成長の喜び (第86話)

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 自分の中に新しい価値観や考え方が入ってくるとその整理に時間が掛かり、同時にこのページを書き続けることが億劫にもなってきたりするのですが、どうやら一波乗り越えたようで、やっと落ち着いた気分になりました。今すごく書きたいことがあるのですが、それはまだ今日の気づきなのであえてちょっと置いておいて、数日前の気づきに付いて書くことにします。結局のところ順番が無いようでいてあるときが多いので湯気は出なくなったけどまだ書いてないことを書いてしまい、次に続けることにします。

 しばらく前、考えていたことがあります。なぜ生き続けなければ成らないのか?という疑問です。もちろんこの生き続けるというのは、今生のことではありません。生命(いのち)に終わりが無いということは延々と何かをし続けなければ成らないわけで、それはそれこそ永遠にということです。多くの場合100年に満たないの一回の人生だけでは当然短すぎるのですが、それが百回、千回となり、その後でもまだ別な世界があって、それこそ地球時間で何億年以上も生き続けることに少々の抵抗感とその意味について考えていたのです。

 私の今の人生では、喜びを感じていられます。確かにそれはすばらしいものだとは思うのですが、それが何億年も続いたらいつまで喜びとして感じていられるのかという疑問もあったのです。もっとも今の私の成長レベルでは、ひとつの喜びの時間というものはそれほど長くは無いのですが、、

 不思議なもので(ある意味何も不思議ではないのだけど)、その様な疑問の答えはそれほどたたないうちにやってきます。これなど別に教えてくれって頼んだわけでもないし、一生懸命答えを探していたわけでもないし、そもそも答えがあるとも思っていなかったのですから、ただボオーッとちょっとネガティブな気分に浸りながら考えていただけなのです。

 答えを書きますが、ちょっと概念的な部分から入ります。「神との対話」ら出てくる「相対性の世界」というのが私たちの活動エリヤです。(本当は場所などは無いのですけど、それは置いといて) その相対性という言葉の解釈にその答えがあったのです。

 私たちのよくある思考パターンで言うと、相対性とは、どっちが長いとか、高いとか、あるいは賢いとか、あるいは成長しているとか、とかく二つのものを比べることだと考えてしまいます。もちろんこの相対性というのも間違いではないのですが、もう少し視点を変えると別な相対性も出てくるのです。この説明はちょっとくどくなるかもしれませんが、それなりに一生懸命しようかと思います。なぜならこの概念は地球(宗教)の神々にも必要なものだと思うからです。(偉そうなかきかた、笑)

 まず比較のために、前者を「比較相対性」と勝手に言葉を使って説明します。この相対性は文字通り両者を比較することの相対性です。ここで重要なのはある種の物差しを使ってそれを比べるということです。もちろんこれは物差しという物理的なものがあるということではなく、概念的ではあってもそれなりの基準に当てはめてそれを評価するのです。ここで大事なことは「物差しが在ること」と「評価する」ということです。これが私たちの一般的な相対性なのです。

 一方もうひとつの相対性は「成長相対性」あるいは「無限相対性」とでも言いましょう。この場合には特定の物差しは必要ではありません。この言葉の意味は「成長には限界が無いよ」という意味なのです。ここで比較するのは両者ではありません。「今の自分」と「以前の自分」など同じものの比較なのです。なかなか言葉で説明するのは大変です、フィーリングで理解して欲しいのですが、前より高く、前より賢く、など成長の相対性です。これは同時に以前より良くなると言うことの繰り返しを意味していて、「無限」という意味でもあるのです。

 私たちの成長は決して後戻りすることはありません。これは重要なポイントです。なぜなら一見後戻りしているように見えることがあっても、それは次の飛躍のための準備であり、決して無駄なものではないのですから。なにをしていようが無駄ではないもの(経験)が貯まっていくのですから、後戻りするということは無いのです。くどいですが、それは「無限」という意味でもあるのです。

 言い方を変えると、「成長することの喜びは無限に味わうことが出来るよ。」という意味になるのです。それこそ無限の喜びなのです。(もちろんこの言葉の意味は別なものもあると思いますが)

 もうひとつ、すごく大事なことなのですが、「成長相対性」の場合は他者とくらべて評価するようなことはしません。対象はあくまで、自分であり、本人なのですから、そこに評価というものは存在しないのです。そのかわりそこにあるのは、自分の喜びであり、他者からの祝福なのです。

 他者を評価することは、他者を決め付けることになり、それは他者の自由を束縛することになります。これは「愛」の姿勢ではないのです。同時に「神」の姿勢でもないということなのです。いっぽう成長の喜びを感じること、他者の成長を祝福すること、これはまぎれも無く「愛」の姿勢なのです。

 ある程度以上の成長レベルに達したとき、次のステップに行く為には「比較相対性」で考えるのではなく「成長相対性」で考えることが大事なのです。これは愛を理解するうえで、とっても大事な事なのです。地球の宗教の神々はどうもここのところで引っかかっているように思えてしまうんですが、、。ついでに書いておくと、「比較相対性」はべき論につながります。「成長相対性」は自由につながるのです。

(2003/05/02)


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