に困ることはありません。(ついでに自分のために書いておきます。^^)

 言葉の場合は思考よりもっと意味が強くなります。言葉にしてしゃべるときには当然ながら考えてもいるわけですし、話すという行動でもあるわけです。言葉にするということは、思考にプラスして話す行為をするという決断の要素が加味されるのです。これは単に考えている場合より魂に与えるインパクトは多いのです。

 昔から言霊(ことだま)といって、言葉に力があるといわれてきました。これはずばり言葉によって創造を起こすことを意味しています。ですから言霊の場合もそれを信じていればいるほどその力は強くなるのです。ついでに書いておくと、印(いん)というのもあります。正しい形で手を組み合わせるといろいろな効果がでるというやつですが、これも理屈は同じです。それぞれの印の意味と効果をよく理解して、そして信じているのならば創造システムに働きかけることになるのです。

 行動の場合はもう一つの意味ももちます。それは要望の元になるだけでなく、最終的に「今」を確定する為の選択という要素も付加されるのです。魂が創造システムに要望を出すのならば、私たちの自意識がコントロールしている行動が一瞬一瞬の選択を決めるのです。もちろんこの選択は思考や魂のレベルで行われることもないことは無いのですが、最も一般的には行動が決定権をもっているのです。結果的に私たちの意識と魂が全然別な方を向いている場合(意識が魂のことを気づいていないということ)、生きていて面白い人生には成らないのです。

 ここで「神との対話」に出てくる「思考、言葉、行為」という三位一体が起っていることは理解できると思います。「ものごとは思考と言葉と行為において真実になるまでは、真実とはいえない。」というのもこの創造システムのことを言っているようにも思えてきます。

 選択について、たわいのない私の実例があるので書いておきます。会社でマーフィーの成功法則の話をしていたとき、話のついでに「私はポルシェに乗っている。」と念じてみたのです。別にポルシェが欲しかったわけでもなく、「誰かがポルシェをくれたら良いな」くらいの割といい加減な動機でした。数日して会社の側の中古車屋の前を通ったとき、ふと真っ黒なポルシェに気が付きました。なんか光っています。さも私に乗って欲しいように言っているようにも感じたのです。思わず「黒いポルシェも良いなあ」と思ってしまいました。私は最近は車にはそれほど興味を持っていないので、ふだん中古車やなど注意してみるようなことは無いのですが、このときは本当に眼の中に飛び込んでくるような感じでした。軽い気持ちで念じただけなのに知らない間に選択の状況になっていたのです。私が本心からポルシェが欲しいのだったら、まずあのポルシェを買ったでしょう。そしておそらくお金の面でもそんなに無理しなくても良かったような気がします。だって中古車で年式はちょっと古そうでしたから。私がポルシェに乗るという可能性が創造システムによって用意されたのです。しかし基本的には私の本当の関心はこのページに書いてあるようなことにこそ興味あるので、そのまま通り過ぎたわけです。私は買わないという選択をしたのです。(もらえるものならもらうのだけど、それに今乗ってるオペルもまだ新しいし)

 実はこのポルシェのことは、もう一つ別な意味もあるのです。私は創造システムのことをもっと知りたいと思っていましたから、その例としてポルシェの件が起ったのです。選択ということの意味を私が理解するために創造された出来事だったのです。まあ、世の中というものは良く出来ているものです。

 選択によって私たちはいつでも方向転換が出来ます。べつな選択をすればいいのです。たとえば私は「メッセンジャー」としてこのページを作っているのですが、何かで嫌に成ったら、あるいはもっと別なことをしたくなったら、書くのを止めればいいのです。別に誰からも怒られるわけではありませんし、誰にも(神様にも)もんくを言われる筋でもないのです。私たちは自由なんですから。この選択というステップがあることによって私たちの「自由」が実現できているという考え方も出来るのです。(当たり前のことですけどね)

 ただ私がいくら自由だからといっても、何でも思い通りになるわけでもありません。私が書くのを止めたとき、私は「メッセンジャー」ではなくなるのです。これは別の言いかたをするなら、「私はメッセンジャーで在る」という状況をなくすことになるのです。それは私が知りたいと思っていたことの答えを今までのようにはもらえないということも意味するのです。私がメッセンジャーでいたいと思うのなら、私はわたしのやるべきことをやらなければ成らないのです。これは義務ではないのですけど、私にとってはどうしても必要なことなのです。それが一瞬一瞬の選択という意味になるのです。また、私がメッセンジャーで在るために選択を続ける、それが「あるがまま」なのです。

 若干余談気味になりました。あらためて確認しておきましょう。「今」が確定する直前に、「選択」が求められます。その選択はその直前の「今」の行動により選択されるのです。(読んでいる人に解って貰えることを期待しつつ、書いています。) 言葉を変えて言うと「あなたの願いは何でも実現させてあげるよ、ただし選択は間違えないでね。」ということなのです。

 要請の方法について、もう一つ大事なことがありました。これは要請という言葉ではしっくりこないのですが、不安に思ったり、恐れている事も現実として用意されてしまいます。この場合は用意されるというより、思考のエネルギーが恐れているものを引きつけてしまうのです。エネルギーが要請として解釈されると考えて大きな間違いではないと思います。この場合「選択」のチャンスがあるのかどうか判らないのですが、もし不安な事態が起ってしまったら、その後の思考を切り替えることで対処しなければなりません。すくなくとも同じ思考を続けるのは得策だとはいえないのは明白です。新たな思考にきりかえた途端に「選択」のチャンスが生まれるような気もしたりするのです。

 要請の出し方については、宣言を除いたら、こんなものだろうと私は思っています。もちろんそれは要請という言葉を使わないで、思考や言葉、そして行動のエネルギーが波動エネルギーとなって創造システムに働きかけると考えても本質的には同じことなのです。おおよその理解が大事なので細かいことは良いにしましょう。この次には、今回説明できなかった私の「宣言」の事例を説明しながら話を進めようかと思います。それと、集められた要請をもとに創造システムがどのように現実の選択肢を用意するのかも、その次くらいで書こうと思います。

(2002/09/14)


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