人間関係 (第53話)

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 私たちが死んだ後、通常の霊的な意識体に戻る前に、個人的な創造の時間を持つといわれています。3次元の世界の集団的な創造の場所から離れると何でも自分の思ったままの創造の世界を作り出せるのです。そこでは自分の思ったこと、意図したこととその結果をダイレクトに体験できるので、3次元の今生的な意識から霊的な意識に変る為のリハビリのようなものだと考えていいようです。

 さてそこは全く個人的な創造の場ですから何でも思いのままなのです、そのかわりそれだけしかありません。変な言い方ですが、そこには自分の創造しかないのです。自分以外の創造の無い世界、だから時間の問題で、いずれその創造自体に意味が無くなってしまうのです。自分しかいない世界では自分の存在の在り方を確認することが出来ないのですから、よほど固定観念が強くなければ個人的な創造に意味が無いことを気づくのでしょう。解りやすく言うと、自分しか登場しない世界では自分の位置づけは分からないということです。(あまりわかりやすくもないかな?)

 さて、その全く個人的な創造の世界と比べたとき、私達の世界は集団的な創造の世界だということが出来ます。この世界は(まるで怪物のような)集団的意識により創造されていて、私達の個人的な創造はその世界に便乗して成り立っているのです。私達の中で比較的個人の創造が強く出て自分の世界を活きている人と、集団的な創造に身を任せて人生とはつらい物だとひたすら我慢を続けている人達がいたりするのです。

 たった一人で世界を作り出してその世界を体験するのは、いってみれば個人的な幻想の世界です。それに対して大勢で同じ幻想を見ているのが、私達の世界なのです。ということをすこしつっこんで考えてみます。個人的な幻想と、一般的に思われている現実の世界の違いは、自分以外の創造力の存在が有るか無いかだと言う事ができます。まあ早い話、自分以外の人間がいるかどうかということで、言ってみれば人間関係が存在するかしないかの違いだということに成ります。

 世の中が創造の産物で、自分の創造力を生かすことが出来るのなら何でも出来ると考えるのは、ちょっと早とちりだと言わなければ成りません。なぜなら自分以外の創造力も同時に働いているわけですし。多くの場合、つまらない世間の常識の方がより大勢に支持されているわけで、それに個人的な創造が打ち勝つのは大変なことです。

 先ほど書いたように、全くの個人的な創造(幻想)の世界は意味のあるものではありません。それと比べることにより私達の現実(だと思われている)社会の存在意味が見えてきます。要するに人間関係にこの社会の本質的な価値があるのだと言うことに成るのです。あなたや私がこの世の中でどのような存在であるのか、確かにそれは自分で決めるのですが、必ず自分以外の存在に対して何者であるのかが問題になるのです。それがこの社会に生きている価値だということになるのです。

 そもそも人間関係などは簡単には上手くゆくものでは有りません。大概の場合誰かの妥協により成り立つのです。全くの妥協なしの人間関係などというものは通常では有り得ないと言ってもいいくらいです。もししばらくの間上手く行っているように見えても、それが上手く行っているという錯覚であるという可能性は捨てきれないのです。うまく世の中を渡り歩いていると思っていても、魂のレベルで言うと何とも見っとも無い生き方をしているという可能性も多かったりするのです。

 単純に言って、人生の最高の楽しみは他の人を助けることにあります。それが判っていてもなかなか実行できないのが私達の人生の難しさであるということでしょう。そもそも色々な意味で人を助ける為には、その助けられる人が存在しなければなりません。そういう意味ではこの社会は何とも楽しみに満ちた世の中であるのでしょう、とも言えるのですが反対の側面もあるのも事実です。助けたくても助けられない、とくに集合意識からの救済などというのは非常に大変なことで、逆にこちらの無力感を感じさせられるだけだったりもするのです。

 話の脈絡が取れていないような気もするのですが、確認しておきましょう。集団で幻想を見ているこの世の中で、その意義があるのは、人間関係だけなのです。だから人間関係は大事にしましょう。といっても誰とも親しくする事ばかりが人間関係ではありません。争うのも、張り合うのも、嫌うのも、全て人間関係なのです。全ての人間関係が今の貴方を決めている要素なのだということなのです。かっこつけていうと、魂と魂の触れ合いが人生の全てだと言うことも出来そうです。

 とは言いながらも、私は人間関係が面倒であまり好きでは有りません。矛盾していますが、まあ、このへんはしょうがないですね。^^

(2002/10/28)


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