一般的に太鼓台と呼ばれているものは当地では出引(でびき)と呼んでいます。語源については不明です。向かって右側に大きな長胴太鼓(呉石・下村・中区は大締太鼓)左側に小さな締太鼓(呉石は小さな長胴太鼓)をおきます。(但し油田は逆で右側に小さな締太鼓・左側に大きな長胴太鼓)太鼓を隠すように全面及び側面に幕が張られ前面(嘗ては上町は両側面にもあった)には紋が入れられます。提灯の灯りは電源をバッテリーとし、提灯の中に電球が入れられ夜になると灯されます。下村など、リレーによって灯りを左の竹と右の竹の灯りを交互に点滅させ指向を凝らしたものもありました。いつ頃迄かは分かりませんが昔は蝋燭でした。提灯の色も赤・赤白・その混合があります。その他の飾りには全面には自地区名の入った(下村は寄付してもらった商店名・中区も同様でしたが今はない)小さな小田原提灯が並んでいます。また、中区を除いた地区の出引には自地区の名前が入った飾りをします。出引の行列には必ず、地区の旗が先頭につきますが、今では大人が持つことが多くなりましたが、自分達の頃は子供の仕事で先を争ってこの仕事をしようとしたものです。
 構成楽器は出引に取り付けてある太鼓の他に七穴七調子の篠笛とチャンリン(正式名称はチャッパ)と呼んでいたもので構成されています。(嘗ては全地区でありましたが、今ではチャンリンを使っているところは呉石・跡川・今は使ってないみたいですが中区でもありました。)曲は、馬鹿囃子(跡川・下村・中区は花拍子)・梅ヶ谷・本拍子・新拍子(上町・清水は六法・チャンリン)が共通のお囃子で同じ曲名でも、地区によって微妙に違います。また、区によっては俗曲(梅ヶ谷も俗曲ですが)も演奏しています。。また、跡川のようにこれ以外で独特のお囃子を持った地区もあります。本拍子・新拍子は2日目に自地区内を出引が通過する際に演奏し、テンポもゆっくりで難しい曲なので中には風化した地区もあります。馬鹿囃子(花拍子)はテンポが速くノリがいいので道中・湖上及びお神輿還御の際の奉納。梅ヶ谷は道中で演奏されます
 この辺りのお祭では、法被・股引・腹掛・鯉口シャツが一般的ですが、当地では浴衣を着用し、地区によって色分けされたタスキをつけ、下駄を履いています。(白地の地下足袋も使う地区がある)参加する年代も18歳〜25歳くらいまでで自分が現役の時代は、浴衣も白地に紺色の柄が一般的でしたが、今ではカラーが主流で華やかになってます。でも父親の写真を見るともっと柄が派手だったようです。タスキの色も地区によって色分けし、それが代々続いているのでタスキの色を見ればどこの地区の人間かすぐわかるのでいい識別になりました。タスキの色は、地区別ではっきりと色分けしてもらいたいものです。今はほとんど被られなく(清水区・上町区では土曜日のみ)なりましたが、昔は当地の特産物のイグサで編んだ鳥追笠を被っていました。
 東西に長い氏子の範囲ですので出引の引き廻しに対して交通を円滑化するために上町区以西の出引を出す地区(呉石・跡川・下村・中区)では自地区から細江神社に集合する際及び細江神社から自地区へ解散する際は出引をトラックの荷台に載せ集合したり、解散したりします。もし、引いて帰ったりすれば一番西の中区では1時間〜1時間半ぐらい遅くなるでしょう。
出引(でびき)
先頭に立つ地区の旗
チャンリン(チャッパ)
浴衣とタスキの装束
鳥追笠
トラックで移動する出引
 今では見られなくなりましたが、初宮氏子祈願祭を終えた子供をお姑さんが抱き、お嫁さんは、前面に布を垂らした母衣傘と呼ばれている和傘を日除けにさし、祗園祭の行列に加わりました。また、お神輿の湖上渡御に際しても母衣船が用意されていてそれに乗って行くことも出来ましたが、実際に乗ったのは、自宅に帰る便のいい西気賀地区の方達だけだったみたいで、多くはそこで行列から離れました。
 御神輿を乗せる神輿車ですが、湖上渡御の際には陸路で御神輿の上陸先であるプリンス岬迄移動します。都田川で御神輿を降ろしてから御神輿が上陸先に到着する限られた時間と炎天下の中での重労働ですが、なくてはならない大切な役目だと思います。
湖岸を行く神輿車
 祗園祭にも、細江神社の境内及び沿道に様々な露店が出店され祭に華を添えていますが、その中で各地のイベントでも出店されている定番のお店以外に、もう長い間出店されて馴染みの深い通称「わらびもち屋」さんがあります。一番低価格なものはルーレットを回し、その数で量が決まり、三角の紙袋に楊枝と共に添えられます。ここのわらびもちは移動販売や店舗で購入するわらびもちとは、お祭の日に食べるからでしょうか、ひと味もふた味も違うような気がします。
このお店のわらびもちは祗園祭の名物ともいえる一品です。
 名物わらびもち屋さん