はやし浩司
ドラえも〜ん・野比家の子育て論(創芸社)
はじめに……
「ドラえもんで子育て論が書けるかって?」……私が「書いている」と言うと、皆がそう言いまし た。「あのようなメチャメチャな世界のどこに?」と。そうです、ドラえもんの世界は、まさにメチャ メチャ。時間も空間もありません。しかし、ドラえもんの世界には、藤子・F・不二雄氏というすば らしいコミック作家の、世界が生きています。誰をも感動させる、すばらしい世界です。もちろん そこには、藤子・F・不二雄氏の、子どもたちにたいする熱い思いが、織り込まれています。そ れを私という一幼児教育家の目をとおして書いたのが、この本、『野比家の子育て論』です。 第一章 のび太論・子どもたちよ、がんばれ サラッと読めば、コミック。 深く読んでも、コミック。 なんでもない、一コマ一コマに、 子育ての秘密が隠されている。 子どもたちよ、がんばれ! そんな思いで書いた、第一章、 『のび太論・子どもたちよ、がんばれ!』 テスト あなたは、ドラえもんについて、どの程度、知っているでしょうか。まずテスト。 Q1「ドラえもんは、何者か」 ・ネコ型ロボット ・進化したネコ ・ネコ型宇宙人 Q2「ドラえもんの色は、何色か」 ・緑色 ・青色 ・決まっていない。 Q3「のび太の家族は何人か」 ・ドラえもんを入れて、四人 ・ドラえもんを入れて、五人 ・ドラえもんを入れて、六人 Q4「パパの職業は何か」 ・現場労働者 ・科学者 ・会社員 Q5「ママの職業は何か」 ・専業主婦 ・キャリアウーマン ・パパと共働き Q6「野比家は、どんな家か」 ・マンションの一室 ・郊外の住宅地にある一戸建て ・都心の商業地にあるビル Q7「のび太の成績は?」 ・たいへん優秀な子ども ・成績は平均的 ・勉強も運動もまったくダメ Q8「のび太は、何年生か」 ・小学四年生 ・小学五年生 ・小学六年生 Q9「ジャイアンという少年は、どんな子か」 ・いじめっ子 ・体の大きな、やさしい子 ・のび太のめんどうをみる、中学生 Q10「ドラえもんは、誰の作品か」 ・藤子・F・不二雄 ・藤子不二雄A ・はやし浩司 正解は、順に、 【全問正解のあなた】 あなたは、子どもの世界をよく知っている人です。あなたは、あなたの子どものよき友。この 本を読んで、あなたはますます、すばらしい親になるでしょう。そしてあなたは、ますます子ども に尊敬されるようになります。 【全問まちがえたあなた】 あなたはあまりにも、子どもの世界を知らなさすぎる。おおいに反省してください。この本を読 む前に、コミック『ドラえもん』の・巻・巻だけでもよいから、まず目を通しておいてください。 第1話、のび太の世界 のび太 のび太は、小学五年生。誕生日は、昭和三九年(一九六四年)八月七日(・巻五一頁)。その のび太が、・巻の冒頭にある『テストにアンキパン』の中では、かけ算の学習をしている。 ドラえもん「2になにをかけたら、6になる」 のび太「3だ」 ドラえもん「そら、できた」 つまりそれまでの、のび太は、その程度の計算もできない。ドラえもんの力を借りて、やっと そこまでできるようになる。しかし小学五年生で、かけ算とは……? 現在、かけ算の九九は小学二年生の後半で学習することになっている。小学三年生では、 二〜三桁かける一桁のかけ算。小学四年生では、数桁かける数桁のかけ算。さらに小学五年 生では、小数どうしのかけ算を、学習する。その進度からみても、のび太の学力は、かなり… …?。そこで子どもたち(小学四年生)に聞いてみると、「のび太は、落ちこぼれ!」という返事 がかえってきた。「テストは、いつも〇点だよ」と。 そこで調べてみると、(42)巻にこんなシーンがあるのがわかった。のび太はこう言っている。 「喜んでくれ。こないだのテストで、〇点!!……だってさ、これまでぼくは、五回に一回のわり あいで、〇点を取っていたんだ。今度は、九回続けて、点を取ったんだ。わずかだけど、一〇 回目の〇点は、ひさしぶりなんだぞ」(六七頁)と。 しかしテストで〇点を取るというのも、難しいことだ。メチャクチャ書いても、偶然、それが正解 だったりして、数点はとれる。全部、わざとまちがえて答を書くというのは、一〇〇点をとること よりも、ひょっとしたら難しいかもしれない。……というようなことを子どもたちに説明すると、子 どもたちは、こう教えてくれた。「のび太はいつもテストのとき、居眠りしているんだよ。だからな にも書かないんだよ」と。なるほど。それなら〇点になる。 のび太がそうであるかどうかという議論は別にして、今、ふつうの学校のふつうのクラスでも、 テストでいつも〇点という子どもは、二〇〜三〇名に、一人前後はいる。授業態度も散漫で、 先生の話など、まるで聞いていない。ノートといっても、落書きノートで、宿題もほとんどしてこな い。……できない。のび太のようにいつも居眠りをしているというのは、珍しく、たいていはいつ も教室の中で、騒いでいる。授業そのものを破壊することもしばしばである。ぼんやりしていて くれたほうが、教師としてはまだ教えやすい。中には授業中、フラフラと外へ出ていってしまう子 どももいる。 が、のび太は人気者だ。そう思って、再び子どもたちに聞くと、全員が、「のび太なんか、大嫌 い!」と。私はこの意見には驚いた。のび太は、ドラえもんと並んで、コミック『ドラえもん』の主 人公ではなかったのか。そこで私は、改めて、人気度を調べてみた。 ドラえもん ……一〇〇%、好き。一五名の全員が、「好き!」と手をあげた。 のび太 ……一人の子どもを除いて、一四名の子どもが、「嫌い!」と手をあげた。その一人と いうのは、のび太のように、勉強がまったく苦手な子どもだった。そこでその子どもに、「君はど う思っているか」と聞くと、「ぼくは、わからない」と。 しずかちゃん…… 六〇%、好き。男子は好き・嫌いが半々ぐらい。女子は全員「好き」と答え た。 スネ夫、ジャイアン…… 全員が、「嫌い!」と手をあげた。 『ドラえもん』は、そういう意味でも、わかりやすいコミックだ。