摂理 (第69話)

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 少々の不安はあるものの、久々に落ち着いて喜びを比較的身近に感じられる昼時です。「宇宙の不調和 (第66話)」で書いたことの補足が必要だと思い書くことにします。

 宇宙は一瞬で出来上がり、すぐまた一瞬で無くなってしまうと書いたのですが、それはもちろんどこから宇宙を見るかと言う視点の問題です。この視点は改めて言うまでも無く、霊魂の世界よりも外側の視点です。私たちもそうなのですがそのうえに居る霊魂たちも全て一瞬を楽しんでいる存在なのです。偉大なる一瞬の中に私たちの時間全てが包括されているのです。(もちろんこの偉大なる一瞬と言うのは、私たちの時間軸より高次元の時間軸です。)

 前にも書いたように、私がこのことを体験したのは子供のころです。このことが何を意味しているのかと言うことはそれから35年たってやっと理解したことなのです。それを考えるとこれを読んでいる人の中で、この私の文章を受け入れられる人にとってもすぐに馴染める話でないことは承知しています。もちろんすでにこのことを知っていた人もいるだろうし、逆にいくら説明しても輪廻転生を信じられない人が居るように、このことを信じられない人もいるでしょう。私の書くことが貴方にとってどのような意味があることなのかは、読んだ人ご自分で決めてください。

 さて、問題はこのことをどのように消化して生きることのエッセンスにするのかということが最も重要なことです。あっそうなのか、で終わってしまっては宝の持ち腐れでしかありません。(腐ることはないけど)

 まず大事な事は、全てが調和に向かって動いていくと言うことです。もともとが不調和であるのですから、それが高次元での物理的法則(摂理)により、黙っていても調和の世界に戻っていくのです。誰もそれを止めることは出来ないのです。もちろんこれは神々たちにも当てはまるのです。一時それに逆行してるのかのように見えてもその分反動があって返ってより調和に向かって進むことになるのです。全てが調和に向かって変化していくと言うのが、摂理の中でもかなり根源的なことなのです。もちろんこの作用は私たちの時間軸では永遠ともいえる膨大な歳月が必要となるのですが。

 時間についてもう少し補則をしておきましよう。私たちの時空はその外から見ると一瞬のものなのですが、その中には永遠とも言える私たちの時間があります。これは連続していてはての無いものなのです。地球の表面にはてが無いようなもので、遠い未来はまた遠い過去へとつながっています。偉大なる一瞬の中に全ての時間が入っているというとらえ方はこういう意味なのです。私たちの観点で時間をみると時間は永遠に存在します。いいかえれば時間はたっぷりあるのです。なにも急ぐ必要は無いのです。

 時間がたっぷりあるということ、これは自由に繋がります。そしてそれはある種の愛なのです。私たちの時空自体が不調和により成り立っているのですが、その構造自体にも愛が含まれているのです。(ちょっと抽象的かな) 大事なことは、どうしてもしなければ成らないことは何も無いということです。これは「べき論」で考える必要は無いということです。真の意味で自由にいろいろとやっているうちにいつか自然に調和に向かって変化していくと言う意味です。(私は地球の霊界に「べき論」を感じています。)

 さてさて、ここで疑問を持った人がいると思います。前回カルマについて、カルマの制度は時間が掛かりすぎると言ったことと話が矛盾するのではないかと思った人もいると思います。これにはふたつの意味があります。一つはどうしても必要な苦労の時期をいたずらに長引かせてしまうことです。魂が学びの為に何かを経験して人を傷つけたとして、それによって成長できるのならそれでいいのです。それは調和へ向けての摂理に乗っ取ったことなのですから、その償いの為に時間を費やすことはおかしなことなのです。もちろんその償いの中で新たな体験や成長があるのですが、少なくとも償いがその学びの効率を落としてしまうことがおこるのです。もう一つは、何々をしなくてはいけないということは結果的に自由に体験することに比べると比較して時間が掛かるということなのです。いくら時間がたっぷりあるからといって、苦痛の時間が長いことがいいことでは無いのです。

 私たちにとっての意味について考えて見ましょう。宇宙自体が不調和の産物ですから、私たちもやはり不調和であると言わざるをえません。これは言い方を変えると、不調和こそ私たちの個性であるということなのです。全ての性格は欠点であるということも視点によっては当たりまえの事となります。私たちの成長の最終目的地の完全なる調和の世界では、私たちは全ての欠点がない完全な状態の意識として神になります。もちろんそれは気の遠くなるほど先の話で、私たちが高級霊だと認識している意識体であっても個性があるうちは完全なる調和の状態にはなっていないのです。

