自分の中の謎 (第57話)

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 そもそも私達が意識として捉えているものは、私達のごく一部であり、私たち自身では簡単には認識できないくらい奥のほうに複雑なものがあるようです。私たちが生活していくうえで直接考えたりしていることは、人間としての本能(この多くは防衛本能)と社会的な通念や教育に大きな影響を受けて形成されています。私はこの部分の意識を自意識と呼んでいるのですが、これに対して潜在意識とか、無意識とか、深層心理とか色々な区切り方をした言葉が存在しています。

 簡単に言うと、私たちが直接自覚できる「自意識」と比べるとはるかに大きな意識が存在していて、私達の表面的な「自意識」はそれと比べたとき、氷山の一角にもならないものなのです。それは私達の「自意識」が多くのものにとらわれていて、実際はかなり小さいものだと言う見方も出来るし、逆に本当の私たちは自分で思っている私達自身よりも遥かに(それも途方もなく)大きなものであるということも出来るのです。

 私達の身の回りに起こる様々なこと、ごく自然な出来事も、ちょっと不思議な出来事も、すべてその私達の自意識では認識できない部分からの働きかけで起こっているのです。それらの色々な出来事から少しずつ、本当に少しずつ、本当の私がどんな存在であるのかというヒントを得ることが出来ます。いったい私はどんな存在で在ったのか、そして今はどんな存在であるのか、そして今度はどんな存在になろうとしているのか。それは私にとって謎解き以外のなにものでもありません。

 最近の私の持論としては、自分がどのような存在であるのかは自分で決めるべきだと言うのがあります。(ちなみに私はこの「べき」という言葉は好きではないのです) それに対してもっと奥の方にある自分を探ることは一見矛盾していると感じるかも知れませんが、それはこのように考えています。「自意識の非常に狭い認識によって自分自身を定義するよりは、出来るだけ本当の自分を知って、それにそった自分を定義した方がより人生を楽しめる。」という感じです。ここであえて楽しめるとしたのは、より価値のある人生の方が楽しいからです。本当の意味で楽しいことってなかなか見つけることは難しいことなのです。

 さて謎解きの対象である本当の自分とは何のことでしょうか。これは色々な角度から色々な見方が出来そうです。一般的に言って過去生から影響をうけた今の自分の本質と考えることが多そうですが、それだとちょっとまだ範囲が狭そうです。ここで思い出して欲しいのは、時間というものは本当は存在しない、過去も今も未来も全ては同時に存在していると言うことです。

 全てが同時に存在しているということは、私たちがこの世界に生まれてくる時、その時点で存在していた過去や未来が既に有ったわけなのですから、ひとりひとりの未来も生まれたときには存在していたということです。紛らわしいことなのですが、これはひとりひとりの運命が既に決まっているという意味ではありません。未来は私たちの選択の結果どんどんと変わっていくのです。この話は時間という尺度を同時にいくつかの視点から捉えた話なのでなかなか説明が難しいのであえてわかりやすく書くのですが、生まれた時点でその人の将来の青写真があるのだけれど、それは必ずしもそうなるとは限らないということです。

 ついでに書いておきます。カルマというものが根本的におかしいのは、過去生のやり直しをその後の人生でやろうとすることなのです。本当は間違いを犯した過去にもどって、、、

 今、メールが来ました。上の文章はまだ書き掛けなのですが、気になって読んでみました。だいたいの場合重要なメッセージは非常に微妙なタイミングで現れてきます。今回もまさにそれでした。メールの全てを載せるわけにもいかないので、そのポイントになる部分だけコピーします。

初めてのメールで厚かましくも,個人的な話を大変失礼致しました。
「定命,宿命」についての,お考えを伺えたらと思いメールさせて頂きました。
今はまだ地に足がついていない状況ですが、自然の流れに添っていける日を願っています。
 このメールでここ最近考えていたことの答えが急にわかりました。今までばらばらでつながっていなかったものが、かなりつながってきたのです。話が少しそれますがそれを書いたほうが良いかと思います。「急がば回れ」というやつですね。

 たまに私のこのページを見て、メールを頂くことが有ります。それは(ありがたいことに)何かしらのメッセージを持ってきてくれる普通のメールだけでなく、親しいことをなくした精神的なショックをどのように解決したら良いのか、というものと、宗教を止めたいのだけれど、止めた場合良くないことがおこるのではないかと不安を抱えているという内容のメールがあるのです。まあページの内容を考えるとその様なメールを頂くこともあたりまえのことなのですが、やはりそれぞれに私にとって何らかのメッセージが隠されています。それらの意味でどうも私の中で繋がらなかったものがつながったのです。

