はやし浩司

子育て最01-5-7
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子育て最前線のあなたへ
(中日新聞社)・1500円
ISBN4-8062-0410-2
この本は、お近くの中日新聞販売店でも注文できます。



http://www.chunichi-tokai.co.jp/education/child_world/
で、最新号をお読みいただけます。


子育てバトル、ここが最前線!

 問題のない子どもはいない。だから楽な子育ても、ない。だから子育てはまさにバトル。すさ
まじいバトル。息つくひまもない。これは、そんな最前線で戦っている、お父さん、お母さんのた
めの本。ぎょっと驚く、最前線。あっと驚く、こんな知恵。この本には、著者の前を通り過ぎた、
数千人のお父さん、お母さんの経験が、ぎっしりとつまっている。





はじめまして……

 どの頁の、どの項でもよいですから、一度、開いてみてください。そしてほんの一行でもよい
ですから、読んでみてください。そこにあなたは、私というより、私の前を通り過ぎていった、無
数の人たちの知恵と経験を発見するでしょう。そうです、この本は、そういう無数の人たちの知
恵と経験を、集大成した本です。
 いろいろな教育者がいます。エラ〜イ人も、そうでない人も。が、この私について言うなら、こ
の私ほど、子育ての「場」を多く踏んだ者はいないだろうということです。しかもいつも最前線。
しかもいつも最下層。ほかの教師になら遠慮する親も、私には遠慮しません。同僚の先生や
親に、殴られたり、ひっぱたかれたことは、二度や三度ではありません。その上、「幼児教育」
という「形」そのものが、まだない時代でした。そこで私が力を入れたのは、母親教室とアンケ
ート調査でした。そう、幼稚園の教師になったころは、毎日、母親教室を開きました。授業が終
わると、そのまま教室で、公民館で、あるいは近くの喫茶店で。毎日、です。そしてわからない
ことがあると、ただひたすらアンケート調査を繰り返しました。教材すら、自分で作っていまし
た。それだけではありません。当時、幼稚園で手にした給料が二万円。大卒の初任給が五〜
六万円の時代でしたが、「これでは生活ができない」ということで、園長と話しあい、午後は自
由にしてもらいました。で、近くの塾で講師をしたり、夜は、高校生相手の塾を開いたり。頼ま
れれば、家庭教師もしました。日によっては、午前中は幼稚園児を、午後は小学生や中学生
を、そして夜は高校生を教えることもありました。つまり一日のうちで、子育ての「始まり」から
「終わり」までを経験したわけです。私はいつしか幼児を見ながら、「この子どもはどうなるのだ
ろう」と考えたり、反対に高校生を見ながら、「どうしてこの子どもはこうなったのだろう」と考え
たりするようになりました。最初のころこそ、それがよくわかりませんでしたが、一〇年、二〇年
とたつうちに、幼稚園の年中児から高校三年生まで、一本の糸でつながるようになりました。つ
まり私は、より幅広い「時」の流れの中で、子どもを見ることができるようになったわけです。
 以上が「私」という人間が、ほかの先生方と違うところですが、そういう「違い」を、この本の中
に発見していただければ、こんなうれしいことはありません。それがそのまま、この本のセール
スポイントになっています。
 


                                はやし浩司



目次

PART・1     

うちの子、どんな子?
 どうしたら いいの?

「抑圧は悪魔を生む」・ゆがむ子どもの心
「こうするとパパが喜ぶよね」・指示は具体的に
「あんたに責任をとってもらう!」・バラバラになる親子
「生徒の持ちものを検査をせよ」・逃げ場を大切に
「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」・友を責めるな、行為を責めよ
「お父さんの給料が少ないでしょう……」・夫婦は一枚岩       (イ無)※
「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論
「机は、購入後三か月で、物置台」・机は休む場所
「子どもの心をつかんだはず」・子どもの金銭感覚          (イ無※)
「本当に頭が、よくなってしまった!」・子どもを伸ばす、こんな方法
「あの子は臭い!」・嫌われっ子、親の責任            (イ無)※
「そんな塾なら、やめなさい」・単純でない子どもの心

PART・1

うちの子、どんな子?
 どうしたら いいの?