 言いたいことはわかってもらえますか? 私たちに個性があるということはすなわち、欠点があるということです。むしろ欠点だらけと言った方が正しいのですが、それはとりもなおさず私たちのアイデンティティなのです。それぞれの欠点をベースにして世の中が動いているのです。もちろん何を持ってそれを欠点というかは難しいものがありますが、いずれにせよ成長に成長を重ねた後には個性が無くなるのです。その時やっと私たちの旅が終わるのですが、それは本当に先のことでまだまだ道程は始まったばかりなのです。

 さて大事なことは自分の欠点を素直に認めることです。欠点こそが自分であると考えれば何も恥ずかしいことはありません。欠点があるということは生きている証なのですから。もちろん言うまでも無いことですが、この場合の欠点とは肉体的なものではありません。そんなものは霊的に見れば本当に取るに足らない問題なのですから。

 自分の性格(欠点)を認めるということは、自分の欠点を楽しむことでもあります。これは生きていることを喜ぶことと根底では同じものです。もちろん自分の欠点を自己嫌悪する必要などは少しも無いのです。むしろ欠点があるという人生をあじわえるのです。そしていつの日か、その欠点に嫌気がさして自分が変わりたくなったら、変わりましょう。それは欠点を克服したということでそこには大きな喜びがあります。今欠点がたくさんあるということは、それだけこれから待っている喜びがたくさんあるということなのです。

 もともと不調和から調和に向かって変化を続けるのですから、その根底には自分が調和に向かって変化することに喜びが伴うのです。これは成長の喜びなのですが、摂理にしたがったことなのです。もちろん自分以外の人に対して気づきの援助をしてあげることも喜びにつながります。これらは最も根源的な喜びなのです。

 あらためて書くと摂理とは非常に高次元での物理法則のようなものです。私たちの次元で手に持っているものを放すと下に落ちていくように、当然の成り行きとしてなるべくしてなるものなのです。私たちの視点から見るとそれは神秘的でなんらかの意志が働いているようにも見えますが、実際はこうすればこうなるという当たりますの事が起こっているだけなのです。こうすればこうなる、因果律とはただそれだけのことなのです。その法則が私たちには容易に理解できないことが難しいところなのです。

 同時にエネルギーの一種である私たちの意識もその因果律に従って動いています。言ってみれば、私が何を考えるのか、これを読んでいる貴方がなにを考えるのか、それも厳密に言えば摂理によって導き出された結果であるということも出来るのです。これは広い視点で言うと、私たちがなにをやってもその根底には摂理が反映されていて、もしも何か悪いことをしたとしてもそこにはそれなりの理由があるということで、反省はしても償わなければ成らないことではないのです。ここで誤解されると困るので書いておきますが、もしも犯罪を犯してそれで良いというのではありません。この社会での当然の結果として警察に捕まったらそれなりの罰を受けることになります。摂理は社会制度も計算するわけで、どうぜんなるべくしてなるという結果が起こるのです。大事なことはどんな状況であっても、もちろん死んだ後であってもですが、「自分の行動の責任は自分で背負わなければならない。」ということになるのです。(私の言っているカルマよりも根源的なものです。)

 改めてカルマについて書きます。本来自然の摂理にしたがったものは全く意志が入り込む余地はありません。あえて言えば神の意志という事も出来るのですが、紛らわしいのでやめておきます。その摂理に地球の霊界の意志が混じりこんでカルマというものが出来上がっているのです。摂理はこのような意志も計算しているのでなかなか区別が付きにくいのですが、意志が入っていることでそれは根源的な摂理ではなく変更可能なものだということになるのです。その意志とはこうあるべきだという「べき論」がベースとなっているもので、宗教が犯している根源的な過ちと同じことを地球の霊界が行っているということなのです。まあ地球の発展から考えるとある意味しかたないことだといえるし、それはそれで摂理に従っていままでの状況になっていたと考えられるのですが、今私のようにそれに反対するものが現れているということも、また摂理に従ったことなのだと考えています。

 余談なのですが、私のルーツはいったいどこなんでしょう。今まで私は長いこと地球にいたと思っていたのですが、もしかしたら私も地球に戻ってきたくちなのかもしれません。ガイアアセンションの援助の為にかなり多くの生命(いのち)が地球以外の世界からやってきて、地球人として生まれてきているようです。私自身のルーツの探求は私の個人的な楽しみでもあります。

(2003/03/23)


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