悪人は悪人らしい名前、善人は 善人らしい名前がついている。落ち目のタレントの名前が、「落目さん」(・巻一一四頁)であっ たりする。つまり名前だけ見れば、その人がどんな人物であるか、だいたいわかるようになって いる。しかしのび太が、そこまで嫌われているとは、私も知らなかった。のび太は「伸びる」の 「のび太」ではなかったのか。そこで子どもたちに、どうして嫌いなのかをたずねると、いろいろ な答がかえってきた。 「眠ってばかりいる」 「バカだ」 「頭が悪い」 「いつも泣いている。泣き虫」 「小さいころは、頭が良かったんだけど、小学三年や四年生になったとき、勉強が嫌いになっ たんだよ」 「音痴で、ドジで、まぬけで、のろまで、泣き虫で、あほ」 「運動神経も悪いよ。五〇メートル走るのに、一五分もかかるんだよ。逃げ足だけは、はやい けどね」 「昼寝ばかりしていて、勉強しない」 「先生に叱られてばかりいる」 「ドラえもんがくれる道具ばかりに頼っている」など。 のび太にたいする評価は、きわめて低い。特に、最後の「道具ばかりに頼る」という意見が強 かった。のび太はなにか困ったことがあると、そのつど、ドラえもんに助けを求める。ドラえもん はそれに応じて、いろいろな道具を出して、のび太を助ける。それが『ドラえもん』の基本だが、 しかしやがて、のび太のほうから、積極的に道具を求めるようになる。たとえば(34)巻を見て みよう。この中では、のび太のほうが積極的に、ドラえもんにいろいろな機械や道具を求めて いるのがわかる。 のび太「ドラえも〜ん。火事や交通事故を見る機械を出して」 ドラえもん「なんだ、そりゃ」 のび太「みんな、おもしろい事件を見ているのに、ぼくだけ見たことないんだよ」(二六頁) のび太「ドラえも〜ん。写真みたいな絵のかける道具を出して」 ドラえもん「そんなのつまんないよ。写真みたいな絵がほしければ、写真をとればいいんだ」(四 六頁) 『ドラえもん』では、道具のおもしろさが、コミックの柱になっているため、道具を否定すること はできない。ドラえもん自身には、ほとんど「パワー」はない。道具を使ってはじめて、ドラえもん はパワーを発揮する。しかしその道具には際限がない。まさに手当たりしだいといった感じ。た とえば同じ(34)巻のほかのシーンでは、『雲かためガス』を使って、雲をかたくする。次に、タ ケコプターで、その雲にのり、そこで『うき水ガス』を使って、雲の上に泉をつくる。さらに『自動 万能工事マシーン』なるものを使って、神殿をつくる……、など(一六〇頁)。こうして書き出した ら、キリがない。この(34)巻だけでも、ほぼ全編で、約二五種類以上の、新装置や、薬品が 登場する。のび太は、その道具に頼りすぎる。 ついでながら、藤子・F・不二雄氏自身がのび太について、述べているところがあるので紹介 する。のび太は自分の履歴書を、未来から取り寄せる。それには次のようにある((42)巻一 八九頁)。 「野比のび太……野比玉子の長男。勉強もスポーツも苦手。おっちょこちょい。弱虫で、ノロ マ。高校は、もののはずみで、合格。大学は、一浪ののち、補欠入学……」と。 学習障害児 のび太はテストではいつも〇点。しかも五年生で、かけ算を、理解していない! どの程度、 理解していないかについては、詳しく描いてないのでわからないが、コマに描かれた様子から 見ると、どうやらかけ算の九九そのものが、まだ頭に入っていないようだ。のび太は(2x□= 6)が、やっとできる。もしそうだとすると、算数の世界では、致 命的だ。かけ算の九九がわかっていないと、小学三年で習う割り算がわからなくなる。この割り 算でつまずく子どもは多いが、その割り算でつまずくと、その影響はあらゆる分野におよぶ。子 どもは(できない)→(わからない)→(逃げる)→(できない)→……の底なしの悪循環におちい る。 こう書くからといって、のび太がそうであると言っているのではない。のび太はあくまでもコミッ クの主人公。いわば架空の少年である。架空ということは架空であって、またそれだけにコミッ クの中では誇張して描かれている。しかもいくらコミックの中の人物であるといっても、人権 (?)というものがある。つまりのび太がそうであるかどうかという問題は別にして、学習の進度 に問題のある子どもを、学習障害児という。不愉快な言葉にはちがいない。だいたいにおい て、「障害児」という言い方がおかしい。基準もあいまいだし、しかも教師側の一方的な視点か ら見た判断にすぎない。 ところで学校の先生というのは、(私はその学校の先生ではない、念のため……)、こういう 言葉を好んで使う。使いたがる。そして自分たちにとって教えやすい子どもを「ふつうの子ども」 とした上で、そうでない子どもを区別する。そして責任逃れをする。「問題は子どもの側にあっ て、私のほうにはない」と。この「障害児」という言い方の中には、そんなニュアンスが隠されて いるように感ずるが、以前は、境界児とか、遅進児とか言った。要するに「学習面で問題のあ る子ども」、もっとわかりやすく言えば「勉強のできない子ども」ということだが、最近ではさら に、「LEARNING DISABILITY (学習障害 )」を略して、LDと言うようになった。ただ「障害」といっても、その内容は、今も言ったようにき わめてあいまいなものだ。一応下位五%前後の子どもについて、まずその疑いがかけられる が、しかし下位五%という基準そのものが、はっきりしない。何を基準にして、どの程度というこ とになると、これがわからない。しかし実際、LDと呼んでもおかしくない子どもは、いるにはい る。私が印象に残っている子どもにKD君というのが、いた。 KD君が最初に私のところへやってきたのは、彼が年長児になったときのことだった。当時私 が、制作に協力していた雑誌の愛読者だというので、それでつい、引き受けることにしてしまっ た。「つい」というのは、そのあと、それだけたいへんだったということ。席についても、彼は、私 のほうをまったく見ようともしなかった。