自分を見つめる (第56話)

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 タイトルから察しが出来ると思いますが、前回の続きです。ただ今回は本題に入る前に少しだけ確認しておかなければならないことがあります。

 私が書いている「魂の部屋」は、すでにある将来において、出来上がっているであろう「魂の部屋」をさぐりながら書いているという不思議な感覚も持ち合わせています。とは言いながらも、基本的にこの「魂の部屋」は私自身の成長の記録なのです。まだまだ私達の旅は先が長く、私自身も少しずつ変わっていき、以前に書いたことと全く反対のことを言うかもいれませんし、反対まで行かなくても、もっと深い意味で同じことを捉えていくことも起こってきます。すでに言い方が変わってきているものもあるのは承知していますし、以前のページに私自身の今の解釈を補足として書くことも少し考えたりもしているのですが、ここではあえてプロセスを大事にするという意味でそのままにしております。それに今、過去のページに補足を入れてもその補足自体がいつまで正しいのかということも約束できないのです。

 それに大事なことは、真実は人によって異なるということです。私は出来るだけ私自身にとっての真実であることを書こうとはしていますが、これは読んでいる方々の真実である必要もないわけです。人によっては私の書いたことに反対したい気持ちを持つかも知れません。ある意味でそれはそれで私はうれしいのです。私のページに反論したいと感じた人がいたとして、それはその人がその人の真実、その人の存在をはっきりさせることの役に立てたことになるのです。私のこのページは、私自身の自分探しの旅の記録なのです。このページをどんな使い方をしてもそれはその人の意志なのです。私は出来るだけ率直に私のページを作ります。それが私と貴方の自分探しに役立つと考えているのです。

 さて、すこし前回の補足をする必要があります。人間関係において、相手を自分の鏡として捕らえることなのですが、色々な意味がありそうです。全く正確では無いのですが、私のページを見て、それに対して自分の意見を持つ、その時私のページは貴方にとって鏡と同じような働きをします。何を受け入れて、何を受け入れないか、それが今の貴方の姿なのです。人間関係において、相手をどのように捕らえるかということは、自分の姿を鏡に映すのと同じであると考えられるのです。

 そしてもう一つ大事なことがあります。人間に限らず命をもっているものは絶えずそれなりのエネルギーを発しています。そのエネルギーはずっと遠くまで続いていきます。そのエネルギーはオーラのように身体の外側に広がっているわけで、他の人のエネルギーと交わっています。別な言い方をすると、自分の出している思考エネルギーのどこまでが自分のものでどこからが相手のものであるのかという境目などはないのです。だから物理的に側にいるだけで何らかのエネルギーの交換が行われるわけです。

 何を言いたいのかというと、人間関係で付き合いがあった場合、たとえその人と何も話さず、何も議論などしなくても、魂レベル(正確な言い方ではないです。心の奥の方として考えて)では交流が行われているのです。私の考えだと、物理的に近くにいることと、お互いに関心を持つことで、その交流はより強くなるように思います。その深いレベルの交流の中で、それぞれの自分の姿が、投影され、もしくは対比されて自分の姿を映し出すのです。このエネルギーレベルの交流の中でより鏡らしき現象がおこることが考えられます。それは自分が発信したエネルギーは同質のエネルギーとして帰ってくるのですから、相手からのエネルギーは自分が送ったエネルギーであると考えることが出来るのです。それでもこの交流の様子などは私には認識できないので、どのように行われているのか正確にはわからないというのが実状です。

 とにかくここで書いておきたかったのは、私達の交流は単に表面的なものだけでなく、知らないうちにお互いの心の奥の方でされているのです。長いこと飼っているペットと気持ちがつながるというようなことも、命のレベルで交流があるからだと考えて良いように思えます。

 あらためて言うまでも無く、私たちの身体や自意識のなどの表面の部分は私達のほんの一部の部分でしかありません。もっと深いレベルの交流も大事だと考えることは何も不思議では無いと思います。

 さて、その様な交流はどうしたら良いのかと言うと、相手のことを認めて、関心をもつこと、意識をもって観察するのも良いかもしれません。「神との対話」ふうに言えば、相手の中に神性を見ると言うことに成るのかも知れません。この交流は心の深いレベルでの自分を知る役に立つかもしれません。(あえて断定的な言い方は止めようかなって思ってます。)

 前回の補足がかなり長くなってしまいました。ここからが今回の本題です。自分を知ることが出来たとしてその次に大事なのは「自分を見つめる」ということです。前回からの流れでこのような言い方をしているのですが、本当は「一人でいる」ということの方が正確です。これも上に書いた補足のように、ふたつの意味があります。私達の表面的な意識の問題と心の奥の方の問題です。

 表面的な意識の問題では、「ひとりでいる」事で、気が付いた自分の側面を味わうのです。変な言い方だと思いながら書いていますが、自分を悪く思うのでもなく、素直に認める。そのうえで自分の心の反応を感じるのです。それが自分にとって心地よいものであるかどうか、何か嫌悪感(自己嫌悪でなくて別のもの)や腹立たしさを感じていないか、あるいは心地よさを感じているのか?これは自分の奥の方の反応を待つのです。それは気づきを待つということでもあります。

 この「ひとりでいる」ということは、文字通りひとりでいるということです。他の人と一緒にいないと言うことです。そして心静かにリラックスしていることです。たとえ一人でいても、テレビをみたりするとか、意識に刺激を与えるようなことは「ひとりでいる」ことになりません。静かな音楽をかけていても良いし、もちろん瞑想していても良いでしょう。ひとりで散歩するのも良いと思います。もしかしたら、ぼうーとしているのが一番良いかも知れません。

 「ひとりでいる」ということは、もう一つの意味は、他の人と交流で心の奥に入ってきた情報を整理するという意味が考えられます。(これについてはもっと別な意味があるのかもしれません) 人間の心の深い部分は休まず活動を続けています。人間関係で吸収した情報、あるいは自分の姿(もちろん肉体のことでは無いです)などを自分の中に吸収するのです。なにぶん心の奥のことですから、あくまでも想像でしかないのですが、とにかくそういう時間が心の為にも必要なようです。この時近くに人がいるとその人のエネルギーの影響を受けてしまうので文字通り「ひとり」が良いのです。気のせいかもしれませんが、書いていて「融合」という言葉が浮かんできました。もしかしたら何らかのエネルギー(情報)の融合が行われているのかもしれません。

 心の奥のほうで整理された情報のうちあるものは、表面的な意識の方にフィードバックされてきます。それが「気づき」となって現れるのです。もちろん「気づき」はひとりのときだけにあるものではありませんが、そのもとと成るものは静かにしているときに出来るのだと考えています。

(2002/11/23)


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