質問の答え(神について) (第97話)

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 ご質問を頂いてその答えを書こうと思います。ご質問に対して個別に返事をしているケースもあるのですが、今回のご質問は他にも疑問に思っている人がいるだろうかと思いページにすることにしました。ここで私が書く返事は今の時点の私の理解であり、これを書くことにより固定化されるのはちょっと嫌でもあります。それは理解が進むにつれ疑問点が移っていき、同じ問いかけに対する答えも変わっていくものだからです。実際このことは今までも何回か体験していますし、結局は真実はいろいろあったんだという結論になるのですが、まあそのことは置いておいて、率直なところを書くことにします。

 但し書きが多いので恐縮ですが、私がここで書くことは評価ではないのです。人間の習性として、何かを友好的か敵対的かに無理してわけてしまうというのがあります。ここで書く文章がもしも貴方にとって友好的に感じられないとしても、決して敵対的なものではありません。そしてあくまで現時点の私にとっての真実であることを前置きしておきます。

 まずご質問のメールの一部を引用しました。幾つかの質問が混ざっていたので、簡単に並べ替えと句読点の変更をしてあります。

なぜ、大宇宙創造神は地球の神の存在を認めたのでしょう?
最初から 存在させにように なぜしなかったのでしょうか?なぜ、世の初めから現在まで、ずーと天国にしなかったのでしょうか?進化や自分を知ることは、何年も何ヶ月も物凄い苦しみや トラウマが残るほど、何十年間も強烈な心の傷より大事なのでしょうか?

人間の一生はそんなに軽いのでしょうか?宇宙の時間でかはれば人間の一生は短すぎるかもしれませんが、苦しみあえいでいるものにはたまったものではありまあせん。

私は進化より大事なことがあるように思います。

大宇宙創造神には ゲームにはある種の意識のものにとっては耐えられないほどの心の苦しみやトラウマ が存在し、偉大な計画にはそれらが存在することを知っていたはずです。
神が共に苦しむのはわかりますが、一人の人間として苦しむのはわけが違うと思います。
私は地球=自分ですが、新聞で悲しい事件があると悲しいですが、やはり、虐待受けてる当の本人 とは絶対苦しみが違います。

神が一人の人間として生まれ、極度の苦しみを長いこと味わったら、自分の偉大なゲーム(進化)を祝えるでしょうか?祝えるはずがないと断言しても良いと思います。

輪廻の初期の段階では 輪廻の多いものが誘惑に負けて昼寝するような感じで 簡単に人に酷い虐待や殺人が可能です。それで、因果律により、来世酷いことを味わいます。これは人間の(本人の)責任ですが、ここまで簡単に自然の法則を破れる ようにした大宇宙創造神には疑問を感じます。進化のためなら、手段は選ばないのでしょうか?

私が創造神なら、強制的に自然の法則自体を破れないようにするし、その必要があっても、(闇が必要であっても)一人100年に一回、10時間とかにします。
わたしは昔から、神が人間に謝る本が一冊ぐらい出てもいいと思いますが、そんな本存在しません。
存在すると、人間の希望がなくなるからでしょうか?

また、すべての種が悟りの到達した後、
。。。。の循環が終わると神との対話に書いてありましたが、それはどういうことでしょう?

また、何十万の細菌やプランクトンに分霊化し、最初からやり直しなんてたまったもんじゃありません。 そうでないとしても、輪廻の最初の段階(本当の自分を極度の忘れまくった状態。魂が鉄ぺキのよろい で奥の奥に閉じ込められてる状態)に戻るだけは嫌です。

神と一体化した後は下に下がるのですか?(残忍な人間や動物に変わる?)嫌がおうでも?
下がるとはどういう状態になるの?
すべての種が悟りを得たら?その後は?
何億年先のことだろうと気になって仕方がありません。
先のことだから、どうでもいいとはなりません。
宇宙は崇高な輪でもありうると書いてありました。
でもありうるとは?
崇高でない部分も多いのか? 気になります。

また、神は神でないものをジレンマしながら生みだす。
そうすれば、残りものは 本当の自分に目覚めるらしい(神との対話より)
これは一体いかなることでしょうか?神でないものとは?
宇宙が平和にならないと思いますが、、、

また、 それに悪をわざわざ選ぶ魂もいるようですが、それも愛のために選ぶらしい。愛のために悪を選んで、もし、カルマが返ったらたまったもんじゃない!と思います。

 それでは質問の一部ずつを個別に引用しながら書いていきます。

なぜ、大宇宙創造神は地球の神の存在を認めたのでしょう?
最初から 存在させにように なぜしなかったのでしょうか?

