はやし浩司
アメリカの小学校
アメリカの小学校
はやし浩司
アメリカに限らず、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの小学校を訪れて驚くのは、その
「楽しさ」。まるでおもちゃ箱に入ったかのような錯覚にさえとらわれる。百聞は一見にしかず。
この写真は、アメリカ中南部の、ある公立小学校で撮影したもの。アメリカでは、ごく一般的な、
ふつうの学校とみてよい。
●アーカンソー州、アーカデルフィア、ルイサ・E・ぺリット・プライマリー・スクール。ブルー・リボ
ン賞受賞校。四歳児(年中)から七歳児(小一)までを教える。全校生徒三七五名。公立学校
だが、朝食代と昼食代など、必要実費が、週六〇ドル必要。
(写真ABC)は、小一クラス。一クラス二〇名。この日は、教師、大学からきたインターンの学
生、それに当番制で学校に手伝いに来ている母親の三名が、指導に当たっていた。写真右端
にあるのが、教師のデスク。教師のデスクは、それぞれの教室の内部にあり、日本でいう職員
室のような部屋はない。写真左端で床に座っているのが、当番制でやってきた、母親。奥のほ
うでマンツーマンの指導をしているのが教師。インターンの学生は、私と並んでいたので、この
写真には収まっていない。
(写真D)は、図書室の様子。アメリカでは、そして他の国々でも、図書室の充実が、学校教育
の柱になっている。たいていどこの学校にも、専門の司書がいて、子どもの読書指導にあたっ
ている。写真の女性は、ボランティアでやってきた母親。
(写真E)は、コンピュータ学習ルーム。この日は、四歳児が授業を受けていた。この学校で
は、四歳児からコンピュータの学習を実施している。ちなみにオーストラリアでも、すでに一五
年前から、コンピュータ学習は、小学三年生から必須科目になり、現在では、幼稚園レベルか
ら教育を行っている(南オーストラリア州)。
●アメリカの学校制度
こうした公立、私立の学校のほか、アメリカには、チャータースクール(親たちが自ら教師を
雇い、学校そのものをチャーターする)、バウチャ(学校券)スクール(親に配布した学校券で、
学校を運営する)、さらにはホームスクール(学校へ通わないで、家庭で学習する)などの学校
がある。ホームスクールというと、日本では不登校児のための制度と誤解している人が多い
が、それはまちがい。九七年度にはアメリカだけで、ホームスクーラーは、一〇〇万人になり、
毎年約一五%程度の割合でふえている。「真に自由な教育は家庭でできる」(「LEARN IN F
REEDOM」)という理念のもと、この運動は、全世界的に拡大している。アメリカでは、親の希
望に応じて、公的な機関が、専門の教師やアドバイザーを、定期的に派遣するという制度も確
立している。また地域のホームスクールの親や子どもたちは、ひんぱんに会合を開き、合同で
教育活動も行っている。そして現在、世界で一〇〇〇以上もの大学が、ホームスクーラーの子
どもの受け入れ態勢を整えている(前述、L.I.F)。
●教育の自由化
アメリカの学校では、公立、私立に限らず、カリキュラムの作成は、州政府のガイドラインに
従い、親と教師が、「カリキュラム作成委員会」の席で、決定している。日本でいう全国一律の
学習指導要領なようなものはない。(たとえば中学校レベルでも、三年間で所定の単位学習を
すませばよいことになっていて、一年生だから、一年の学習を、という拘束性はない。)また当
然のことながら、アメリカには、日本でいう「文部省検定済教科書」のようなものはない。検定制
度そのものがない。子どもたちが使っているのは、あくまでも「テキスト」である。よくテキストを
「教科書」と訳す人がいるが、欧米でいう「テキスト」と、日本の「教科書」とは、本質的にまったく
異質なものと考えてよい。
ついでながら検定制度について、たとえばオーストラリアには、民間団体による検定委員会
はある。しかし検定する範囲は、過激な性的描写、暴力的表現に限られていて、特に「歴史的
分野」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア州)。
欧米では、「教育の目標は、将来、多様な社会に、柔軟に適応できる子どもを育てること」(オ
ーストラリア)が柱になっている。アメリカでは行き過ぎた自由化が、一部で問題になっている部
分もあるが、しかしこうした自由な発想が、学校教育そのものをダイナミックなものにしている。
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教師、インターン、当番できた親の3人で
一クラス(15〜20名)の指導にあたっていた。
写真の女性は母親。
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教室の風景
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教室の風景
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4歳児のコンピュータ教室
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図書室
アメリカの学校では、図書室の充実に
力を注いでいる印象を受けた。
専門の司書が指導にあたっている。
Hello, Mr. Hayashi. In America, children use mostly pencils in elementary
school. When I was a child, I was not allowed to use a pen until junior
high. It was a really big deal for me to get to buy them at the store
before I started the seventh grade. In early elementary school, it is
required that you bring a large eraser with you to class. However, I think
that towards the latter years of elementary, you are allowed to simply use
the erasers on your pencils. I hope I was able to help. All is going well
here except that my printer connection and scanner in my office are
continually messing up. I have had to have the technician come several
times. The weather is still very nice, not too hot. Hope it cools down
soon for you!
