はやし浩司

田丸謙二先生ホームページ
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田丸謙二(Kenzi Tamaru)先生の論文より



この世界の中にいる人も、そうでない人も、
一度は、田丸先生の論文をご覧になっていただくと、
日本の教育がわかるのではないかと思います。
先生は、研究の世界では、まさに「神の領域」に
入られた方です。私は先生を心から尊敬しています。
先生より送っていただいた原稿の一部を
ここに紹介します。

はやし浩司


30代のはじめの私(中央)・田丸先生のご自宅で……


左から、三男、二男、前が田丸先生、うしろが私。
私の自宅で……(1995年)


私の山荘にて……(2002年末)


先生のご自宅で……(2005年4月) 鎌倉訪問記

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田丸先生原稿集 


●北海道大学教授、杉野目晴貞先生と。
韓国板門店(ハンムンジョン)の会議室で
国連側の説明を聞いているところ。
先生とは、プサン、仏国寺、テグ、慶州、
ソウルなどを、いっしょに旅行した。
1967年。

杉野目先生は、北大学長、日本化学会会長
などを歴任。当時の日本を代表する、
化学者であった。左が私。満19歳のとき。

田丸謙二先生の恩師であったとも聞いている。

田丸謙二先生

東大副総長(総長特別補佐)
日本化学会会長
2000年度日本学士院賞受賞者
国際触媒学会会長ほか








浜松市・浜北区・森の家レストランにて(07年5月12日)


2009年2月・先生のご自宅で
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              (注、そのつど、掲載許可をいただけた原稿のみを、掲載します。)

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●創造力の育て方

 我が国が一昔前まで「追いつけ追い越せ」と言って先進国の後を必死に追い
つこうとしていたものだったが、その時代から抜け出して、トップレベルの仲間
入りをするようになって来た間に世界も大きく変わってしまい、情報化、国際化
の進んだコンピュータの時代になって来た。 確かに現在ほど激しく変化してい
る時代はこれまでもなかったし、これからますます加速度的に変化の速度も早
くなる。 技術の寿命も短くなり、常に新しいものへと移り変わって行く。 このよう
な激動の時代に適応し、時代をリードするには、単なる「横並びの物知り」では
到底駄目で、各人が個性的に自分で自立して考え、他の人が考えない独創性
豊かな発想と判断ができる智慧を育てなくてはいけない。

 したがって新しい時代に即応して教育全体が大きく変化せざるを得ない状態
になって来た。 所謂「ゆとり教育」がアメリカに見習って始まったのもその一つ
である。 しかし、世界の情勢はそのように変わって行っても、我が国は古来文
化の輸入国で、外国から殆ど全てをマネビ(真似をし)、学んで来た歴史を背負
い、それに適応した風土が支配的に出来上がっている。 教育現場の教師たち
も、これまで学んだこともない「創造力を養わせよう」としても、言うは易く実行は
決して容易ではない。 先生自身が学校時代に知識は与えられたことはあって
も、自分自身で創造的に考えるなど殆ど思ってもみなかったからである。 先生
が自立して考えれないとき、生徒たちに創造性を身に着けるといっても、できる
道理がない。

 今度そのような創造性を養う教育を新たに始めたいから、それに加わってくれ
と言うご親切な誘いを受けて、さて何をすればいいのか、改めて、昔読んだ江
崎玲於奈さんの書かれた「創造力の育て方・鍛え方」と言う本(講談社)を取り出
して再び眺めて見た。 もう七、八年前に書かれたものである。 この私のホー
ムページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/)の中には「これからの理科教育」
など、その種のことについては盛り沢山に繰り返し取り上げて来た。 教科書批
判を初め、教え方や入試の改善など具体的な事柄について、意識的に繰り返し
て述べてある。 しかし一方で江崎さんが述べておられる事柄も大変に参考に
なるし、有益なだけに、ここに取り上げてみることにする。 『 』が江崎さんの本
にあるものである。

 『キャッチアップの日本が追随する欧米諸国の中でも、フロントランナーのアメ
リカは特に「個性」や「独創」が評価され、be different (他人と違うこと)が特に
強調される国です。 特徴的な例を一つあげると、教育の面での優劣の基準で
す。一般にアメリカの大学の成績は、excellent(最優秀)、 very good(かなり優
秀)、good(優秀)、fair(良)と言う四段階にで評価されます。 そして最高の
excellentを得るには、単に学力が高いだけはダメで、「独創性」がいかに高い
かが問われます。 そしてこの excellent を目指して学生たちは、自主的に、自
律的に猛烈に勉強します。 ちなみに日本の学校の評価方法はこれにたいし
て、very good、あるいは good の学生を大量に育てることに重点を置いたもの
だといえましょう。 ともあれノーベル賞(自然科学、経済分野)の受賞者がアメリ
カで200人近く、イギリス、ドイツも60人以上を輩出しているが、我が国はわずか
5人です。 日本の教育課程、社会環境では持って生まれたタレントが充分に開
花しないということを示唆するものではないでしょうか?』

 『私はこれまでに何度か、「独創的な研究開発を進めるための鍵は何か」とい
う質問を受けたことがあります。 そんなときに私が強調するのは次の二点で
す。 まず一点は、自由闊達にやることです。 「創造」は当然個人としての活動
ですから、個人の「自由」が重要だと私は考えます。・・企業においては、社員は
組織の一員としての協調性や従順さが求められ、個性的な「出るクギ」は打た
れがちです。 教育の目的にしても、いかにして子供を大人社会の一員に組み
込むかに重きを置かれ、個人の潜在力を最大限に発揮させようとはしませ
ん』、『第二点はテイストを磨くことです。 テイストは審美眼とか鑑識眼という意
味で、本物を見抜く感性のことです。 そしてこれは、人間が個性や創造性を発
揮する上で最も重要な要素になります。 つまり、何が重要なことで、何に着目
したらよいかを正しく見極める力、言い換えれば本物(質)は何かを捉える感性
がなくては、独創的な仕事は行ない得ないからです。・・その意味からも他人の
真似をするのは趣味が悪い(bad taste)ということになります。・・テイストの善し
悪しはウイズダムに関わる問題でもあります。・・つまりこれは、洞察力、評価
力、創造力、想像力の源泉であり、真理や真実、物事の本質を見透かす力とで
も言った能力です』

 『アメリカのSAT(大学入学適性試験)のI種は天分にウエイトを置きます。 こ
れに対して日本の大学試験では受験生の知識の量を測ります。 ですから、一
流大学を目指す高校生は猛烈な受験勉強を強いられるのです。・・日本が「他人
と同じように」知識を得ることを目指すのに対し、アメリカでは「他の人と自分は
どれほど変わっているか」を知るように徹底して教えます。 それから「個性的に
生きる」道を自主的に選ぶことが始まるのです』、『一般的に日本の若者は、「こ
れをやれ」と言われるとよくできます。 しかし、自分から何かを発見することは
苦手です。 それに挑戦する精神も乏しい。 日本の学問は、ものを習う「習得
型」で何か新しいことに挑戦する「模索型」が不足している。 というより、「探究
心」の教育を受けていないといっていいと思います』 

 『財界の人たちと話しても、21世紀の日本に求められるのは、柔軟に変化に
対応する創造力を備えた個性的な人材だという考え方で、一致しています。
ただそう言うのはやさしいけれど、実行はなかなか難しいところがあります。現
在受験校といわれるような高校は、大学の入試にフォーカスを合わせて子供を
教育しています。・・・生徒たちは自発的というよりやや強制的に、大学入試の
ための知識の詰め込み教育を受けています。・・個性を育む大切な時期に、こう
した現代の日本の教育のあり方はたいへん疑問です。・・日本の学校教育は、
個性を自由に伸ばすよりも、協調性や忍耐力を教えこみ、集団になじみやすい
画一的人間を作ることに主眼をおいてきました。

 各人の才能に応じて教育するというより、あらゆる人に平等に教育を施し、学
習指導要領の忠実な実施なども、この画一化の傾向を助長したのではないでし
ょうか。 欧米諸国ではどこでもやられている英才教育なども、エリート主義を好
ましく思わない日本では、あまり取り上げられないようです』、『アメリカの教育は
自発性、自立心の大切さを教え、自分の考えや意見を伝える表現力をつけるこ
とを小さい時から教えます。 それによって自分を発見し、自分にどのような能力
があるか、ということを自覚させます(show and tell)』、『そもそも英語のエデュ
ケーションという言葉は、才能を「引き出す」という意味のラテン語に由来しま
す。 日本語の教え育てるが教育とは趣が違うのです。 特に個人的な知的財
産を築くという立場から言えば、エデュケーションの目的は、まず個人の特性に
焦点ををあわせ、各人の持つユニークさを最大限に引き出すことにあります』

以上江崎さんの本から適宜抜書きしても、そのまま本意は伝わり難いかも知れ
ないが、極く大体の趣旨は読み取っていただけるのではないだろうか。

 各個人の個性に従って創造力を伸ばし育てるということは全くその通りであ
り、私も繰り返し述べて来た。 私に言わせれば,個性を育てる上で,最も大切な
ことは他人と同じ事をしようとするのではなく、自分の頭でまず考える習慣をつ
けることである。 人皆顔が違うように,考え方の中に人それぞれの個性が潜ん
でいる。 それを引き出すのである。 頭は使うほどよく働くようになることは近頃
の脳の科学でもはっきりと示されている。 自分で考えると他人と違うことも考え
る。 基本的な考え方を身につけ、自分なりに考える能力を育てることにより創
造力が生まれ育つのである。 日本人が古来「考える事」が苦手であるというの
は,長年にわたって外国から文化を取り入れ,マネブことを専らして来た風土がで
き上がっているからである。 日本の教育の中に「学ぶ」と言うことが外国から知
識を得ると言うことと同意語になっていることが少なくない。 「学力」が知識の量
で測られるのである。 同じ事を教えて覚えさせ,同じ答えを期待する,日本の教
育は正に「横並びの物知りつくり」の作業なのである。 しかし,情報化した現在で
は,その作業はそのままコンピュータの仕事であり、コンピュータの方が格段に
優れた働きをする。 