 二九年間の幼児教育の経験、
それを書いたのが、このPART・1。
いえ、書いたというよりは、
今までに私の前を通り過ぎていった、
無数の人たちの子育てをまとめたもの、
と言ったほうが正しいかもしれません。
「子どもがわからない……」と思ったら、
どの頁でもよいですから、
この本を開いて読んでみてください。
きっとそこに、あなたは、
あなたのお子さんを、発見するはずです。



「抑圧は悪魔を生む」・ゆがむ子どもの心

 イギリスの諺に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。心の抑圧状態が続くと、ものの考え
方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子どもの心にあてはまる諺はない。き
びしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続くと、子どものものの考え方は、まさ
に悪魔的になる。こんな子ども(小四男児)がいた。
 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。何とそこには、血が
飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」とか、「殺」とかいう文字
もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血がタラタラと流れていた。
ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。神経質な人で、毎日、二時間以上の学
習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノルマになっているワークブックがしてい
ないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり出して、それをさせていた。
 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件
があった。一人の子ども(小二男児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺し
てしまったというのだ。この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親た
ちの間でも大きな問題になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子
ども(中学生)もいた。牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もい
た。ネコやウサギをおもしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫
の頭をもぎとって遊んでいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった
子ども(小三男児)もいた。
 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。そういう
症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干渉が原
因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で発散さ
せようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。一般論とし
て、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られている。合理
的で打算的になる。ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲に
は、心が温かい人もいれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人
ほど、心が温かいということを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのは
しかたないとしても、それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れて
はならない。


「こうするとパパが喜ぶよね」・指示は具体的に

 具体性のない指示には、意味がない。たとえば「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をよ
く聞くのですよ」と言うのは、それを言う側の、気休め程度の意味しかない。「交通事故に気を
つけるのですよ」と言うのも、そうだ。そういうときは、こう言う。友だちと仲よくしてほしかった
ら、「この○○を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわ」と。先生の話をよく聞いて
ほしかったら、「今日、学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとで話してね」と言
うなど。交通事故については、一度、事故の様子を演技してみせるとよい。(自動車が走ってく
る)→(子どもが飛び出す)→(自動車が子どもをはねる)→(子どもがもがき苦しむ)と。迫真の
演技であればあるほど、よい。気の弱い子どもだと泣き出してしまうかもしれないが、子どもの
命を守るためだと思い、決して手を抜かないこと。茶化さないこと。こんな子どもがいた。
 その子どもは、母親が何度注意しても、近くの小川で遊んでいた。そこである日母親が、トイ
レの排水がどこをどう通って、その小川にどう流れていくかを、歩きながら順に追って見せた。
以後、その子どもは、その小川で遊ばなくなった。要するに子どもに与える指示には、具体性
をもたせろということ。この方法は、次のようにも応用できる。
 たとえば自尊心。「自分を大切にしなさい」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、
「名前を大切にしようね」と教える。さらに具体的には、新聞でも雑誌でも、子どもの名前の出
ているものは、最大限尊重する。切りぬいて、高いところに張りつけたり、アルバムにしまった
りする。皆の前で、ほめるのもよい。そしてそのつど、「あなたの名前はいい名前だ」「すばらし
い名前だ」と言う。子どもは自分の名前を大切にすることによって、自分自身を大切にすること
を学ぶ。それが自尊心につながる。
 たとえばやさしさ。「人に親切にしようね」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、そ
のつど、「こうするとパパが喜ぶよね」「これを分けてあげると、○○(妹)が喜ぶわね」と、相手
を喜ばすことを教える。また結局はそれが自分にとっても、楽しいことであることを教える。やさ
しい人というのは、それが自然な形でできる人のことをいう。
 たとえば命の尊さ。「命を大切にしようね」と言っても、やはり意味がない。子どもに命の尊さ
を教えようとするなら、どんな生きものであれ、その「死」をていねいに弔うこと。子ども自身が、
さみしさや悲しみを味わうようにしむける。たとえばあなたのペットが死んだとする。そのときあ
なたがその死骸を、紙袋か何かに包んで、ポイと捨てるようなことをすると、あなたの子どもは
「命」というのは、そういうものだと思うようになる。そして命、さらには生きていることそのもの
を、粗末にするようになる。どんな宗教でも、死をていねいに弔う。それは死を弔いながら、そ
の反射的効果として、生きていることを再確認するためではないか。そういうことも考えなが
ら、死はどこまでも厳粛に。なお死への恐怖心(地獄論やバチ論など)をもたせて、命の尊さを
教える人もいるが、これは教育の世界では邪道。幼児や年少の子どもには、決してしてはなら
ない。


