はやし浩司

クレヨン01-5-7
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クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論
三一書房・1500円
ISBN4-380-98202-5



前書き

誰でも知っている、野原家。その野原家をのぞいて書いたのが、この本です。
登場人物は、しんのすけ君という五歳児。それに彼の父ちゃんと母ちゃん。
ハチャメチャなこの家族にも、見るべき点はたくさんあります。参考になる
ことも多い。だから書きました。書いて、自分の考えを織り込みました。
この本はそういう意味で、子育て読本。読んでためになる、子育て読本。
……多分みなさんのためになるでしょう。……と思います。では、

                                 はやし浩司



   PART 1   子育て・みさえ編


     子育てに奮闘する、みさえ。
     毎日が、まさに戦争。
     一日が終われば、疲労困ぱい。
     時に、怒鳴りたくもなるわさ。
     バカヤロー!
     子育てって、なんだ!
     そんな思いをもっている人のための
     パート一。
    『子育て・みさえ編』




オラを育てるのは、たいへんダゾ!



野原みさえ

 野原みさえ、二九歳。しんのすけの母親。後に、長女の「ひまわり」をもうける。専業主婦。住
所は、埼玉県かすかべ市。春日部市のこと。電話番号は、(〇四八七の七九……)。夫は、会
社勤め。営業部の係長。要するに、ごくふつうの家庭の、ごくふつうの母親。しかしふつうでな
いのが、彼らの子どものしんのすけ。幼稚園に通う、五歳児。物語は、このみさえとしんのすけ
のやりとりから、はじまる(V1・冒頭)。

みさえ「あっ、ひき肉と大根、買うの忘れた。うわー、しょう油もない。まいったなァ。今、手ェ、は
なせないし。でも材料ないと……。そうだ、しんのすけに行かせよう。一人でまだ買い物させた
ことないから、いい経験になるわ。しんのすけ!」
しんのすけ「なーにー?」
みさえ「ちょっと来てエ」
しんのすけ「今、お絵かきしているから、ダメー」

 ここまでは、ごくふつうの会話。みさえもごくふつうの母親。しんのすけも、ごくふつうの子ど
も。しかし……。

みさえ「ここは一つ、おだてて(買い物に行かせるか)……。絵、ママに見せてー」
しんのすけ「うん、いいよ」と言って、チンチンの回りにかいた、絵を見せる。見せながら、「ほ
ら、ぞうさん」
 ここで「おだてて買い物に行かせよう」という、みさえのもくろみは、粉々につぶれる。そしてこ
う叫ぶ。「くだらないこと、やってんじゃ、ないわよ。このおバカ!!」と。コマのスミには、『作
戦、パア』とある。

 子育てが、いつも楽しいというわけではない。(財)日本女子社会教育会が平成七年にした調
査によれば、「子どものことで、イライラする」という親が、七二%もいることがわかった。しかも
そのうち七%は、「いつもイライラする」と答えている。大半の親が、なんらかの形で、イライラし
ている。
 子育てというのは、そういうもの。だったら、そういう前提で、子育てをする。逃げる必要もな
いし、逃げてはいけない。前向きに、ぶつかっていく。その点、野原家は参考になる。恐らくこ
れほど過激で、イライラする家庭は、野原家をおいて、ほかにあるまい。だからその野原家で
学べば、あなたも、きっとそのイライラから解放される。では、はじまり、はじまり!

言葉

 コミック『クレヨンしんちゃん』は、こ気味のよいテンポで、コマが進行する。しかもピリッピリッ
と、切れ味がよい。無駄がない。この緊張感が、なんとも言えない。しかしその秘訣は、言葉に
ある。

●「(かたつむりのメロディで)、♪ジーメジメ、ムシムシ、昼寝ババア。おまえのオッパイ、どこ
にある。ムネなし、ハラ出て、ケツでかい」(V4・27)
●「寝る前に、オシッコー。寝たあとは、オネッショー」(V4・74)
●「♪オラの母ちゃん、イライラー。それはウンコが出ないから。お便秘、お便秘〜。みさえの、
ろっけんろ〜。三段腹ブルース〜」(V5・119)
●「ネズミにきくのは、ネコいらずー。オラの母ちゃん、ブラジャーいらずー」(V8・39)
●「おけんべんの、入れ物〜。ウンチの、おべんとばこ」(V8・13)
●「オラをだまそうたって、そうは問屋が、大根おろさないぞ」(V10・85)
●「あり、あり、あり、ありがとう(一〇)なら、いも虫、はたち(二〇)」(V15・13)
●「♪おしりが割れたぜ、プリップリッ。文句があんのか、プリップリッ。そうさ、オイラは、エンピ
ツしんちゃん。ギャオーッ」(V15・54)

 こんなのもどこかにあった。「オラはよい子で、幸せ運ぶ。母ちゃんは便秘で、ウンチ運ぶー」
と。この一言を、女房の前で復唱してみせたら、それだけで女房は、腹をかかえて笑った。どこ
かエゲツないが、しかし、おかしい。

 では、まじめな話。

 あれからもう、二五年になるだろうか。私が「みんなが一番、好きなものは何ですか?」と聞
いたときのことである。一人の男の子(年中児)が、元気よく手をあげて、こう言った。「オン
ナ!」と。たまたま先生方が集まっていた研究授業中のことで、私は一瞬、自分の耳を疑っ
た。疑ってもう一度、聞くと、「オンナ!」と。あとでお母さんに聞くと、それがお父さんの口ぐせ
であることがわった。意味がわかっていて、言ったわけではなかった。しんのすけも、同じような
失敗をしている(V1・94)。

しんのすけ「母ちゃん、プール、行こうよ」
みさえ「今日は、ダーメ」
しんのすけ「なんで?」
みさえ「生理なの」
しんのすけ「せいりって?」
みさえ(うっ、よけいなこと言っちまった)
しんのすけ「ねえなに。せいりってなに?おいしいもの?」
みさえ「わかったわよ。言うから……」「生理って、言うのは……まあ、その、ちょっと、体の調子
が悪くなるとことよ」
しんのすけ「オラも、せいりになる?」
みさえ「なるのは女の人だけ」
するとしんのすけ、ベランダの下を歩いているおばさん風の女性に向かって、突然、「おばさ
ん、せいり?」と声をかける。みさえ、あわてて、「こ、こら!」と。

 (V3)の中にも、こんなシーンがある。みさえがしんのすけに、「回覧板を回して……」と言っ
たのに対して、しんのすけはその回覧板を、傘の上で回して遊ぶ。あるいはみさえが、ベロン
ベロンに酔っぱらった父ちゃんを介抱しながら、しんのすけに「お水一杯、もっきて」と頼む。す
るとしんのすけは、バケツ一杯の水をもってきて、父ちゃんにぶっかける。ほかにもみさえが、
「今夜の夕御飯は、鍋よ」と言ったのに対して、しんのすけは、鉄の鍋を頭に浮かべる。そして
鉄の鍋そのものを食べる様子を想像する、など。
 私も子どものころ、「あの人はフタカワ目」という言い方を聞いて、その人には目が二つずつ、
つまり合計で四つもあると思ってしまった。あるいは、私の郷里では(全国どこでもソーダロ
ガ!)、腐らせたし尿のことを、コエという。そこでこんな歌があった。『♪昔、昔のその昔、しい
のき林のすぐそばに……、お日様ニコニコ、コエかけた、コエかけた……』と。私はその歌を歌
いながら、どうして、お日様がコエをかけるのか、まったく理解できなかった。

プールの小便

 子どもは風呂や、プールの中で、平気で小便をする。これは事実であって、憶測でもなんでも
ない。ためしに子どもプールで一緒に泳いでみるとよい。時々なま暖かい異質な水が、フワフ
ワと顔をおおうのがわかる。あれがその小便である。ある調査によると、(こういうことを調べた
教師も偉いが)、子どもというのは、プールで泳がせると、トイレへ行く回数が三〇%も減るそう
だ。つまりその三〇%分は、プールの中での排尿ということになる。子ども心に、「トイレへ行く
のはめんどうだ。どうせバレないから、やっちまえ!」ということになるらしい。それも皆、「自分
一人だけならいいだろう」と思って、そうする。……らしい。かく言う私も、幼児のころ、銭湯の湯
船の中で、小便をした覚えが、かすかだが、記憶の中に残っている。当時は時々、銭湯の中に
はウンチだって浮かんでいた。しんのすけも、プールの中で、そのウンチをしている(V4・4
4)。
 女性のことはわからないが、男には、確かに排尿の快感がある。山の中腹に立って、空に向
かって排尿するときの快感は、たまらない。スッキリするというだけのものではない。そういう快
感を知っているのかどうかは知らないが、しんのすけは、よく漏らす。プールでも、排尿する(V
1・93)。しんのすけがコミックの中で、時々体を「ブルッ」と震わせるときがあるが、それは小
便を漏らしたときのサインだ。ウンチをするときも、体を震わす。