 神は愛です。愛は自由なのです。神はこのように言ったのです。「わが子たちよ、自由に世界を創造しなさい。どんなものでも良い、ありとあらゆるもの、創造できるもの全てを創造しなさい。何をつくろうとも、何をしようともそれはあなたの自由だ。その創造を私が愛で支えよう。それにより全てのものが存在し、発展していくのだ。」
 自由は「愛」の大原則なのです。神は子供達がなにをやろうと、それを止めたりはしません。それにもともと誰にも共通するような善悪などは無いのです。私も地球の宗教の神々のことを悪く書いたりしてますが、それさえ私個人の善悪であり、本当の意味では悪などではないのです。ある程度以上の理解においては悪などは存在しないのです。

 悪など存在しないのに、なぜ何かの存在を認めないなどということが出来るでしょうか。「私が、あるいは誰かがそれは悪だと言ったからといっても、その存在自体は悪ではないのです。」

 ついでに書いておきますが、「罪を憎んで、人を憎まず。」という言葉があります。この言葉も理解が進んでくると違和感を感じる言葉なのです。もともと罪などというものはないのです。それははある行為をどのように認識するのかという段階で出てくる概念で、真実と同じように人それぞれなのです。「罪を憎む」という行為自体が、評価をしていると言うことになり、愛ではないのです。愛とは評価しないことでもあります。(それでも何をやってもかまわないのですから、罪を憎んでも良いんですけどね。)

なぜ、世の初めから現在まで、ずーと天国にしなかったのでしょうか?進化や自分を知ることは、何年も何ヶ月も物凄い苦しみや トラウマが残るほど、何十年間も強烈な心の傷より大事なのでしょうか?

 何を天国と言うかが問題ではありますが、ずーと天国にいるのです。なにをやっても良い場所にいるのですから。それ以外に天国などありえません。幼稚園児が喧嘩をしないように手足を縛って(自由を束縛して)、それが愛だと思いますか? その様な世界は天国だなどとても思えません。むしろ地獄でしょう。誰も天国などを押し付けない場所、そこが天国なんです。だから、自由でいる限り、どこにいても天国なのです。もちろん自分で自分を束縛しているのも、その人の自由ということになります。多くの地球人がこの状態なのですが、これでさえ天国なんだということなのです。

 苦しみもそれは自分で選んだものなのです。「そんなはずは無い、私は苦しみなどは選ばない」と言う人もいるでしょう。でもそれは知らないが為に苦しみを選んでしまった為であり、選ばなかったわけではないのです。だって現実に貴方が苦しんでいるとしたら、それは貴方がそうしたとしか説明がつかないのです。現実に思われているものも、実際は貴方の夢の一部なのです。夢を見ているのは貴方であって、それはそれを選んだということなのです。貴方は自分の夢を人のせいにするのですか? (恐怖から選んでしまう場合も多いのですが、それも結局は無知から来るともいえます。)(言い方がきついけど、攻撃しているわけではないですよ。)

 これだけだと冷たい感じなので、苦しみから抜け出す方法を書いておきますね。今苦しんでいるのなら、その原因は自分にあるということを理解しましょう。そしていったん苦しみを感情で味わいます。それは自分自身にその体験が終わったということを知らせる意味があります。(現実として受け入れるというのも同じです。) そしてもうこの体験は選ばないと宣言しましょう。そして新たな自分を考えるのです。それは新たな自分を宣言すると言うことでもあります。すぐにという訳ではありませんが、いずれ苦しみは去っていきます。

