存在 (第87話)

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 神に対しての気づきがひとくぎりした後、それまでとは別な観点からの気づきがいくつかあったのですが、そのどれもが考えていくうちに結果として「愛」という言葉に落ち着くのです。前話もそうでした。そして今回もそうなります。でも、人によっては何故そことそこがつながるの?という疑問を持つ人がいるかとおもいます。その部分は言葉には出来ない部分なので、感じてください。

 私たちの本質はエネルギー体なのです。今まではその部分はあまり詳しく知らなかったのですが、その本質のエネルギー体は思考ではなくて意識だったようです。この意識と思考の違いはちょっと紛らわしいのですが、この違いを理解することはかなり重要なことのようです。それは近いうちに書きます。 (いきなり話がそれた^^;)

 とにかく私たちの本質は意識というエネルギー体なのです。エネルギーは絶えず動いています。まあこの動いていること自体がエネルギーともいえるのですが。このエネルギーというものがあるのか無いのかという認識は、それがエネルギーを出しているか吸収しているかのどちらかの状態で存在することを認識できるのです。

 別な言い方だと、なにもエネルギーの出入りの無いエネルギー体は存在を認知できない。もっというと存在しないということと同じなのです。もともと全ての世の中は神の意識というエネルギー源が、自分以外のものを認識するために自分を別けたことにより、エネルギーの動きが始まり、空という無から発生したのですから、エネルギーの動きをなくしてしまったら、文字通り、「無に帰す」のです。(ここの部分は良くわからなかったら無視してください。)

 まあちょっと回りくどい説明になってしまってのですが、要するにエネルギー体としての私たちはいつもエネルギーを放出することでここにいるよということを周りのエネルギー体に認知させているのです。それによって存在していることが可能なのです。そして現に私たちの全てが目に見えるこの世界だけでなく、目に見えない様々な世界に対しても存在のエネルギーを送り続けているのです。(幻想の世界で存在していられるのは、絶えず存在をアピールしているからという言い方も出来るのです。)

 さてここからが本題です。エネルギー的に「在る」ということは、存在を示しているということなのです。そして生命(いのち)である私たちが、存在を続けているということは、ようするに生きているということなのです。

 そこで問題なのは、存在を示すということは、誰かにそれを見てもらわないとならないと言うことでもあるのです。もし仮に誰か一生懸命「私はここに居るよ」とアピールしたとしても、誰も見ていてくれないとそれはアピールしたことにならないのです。ようするに見られている事によりはじめて存在することが出来るのです。

 私たちの思考のエネルギーは幻想である空間を飛び越えて世界中に発信されています。必ずそのどこかで微量ながらも影響を与えているのです。これは私たちが考えていることにより、思考エネルギーを広範囲な世の中に発信することで自分をアピールしていて、そのために存在することが出来るということでもあります。

 「われ思う、ゆえにわれ在り」と言ったのはデカルトです。

 実は今、デカルトのことをほんのちょっと調べたのです。それこそ「われ思う、ゆえにわれ在り」といった哲学者がいたけど、誰だったかなあ、という感じだったのです。調べてみてちょっとした驚きだったのですが、彼の哲学は私がここで書こうとしていたものを別な角度から説明しているものだったのです。とくに二元論などは、そのものずばり精神と肉体の関係を説明しているし、松果腺の説明など知っている人には驚きのことまで触れていたりするのです。私がこんなことを書くのも変なのですが、デカルトの哲学を理解できる人は、当時はかなり少なかったと思います。ちなみに、私が読んだ解説を書いた人もその本当の意味を理解していないと推測できるのです。

 ちょっと話が難しい方向に行ってしまいました。もっと簡単な理解の方にもどします。存在するということは、エネルギー的に言うとその存在をアピールし続けるという事なのです。(簡単では無いと言われるね。) まあ、ここまでの細かいことはかなり理屈っぽく、なおかつ直感的でないと理解しにくいかも知れないので、わからなくてもあまり気にしないでいいと思います。ただその後につながる「我々は見られる(認知される)ことによって、存在することが出来る」ということが、命をエネルギーだとして考えるとき必然的な事実になるということだけは、理解してください。

  さてさてこのような声が聞こえて来そうです。「私は一人ぼっちでいても消えたりしないよ。誰も見ていてくれなくてもちゃんと存在しているよ。」 このように考える人がいて当たり前です。なぜ私たちは一人で居ても消えない のでしょうか。

 まず第一に、私たちが本当に一人っきりになれるということは不可能なのです。それに無限のかなたまで私たちの思考エネルギーは届いています。でももっと大事な説明があるのです。私たちをいつも見ている存在があるのです。それは「神」なのです。もちろん人格化された神ではなく、摂理として、あるいは一瞬一瞬の創造者としての神が私たちの思考エネルギーや感情のエネルギーを受け取っているのです。神は完全にオートマチックにそれを次の瞬間の創造につなげているのです。

 このことをもっと情緒的に言うと、「神様はいつも私たちを見ていてくださる。」という言い方になるのです。また同じ事から「神が見ていてくれるから、私たちが存在できる。」ということにもなるのです。もちろん「神が全ての世界を創造し続けている」ということでもあるのです。(実は逆もいえるのですが、それは自分で考えてみてください。)

 今回の話はかなり理解が難しいと思うので、あまり長くならないようにして、続きの話は次回に持ち越します。ということで、今回の結論なのですが、「神は見ている。」ということです。もちろん一般的な「見ている」の解釈とは異なるのですが、これは次に続く話の大事な基礎になるのです。

(2003/06/05)


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