突然の死 (第49話)

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 始まる時代 (第46話)にご紹介したメールの後半の部分です。メールの趣旨としてはこちらの質問の方がメインだったのですが、なかなか難しい問題で苦労しています。(進行形です)

 ひとつお聞きしたいのですが、人間は自分で現実を創造しているのが真実だとすると、
 サリンや911などのテロ事件に巻き込まれた人というのは、
 やはりそれに巻き込まれることに同意した、ということなのでしょうか?

 否定的な集合無意識から出ることを選択出来なかったが故に
 巻き込まれてしまったと考えて差し支えないでしょうか?
 また、911に関しては飛行機に乗っても、そこにいた被害者全員が
 自分たちは助かる、と確信していたら、皆無事で戻れたのでしょうか?
 望月さんご自身はどう思われるか、是非ご意見ください。
 いろいろと考えてみたのです。といっても考えていたというよりも気づきを待っていたという方が正解なのですが。その間にいくつかの気づきがあったのですが、そのたびに説明が難しくなってしまうのを感じるのです。

 「神との対話」の中でニール氏は何回か死にたいして質問をしています。メールでのご質問にかなり近い内容のものも含まれているのですが、私の印象としては、この質問についてはいまいち歯切れの悪い返事を感じてしまいます。というか一連の言葉の中で、このことに関係する部分が最も歯切れの悪いものを感じてしまうのです。何故なんだろうとそのことを考えていたのですが、結局のところ私達にとって簡単には納得できないことだからなのだということがわかりました。それは私が説明をしてもそれを受け入れることは出来ないということでもあるのです。

 とりあえずメールの質問に対しての私の意見を書いておきます。

「サリンや911などのテロ事件に巻き込まれた人というのは、やはりそれに巻き込まれることに同意した、ということなのでしょうか?」
これについては、全ての人がそれに同意したと考えるのが言いようです。この根拠の説明は後でします。

「否定的な集合無意識から出ることを選択出来なかったが故に巻き込まれてしまったと考えて差し支えないでしょうか?」
多分集合意識のことだと思うのですが、集合意識が否定的で在るのかどうかも難しい問題なのですが、答えは「YES」だと思います。魂のレベルでは上の同意があるとしても、意識のサイドからいうと集合意識の影響から逃れることは出来なかったということなのです。

「また、911に関しては飛行機に乗っても、そこにいた被害者全員が自分たちは助かる、と確信していたら、皆無事で戻れたのでしょうか?」
もしも本心から助かると最後まで信じていれたのなら助かったと思います。全員でなく誰か一人でも助かったでしょう。もしかしたらそれで助かっている人もいるのかも知れません。奇跡を起こせばいいのですから方法はあります、助かる為には過去を変えてしまえばいいのです。判り易くいうと時間を戻ってやり直せばいいのですから。もっと簡単に言うと飛行機に乗らなかったことに(乗らないこと)すればいいんですから。(ここら辺でもう話が信じられなくなったと思いますが^^;) これくらいの力は全ての人が持っていると考えられます。

 結局のところ、システムは完全なのだということです。まだ他にも簡単には説明できないし、説明しても信用してもらえない要素はあります。その中で一番わかり易いのは「肉体的な死」に対する考え方です。今回はこれについてもう少し書くことにします。

 魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではありません。私達の意識とは全く違う捉え方をしているのです。私達の意識は自意識により支配されています。自意識(自我)とは基本的に生存欲求なのですから、私たち(自意識)は生存することを最も重要な目的として働いています。それは人間の行動をみればわかります。ある程度大人になった人間の場合、ほとんどの行動が自らの安全を確保する為を前提として選択されています。それは食欲などの基本的な欲求ばかりでなく、社会的な欲求も、人間関係に対する欲求も、根本的なところでは、安全に対する欲求が元になっているのです。社会的に成功してお金持ちに成りたいと思うのも、基本的にはお金持ちの方が安全に生きていけると考えているからなのです。

 というわけで、私達の意識は生存を続けることを第一の目標として生きています。それは「肉体的な死」というものを、真正面から考えることを避けるということでもあるのです。とくに人間の本質が肉体であると勘違いしている場合はなおさらです。死という物を出来るだけ避けなければならないという前提に立って私達の思考(意識)が成り立っているのです。べつにそれが悪いとは言っていないですよ。ただ自意識の本質として生存欲求があると言うことをまず説明したかっただけです。