「あんたに責任をとってもらう!」・バラバラになる親子

 Aさんは会社のリストラで職をなくした。企業診断士の資格をもっていたので、市内のマンショ
ンを借りてコンサルタント事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまってしま
った。しかしそれが悲劇の始まりだった。
 まず大学一年生になったばかりの長女が、Aさんを責めた。「大学だけは出してもらう。あん
たに責任をとってもらう」と。次に二女もそれに加わり、「お父さんが勝手なことばかりしている
から、こうなったのだ」と。本来ならここで母親が間に入って、父と娘たちの調整をしなければな
らないのだが、その母親まで、「生活ができない」と言って、家を飛び出してしまった。家族とい
っても、一度歯車が狂うと、どこまでも狂う。狂ってバラバラになってしまう。Aさんはこう言っ
た。「妻の家出のことで助けを求めたとき、長女に『自業自得でしょ』と言われました。そのとき
は背筋が凍る思いがしました」と。
 Aさんは何とか親戚中からお金をかき集めて、長女の学費を工面した。が、そういう苦労など
どこ吹く風。長女は妻が身を寄せている三重県の実家へは帰るものの、Aさんのところには寄
りつかなくなってしまった。仕送りが遅れたりすると、長女から矢の催促が届くという。
 こう書くとAさんをだらしない男のように思う人もいるかもしれないが、ごくふつうの、しかも典
型的なまじめ型人間。日本人の何割かが、彼のような人物といってもよい。人一倍家族思い
で、また家族のためならどんな苦労もいとわない。Aさんはこう言う。「朝早く仕事にでかけ、い
つも帰るのは真夜中。家族はそれで満足してくれていると思っていました。しかし妻も娘たち
も、自分とはまったく違ったとらえ方をしていたのですね」と。
 そのAさんは今は、二女の進学問題で悩んでいる。「お金がないから……」と言いかけると、
次女は「今ごろそういうことを言われても困る」と。「そういう話は前もって言ってもらわなければ
困る」とも。
 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け』というのがあ
る。親というのは、子どもに何かものを買ってあげることで、親としての義務を果たしたかのよう
に思うかもしれない。が、それでは子どもの心をつかむことはできない。子どもの心をつかみた
かったら、「釣りに行け」と。何でもないことのようだが、親子の意識のズレはこうして始まる。
「してあげた」と思う親。それを「当たり前」と思う子ども。そしてそのズレが無数に積み重なっ
て、Aさんのようになる。いつか気がついてみたら、家族の心がバラバラになっていた、と。つい
でに一言。
 私たち戦後の団塊世代は、あのひもじさを知っている。だから子どもたちには、そのひもじい
思いをさせたくないとがんばってきた。結果、今の子どもたちは、「ひもじい」という言葉の意味
そのものすら知らない。しかしそれが今、あちこちの家庭で裏目に出ようとしている。Aさんの
家庭もそんな家庭だが、皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。


「生徒の持ちものを検査をせよ」・逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。親がこの逃げ場を平気で
侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいには、家出ということにもなり
かねない。そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ
場へ逃げたら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりし
てもいけない。子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保でき
ないとわかると、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られ
ると、トイレに逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬
小屋の中に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももい
た。
 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別
できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛
省しなければならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省す
る。激しい家庭騒動が原因になることもある。
 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。
 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちも
のを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバン
の中など、のぞけるものではない。私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたこと
がない。たとえ許可があっても、サイフを取り出すこともできない。私はそういうことをするの
が、ゾッとするほど、いやだ。
 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。それが
わかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それをしては
いけない。子どもの尊厳を守るために。


「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」・友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。
 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。
 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。
 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。
 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。


「お父さんの給料が少ないでしょう……」・夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。
「お父さんの給料が少ないでしょう。だからお母さんは、苦労しているのよ」と。あるいは「お父さ
んは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」と。母親としては
娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離れるだけならま
だしも、母親の指示に従わなくなる。
 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。たとえば何か重要な決断を迫られた
ようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよ
う」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前ではしない。父、子どもに向かって、
「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。こういう会
話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。「お父さん
がそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子どものいないと
ころで調整する。子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いから
でしょう」と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、
子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大
原則。
 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。しか
し夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見せて
はならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。その教授はほ
かに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみるとよい」とか、
「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみるとよい」とか
書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関係は消え
る。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろうか。あな
たは捜索願いだって出すかもしれない。
 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。古いことを言うようだが、
そういう「様」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築
き、よい家庭をもつことができる。欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の
最大の目標にしている。その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。


