愛と悲しみ (第48話)

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 死について書こうと思って、色々考えたり、気づきを待っていたのですが、なかなか私の気持ちの中でOKが出ません。こんなときはまだ重要な事に気が付いていないときなので、またまた予定を変更します。もしかして今回のテーマも死に対する考え方への重要な要素なのかも知れないのですが、それはまだ見えてきません。何となく順番が決まっているようにも思えたりするのです。(創造システムについてもまだかなり重要な事についてふれていないのですが^^; それも後になって意味が解るかも)

 「愛」が私のページの究極的なテーマであることは前からわかっていました。そもそも創造システムにしても愛を体験する為に作られているのですから。だから私としては「愛」について書くのは一番最後が良いと思っていました。そして今でもそう思っています。私の探求もまだまだ始まったばかりで、まだまだ愛について深い理解が出来ているとは思えないからです。そんなわけで今回は、愛そのものではなくて、愛と悲しみとの関係について私の体験を書こうと思います。

 私は悲しみの深さを知っていました。深い悲しみは底なしに深く、もし足を踏み外して落ち始めたら永遠に落ち続けて行ってしまうような印象すら持っていました。ただこの前の「喜び」の体験の後のころから、悲しみを思い出して楽しんでいる自分がいることにも気が付いていました。もちろんそんなに深い悲しみでは無いのですが、しみじみと悲しみを味わっていたのです。今も聞いていて悲しくなってしまう音楽をかけていたりするのです。

 喜びは私の心の中に見つけることが出来ました。見つけるといってもただ単にもともとあったものに気が付いただけなのですが、それは精神的にはものすごく大きな意味がありました。愛もおそらくそんなものだと思いながら、「私の愛はどこにあるんだろう?」などと考えながら、悲しみの気分を楽しんでいたりしたのです。

 なんとまあ、お馬鹿さんだったでしょう。気が付いてみるとなんでもないことだし、しっかり「神との対話」にも書いてあったんですけど。それは頭では理解していたんです。本にそのまま書いてあるんですから、ただ体験(実感すること)が伴っていなかったので、ただ知っているというだけで理解していなかったのです。本には大体このように書いてありました。

 悲しみは、愛のバリエーションの一つである。何かの理由で正しく表現されない愛は悲しみとしてあらわれる。(悲しみは抑圧された愛である)

 本のどこに書いてあったのか覚えていないので、引用は省略します。たしか何箇所かに分散して書いてあったと思います。けっきょくのところ、悲しみを楽しんでいた私は、抑圧された愛を楽しんでいたということなのです。うれしいことは、私は愛そのものではないにしても悲しみの深さを知っていましたから、愛も同じように深く、あるいは大きくはかり知れないものであるということが間接的にでも理解できたのです。それに最近ずっと慣れ親しんでいた「悲しみ」が「愛」の一種だったんですから。愛のバリエーションの中にいながら愛を探していたのです。まあ、こんなものかもしれませんね。人生って。

 そこで探求者としての私の登場です。どんな場合に愛が制限され悲しみになるのでしょうか。私の過去の体験など思い出して自分自身を分析してみました。どうも三つのケースが在るようです。

 まず最初に、現実的(物理的)に愛を伝えることが出来ない場合です。この場合は本人も愛していることを知っているのに、伝えることが出来ないということで悲しみが起るのです。これは肉親など親しい人が亡くなってしまった場合などに多くおこります。その時に悲しいのは当たり前なのですが、それを分析すると、その人が亡くなってしまったことで改めて愛を確認します。しかし相手にはもう愛を伝えることは出来ないと思い悲しみにくれることになるのです。ああすればよかった、何々をしてあげたかったなど、愛の行動をすることが出来なくなったことも同じ意味を持ちます。このような場合は、愛と悲しみの両方を同時に感じることになります。

 少々皮肉なのですが、亡くなってしまった人からは何も見返りを期待できません。ですからより純粋な愛を感じることが出来るのです。もしも相手がまだ生きている場合だと、喜ぶ顔が見たいとか、「ありがとう」の一言でも言って欲しいとかの期待が紛れ込みます。おうおうにして期待は不安をよび、不安は愛の障害物になってしまうのです。

 死者に対しては、考えるだけでメッセージを送ることが出来るのですが、それを知るだけでも悲しみはだいぶ減らすことが出来るということなのです。

 ふたつめのケースは、自意識が障害になっている場合です。たとえば親に対して心では愛情を感じていても、自意識(本人が思う社会常識などを含む)が邪魔していて、素直に愛の表現が出来ない場合などにおこります。それは、相手の行動や出来事を見て悲しいと思うような形で現れます。たとえば「私の○○は、悲しい」と感じた場合、それは○○のことを愛しているのに愛していると言えない状態に在ることを意味しています。(照れくさいとか、理由は色々ありそうです)

 三つめは本人が愛に気が付いていない場合に起ります。誰かのことを愛しているのに、自分自身がそれに気付いていない場合など、その人にとっては原因不明の悲しみがやってきます。たとえば誰かのことを好きになりかけているとき、なぜか悲しくなってきたりします。それは愛の気持ちが心の奥でもがいているのです。

 テレビなどで外国の不幸な人たちのニュースを見たとき、私にはどうしようもないと思っている場合などにも、悲しみはおこります。それはその人たちに対する愛の表れなのです。

 今年のはじめころ、原因がわからない深い悲しみに落ち込んでいたときがありました。そのときにはまだ悲しみを楽しむというよりも、落ち込むという感じのほうが強かったのですが、後になって「悲しみを、ありがとう」と考えている自分もいることに気づいたのです。わたしをこんなに悲しい気分にさせてくれて、ありがとうという意味です。

 そして最後に大きな疑問が残りました。「悲しみを、ありがとう」と感じたとき、私が深く愛していたのは、その相手だったのだろうか、それとも自分自身であったのだろうか。これについてはこれ以上の詮索は止めることにしました。

(2002/09/29)


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