 私達の自意識の根本的なところがそんな風に出来ているのですから、魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではなく、多くの場合すばらしいイベントであり、人生の中で最もドラマ性の高い楽しみな部分であるといっても心情的に理解するのはたいへん困難だということになるのです。

 私たちは、永遠という一瞬の中で絶えず変化しながら、生きることの感動を味わっています。(これもわかるようでいて、判んない説明ではありますが) 少々ゆがんではいますが、わかり易い言い方に変えるとこんな風に成ります。私たちは、輪廻転生を通じて何度も何度も生まれて、成長し、死を体験しています。その輪廻転生自体も、聖なる神といったいになった後(解脱をした後)で、またやり直しをしているのです。輪廻転生自体を何回も繰り返しているということです。言ってみれば無限に生と死を繰り返しているのです。そんなわけで、今回の輪廻転生での全ての記憶を持っている魂にとっては、「肉体的な死」というものは特に珍しいものでもなく、単なる一つの区切りでしかないのです。

 おまけに、魂にとっては「肉体的な死」というイベントは(自分の場合も自分以外の人の死の場合も)、大きな感動を伴った出来事になるのです。死を通して、愛を確認したり、一生での体験の総決算である気づきをしたり、人によっては「肉体的な死」の前後にその人の人生の価値(成果)のほとんどを体験することもありえるのです。とくに意識的でない生き方をしてきた場合、「肉体的な死」を通しての感動は重要になります。たとえば、死んだ後で初めて「自分がどれくらいたくさん愛されていたのかを実感できる」というようなこともあるのです。

 だから魂にとっての「肉体的な死」は、極端な言い方で在るのを承知で書くと、「食事の最後に出てくる、大好物のデザート」でもあるのです。

 今書いたことだけでも、自意識からの見かたしか出来ない人にとっては、まったく何を言っているのか判らないだろうし、私のことを気が違っていると考えるのかも知れません。要するに自意識にとってそれだけ「死」というものを的確に理解することは大変なのです。

 まあ言ってみれば、「肉体的な死」というものは何も悪いことではないし、なにも恐れることではないのですが、それを完全に知ってしまうとデザートの味が落ちてしまうのでこまりものです。まあ死ねば分かるんですけどね。

 本題に戻ります。テロなどで殺された人は、死を受け入れているのです。少なくとも魂はそれを受け入れています。何故ってそれを嫌がる理由は魂には無いのですから。もしも魂がもっと生きることを望んだ場合、はじめからその飛行機に乗るという選択肢は用意しないのです。少なくとも意識的に生きている人は、絶対にその様なことで不本意な死に方をすることはありません。無意識に生きている人の場合、魂からの忠告を聞かずに飛行機に乗ってしまうかも知れません。そのばあい集合意識による創造であるテロなどのせいで不本意な死に方を選択しなければならなかったということになるということも出来るかもしれません。しかし基本的にはその直前、あるいはその直後にはあきらめたでしょう。この場合のあきらめるということは、集合意識に従うということです。もしそうでなかった場合、奇跡を起こしてでも生還することは出来たと考えられます。(それはかなり困難で在るけれど、不可能ではないという意味です。)

 正直に言って、このページを書くのにかなり苦労しました。いろいろと気づけば気づくほど説明が難しくなって、上に書いたのはその一部でしかありません。まだ私の頭の中で整理されずに、漠然としたイメージだけで捉えているものもあったりするのですが、それは説明できないのです。ただいえるのは、「プロセス(システム)は完全である。」という本の中の言葉を信じるしか無いし、信じてかまわないと言うことです。矛盾に見えても矛盾ではないのです。それはどこから見るかの問題。そして己の価値観にとらわれている限りは、正しく理解することも難しいということなのです。

 うまく説明できなくて、ごめんなさい。

 信じられないと思いますが、ついでに書いておきます。「神様からの贈り物(第32話)」があったころ、私には二人分の魂がいたのです。(指導霊の言葉を信じればですが) その後数日してから、なぜか「ああ、これでもう死んでもいいなあ」という気持ちになったのです。もうやることはやったという感じです。その気持ちが湧いてきて、数日後、指導霊に聞いたら私の魂は一人分に戻っていました。いつから合流していたのかは判らないのですが、一時期はふたりいたのです。ちなみに「神様からの贈り物(第32話)」の当日は、なんと20人分の魂がいたらしいのです。それはおそらく違う時代の私がその体験を味わうために戻って(応援に)きていたのです。

(2002/10/08)


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