鉛筆の先で、爪の先をほじってばかりいた。そればかり ではない。KD君は、いわゆる『満腹症状』を示していた。 満腹症状というのは、ちょうど満腹の子どもに、料理をさしだしたときの症状に似ていること から、そう言う。「勉強はもう、うんざり」といった様子を見せる。そしてちょうど料理を食いさすよ うに、おいしいところだけをチョイチョイと食べて、あとは捨ててしまう。こういう状態になると、教 えるという行為そのものが、無駄になる。教えても教えても、教えた内容がそのままどこかへ消 えてしまう。ふつうの子どもなら笑ったり、喜んだりしてくれるようなところでも、反応しない。KD 君の場合も、気が抜けたような表情で、やはり爪をほじってばかりいた。もちろん叱っても意味 がない。叱ると、一瞬、まじめなフリをするが、それはあくまでもフリ。原因は母親にあった。母 親はKD君に、そのときでも毎日、数時間もの個人レッスンをしていた。 私はそのKD君を、女房の遠い親戚にあたるということで、以後、九年間、教えた。しかし私 には長い、九年間だった。苦闘の連続といっても、過言ではない。しかも悪戦。少しできるよう になれば、母親のほうからは、「もっと、もっと」と言われるし、それこそ〇点をとってくれば、「こ こも、あそこも……」と指示される。私も、ふつう程度の月謝をとっていれば救われたが、親戚 ということで、月謝は半額。終わりごろには、四分の一になっていた。KD君が帰るたびに、私 は「もうヤメタ!」と、なんど叫んだことか。たとえば……。二時間かけて、やっと英語の単語 を、三つぐらい書けるようになったとする。カードを使ったり、テープレコーダを使ったり。あるい は、紙に英語の文字を書いて切り抜いたり、など。私のところは、小学校の高学年児の場合、 教室といっても、当時は一クラス数名の教室だったが、それでも私はKD君にかかりっきりにな ってしまう。で、やっと単語を三つぐらい書けるようになったとする。しかし、である。次にくるとき には、その三つを、きれいに忘れてしまっている! そればかりではない。KD君のように悪名 高い(?)子どもがいると、ほかの子どもたちが教室をやめてしまう。「あのKD君と一緒のクラ スはいやだ」とかなんとか。子どもたちには、子どもたちのプライドというものがある。が、私 は、それでも教えた。それはもう男の意地のようなものだった。 このKD君のどこに問題があるのか。あるいはあったのかということになると、九年間つきあ ってみた結果でも、私にはわからない。ただ言えることは、脳の構造そのものがちがうのでは ないかということ。もう少し言えば脳の論理回路が、頭の中でつながっていない。コンピュータで いえば、キーボードと本体は一応つながっているものの、本体の中に配線そのものがない。あ るいは配線がなんらかの理由で混乱していて、情報が適切に格納されていかない。たとえばこ のタイプの子どもは、足し算のあとに引き算を教えたりすると、足し算と引き算の区別そのもの がつかなくなってしまう。となると教える方法がないのかということになるが、ないわけではな い。ないわけではないが、原因は何かと言われれば、それ以前のことを考えなくてはならない。 たとえば乳幼児期に、当然作られるべき論理回路がじゅうぶんに発達しなかったためというこ とが考えられる。あるいは無理な過干渉や、強制的な知識の詰め込みが、論理回路を混乱さ せたためということも考えられる。そんなわけで教える前に、脳の配線そのものを、なおさなけ ればならない。ただ単に「頭がよい」とか「悪い」というよう言い方で片づけることはできない。 この学習障害児について、「ふつうの生活をするには支障はないが、学習進度に著しい遅れ が見られる子ども」というような定義がなされている。ここでいう「ふつう」という言葉が、クセ者 である。実際このタイプの子どもは、外見からはふつうに見える。ふつうの生活ができる。ふつ うの生活ができなければできないで、また別の対処のし方もあるのだろうが、ふつうの子どもと して、周囲の者が無理をする。その無理が、このタイプの子どもを、ますます悪いほうに追いや る。 のび太が、その学習障害児にあたるかどうかは、先にも書いたが、ここでは議論しない。ま た議論しても意味がない。先にも書いたが、のび太はあくまでも架空の少年でしかない。それ にのび太の場合は、なんらかの理由で、この時期、学習に対する意欲をなくしてしまっているだ けなのかもしれない。実際、そういう例は多い。能力的には問題がなくても、なんらかの理由で 学習に対する意欲をなくしてしまい、無気力になってしまう子どである。症状的には、学習障害 児と呼ばれる子どもと、区別することは難しい。のび太のそれ以前の様子がよくわからないの で、またテストでどうして〇点ばかり取るようになったのか、それがよくわからないので、ここで はあくまでも(?)としておく。のび太には、藤子・F氏が作家として意図した性格や知的能力が 混在しているので、当然のことながら、あのKD君と同列に置いて考えることはできない。 尺度論 では学習障害児と呼ばれる子どもには、夢も希望もないのかということになる。しかし実際の 現場では、このタイプの子どもでも生き生きと、楽しそうに学校生活を楽しんでいる。苦手なの は勉強というだけで、ほかのことでは支障はない。このことも先に書いたが、私はむしろ、学習 障害児という言い方そのものに、疑問を感じる。第一に、勉強ができない子どもを学習障害児 というのはわかるが、その「学習」とは何かということになると、それがよくわからない。 そこで登場するのが、「尺度論」である。子どもの能力を知るには尺度が必要だが、その尺 度を変えると、当然、子どもの評価もまたちがってくる。たとえばかけ算にしても、オーストラリ アでは、中学一年生で、二桁かける二桁のかけ算を学習している。日本ではそれを小学三年 生で学習することになっている。つまり、「日本」という尺度でみるなら、のび太はたしかに落ち こぼれだが、しかし「オーストラリア」という尺度でみるなら、落ちこぼれでもなんでもない。 