しんのすけ、プールの中で、ブルッ!
みさえ「あんた、まさか、今、おしっこ、した?」
しんのすけ「おしっこ、してない。ウンコはした」(V1・93)

 そこでおねしょを考えてみる。最近の研究では、おねしょというのは、大脳生理学の分野で、
脳の機能障害の一つであることがわかってきた。人間は、睡眠中は尿の生産を止める。しかし
それが、ストレスなどによって狂う。睡眠中も、勝手に尿を生産してしまう。それがおねしょとな
る。クセではない。だから、おねしょをする子どもを、叱っても意味がない。意味がないばかり
か、叱れば叱るほど、逆効果で、子どもはますます神経質になる。みさえも、「おねしょしたら、
正直にすぐあやまらなきゃ、ダメでしょ」(V7・69)と言っているが、おねしょは、本来、あやまる
とか、あやまらないとかいうレベルの問題ではない。中に、病院めぐりをしたり、夜中に子ども
を起こして、トイレへ連れていくケースもある。これもかえって、逆効果。子どもは罪悪感をもつ
ようになり、ますますおねしょをするようになる。
 ではどうするか。「子どものおねしょは、ほめてなおす」である。これは、おねしょをした朝は、
おねしょについては、無視。おねしょをしなかった朝は、それをほめるというし方である。そして
あとはあきらめる。ある母親は、「ようし、あと一、二年は覚悟するぞ」と宣言したが、それから
しばらくして、その子どものおねしょは、いつの間にかなおってしまったという。おねしょというの
は、そういうものだ。おねしょをする子どもにとって、おねしょというのは、たいへん気持ちのよ
いものであることを、まずわかってあげなければならない。もちろん濡れたシーツは、いやなも
のだが……。


言葉

 テレビの影響というのは、恐ろしい。クレヨンしんちゃんが、全盛のころ(今も全盛ダロガ…
…)、小学生たちがさかんに、しんのすけの口調をまねしはじめた。中には、それがそのままそ
の子どもの口調になってしまった子ども(小二)もいた。「オラ、この問題、わからないゾ」と、か
ったるい声で。なん度注意しても、なおらなかったのを覚えている。
 言うまでもなく、言葉というのは、その子どもの国語力の基礎になる。正しい言葉を知らない
子どもに、国語を教えるのは、外人に日本語を教えるようなものだ。これは少しオバーだが、し
かしそれくらいの距離感は、ある。少なくとも子どもにしてみれば、外国語を習うほどの、距離
感はある。母親が日ごろから、「いつまで寝てんの!」「水着は?」「あなたは着れないの」(V
1・79)というような話し方をしていて、どうして子どもに国語力が身につくというのだろうか。こう
いう場合は、多少無理をしてでも、「あなたはいつまで寝ているのですか」「水着はもって行かな
くてもいいのですか」「あなたは着られませんよ」と言うべきである。それができないというなら、
みさえは、将来、しんのすけが国語のテストで悪い点を取ってきても、怒らないことだ。希望の
中学や高校へ入れなくても、がっかりしないことだ。

 同じように、しんのすけの言葉も、だらしない。会話で使う日本語であるとしても、ひどい。しん
のすけは、「なに、してんの?」「(犬を見て)うまそ」「母ちゃん、いねえな」「おやつ、おやつ。お
めえも、なんか、食うか?」(V1・58)と言っている。そしてこの傾向は、最新巻まで続く。(V1
7)の最終場面でも、妹のひまわりが風呂の中で、ウンチをしたことについても、しんのすけは
こう言う。「お、ひまわりも、ウンチ」「(父ちゃんがオケで、ウンチをすくっているのを見ながら)、
あ、父ちゃんの、手についた」と。
 こういう言葉のだらしなさに気がついたのか、みさえがこんなことを言うシーンは、あるにはあ
る(V15・101)。「……そこで、本日より全員、上品な言葉づかいや、行動をしていただきま
す」と。その続きはこうなっている。

父ちゃん「しんのすけ君、今日から、ボクたち、お上品になろうね」
しんのすけ「はい、お父さま。……。わーい、今日は、お納豆めし」
みさえ「『お』をつければ、いいってもんじゃ、ありませんよ」
しんのすけ「あらやだ、『おへ』が出てしまいました」
父ちゃん「しんのすけ君たら、お・下・品」

 先日もあるアメリカのコメディアンが、テレビに出ていた。いくらコメディアンではあっても、日
本側のインタビューにはきちんと答えていたのが、印象的だった。笑いの哲学もしっかりともっ
ていた。それに比較して、日本のお笑いタレントと言われる人たちは、あまりにもレベルが低
い。低すぎる。きちんとした言い方ができないばかりか、日本語そのものがおかしい。NHKの
昼の番組で、こんな話し方をしているのがいた。「こちらは、魚、おお、すごい。すごいです。大
きな、おお、もって行きますよ。ギャアア。すごい、すごい。魚、おいしい。待っててくださいよ」
と。
 私はこういう連中は、お笑いタレントだとは思わない。タレントというのは、もともと「才能のあ
る人」という意味。同じ日本人として、自分がなさけなくすらなる。利口な人が馬鹿なまねをする
から、おかしい。しかしもともと馬鹿な人(失礼!)が、馬鹿なことをしても、おかしくない。とても
一緒に笑う気にはなれない。

 しんのすけは、まだ五歳だから、ここでいうタレントと同列で考えることはできない。だからし
んのすけの言葉には、ついつい引き込まれてしまう。そして笑ってしまう。数度読み返しても、
笑ってしまう。特に(V1)の最後の『幼稚園はパラダイス編その4』は、おかしい。よしなが先生
が、「(クリスマスプレゼントに)何がほしいの?」と聞いたのに対して、しんのすけは、「湯上が
りの岡本夏生」と。私はその岡本夏生というタレントを知らないが、かわいい女性であることは
想像できる。あるいはアダルトビデオに出てくる女性のことか?岡本夏生の写真集は、(V5・1
08)に、表紙だけが出てくる。これ以上は調べてまで書く気はしないので、この程度にしておく
が、こういう発想、つまり「湯上がり……」という発想は、コミック作家たる臼井儀人(うすい・よし
と)氏だからこそできる発想かもしれない。さらによしなが先生が、しんのすけへのプレゼント
を、勝手に岡本夏生から竹とんぼに変えてしまったことについて、しんのすけが「岡本夏生が
竹とんぼになっちまった」と。こうして文で書くと動きがわからないので、おかしさは伝わってこな
いが、とにかく私は笑った。さらにコミックは続くが、最後に……。幼稚園の園長が、サンタクロ
ースの扮装をしながら、「明日は、子どもたち喜ぶぞ」と言ったのに対して、しんのすけが、白け
た顔で「明日は、せいぜい喜んでやるか」と。
 ついでながら、クレヨンしんちゃんには、女性の名前がよく出てくる。この岡本夏生をはじめと
して、宮沢りえ(V3)、細川ふみえ(V5)、安達裕実(V10)、山口智子、内田有紀、鈴木杏樹
(V17)など。ニュースセンターの小宮悦子の名前まで出てくるし(V3)、最後にはシャロン・スト
ーンまで出てくる(V17)。

 話をもとに戻そう。幼児教育の立場から言えば、しんのすけの口調を、子どもにまねをさせて
はいけない。将来、国語が確実に苦手になる。それだけのことだ。

国語力

 子どもの口が悪いのはしかたないことだ。神様だって、子どもの口に、フタをすることはでき
ない。先日も私に、「クソジジイ、先生」と呼びかける子どもがいた。私のあだ名は、「ハヤシラ
イス」「ヒゲジジイ」など。「ドロシー先生」と呼ぶ子どももいる。「ひろし」が、オズの魔法使いに出
てくる「ドロシー」に、発音が似ているためだ。そこである日、私は子どもたちにこう言った。

私「もっと、悪い言葉を教えてやろうか。でも、使っちゃあ、だめだよ」
子どもたち「わかった。わかった。だから、教えて」
私「いいか。一回しか言わないからな」
子どもたち「うん」
私「ビ・ダ・ン・シ」

