性善説と性悪説 (第52話)

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 私は以前から「性善説」で物事を考えていました。でも世の中の多くの人は「性悪説」で色々と考えているようです。いままでそのことは個人個人の問題であまり気にしてはいなかったのですが、どうもこの基本的な考え方の違いは思ったより根が深いような気がします。

 なぜここで「性善説と性悪説」というタイトルで書き始めたかというと、「神との対話」は基本的に性善説によって成り立っていて、前提的な考え方が「性悪説」の人には色々と理解が難しいことが多くあることに気が付いたからです。全部を上手く説明できないのですが、とりあえず私の体験から今まで感じたことを書いて見ます。

 「神との対話」の中でかなり重要な部分は、私たちは自由である、しなければ成らないことは何も無いということです。私たちが自由意志でやりたいことを何でもやって良いと言うような事を書いてあるのですが、それはちょっとだけ前提があります。それは魂が本当にそれをやりたがっているのか、それとも自分以外のものの考え方がベースにあって何かをするのかということは根本的に違いがあるのです。本質的に自分がそうでありたいと思う自分で在りなさいと言っているわけで、私のように「性善説」で人間を見ている場合、悪いことをしてもその人が自分の本質に気が付いていない為であり、その体験をとおしてその人自身の中にある本当の自分(善、この場合は愛や喜び、許しなど)を見つけるためであるならばそれは必要なことであり、その悪いことを押さえつけるべきではないということに成ります。「性悪説」で考えた場合、本当の自分が悪であると考えた場合、この話は全く持って理解不能なたわごといしかきこえないのです。

 すこし話が飛びますが、私の体験から説明した方が解りやすそうです。子供のころから私はゲームが好きでした。とくに誰かと対戦するようなもの、ようするに勝負事が好きでした。その心理を簡単に言えば、勝つのが楽しかったというのが最も率直なところでしょう。だから勝てるものは好きだったし、勝てないものはあまり好きではありませんでした。まあごく普通のことではあると思います。今は勝負事は好きではありません。それにはそれなりの些細な経験があったからなのです。

 以前、ニフティでメガウォーズというオンラインの対戦ゲームがありました。勝負事が好きだったので結構はまって真剣にやっていたのです。そのゲームはとにかく戦いなので勝ったり負けたりするわけですが、全ての人が同じ強さと言うわけではありません。本人の習熟度も大きいのですが、コンピュータの性能とか回線のスピードなど色々な要素が絡み合って強い人もいれば、弱い人もいる。そんな中で戦いを続けていたのですが、それなり色々なことがおこります。中には自分のスコアを上げたくて、初心者相手に惨殺行為のようなことを繰り返す人も出てきます。そりゃ勝った人は気分がいいでしょう、しかしまだゲームが良くわからない初心者にとっては面白くもなんともありません。

 他の人のまるでいじめのような戦い方を見たりすると、そのいじめをしている人間がなんともみっともなく見えてきたりもします。そんなのを見ると自分はそんなみっともない戦い方はしたくないと思うのです。だんだん戦い方にこだわるようになってくるのです。しかしそれなりに自分で制限でつけた戦い方をしてみてもそれは相手にとってはあまり関係ありません。負けると悔しくて何かと文句を言う人もいたりします。まあ負けて悔しいのですから、しょうがないことです。なにしろ私もさんざん負けましたから負けた悔しさは良くわかります。

 勝ち負けを繰り返しているうちに、だんだんと気が付いてきました。自分が勝つということは、相手が負けるということです。それは相手の気持ちを考えると、あまり愉快なことではありません。結局のところ、自分が勝っても、負けても良い気分ではなくなってきたのです。勝ち負けを争うということは、結局のところ自分にとっても愉快なことではなく、どっちにせよ不快な思いを引きずってしまうのです。それを感じてから私は勝負ごとは嫌いになったのです。

 「神との対話」風に言い方を変えると、ゲームでさんざん対戦した挙句、「勝負事は勝っても負けても面白くない。それは自分にとって愉快なことではない。勝負事を楽しむのは、あるいは争いをするのは、本当に自分がそうありたい自分の姿ではない。」ということに気が付いたのです。

 もし私が「争ってはいけない。」といわれて、争いをしないでいたら、勝負事が好きではない自分に気が付くことは無かったでしょう。まあゲームだからというのはありますが、何事もやってみて、それで自分が愉快になれるかどうか、それが大切です。争うなといわれて、すべての争いを拒絶した人は、いつまでたっても自分の本質を気づくことが無いのです。その気づきにより、人間の本質が「善」であることに初めて気づくのです。人から言われた通りの活き方でそれだけをやっていたのではいつまでたっても自分の本質に気づくことが出来ないのです。

 ちなみに、宗教や道徳などで「やって良いこと、悪いこと」を規定されて、それに反した事をやってはいけないと考えるのは「性悪説」の発想です。色々と規定しないと人間は何をするか判ったものではない、というのがその主張であるのですが、人類が長いこと神を恐れて、他人が決めた「やって良いこと、悪いこと」に従ってきた為に、いつまでたっても本当の自分に気が付かないで「性悪説」をとっているのです。私が思うのには、人間の社会が幼稚なままなのは、人の意見に従うことに偽りの安心感を感じることを人生の目的だと勘違いしている人たちが多いからなのです。

 愛は自由です。その観点から言うと、今の法律だらけの社会にも、そして宗教にも本当の意味の愛は無いということになります。偽りの神の誤った愛だけを信じている限り、本当の自分は見えてこないのです。「やって良いこと、悪いこと」を強く主張する宗教には「自由」だけでなく「愛」がないのです。そこには本当の神はいないのです。このことを人間は本当に長い間勘違いし続けてきたのです。神々を自称している意識体にもこのような誤解があるのですから、ある意味こまったものです。現世の価値観をあの世まで引きずって行くのはいったいどうしてなのでしょうね。?(カルマが良い例なんですけどね、こまったもんだ)

 大事なことを書き忘れていました。やりたいことを自由にやって良いのですが、その当然の成り行きとしての結果はその人が負わなければなりません。やりたいことだけやってそれで終わりではないのです。その行為が引き出す結果は、その人がどうしても引き受けなければ成らないのです。これはカルマに似てはいますが、おなじではありません。宇宙の大原則なのです。あえていえば、この大原則がすでにあるのだから、意図的に作り出すカルマなどというものはいらないのです。カルマには愛は無いのです。

(2002/10/25)


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