 アメリカでは十五年前から理科教育を大幅に変えて,これまでは鯨の種類など
を覚えさせたりしていたのを止めて、理科的な知識よりも探求的に考えることに
重点を置くようにした。それが正に激動の時代の要求する変革でもある。その
基本は「広く浅く」知識を教えることではなく、基本になることをしっかりと理解さ
せ身につけさせ,考える基本にすることである。 そしてその探究的な考え方が,
歴史や社会など他の学科の基本になるという。 Less is more というように、浅
く広い知識よりも少ない基本をしっかりと身につけさせることである。 アメリカで
のセンター試験(SAT)でも知識としてはごく限られた基本になるものを要求し、
自分で考える能力を主にして出題している。 「ただ読んだだけでは理解度
10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で
50%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて95%」
(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。 ここにいう定量的な数
字はともかくとしても、同じ基本を教わるのでも工夫次第で大幅に理解度が違う
のである。 「聞いたことがある」程度に頭に残っているのと,深く理解したのと
では探求的に新しいことを考え出す上では大変な違いになる。 そしてその基
本を基にみっちりと考えさせることである。 何かもっといい考えがないかと、考
えに考え、考え抜く時、パスツールが言うように、「運はprepared mind にfavorす
る」のである。 お釈迦様も言われているそうである、「教誠神通」といって、「人
間としてあらゆる努力をし、さらに一層努力をし、その上に一層努力に励むとき
に出てくる直感力、それが本物である」と。 まさに「考え抜く」のである。 誰で
も自分は充分に考えていると思っている。 自分の考えの足りなさは自分では
解からないものである。 

 理科の授業では,現在日本でやっているような一方的に教え込むことではな
く、たとえ知識の量は削っても、もっと時間をかけて、先生との会話を通して、生
徒達各自が自分の頭で考え、個性的な考え方を育て,自分の頭で判断し,疑問を
持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させる知恵を磨く訓練を
することである。 今の高校では自分の言葉で話し、debateすることも乏しい
し、議論を通して学ぶ機会もない。 専ら一方的に教え込むことがなされてい
る。 それが知識偏重の大学入試にもっとも適した教育でもあるからである。 こ
のような教育の中で育って来ると、大学に来ても、講義を受けても質問は少な
いし,殊に大学院に進学して独創的なことをしろといわれても、それまでは専ら
与えられるものを受け取ってきただけであるだけに、自分で判断し、新しい発想
など生まれる道理がない。 自立していないからである。

 大学の入試についての江崎さんの意見を見ると,ロンドン大学の名誉教授の
森嶋通夫先生の言葉を思い出す。 次の言葉である。「現在の教育制度は単数
教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。 人生で一番大切な
人物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試
のための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。 今の日本の教
育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番
教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如してい
る。自分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年
の日本は本当に駄目になる」 

 江崎さんが、アメリカの大学入学適性試験で日本の試験のように知識の量を
見るのではなく、受験生の適性を見ると言われるのも,私がある新設大学の入
試に高校の教科書持参で,記述式で答えを書かせた試験をしたことが正にその
ためであり、基本的な考え方が相通じるものがある。 私のしたこの種の試験で
は,知識の量ではなく,教科書を正しく理解しているか,こういうことは何故なのか,
こういう場合はどうしたらいいのか,考える問題になる。 ノーベル化学賞の福井
謙一先生はこの試験方式を聞かれ,大変に誉めて下さった。 

(ただしこの種の試験の一番のネックの一つは大学の教師が出題に困難する
ことである) 先生は「今の大学入試は若い人の芽を摘んでいるんです」とよく言
っておられたものである。 江崎さんも,森嶋先生も,また福井先生も、皆口を揃え
て日本の大学入試が若者の個性の芽を摘んでいることを警告なさっておられる
のである。 アメリカのSATでも、前述のように、探求的教育を反映させて,知識
は極く基本的なものに限り,探求する思考力のテストになっている。 やはり大学
入試は高校以下の教育に甚大な影響を与えるだけに,教育を改善する一つの
手段は大学入試を改革することである。  試験の問題を作る人たちの創造的、
探究的に考える能力が出題内容に反映するが,学力とは何であるか,これから
の学力はどれだけ創造的に考えることができるかと言うことが主体であるだけ
に,その出題者の能力が逆に問われていることになる。 自分のもたない能力に
ついて他人のそれを調べることは難しいからである。

 では次にこの入試改革や授業の他に,我が国の教育を改善し,創造性豊かな
人材を創るのには,実際にどうしたらいいのか考えてみる。 江崎さんの言われ
るように、個性に合わせて教育をしろと言っても、アメリカ式にgifted (才能に恵
まれた)といって他の人と分けて特別扱いするのもありうるが、私の書いた「これ
からの理科教育」のなかにもあるように、まず教師が一方的に生徒に教え込む
のではなく、授業中は生徒との会話を通して頭を使って,議論しながら教えるの
である。 それも基本を基にして考えさせ、自分で発想して答えを導き出させる
のである。 知識だけでなく、探求的に自分で考えさせるのである。 生徒たちが
コンピュータを通して先生と会話をし質問に答え、場合によってはその場でヒス
トグラムで示し、日常的な記録がそのまま各生徒の成績を記録することにもな
る。 

 現在の高校の化学の教科書を見ても、どうしてこんなに、とまさに驚くほど、考
えれば解ることを考えさせなくして暗記物に仕立てている。 一つの例を示して
みる。 高校の化学時間である。 不揮発性の物質を溶かした希薄溶液は純溶
媒に比べて,モル濃度に比例して、蒸気圧が下がるラウールの法則を教えたと
する。 教科書を見せずに、それではこの溶液の沸点はどうなるか、考えさせる
のである。 その次にその凝固点(溶媒の固体と液の蒸気圧が等しい温度)は
どうなるか、そしてさらに名前を挙げずに、浸透圧の装置を見せて、初めに半透
膜を境にして同じ高さにあった溶液と純溶媒の液面はどうなるか、どちらがどれ
だけ上昇するかを考えさせるのである。 浸透圧などの言葉は要らない。 蒸気
圧の異なる液面が同じ高さに共存することはできないから、どういう挙動をする
かを考えさせるのである。 

 自分で考えることの好きな生徒は、余りヒントがなくても、ドンドンと自分でそれ
らの結論を引き出すであろう。 それ程でない生徒たちは時間をかけてヒントを
与えながら考えさせるのである。 凝固点降下とか、浸透圧など、蒸気圧降下と
は全く関係なく暗記する事柄として書かれてある今の高校の化学の教科書が
如何に読者に考えないように書かれているか、また考えることを阻害している
か、特に探求的に考えることをさせないように書かれているかが生徒達にもは
っきりと解かってくる。 考えるという各人にとって大きく差があり,幅を持った才能
の中で、考えさせることを通して、自分の特性を知るだけでなく、基本を基にす
ればいろいろと大きく発展的に理解が拡まることが体験として解かってくるので
はないだろうか。 

 教科書にあるように、訳も解からずに、個別な事項として暗記させて「物知り」
を作るよりも、自立して基本に基づき、蒸気圧を通して平衡の概念を使って探究
的に考えることが如何に大切か、考える楽しさも身について来て化学が好きに
なる。 文字通り wisdom が身につくのである。 教科書にある「暗記事項」が自
分で独立に考え出すことができるからである。 悪い教科書を基にして出される
大学入試の問題がよくなるはずがない。 それがそのまま高校以下の教育に反
映して来るのである、 もっと特別に好きな生徒には浸透圧の装置で、どれだ
け二つの液面の高さが異なったところで静止するかファントホッフの式まで考え
させることも不可能ではない。 (溶液の蒸気圧は純溶媒のそれより低いので、
溶液の液面は上昇し、純溶媒の液面との高さの差の間にある蒸気の重さが蒸
気圧の差に等しくなった所で静止する。その時の高さの差の間にある液の重さ
が浸透圧に相当する) そこまでやらせてできることになると、その生徒は楽し
い経験を一生忘れずにいるのではないだろうか。

 要するに個性を生かさせながら自分を理解し、基本を基にしながら考えを発展
させることを身につけるのである。 ただ項目を暗記させられるよりも大変な違
いであることが容易に解かる。 このように話の理屈が解かった時点で、その次
は、では実際に沸点の上昇、凝固点降下、浸透圧などを正確に測るにはどうす
ればいいのか、実験書を読む前にまず自分で考えさせることである。 それを通
して溶質の分子量が測れること、それから電解質が電離することが確認される
ことなど、実験をやることが望ましい。 その前に、自分で考えた実験装置と、実
験書とを見比べて実験の仕方を確認する必要があろう。

 もう一つ例を挙げよう。 「触媒はそれ自身変化せず反応を早くさせる物質で
ある」、「触媒は反応の活性化エネルギーを下げるものである」、「触媒表面に
反応物が吸着して活性化状態を作って反応を促進する」、これが高校の教科書
に出ている文章である。 生徒たちはわけもわからずにただ覚えるのである。

 「化学は暗記物」なのである。 (「触媒はそれ自身変化せず」など書くことは
ない。実際には大いに変化を繰り返しているのである)(反応物が吸着すると吸
着熱だけ安定化するので、その結果として反応性は増すことはあっても、「活性
化状態になる」ことはない) (「なぜ活性化エネルギーが下がるのですか?」と
生徒に尋ねられたら先生は何と答えるのだろうか? 「反応を早くするからさ」と
でも言うのだろうか) そんな言葉を暗記するよりも、たとえば次のようにしたら
どうであろうか。 銅という金属は酸素に会うと酸化する、その酸化物は水素に
より還元されて水ができる。 このことを教えたときに、では、酸素と水素の混合
物の中に金属銅が共存したらどうなるかを考えさせるのである。 ヒントを与え
てもよい。

