インナーチャイルド (第79話)

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 催眠療法に関わる一連の出来事の後、わたしはいつものように自転車で会社に行く途中でした。あるところまできて、ふと覚えのある感覚が私の中に入ってきました。それは「神様からの贈り物 (第32話)」の直後に感じたものと同じものでした。気が付いてみると、その場所も覚えのある重要な場所でした。

 書き始めていきなり余談になってしまいますが、その場所は私が最初に神様を感じた場所でもあったのです。その時のことをちょっと書きましょう。もちろん神様はいろんな場所に現れるし、心の奥にもいるのですが、時としてこんなかたちで現れることがあるのです。

 その時は「神様からの贈り物 (第32話)」で書いた出来事の翌日で、やはり自転車で会社に行く途中でした。あるところまで来たとき、前の方の道の端で3人の少年が遊んでいるのが見えました。私は特に気にすることも無く、その横を通り過ぎようとしたのですが、その少年たちの手前3mくらいまで来たとき、少年たちが遊んでいた円盤のようなもの(フリスビーの一種かな?)が、ふわふわっと私の前に上がって落ちてきました。このまま私の自転車が進むとそれを踏んで壊してしまいなのそうです。そんな時いつもならハンドルを切って横を通り過ぎるのですが、そのフリスビーは本当に私の正面でどちらにも避けられません。私は急ブレーキを掛けて止まることにしました。

 結果はというと、自転車のタイヤがあと10センチくらいで、その円盤を踏んでしまうところで何とか止まることが出来たのです。自転車のタイヤの延長線上にはその円盤の中心があります。偶然にも本当にぴったりとまん前で、まるで左右にずれないように計って置いたように円盤があるのです。その時私は「まにあってよかった」と思ったのです。私としてはふまない場所でぎりぎり自転車が止まれたのでそう思ったのですが、なぜかその「まにあってよかった」という言葉が頭からはなれません。しばらくして理解したのは、その様に考えるような出来事が用意されて、その結果私が「まにあってよかった」と考えたのです。あれ、これって何かのメッセージなのかな?と思ったとたん、私の魂がほえ始めたのです。その魂の反応で私は理解しました。この「まにあってよかった」と言うのは、神様からのメッセージだったのです。

 その時なのです。心の中に特殊な感覚が入ってきていて、言葉ではない言葉で「まにあってよかった、私も心配してみていたんだよ。」という感じが湧いてきたのです。これが私が直接感じた初めての神様だったのです。もちろん出来事としてだけ考えると、別に神様ではなくてもその様なことは起こせるだろうし、それまでもいろいろな不思議な体験はしていた訳なのですが、これは特別だったのです。ただ人を驚かせたり感激させるのが目的ではなく、しゃれていて、なんか非常に温かみのあるメッセージだったのです。

 話をもどします。このページの最初にかいた、覚えのある感覚というのはこの時の感覚なのでした。しかも同じ場所なのです。今度のメッセージは直接心の中から湧いてきました。内容は、「私だよ、今度の出来事は無意識について理解する為の絶好のサンプルだよ。」というものでした。この前書いたように、私は催眠術には掛かりませんでした。しかしその一連の出来事により、確かに無意識と言うものを理解する為に必要な情報と体験を得ました。そして無意識と言うものを理解することが、神を理解する為にとても重要なことだったと言うことに気が付いたのです。まあ、ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、神様が一連の出来事を起こして、私に無意識と言うもの、そして神というものがどのようなものであるのかを教えてくれたということなのです。

 実は、これに関連して神様はもう一つ別の形で私に援助をしていてくれたことに気が付きました。それも無意識を理解するうえで重要なことだったのです。またまた話がそれますが、そのことも書いておくことにします。

 上で書いた、神様からの最初の直接的なメッセージのすぐあとのことです。私はある少女と出会いました。その子の年齢は5歳(当時)なのですが、その子の名前は私にとってとても意味深い名前だったのです。そして、姓名の画数も私と同じで、なんと手相も私とほとんど同じなのです。最初に会ったのは、私が公園のベンチに座って、神様の感激を思い出して味わっていたときです。その少女がふらっとよってきて話しかけてきました。なんとなく、何か意味がありそうだなあと感じてはいたのですが、その時は結局その意味は解らずに、お友達になったのです。