 それからというもの、子どもたちは私を見るたびに、「ビダンシ!ビダンシ!」と呼ぶようにな
った。幼児で、『美男子』の意味を知っている子どもは、まずいない。
 その悪い言葉だが、子どもは悪い言葉を使いながら、ストレスを発散させる。悪い言葉を容
認せよということではない。悪い言葉を使えないほどまでに、子どもを抑え込んではいけないと
いうことだ。要は、しかるべき場所で、きちんとした話し方ができるかどうかということ。たとえば
先生の前では、きちんとした話し方ができれば、それでよしとする。

 むしろ問題なのは、先に述べたように、・正しい言い方ができるかどうかということ。次に、・豊
かな言葉を使えるかどうかということ。
 こう書くと、必ずといってよいほど、次のように言う親がいる。「私の子どもはだいじょうぶで
す。毎日、本を読んであげていますから」と。しかし、言葉というのは、実際に使ってみて、はじ
めて身につく。また実際に、子どもに使わさせなければならない。たとえばBS(衛星放送)で、
毎日、ドイツ語のニュースを見ているからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。言葉と
いうのはそういうものだ。
 本を読んであげるならあげるで、たとえば一頁ごとに、その内容について質問してみるとよ
い。「クマさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、どんな気持ちですか」と。もっと大きくなれ
ば、本を読んであげたら、そのあと、絵をかかせるのもよい。「どんな話でしたか。それを絵に
かいてごらん」と。たいていの親は、その段階で、「こんなにも、うちの子は話を理解していなか
ったのか!」と、がく然とするはずだ。
 なお私がここで「一頁ごとに、その内容について質問してみるとよい」と言っていることについ
て、近くの図書館で『読み聞かせ会』をしている方から、「それはダメだ」というような意見をもら
ったことがある。「本というのは、作者の心を伝えるためにも、途中で雑音を入れてはならない」
と。私もその通りだと思うが、それは本の内容が理解できる子どもについてのこと。できない子
どもには、やはりここでいうように、一頁ごとに、その内容について質問してみることも大切だ。
いくら子ども向けの本とはいえ、年中児くらいだと、言葉の意味そのものがまだ理解できないこ
とがある。たとえば「おじいさんは、山へシバ刈りにでかけました」と読んであげても、「シバ」と
いう言葉の意味そのものを、この時期の子どもは知らない。

 ついでに幼児の本読みについても一言。
 年中児にもなると、時々、立て板に水のごとく、スラスラと本を読む子どもが現れる。親はそう
いう子どもを、国語力があると誤解する。誤解して喜ぶが、たいていは、文字を『音』にかえて
いるにすぎない。反対に読みの深い子どもは、一文ずつを読みながら、さし絵をながめたり、
考えたりする。本を読んでいるときの目つきを見て、それを判断する。読みの浅い子どもの目
つきは、どこかフワフワしていて、落ちつきがない。
 本読み指導は、国語教育の要(かなめ)と言ってもよい。早く読むのではなく、深く読む習慣を
大切にする。


会話術

 みさえはしんのすけの指導に手こずる。しんのすけにも問題があるが、みさえにも問題があ
る。みさえの会話には、あまりにも『策』がない。(〜〜してくれたら、〜〜してやる)というのが
条件。(〜〜しなければ、〜〜する)と脅すのが、脅迫ということになる。会話も、その条件と脅
迫が、基本になっている。条件や脅迫が日常化すると、子どもは、自分で考えて、自分で行動
するということができなくなる。

しんのすけ「母ちゃん、花火、買って、花火」
みさえ「じゃ、あなたがいい子になって、ママの喜ぶようなことをしてくれたら、買ってあげる」(V
1・82)……、これは条件。

みさえ「シロの世話、なまけたら、どこかにあげちゃうって」
しんのすけ「そうだっけ」
みさえ「約束は守ってもらうよ。シロはよそにあげます」(V1・31)……、これは脅迫。

 もう少し、母親として会話術をみがいたほうがよいのではないか。会話一つで、白が黒になる
こともある。反対に、黒が白になることもある。たとえば子どもがなにかの席で、なにかを発表
することになったとき。参観日の授業なら授業でもよい。そのとき、子どもの声が小さかったと
すると、親はそれをたいへん気にする。が、家の中ではふつうに話せても、人前に出ると、蚊
のなくような声になる子どもはいくらでもいる。たいていの子どもはそうなるが、そういうとき、あ
とで、「もっと大きな声を出しなさい」と叱っても意味がない。叱れば叱るほど、逆効果で、子ど
もはますます自信をなくす。そして声は小さくなる。こういうときは、「あら、あなた、前より大きな
声で言えるようになったわね。お母さん、うれしいわ」と言う。この一言が、子どもを伸ばす。
 そこでここに、いくつかの会話術を、紹介する。

・具体的話法
 子どもに「先生のお話をよく聞くのですよ」とか、「友だちと仲良くするのですよ」と言っても、意
味がない。具体性がないからだ。そういうときは、具体的話法にする。たとえばこの場合は、
「幼稚園で先生がどんな話をしたか、帰ってきたら、ママに話してね」とか、あるいは「○○さん
に、これをもって行ってね。きっと○○さんは喜ぶわよ」とか言う。同じように、「あと片づけをし
なさい」と子どもに言っても、意味がない。子どもには、その必要性がないからだ。こういうとき
は、たとえば「おもちゃは一つ」と言う。つまり遊ぶときは、いつもおもちゃは一つと決めさせる。
子どもは次のおもちゃで遊びたいため、前のおもちゃは片づけるようになる。
 以前、いつも道路へ飛びだして、親をハラハラさせる子どもがいた。親がいくら注意しても、
効果がなかった。そこでその親は、ダンボール紙で自動車をつくり、子どもの目の前で交通事
故の寸劇をしてみせた。血が飛び散り、もがき苦しむさまを、迫真の演技でしたという。途中で
子どもが、「もうヤメテ!」と言ったほどだ。以後、その子どもは飛びだしをしなくなった。あるい
はドブ(側溝)でいつも遊んでいる子どもがいた。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がな
かった。そこでその母親は、トイレの水がどこをどう流れて、どうなって、そしてそのドブへ流れ
るかを説明した。以後その子どもは、そのドブでは遊ばなくなった。繰り返し注意しても、子ども
が言うことをきかないときは、この具体的話法をしてみる。

・遠回り話法
 「静かにしなさい」と言っても、きかないときには、「お母さんのオッパイを飲んでいる人は、し
ゃべっていてもよい」と言う。とたんに教室は静かになる。ギャーギャー騒いでいる子どもには、
「お尻のウンチ虫が、暴れているんだよね。お尻がかゆいから、そういう声を出すんだね」と言
う。「〜〜しなさい」「〜〜してはいけません」というのを、近道話法とするなら、ものごとをワンク
ッション置いて言う言い方を、遠回り話法という。会話にトゲトゲしさがなくなり、子どももそれだ
けすなおに聞いてくれる。
 家庭では、たとえば「おつかいに行ってきて」という言い方ではなく、「おつかいをしてくれると、
お母さんも助かるわ。おつかいに行ってきてくれる?」と言う。「あと片づけをしなさい」と言うの
ではなく、「部屋が散らかっていると、お母さんは困るわ。一緒に、あと片づけでもしようか?」と
言うなど。しかしいつも遠回しに言うのが、よいわけではない。昔、私の先輩で、私たちがなに
かを失敗するたびに、「君らしくないなあ」と言う人がいた。「何だ、これは!」と叱られるより、
最初はよかったが、しかしそのうち、それが彼の口ぐせだとわかった。すると逆に、なんだか馬
鹿にされているように感じてしまった。時には近道話法、時には遠回り話法と、使い分けるの
がよい。

・間接話法
 子どもに向かって、「あなたはえらい」とほめるのを、直接話法という。子どもが聞こえるところ
で、父親に向かって、「あなた、うちの子はえらいのよ」と話すのを、間接話法という。教室でも
A君が、勝手なことをしていて、皆と一緒に復唱をしないときは、ほかの子どもたちに向かっ
て、「今、A君の声、聞こえましたか」と言う。するとほかの子どもたちが、一斉に、「聞こえな
い!」と言う。その子どもは、クラス全体の仲間から注意されたかのように感じる……らしい。
効果は抜群である。この間接話法は、会話が直接子どもに向いていないという点で、人間関係
をスムーズにする作用もある。たとえば子どもとの関係がギクシャクしていて、直接子どもに言
いにくいようなときには、この方法を使うとよい。言われた子どものほうにしても、他人の話とし
てそれを聞くため、客観的に自分のことを知ることができる。ただしあまり頻繁にこの話法を使
うと、時にはイヤミになるから注意する。特に、子どもを批判したり、非難したりするときには、
使わないこと。「あなた、うちの子ったら、本当に意地悪なのよ。私、がっかりした」などと、聞こ
えるところで言えば、子どもでなくても、気分を悪くする。