 銅表面で酸化と還元が繰り返されて水ができる反応が進むことがわかる。 
銅が共存しなければ酸素と水素の混合気体だけではそのまま反応が進まない
のに、銅が共存すると反応が進むようになる、面白いね、これが触媒というもの
だよ、と教えればいい。 活性化状態など不要である。 マンガンや鉄のように
原子価が容易に変わるものの酸化物でも同じ要領で酸化還元が進むことがで
きることも同様のことだけに直ちに理解できるし、自動車の排気ガスも触媒の
上で有害な参加性気体と還元性気体同士の反応を通して浄化されることを言
えば生徒たちは本当に触媒作用の起こることを理解もし、興味を持って、それ
では、たとえば、銅以外に、何が触媒になるだろうかとさえ考えることにもなる。
 事柄の本質が解るだけそれだけにそれだけ面白く、興味も深くなるのであ
る。 内容が解らない言葉の暗記だけからは何も生れて来ない。
 
 前にも幾つも書いてきたように、有史以来の文化輸入国であった我が国が、
終戦のどん底から這い上がって,先進国に追いつく必死の努力をした結果,トップ
グループの仲間入りをすることができた。 これは正に世界の奇跡の一つであっ
たわけで,その基礎には我が国の教育のレベルの高さが大いに与って力になっ
たものである。 しかしその教育の質については,やはり飽くまでも文化輸入型で
あって,自分の頭で創造的にチャレンジするものではなかったのである。 「ただ
乗り」と言われたのもそのためである。 現在動きのますます速くなる情報化し
た世界の中で生きるのにはどうしても各人が個性的に考え,他国よりも優れた智
慧をもつことが生きる道であることはいうまでもない。 江崎さんが我が国の教
育にはないと言われる「探求的考え方」を育てる教育がこれからは是非必要な
ので,最近始まった「ゆとり教育」は本当はそのような改革の一つでもあったはず
なのである。 しかし学力を知識の量と考える人たちにとってはそのまま「学力
低下」なのである。

 ついでに付け加えると、江崎さんが言われるように、日本の若者が「知識習得
型」に育ち、チャレンジして模索する習慣のない風土の中で、そのような教育を
受けていると、生まれてくるものは、本当のcreativityというよりもむしろ
contrivance (工夫、機知)に当たるものでしかなくなってくる。 もちろん、ものの
改良など、むしろ日本人の得意とするところではあるが,小器用にする特技も結
構だが、とかくすると、基本的に他国で生まれたものを使って儲ける「ただ乗り」
だと言われるのである。 もちろん「ただ乗り」ができる能力も貴重ではあるが、
創造性のある智慧を持って時代をリードできるにはそれなりの探究的な教育が
求められるのである。
(NPO「科学技術振興のための教育改革支援計画」発足に当たって)
(2004年5月20日)


追加:

  私は口癖のように学生に言っていました、「折角いい頭をお持ちなのですか
らもっと考えなさい」と。 学生は何か皮肉を言われたように思うらしいのです
が、実際に頭は使うほどよくなるものですし、また自分では、お互い様自分の考
えの足りないことは意識しないものです。 自分で考えに考えてこそいい考えが
生まれるものです。 

 私が学士院賞を頂いたお祝いの会の折でした、大阪大学にいるKT君がお祝
いの挨拶をしたなかで、冗談半分に言いました、「田丸先生があのように何時
も仰るのは、先生にいいアイデイアがないからではないでしょうか」と本当のこと
を言っていました。

 しかし先生としては、できるだけ自分を押さえてまでしても、学生を伸ばす努
力をしなければいけないものだと私は思います。 大変に優れた先生で、優れ
たテーマを学生に与えてやらせていても、学生はその先生の下にいるときはそ
れなりのいい仕事をしても、自分で独立すると、先生の亜流しかできないことも
少なくないのです。 自立できないからです。 しかし、よく考えなさい、と言って
いても,学生の中には、「先生、僕はうんと考えたのですがこれしかないので
す」と言うのもいます。

 しかしそのような時は、そんなことないでしょう、こういうこともあるし、このよう
な可能性もあるし、と幾つか示唆しますと、翌日私の言ったことだけ足して来る
のもいました。 学生時代に自分の頭で考えに考えて、新しい発想を生み出す
体験をすることがその学生にとっては一生の財産になるものです。 それで初
めて自立して自分なりの考えが育つものです。 一匹の魚を与えると一日餓え
なくて済む。 しかし魚を捕らえる方法を教えると一生餓えることはない。 日本
の教育のように、自分で考えさせない「学びて思わざる」育て方をしていると、そ
れだけ強力に考えさせる努力をするように学生時代に叩き込まないといけない
ように思います。

 「出藍の誉れ」が生まれるとしたらその結果ではないでしょうか。 禅の言葉
に「座忘」と言うことがあるそうです。 座禅をしながら雑念を切り捨て無我の境
地になって、余計な雑念や知識から頭が整理されて、結局真の基本にたち帰っ
て初めて真理に触れることになるということらしいです。 よく言われることです
が、絵を習うときには何も、たとえば、ピカソの絵の真似をしても絵描きとして大
成できないものと言います。 その人なりの個性的な絵でないとものにはならな
いのです。

 その意味で、絵の書き方を先生に習わない方がいいとさえ言います。 芸術
も科学も孤独で自立を要求する点で共通しています。 その点では日本の社会
のような「もたれ合い」の社会では素晴らしい面もありますが、反面、「個」が育
ち難い辛さが伴います。   
(2004年6月29日)

++++++++++++++++++++++++++


林様:

  大学で講義が終わると先生の部屋の前に討論、質問のための
行列ができる話は前にどこかで書いた覚えがあります。

 本当かどうか確かめた話ではないのですが、ユダヤ人のお母さんは子供を学
校に出す時「いい質問をしていらっしゃい」というといいます。日
本のお母さんは「先生の仰ることをよくききなさい」と言うといい
ます。 質問をすることが自立する第一歩です。 自分の頭を使い
ながら話を聞き、前向きの発想をするからです。 日本では皆の前
で出しゃばって自己を表に出すのははしたないこととするる風土の
せいもありますが、それにかまけて自立できないのです。
 
  本当の一流国になるためには、日本では子供のころから頭を
使う習慣をつけるよう、人生を立て直す必要がありそうです。 や
はりみんな一緒だけでは急速に世界化していく世界から取り残され
る恐れ十分です。

  その一つの資料は前にもお送りしたかと思いますが、添付ファイルに
入れます。



+++++++++++++++++++++++++++

2003年8月28日
大学入試検討小委員会 御中;

高校以下の教育に対する大学入試問題の影響の大きさは今更言うまでもあり
ません。 大学入試問題の改善について熱心に且つ真面目に取り組んで居ら
れる皆様方に心から感謝しております。

つきましては今度新しく始まった「ゆとり教育」を学んだ生徒たちのための入試を
考える時期になってまいりましたが,「ゆとり教育」の本質として,とかく知識量
の削減が主な改革内容になっているかのように言われますが,矢張り一番大
事なことは自ら学び,基礎をしっかり身につけてそれを基に自ら探求的に考え
ることではないかと思います。 その意味で,今度新しく始まる大学の入試制度
の検討に際し,その本質的な改善点を如何に生かすかということの検討が現
在極めて大事なことと思われます。 その点についてはアメリカのSATやその
出題方針が参考になると思えます。 何もアメリカの真似をする必要もありませ
んが,現在日本の教育自体大きな曲がり角に差し掛かっている時だけに現在
の慎重な舵取りが大変に重要だと思えるわけです。

その意味で,入試検討委員会でも何か前向きに行動していただければ有り難
いことと思う次第です。 これからの教育はどうあるべきか,そして,その学力
評価としての入試は如何にあるべきか,現在ほどそのきびしい検討が求められ
る時はなかったのではないかと思います。 矢張り時代を先取りして,これから
の社会の真に求める人材を如何にして創り,育てるか,貴委員会で基本に帰っ
て検討して頂き、わが国の教育を間違いない方向に改革されるよう努力して頂
きたく,切にお願い申し上げます。 

この種の問題は或いは入試検討委員会だけでできる範囲を越えているかも知
れませんが,現在入試制度を皆が検討を始める時だけに,率先して旗を振って
いただければと感じております。 各大学におきましても、その意味での入試や
教育の改善に向けてこの機会に前向きに取り組んでもらうよう呼びかけるのも
一案ではないかと思う次第です。 よろしくお願い申し上げます。

此処に同封申し上げる拙文は貴委員会だけでご参考にして頂ければよろしい
のですが,ご検討の上,よろしければ,その取り扱いは適当にお任せ申し上げ
ます。 釈迦に説法で、大変に差し出がましいことを申し上げますが、非常に大
事な時だけによろしく御判断いただきますようお願い申し上げます。



田丸謙二
これからの理科教育と入学試験 
田丸謙二

初めに:1995年には世界で電子メールやインターネットを使っていた人は約
1600万人であったという。2002年の初めまでにその数は4億人になり、2005
年までには、約10億人に達すると予測されている。今や世界の情報化のネット
ワークは、民族や国家を越えて、個人同士で話し合い、新しい情報や知恵が即
刻交流するようになって来た。この新しい文明の到来は人類の歴史始まって以
来の出来事である。これからは時代の動きが更に加速され、これまでの知識や
技術は新たなものへと置き換わり、世界が「ますます速く回転をする知恵の時
代」へと大きく変貌しつつある。このような変革の時代に適応し、時代をリードで
きるのは、現在わが国で育てている「横並びのもの知り」ではなくて、時代を先
取りして、自分の頭で個性的に考え、ダイナミックに正しい判断が出来る創造
性豊かな英知を持つた人材である。従って現在この新しい変革に適応するため
に必要なことは「現在の教育」の改革であることは明らかである。今の若い人た
ちの教育こそがこれから更に大きく変革する二、三十年先の世界でのわが国
の運命を決めることになるからである。  

新しい知恵の時代に備えての教育:それでは、これからの「知恵の時代」に適
応できる人材を創るための「現在の教育」はどうしたらよいのだろうか。そのため
には、現在わが国で広く行なわれている「知識偏重の学びて思わざる教育」を切
り替えて英知を育てることである。若い人たちに、自分の頭を使って創造性豊か
に考え、判断する訓練を通して、その個性的な能力を引き出すことである。私は
その線に則って、前にその具体策について論じてみた1。各個人の持つ個性あ
る知恵を育てる(educeする)エデユケイションが求められるからである。