こう書くと、オーストラリアのレベルは低いと思う人がいるかもしれないが、それはオーストラリ アの実情を知らない人が言うことだ。たとえば日本では算数・国語・社会・理科の四教科が教 育の柱になっているが、オーストラリアでは、科目数そのものが多い。料理、演劇、工作など が、それぞれが独立した一つの科目になっている。外国語にしても、フランス語、インドネシア 語、日本語などの講座がある。日本の教育より、はるかに幅が広いし、南オーストラリア州で は、小学一、二年生の間は、教科書すらまったく使っていない。 が、日本には日本の尺度がある。日本に住む以上、この日本の尺度を無視することもできな い。しかし、無批判に、その尺度を受け入れてしまってよいものかどうか。日本の尺度といって も、もちろん神様が決めたわけではない。現場の教師たちが、決めたわけでもない。いつか誰 かによって決められ、多少の改変はあったものの、それが今に伝えられている。ではその尺度 とは何か。ズバリ一言で言えば、こういうことになる。 「皆が一〇〇点でも困る。差がつかないから。しかし皆が〇点では、もっと困る。差がわからな いから」と。 日本の教育は、全体として、子どものためになっていない。世界の教育の流れは、「子どもた ちが社会へ出てから役にたつ知識や知恵を教える」という方向に向かっている。またそれが常 識になっている。しかし日本では、「人間選別」の基準として、教育が使われている。でないとい うなら、なぜ、中学一年生で、方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか、それを説明で きる人はいるだろうか。もしこれからは宇宙時代だから、小学三年生で方程式を学ぶことが必 要だということになれば、小学三年生で方程式を学ぶようにすべきではないか。あるいは方程 式が必要だとしても、それを高校三年生で学んだところで、遅くはない。しかし実際には、中学 一年生で、方程式を学ぶ。高校三年生で、微分・積分を学ぶ。誰が、決めた? だいたいにお いて、その方程式は、実際の生活でどのように役立つのか。私など文科系の学生だったという こともあって、大学を卒業後、微分・積分はおろか、方程式なるものを、実際の生活の場で使 ったことなど、この三〇年間で、ただの一度もない。 だったら、オーストラリアのように、中学一年生で、かけ算をすればよい。あわてて小学二年 生で教えることもない。つけ加えるが、南オーストラリア州では、小学三年生からコンピュータ の学習を授業の中でしている。私が見たのはボーダータウンという人口数千人足らずの小さな 田舎の小学校だったが、そんなところでもしている。しかももう一五年以上も前から! 言うまでもなく、こういうことだ。「中学校でかけ算をすれば、皆が一〇〇点になってしまう。こ れでは困る。差がつかないから。しかし小学三年生で方程式を教えることもできない。皆が〇 点になってしまう。これはもっと困る。差がわからなくなってしまうから」……つまり日本の教育 は、明らかに人間選抜の基準として利用されている。そしてその範囲から一歩も出られないで いる。 考えてみれば、こういうイビツな教育を教育と思い込んで、それを金科玉条のごとくありがたく 思っている教師や親。それに子どもたちは不幸だ。そしてその尺度で、落ちこぼれだの、優秀 だのと言っている日本人は、不幸だ。 この尺度論そのものがテーマというわけではないが、・巻には、こんな興味深い物語がある。 いつも居眠りばかりしているのび太が、『もしもボックス』を使って、世界を逆転させるという物 語である(四五頁)。『もしもボックス』というのは、「もしも、こんな世界があったなら……」という 世界をつくる機械のことだと思えばよい。その中で、のび太は、ふつうの世界を「眠れば眠るほ ど偉い」という世界に変えてしまう。すると今まで怒ってばかりいた先生が、次のように言いだ す。 先生「偉い! 君はよく、そんなに眠れるなあ。それにひきかえ、みんなは勉強ばかりしてい る! 少しはのび太を見ならって、居眠りしなさい。みんな廊下で、反省しろ」 これはあとで述べる「あべこべ」の世界をテーマにしたものだが、「居眠りができる子どもほど 優秀」という世界では、のび太のような子どものほうが、かえって優秀児ということになる。尺度 を逆転させると、子どもの見方も一八〇度変わるという例だが、こういう例は現実の世界にも ある。たとえば戦時中、平和論を口にすれば、子どもでも容赦なく非国民として非難された。反 対に今、この平和時に、好戦論を口にすれば、変わり者としてあつかわれる。もっと身近な話 としては、こんな例もある。 今、勉強しかできない、勉強しかしないような変わり者の子どもほど、スイスイと一流大学 (?)へ入学したりする。またそういう子どもでないと、入学できない。こう書くと、高学歴の私の 知人や友人は激怒するかもしれないが、しかし事実は事実だ。確かに「勉強」という尺度で見 ると、こういう子どもは優秀かもしれないが、しかし本当にそういう子どもを優秀と言ってよいの か。東大の副総長(総長特別補佐)をしたこともあるM名誉教授は、こっそりと私にこう教えてく れた。「東大へ入ってくる学生のうち、三分の一は、ふつうではない」と。「実験中に、突然、理 由もなく試験管を床にたたきつけて割ってしまうのもいる」とも。 そこまでひどくなくても、はげしい受験競争を経験した子どもほど、ものの考え方がドライにな ることがわかっている。またそういう子どもでないと、この激しい受験競争を勝ち抜くことはでき ない。功利的、かつ利己的。勝った負けたはあたりまえ。他人を蹴落としてでも自分だけは… …という世界で、少年期を送れば、そうならないほうがおかしい。こういう世界で、思いやりや、 やさしさを口にすれば、かえって変人とみなされる。一人、「受験勉強なんてくだらない」と言っ て、受験勉強そのものを放棄してしまった子ども(中三)がいる。理由を聞くと、「皆は、内申書 の点をよくするために、先生の機嫌ばかりうかがっている。