恐れるものは何も無い (第59話)

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 この前の話で、少し方向性を変えると書いたのですが、それはアリキューカのページを一般の人向けに作り直すことでこのページはまだ同じように進めるつもりでいます。アリキューカの方はこの「魂の部屋」から内容を選んで手直ししながら進めて行くので内容的にはかなり重複すると思います。ということで「魂の部屋」は、アリキューカの原稿を書くつもりで書くようになってくるかもしれません。

 「恐れるものは何も無い」という言葉が、しばらく前からなんども頭の中に沸いて来ています。とりたてて目新しい内容ではないのですが、あらためて書いてみることにします。もしもより深い意味があるのならそのうち自然にみえてくるでしょう。とりあえず今は整理もかねて書くことにします。

 私たちの「生命(いのち)」は死ぬことはありません。簡単に言ってしまえば「永遠」なのです。これは単に時間的スケールだけの話ではありません。限りが無いくらいいつまでも続くと考えてもいいのですが、それよりも大きなサイクルの中でまた元に戻ってくる為に終わりが無いと考えても良いようです。地球の表面をずっと進んでいくと、地球を一周してまたもとに戻ってくるようなもので、命には終わる場所が無いのです。

 別な言い方をすると、私たちの考えているような時間というものは本当は存在しないのですから、いつまでたっても私たちの生命(いのち)という存在は、そこにいるのです。

 判り易く書くつもりがもっと混乱を招くような書き方に成ってしまっていますが、ここの部分は今回の本題ではないので、きわめてわかり易く簡略化します。人間は死んでも3次元的な肉体を捨てるだけで、自分自身のアイデンティティを持ったまま存在を続けます。それで多くの場合また生まれ変わって3次元の世界に戻ってきます。それを何度も何度も繰り返します。もちろん輪廻転生のことなのですが、これも実際は私たちの考えているものより、もっとずっと大きなサイクルの一環(プロセス)でしかないのです。

 要するに、私たちの生命(いのち)は死なないのです。たとえ肉体が死んでもそれはただ形を変えただけのことに過ぎないのです。肉体の死というものは、それだけのことなのです。死によって親しい人としばらく離れ離れになることは悲しいことではありますが、それでさえ逝った人にとってはいつでも残った人を感じることが出来るのでそれほどの悲しみではありません。

 話がそれますが、私たちの日常会話で怖い思いをしても、「命までとられることは無いんだから」というような言い方をします。通常では一番怖いことは死ぬことなのです。でもそれさえもたいしたことでは無いと判った時、怖いものがあるのでしょうか?

 人によっては、「恥をかくことが死ぬより怖い」と思う人もいるでしょう。なかには「人間として完璧でないのは死ぬほど嫌だ。」という人もいるかも知れません。そんな人は自分の別な人生を想像してみると良いのです。何回も人生を繰り返す間に間違いを犯さなかったでしょうか、失敗をしなかったでしょうか、そして来世以降の人生はどんなでしょうか。じつは失敗しないということはありえないのです。全ての経験をすることを「魂」は望んでいるのですから、失敗も重要なプロセスの一環なのです。かりに今生(今回の人生)でとんでもない恥をかいたとして、それがいったい何になるのでしょうか、残るのはその人のだけ経験なのです。他のものは何も意味が無くなるのです。変な言い方なのですが、自分の中に残るのは自分の経験だけなのです。他の人の経験はその人の中には残らないのです。もし貴方がとんでもない失敗をしたとしても、それは貴方の経験として残るけれど、他の人の経験ではないのですから何も残らないのです。

 「旅の恥はかき捨て」ということわざがありますが、これは良く言ったものです。私たちは非常に長い旅をしています。いつまでたっても旅が続くのです。少々の失敗など気にすることはありません。そもそも恥のかき捨ても必要なことなのですから失敗を恐れることは無いのです。

 人によっては、「神の怒り」を恐れるかもしれません。これははっきりと間違いです。本当の神は私たちの中にいます。それに私たちは神の一部なのですから、なんでその必要があるのでしょうか。そもそも過ちを含め私たちが全ての経験をすることを神が望んでいるのですから、その為に罰があるはずが有りません。何々をせよとか、どうでなければいけないなどというのは、偽者の神々の云う事で、それらは無視していれば全く問題は無いのです。人間にその様な指図をすること自体が、その神々のレベルの低さをあらわしているのですから。そのような神々は私たちの生活に干渉する権利も力ももともと持っていないのです。

 「人を傷つけることが怖い」という人はわりと多くいそうです。これはそのおおもとに「自分が自分でいられなくなる」という不安が内在しています。でも大丈夫なのです。自分はいつまでたっても自分なのです。誰がなにをしようと自分が自分でなくなる事はありえません。それに表面的に傷つけることは時として愛の行動で有ったりもします。べつな要素で言うと、相手がそれを望まない限り本当の意味で、相手を傷つけることは出来ないのです。相手がそれを受け入れない限り、人を傷つけることは出来ないのです。どちらにせよ貴方が本当の貴方でいる限り、貴方にとって不必要なことはおこらないのです。この点でも何の心配も要らないのです。もし誰かを傷つけたと感じても、それはそれで意味があることなのですからあまり考えすぎる必要もないのです。

 ひとつ大きな問題があります。この世の中の根本的な原則として、恐れているものを引き寄せるという現象がおこります。この現象の場合は、原因が恐れだけなので、その他の意味を持たない可能性が多いのです。要するに不必要な不幸を呼んでしまうということです。要するに怖いことは「恐れる」ことなのです。まるで言葉遊びのようになってしまいますが、だからこそ「恐れるものは何も無い」と考える必要があるのです。そう考えている限り、本当に恐れるものは何もなくなるのです。

 「神との対話」のなかで、愛の対極にあるものとして、不安と恐怖をあげています。これはとっても大事な要素なのです。まず自分が愛を感じようとしたら、自分の中にある不安をなくさなければなりません。自分の中の不安を解決できたら、たぶん自分を愛することが出来るようになります。自分を愛せないでいて何で人を愛せるでしょうか?

 とにかくまずはじめは、「恐れるものは何も無い」というのが、愛のスタートかもしれません。

(2003/01/08)


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