例えば、生徒たちが学校でする実験や観察にしても、多くの場合それまでに学
んだことを単に追試し、確かめるようなことがなされて来た。しかし、それだけで
なく、ヒントを与えてでも、生徒たちに調べると面白い課題を自分で考え出させ、
新しい実験を組立て、実行する経験をさせることである。身の回りの題材につい
てでも、最初から自分で企画し、判断し,探求的に頭を使う練習をすることであ
る。実験は手を使うだけでなく、頭を使うのである。この種の実験を通して、知恵
が育ち,理科が面白くもなっても来る。また教室では、現在広く行なわれている
「解かったか、覚えて置け」式の一方的に教え込むこと(この方法は限られた時
間に沢山の知識を教えることが出来、しかも現在の知識偏重の入試対策には
適しているが)は避けて,常に「何故」なのか,こういう場合はどうすればいいの
か,基本に返って考えさせることである。解からないことをどのようにして解明す
ることができるかを探求的に考えるのである。そして生徒と先生の間の密接な
やり取りを通して,一緒に考え、興味ある質問を引き出させ,新しい問題を考え
させることでもある。一を聞いて一を知るだけではなく、「十」を知れるような基本
になる「一」を身につけ,それを更に広く発展的に考える知恵を身につけること
である。先ず成る程、と基本的な内容を納得させて、それを基本にして考えを広
げ、応用するようにする。必ず理科の面白さが解かって来るはずである。その例
として、触媒作用や、蒸気圧降下、浸透圧などについての教え方について既に
具体的に提案をしてみてある2。但し、このような考える授業をすることができる
教師や、また本当に実行するだけのチャレンジングな人たちがどれだけ居るだ
ろうか。その点で、入試がどのように変わるかにも大きく依存もする事になる。

米国の理科教育改革と大学入試:米国では、従来の理科教育を大幅に改革し
て、これまでの「理科的知識」よりも、むしろ「理科的な考え方」を重視するように
努めるようにしている3。正にこれからの「回転の速い知恵の時代」を先取りし
て、来るべき将来に備えているのである。新しい教育にはそれに適応した新し
い「実力評価」としての試験の方式が求められる。参考までにわが国のセンター
試験に相当する試験(SAT)の化学での出題方式を見てみると、別表にあるよ
うに、先ず、試験で求めるのは思考力のテストであり、知識は基本的な事柄だ
けに絞り、それを基にどれだけ発展的に考える能力があるかを見るのである。

わが国では入試問題ついての議論はされるが、現実にはとかくすると、簡単な
暗記問題では受験生の差がつかないので、「差をつけるために」つい末梢的な
暗記問題を出したりすることが少なくない。基本的な事柄とは全く遠く離れた暗
記問題になる事さえある。受験生の考えるレベルを調べるには、当然のことだ
が、先ず出題者たちが頭を使わなければいけないし、それだけの知恵を持つこ
とがまず不可欠である。確かに教師たちにとって知識だけを教える教育の方が
楽であるし,試験の出題者にとっても知識の量を調べる方が簡単にできる。し
かしそんなことを言っておれないほど深刻な現状が差し迫っている。     

「生徒の学力を評価する」には、教育とは本来何を求めるものであるかの正しい
基本に則ってなされなければいけない。日本流の「知識を教え込む教育」と、欧
米の「教育とは各自が持つ個性的な考え方をeduce(引き出す)するものである」
とするのとの基本的な違いがある。江崎玲於奈氏も書いて居られる:「持って生
まれた天分を重視して、一人一人の人間の個性や才能を伸ばそうとする社会
と、一方努力による積み重ねを重視して、学生が獲得した知識の量を評価の対
象とする社会との違いでもある訳である。一般的に日本の若者は、「こうやれ」
と言われるとよく出来る。しかし、自分から何かを(自分で考え判断し)、発見する
ことは苦手である。それに挑戦する精神も乏しい。日本の学問は、ものを習う"
習得型"で何か新しいことに挑戦する"探求型"が不足している。というより、"
探究心"の教育を受けていないといっていい。知識量がものをいう大学入学試
験も、その一つの表れである」、と5。つまり現状では、これからの早い変化を後
から追いかけることはあっても,時代をリードできることは難しいことになる。要
するに,外国文明を長年輸入してきた歴史から,「学ぶ」ことは「マネブ」(真似
ぶ)ということで、知識量のみで学力を見る伝統が未だに強く残っている。福井
謙一先生も言われていたように、若者の芽を摘んでいるのが現在の日本の入
試制度であり、教育でもある。正に時代の流れに逆行しているのである。その
意味で試験の内容は出題者の知恵のレベルをはっきりと示すだけでなく、その
社会が期待する教育自体のレベルを示すことにもなる。私は前にも書いたよう
にある新設大学の入試に高校の教科書を持参させ、記述式で答える入試を行
い、知識偏重の○×式などよりも格段に優れていることを体験した6。教科書持
参だと、これを覚えているか式の問題は姿を消し、こういう場合はどうすればいい
のか、これは何故かなど、考える問題になるからである。何も形の上で教科書
持参にしなくても、内容的にその線で行なえばよろしいわけである。(センター
試験と組み合わせるのも一法である)。アメリカのある有名私立大学の入試で
は それでも、SATなどよりもむしろcreativity とleadershipを重く見るという。社会
の中で何を求めるかの見方が余りにも異なっている。 

最近大学によっては入試オフィス、を設ける大学も増えてきたが、単に受験生
集めのためではなしに、これからの教育、選別方法など根本的に再検討の時期
である。殊に今度遅まきながら、漸くアメリカの真似をして「ゆとり教育」が始まっ
て、教える量を減らして,基礎をしっかりと身につけさせるということになった。し
かし,その「基礎」にしても,前述のように,ただそれを覚えればよいことではな
い。それを基礎として生かして如何に発展的に考えることができるか,その使
い方が身につかなければ,何も基礎の役をしないことになる。「ゆとり教育」で
は、単に知識の量よりも、問題意識をもって探求的に自分で考えるようにするよ
うに、と言うことになったが、そのような教育の基盤がこれまで余りに乏しかった
だけに現場の教師たちは戸惑いがちになる。新しい教育には新しい入試制度
が求められるし、またそれを現在これから決めていくことにもなっている。その
結果としてどんな入試になるのか、それに備えてどんな教育を今からしたらよい
のか、入試が決まらないうちには、現在手をつけつつある「ゆとり教育」自身も、
戸惑うことが少なくない。やはりこれからあるべき教育と入試とが一体になっ
て、あるべきものを自信を持って取り組み、現在直面している一つの大きな転換
期を立派に乗り切らなければいけない大切な時期である。入試が改善されなけ
れば、教育自体も変わりようがない。新しい入試方式にしてもアメリカのSATも
その意味では大変にいい参考になるはずである。   

終わりに:以上知恵を育てる時代の必然的な到来とその対応について述べて
来た。その趣旨とするところは今から十数年前に、私が大学入試問題改善を叫
びながら書いた駄文「高校の化学をつまらなくする方法」の延長線に沿ったもの
である7。ただ当時の一般的な問題意識に較べれば、現在は当時とは比べも
のにならないほど格段にその問題が深刻になっている。日本であの頃から「知
恵を育てる教育」を始めていたならば、大体アメリカが新しい探求的な教育を始
めたのと同じ頃でもあったし、今更アメリカの真似をすることもなかったはずであ
る。しかし、本当は私が前に書いたように1、外国の真似などよりも、時代を先
取りして、日本の風土に合った、わが国固有の「英知を育てる新しい優れた教
育」が生まれなければいけないのである。これから十何年かして、あの頃に改
革していたなら、など今回に似た愚痴を再び聞くことのないよう、日本の明るい
将来を夢見ながら実りある「人創り」を期待したい。

参考文献:
1 知恵を育てるエデュケイションを、田丸謙二、化学と教育、50, 61 (2002):
  21世紀の理科教育,田丸謙二、化学と工業,54,885 (2001)
2 高校化学での「触媒」の教え方について,田丸謙二、化学と教育、51、35 
(2003): 高校化学での浸透圧の教え方について、田丸謙二、化学と教育、51、
434(2003)
3 National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996),
National Academy Press.  Every Child a Scientist, National Research
Council,(1998), National Academy Press:  .
4 (How to prepare for the SAT II (chemistry),(2002) p.XI)
(SAT is a registered trademark of this College Entrance Examination Board,
which was not involved in the production of and does not endorse this book)

5.創造力の育て方・鍛え方,江崎玲於奈著(講談社);「アメリカでの教育の目的
は英知と判断力を磨き,自主、独立した個人を育て、よりよい人生を送るための
自信と自制を備える所に置かれます」: 《参照:アメリカの孫と日本の孫、田丸
謙二,大山秀子,化学と工業、52、1149(1999)
6新しい大学入試方式の模索,田丸謙二,化学と教育,44,,456 (1995): 理
科のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試、木下実,同誌、
45 ,146 (1997)
7 高校の化学をつまらなくする方法、田丸謙二,化学と教育,38、712(1990)

 Thinking Skills Tested
1 基本的概念、特定の情報、基礎述語を尋ねる(最低のレベル)
2 基礎的事項の理解力とその情報を比較的直接的に、質問や問
題に応用することができ、質問に関連した問題を定性的、ま
たは定量的に解決を与える能力を示させる(中程度のレベル)
3 ある情報やそれに関する問題を解析して、学んだ知識を動員
して、問題を解いたり,結論を引き出すためには、どんなアイデ
ィアまたは関連事項を如何に用いるべきかを判断する能力を
テストする(高いレベルの能力)
以上の三つの項目の大体の割合は 1: 20%. 2: 45%、3: 35% 



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太陽エネルギーを用いる水からの水素製造
堂免一成  田丸謙二

化石資源の消費、枯渇からもたらされるエネルギー問題と二酸化炭素発生な
どによる地球環境問題は、我々が直面する深刻な課題である。これらの問題
は、放っておけばいつか解決するという類のものではない。我々の生活に直結
しており、我々自身で積極的に取りくんでいかねば決して解決しない問題であ
る。この問題の本質は、現代の人類の生活が多量のエネルギーを消費する事
によって維持されているという点である。しかも現在そのエネルギーを主に担っ
ている化石資源は、有限な資源であり必ず枯渇するだけでなく、それを使い続
ける事は地球環境を破壊する危険性が高い。
 