ぼくはそんなことまでしなければ、 よい(?)高校へ入れないというのなら、行かない」と。しかしそういう子どもにたいする世間の 目は、きわめて冷たい。親や先生ですら、彼を「馬鹿」と決めつけてしまった。しかし本当は、ど ちらが変人なのか……。そしてどちらが本当は、馬鹿なのか……。 そうそう、役にたつ知識という点では、学校の教科書より、『ドラえもん』のほうがずっと、役に たつ。一つの例として、・巻を考えてみる。この中には、『自動質屋機』(八九頁)、『未来小切手 帳』(一五二頁)などが出てくる。私は法科の学生だったが、大学へ入るまで、質屋というもの がどんなものであるか、知らなかった。小切手にしても、大学を卒業してから、はじめて見た。 世間知らずと言われれば、そのとおりだが、しかしそういう「知識」はなくても、大学は卒業でき た。その小切手について、ドラえもんはのび太に次のように教えている。 のび太「コギッテ? なんだ、そりゃ」 ドラえもん「ここんとこへ、必要な金額を書いて、サインをすれば、なんでも買える」 のび太「サインだけで?」 ドラえもん「そう。と、言っても、(買うのは)雑誌、一冊だけでやめとけよ」 そこでのび太はママにところへ行って、こう聞く。 のび太「ママ、小切手って、どんなもの?」 ママ「銀行に貯金のある人が、いちいちおろしに行かなくても、小切手を書けば、受け取った人 が、銀行へ行って、お金にするのよ」 のび太「貯金がないと、だめなの?」 ママ「あたりまえでしょ。お金がわいてくるわけじゃないし」 私はこういうシーンを見るたびに、どうして学校でこういう知識を教えないのか、不思議でなら ない。たとえば英語にしても、英語の文法学者をめざすには、日本の英語教育はすぐれている が、その文法学者になる子どもは一体、どれほどいるというのだろうか。数学にしても、しか り。数学者をめざすには、日本の数学教育はすぐれているが、その数学者になる子どもも、や はり一体どれほどいるというのだろうか。学校で学ぶ英語にしても、数学にしても、実社会で は、ほとんどといってよいほど、役にたたない。 少し話が過激になってしまったが、要するに、子どもをみる尺度というものは、国や時代によ ってもちがうということだ。そして日本の尺度が、必ずしも絶対的なものではない。それをわか ってもらいたいため、あえて、ここで尺度論をとりあげた。つまりものの尺度を変えれば、子ど もの見方も変わってくるということ。この尺度は、教師によってもちがうし、当然、親によっても ちがう。私はここで日本の教育を、痛烈に批判したが、いつもそんなふうに考えているわけで はない。日本には日本のよさもある。それまで否定しているわけではない。そこで一句。 ●子どもらを 見る目も変わる 尺度論 私の母は、いつも「上見てきりなし、下見てきりなし」と言っていた。子どもは「下から」見る。 「下を」見ろというのではない。下から見る。ある父親は、子どもを水難事故でなくしかけた。彼 の息子が助かったのは、奇跡中の奇跡。それ以後、その父親は、子どもになにか問題がおこ るたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思いなおした。その父親というのは、私のことだ。こ こでいう子どもとは、次男のことだ。私の場合、そう思うことですべての問題が解決した。次男 は登校拒否をおこしそうになったこともある。大学受験の最中だというのに、作曲コンテストの 応募作品づくりに没頭していたこともある。しかしそのつど、「生きていてくれるだけでいい」とい う尺度で思いなおすだけで、私は次男を温かく見守ることができた。 そんなわけで、子育てで行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほしい。「子どもは下 から見る」と。 さて、のび太に話をもどそう。のび太は子どもたちが言うように、確かに「落ちこぼれ」だ。藤 子・F氏も、そういう前提でのび太を描いている。・巻・巻にはそういうシーンはないが、この先、 のび太が〇点を取る話は、常識となる。が、それはあくまでも、テストという狭い世界での、評 価にすぎない。が、人間的な温かさという尺度で見るなら、少なくとものび太はけっして、落ちこ ぼれではない。落ちこぼれかどうかということは、あくまでも尺度の問題にすぎない。 顔つき 飼い主は、犬の顔に似ると、昔から言う。犬は、飼い主の顔に似ると言う人もいる。どちらに せよ、飼い主と犬は、よく似るということだが、私もそう思う。・巻の中でも、正直太郎が、ブルド ックを連れた女性を見ながら、「やっ、そっくり親子じゃないかしら」と言うシーンがある(六二 頁)。正直太郎というのは、なんでも正直に言ってしまう人形のこと。・巻にも、ドラえもんが、 「昔から言うだろ。ペットは飼い主に似てくるって」と言うシーンがある(五七頁)。しずかちゃん は、チッチという文鳥、(あるいはピー子というカナリヤ)。ジャイアンは、ムクという犬(あるいは デカという犬)。スネ夫は、チルチルという猫、(あるいはアンナというシャム猫)を、それぞれ飼 っている。ここで「あるいは」というのは、そのつど、変わるということ。のび太は、ママが大の動 物嫌いのため、ペットは飼っていない。 その「似る」という話だが、それと同じように、最近私は仲のよい夫婦ほど、よく似ていると、つ くづく思うようになった。仲のよい夫婦ほど、ものの考え方から趣味まで、似てくる。歳をとれば とるほど、そうだ。たいてい服も妻のほうが買いそろえるため、色調やデザインまで似てくる。 時々、レストランなどで、そういう夫婦をみかけると、思わず吹きだしてしまう。つい先日も、そう だった。よいほうに似ているならまだしも、悪いほうに似ていたからだ。二人とも髪の毛はボサ ボサ。二人とも同じような色づかいの、同じように趣味の悪い服装をしていた。 そういうことを意識してかどうかは知らないが、『ドラえもん』の中に出てくる夫婦は、それぞれ よく似ている。のび太のパパとママ。