・スキンシップ話法
 親の心を話すときは、このスキンシップ話法を使う。これは子どもを抱き込むようにして、親
の体で包み、こんこんと語りかけるという話し方である。
 ある子ども(五歳児)だが、幼稚園ではどうしようもないワルだった。で、そのたびに先生から
苦情が届いた。ほかの父兄が電話で抗議をしてくることもあった。そこでその母親はその子ど
もを、叱ったり、あるいは時に長々と説教してみたが、効果はなかった。そこである日、困り果
てた母親は、その子どもを抱き、静かに母親の気持ちを語ったという。言葉数は少なかった
が、母親が一筋の涙を見せたとき、その子どもははじめて「ごめんなさい」と、あやまった。そ
れからもワルはワルのままだったが、日を追って、穏やかになったという。このスキンシップに
は、不思議な力がある。魔法の力といってもよい。アメリカのある自閉症の施設では、子どもを
抱くことによって、すばらしい治療効果をあげている。もしあなたが子どもの心の問題で、何か
手こずったら、このスキンシップ話法をためしてみるとよい。子どもの心が不安定になっている
とき、あるいは情緒が乱れているようなときには、特に効果がある。

・逆責め話法
 日本語の特徴の一つだが、日本語には、「なんとかしてくれ言葉」というのがある。たとえば
何か食べ物がほしいときでも、「食べ物がほしい」とは言わない。「おなかがすいた(だからなん
とかしてくれ)」と言う。トイレへ行きたいときでも、「おしっこ(だからなんとかしてくれ)」と言う、な
ど。相手がなにかをしてくれるのを期待しながら言うわけだが、手をかけすぎた子どもほど、こ
のなんとかしてくれ言葉をよく使う。そういう言い方をすれば、家族の皆が、いつもなんとかして
くれるからである。しかしこの言葉は、一方で、子どもを甘やかす原因となる。
 こういう時は、「だからどうなの?」と聞き返すことによって、それをつぶす。

子「先生、おしっこ!」
私「だから、どうなの」
子「先生、おしっこ、したい」
私「ふうん。だったらここでしなさい」
子「ここではできない」
私「どうして」
子「ここはトイレではない」
私「だから、どうなの」
子「トイレへ行きたい」
私「最初からそう言おうね」

・遊びでのせろ話法
 子どもは、のりやすい。髪の毛を切るのをいやがる子どもには、床屋さんごっこをする。みさ
えも、この方法で、しんのすけの髪の毛を切っている(V7・110)。つまり子どもを、遊びでのせ
てしまう方法だが、この方法は、しばしばクレヨンしんちゃんの中にも登場する。(V8・15)に
も、こんな例がある。

しんのすけに手伝いをさせたくなった、みさえ、「かすかべ防衛隊、しんのすけ隊員、出動せよ」
しんのすけ「たたたた。お呼びですか、みさえ隊長!!」
みさえ「かいじゅう、シリマルダシが、まもなくこちらにやってくる。大至急、テーブルを拭いて、く
れたまえ」
しんのすけ「ブラジャー(=ラジャー、了解の意)」
みさえ「しょせん、子どもよのう」

 私も授業で、この話法をよく使う。子どもたちの声が小さいときには、「わははは、しょせん幼
稚園児よのお。そんなパワーで、この私を倒せるか!」などと言ってやる。子どもたちは、それ
に応じて、ムキになって大声を出す。ほかに、『ゲームでのせろ話法』(V7・35)などがある。詳
しくは、クレヨンしんちゃんのほうを読んでほしい。

みさえの会話

 もう少し深く、みさえの会話を考えてみよう。(V1)の中には、次のような会話がある。

みさえ「しんのすけ、お母さんといっしょに、お風呂、入ろ」
しんのすけ「父ちゃんと入る」
みさえ「お父さんは、残業。夜中になっちゃうから先に入ろ」(V1・3)

みさえ「しんのすけ!お出かけするから、したくして」
しんのすけ「どこ、行くの?」
みさえ「銀行」(V1・8)

みさえ「(ほっぺを)見せてごらん」
しんのすけ「ダメ」
みさえ「見せてくれないとわからないでしょ」
しんのすけ「どうしても見たいのなら、万札の二、三枚ももってきな」(V1・13)

みさえ「ほらまた、オモチャ、出しっぱなし。あと片づけしなかったら、すてちゃうからね」
しんのすけ「もったいなくて、すてらんないくせに」
みさえ、ピクッとして、「なんですか、その口のきき方は!!パシッ!」(V1・20)


 これらの会話からも、みさえとしんのすけの会話が、きわめて直線的であるのがわかる。直
情的であると言ってもよい。互いに感情のおもむくまま、会話をしている。特にみさえは、しんの
すけの気持ちを確かめないまま、しんのすけに命令をしたり、また指示をしたりしている。こう
いう親は、珍しくない。「自分の子どものことは、私が一番よく知っている」という親である。こん
な会話をするから、それがわかる。

先生「夏休みのキャンプのことですが、お宅のお子さんはいかがですか」
親「うちの子はダメですよ。行きたがらないと思います」
先生「どうしてですか」
親「うちの子は、二、三日もすれば、家に帰りたがります」
先生「一度、お子さんに、気持ちを聞いていただけませんか」
親「聞かなくても、私にはわかります」

 しかしこういう親に限って、子どものことがわかっていない。わからない。だから独断で、こと
をすすめようとする。だから失敗する。相手がたとえ幼児でも、気持ちを確かめてから、行動す
べきではないか。これらの会話の中でも、みさえは、「父ちゃんと入る」というしんのすけの気持
ちを、もう少し尊重すべきだし、いきなり「お出かけするから、したくして!」は、ない。おもちゃに
しても、「すてちゃうからね」は、乱暴すぎる。みさえは、しんのすけを一人前の人間として、認
めていないのではないか。そんな心配すら残る。
 反対の立場で考えてみればわかる。これはシミュレーションだが、みさえとしんのすけの立場
を入れかえてみると、こうなる。

しんのすけ「ママ!出かけるから、したくして」
みさえ「どこ、行くの?」
しんのすけ「幼稚園!」

しんのすけ「ほらまた、洗濯物、出しっぱなし。あと片づけしなかったら、すてちゃうゾ!」
みさえ「もったいなくて、すてらんないくせに」
しんのすけ、ピクッとして、「なんだ、その口のきき方は!!パシッ!」

 この会話を聞いて、笑う人はもういない。親である以上、親意識をもつことはしかたのないこ
とだとしても、その親意識は、時として独裁者意識になる。「子どもは親に従うべきだ」という意
識である。古い世代ほど、この意識は強い。ある老婆はこう言った。「横浜の女に息子を取ら
れましてね……」と。息子が結婚したことを、「取られた」というのだ。あるいは、「嫁にやる」とか
「嫁をもらう」とか言う人は、今でも、まだ多い。息子や娘を、『物』のように考えているわけだ
が、この意識は、子育てのありかたそのものまで、ゆがめる。みさえは(V10・98)で、こうも言
っている。「言われたことは、すぐ行動に移す。これがよい子の基本です。わかるわね」と。みさ
えには、その独裁者意識を私は感ずるが、読者の皆さんは、どうであろうか。
 みさえの会話には改善すべき点は多いが、その独裁者意識がなくならない以上、みさえの会
話はなおらない。子どもの心がわからない親。自分のことをわかってもらえない子ども。互いの
心のすきまをはさんで、つまりみさえとしんのすけとのドタバタは、いつまでも続く。


子育ては条件反射

 こんな興味深いシーンがある。(V1・103)がそれだが、その冒頭で、みさえは、努めて冷静
であろうとする。「冷静に、冷静に」と。しかしその次の瞬間には、みさえのこの努力は無残にも
打ちくだかれる。

みさえ、隣の部屋にいるしんのすけに向かって「お話があるの」
しんのすけ「どこにあるの?」
みさえ「(冷静に、冷静に……)ママの頭の中に」
しんのすけ「ほほう、頭の中にある、お話か」
みさえ「そうよ、だからいらっしゃい」
しんのすけ「お前、来い!」
突然、みさえ、飛び上がる……。あとはいつもの展開である。

 子育てを一々考えながら、する人はいない。たいていの親はこう言う。「頭の中ではわかって
いるのですが、ついその場になると、カッとしてしまう」と。そういう意味で、子育ては条件反射
の連続。条件反射を否定するのではない。この条件反射があるから、子育ての大半はスムー
ズに流れる。が、問題は、悪い条件反射。

 ある父と子は、親子喧嘩が絶えない。原因はいつもささいなことである。そのささいなことが
引き金となって、親子喧嘩がはじまる。子ども(小三男子)は、「いつもパパは、つまらないこと
で怒る」と言う。それに対して、父親はこう反論する。「決してつまらないことで、怒るのではあり
ません。息子の態度が許せないからです」と。たとえば、なにかを子どもに注意したとする。す
ると子どもは、キッと父親をにらみ返す。子どものほうは、それをクセとして、そうするわけだ
が、父親は、自分を否定されたかのように感ずる。とたん「何だ、その目つきは!」となる。あと
はお決まりの親子喧嘩というわけである。

 クレヨンしんちゃんの中でも、みさえは、「おまえ」と呼んだしんのすけに対して、「母親に向か
って、おまえとは何ですか!」(V1・89)と言い返している。そしてそのとたん、みさえは激怒す
る。
 こういう条件反射が一度、親子の間にできると、それを解消することは並大抵の努力ではで
きない。不可能とすら言える。人間の脳というのは、そういう構造になっている。

みさえは子育てを楽しんでいるか?