アメリカでは、低学年児は鉛筆と消しゴムを使う。
高学年になるにつれて、消しゴムつきの鉛筆を使い、
その消しゴムを使うように指導される。
ペンが許されるのは、中学生(7学年)になってから。
(AR州、USA)
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リトルロック市の「子ども館」(参考までに……)
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入り口……しかし中は展示物がぎっしり!
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子牛にミルクの与え方を教えているところ。
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学習性が高く、見学するだけで
アメリカの歴史や文化が勉強できる。
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工作ルーム。
アメリカの小学校(写真集)……●
アメリカの大学生
たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思っている。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師の田丸先生(東大元教授)も、つぎのようの書いている。
「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質問がほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、愕然とする」と。
こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われている。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」とも(〇二年八月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。
私の二男も〇一年の五月に、アメリカの州立大学を学位を取って卒業したが、その二男がその少し前、日本に帰国してこう言った。「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカでは考えられない」と。アメリカの州立大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだことの試験がある。そしてそれが集合されてそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立されている。そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部のスクラップアンドビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方をしていれば、即、クビということになる。
ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」を第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみると、驚きを超えて、あきれてしまう。私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言っている。「勉強しているのは、理科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強のベの字もしていない。とくにひどいのが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科系の学部は、多くても三〇〜四〇人が一クラスになっているが、文科系の学部では、三〇〇〜四〇〇人が一クラスがふつう。ていねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」と。
日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、安閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、のんべんだらりと生きのびてきた。とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるから人事」(田丸先生)の中で、まさにトコロ天方式で、人事を順送りにしてきた。何年かすれば、助手は講師になり、講師は助教授になり、そして教授へ、と。それはちょうど、水槽の中にかわれた熱帯魚のような世界と言ってもよい。温度は調整され、酸素もエサも自動的に与えられてきた。田丸先生は、さらにこう書いている。
「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には三回はくり返し練習をするそうである」と。
日本に、そういう教授はいるだろうか。
グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしがみつき、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさに気づくべきときにきているのではないのか。明治の昔から、日本人は、そういうのが教育と思い込んでいる。あるいは思い込まされている。その結果、日本は、日本の教育はどうなった? いまだに大本営発表しか聞かされていないから、欧米の現状をほとんど知らないでいる。中には、いまだに日本の教育は、世界でも最高水準にあると思い込んでいる人も多い。
日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの常識をここに書いておく。
(1)アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
(2)アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
(3)アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり大学の転籍は自由である。
(4)奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強するという意識が徹底している。
(5)毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
(6)魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビに教官も多い。教える教官も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
(7)成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。
日本もそういう大学を、三〇年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学でそれを知ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を払わなかったが)、たいへんなショックを受けた。ここに「今からでも遅くない」と一応、書いたが、正直に言えば、「遅すぎた」。今から改革しても、その成果が出るのは、二〇年後? あるいは三〇年後? そのころ日本はアジアの中でも、マイナーな国の一つとして、完全に埋もれてしまっていることだろう。田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。「人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え自分で判断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てる教育をしなければ、二〇五〇年の日本は本当にだめになる」と。