ジャイアンの父ちゃんと母ちゃんは、それぞれ、たいへん よく似ている。親子で言えば、スネ夫の母親とスネ夫は、そっくりだ。 子どもの場合、似るといっても、遺伝子そのものが似ているので、輪郭や顔つきが似る。・巻 には、のび太の子どものノビスケが出てくるが、母親の「静香」ですらも見分けがつかないほ ど、のび太とノビスケはそっくりである(一六四頁)。しかし本当に似てくるのは、思春期をすぎ てからで、おとなの顔になったときだ。本人どうしはそうでないと思っているかもしれないが、他 人が見ると、それがよくわかる。それは当然のことだが、しかし子どもの顔つきに影響を与える のは、親でもなければ、生活でもない。日ごろの「思い」が、影響を与える。 ある女の子(小六)は、いつも不満そうに口をとがらせている。横から見ると、上くちびると、 下くちびるが、外へつまみ出したようになっている。そこでなん度となく注意するのだが、まるで 効果がない。本人にとっては、それがふつうの状態なのだ。日常的に欲求不満が続くと、そう なる。 また別の女の子は、小学五年生になるころから、肩をいからせて歩くようになった。人を見る ときも、伏目づかいになり、時に横目でジロッと相手をにらみつけることもある。いわゆるツッパ リ症状だが、ツッパリ症状は一度出ると、簡単にはなおらない。生活が、荒れると、子どもはそ うなる。 またある男の子(小六)は、六年生になるというのに、幼稚っぽいしぐさをみせるようになっ た。体をよじらせて、甘ったるい言葉で話す、など。そしてカバンの中から、ボロボロになった漫 画の本を取り出して読んでいた。私が「何の本だ」と声をかけると、「どうせ読んではだめだと言 うんでチョ。だめだと言うんでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりの症状だが、おとなに なることに恐怖心をもつと、子どもはそうなる。原因は彼の父親にあった。父親は、ことあるご とに「中学校はきびしいぞ。中学校へ入ると、毎日、五、六時間は勉強しなければならないぞ」 と、その子どもを脅していた。 ほかに、子どもがオドオドするのも、ソワソワして落ちつかなくなるのも、原因はといえば、た いてい家庭環境にある。私たちはプロだから、それがわかるが、親にはわからない。それとな く指摘しても、「そんなはずはない」で終わってしまう。こんな例もある。 SB君は、中学校へ入ってから、精神的に荒れはじめた。原因はともかくも、合わせて、ここ で述べたようなツッパリ症状も出てきた。この種の症状は、他人が見れば、すぐわかるものだ が、親にはわからない。毎日、接していると、その変化がつかめない。そして三年後。いよいよ 高校入試というときになって、面接を受けることになった。しかし面接で、ツッパリ症状が出る と、決定的にまずい。いくら成績がよくても、たいてい不合格になる。私はそれを心配したが、 親は「うちの子には、問題はありません」の一点張り。そして案の定、SB君は、落ちた。が、問 題はそのあと、おきた。両親が、「自分たちが在日朝鮮人だから落とされた」と騒ぎはじめた。 そして私のところへきて、裁判での証人になってほしいと頼んだ。しかし私は断った。断りなが ら、「ツッパリ症状が出たのでは……」と言ってしまった。が、この一言がSB君の両親を激怒さ せた。今度は攻撃のほこ先を、私に向けてきた。SB君の両親は、次々と、彼らの友人という 人たちを連れてきて、「皆が、うちの子はふつうだと言っている。先生、あなたも、それを認めて ほしい」と迫った。 さて『ドラえもん』を見てみよう。そこにはのび太のほか、ジャイアンと、スネ夫。それにしずか ちゃんなどがいる。・巻・巻にはまだ出てこないが、出来杉君というのもいる。ともかくも、ここで のび太たちの顔つきについて考えてみたい。こういうことはコミックの主人公たちだからこそ、 できる。実際の子どもについて書けば、それこそ、人権侵害で訴えられかねない。 のび太、本名は野比のび太……丸顔で、メガネをかけている。目が小さくなっているから、近 視用めがねか。表情は豊かで、反応はにぶい。気になるのは、眉毛と髪の毛が接近している ということ。額が狭い。ドラえもんファンの子どもたちは、「のび太はいつも眠っている」と言う が、・巻・巻では、そういうシーンはどこにもない。むしろ快活な子どもといった感じがする。「ど うせぼくは頭が悪いからね」(・巻一三二頁)というシーンはあるが、落ちこぼれて困っているシ ーンは、どこにもない。しいて言えば、落ちつきがなく、いつもソワソワしていることか。いつも周 囲の状況に流されるまま、流れている。 ジャイアン、本名は剛田武(タケシ)……父親の職業は、八百屋。・巻には、一か所、ジャイア ンの家の中の様子が描かれているところがある(一三九頁)。そこでは彼の家は、かなり貧しく 描かれている。障子はやぶれ、父親のズボンには、つぎはぎがしてある。みすぼらしい長屋の 一室といった感じだが、実際には、二階建て。詳しくは・巻の一〇八頁に、描かれている。ジャ イアンにはほかに母親と、ジャイ子という妹がいるが、・巻・巻では、まだ登場しない。雰囲気と しては、父子家庭。こういう家庭環境が、ジャイアンをして、いじめっ子にしているのかもしれな い。ジャイアンは、内にたまった欲求不満を、いじめるということで解消させている。少し短絡的 な見方かもしれないが、そう考えると、ジャイアンを理解しやすい。顔つきは、あごが大きく、頭 の上部が小さい。鼻はだんご鼻。骨相的には、原始人に近く、理知的な顔つきをしていると は、とても言いがたい。 スネ夫、名字は骨川……金持ちの息子。ジャイアンとは対照的な顔つきをしている。「骨川」 は「骨と皮」のことか。あごが細く、それに比較して、頭が大きい。全体として、逆三角形になっ ている。メガネをかけているような大きな目をしているが、メガネをかけているわけではない。 ふだんは、目がつりあがっていて、見るからに、小生意気な子どもといった感じがする。