 みさえは日々の生活の中で、家事に追われる。炊事に洗濯、それに料理など。そこへしんの
すけが現れ、容赦なくみさえの生活を、引きさく。親子戦争などという生やさしいものではない。
みさえにとって、しんのすけは頭痛の種。トラブルのもと。しかしそれでも、みさえはたくましく、
しんのすけの子育てに奮闘する。
 こうした光景は、多かれ少なかれ、どこの家庭にも見られる。だいたいにおいて、楽な子育て
というのはない。が、それでも親が子育てに喜びを感ずるのは、子どもの未来に、自分の夢を
のせるからにほかならない。決して、子どものかわいさだけではない。たとえば子どもがサッカ
ーボールを足でうまく蹴ったとしよう。すると親は、「うちの子は将来、サッカー選手になるかもし
れない」と思う。あるいは少しピアノの鍵盤をそれらしく叩いたとしよう。すると親は、「うちの子
は音楽の才能があるかもしれない」と思う。そういう夢があるから、子育てもまた楽しくできる。

 子どもを伸ばすコツは、まず親自身が子育てを楽しむこと。親が楽しければ、子どもも伸び
る。もし親でありながら、子育てが苦痛だというなら、どこかにゆがんだ原因があると考える。
本来子育てというのは、楽しいものであり、また楽しくなければならない。そういう視点でみる
と、みさえはどうか。しんのすけにふり回されながらも、子育てを楽しんでいる面もないとは言え
ない。(V1)はともかくも、(V3・118)では、しんのすけの話に、おもしろそうに耳を傾けるシー
ンなどがある。みさえのそういう面が、しんのすけを活発にし、かつ生き生きとさせている。みさ
えはしんのすけのことで困り果てながらも、知人や親戚の人たちには、しんのすけのことを、お
もしろおかしく話しているにちがいない。

みさえ「うちの子ったら、この前も口紅で、チンチンのまわりに、落書きをしているんですよ」
友だち「おもしろいですね」
みさえ「そしてチンチンを、足にはさんで、『ママのお股!』って。もう……」
友だち「ふふふ。おもしろい、お子さんね」
みさえ「ええ、まあ。本当に、もう。ふふふ」

 これは私が勝手に想像して書いた会話だが、私には、そんなみさえの笑い声も聞こえてくる。


親のしつけ

 子どものしつけが悪かったり、できが悪かったりすると、たいていの人は、「親のしつけがなっ
ていない」とか、「親の顔が見たいものだ」と言う。幼稚園でも、それを口にする教師がいる。し
かしそう言うのは、たいてい未婚の若い教師だ。あるいは子どもをもっていない教師だ。しか
し、自分で子どもを産み、子どもを育ててみると、このものの見方は一変する。いくら親ががん
ばっても、子どもは子どもで、そのうち勝手なことをしはじめる。勝手なことをして、あたりまえな
のである。クレヨンしんちゃんの中にも、こんなシーンがある(V1・44)。

レストランの中で走り回るよその子どもを見ながら、父ちゃんが「……たく、親は何してんだよ」
とこぼす。が、ふり返ると、なんのことはない。しんのすけはしんのすけで、若い女性を「どこか
ら来たの?」とナンパしている。それに対して、その若い女性は、「ちょっとォ、この子の親、ど
こォ〜」と。

 子どものできの悪いのは、親の責任というわけである。みさえ自身とて例外ではない。みさえ
も、電車のつり革にぶらさがっている、よその子どもを見ながら、「しつけがなっていないわねえ
……。しんのすけはあんなことしちゃ、ダメよ」(V1・74)と、こぼしている。が、肝心のしんのす
けは、もっと悪い。しんのすけは網棚の上で寝そべっている!さらに決定的なのは、次のシー
ンである(V7・冒頭)。

庭掃除をしているみさえの横を、二人の高校生が通りかかる。それを見て、みさえ、「何よ、あ
のかっこう。だらしないわね。親の顔が見てみたい」
すると今度は、その高校生が、しんのすけを見ながら、「な、何だ。こいつ……。親の顔が見て
みたい」と。
そこでみさえがふり返ると、チンチン丸出しのしんのすけが、向こうから歩いてやってくる。

 こうしたものの考え方は、おとなの身勝手によるもの以外、何ものでもない。子どもというの
は、親のしつけによってどうでもなるという、思いあがり。子どもというのは、親の作品にすぎな
いという、人権無視。子育てをしたことがない人や、子育てで苦労したことがない人ほど、そう
いうものの考え方をする。実際、幼稚園でも、若い母親は、相手がバスの運転手だと、あいさ
つもしない。どこかツンツンしていて、人間味がない。しかし親も苦労すると、やがて一人前の
親になる。それに合わせて、ちょうど稲穂の穂がたれてくるように、姿勢が低くなる。親が子ど
もを育てるのではない。子どもが親を育てる。親は一歩一歩、子育ての山を越えながら、一人
前の親になる。その一人前の親になったとき、親の口から、「しつけがなっていないわねえ」と
いう、あのごう慢な言葉が消える。

その「しつけ」

 子どもをしつける、もっとも手っとりばやい方法は、威圧や暴力を加えることだ。しかしこの方
法は、たいてい失敗する。というより、私は成功例を知らない。理由は簡単だ。『威圧で閉じ
る、子どもの耳』という諺がある。この諺は、私が考えたもので、皆さんがご存じないのは当然
だが、子どもの耳というのは、そういうものだ。よく親が怒鳴りちらし、そのそばでしおらしく頭を
さげている子どもの姿を見かける。が、その子どもは反省しているから、そうしているのではな
い。こわいから、そうしているだけである。だから、親が怒鳴り散らす割には、効果はない。
 次に、規則を作ること。この規則でがんじがらめにして、子どもをしつける。しかしこれも効果
がない。これはイギリスの諺だが、こういうのがある。『無能な教師ほど、規則を好む』と。この
諺を、家庭にあてはめると、『無能な親ほど、規則を好む』となる。残念ながら野原家には、こ
の規則が多すぎる。多すぎて、書ききれない。書いたら、それだけで、一冊の本になってしま
う。みさえはこう言っている。

●「ママとのお約束条項、第五三条。地震のとき、『マッチ売りの少女』ごっこをしてはいけな
い」(V4・111)
●「お約束条項、第一三条。言ってみな」
 しんのすけが、「母ちゃんのパンツ、スケスケなことを人に言ってはならない」と答えると、みさ
え、「それは四三条」と(V5・82)。
●「お約束条項、第六二条。犬神家の一族ごっこは、禁止!!」(V6・113)
●「ママとのお約束、第八六条。他人の指で、ハナくそ、ほじほじしてはならない」(V7・59)
●しんのすけ、みさえにさとされて、こう言う。「ママとのお約束、第九三条。ママの運転中、話し
かけたり、ダンスしたり、とにかく気が散るようなことをしてはいけない!!」(V9・47)
●「お約束の九九条。ビールに、日光浴させては、ぜったいに、ぜったいに、いけない!!」(V
10・73)

 ここまでの約束ごとだけでも、九九個もあるということになる。さらに(V10)までには、一〇〇
個。「祝一〇〇条、達成。お約束第一〇〇条。(動物園では)熊にサイフを渡してはいけない」
(V10・91)とある。しかもこれらの約束ごとは、法律書のようにノートに書いてあるという(V5・
82)。みさえが無能なのか、それとも、しんのすけが、そういう規則を作らせるのか、それはわ
からないが、家庭の中に規則は作ってはいけない。規則がないから、家庭という。互いの信頼
関係だけで成りたっているから、家庭という。規則が多ければ多いほど、家庭は息苦しくなる。