 もともと石油や石炭などの化石資源は、光合成によって固定された太陽エネ
ルギーを何億年もかけて地球が蓄えてきたものであり、それとともにわれわれ
の住みやすい地球環境が形成されてきたはずである。我々はそのような地球
が気の遠くなるような時間をかけてしまいこんできたエネルギーを「かってに」掘
り出し、その大半を20世紀と21世紀のたった200年程度で使い切ってしまおう
としている。したがって現在の時代を後世になって振り返れば、人類史上あるい
は地球史上極めて特異な浪費の時代と映っても不思議ではない。かけがえの
ない資源を使い切ってしまいつつある時代に生きる我々は、それについて微塵
も罪の意識を持っていないが、少なくともわれわれにとっては地球環境を破壊し
ない永続的なエネルギー源を開発することは、後世の人々に対する重大な義
務である。その為には、核融合反応や風力などいくつかの選択肢があろう。な
かでも太陽エネルギーをベースにしたエネルギー供給システムは、枯渇の心配
のない半永久的でクリーンな理想的なエネルギー源であろう。

  太陽光を利用する方法もいくつかの選択肢がある。例えば最も身近な例は
太陽熱を利用した温水器である。また太陽電池を用いて電気エネルギーを得る
方法も既に実用化している。しかし、これですぐにエネルギー問題が解決する
わけでない事は誰でも実感している事であろう。

ここで太陽エネルギーの規模と問題点について少し考えてみる。太陽は、水素
からヘリウムを合成する巨大な核融合反応炉であり、常時莫大なエネルギー
(1.2 x 1034 J/年)を宇宙空間に放出している。その中の約百億分の一のエネ
ルギーが地球に到達し、さらにその約半分(3.0 x 1024 J/年)が地上や海面に
到達する。一方、人間が文明活動のために消費しているエネルギーは約3.0 x
1020 J/年であり、地球上に供給される太陽エネルギーの約0.01 %である。ちな
みにそのうちの約0.1 %、3.0 x 1021 J/年、が光合成によって化学物質、食料な
どの化学エネルギーに変換されている。また、地球上にこれまで蓄えられた石
油や石炭などの化石資源がもつエネルギー量は、もし地球上に降り注ぐ太陽エ
ネルギーを全て固定したとすれば約10日分にすぎない。このように考えれば太
陽エネルギーは我々の文明活動を維持するには十分な量であることがわか
る。

では、なぜ太陽エネルギーの利用が未だに不十分なのであろうか。理由は太
陽光が地球全体に降り注ぐエネルギーであることである。したがって太陽光か
ら文明活動を維持するための十分なエネルギーを取り出すためには数十万
km2(日本の面積程度)に展開できる光エネルギーの変換方法を開発しなけれ
ばならない。ただしこの面積は地球上に存在する砂漠の面積のほんの数%程
度であることを考えれば我々は十分な広さの候補地を持っていることになる。そ
の様な広大な面積に対応できる可能性をもつ方法の一つが人工光合成型の水
分解による水素製造である。もし太陽光と水から水素を大規模に生産できれば
人類は太陽エネルギーを一次エネルギー源とする真にクリーンで再生可能なエ
ネルギーシステムを手にすることができる。水素の重要性は、最近の燃料電池
の活発な開発競争にも見られる様に今後ますます大きくなってくることは間違い
ない。しかしながら現在用いられている水素は化石資源(石油や天然ガス)の
改質によって得られるものがほとんどである。これは水素生成時に二酸化炭素
を発生するのみでなく、明らかに有限な資源であり環境問題やエネルギー問題
の本質的な解決にはならない。

もし、太陽光の中の波長が600nmより短い部分(可視光、紫外光)を用いて、量
子収率30%で、1年程度安定に水を分解できる光触媒系が実現すると、わが国
の標準的な日照条件下1km2当たり1時間に約15,000 m3(標準状態)の水素
が発生する。この時の太陽エネルギー全体の中で水素発生に用いられる変換
効率は約3%程度であるが、この水素生成速度は現在工業的にメタンから水
素を生成する標準的なリフォーマーの能力に匹敵する。したがってこの目標が
達成されれば研究室段階の基礎研究から太陽光による水からの水素製造が
実用化に向けた開発研究の段階に移行すると考えられる。

現在、水を水素と酸素に分解するための光触媒系として実現しているのは、固
体光触媒を用いた反応系だけである。他にも人工光合成の研究は数多く行わ
れているが、以下、不均一系光触媒系に話を限定する。水を水素と酸素に分解
する為に必要な熱力学的条件は、光触媒として用いる半導体あるいは絶縁体
の伝導帯の下端と価電子帯の上端がH+/HおよびO2/OH-の二つの酸化還元
電位をはさむような状況にあればよい。個々の電子のエネルギーに換算する
と、1.23 eVのエネルギーを化学エネルギーに変換すればよい。また、光のエネ
ルギーで1.23 eVは波長に換算するとほぼ1000 nmであり、近赤外光の領域で
ある。つまり、全ての可視光領域(400nm 〜 800nm)の光が原理的には水分解
反応に利用できる。ただしこれらの条件はあくまで熱力学的な平衡の議論から
導かれるものであるから、実際に反応を十分な速さで進行させるためには活性
化エネルギー(電気化学的な言葉でいえば過電圧)を考慮する必要があるの
で、光のエネルギーとして2 eV程度(光の波長で600nm程度)が現実的には必
要であろう。

固体酸化物を用いた水の光分解は、1970年頃光電気化学的な方法によって世
界に先駆けて我が国で初めて報告され、本多―藤嶋効果と呼ばれている。こ
の実験では二酸化チタン(ルチル型)の電極に光をあて、生成した正孔を用い
て水を酸化し酸素を生成し、電子は外部回路を通して白金電極に導き水素イオ
ンを還元し水素を発生させた。このような水の光分解の研究は、その後粒径が
ミクロンオーダー以下の微粒子の光触媒を用いた研究に発展した。微粒子光
触媒の場合、励起した電子と正孔が再結合などにより失活する前に表面ある
いは反応場に到達できるだけの寿命があればよい。さらに微粒子光触媒の場
合、通常電極としては用いることが困難な材料群でも使用できるメリットがある
ため、多くの新しい物質の研究が進んでいる。現在では紫外光を用いる水の分
解反応は50%を超える量子収率で実現できる。

しかしながら太陽光は550nm付近に極大波長をもち、可視光から赤外光領域
に広がる幅広い分布をもっているが、紫外光領域にはほんの数%しかエネル
ギー分布がない。つまり太陽光を用いて水を分解するためには可視光領域の
光を十分に利用できる光触媒を開発することが必要である。しかしながら、これ
までに開発された水を効率よく分解できる光触媒は全て紫外光領域の光ある
いはほんの少しの可視光領域で働くものである。
 
 最近になって新しく可能性のある物質群が見出され始めている。それらは、d
0型の遷移金属カチオンを含み、アニオンにO2-だけでなくS2-イオンやN3-イオ
ンをもつ材料群である。例えばSm2Ti2O5S2やTa3N5、LaTiO2Nなどのようなも
のであり、オキシサルファイド、ナイトライド、オキシナイトライドと呼ばれる物質
群である。これらの材料では価電子帯の上端はO2p軌道よりも高いポテンシャ
ルエネルギーを持ったS3p軌道やN2p軌道でできている。しかし、このような物
質はまだ調製が容易ではないが、酸化剤や還元剤の存在下では水素や酸素
を安定に生成することが確認されており、これまで見出されていなかった、
600nm付近までの可視光を用いて水を分解できるポテンシャルを持った安定な
物質群であることがわかってきた。したがって、このような物質の調製法の開発
および類似化合物の探索によって、太陽光を用いる水からの水素生成が、近
い将来実現する可能性も十分にある状況になっている。安価で安定な光触媒を
広い面積にわたって水と接触させて太陽光を受けることにより、充分の量の水
素を得るのも夢ではない。 このような触媒の開発に成功し、大規模な応用が可
能となれば、21世紀の人類が直面する大きな課題であるエネルギー問題と環
境問題に化学の力で本質的な解決を与える可能性がある。


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これからの理科教育
   
   田丸謙二
          
はじめに: わが国の歴史をふり返って見るとわかるが,わが国は大昔からいろ
いろの知恵を海外から取り入れて学んできている。水田稲作をはじめ、漢字、
漢文、儒教、仏教などが外国から伝わって来て、さらに明治の時代になってか
らは、殊にヨーロッパの近代科学や技術のみならず、法律、学芸等が怒涛のご
とく輸入されて来ている。自分で創った原体験が極めて乏しい歴史である。そ
の挙句,たとえば,日本語で「学問をする」ことをマナブと言うし,マネブとも言う,真
似をすることが学問の本質とされて来たわけである。したがってわが国での教
育はおのずから知識を取り入れることが最重視され、その傾向は現在も強く支
配的に残っている。学問は創るものではなくてマネブものなのである。高校以下
の学校での授業もおのずから「解ったか、覚えておけ」の一方的な「教え込み方
式」になっていることが多い。これは限られた時間内にたくさんの事を教えるに
はよい方法であるし、記憶偏重の入学試験に備えるためにも、それが最も効率
のよい教え方でもある。入試に備える教え方として、変えるに変えられない仕組
みにもなっている。しかし、そこには自分の個性的な考え方を育てたり,自分の
頭で判断し,疑問を持ったり,新しい問題を考えたり,基本的な考え方を発展させ
る知恵を磨く訓練はほとんどない。自分の言葉で話し、debateすることもないし、
議論を通して学ぶ機会もない。このような「外からマネブだけの教育」の中で育
って来ると、大学に来ても、講義を受けて質問は少ないし,社会に出たり,殊に大
学院に進学しても、それまで自分で判断したこともないだけに、自分で考え出
し、独創性を生むことは容易でない。要するに自立できてないのである。ロンド
ン大学の名誉教授の森嶋先生の言葉を引いてみる。{現在の教育制度は単数
教育〈平等教育〉で、子供の自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人
物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエイジを高校入試、大学入試の
ための勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に
一番欠けているのは議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え
過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如している。自
分で考え、横並びでない自己判断の出来る人間を育てなければ、2050年の日
本は本当に駄目になる}(1) 

