在ること (第89話)

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 87話からの続きのつもりですが、もしかしたらそうでないかも。^^

 もともとこの世界(宇宙)は何も無いところから始まっています。ただ神の意識だけがあったわけで、全てがそこから始まったわけです。とはいっても全く何も無かったわけではなく、意識としての神、言い換えると意識を持ったエネルギーがあったわけなのですが、それだけだったのです。

 神が自分のことを考えはじめたためにすべてのものが始まったわけです。このことから言える事はいくつかあります。

 まずひとつは、全てのものが在るのは神のおかげであるということです。私がこのように書いたからといって、別に神様に感謝しろと言っているわけでは無いんですよ。ただ事実として、全てがそこから始まっているということです。

 私たちはもちろん、いくつもある宇宙の全てが在るのはどうしてでしょうか。無からどうしてこの広大な宇宙や永遠ともいえる時間が発生するのでしょうか。簡単に言ってしまえば、全ては神の見ている夢だからなのです。夢とは言っても私たちの通常寝ているときに見る夢とは少し違います。概念として夢という言葉を使うと理解し易い為に、そういっているのであって全く同じというわけではありません。

 夢の世界だから、その中の空間は想像(創造)しだいでいくらでも広げることが出来ます。また時間も永遠に作り出せるのです。夢の世界だから、何でも創造できるのです。思いつくかぎりのものは創造することが出来るのです。宇宙でさえ、必要ならいくらでも作り出せれるのです。夢の世界だから、全てのものが無限なのです。

 さて夢を見ているのは誰なのでしょうか?神なのでしょうか、それとも私たちなのでしょうか。その答えは、両方なのです。神は私たちを通して夢を見ているのです。まだまだいろいろな言い方が出来ます。私たちは神の見ている夢の主体だとも言えるし、私たちは神の一部(細胞のようなもの)として神の夢を見ているとも言えるし、神の代理として自分の夢を創造しているともいえます。また聖なる神から分裂した神の子供として「全ての夢」の一部を創造しているとも言えるのです。

 神の夢のすごいことは、全てのものが在るということです。私たちが体験しているものが夢だからといって、私たちが今見ている現実社会が存在していないというわけではないのです。夢(幻想)なのにしっかり存在していると言うことは、考えようによってはすごい驚異的なことなのですが、実際にそうなんですから、驚いていいものやら、結局はそういうものなんだで落ち着かざるをえないのです。

 まあ結局はそのおかげで私たちの生命(いのち)が存在できるのですから、存在していることに喜びを感じ、神に感謝するのは当然のことなんですね。(強制されることはないですよ)

 気楽に考えてください。私たちは幻想という夢の世界にいるのです。だからなにをやっても自由なのです。もちろん当然の成り行きとしての結果がついてきますから、それは自分で負わなければなりません。しかしながら私たちはいくら自由だからと言ってもなかなか自由には行動できないものなのです。それが出来るようになるということは、自分が神であることを完全に思い出し、世の中が幻想であると言うことを完全に理解しなくては、自分自身から自由になることは難しいんです。

 寝ているとき、自分が今、夢を見ているんだと気がついたことはありますか。私は何度かその様な経験をした事があります。「ああっ、これはいつもと違うな、私は今夢を見ているんだ。」と気がついたとき、「そうか、今夢を見ているんだ、じゃ何でも出来るな。」と考えるのですが、それでも実際はなかなか自由にはならないんです。「夢の中なんだから空を飛べても変ではないな、飛んでみよう。」と思っても飛べないんです。結局のところ常識的な意識が働いているために、夢の中まで行動に制限がかかっているのです。

 なぜこんな話をしたのかというと、実際の生活の中でも同じことがおこっているのです。本当は幻想の中にいるんですから、創造したいものは何でも作れるんです。やりたいことは何でも出来るんです。世界征服だって出来ないことではないんです。ただ常識という意識が邪魔しているのです。いまこの常識を打ち破ろうと考えているのですが、はっきり言ってこれはかなり強敵なのです。まあ寝ているときの夢さえ自由にならないのですから、もう少し時間が必要でしょう。

 ちょっとというか、かなり話がそれてしまいました。話をもどします。「在ること」に関して言うと「ただ在ること」という言い方があります。この「ただ」ということの意味なのですが、この言葉はどうも紛らわしくて誤解されそうだと思っています。

 私たちの思考だと、「ただ在る」ということは、「ただいる」ということになり、それは「なにもしないで居るだけ」というように解釈されてしまいそうです。でもこの場合の「ただ」と言うのは、ちょっと違うんです。意味としては、善悪などの評価をしないということなのです。言ってみれば「良いも悪いも無い、ただ在ることがすばらしい」という意味あいなのです。

 くどいかも知れませんが、「ただ在る」と言った場合には、評価をしないで在ると言うことをそのまま受け入れるという意味なのです。当然のことながら、人を評価して責めることも自己嫌悪もいけないのです。(勿論、いけないと言うのは「ただ在る」ためにはそうであってはいけないと言う意味です。)

 結局のところ、全てを受け入れて評価をしないという姿勢のことを言っているのです。これは自分を愛する為、人を愛する為、全てを愛する為には評価して決め付けるようなことはしないという意味なのです。ついでに書いておきますが、「あるがまま」というのも何もしないという意味ではないですよ。前話で書いたように本当の自分を表現することが「あるがまま」なのです。

(2003/06/11)


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