甘い親

 みさえ自身が、よその親を甘い親と批判するところがある。(V1・39)の中で、一人の子ども
が、三輪車を見て、「買って、買って、買って」とダダをこねる。そのダダに答えて、若い母親が
苦笑いをしながら、「はいはい」と言う。みさえはそういう光景を見ながら、しんのすけに、「わた
しゃ、そこいらの、甘い親とはちがうんだから」と、つぶやく。

 こんな子どもがいた。いわゆる満腹児タイプの子どもで、自分の持ち物を、平気でほかの子
どもにあげてしまう子どもだ。それもかなり高価なもの、まで。もらったほうの子どもの親が、あ
わてて返しにくることもあったという。満腹児というのは、ちょうど満腹した子どもに、食べ物をさ
し出したときの症状に似ているので、そう言う。当然、食べ物を粗末にする。チョイチョイとおい
しいところだけを食べて、あとは捨ててしまう。その子どもの母親に、その理由をたずねると、
その母親はこう言った。
 「私の家は昔からの由緒ある家柄で、それで子どもには、欲しいものはなんでも買い与えて
います」と。
 しかしそれでは理由にならない。そこで再度、聞きなおすと、「うちの子は欲しいものがある
と、うちへ来た取り引き先の人にねだるのです。私はそれがいやなのです。だからうちの子
が、相手にねだる前に、買い与えてしまうのです」と。
 うらやましいような話だが、実際には、そういう家庭もある。

 で、しんのすけの家庭はどうか。みさえはしんのすけのいやがらせ戦術の中で、しんのすけ
のほしいものを、結果的には買い与えてしまう。先の(V1・39)の中でも、みさえは三輪車を、
しんのすけに買い与えている。実はこういうタイプの母親が一番、しまつが悪い。
 買うなら、買う。買わないなら、買わないという、き然とした態度が、子どもをまっすぐ育てる。
買わないと言っておいて、結局は子どもの言いなりになってしまう。そういう甘さが子どもをダメ
にする。みさえは、「わたしゃ、そこいらの、甘い親とちがうんだから」と言いながらも、その親よ
りも、ルーズで甘いということになる。こういう親は、子どもにもなめられる。わかりやすく言え
ば、そのうち、しんのすけは、みさえの言うことなど、きかなくなる。

 教育の現場では、教師の教科の指導能力にあわせて、子どもをまとめるという、統率能力が
問題となる。もし教師がみさえのようなことをしていたら、子どもはやがて、その教師に従わなく
なる。教室そのものが、バラバラになってしまう。私たちはそういう現場を、いやというほど見せ
つけられている。だからみさえのような甘い親を見ると、ドキッとしてしまう。

きびしい親

 甘い親がいれば、当然、きびしい親もいる。ある月刊誌から、そのきびしい親について原稿
を書いてくれという依頼があった。「たとえば、忙しいときにまつわりついてくる子どもは、どうし
たらよいか」と。

 最近では、怒るべきときに怒らない親。叱るべきときに、叱らない親がふえている。あるいは
叱っても、すぐあとに「ごめんね」と、親のほうがあやまったりする。少子化がそれに拍車をかけ
る。子どもの機嫌をそこねまいと、親はそうするが、そういうスキ間をねらって、子どもは、わが
ままになる。
 で、そのまつわりついてくる子どもは、どうしたらよいか。以前、オランダ人の家庭に遊びに行
ったときのことである。母親が本を読んでいると、じゅうたんの上で遊んでいた子ども(幼稚園
児)が突然、立ちあがった。立ちあがって、母親にあれこれ話しはじめた。が、その母親は無
言のまま子どもの話にひと通り耳を傾けたあと、こう言った。「ママは、今、本を読んでいます。
じゃまをしないでね」と。
 欧米流の子育てのし方が、必ずしもよいというわけではないが、欧米人は、(自分の時間)
と、(子どもに接する時間)を、しっかりと区別している。こうした、き然とした態度が、「私は私。
あなたはあなた」というものの考え方を、子どもの中に育てる。つまるところ、子育てというの
は、子どもを自立させ、よき家庭人にすることである。そういう視点にたつなら、親はできるだ
け早い時期に、子離れの準備をし、子どもには親離れの準備をさせる。
 忙しかったら、「忙しい」と言う。子どもに遠慮をする必要はない。

 なお、きびしい親と、冷たい親とはちがう。一般に、乳幼児期に、温かいスキンシップが不足
すると、心の冷たい子どもになると言われている。たとえばペットの小鳥が死んでも、紙に包ん
でポイとゴミ箱へ捨てる、など。心の温かい子どもにするためには、たっぷりと愛情をそそぎ、
スキンシップを大切にする。しかしスキンシップは量ではなく、質。ある父親は、仕事の関係で、
週に一、二度しか子どもに会えなかった。しかし会うたびに、その父親は、力一杯、子どもを抱
いた。お母さんは、「うちは疑似母子家庭です」と笑っていたが、そのため、その子どもの心は
ゆがまなかった。
 子どもに冷たい親は、たいてい、不幸にして、不幸な家庭に育った親だと思ってよい。親自身
が、『親像』をもっていない。親というものが、どういうものであるか、知らない。だから、冷たくな
る。私が子どものころ、近所に、一度も子どもを抱いたことがないという母親がいた。エプロン
が汚れるからといって、その上にもう一枚、エプロンを重ねて着るような人で、下の子どもの世
話はすべて、上の子どもたちにさせていた。戦後の混乱期のことで、当時は、そういう風変わり
な母親もいた。


体罰

 みさえは容赦なく、しんのすけに体罰を加える。(V1)の中では、お尻叩き、ちびくり、げんこ
つなど。しんのすけは、ほとんど毎回、頭にたんこぶをつくるが、時にそのたんこぶは二段にな
ることもある。さらに巻が進むと、「げんこつフラッシュ」「スペシャルローリング、ぐりぐりフラッシ
ュ」(V7)「新おしおき技、ぞうきんしぼり」(V10)などが登場する。たんこぶも、三段になったり
する。きわめつけは、(V17・102)にある。なんとそこでは、みさえが足でしんのすけを蹴りあ
げ、そのはずみで、しんのすけは空を飛び、ドアに「どっ」と、頭をぶつけている。

 そこで小学生に家庭でどんな体罰を受けるかについて調査してみた。叩かれる、殴られる、
蹴られるなど。台所のスミに座らされる、小づかいを取り上げられる、立たされるというのもあ
った。中に、仏間で一人で寝させられるというのもあった。家からの追い出しというのもあった
が、たいてい一、二時間で親が迎えにくるとのこと。野原家でも、追い出しが、体罰の一つにな
っている。みさえが「絶対、家には入れません!!」と、しんのすけに向かって、叫んでいるシー
ンもある(V9・120)。家出をしたしんのすけ、あるいは家を追い出されたしんのすけは、しばし
ば犬小屋の中で、眠る。

 しかし子どもの頭に体罰を加えるのは、まずい。タブーと言ってもよい。頭にはその子どもの
人格が宿る。その頭を叩くというのは、子どもの人格を否定することになる。それに頭というの
は、打ちどころが悪いと、障害が残ることすらある。しんのすけはそのつど、頭にたんこぶをつ
くるが、たんこぶができるほど、子どもを叩いてはいけない。コミックという冗談の世界であるに
せよ、みさえは大いに反省すべきである。人の頭を叩くという権利は、たとえ親であっても、な
い。体罰を加えるとしたら、お尻にしたらよい。お尻なら、多少強く叩いても、害はない。「体罰
は尻」という原則を一度つくっておくと、子どもの指導がしやすくなる。
 なお幼児(年中児・年長児)についても、今回二〇名の母親のうち、九名が、子どもに体罰を
与えているのがわかった。「お尻のひっぱ叩き」が多いが、手を叩く、頭を叩く、頭にゲンコツと
いうのもあった。そのほかの親は、体罰ではなく、ふつうの『バツ』を与えていた。「廊下へ追い
出す」「家からの追い出し」「一人で寝させる」「テレビゲームを取りあげる」など。一人、「追い出
したが、ガラスを割って、中へ入ってきたので、以来、追い出しはやめた」という人もいた。

条件

 みさえはしんのすけに、そのつど、条件を出す。言うことをきかせるために、である。たとえば
……、

●みさえ「(犬の世話は)あなたが自分でやること」「ちょっとでもなまけたら、(犬を)よそにあげ
ちゃうからね」(V1・64)
●みさえ「ほらまた、おもちゃ、出しっぱなし。あと片づけしなかったら、すてちゃうからね」(V1・
70)
●みさえ「じゃ、あなたがいい子になって、ママの喜ぶようなことをしてくれたら、(花火を)買っ
てあげる」(V1・82)など。

