集合無意識と集合意識 (第51話)

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 「集合意識と集合意識」という題で今回は書くことにします。このふたつは似ている言葉でときおり混同されたり、あるいは無意識と意識との言葉の関係で、反対のもの、対立するものという意味で解釈されそうなのですが、あらためてそれぞれのものについて、説明します。(私が使っている意味についてではありますが)

 「集合無意識」とは、ユングが集合的無意識という切り口から、それまでの宗教とは異なった切り口から「神」についての考察をしているので、神のことを宗教以外の観点から言うときに使っています。もちろんこの場合の「神」とは、全てのものという意味での「神」であり、私は「聖なる神」とも言ったりしています。これはその他の「神々」と区別する為でもあります。前にも書いたけれど「聖なる神」とその他の「神々」は本来一緒くたに「神」という言葉を使うのは問題があります。

 「大いなる全てのもの」という言いかたをどこかのHPでみた記憶があります。個人的にはこの言葉が「聖なる神」と「神々」を区別する為に良いと思っています。「大いなる全てのもの」について説明すると、全てのものがもっている命というもの、たとえば私たちだけでなく、地球であったり、山であったり、川であったり、とにかく全てのものが命をもっているわけで、その全てを含んでいるものが「大いなる全てのもの」なのです。とにかく全てのものなのですから、その中には様々な意識が存在しているわけです。その様々な意識が、全てのものの一部としてつながっているのです。

 それに対して「神々」とは何だと考えると、たとえば「A神」という神がいたとして、その「A神」も「大いなる全てのもの」の一部なのです。「神々」は「大いなる全てのもの」の一部でしかないのです。そして私たち(の魂)も「大いなる全てのもの」の一部なのです。当たり前ですよね、どんなことをしても「全てのもの」の一部でしかありえないのですから。これは言葉遊びで書いているわけではないのですよ。

 「大いなる全てのもの」を簡単に言ってしまえば、全てのものには当然のことながら意志も入っているということに成るわけですし、その意志をもった「全てのもの」が本当の神様なのです。ただそれだけのことなのです。ですから、真の神を表現するとき「全てのもの」といえば、それ以上の説明は要らないのです。「大いなる」と付けているのは、それに対する尊敬の気持ちなのです。私が「集合無意識」とか「聖なる神」と言っているのはこの「大いなる全てのもの」のことなのです。

 私の個人的な意見ではありますが、世の中に「神」という言葉は無い方がいいのです。「神」という言葉自体が、大きな誤解を含み、いろいろな誤った解釈の元凶になっているのです。私の意見ですが、本当は「神」などいらない、と書きたいくらいなのです。(書いてしまっているけど^^;)

 「集合意識」について書きます。これは意識及び無意識の集合体のことです。もともと意識も無意識もその境目などはきわめて曖昧なものです。ただ本人が気が付いているかどうかでの違いでしかありません。とくにその気づいているかの境目も現世的な自意識による見方に過ぎないので魂レベルでは全くべつな境界になるのです。(理屈からいうとそうなる)

 私が「集合意識」という言葉を使っているのは「創造システム」の説明の部分です。簡単にもう一度書くと、地球の人間が共通してもっている意識や無意識の集まったものが「集合意識」として創造システムの世の中の作成の基本計算式として使われているということなのです。要するに多くの人は、自分自身の創造による体験ではなくて、集合意識による体験をしているということです。「集合意識」とは、世の中の常識や固定観念のかたまりという方がわかり易いと思います。ついでに書くと、残念ながら今の地球の集合意識は人間を幸せに導くのではなく、不幸に陥れてしまう結果を作り出してしまうようなものになってしまっているのです。極端な言いかたを承知で書くと、「私たちはその未熟な意識をあつめて、未熟な集合意識を作り出し、それによって地球上を地獄のようなものにしてしまっている。」ということに成るのです。

 本来の集合意識という言葉は、大勢の人が同じ事を願えば奇跡を起こすまでの力が出るという意味で使います。私が地球の霊界の問題点をページに書いているのですが、現在のところあくまでも私の個人的な意見でしかないのです。このことを大勢の人が理解してくれて、その様に考えてくれるようになったのなら、そのときはじめて世の中も変わっていくのです。(私は今こそ霊界の進歩が必要なときだと考えていますから。)

(2002/10/20)


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