宗教での奇跡 (第50話)

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 奇跡という言葉の定義もいくつかありそうですが、多くの場合次の二つのうちの一方または両方の場合を言うのだと思います。一つは物理的な現実の世界では絶対に起らないと多くの人に思われていることが、実際に起った場合。もう一つは、実際に起ることは通常の世界観でも有り得る事なのに、その確立を計算してみるとかなり確率の低くて、ほとんど偶然の一致であるとは考えられないような場合です。

 先のケースの場合は、通常に奇跡といって問題ないのですが、後のケースの場合は見解が分かれるかもしれません。とくに偶然というものが有り得ると考えている普通の人たちにとっては、いわゆる偶然の一致だと片付けてしまうでしょう。まあ、世の中に偶然に起ることなど何も無いということは、またこんど別の機会に書くとして、今回は俗に共時性と呼ばれている「意味のある、偶然の一致」について、考えてみます。(本当は偶然というものはなく、全てのものに原因と意味が在るのですが、それはおいといてという意味です。)

 以前、指導霊から一つのメッセージを受け取るために、非常に大掛かりなイベントを経験したことがあります。私がまだ地球の霊界の問題点に気が付く前のことなのですが、その時は車のナンバーで10数台、それに飛行機と小火(ぼや)、子供の遊び、女房の腰痛、などなどを使って行われたのです。ちょっと内容的には詳しく書くわけに行かないのですが、とにかく偶然の一致にしてはあまりにも出来すぎていて、それにオーバーなくらいドラマチックな出来事だったのです。ある意味奇跡的な確立でしか起りえない、偶然の一致がたくさん続いたのです。それに気づいたとき私は驚きました。「へー、指導霊ってこんなにも力が在るのかなあ。すごいなあ」と感激したのです。

 後になって、指導霊の能力はそれほどたいしたものではないことが分かり、むしろある意味では、すごく幼稚であるというのがわかってきたのですが、そのイベントの出来はたいしたものでした。そんな趣味のような大掛かりな出来事を考えるくらいだったら、もっとやるべきことをやってくれ、というのが当時の私の考えでありました。(その当時の私は人生の中で最も恥ずかしい時期だったのですが)

 しかし時間がたって知識も少しばかり増えてくると、どうやらその時のイベントは私が自分で創造したものであるということに気づいたのです。指導霊にそんな力はないし、それ以上の存在が単に一連のメッセージの為に何かするとも考えにくいのです。私の現実として起った奇跡なので、それは私自身の創造力で起こしたんだと考えなければ説明が付かないのです。言いかたをかえてわかりやすく書くと、私自身の創造力が私の真実の中だけの奇跡を起こしたのです。他の人に説明しても、それが確率的にいくら有り得ないことであっても、単に偶然の一致だとしか思われないのですから。

 単なる偶然の一致と奇跡的な出来事の境目はどこにあるのでしょう。その境目などは無いのです。言ってしまえば、日々起っている偶然の出来事は全て自分の創造で起っているものであり、奇跡と同じ性質のものなのです。ただあまりにも日常的に見えてしまうために、それが自らが起こした「小さな奇跡」であるということに気が付かないのです。

 ということで、本題に入ります。宗教の信者で熱心な人はどの宗教であっても奇跡的な体験をしているはずです。なにしろその宗教を熱心に信じているのですから、その宗教にそった内容の奇跡を自分の創造力で作り出してしまうのです。簡単に言うとこれだけなのですが、理解し易いようにもう少し噛み砕いて例をあげて書いてみます。

 どこでもいいのである信者が新興宗教に入信していると考えてください。その人はその宗教内での昇進をしたいと願っています。それで一生懸命活動しながら、なにか神様に認められたというような奇跡的なことが起らないかと、念じるわけです。宗教内での集会などでは、だれそれがこんな経験をしただとか、こんなことが起こるとか何度も聞かされています。それにもっともらしい儀式なども色々用意されていて、それに参加した信者はだんだん深層意識にまで、信心を叩き込むことに成ります。今までのページを読んできてくれた人なら結果は判りますよね。当然のごとく、その信者は奇跡を体験することになるのです。

 さて問題はここからです。信者は自らに奇跡を起こせる創造力を持っているとは思っていませんから、その奇跡はその宗教の神様から与えられたものだと考えてしまいます。(もちろんその宗教の神からなんらかの影響はうけているであろうけれど、本質的には信者の創造力が使われたのです。) 通常の人は奇跡などは特別の人しか起こせないと考えているので、まあこの誤解は仕方ないかもしれません。しかし結果的に信者は自ら起こした奇跡によって、よりその宗教の神をあがめ、信心を強くしていくのです。「うちの宗教の神様は奇跡が起こせる。」、とか「私の常日頃の信心が認められた。」などと考えて、いっそう頑張るのです。おまけに他の信者に宣伝したりして、他の人の奇跡を起こす手助けまでしたりするのです。

 ここまで行ってしまうと、もうなかなか大変です。他の人が何を言ってももうその人はその宗教のことしか耳を貸しません。その信者は自ら考えることを止めてしまいます。そして自分の神が絶対であるとの確信のみで行動しますから、結果的にその人の魂の成長も阻害されてしまうのです。大事なことは魂の成長は自分の意志で何か行動して、自分で気づいて初めて自分のものになるのです。他の人にいわれてやったのでは、良いことをやっても、悪いことをやっても自分の体験にはなりにくいのです。魂の視野も逆に結果的に狭まっていってしまうことになるのです。

 自ら神を名乗って宗教をやっている霊体は、信者の信仰心の念をエネルギーにしています。本当の意味で信者が成長するかどうかと言うことよりも、信者の信仰心が強まり、念のエネルギーが増えることを望んでするのです。少々極端に感じられるかもしれませんが、信者は自らの創造力によって信仰心を増大させて、宗教の神に念のエネルギーを貢いでいるのです。別な角度から言うと、宗教の神という霊体に、自らのアイデンティティを捨ててまで、寄生しているという言い方も出来てしまったりもするのです。

 これだけ書くとさすがに反論もでそうです。たぶん「宗教は正しい行いを指導しているのに、何が悪いんだ。」というようなものが多いのだと思います。この意見にたいしても充分以上に反論できるのですが、ここではごく簡単に書いておきましょう。自分で考える、もしくは自分で実感する以外に魂の成長は無いのです。ひとの意見に何も考えないで従っていただけでは、真の成長などは無いのです。(あったとしても非常に時間がかかる) 今の地球人のレベルを考えてみてください。このレベルの低さの原因は、人間が長い間宗教に寄生していたために魂の成長が充分にされていないことあらわしています。もしも宗教にその中を良くする為にそれだけの力があるのなら、もうちょっと人類はまともになっていたと思います。

 ついでに書いておくと、宗教をおこしていない霊体(天使など)も、基本的にこれと同じような過ちを冒していいるようです。あれこれと型にはめた規制をしようと考えるのは、真の魂の成長の邪魔になるだけなのです。

(2002/10/18)


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