これからの急激に変革する時代と教育:現在の若い人たちは二、三十年先に
社会を中心的に背負って立つ人たちである。その人たちのための現在の教育
は、将来どのような人材が求められるか、によって決められるべきものである。こ
れからは情報化,国際化が加速度的に進み,企業の技術の回転も迅速に新しい
ものに置き換わる激動の時代になる。その時代に適応し、さらにそれをリードで
きるのは単なる「物知り」ではなく,自分で考える基本をしっかりと身につけて、変
化に適応でき,優れた判断が出来る人材である。コンピュータが出来ることしか
できない横並びの人材は必要がなくなってしまう。その反面,コンピュータが出来
ないことが出来る知恵のある人材が求められることになる。これからはますます
「回転の速い知恵の時代」がやって来る。

  このような時代の激しい流れに応じて、アメリカなどでも、これまでの知識重
視の教育を止めて、自分の頭で考える訓練を始めている(2)。理科の教育も、
これまでの鯨の種類を覚えさせたりしていたのを止めて、"science inquiry"と
称し,知識よりも物事を探求的、論理的に考える「考え方」を教育の基本と考える
ようになって来た。つまり「理科的知識を教える理科」から「歴史や社会など、全
ての科目の基本になる科学的,論理的な考え方を学ぶ理科」への転換である。
わが国でも遅まきながらアメリカ方式を真似て「ゆとり教育」が始められたが、
「自ら探求的に考えさせる教育を」と言っても、これまで歴史的にもそのような原
体験や教育が極端に乏しかった風土に育って来ただけに、教師たちにしても戸
惑いしている状態である。しかし、将来の国の盛衰を決めるのは正に「現在の
教育」なのである。 逃げることは許されない。 

「探求を通しての理科教育」:アメリカでは5歳の子供から高校生まで全ての人
にこの新しい理科を教えようとしている。子供は生まれつきすぐに「どうして?」と
か,「何故?」と聞きたがる。子供たちが持つ好奇心、自然への不可思議さや畏
敬の念を大切に育てることから始まる。出来上がった理科を教え込むと言うより
も,それに加えてそれを作り上げる過程を重視するのである。歴史的にもわが国
に最も欠如して来た一面である。

  「探究を通した理科教育」の例を次に挙げる。小学校5年生の実験である。
クラスを4人ずつのグループに分け,紐やテープと座金から勝手な大きさの振り
子を組み立てさせることから始まる。それぞれのグループがその振り子の振る
回数を15秒の間隔で数える。皆勝手に作るので,グループによって皆違った結
果を得ることになる。それが何によるかを「探究」させる。振り子の紐の長さの違
いによる違いなのか,重りの重さの違いによるものなのか,最初に振らせる高
さの違いによるものなのか,その他いろいろの可能性の中でどれが正しいの
か、どうしたらそれを検証できるのかを考えるのである。結論の知識だけなら簡
単に教えることが出来ることでも,生徒たちは皆での討論や実験を通して、自ら
の体験を通して探究することになるのである。

このような実験以外にも,好奇心に基いた簡単な身の回りの実験(または調
査)を生徒たちにも企画させ、組み立てさせ,やらせてみる,どうしたらより正確
にデータが求められるか,そしてそのデータに基いてどのような説明をするか、
それに代わる他の説明があるかどうか,皆で議論をする。実験は手を使うだけ
でなく頭を使うのである。科学者のすることを子供なりにやらせることになる。科
学者が個性的であるように,子供に探求をさせるときそこに個性が現れ育つの
である。探求する結論を「知識」として押しつけるのではなく、時間をかけてその
求め方を学ぶのである。授業もできるだけ考えるプロセスを踏んで納得するよう
に説明をするのである。この種の理科教育は,生徒を強くひきつけることになる
が(3)、これまでの理科よりも時間的に長くかかることになる。しかし、知識の
量よりも、興味を深めながら基本的な科学的な考え方を身につけさせ,それを
使って説明し、発展させて考えることも出来るようになるし,それが他の科目の
基本にもなる。

「ゆとりある教育」と風土:日本の社会は伝統的に一つの「もたれ合い社会」で
ある。例えば「よろしく」と言う挨拶の仕方は、英語では翻訳出来ない言葉であ
り、その特徴をよくあらわしている。皆で思い合い,「和をもって尊しとなし」皆が家
族的に協力する美点もある。然しその半面全体の中において「自我」と言うもの
が育ち難い。「探求する」教育にしても、自分で新しい文明を築いた原体験のな
い歴史や風土にはなじまない。前にも書いたように(4),アメリカの子供達は幼
稚園の頃から,常に「お前はどう考えるか?」を繰り返し問われ,自己主張(こ
の点は問題もあるが)と共に自分の頭で考え、自分の言葉で話す訓練を受けて
いる。debateができるのである。debateのためには「一を聞いて十を考え、かつ
自分の考えを個性的に持つ」ための訓練を受けている。風土の違いと言えばそ
れまでだが,わが国ではその種の訓練が余りにもなさ過ぎる。議論から学ぶ訓
練が殆どない。一を聞いて一としか受け取れない人には考える重要性はわから
ない。よく、「思考力や創造力の重要性」を言うと、殊にマネブ人たちはそれでは
「知識習得の軽視」になり、「知識なしの思考力の愚に陥る」と言うものである。
もちろん物事を考えるにはそれなりの知識がなければいけないことは言うまで
もない。しかし、むしろ考えれば考えるほどに、その考える過程の中に新しい知
識の必要性が解り、自分で調べて身につけるものでもある。「学而不思則罔(ク
ラク)、思而不学則殆(アヤウシ)」(論語)。知識を得ることと,自分の頭で考え
る事とは別の働きである。その両方が重要なので,組み合わさって本当の理解
になり,自分の知恵が育つのである。「一を聞いて十を知り」、十を知って更に
頭を使って疑問が湧き、自分で調べて新しい知識を求めて、更に創造的に百を
知ることにもなる可能性さえある。最近アメリカでは "Less is more" という言葉
が言われている。つまり広く浅い知識よりも基本的な考え方をきちんと身につけ
ることにより、沢山の実りある考えが生まれるということである。「一匹の魚を貰
うと一日の飢えをしのぐことが出来る。然し魚を捕まえることを習うと一生餓えな
くてすむ」。忘れたら何も残らないことよりも,魚の捕り方を習得するのである。 
 
議論を通しての教え方の一例を挙げると,一部は既に始まりつつあるが、各生徒
[場合によっては幾人かづつにまとめても]にコンピュータをあてがって、授業は
常に先生と生徒との質疑応答、やり取りを通してする。教師は常に生徒たちに
質問を出し、生徒はそれに答え、その答えは場合によってはその場でヒストグラ
ムに示される。先生は常に生徒は何を知らなくて、どのように考えるか、の実体を
把握しながら授業を進めることになる。要するに授業は先生と生徒との討論を
通して進めるのである。生徒の成績,個性や能力はそのやり取りの記録によっ
て筆記試験を通さずとも自然に答えが出て来る。「ただ読んだだけでは理解度
10%,聞いただけでは20%,見ただけでは30%,見たり聞いたりの両方で5
0%,他の人と討論して70%,実際に体験して80%,誰かに教えてみて9
5%」(William Glaser,"Schools Without Failure")と言われる。同じ事を教えるの
でも工夫次第で大幅に理解度が違うのである。「聞いたことがある」程度に頭に
残っているのと,深く理解したのでは創造的に新しいことを考え出す上では大
変な違いになる。 

教育改善の手段としての入試: 教育を改善する際、まず言われるのは教師の
再教育である。これは言うは易くして実効は容易ではない。直接的な教育改善
方法の一つとして入試の改善がある。教育の内容が改善されれば、それを評価
する仕方としてのテストの内容も当然変わってくるはずであるし、また変わらな
ければ意味がない。知識の量を〇×で尋ねれば「学力」が解ると言う迷信は捨
てることである。少なくとも「学力」を判定しようとする場合は,知識の量だけでな
く思考力の両面を見る必要がある。

私は新設の山口東京理科大学で,「高校の教科書持参で受験し,記述式で答え
させる」方式をやってみた(5)。ノーベル化学賞の福井謙一先生は「今の大学
入試は若い人の芽を摘んでいるのですよ」と言われていたが、この新しい入試
方式を聞かれて大変に誉めて頂き、大学の開学式にお言葉を頂いた冒頭にそ
のことのお褒めの言葉に言及された。実際にやってみても、それにより受験生
が減るわけでもないし,〇×方式などより較べものにならない程受験生の考え
る能力が正確に判定出来ることが解った。この方式だと,それは何故なのかと
か,こういう場合どうしたらよいのかなど,それは正にそのまま「探究的思考力
を調べる入試」様式になるのである。(この方式をセンター試験との組み合わせ
るのも多様性ある能力判定には一つの実際的な方法である)ただこの種の入
試での一つの大きな問題点は,出題者によっては問題を作ることに不慣れで困
難であったりすることがある。概して不断から知識だけを授けている種類の大
学教授たちの「芽の摘まれ具合」が問われることになりかねない。アメリカのあ
る有名私立大学の入試にはcreativityと leadership でみるといっていたが、知
識の量を主として、一点の違いでも線を引く方法が最も公平であるとする日本
式入試が50年遅れていると言われる所以である。試験制度の遅れは教育の内
容自体の遅れに直接繋がる。横並びの公平さに捉われて人間の最も大事なも
のを見分ける知恵のなさの現れである。