ペラペ ラと相手の気持ちなどお構いなしにものを言うのは、過干渉児特有の症状。彼のとがった口 が、それを表現している。気になるのは、彼の後頭部が角ばっていること。それだけ大脳の格 納部が狭いということになる。全体の雰囲気から見ると、活発型の多弁児といった感じがす る。スネ夫のスネは、「スネるのスネ」に通ずる。 しずかちゃん、名前は、源静香……のび太は、「しずちゃん」と呼んでいる。表情は、たいてい いつも安定している。それだけ性格も安定しているということか。「しずか」=「静か」という名前 どおりの女の子。スネ夫の母親(・巻五三頁)と比較してみると、それがよくわかる。スネ夫の母 親は、・巻・巻の中でも、激情型の情緒不安定な女性として描かれている。つまりそれだけ表 情の変化も激しい。そのしずかちゃん。『ドラえもん』の中では、優等生として登場。のび太たち が、いつもドタバタしているのに対して、動きも少ない。笑みもたやさない。子どもでありなが ら、完成度が高い。平均して一巻につき、一、二コマ程度のしずかちゃんのヌード姿が登場す る。たいていは入浴シーンだが、なにかの事故で裸にされることもある。最初は子どもっぽい 体型をしているが、巻が進むごとに、少女っぽくなり、胸も大きくなる。最新巻に近づくにつれ て、乳首まで表現されるようになる。『ドラえもん』にあっては、唯一のお色気として、コミックに 花をそえている。 出来杉君……「できすぎくん」と読む。・巻・巻ではまだ登場しないが、子どもたちの間では常 識なので、出来杉君についても書いておく。いわゆる優等生ということだが、のび太に比較し て、輪郭も整っているし、目もパッチリと大きい。のび太の眉毛が、八の字にさがっていること が多いのに対して、出来杉君の眉毛は、りりしい。感情の起伏も少なく、いつも落ちついてい る。表情も安定している。名前のとおり、なにをさせても、よくできる。その上、ハンサムで、やさ しい。もちろん頭もよい。このタイプの子どもは、実際にも時々、いる。(できる)┳(周囲がそう 評価する)┳(自信をもつ)┳(ますますできるようになる)→……の「良」循環の中で、ますます 伸びる。ふつう、頭のよい子どもは、目つきが鋭い。スパスパと、相手を切り込むような目つき で見る。子どもは目つきを見て、頭のよしあしを判断する。 過干渉児 スネ夫のところで、過干渉の話が出たので、一言。よく「口うるさい」ことを、過干渉と誤解して いる人がいる。しかし口うるさいのを過干渉とは言わない。親が口うるさいだけなら、子どもに は、それほど影響はない。あるとしても、おとなの指示にうとくなる程度。幼稚園などでも、「こち らを見てごらん」と言っても、知らん顔して自分の作業を続ける、など。それだけおとなの指示 に、免疫性ができているためと考えると、わかりやすい。 口うるさいのに合わせて、親側にはげしい情緒不安があると、子どもは過干渉児になる。子 ども側からみて、とらえどころのない親の心というのは、子どもを限りなく不安にする。この不安 が、子どもの心をゆがめる。これにはげしい暴力や威圧がともなうと、子どもの心は内閉する。 もっとひどい場合には、萎縮する。年中児でも、皆の前で、大声で笑えない子どもは、一〇人も いれば必ず一人や二人はいる。子どもらしいハツラツとした表情が消える。中に、同じような環 境にありながら、反対に粗放化する子どももいる。親の過干渉を反対に、やり返してしまった子 どもと考えるとわかりやすい。それだけ生命力が強いということになるが、兄弟でも兄が萎縮 し、弟が反対に粗放化するというケースはよくある。親は、「同じように育てたのですが、どうし て性格が正反対なのでしょうか」と言う。しかし正反対に見えるのは、あくまでも表面だけ。 この過干渉児は、萎縮型の子どもも粗放型の子どもも、ともに常識はずれになりやすい。自 分で冷静に考えて、自分で行動するということができない。心のバランス感覚に欠けるため、と んでもないことを言ったり、したりする。ものの考え方もかたよりやすくなり、たとえば「隕石が落 ちて、世界の人口が半分くらいになれば、もっと住みやすくなる」というようなことを、平気で口 にしたりする。異常な嫉妬心や、執着心。さらには異常な闘争心や自尊心をもつこともある。萎 縮型の子どもの場合、表面的には、静かでおだやかなため、なにか事件をおこすと、親はたい ていこう言う。「どうしてうちの子が!」と。 親が過干渉する背景には、「不安」がある。もっと言えば、子どもを信じられない。その不安 が、子育てをゆがめる。ある母親は、「望まない結婚をしたため」、それが、遠因となって、子ど もに過干渉を繰りかえすようになった。子どもをはげしく叱るたびに、「あんたさえいなければ… …」と。また別の母親は、不幸にして不幸な家庭に育った。だから自分の中に、しっかりとした 母親像がなかった。だから子どもを抱きながらも、いつも「これでいいのか」「どの程度抱けば いいのか」と悩んでいた。 子どもは一度、過干渉児になると、以後なおるということは、まずない。特に萎縮型の子ども の場合、自我そのものがつぶれてしまっていることが多く、生涯、なよなよした人間になる。親 は懸命に子どもをなおそうとするが、原因は親にある。その親をなおすのはもっと、難しい。だ からなおらない。 多弁児 もう一つ、話が脱線する。 無意味なことを口にだして、よくしゃべる子どもを多弁児という。この多弁児という言葉を使っ たのは、日本では私が最初だと思う。外国の文献を見ていたら、出てきた。が、ただよくしゃべ る子どもという意味ではない。多弁児は多動児と同じように、抑制がきかない。抑えても、瞬間 的な効果しかなく、数秒後、あるいは直後には、またペラペラとしゃべりはじめる。大きな特徴 は、あたりかまわずしゃべる(無頓着性)、相手の気持ちを考えないでしゃべる、あるいは話し かけてくる(無思慮性)など。子どもというのは、よくしゃべるものだが、このタイプの子どものお しゃべりには、『間』がない。「静かにしていてね」とたしなめても、その直後に、「静かにしてい ればいいの?」