明治の新暦が施行されるまで祭典の日程も6月12日〜
15日まで行われていましたが、新暦施行後は7月12日〜15日までとなり、12日は神事、13日と14日の夜には気賀の市街地(清水・上町)で出引とは違う屋台を出してそこで辻芝居が行われいました。14日の昼間・15日は現在と同じように14日に試楽(出引が清水・上町を行進)行われ、15日にお御輿が渡御をしました。

昭和30年代のお神輿の巡幸
神輿車がなく白丁が担いで巡幸
 いつ頃からこのようなお祭りが行われているか創建期頃の記録がないので分かりませんが、最古のもので延享5年(1748年)の記録では、お神輿が村々をお回りになることが御上から許可が下り復活するという事と祭事に対し、色々な心得が記されています。御領主の江戸勤番でないときに大祭を行い、勤番中は陰祭と称しお神輿の湖上渡御は行われませんでした。別の記録では御領主に不幸が続いた時に細江神社に祈願を込め湖上渡御が始まったとも記されています。御領主は、お神輿が還御に到るまで裃を着用し、書院にて正座して待っていたそうです。また、気賀の関所をお神輿が通過する際には関所の役人は下座して敬意を表したとも記されています。明應の大地震で角避比古(つのさくひこ)神社の御神体が漂着したのを聞き及ぶと新居の氏子達は多数参詣し、神輿を奉献し、延享5年には太鼓を奉納し、今なお現存しています。新居浜での豊漁の際には御礼参りと称し、気賀に上陸後、細江神社の道中で魚を撒き、里人は争ってこれを拾ったそうです。新居の人々は明治初年の祗園祭の最中に争い事があってから祭礼に来ることはなくなりました。
 日程も14日・15日と変わり、現在の2日間と同じようになりました。神社に還御する時間も15日にお御輿が還御したのでは御利益がないといわれ16日の午前零時を過ぎてからという遅い時間に還御していました。寸座の立神楽は小坂井に株を売ったとかでこの頃迄ありました。そして、祗園祭も戦時中の中断の時期を迎えました。
 戦後始まった祗園祭も昭和30年代になると除々に衰退し、今まで出引を出していたところも出さなくなり、清水・上町だけの参加となりましたが、逆にこのままではいけないという機運も盛り上がり、老ヶ谷を除いて現在出している地区すべて出引を出すようになりました。昭和49年の七夕豪雨で2年間中断があり、昭和50年代の初頭、船屋台を載せる団平船も川が浅くなったり、確保が難しくなったりして、現在は、二艘の組立船に船屋台を載せそれを弁天機械船で牽引する形となりました。これにより、館山寺の内浦湾へ行くことはなくなりました。当時西気賀の上陸地点五味半島には、現天皇陛下ご一家が静養に訪れることがあり、昭和52年だけご見学されましたが、この時は、五味半島に上陸して天皇陛下の見学が終わるまで飲酒の制限や嘗ての服装でもう被らなくなったイグサで編んだ鳥追笠を被るなどのことをしました。お神輿の還御の時間も警察の指導で早くなり、昭和50年代初頭まではPM10時、その後9時半・そして9時となり、日程も14日・15日から第二土・日そして第三土・日と変わり現在に至ります。
昭和40年代前半の
海上安全祈願祭
現在の海上安全祈願祭
昭和40年代前半
細江神社の参道を
駆け上がる出引