 幼児を指導するとき、してはならない四悪がある。無理、強制、条件それに比較の四つであ
る。特に学習のしつけでは、この四悪は避ける。ほかのことならともかくも、一度子どもを勉強
嫌いにすると、あとがたいへん……、というより、以後、好きになることは、まずない。幼児期と
いうのは、そういう意味で子どもの方向性を決める大切な時期といえる。で、その中の条件に
ついて。

 たとえば「一〇〇点を取ったら、お小づかいをあげる」、「成績があがったら、自転車を買って
あげる」、「二時間、勉強したら、コアラのマーチ(ロッテのチョコレート菓子)を買ってあげる」な
どが、ここでいう条件である。
 この条件づけが日常化すると、やがて子どもはその条件なしでは、勉強しなくなる。あるいは
反対に、子どものほうから条件を出すようになる。「勉強してやるから、千円よこせ!」とか。そ
ればかりではない。この条件は一度、習慣化すると、どんどんエスカレートする。幼児のうち
は、コアラのマーチですむが、高校生ともなると、それではすまない。「公立高校へ入ってやっ
たから、(入学金が安くすんだので、その分で)、夏休みはアメリカへホームステイさせろ」と言
った高校生がいた。そういうふうになる。まだある。この条件が日常化すると、子どもは、「勉強
は自分のためにするもの」という意識をなくす。そして「勉強とは、親のためにするもの」とすら
思うようになる。高校生の中にも、親に向かって、「大学へ行ってやる。行けば文句はないんだ
ろ」と豪語する(?)できそこないは、いくらでもいる。

 みさえはまだ、この条件の恐ろしさを知らない。幼児を指導するときは、時間はかかっても、
繰り返し繰り返し、大切なことだけを言う。犬の世話をさせたいなら、「犬の世話をしなさい」とだ
けを繰り返す。いわんや、脅してはいけない。みさえは、しんのすけをこう脅している。「(犬を)
よそにあげちゃう」「(おもちゃを)すてる」など。(V15・69)では、「もう、あんたみたいな、悪い
子、知らない!今日から、あんたは、ママの子じゃ、ないからね!!」と。
 こういう脅しは、子どもの心から、静かに考えるという習慣を奪う。デパートなどで、よく子ども
に向かって、「あなたなんか、もう捨てちゃうからね」と脅している親をみかける。子どものほう
は、本当に捨てられるという恐怖心から、大声でギャーギャーと泣きわめくが、しつけとしての
効果は、まったくない。ないばかりか、子どもの心をゆがめてしまう。極端なケースだが、「老人
のような役立たずは、皆、早く死ねばよい」(高校生)というような短絡的なものの考え方を、平
気でするようになる。もっともしんのすけの場合は、「ママの子じゃ、ないからね」と脅されても、
舌を出して、「いーもーんだ。みのもーんた」と言い返しているが……。

比較

 親は、常に、他人の子どもを見ながら、自分の子どもを判断する。それはそれでしかたない
ことだが、しかしそれを子どもに押しつけてはいけない。「あのA君は、もうカタカナが書けるの
よ。どうしてあなたは、まだ書けないの!」と。こういう比較が日常化すると、子どもからは『自
分』が消える。「自分は自分だ」という、ものの考え方ができなくなる。さらに進むと、世間体だ
けを気にする子どもになってしまう。わかりやすく言えば、他人の『目』の中で、生きるようにな
る。こういう生き方は、他人が見ても、見苦しい。ある高校生はこう言った。「先生、T大学と、K
大学。どっちがかっこいいですかね。結婚式のこともあるから」と。また別の高校生はこう言っ
た。「どうしてもA大学へ入りたい。A大学であれば、学部はどこでもいい」と。

 この世界、「私は私」という生き方が、なかなかできない。私も、幼稚園の教師になったとき、
同窓会の席などでは、それを正直に言えなかった。仲がよかった連中でも、「(三井物産とい
う)商社をやめて、幼稚園に就職した」と私が打ち明けると、誰もが「どうして……!」と、言葉を
つまらせてしまった。この日本では、肩書で人を判断する傾向がある。インドのカースト制度の
ようなもので、日本人の体質にしっかりとしみついている。だから肩書なしで生きるのは、容易
なことではない。反対に、肩書だけで飯を食べている人は、いくらでもいる。なんとも愚劣な社
会だが、私たちは、インドのカースト制度を笑っても、自分たちの学歴制度は笑わない。小さな
世界だけにいると、どうしても視野が狭くなる。

 クレヨンしんちゃん(V1)の中には、みさえが、しんのすけを他人の子どもと比較して、しんの
すけにとやかく言うシーンは、ない。そういう意味で、みさえは世間体をほとんど気にしていない
のがわかる。みさえはいつも、「私は私」というものの考え方をしている。……ようだ。しかしこ
れはみさえという女性を描いているのが、臼井氏という、男性だからではないか。しかも彼はコ
ミック作家。世間体を気にしていたら、コミックなどかけない。その臼井氏のものの考え方が、
そのまま、みさえに反映されている。だからみさえは、世間体をほとんど気にしていない。これ
は私の勝手な判断だが、私はそう思う。




オラと母ちゃんは、友だちダゾ!



見栄っぱりママ

 女性というのは、外見からは判断できない。母親は、さらにできない。もしあなたがみさえの
ような女性を街角で見かけたとしたら、あなたはその女性を、どう判断するだろうか。
 ふつう女性にかぎらず、人は、外では自分とは正反対の自分を演じてみせる。友人が少な
く、それをコンプレックスに感じている人は、友だちが多いことを吹聴する。うつ型タイプで、い
つもクヨクヨ悩んでいる人は、外ではかえって快活にふるまう。自分のいやな面を、相手に知ら
れたくないという心理が働くためである。
 しかし子どもを見れば、いくら親がごまかしても、家庭の内側まで見えてしまう。たとえば夫婦
関係。夫婦関係がうまくいっている家庭の子どもは、静かに落ちついている。話していても、ホ
ッとするような安堵感すら覚える。反対に、家庭の中がゴタゴタしていると、子どもは粗雑にな
る。情緒が不安定になることもある。
 それはともかくも、子育てを見苦しくするものに、見栄、体裁、メンツ、世間体の四つがある。
子育てにまつわるほとんどの悩みは、この四つに起因する。もしこの四つと決別することがで
きたら、子育ての悩みは、そのほとんどが解決する。

 まず見栄。自分を現実の自分以上に飾り、そのふりをすることを見栄という。家計費を削りに
削って、一流の音楽家の個人レッスンを子どもに受けさせる、など。見栄をはりはじめると、親
も疲れるが、子どもも疲れる。
 体裁。体裁には、嘘がつきまとう。子どもが停学処分を受けて、家でゴロゴロしていても、近
所の人には、「病気で休んでいます……」と嘘をつく、など。体裁をつくろうというのは、そういう
意味だが、この体裁に毒されると、子どもの姿が見えなくなる。
 メンツ。近くのA進学校へ入れないとわかった親は、遠くの全寮制の学校(月謝は数倍、高
い)へ、子どもを入学させたりする。そういうやりかたでメンツを保つ。
 世間体。世間体を気にする親は、いつも世間では自分がどう見られているかを気にする。そ
のため虚飾や虚栄で、身をつつむ。「いい人」ぶろうとする。幸福観も相対的なもので、他人の
不幸を見て、自分の幸福を実感する。だから、他人の失敗や不幸を、ことさらに喜んだり、笑っ
たりする。つまりその分、自分自身の姿が見えない。自分がどういう人間なのか、またどういう
人間であったらよいのか、それがわからない。もちろん子どもについても、世間の『目』を意識
する。どうすれば自分の子どもがよい子どもに見えるか、そればかりを気にする。自意識が過
剰タイプの親は、そうなりやすいので、注意する。