問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なことばかり書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだが……。
(02−8−14)※
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日本型の子育VSアメリカ型の子育て
●日本の子どもは、一〇〇%、ドラ息子
五年ほど前、日本に住んでいたアメリカ人の友人が、こう言った。「ヒロシ、日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、日本語に訳せば、「ドラ息子化している」という意味。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう思うのか」と聞いた。すると、彼はこう言った。
「ときどき子どもたち(自分の英会話教室の生徒)を、ホームスティさせてやるのだが、何もしないよ。食事の用意も手伝わないし、食後の食器洗いもしない。シャワーを浴びても、アワを流さないし、朝起きても、ベッドもなおさない。何もしないよ」と。
たまたまそんなとき、知人と知人の娘夫婦が、我が家へやってきた。二歳になる女の子を連れてきた。そして我が家へ一泊した。私には、日本型の子育てを観察するには、絶好の機会だった。もっとも、こう書くからといって、決して、その夫婦の子育てを批判したり、それであってはいけないと言っているのではない。私は、もう少し高い視点で、その子育てぶりを観察した。で、わかったことがいくつか、ある。
まず第一。日本人の親たちは、この時期、子どもには、何もさせない。ただ一方的に、子どもにサービスをするだけ。食事の世話、遊び、身の回りの世話など。知人(祖父母)も、親も、その娘を、楽しませることだけを考えているといったふう。泣けば、「どうしたの?」と声をかけて、心配する。少し退屈そうな顔していると、あれこれもたせて、機嫌をとる。何か食べ物があると、「これ、おいしいよ」と、真っ先に、子どもに食べさせる。コップにジュースを入れて飲ませても、そのコップは、親が片づける。子どもは、まさに、したい放題、やりたい放題。
王子様、王女様という言葉がある。しかしその子どもは、まさに王女様。好き勝手に家の中を走り回っては、キャッキャッと声を張りあげて、騒ぐ。そのつど、知人や、娘夫婦が、あとをおいかけて遊ぶ。こうした子育て方は、日本ではごく当たり前の子育て方になっている。そうでない子育て方をしている家庭など、ほとんどない。またそれだけに疑問に思う人も、ほとんどいない。
しかしここがアメリカ型の子育てとちがうところ。もっともアメリカと言っても広いし、それにあの国は、まさに人種のルツボ。もちろん日系人もいる。しかしアメリカ人の家庭は、かいま見ただけでわかるが、雰囲気がまるで違う。その女の子は、四歳になったばかりの白人の女の子だったが、台所でオレンジジュースを飲んだあと、そのコップをそのままキッチンまでもっていった。日本では見られない光景だったので、私は驚いた。つまりすでにその時期までに、アメリカ人の子どもたちは、そういうことが自然にできるように、しつけられている? その女の子というのは、義理の娘の姪にあたる子どもだった。
●その違いの背景にあるもの
こうした違いは、いったい、いつから、またなぜ始まるのか? 言うまでもなく、この日本では、親はいつも、子どもに対して、「育ててやる」という意識をもつ。日本独特の親意識、あるいは日本独特の保護意識が、その背景にある。子どもに対して、犠牲的であればあるほど、よい親だと誤解しているようなフシすら、ある。そしてさらにその背景には、「子どもは子ども」と、子どもの人格を認めない、日本人独特の子ども観がある。今でも古い世代を中心に、「子どもは財産」、あるいは「跡取り」と考える人は多い。そういう独特の子育て観が、全体として、日本人独特の子育て方をつくる。
一方、アメリカでは、子どもは、生まれながらにして、一人の人格者として認められる。「友」という感覚も強い。それに子育ての世界だけではなく、学校という教育の世界でも、「自立したよき家庭人づくり」が、その柱になっている。つまりひとりで、家庭生活ができるようにするのが、子育ての目標ということになっている。何でもないようだが、この違いは大きい。
たとえばアメリカでは、幼児期から、あるいはもっと早い時期から、子どもにはどんどんと家事をさせる。「させる」という意識すらないほど、自然な形で、そういう雰囲気に、子どもを巻き込んでいる。そのため、日本のように、「いただきました」と言ったあと、汚れた食器をそのままにして、自分の部屋に行ったり、テレビを見始める子どもなど、ほとんどいない。夫とて、例外ではない。みなが、並んで食後のあと片づけを始める。
こういう話をすると、日本の親の中には、「子どもに、家事をそこまで手伝わさせるなんて!」と驚く人がいる。あるいは、「それって、虐待じゃないの?」「子どもがかわいそう!」と言う人もいる。が、実際には、家族全体のムードが、そういうふうに動いているので、現場で見ていると、そういう違和感は、まったく、ない。子育て観、あるいは子育て方そのものが、基本的な部分で、日本人のそれとは、まったく違う。たとえば日本人は、「あと片づけ」にはうるさい。しかしアメリカの家庭でも、オーストラリアの家庭でも、私は親が子どもに向かって、「あと片づけしないさい!」と叫んでいる姿を見たことがない。しかし彼らは、「あと始末」には、うるさい。たとえばジュースを飲んでも、汚れたコップをそのままにしておこうものなら、(実際には、そういう子どもはいないが……)、親は子どもをかなり神経質に叱る。
●子どもの育て方を改めよう
「子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)」「子どもにいい思いをさせれば、子どもは親に感謝するはず。親子のパイプも、それで太くなるはず」と考えている人は多い。それもそのはず、その人自身も、子どものとき、そういう子育てを受けている。だから何の疑問ももたないまま、自分が受けた子育てを、今度は自分の子育てで、繰り返す。しかしこうした子育て方が、今、限界にきつつある。いろいろな統計調査を見ても、日本では、断絶していない親子をさがすほうが、むずかしい。親子関係は、バラバラ。昔のように、親の威厳だけで、家庭がまとまった時代なら、いざ知らず、今は、そういう時代ではない。若い世代から、それを取り巻く意識が、どんどん変化している。そういう時代に、旧態依然のままの、子育て方でよいのかということになる。あるいはこのままだと、親子の関係は、さらにバラバラになってしまう。
そこで私たちは、どう考えたらよいのか。それを防ぐための方法は、いくつかある。
(1)子どもの人格を認める……一方的にかわいがるのは、一見、子どもを大切にしているように見えるが、その実、子どもの人格を無視している。
(2)子どもを、よき家庭人として、自立させる……乳幼児のときから、家事を手伝わさせるように、しむけよう。子どもを決して、王子様、王女様にしてはいけない。
(3)あと始末に、もっと神経質になる……日本人は、国際的にみても、あと始末が苦手な国民ということになっている。何でもナーナーですまそうとする風潮が強い。なぜそうなのかというところに、日本型の子育ての問題点が隠されている。子どものときから、そういう家庭で育っている。子どもがシュースを飲んだら、コップを洗わせよう。コップをしまわせよう。ジュースは、冷蔵庫に戻させよう。
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日本の小学校の授業風景(参考)
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