人間の一生はそんなに軽いのでしょうか?宇宙の時間でかはれば人間の一生は短すぎるかもしれませんが、 苦しみあえいでいるものにはたまったものではありまあせん。

 冷たく聞こえてしまうと思いますが、人生を楽しんでいる人、喜んでいる人もいますよ。それは何が違うのでしょうか?けっして生活環境が原因ではないのです。それはその人がそれぞれ現実を作っているからなのです。いつまでも苦しみあえいでいるという人は、その原因を自分以外のほかの人(あるいは神)の責任にしているからなのです。「生きることは、喜びである」、これは最も大事な叡智なのです。

 もし納得できない人がいたなら、考えてみてください。自分が存在しなかったら、この世に生きているという意味ではなく、命さえもなく、全く何も無かったら。「生」というものに対して「死」を考えるように、「在る」に対して「無いこと」を考えてみるのもいいかも知れません。

私は進化より大事なことがあるように思います。

 何があるのでしょう?それがあったとして、それに気づいたとき、それは間違いなく進化なのです。とことん考えていくと、大事なことは「今、在ること」に成ってしまいそうです。それ以上に重要なことはたぶん無いのです。

大宇宙創造神には ゲームにはある種の意識のものにとっては耐えられないほどの心の苦しみやトラウマが存在し、偉大な計画にはそれらが存在することを知っていたはずです。
神が共に苦しむのはわかりますが、一人の人間として苦しむのはわけが違うと思います。
私は地球=自分ですが、新聞で悲しい事件があると悲しいですが、やはり、虐待受けてる当の本人とは絶対苦しみが違います。

神が一人の人間として生まれ、極度の苦しみを長いこと味わったら、自分の偉大なゲーム(進化)を祝えるでしょ うか?祝えるはずがないと断言しても良いと思います。

 神は私達の体験を、私達と全く同じように体験しています。神は傍観者ではないのです。私達の感じる喜びも苦しみも全て私達と全く同じように感じているはずです。これの説明は完全には出来ないんですけど、一応試みてみます。もともと出来事をどのように感じるのかがその出来事の意味を決めています。私達自身でさえ、ちょっと気持ちをずらすだけで出来事の意味は全く変わってしまうのです。もちろんその最終的な受け止め方と言うのは完全に私達の自由意志によるものなのですが、その受け止め方も体験の一部なのです。ですから神が私達と体験を共有すると言うのは全く私達と同じように感じていないと同じ体験にはならないのです。そうでなければ神の体験にはならないのです。

 極度の苦しみというのはいったいどのような事を言うのでしょうか?それはその人がその様に感じたということであって、それ以外の何物でもありません。それはもともとその人が引き寄せ、選択し、承認した出来事を苦しみといっているのですから、「まあ勝手にしなさい。苦しむのを選び続けるのならそれはそれでしょうがない、でももっと良い方法があるよ。」と言っているのが「神との対話」なのです。

 このようにも考えられるのです。地球上で誰かが苦しんでいるとき、神も全く同じように苦しんでいるのです。それは全く同じように、苦しんだ人が作り出した苦しみを全く同じようになのです。これって苦しんでいる人は、同時に神をも苦しめているということなのです。しかもその責任は苦しみを作り出した人(感じた人)にあるのであって、神には全く無いのです。まあそれでも怒らないし、それを受け入れてくれるのが神の「愛」だと言うこともいえるのです。

 「愛」とは、じっと我慢して見ていることでもあります。助けを求められない限り、ただ見ているだけなのです。これが愛の姿勢だし、神の姿勢なのです。もちろん助けを呼ぶ声があれば助けてくれます。ただ神を批判したとしても助けを求めないと何もしてくれません。お節介に助けると言うのは「自由」では無いし、同時に「愛」でも無いのです。また喜びを感じたいと言う人がいれば、喜びを与えてくれます。それは神が喜ぶことなのですから。本当は神はこれを望んでいるのです。これが神の姿勢なのです。どうしてなのかと言うと、全ての命は大きな一つの命でもあるのです。この世界は大きな一つの生命(いのち)により出来ているとも言えるのです。

輪廻の初期の段階では 輪廻の多いものが誘惑に負けて昼寝するような感じで 簡単に人に酷い虐待や殺人が可能です。それで、因果律により、来世酷いことを味わいます。これは人間の(本人の)責任ですが、ここまで簡単に自然の法則を破れる ようにした大宇宙創造神には疑問を感じます。進化のためなら、手段は選ばないのでしょうか?