「これだけは絶対に人に負けない」・子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイ
プの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういう
ときのため、……というだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側
面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。
 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。
 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これ
は何だ」と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを
勧めた。パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころに
は、ベーシック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。
 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向
かって創造的なものをいう。「創造的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれる
ものという意味である。そしてここが大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金を
たっぷりとかける。そういう思いっきりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分
野に関しては、あいつしかいない」という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶
対に人に負けない」という状態にする。
 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。 

 
「机は、購入後三か月で、物置台」・机は休む場所

 子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。
 どんな勉強でもしばらくすると、疲れる。問題はその疲れたとき。そのとき、そのまま机に座っ
て休めればよし。そうでなければ、子どもは机から離れる……イコール、そこで勉強は中断す
る。一度、中断した勉強は、なかなかもとに戻らない。そこで机を選ぶときは、そのまま休める
机であるかどうかを考えながら、選ぶ。最近では前に棚のある、棚式の学習机が主流だ。しか
しこのタイプの机は、機能的にはできているが、圧迫感があって、長く使っていると抑うつ感が
生まれる。へたをすれば、勉強嫌いの遠因ともなりうる。実際、私が調査したところ、この棚式
の机は、購入後三か月で、約八〇%強が物置台になっていることがわかった(小学一年生、
三〇名について調査)。
 そこであなたの子どもと学習机の相性を調べてみよう。方法は次のようにする。まず子ども
が好きそうな食べものを用意する。そしてそれをそれとなく、子どもの机の上に置いてみる。そ
のとき子どもがそのまま机に座って、それを食べればよし。しかし子どもがそれを机から別の
場所へ移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。
 あるいはあなたの子どもが学校から帰ってきたとき、最初にどこに座り、体を休めるかを観
察してみる。そのとき子どもが、自分の机に座って体を休めるようであれば、その机との相性
は、きわめてよいとみる。結論から先に言えば、学習机のポイントは、@平机であること。A机
の前にはできるだけ広い空間を用意すること。B棚など、圧迫感のあるものは、背部に置くこ
と。C机に座った位置から、ドアが見えるように配置すること。背中側にドアがあると、心理的
に落ち着かない。D窓の位置も重要である。窓は机に座った位置から、向かって左側にあると
よい。これは採光のため(約一〇〇名について調査)。
 しかしもっと重要なのが、実は、椅子である。机を選ぶときは、椅子の座りごごちをみること。
椅子は座る部分が平らで、かためのもの。窮屈なものより、広めなものがよい。腕を休めるこ
とができるひじかけがあれば、なおよい。ふかぶかとした、やわらかい椅子は、一見座りごこち
がよさそうにみえるが、実際には疲れやすいことがわかっている。また、わざと前かがみになっ
て学習する椅子がある。椅子自体が、前へ傾くようになっている。しかしあの椅子は、学習中
は能率があがるものの、座った状態で休むことができない。つまり、そこで学習が中断する。な
お小学校の低学年児についてみると、大半の子どもは、台所のテーブルなどを利用して勉強し
ている。子どもというのは、無意識のうちにも、一番居ごこちのよい場所を選んで、勉強する。
もしそうであれば、テーブルを積極的に学習机にしてみるという手もある。子どもは進んで、勉
強するようになるかもしれない。少なくとも勉強は学習机でするものという考え方は、この時期
には当てはまらない。
 要するに、ものには相性というものがある。その相性が悪いと、長い時間をかけて、子どもを
マイナスの方向に引っぱってしまう。子どもの学習環境を考えるときは、機能ではなく、その相
性をみながら判断する。


「子どもの心をつかんだはず」・子どもの金銭感覚

 年長(六歳)から小学二年(八歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感
覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期
を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。
 この時期の子どものお金は、一〇〇倍して考えるとよい。たとえば子どもの一〇〇円は、お
となの一万円に相当する。千円は、一〇万円に相当する。親は安易に子どもにものを買い与
えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、一万円、一〇万円に相当す
る。「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子ども
が、将来どうなるか。もう、言べくもない。さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さ
くなったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多
い。より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。あるいは
「子どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。そ
れだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子ども(小二
男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行ってもら
う」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてしま
う」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りに
くいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容そ
のものが、昔とは違う。変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビに
こんなシーンが出てきた。援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答え
ていた。「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚そのも
のが、マヒしている。もっているものが、一〇万円、二〇万円という、ブランド品ばかり!
 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。千円
のものだろうか。それとも一万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与えると
しても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その前
に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。どちらにせよ、し
かしこれだけは覚えておくとよい。五、六歳の子どもに、一万、二万円のプレゼントをホイホイと
買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、あなたは一〇〇万円、二〇〇万円
のものを買い与えなくてはならなくなる。つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなく
なる。あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものため
に、やめたほうがよい。やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくな
る。そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。