おわりに: これから求められるのは知恵を育てる理科教育である。生徒に自分
で考えさせようとするのにはまず教師が自分で深く考えることである。自分の頭
で深く考えて初めて自分なりのやり方が育ち,独創性が生まれる。生徒は先生の
背を見て育つ。一般に人は自分は充分に考えていると思い込んでいる。自分の
考えの足りなさは自分ではわからないものである。特にわが国では自立して自
分の頭で考えさせ,自分なりの知恵を伸ばす教育がこれまで余りにもなさ過ぎ
た。差別なく横並びの人間を作っていたし、過去において先生自身がそのよう
な教育を受けて育っている。これまでのわが国の「学びて思わざる」教育が,歴
史的な風土から由来するだけに、それだけ多くの努力をしないと,加速度的に変
わって行く時代からますます取り残されることになることは目に見えている。この
激動の時代を先取りして、変わるなら今である。  

1.森嶋通夫〈ロンドン大学名誉教授〉こうとうけん、No.16 (1998) p.17
2. National Science Education Standards, National Resaerch Council
(1996), National Academy Press.  Every Child a Scientist, National
Research Council,(1998), National Academy Press:  .
3. 「高校の化学をつまらなくする方法」、田丸謙二,化学と教育,38 (1990)、
712
4 アメリカの孫と日本の孫,田丸謙二,大山秀子,化学と工業,52 (1999)
1149
5 新しい大学入試方式の模索,田丸謙二,化学と教育,44 (1995) 456: 理科
のセンスを問う・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試、木下実,同誌、
45 (1997) 146


(東京理科大の「科学フォーラム」に印刷中)

++++++++++++++++++++++++++++++++

大学院教育雑感

本誌の4月号に「大学院教育」の特集記事が載っている。 野依先生は日米の博士取得者の
差は相撲で言えば三役と十両の違いと言われる。 その差が果たしてどこから来るのだろうか。

 大学院教育で最も重要なのは、「自分の頭で自立して創造的に考える意欲ある鍛練」であ
る。 しかし、それの土台には大学院以前に根付いている部分が多い。 多くの高校の理科教
育を見ると解るが、「解ったか、覚えておけ」の一方的な「教え込み教育」である。 限られた時
間に盛り沢山の事を教えるには、そして記憶偏重の大学入試に備えるためにも最適の教育で
ある。 しかしそこには酷しく自分の頭で考え、学んだ基礎を自分で発展、応用したり、新しい問
題を考えたりする「考えさせる訓練」は極めて乏しい(1)。 この種の授業やそれを受ける態度が
実はそのまま大学に持ち込まれ、大学院へと繋がる。 大学での講義には「解らないのは学生
が悪い」的な講義さえ少なくなく、講義も一方通行で、学生からの質問も殆どないのが普通であ
る。 (センターを設けたりして講義、宿題など、教育の質の改善を皆できびしく努力している大
学も少ない) 質問のなさは、風土の違いもあるが、アメリカ辺りの大学生とは雲泥の違いであ
る。 子供の頃からHow do YOU think? と、自分なりに考えさせられ、debateできる訓練から来る
違いなのかも知れない(2)。 「学びて思わざる」教育で育ち、自分の頭で深く酷しく考え、判断し
た経験の乏しい院生に自分でよく考えろと言っても(言わないより断然よいが)個性的な創造性
を期待するのも容易でない。  研究テーマの問題も大きいが、私の感じでは日米の院生の差
はこのような「自立」の差から来る部分が多い。 大学院教育問題は、特集号に取り扱われて
いる問題もあるが、かようにマイナス因子の根が深いのである。 自分で考えれるようになると
有利になる大学入試も含めて(1)、その根の掘り起こしを大学の先生たちの自覚と創造性ある
決断に期待したい。

1)田丸謙二、21世紀の理科教育、本誌、54、885 (2001): 智恵を育てるエデユケイションを、
化学と教育、50, 61 (2002):日本を駄目にするのは誰だ、近畿化学工業界,7,11(2000)
2)田丸謙二、大山秀子、アメリカの孫と日本の孫、本誌, 52, 1149 (1999):53, 190 (2000)




理科教育について今早急に求められていることは?

今年度から「ゆとりある教育」として新しい学習指導要領が実施された。 この指導要領には
「自ら学び自ら考え」とか、「探求的に」とか、「個性ある教育を」とか、いろいろと前向きの言葉
が並べてある。 しかし世間では今度の改定ではどうも「学力がますます低下する」という心配
の声の方が高いようである。

私はこれからの理科教育(理科に限らず全ての学科でも)は単なる「物知りを作る」のではな
く、これからは基本をしっかりと身に付けて、自分で論理的、個性的に考えることができるよう
な智恵を育てる教育が絶対に必要であることを主張して来た。 今の子供たちが中心的に活
躍する二、三十年先の世の中(情報化、世界化が格段に進み、世の中の動きがますます速く
なる時代)に適応するには自分の頭で考え、的確に物事の判断ができる教育を今やるかやら
ないかで、その国の将来は大きく分かれるからである

私はアメリカなどで進めている新しい自分で考える理科教育の紹介などをしながら、やはり教
育の実際の現場を知らなければいけない、ということで、心がけて中高の沢山のクラスを見て
回って見た。 圧倒的に共通していることは殆どのクラスで先生たちは熱心に教えているのだ
が、全て「解ったか、覚えなさい」の「一方的な教え込み作業」である. そこには生徒たちに自
分できびしく考えさせたり、判断したり、問題を考えたり、することは極めて乏しい。 しかし考え
てみると今皆がやっているその作業は限られた時間内に盛り沢山の事を教えることが出来、現
在の知識偏重の大学入試に備えるには最も適した教育方法である.のである。 「考えさせる
教育」をしたからといって現在の入試に有利になるわけでもないから実際に普及することは容
易ではない。 面白いことにそのように先生からの言葉を一方通行的に受け取るだけの作業
が正に大学にそのまま持ち込まれている。 「解らなければ学生が悪い」的な講義も未だに少
なくない。 だから大学でも講義において学生からの質問は殆どないのが普通である.。 質問
がないことは風土にも関係するとしても、アメリカ辺りの大学生とは正に雲泥の違いである。 
子供の頃から「お前は如何考えるか?」と問われ、デイベイトしたり、考えながら話を聴く習慣
が身についているか、いないかの違いである。 日本では個性的に創造的に自分の考えや智
恵を育てる(自分の言葉で話す)訓練が子供の頃から大きく欠如しているからでもある。 歴史
的に文化的な後進国であったためか、学力というと知識の量をもって推し量る癖が残っている
し、先生たちは自分たちが過去に受けた知識偏重の教育が無意識的に固定観念として身に
ついている。 いまさら「自分で考えるように教育しろ」と言われても、「考える」ということが何で
あり、どうしたらよいのか解らない。 「問題を解決したり応用すること」はもとより、「新しい問題
を考える」こと自体身についていない。 

教育を改善しようとするならば、それに応じてまず大学入試(教室内での試験でも)の内容から
変えないといけない。 前にも書いたが私はある新設大学で、高校の教科書持参で受験し記
述式で答えを書かせることを実際にやったが、それにより受験生の考える能力のレベルが手
に取るように解ることが解った。 ○×式などの比ではない。 教科書持参であるから、「これ
を覚えているか」式の問題は出せない、これは何故なのか、とか、こういう場合はどうしたらよ
いのか、など考える問題になるのである。 このような形式の試験をセンター試験と組み合わ
せたり、人数を絞ってから面接をするなどすると、多様性のある人間の評価が格段に向上する
ことは間違いないし、高校以下の教育も大きく変わって来ざるを得ない。 ただこの新しい思考
力の試験ではこれまでそのような訓練を受けていなかった出題者自身の考える能力がそのま
まはっきりと現れて来たりする。 実際に問題を作れない教授たちも少なくない。

しかし今度の学習指導要領にあるように「自ら考えさせるよう」に指導することを掲げる以上は
絶対に試験制度をその線に沿って変えて、先生(大学も高校以下でも)自身が、知識を授ける
だけでなく、自分でまず考える能力や習慣を育てなくてはいけないのである。 それなくして生
徒たちに「自分で考えろ」など言えたものではない。 このような状況下では今早急に求められ
るのは、新しい指導要領の線に沿って入試の改善や教師の再教育と共に、実際にどのように
したら「自分で考えさせる教育」ができるのか、その実施方法の開発普及である。 本当に智恵
のある人たちが集まってそれを実行する上で参考になる実際例を各種作ることではないだろう
か。 それによって高校以下の先生たちが啓発されるし、その中から自分の個性にあった例を
取り上げることもできるであろうし、また大学の先生たちも自分で考えることを学ぶことにもな
り、自分の研究の上にもプラスになることは必定である。 このようなことが実現できて初めて
子供たちが自分で個性的に考える創造性が育つことになるのである。 

以上をまとめると、1)知識偏重の大学入試を改め、「考える教育」の実を挙げれば成功する内
容に基本的に変えること 2)「考える智恵を育てる教育」を実際にするにはどうすればよいの
か、知恵者が集まって具体的な実例を多種準備することなのである。 3)教師の再教育。 今
一番の基本的な問題は、「考える」ということはどういうことであるか、創造的な人材を育てる教
育を実際にするには何をすればよいのかを考え、それを実行に移すことなのである。

                 田丸謙二(2002年5月21日)




高校化学の教科書にある触媒に関する記述について

今年度から新しい学習指導要領のもとに『ゆとり教育』が始まった機会に、教育の基になる教
科書がどのように変わったのか、またそれを基にして先生たちがどのように生徒たちに教える
のか、について調べてみた。 

最初にいろいろの教科書(7出版社)の中に触媒について記述されている内容を拾い集めてみ
た。 教科書という限られた紙面の中で、比較的に短い記述を通して、触媒とはどんなもので、
いかに働くかについて述べてある。

『触媒とは』、の記述部分: (@) 『それ自体は変化しないが反応の速度を大きくする物質』 
化学TAとTBの教科書のほとんど全部にこの記述がなされ、それだけにとどまっている。 化
学Uのいくつかにもこの記述がある。 化学Uでは、全ての教科書に、化学反応の起こり方と
の関連で、活性化エネルギーの概念が出てくる。 (A) 『触媒は反応の活性化エネルギーを
下げる物質』 その中には、活性化状態という言葉を使ったものもある。 例えば、『触媒が存
在する場合は、触媒と反応物とからなる活性化状態ができて反応が進む。 したがって、触媒
が存在する場合の活性化状態は、触媒がない場合の活性化状態と異なり、反応そのものも別
の経路を通って進むことになる』の記述がある。 