 多くの人間は、死というものに対して大きな誤解を持っています。それは霊的な存在のことや輪廻転生のことを聞いても簡単にはその本当の意味が理解できないくらい、死に対する誤解が根付いてしまっているということです。その誤った死に対する考えから、何かにすがりつきたい気持ちになり、おおくの場合宗教などに顔を突っ込んでしまうのです。

 この死というものに対する誤解は、結局のところ私達自身の本当の有り様を理解していない為に起こって来るのです。(この部分がこのページの上の方で書いていた途中のことです。) 同時に運命とか宿命というものを固定的なものだとして捉えて諦めるという選択をしようとします。ついでに書いておきますが、この諦めるということは「生命(いのち)」の根源的な気持ち(要素)ではないので、本当の意味で諦めることなどは出来ないのです。くどいようですが人間は本当の意味で諦めるということは絶対に出来ないのです。諦めよう諦めようと努力すればするほどそれは難しくなっていってしまうのです。諦めるに少し似てはいますが、根本的に意味のちがう言葉で「受け入れる」というのがあります。「その人の死を受け入れる」ということなら可能なのです。「諦める」は愛の要素ではないのだけれど、「受け入れる」は愛の要素なのですから。

 話がそれました戻します。私たちの時間を超越した高次元の世界から見ると、私たちは昔も今も未来も全て同時に存在しているのです。ここで大事なことは私たちの「生命(いのち)」は高次元のものなのです。過去生で何百回とそれぞれの人生を歩み続けている私たちの分身も、来世以降の未来生の自分もすべて「大きな私」の一部であるし、今、ここで生きている私たちもそれぞれの「大きな私」の一部なのです。死というものは、その「大きな私」の中でのある種の区切りみたいなものなのです。言ってみれば何百回と繰り返す学校の卒業式みたいなものなのです。親しい人の死に対して、「おめでとう」とまではいえなくても、「ご苦労さんでした。いろいろと気づきをくれてありがとう。」くらいは言ってあげてもいい位なのです。

 それともう一つ大事な要素があります。大きな視点から見ると、この世の中に存在するもの及び出来事、全てに意味があります。それは「何一つ無駄なものは無い」ということでも有ります。だからこのように考えることが出来ます。誰の死であっても無駄なものではないのです。今の自分たちには理解できなくても必ずそれなりの意味があるんだということを理解しておくことも大事なことだと思います。

 そこで話は「運命」とか「宿命」という問題になります。現在の地球上においては人間は必ず「死の時」をむかえます。その「死の時」があらかじめ決まっているのかどうかという観点で話をすると、これは前の方で書いたように生まれた時に既にある未来の青写真のようなものがあり、それを承知で生まれてくるという言い方が出来ます。ただそれは絶対にそうなると決まっているわけでもないし、青写真自体もこれからもどんどん変化していくのです。占いで未来の青写真を覗くことも可能です。でもその青写真でさえどんどんと変化していくのですから、結局のところ「運命」などというものは無いというのが、一般的な概念として成り立つと思います。

 ここで話を最初に戻します。自分の謎を探すというのは、自分の書いた(あるいは生まれる前に選択した)人生のシナリオを探すということでもあるのです。自分が今回生まれてくるとき、本当は何をしたかったのだろうか?それは同時に自分に何が出来るであろうか?ということでもあります。どうじに何をしたら自分が本当に楽しいのかということでもあるのです。

 私個人のシナリオについて言えば、なぜかやたらと凝ったシナリオになっているような気がします。それは私がその様にしてしまっているのかも知れないのですが、いろいろなところで何回もどんでん返しがあったり、忘れたころになってちょこちょこっと現れたりして、下手なドラマよりずっと手が込んでいます。あまりに懲りすぎていて途中で嫌気がおこることもあるくらいなのですが、それでも何もおこらない人生ドラマより何倍も楽しめて良いのかもしれません。それが自分の中の謎解きの楽しさなのでしょう。まあ出来ればハッピーエンドになって欲しいけれど、将来はどんどん変わっていくから、どうなるんでしょうかねえ。(笑)

(2002/12/14)


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