「本当に頭がよくなった!」(子どもを伸ばすこんな方法)
       
 あなたは白いご飯に、チョコレートをかけて食べることができるか。ミルクか、ココアでもよい。
「できない」と思っているなら、一度、ためしてみたらよい。そういうのを発想の転換という。一
度、うちへホームステイしたオーストラリア人が、そういう食べ方を教えてくれた。彼らは、豆腐
にジャムをつけて食べていた!
 子どもの頭をよくしたいと思っているなら、そういう刺激を与える。もっと言えば、「あれっ!」と
思うような意外性を大切にする。意外性が大きければ大きいほど、脳の中の神経組織が発達
する。マンネリはよくない。マンネリは、知能発達の大敵と考える。……といっても、お金をかけ
ろということではない。発想の転換は、ごく身近で始まる。また身近であればあるほど、刺激も
大きい。庭の草木の葉っぱを、ちぎってかんでみる。おもちゃのトラックの中に、寿司を並べて
みる、など。そうそう私も昔、子どものころだったが、動物の形をしたパンを見て驚いたことが
ある。あのとき感じた新鮮さは、いまだに忘れない。
 ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリ
ッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、
その実験をしているのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶
かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、
とんでもないいたずらをする。
 その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説が
ある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、
ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを
年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってし
まった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果
がある。……と思う。
 また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ち
ゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣
味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
 今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もあ
る。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボー
ルの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にそ
の理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所
の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにした
かったら、できるだけはだしで育てるとよい。


「あの子は臭い!」・嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、@不潔で臭い子ども。A陰湿で性格
が暗く、静かな子ども。B性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、三〇名について
調査)。
 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンな臭いがする」「口が臭い」「髪の毛が汚
い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻クソばかりほじっている」
「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全体が不潔っぽい」など。子どもという
のは、おとなより、臭いに敏感なようだ。
 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」「何もしゃべ
らない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけではないので、いいでは
ないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味だ」と。
 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」「自慢
話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ちたがり屋」など。一
人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。
 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いということ。
特に@の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌われっ子、親の責
任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。
 A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親もそれに悩
んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、腐敗臭とも体臭とも言えない、
何とも言えない不快な臭いが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に問題があるようだが、
本人はそれに気づいていない。そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂で
は、体をよく洗うのだぞ」と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしている
ことを言われたという思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教
室から出ていってしまった。
 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のような臭いがする。私は子どもの頭をよくなでるが、中
には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこで忠告しようと思っ
てA君の母親に会うと、その母親も同じ臭いがした……!
 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑にから
みあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたちが考えている
ほど、その世界は単純ではないし、また表に現われる問題は、ほんの一部でしかない。ここに
あげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、いつも嫌われているとい
うことにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもない。いじめの問題についても、と
もすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界を論ずる傾向がある。が、それだ
けでは足りない。それをわかってほしかったから、ここであえて、嫌われっ子の問題を取りあげ
てみた。


「そんな塾なら、やめなさい」・単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くとこ
ろです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小四)の先生は、点の悪い子どものテストは、投
げて返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?
 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先
生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしてい
る」など。つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先
生に、「今度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学
校の先生の悪口を言うようになった子ども(小三女児)もいた。その子どもはいわば先手を打っ
たわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言い分だけを聞いて真に受ける
と、とんでもないことになる。こんな例もある。
 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方
で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中一)も、その言葉で苦しんでいるはず
だった。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。「君の力は君が一番よく知っているはず
ではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったらどうか」と。しかしB君は、決してそのこと
を父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなってしまう。B君は、親に「やれ
ばできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがままを通していた。あるいは自分
のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。
 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのが
ある。幼稚園で教師になったころのことである。
 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表すると
いうことは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきてい
た。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにK
さんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。と、そのときである。Kさんがスーッ
と涙を流したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても合点がいかな
い。そこで教室が終わってから、Kさんにその理由を聞いた。するとKさんはこう言った。「私が
ほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出て
きちゃった」と。Kさんは、母親の気持ちになって、涙をこぼしていたのだ!
 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行
為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の
行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の
抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。私はAさんのうしろ姿を見送りな
がら、むしろそちらのほうを心配した。


続きはどうか、本をお読みください!