イベントの内容はというと幾つかの偶然の積み重ねで、結果的に本当にいろいろな効果を私にもたらしたのです。このイベントの細かい出来事それぞれにいろいろな意味があったのですが、もっとも重要なことは神様が私の見た場所にいたと言うことです。(変な言い方ですがこれはこのページを読めばわかるかな)
今回はそのいろいろな気づきの中で、最も単純ではあるけれど、最も重要な神の大きさについて書きます。
と、その前に今までも何回か書いてはいるのですが、ひとつ但し書きが必要になります。私はどちらかと言うと左脳派で何でも理屈で理解したがる傾向があります。右脳派の人で感覚的に神の大きさを理解できる人にとっては、何をこんな回りくどいことを考えているのかなあ?と疑問に思うかも知れませんが、左脳の強い人には思考での理解も重要なことなのです。
さて本題に入ります。「神との対話」のなかで何度も神の大きさについてふれています。まあ簡単に考えても神は「大いなる全てのもの」であるので大きいに決まってます。ただこのことがどういうことかはなかなか理解しにくかったりもするのです。
仏教的な言い方では、神は「法」という言葉で法則だとして捉えています。これは「摂理」と同じ意味です。キリスト教やイスラム教などでは神は創造主としてとらえています。もちろんそのどちらも正しいのです。それが別々のものだと思えるのは、私たちが自分たちの考えられる範囲でしか理解出来ないのですから、そうだと言っても理解できないかもしれません。厳密に正しいと言うわけではないのですが、私たちが神を頭で理解するときは「神とは世の中を創造している法則である。」と考えることが出来ます。こうして考えると両方が同じものであることは納得できると思います。
今回は神の大きさを私のように固い頭で理解する方法を書くわけです。神が非常に高度な法則だという一面だけなら、もう少しわかり易い法則に置き換えて理解することが可能なのです。
厳密にいうと正しい法則ではないのですが、とりあえず誰でも知っていて、なじみのある「ニュートンの万有引力」の法則を使って考えて見ましょう。
この引力の法則は私たちの3次元社会ではどこに行っても働いています。言ってみれば私たちの3次元的な身体はこの引力の法則から逃れることは出来ないのです。わかりますよね。地球上のどこに行っても林檎を手から離すと落ちるのです。(もちろん水の中とかでは落ちないけれど、それでも引力の法則は働いているわけです。) 私たちが引力から逃げようとしても逃げる場所はありません。宇宙に飛び出しても、やはりそこには引力は働いているし、一見無重力のように見えても遠心力とバランスが取れているだけなのです。
くどいようですが、この引力の法則はどこにでも働いています。部屋の中も、机の中も、トイレの中も、山の頂上でも、海底でも、もちろん通勤の電車の中にでも。それこそありとあらゆる場所に引力の法則が働いているのです。
もうわかりますよね。「法則としての神」は引力の法則のようにどこにでも働いているのです。もちろん私たちの3次元だけの法則ではありませんから、引力より遥かに広い部分で、それこそ全ての場所で例外なく神の法則は働いているのです。神は文字通りどこにでもいるのです。
引力の法則は3次元的な極めて限定的で物体にしか適用されないない法則でしかありません。それに比べて「神の法則」は最高レベルの法則なのですから、花の美しさの中にも、私たちの心はもちろん、私たちの行動やしぐさ、そして想いの中にまで、とにかく全てのことに働きかけているのです。それが神の大きさなのです。結局は理解できないくらい大きいのです。(というと振り出しに戻ってしまう。)
さて神の法則としての側面だけで話が終わってしまったら、別にここで書くほどのことでも無いかと思います。別な側面の「創造主」という側面もこれと同じものなのです。これは私たちがどこで何をしていても、いつも創造に参加していると言うことでもあるのです。生きている間はもちろん、死んだ後でも創造をしないではいられないのです。これが「神の法則」なのです。死んだあとで創造していることは「精神監獄」でも書きましたし、それに私たちが無意識と認識している私たちの意識の奥のほうでも創造がされているのです。
現世的な時間的な観点で言ってもいつも働いています。それこそいつもなのです。私たちの3次元の社会も私たちがここにあると考えている為に、いつも「世の中を創造している法則」としての神が創りつづけてくれているのです。これはこつこつと造り続けているという意味ではありません。一瞬一瞬が創造の連続なのです。たとえばもし、今全ての地球人が、地球など存在しないと思ったのなら、地球は存在しなくなるのです。このような説明で、創り続けているという意味は判ってもらえると思います。
さてさて当然ことなのですが、神は法則の一面だけでは有りません。私たちが助けを求めれば助けてもくれるし、挨拶をすれば応えてもくれます。神が教えてくれると思えばいろいろと教えてもくれます。もちろんここに書いていることも結局は神様に教えてもらったのですから。
「神様がどこにでもいるというのなら、何故私はあえないのだ?」というような疑問を持つ人の方が世の中には多いと思います。その答えは、「神を探していないから見えない」と言わざるを得ません。神を感じるか、神を見出すかはそれぞれ個人の自由意志だし、その見出し方も人それぞれなのです。単純に花の美しさの中に神を見る人もいれば、私のように巧妙に組み立てられた、偶然の出来事の積み重ねというイベントに見る人もいるし、ダイレクトに瞑想で神を見出す人もいるのです。神の現れ方もそれぞれなのです。私たちが見たいと思った方法で神様は現れてくれるのです。それだけ「大いなる全てのもの」は大きいし奥が深いのです。
私たちは神様から逃げ出すことは出来ません。どこに行っても神様の中にいます。孫悟空でこんな話がありました。孫悟空がキントンウン(漢字がわかんない^^;)にのって、お釈迦様がここまでは来れないだろうと思うところまで来たとき柱が立っていました。その柱にサインをして戻ってみるとサインした柱はお釈迦様の指だったという話です。これは「法」(法則)から逃れることは出来ないよ、ということの昔なりの説明なのです。それを今風に説明すると、先ほどのニュートンになるのです。
この私たちが法則からは逃げられないということは、実は同時に私たちの自由をも意味するのです。何をしても、どこに行っても、神様の許にいるわけですから、それは私たちになにをやっても良いよと言うことなのです。「必要ならいつでも助けてあげれるから、やりたいのなら自由に生きてごらん。」と本物の神様は考えているのです。(他の神々に従属して生きることも自由ではあるのですが、、、)
(2003/04/25)