積極的に生きる (第88話)

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 「存在(第87話)」の続きです。ですが、本題の前にちょっとだけ寄道をします。前話でデカルトの話で哲学のことに首を突っ込んだついでに、どうしても触れておかなければ成らない大事な人がいます。スピノザという哲学者でデカルト哲学を発展させました。多分スピノザが最もスピリチュアルな哲学者なのではないかとも思っているのですが、彼はデカルトの二元論に対して、「世界には神しかいない」という一元論をいいました。その一元論で展開される神に対する説明は、「神との対話」の神と同じであることは容易に理解できます。

 ついでに書いておくのですが、古来から哲学者は「神」についていろいろと考えています。これは哲学という性質上、いろいろな思索が自分自身を対象とするため必然的に神の概念が入ってくるのですが、時代背景もあり、人々が勝手に作り出した誤った神に対する理解も影響して途中から方向がずれてしまったりすることもあるのです。

 あらためて考えてみると、哲学の歴史の中には、自分自身の直感にたよった正しい神への理解と、社会通念で考えている誤った神に対する認識との葛藤がずっと続けられていたようにも思えます。

 さて面倒な話は適当に切り上げて本題に行きます。(こっちも面倒だったりして^^;)

 前話で私たちが存在しているのは、いつも存在をアピールし続けているからだと書きました。生命(いのち)としての私たちが存在していると言うことはそれだけで生きているということなのですが、もう少し突っ込んでそれを考えるわけです。とくに積極的に生きるということはエネルギー的にはどのような意味かと言うことです。

 簡単に言ってしまいましょう。積極的に生きるということは、積極的にアピールすることなのです。ということは思考や感情、そして行動、言葉で「私はこういうものである」と示すことなのです。

 ちょっと簡単すぎたようですね。補足をします。まず積極的という意味なのですが、これは一生懸命体を動かすということではありません。それはあくまでも肉体的な積極的という意味でエネルギー的に積極的というのとは全然違うのです。いくつか例をあげてみます。

 ある人がいたとします。その人は自己嫌悪におちいっている為、自分自身に自信がなく、その為しっかりした自分自身を認識できないでいるとします。そんな人は自分の生き方を外部の価値判断にゆだねてしまいますから、周りの人の言うとおり、もしくは一般的な世間常識のとおりに生活してしまいます。(実際は程度の差こそあれこういう人は多いのです。) そういう人がいくら身体的に積極的な活動をしたとしても、それは本当の自分を表現していることにはならないのです。言い方を替えると、エネルギー的には自分の存在をアピールしていることにはならないのです。生命(いのち)的には、何も積極的に生きてはいないということなのです。

 あえて対照的なケースを考えて見ましょう。ある哲学者がいたとします。彼は強烈な個性の持ち主で、彼独自の哲学を一生懸命考えています。ただその哲学者はじっと考えているだけです。彼の哲学が正しいとかそうでないかは問題ではないのです。かれは考えることにより、宇宙に自分の存在エネルギーを振りまいているのです。彼はそれだけで積極的に生きているのです。

 お笑いの人を考えて見ましょう。その人は私はお笑いの芸人であり、みんなに楽しんでもらいたいと考えています。その人は積極的に生きていますね。彼が売れるか売れないかは関係ないのです。彼が自分はどういうものであるのはをしっかり意識して、それを表現しているのですから、それは立派に積極的な生きた方だといえるのです。

 整理すると、まず自分自身がどのような存在であるのかということを自分の意志で、出来れば自分の心の奥からの声に耳を傾けて、決めることが大事なのです。そしてその自分をアピールするのです。周りの人間が何を考えていても、どのような目でその人を見たとしても気にすることはありません。気にするたびに少しずつ自分自身を見失っていくのです。その様な意味では積極的に生きるためにはそれなりの精神力が必要にもなるのですが、、

 簡単に言ってしまえば、積極的に生きるということは、「私はこういうものである」と宣言をすることなのです。それも言葉だけではなく、思考、態度、行動など自分自身の活動全てを通して、自分を宇宙にたいして宣言し続けるということなのです。それが積極的に生きるということであり、それが貴方が積極的に在るということなのです。それにより貴方が輝くのです。

 もうひとつ大事な補足です。貴方が何ものであるのか、それは貴方の心が知っています。他の人に聞いても解らないのです。自分で自分が何ものであるのか考えましょう。もし分からなかったら、自分は本当はいったい何をしたいのだろうか?と考えてみても良いでしょう。そしてそれは世間常識と違っているかも知れません。でも価値判断は必要ないのです。もし「私は泥棒をするものである。」と感じたのなら、そしてその様な自分が望ましいと思ったのなら、一生懸命に泥棒をやればいいのです。それが積極的に生きるということなのです。(何にせよその責任は自分でとらなければならないけどね。)

 くどいですが、表の意識で勝手に自分はこうであると決め付けずに、自分の心の奥に聞いてみてくださいね。自分の考えたことが間違っていなかったら、わくわくするものがあるはずです。それは魂が望んでいる貴方であることなのです。たとえば貴方が何かの趣味を持っていて、それにわくわくするのであれば、貴方はその趣味をする人なのです。それで良いんです。

(2003/06/07)


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