「黙っていればいいの?」と話しかけてきたりする。もちろんよくしゃべる割に は、内容が浅い。テレビに出てくる、お笑いタレントと呼ばれる人の中には、このタイプの人が 多い。 私「犬と魚はどこがちがいますか」 子「犬はワンワン……かわいい。うん、ぼくの犬ねえ……」 私「だから魚とどうちがうかな」 子「魚、魚……。先生、ほら、クレヨンが落ちた」 私「クレヨンの話じゃなくて、魚と、どこがちがうかな」 子「ははは……」(隣の子どもに抱きつく) ふつう多動児も、多弁児も、知恵の発達が遅れがちになる。多動児のことを、活発型遅進児 ともいう。しかし中には、ある特定の分野に、するどいヒラメキを見せる子どもがいる。たとえば 計算力が抜群であるとか。しかし全体としてみれば、伸び悩む。親の多くは、「よくしゃべる子」 イコール「頭がよい子」と誤解している。顔つきも、むしろ生き生きとしている。表情も豊かで、 一見、りりしい。反応もすばやい。だから親はますます誤解する。しかしこの誤解が、教育を難 しくする。「自分の子どもは優秀だ」と思い込んでいる親に向かって、「そうではありません。少し 問題があります」とは、教師としてはたいへん言いにくい。 この種の多弁性は、それを発見した段階で、つまりできるだけはやい段階で、抑える。特に、 独り言に近い、無意味な多弁性は、「なぜ、どうして」を繰り返しながら、抑えるようにする。 子「紙が落ちた」 母「だからどうしたの」 子「紙が落ちたよ」 母「だからどうなの」 子「ほら、ぼく拾うよ」 母「黙って拾おうね」と。 結論から先に言えば、私もこのタイプの子どもを引き受けて、ふつうでない悪戦苦闘を繰り返 してきたが、なおすのは簡単ではない。生まれつきの問題が、底流にあるからである。だから 「少し油断をすると、またもとにもどってしまう」という状態が続く。根気よく指導しながらも、あと は子ども自身がセルフコントロールできるようになるまで、待つしかない。小学五、六年生ごろ になると、よくしゃべるというクセは残るものの、外目にはわかりにくくなる。 タレント論 さらにもう一つ、話が脱線する。 あちこちで講演するたびに、この多弁児の話になると決まって、私はタレントと呼ばれる人た ちの話をする。これは本だから実名をあげることはできないが、講演のほうでは、実名をあげ るときもある。つまり、最近のタレントと呼ばれる人たちは、あまりにも程度が低い。低すぎる。 ペラペラとよくしゃべるが、ただしゃべるだけ。内容がまったく、ない。たまに内容があることを 言うが、今度は「実」がともなわない。だからいくら聞いても、心に残らない。 多弁児かどうかを見分けるには、目つきを見る。活発型の遅進児にしても、多弁児にしても、 視線が定まらない。フワフワしている。そしてしゃべりだすと、興奮状態になる。そしてますます しゃべりはじめる。どんなタイプの人間かを知りたければ、テレビのバラエティ・トーク番組を見 ることだ。ほぼ例外なく、どの番組にも登場する。「オレ、小学校のとき、落ちこぼれね。落ちこ ぼれ。ハハハ。勉強、ダメダメ。全然ダメ」と自分からしゃべっているタレントもいる。その通り だっただろうと思うが、しかしこういう連中が、日本中の茶の間に、我がもの顔で出てくるという のはどういうことか。善悪の判断すらできない(?)タレントもいる。昨年のはじめイスラム教徒 の国のトルコで、素っ裸になって踊ったタレントがいた。しかしそういうタレントほど、子どもたち に人気がある。そして子どもたちは、そういうタレントをとおして、おとなの姿を知る。それがお となの世界だと知る。子どもに与える影響は、あまりにも大きい。テレビ局はもう少し、人選に 慎重になってほしい。 ……と書くと、多動児にせよ、多弁児にせよ、「子どもを、○○児と決めてかかってよいもの か」というふうに思う人がいるかもしれない。しかし実際の現場では、親や子どもの前でこの単 語を使う教師はいない。大半の教師はわかっていても、知らないフリをして教える。ただ、幼稚 園や小学校の入試で、一番敬遠されるのはこのタイプの子どもで、そういう子どもを見分ける ために、特別に訓練された教師を配置している幼稚園や小学校は、珍しくない。ある経営者は こっそりこう教えてくれた。「うちでは、入園前の三者面談の席を利用して、そういう子どもを選 び落としています」と。彼は関東から静岡県までの間で、五、六カ所の幼稚園を経営している。 このタイプの子どもは、教室の秩序をメチャメチャにするだけではない。教師がそういう子ど もだけを集中的に注意したり、叱ったりしていると、そうでない子どもたちが神経質になってしま う。泣きだしてしまう子どももいる。だから注意することもできない。しかし注意しなければしない で、教室が混乱してしまう。無視して授業をすすめれば、このタイプの子どもは、それをよいこ とに、ますます騒ぎはじめる。まさに先生泣かせの子どもということになる。 このあたりで、脱線はもうやめる。「顔つき」の話が、どうして「多動児」の話になってしまった のか、自分でもよくわからない。 のび太論 のび太は、多動児ではない。多弁児でもない。「落ちこぼれ」ということだが、ではどこにどう 問題があるのか、よくわからない。自我は弱いが、萎縮しているふうでもない。ものの考え方は 常識的で、過干渉児でもない。過保護児でも、溺愛児でもない。いつも居眠りをしているという が、そういう愚鈍型子ども特有の、ヌボーッとした表情も、ない。むしろテレビやビデオで見るの び太は、名前の通り、のびのびとしていて、活発な少年といった感じがする。が、勉強はまった くできないという……。だから、一人の幼児教育家としてのび太を観察してみた場合、のび太と いう少年が、一体、どんな少年なのか、よくわからない。ドラえもんが、空想上のロボットなら、 のび太は、空想上の「落ちこぼれ」ということになるのか。そう考えると、納得できるが……。
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