 しんのすけはみさえを、「見栄っぱり」(V1・65)と批評している。しんのすけが、みさえのどの
部分を、どう見てそう判断したのかはわからない。(V1)を見るかぎり、みさえが見栄をはって
いるシーンは、ない。最新巻の(V17)まで、ザッと目を通してみたが、それらしきシーンは、ほ
とんどない。ただ一か所、みさえがよしなが先生に、着がえの服を貸すとき、みさえがずらりと
高級服を並べ、それを見せびらかすシーンはあるにはある(V4・118)。コマのスミには、みさ
えのうれしそうな顔があり、「見栄っぱり」と注が添えられている。しかしこの程度の見栄は、ふ
つう「見栄」とは言わないのではないか。
 むしろみさえの見栄は、しんのすけによってそのつど、ことごとくつぶされている。恥をかかさ
れることも多い。しいて言えば、おしゃれで、いつも服装がちがうということか。(V1)の中では、
十種類の洋服を着ている。水着を入れると、十一種類ということになる。しかしだからといっ
て、見栄っぱりとは言えない。できの悪いしんのすけを、よい子(?)に見せようというシーンで
もあれば、別だが、そういうシーンもない。みさえは、あまり見栄っぱりでないと思うし、世間体
もほとんど気にしていないようにみえる。

 見栄っぱりと言えば、ばら組担任のまつざか先生だ。給料のほとんどを、洋服代と化粧品代
に使い、住んでいるところは、瀬古井荘。「セコイ荘」と読む。しんのすけにそのことがバレそう
になったとき、まつざか先生は、それを懸命に隠そうとする。隠そうとして、その近くの高級マン
ションに住んでいると嘘を言う。そして失敗する(V8・64)。親でも、こういう親が、子育てで失
敗しやすい。見栄というのは、いわば濃いサングラスのようなもの。これをかけると、子どもの
姿が見えなくなる。見栄を気にする人は、本当に、多い。こんな人がいた。
 自分の息子が、浜松市内でも五位にランクされている高校に、かようようになったときのこと
である。その母親は、「近所に恥ずかしいから」という理由で、毎朝、息子の送り迎えを自分の
車でしていた。子どもの制服を隠すために、である。また別の母親は、息子(中三)がいよいよ
受験というとき、進学校別懇談会には、一度も顔を出さなかった。やはり「(Cランクの学校で
は)恥ずかしいから」と。息子が下位の高校へ行くことを、これらの母親は「恥ずかしい」と言う
のだ。私が住む浜松市では、高校入試が、人間選別の関門になっている。

ダブル構造

 みさえは、しんのすけに対して、ストレートすぎるほど、ストレートである。それがよいことなの
か、悪いことなのかという議論は別として、直情的ですらある。(V1)の中でも、みさえが自分の
考えをかみくだきながら、しんのすけに伝えるシーンは、ほとんどない。みさえは、感じたまま、
思ったままをしんのすけに言う……というよりは、ぶつける。このタイプの母親は、子育てをしな
がらも、わだかまりをつくらない。だから疲れない。だからみさえは、しんのすけとのドタバタ劇
を日常的に繰り返すことができる。
 これはしんのすけに対してではないが、こんな過激なシーンもある。ひまわりが生まれてから
まもなくのこと。そのひまわりを見にやってきた九州と秋田の二人の実父に、みさえは、次のよ
うにわめき散らしている。

九州の父「日本人の朝は、昔から、ご飯とみそ汁に決まっとるたい……」
みさえ「文句あるなら、九州に帰ればよかでしょ!」
秋田の父「やーい。実の娘に怒られてやんの。へへ〜んだ」
みさえ、秋田の父に向かって、「黙れ、ひからびたゆで玉子!」
秋田の父「ひ……ひからびた、ゆで……。ひどーい」
九州の父「みさえ、口が過ぎるたい」
みさえ「やかましいわ。一年中、雪景色頭!」(V16・111)

 ここでいう「ゆで玉子」というのは、ツルツル頭をいう。また「雪景色頭」というは、そういう様子
の頭をいう。私はこういうことを堂々と口にすることができる女性は、うらやましいと思う。私な
ど、そういうことが言えなくて、いつもストレスを自分の中にため込んでしまう。そして悶々と悩ん
でしまう。

 さて反対に、子育てが苦痛だという親がいる。気負い型ママと呼ばれるタイプの親がそれだ
が、このタイプの親は、「よい親であろう」という思いが強い。あるいは「よい親でなくてはならな
い」という気負いが強い。だから疲れてしまう。そればかりではない。このタイプの親は、子ども
に対して(他人に対しても!)、よい親を演じようとするあまり、自分の中にダブル構造をつくっ
てしまう。そして長い年月をかけて、その演技力を、ますます磨き(?)、結果として、(本来の自
分)と、(みかけの自分)の間に大きなギャップをつくってしまう。私はそのことを、教師という自
分の姿の中で発見した。

 私は本来、いいかげんな人間だ……と思う。そのいいかげんな私が、精一杯、よい教師を演
ずる……演じていた。しかしこれはたいへん疲れることで、私はそのうち、はげしい偏頭痛を覚
えるようになった。私が三〇歳になるころのことだった。医者に相談すると、「趣味をもちなさ
い」と。それで懸命に模型飛行機を作るようになり、一応、偏頭痛はおさまったが、しかし疲れ
ることには変わりがなかった。そこで私は、あるときから、自分を演ずることをやめた。そしてあ
りのままの姿で、ありのままの気持ちで、生徒に接するようにした。「私はこういう人間なんだ」
と居直った。とたん、……と言っても、それには数年かかったが、教えることそのものが、楽しく
なった。生徒たちの表情も見ちがえるほど、明るくなった。
 が、問題はこのことでもない。ここでいうダブル構造の親子関係では、心のかよい合う親子関
係はつくれないということだ。たとえば仕事における人間関係からは、真の人間関係が生まれ
ない。仕事における人間関係には、どうしてもそこに損得勘定がつきまとう。その損得勘定が、
(本来の自分)と(みかけの自分)の間にギャップをつくってしまう。私も仕事の上で、今まで多く
の人たちと接してきたが、そういう人たちとは、最後のところではどうしても親しくなれない。

 子どもが親のダブル構造に気づいたとき、子どもの心は親から離れる。よくある例が、「子ど
ものため」という理由で、過酷な学習を子どもに強いるケース。親は「子どものため」を口実に
するかもしれないが、本音を言えば、親のメンツ。世間体。見栄に体裁。中にときどき、「親子
関係を多少犠牲にしてでもいいから、息子にはよい学校に入ってもらいたい」と言う乱暴な親も
いるが、そういう親のほうがまだわかりやすい。たいていの親は、そういう本来の自分、つまり
本音を隠しながら、子どもに過酷な学習を強いる。ある親はこう言った。「私はどこの中学校で
もいいと思っているのですが、息子はどうしてもA中学へ入りたいと言っています。私は親とし
て、息子の願いをどうしてもかなえてあげたいのです」と。そこでその子ども自身に問いただす
と、「ぼくはどこでもいいと言っているのだけれど、ママが許してくれない……」と。

 心のかよい合う親子関係をつくりたいと思うなら、みさえのように、ストレートに子どもと接する
ことだ。嘘をついてはいけない。いつも本音をぶつけあうことだ。

ありのままの親

 子どもに限らず、おとなもそうだが、子どもというのは、肉体を使って疲れるということはまず
ない。肉体を使って疲れたような場合には、子どもは「眠い」と言う。子どもが「疲れた」と言うと
きは、まず精神的な疲れを疑ってみる。子どもは、精神的な緊張感にたいへんもろい。それこ
そ五分間程度でも精神的に緊張すると、子どもはそれだけで疲れてしまう。はく息が臭くなった
り、腹痛や下痢を訴えることもある。
 そこでしんのすけをもう一度、観察してみてほしい。(V1)の中だけでも、しんのすけは、常に
(ありのままの自分)を、そのまま表現しているのがわかる。幼児教育の世界では、こういう子
どもを、すなおな子どもと言う。従順で静かな子どもを、すなおな子どもとは決して、言わない。
むしろこのタイプの子どもは、何を考えているかわからないため、指導が難しい。そればかりで
はない。あとあといろいろな問題を引き起こすこともわかっている。
 このしんのすけのようなタイプの子どもは、そのため、疲れるということがない。すなおに自分
を表現するため、心の中はいつもからっぽ。ストレスをためたり、わだかまりをもったりすること
もない。事実、(V1)の中でも、しんのすけが精神的に疲れている様子のシーンは、一か所もな
い。本来、子どもというのはそうあるべきで、またそういう子どもにしなければならない。

 親もまた、しかり。子育ての基本は、まず(ありのままの自分)を子どもに示すこと。そして(あ
りのままの子ども)を、そのまま受け入れること。もしあなたが子育てのどこかで遠慮を感じた
ら、それは子育てのどこかが、ゆがんでいるということになる。あるいは子どもが親に、いつも
嘘をついたり弁解ばかりしているようであれば、それは子育てのどこかが、ゆがんでいるという
ことになる。もちろん、(ありのままの自分)を示すということと、感情のおもむくまま行動すると
いうのは、別問題である。



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(三一書房)