 その後、時々その公園で見かけるたびに遊んでいたのですが、なぜかその少女と遊んでいると不思議と涙がこぼれてきていたのです。「おじちゃん、何で泣いてるの?」といわれて気が付いたことは一度や二度ではありません。もしかして過去生で何かしらの縁があったのかも知れないなどと考えたりもしたのですが、どうもそうでもないようです。なにしろ本人がそういってました。^^ この説明も必要ですね、予定には入っていなかったけれど、その説明も書くことにしましょう。

 その少女と知り合ってしばらくして、ふと思って聞いてみたのです。「ねえ、目をつぶると何か光が見える?」と聞いてみたのです。すると「うん、見えるよ」といったので、私は「その光に挨拶してごらん」って言ったのです。すると少女は、くすくす笑い出したのです。「なんていってるの?」と私が聞くと、「また遊びに来てね。って言ってる」と少女が言ったのです。またしばらくして、同じことを試してみました。そしたら「死んでも一緒にいるよ」って言っているらしいのです。この少女は魂と対話が出来ているんだと思ったので、その時に聞いてみたのです。「おじちゃんのこと、知ってるかどうか聞いてみて」といったら、「知らない」という返事だったのです。(これは過去生などで私と縁があったということではないということなのです。) ちなみに、その少女に今年になってから同じことを言ってみたら、もう何も見えないって言っていました。そしてそのこと自体も忘れてしまっていました。子供は直ぐ忘れてしまいますからしかたないでしょう。

 もし適切な指導者がいて、毎日少しずつでも光とあっていたなら、その少女には良かったかもとも思うのですが、歳をとると忘れてしまうのはしかたないことなのかもしれません。少なくとも言えるのは、幼い子供は純真な為に容易に心の中の光と接触できると言うことです。

 話をもどします。私の涙の意味が今回の一連の出来事と、神様からのメッセージで理解できたのです。私はその少女を特別な目で見ていました。そのうちの一つは、出会いのタイミングから、この少女は私にとっては天使のような存在としてみていたのと、姓名の画数が全く同じで、手相まで一緒と言うことで、自分自身の子供の頃の姿と重ねてみていたのです。おまけに、弟が生まれるために母親を取られてしまうという境遇も、私の子供の頃と非常に似て見えたのです。もう一つは、別の人にも重ねて見ていたりもするのですが、それはここでは関係ないことです。

 さてさて、ここら辺でやっと今日の本題になります。私はその少女を自分自身と重ね合わせてみていました。その少女と遊ぶことで、魂的には幼い頃の自分自身と遊んでいたのです。それは、あまり遊んでもらえなかった私自身の子供の頃の気持ちを癒す為だったのです。

 人間の無意識の領域には、インナーチャイルドという意識が存在します。それは子供の頃の想いをそのまんま抱えたまま無意識の中に隠れてしまった自分自身の一部なのです。その想いは私が歳をとってもいつまでも子供のときのままなのです。私の場合、「遊んで欲しかった」という想いが無意識の中でずっと存在していたのです。これは普段は無意識の領域にある想いのエネルギーなので、表にあらわれることはあまりありません。しかしこの無意識の中の想いは私の魂にとっては重要な問題なのです。もともと魂自体が無意識の領域にあるのですから、考えようによってはこの想いは魂の一部であるともいえるのです。

 表の私が何を考え、何を想っているのかは関係なしに、私のインナーチャイルドはいつも、「遊んで欲しい、遊んで欲しい」と想い続けていたのです。意識というものには境界は存在しません。それと同時にいくつもの意識が私の中で存在し続けているのです。過去生での想いも同じように普段は無意識の領域に隠れています。なにかの拍子にそれは魂の声として時々表に出てくるのです。そのことを考えると魂とは自分の無意識の領域にある意識だということが出来るのです。もちろん子供としての側面だけで魂が出来ているとは考えていません。神としての側面も魂は持っているのです。それでもとりあえずは魂は自分の無意識の領域に存在しているのです。(言葉の定義にもよりますが)

 話をもどします。私は少女を自分だと思って、その少女と遊びながら自分自身のインナーチャイルドと遊んでいたのです。涙はその為の魂からの声だったのです。(ここを読んでくれる人たちなら、涙は魂からの声だって知ってますよね。)

 結局のところ、その少女は私の心を癒す為に神様が出会わせてくれたのです。それは私にとってはやはり天使だったということになるのです。このような天使はべつに一人と言うわけではありませんが、、。

 私の場合、もうひとり別のインナーチャイルドがいるのです。これはまえのとは別の想いなので、別の癒し方が必要だったりするのです。

PS. 相手を自分だと思うことで、自分を癒すことになるのだと言うことかもしれません。

(2003/05/03)


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