好き嫌い (第83話)

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 損得(第75話)について、「物事は好きか嫌いかで、判断することが正しいように思います。魂というレベルで考えれば、考えより感情だと思うのです。このあたり何か、ご説明いただければ、ありがたく思います。」というご意見を頂きました。私の説明不足の指摘であると同時に、もう少し突っ込んだ思索が必要だという意味で私はこのメールを解釈しました。今回はもう少し突っ込んで検討してみます。

 まず最初に問題になるのは、判断をするときの社会に対する影響度により、その仕方に違いが出ます。公共性の必要な選択の場合の方が説明が楽なのでそちらを先にしてしまいます。

 社会的な仕組みや制度など、あるいは多くの人に関わりのある判断においては、「広い視野においての損得」が最も理想的な基準なのです。これにはそれなりの訳があります。

 真実が人により異なることはこの場合でも重要になります。たとえば集団での意思決定が必要に成ったとします。この集団での意思決定をするということは、集団内での正邪(良し悪し)を決めると言うことになります。その場合、人々がそれぞれの真実をペースにして正邪を決めようとすると話はまとまりません。これは今の現実社会において良くあるケースです。なぜかと言うと、ほとんどの人が真実と言うものはどの人にとっても同じものだと考えていますから、他の人の意見に対して「なんであんな変なことを言うのか?あの人は何が正しいことなのか何にもわかっていない。」となってしまうのです。たいがいの場合、相手もそう考えているのです。

 もしもともとその集団の中で、共通した正邪の基準があるのなら、それはそれで意思決定ができます。ただその場合、残念なことに昔からの風習であったり、迷信的なものであったり道徳意識であったりして、それはそのメンバーが本当に望んでいることなのかは大いに疑問が出るのです。

 まあ集団においての意思決定は、「広い視野においての集団の損得」によってなされることが好ましいのです。とは言っても視野が狭い人が多いので実際には難しいことでもあります。たいがい視野の狭い人ほど何かに付けて強硬な態度に出ますから集団の平均的なレベルが低い場合は、実際問題としては諦めるしかないかも知れません。(今の世の中全体がこんな感じなのは寂しい限りですが)

 さて問題なのは個人的な判断の場合です。あらためて書くと個人的な判断の基準は3種類あります。ひとつは「損得」、これは前に説明しました。あとふたつは、「好き嫌い」と「善悪」なのです。実は私たちがある程度以上に成長してくると、この3種類の判断基準は同じ結論を出すようになるのです。

 「善悪」について考えると、これはその人の正邪の基準を反映していることになります。これには二つのポイントがあります。ひとつは「悪いと知りながらやってしまう」ということがあります。この場合、それが本当に悪いことだとは思っていないと言うことです。まあこれくらいは良いだろうと考えたりします。もっともこれは判断の基準を「善悪」には置いていないということでもあります。

 もうひとつ「善悪」で重要なことは、本当にその人の善悪であるのかという問題があります。多くの場合、社会的な通念でもって作り上げた「善悪」でもって判断することが多いのです。これは「神との対話」風に書くと、「自分ではなく赤の他人の、それも大昔の人たちが勝手に決めた行動基準にただ盲目的にしたがっているだけ」ということで、成長も何もあったものではありません。

 さて問題の「好き嫌い」に関してでありますが、単純に言うとその人の霊的なレベルしだいだと言うことに成ります。ただ体験という観点で行くと過ちを冒すことも必要なことなので、自分のレベルでの「好き嫌い」で行動することは大事なことではあります。その場合魂はその人がその判断をして失敗することをあらかじめ承知していると言うことなんです。正しい判断と言う観点から言うと、微妙に話がずれてしまいます。

 ある程度霊的に成長してくると「好き嫌い」の判断は、自己中心的な好みからより大きな視点に立った自他共に利益を得られる好みに変わってきます。こうなると「広い視野においての損得」と同じ結論になるようになります。本当は逆なのですけどね。実際は魂レベルの喜びを感じれるようになると、魂が喜ぶことが最も得な選択になるのです。

 もう少しこの点についてつっこんで考えると、この場合微妙ながら重要な要素があります。魂が求めることはその時点での最高レベルの感動ですから徐々に変化していくのです。それに魂のレベルにある意識もひとつではありません。時には魂の内部で意見の対立も起こりえるし、その意識の深さ(神の意識との距離)も異なるのです。言ってみれば魂を無意識にある意識体だと考えたとき、表の意識に近いものとより神に近いものとがあるということなのです。「好き嫌い」で判断するとき、そのどこの部分の影響が強く出ているのかと言うことはなかなか判断に難しいものがあるのです。

 「損得」について考えるとき、究極的には「好き嫌い」と同じになりますが、それは究極であって通常そこまでのレベルにはなかなかなれません。ただ「損得」を考えることには重要なメリットがあるのです。「損得」での判断は自然と世の中を観察し、自分を観察し、いろいろと考えることが必要になるからなのです。それは自分自身の価値判断をその時その時で作り直し続けると言うことになるのです。それは成長(自己の創造)につながるのです。

 一方その点で「好き嫌い」はその時点での自分の段階の反映と言うこともできます。自分の今がどんなであるのかを見たいとき、「好き嫌い」は重要な判断の要素になります。ただその判断の結果を冷静に観察しないとなかなか成長につながりません。その場合心の状態により多くの注意(観察)が必要になります。好きなことをして、それだけで終わってしまっては何も残らないのです。

 「神との対話」の神様なら、「貴方は好きなことをやってみた、それで本当に気分が良くなったのかな?気分がよければOK、もしそうで無かったなら、もっと違う自分を創造した方が良いね。」って言いそうな気がします。

(2003/05/18)


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