 これは逆なのです。簡単に人を傷つけるものは、輪廻の回数の多いものではありません。輪廻の回数が少なくてまだ未熟な者が人を傷つけるのです。たとえば宗教の神などの存在にしても、人を傷つけようなどとは考えていません。それなりの真実をもって道を説いているのです。むしろ悪事を働かないように、自由を制限しているのが宗教の神々なのです。そして彼らは彼らなりに天国を作ろうとしているのです。これは結果的に先ほど書いた幼稚園児の自由を束縛するのと同じことになっているのです。本当に誰よりも一生懸命に意図的な天国を作ろうとしているのは彼らなのです。ただその天国は深い理解のもとでは本当の天国とはいえないのです。

 ここで因果律と書かれているのは、俗に言うカルマのことだと思います。これも基本的には自由を奪うものであり、本家本元の神の仕組みには入っていません。地球人が集合意識により勝手に作り上げてしまった制度なのです。現在ではカルマが存在すると考えている人にとってはその存在が真実であり、無いと考えている人にはそんなものは存在しないのです。もちろんこれは表面意識だけの問題ではなく、それぞれのハイアーセルフがどのように考えているのかにもよるのです。

 間違いを犯させないようにしよう。償いをしっかりさせることで、意図的な天国を作り出そうと言うのがカルマの基本的な思想なのです。これは神の「愛」とは矛盾するものなのです。なぜなら「愛」は「許し」でもあるのですから、カルマという制度は「許し」でも無いし、「自由」でも無いのです。

 「ここまで簡単に自然の法則を破れる」という表現が質問の中にあるのですが、自然の法則とは、何であろうと思ったものは実現すると言うのが根本的な法則なのです。それはどんなことがあっても破ることの出来ない法則なのです。なぜなら誰かが「思ったとおりになんかならない」と思っていた場合、本当に思った通りにはならないのです。それは思ったとおりにならないと思ったように現実が作られているのです。これは言葉遊びではないですよ。その様なことを知らず知らずに起こしている人が実際には多くいるのです。だから「考えているだけでは現実など変わらない」と考えている人は、その時点で実質的な創造力を放棄してしまっているのです。

 「何でも思ったとおりにしてあげるよ。」というのが神の愛なのです。

私が創造神なら、強制的に自然の法則自体を破れないようにするし、その必要があっても、(闇が必要であっても)一人100年に一回、10時間とかにします。
わたしは昔から、神が人間に謝る本が一冊ぐらい出てもいいと思いますが、そんな本存在しません。
存在すると、人間の希望がなくなるからでしょうか?

 今までの説明ですでにある程度察しがつくと思いますが、この意見には根本的な誤解があります。まず善悪というものが存在するということです。それは闇も同じです。「光」も「闇」も同じものなのです。それは根本的には意見の違いでしかないのです。もし誰かが自由の無い、刺激の無い世界を作り出そうとした場合、私にはその人は闇の存在に見えます。この質問者の意見は見方によっては「闇の論理」なのです。もちろんそれが悪いとは言いません。物事の両面性というものはいつも存在していると言うことを言いたかったのです。立場が変われば、正邪は変わります。結局のところ、全ては個人意志を尊重するという今のままが一番良いんです。それ以上に変えようが無いのです。

 本の話ですが、真剣に神に謝ったという本があるのでしょうか?本当は誤らなければならないのは人間の方なんです。と言うのは嘘で、誰も謝る必要も無いのです。もちろん神も当然で感謝されることはあっても、謝らなければ成らないようなことは神はしていません。もともと全ては一つなのですから。

また、すべての種が悟りの到達した後、
。。。。の循環が終わると神との対話に書いてありましたが、それはどういうことでしょう?

また、何十万の細菌やプランクトンに分霊化し、最初からやり直しなんてたまったもんじゃありません。 そうでないとしても、輪廻の最初の段階(本当の自分を極度の忘れまくった状態。魂が鉄ぺキのよろい で奥の奥に閉じ込められてる状態)に戻るだけは嫌です。

神と一体化した後は下に下がるのですか?(残忍な人間や動物に変わる?)嫌がおうでも?
下がるとはどういう状態になるの?
すべての種が悟りを得たら?その後は?
何億年先のことだろうと気になって仕方がありません。
先のことだから、どうでもいいとはなりません。
宇宙は崇高な輪でもありうると書いてありました。
でもありうるとは?
崇高でない部分も多いのか? 気になります。

 ひとつ考慮しなくてはならないのは、神と一体化したときは時間の無い世界にいると言うことなのです。それがどういうことか想像出来ますか?私には解りません。ただわかることもあります。愛の原則は「自由」なのです。その原則が変更になることは絶対にありません。ここで問題に成るのは、その時貴方が何を選ぶのだろうかということなのです。今どのように考えていたとしても、その時にはどうなっているのでしょうかねえ。今より何百倍も何千倍も理解が進んでいるはずだし、おそらく自分自身が創造主になって宇宙を作ると言う選択肢もありそうです。まあその時貴方が何を選ぶのか、今の貴方にも、神にも、そして当然ながら私にも全然解りません。

また、神は神でないものをジレンマしながら生みだす。
そうすれば、残りものは 本当の自分に目覚めるらしい(神との対話より)
これは一体いかなることでしょうか?神でないものとは?
宇宙が平和にならないと思いますが、、、

 「神との対話」にこのような記述があったかどうか記憶に無いのですが、もしあったとしてもその話の流れによるものだと思います。と言うのは、神は全てのものであり、全てのものは神の一部だということが、もっとも根本的な事実なのですから、神でないものなど存在しないのです。あえて「神らしくないもの」という意味で解釈した場合、それはそれで当たり前のことなのです。相対性の領域では「そうであるもの」があるということは「そうでないもの」があるということなのですから、ジレンマというより自然に出来てしまうと言うほうが正しいと思います。もちろん悪魔などは存在しないのです。あえて言えば、ある理解レベルで考えた場合に、自分達と同じ考えのものが「光の勢力」であり、そうでないものが「闇の勢力」だと考えたりするわけです。

 個人的に平和を望むものは平和に暮らしています。この平和という概念も今の地球の概念とは違うのですが、他人に影響されないでしっかりと自分自身をもっていれると言うのが、霊的な意味の平和なのです。それはあくまでも個人レベルの問題なのです。全体のレベルで平和を考えた場合、まだまだ未熟な人たちが多く、これからも人間の体験の無い天使たちが、人間として生まれてくることを考えると、平和である必要は無いのです。

 余談ですが、しっかりした自分を持たずに世間常識に流されてしまっている殆どの人たちは、霊的な意味では平和ではないのです。いつもこころが揺れ動いているのです。これはいっけん普通に何気なく暮らしている人もそうなのです。平和は世界情勢のことを言うのではなく、心の持ちよう、状態をいう言葉でもあるのです。(ちょっと話がそれたけど)

 私達の通常言う意味の平和の場合についてあえて書くと、まだまだ平和はこないし、体験が終わっていないので平和になるのは好ましいことだとは言い難いのです。これは視点を変えないと理解できないと思います。

また、 それに悪をわざわざ選ぶ魂もいるようですが、それも愛のために選ぶらしい。愛のために悪を選んで、も し、カルマが返ったらたまったもんじゃない!と思います。

 ここまで来ると、これについての答えは今までに出ています。真実は人により異なり、全ての人は自分なりの正義で生きているのです。それをなんと呼ぶのかは、呼ぶ人の勝手なのですが、それはあくまでも呼び方の問題でしかありません。

 カルマもその人次第なんです。少なくともカルマを認めたくないのなら、出来るだけ高いレベルの愛を理解するように努めましょう。もし死んだ後、誰かが何か言ってきても、愛を正しく理解していれば問題ありません。相手が愛の原則にそっているかで議論すればいいのです。(たぶんその必要はないかな)

 最後に書いておきます。私が今まで問題にした地球の宗教の神々も地球人をふかく愛しているのです。そして彼らなりに最善を尽くしているのです。ただ私から見ると思考的にはまってしまっているのです。そして忘れてはならないことは、絶対的な真実というものは存在しないのです。それは同時に全てのものが真実だということを意味しているのです。同じく、絶対的な善というものは存在しないし、それは全てのものが善でありうるということにもなるのです。

(2003/07/11)


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