『固体触媒作用が起こる理由についての説明』、の記述部分: この固体触媒の説明は全部
の化学Uの教科書に載っている。 例えば、(B)『触媒表面に反応物が吸着して活性化状態
になり、反応をしやすくする』 (C)『反応物は触媒表面に吸着されて反応を起こしやすい状態
になり、この状態から生成物ができるとともに触媒表面から離れていく。 そして新たに反応物
が触媒表面に吸着されて、この過程が繰り返されて反応が進む』 この(C)の文章がないまま
に、三種類の教科書には、次のa, b, c, が書いてあるのもある。 例えば、(Ca)『固体の表面に
反応物が吸着すると、分子の原子間距離が長くなったり、結合の強さが弱まったりする。その
ため、単に分子どうしが衝突する場合よりも、反応の開始に必要な活性化状態がずっと容易に
つくられる』 (Cb)『反応する分子が触媒表面にゆるく結びついて、その分子の特定の場所に
別の分子が近づきやすいかたちをとる。 そこで容易に反応が進み・・・、 (Cc)『一方の分子A
が触媒に吸着されて、原子に解離し、触媒と結合する・・・』。 この反応分子が触媒表面で解
離して反応が進むという説明が複数の教科書に載っている。 

細かい表現は多少異なるとしても、大体このような説明のどれかが書かれている。 このような
記述から生徒たちは触媒がどういうものであって、その作用がどのようにして起こるものか、高
校のレベルなりに理解することが期待されている。 しかし、中には触媒について一体何を教え
ようとするのだろうか、頭をかしげるものもある。 生徒たちはむしろ、解らないなりにそのまま
言葉を覚えさせられ、解ったような気にさせられて、通り過ぎて行くことはないだろうか。 例え
ば(@)と(A)または(B)との組み合わせで説明されても実質的には触媒について何かを理
解したことになるのだろうか。 活性化エネルギーを下げるとか、活性化状態がどうのと言って
も、触媒の場合、それらの述語の意味自体生徒たち、(だけでなく先生たちも)は本当に理解し
ている訳ではないだろうし、ただ反応速度が速くなると言うことをもっと難しく言い換えただけで
はないだろうか。(教科書にある活性化エネルギーは一般に素反応についての概念であるが、
触媒反応ではいくつもの素反応からなる複合反応であって、律速段階や頻度因子などと関連
して必ずしも簡単ではない) もちろん高校の段階では反応の速度を活性化エネルギーで代弁
させることもないではないが、何故触媒によって活性化エネルギーを下げるのか、どんな操作
をすれば下がるのか、ちゃんとした説明がないと、質問好きの生徒たちなら、何故、どのように
して、と尋ねてきそうである。 (活性化エネルギーを下げなくても頻度因子を大きくして反応を
促進することもあり得る) 「触媒が活性化エネルギーを下げる」など言わなくても、(C)の説明
のように、「触媒が関与することにより、もっと速く進める別の経路を作って反応を進めるの
だ」、と言う方が解り易いし、本当の説明ではないだろうか。  

例えば、固体触媒反応の場合、反応分子が固体触媒表面で解離吸着して反応が進む場合も
確かにあるが、それが一般の触媒作用の必要かつ十分条件になるわけでもない。 「反応分子
が原子に解離吸着する」、と言うといかにも反応しやすくなる感じもするが、一般に、例えば、酸
素分子が金属表面と反応して表面酸化物を作るときは酸素分子は解離吸着をするのである。
 だからと言ってその金属の上で触媒作用がいつも進むわけでも何でもない。 解離吸着と触
媒作用とは別なことが少なくない。 例えば、(C)の記述をしてから、それに続いて、「解離吸着を
してできる反応し易い状態を通って速く反応が進む場合もある」と言うくらいにとどめておいた
方が無難である。 ましてや、(Ca)のように、『反応分子が吸着すると原子間結合が弱まるか
ら』などと言って、あたかもそれが触媒として働くための特徴的かつ十分な条件のように書かれ
ていて本当によいものかと考えてしまう。 そんな場合がどれだけあるのだろうか。 (Cb)の別
の分子が近づきやすいかたちで、というのも似たようなたぐいである。 触媒反応の種類や触媒
自身によって、いろいろな反応性に富んだ中間状態があり得るわけで、それを通って反応し易
い道筋ができて来るのである。.  

それに、全部の化学TAやTBといくつものUの教科書に出て来る、『触媒がそれ自体は変化
しないで反応の速度を速くする』という表現は、何とも誤解され易い表現ではないだろうか。 
「それ自体変化しない」という言葉は何か本当に何も変化しないかのように誤解される。 『反
応の前後において』と条件をつけてみても同じである。 少なくとも、(反応物と反応しながら繰
り返し再生され)「見かけ上は変化しない」としてあるものも一つあったが、その方が適当では
ないだろうか。 化学TA,TBの段階だからといっても、(@)の言葉だけでなく、もう少し何か触
媒、ひいては化学の面白さを加える脚色ができないものだろうか。 もちろん先生の工夫次第
ではあるが。

教科書を読んで解ることは、どの教科書にも、ある反応について、触媒にならない物質と触媒
になるものとの違いは何なのかの点については何も触れられていないことである。 具体的な
例を持ち出す余裕はないためだろうが、何故あるものが触媒作用を起こすのか、根本的に触
媒作用の本性の取り扱いが欠如している感じが強い。 触媒になる場合の説明的な話だけで
終るほとんど全部の教科書の場合、生徒はいかなる反応についても、触媒になるもの、ならな
いものなど自分で考える手がかりは全くない。したがって興味が湧いて来ないのも致し方がな
い。

金属触媒による水素と酸素との反応を例に取ってみよう。 アルミニウム金属は酸素と触れる
と強く結合し、酸素は「原子状に解離して」表面に酸化物(あるいは表面吸着酸素)ができる。 
しかしそのできた酸化物は非常に安定で水素により還元されにくい。 したがって水素と酸素の
混合気体がアルミニウムに触れても、表面に解離吸着酸素を作って、それで終わりであり、触
媒作用は生まれない。 しかし銅ではどうだろうか。 銅は適当な温度で酸素と触れて容易に酸
化物(あるいは表面吸着酸素)を作る。 その酸化物は水素により還元されて水と銅を作る。 こ
の両方の反応が適当な速度で進む条件下では、当然水素と酸素の混合気体が銅表面を通し
て反応して水ができることになる。 つまり、酸素気体が銅の表面と反応してできた表面酸化物
(或いは表面吸着酸素)は、共存する水素により還元されて、水ができ、銅の表面が再生され
る。 すなわち、水素と酸素の混合気体は直接には分子間で反応しないものであっても、銅表
面の存在下ではそこで酸化還元を繰り返しながら水素と酸素とから水ができる反応が進むの
である。 酸化と還元の両方が適当な速度で進む条件下で初めて触媒作用が生まれるのであ
り、これが触媒として働く必要且つ十分な条件なのである。 こう考えると、高校生が知っている
銅の酸化とか、水素による酸化物の還元だけで話が成り立ち、『反応座標』とか『活性化状態』
など考えることは全くないし、吸着分子がゆがむとか、あるかたちをとって、とか考える必要もな
い。むしろ、この反応の例から、銅の他にもどんなものが触媒になり得るのか、あるいはならな
いのかなど、自分で考えたくなる高校生も出てくるのではないだろうか。 触媒作用はさまざま
な例があって、到底全ての場合について触れることはできないし、その必要もないが、少なくと
も、「なるほど」と思える事例を挙げて説明をすれば、「なるほど」と本当に理解して初めて自分
で考え始めることにもなる。 本当のことが解るからである。 今度の新しい学習指導要領では
「自ら学び、自ら考える」、そして「自ら探求的に考える」と言っている。 高校の化学の中でも
触媒作用は基礎的な化学反応の起こり方だけでなく、応用方面で身の回りのものをつくり、さ
らには環境問題とも直結して、取り扱い方によっては、高校生にとって大変に魅力ある題材に
なれるはずである。 それをただ活性化エネルギーがどうの、活性化状態がどうの、と言うだけ
の言葉を使って説明すればこと足りるとは到底思えない。 「活性化」などの言葉は、触媒に関
連して多くの教科書に出てはいるが、反応物は固体触媒表面に吸着すると、吸着熱分だけ安
定している状態になり、それの関与する反応であるので、特に何かが触媒によって活性化され
ているわけでもない。 活性化といっても、(或いは反応性に富むと言いたいのかも知れないが)
高校生にとって理解しにくいし、しかも余り意味もないので(下手をすると、光や熱のように反応
物にエネルギーを与えて活性化するようにさえとられてしまう)、この場合そのような言葉はしま
っておいて、銅の触媒作用で示したように、速度的にダイナミックに説明した方が、事柄の本性
を示すことになり、『なるほど』と思わせて初めて自分で考える「よりどころ」にもなり得るわけで
ある。この酸化還元の繰り返し反応は現実に自動車や発電所などからの排気ガス中の酸化
性(窒素酸化物、酸素など)の気体と、還元性(燃料ガス、一酸化炭素、など、場合によってはア
ンモニアを加えて)の気体とを反応させて、排気ガスの中の有害ガスを除去する触媒作用な
ど、酸化、還元反応と一緒に環境問題も取り扱うことができる格好の教材である。 金属酸化
物で、二種類の原子価の間を酸化還元を繰り返し、容易に行き来できるものは触媒になりそう
だ位少し考える生徒たちなら直ぐに思いつくであろうし、興味を持って「自ら学び、自ら考える」題
材にもなって来る。 自分の家にある車が走るときに起きている触媒反応なのである。 自分で
興味を持って調べ、触媒の本性を理解し、自分で考える智恵がつくのである。 (実際には酸素・
水素間の反応、自動車の排気ガスの浄化作用など、触媒表面での酸化還元による反応には
金属酸化物もあるが、白金族の金属が高い活性を示す) 

触媒作用において、反応の選択性の話は重要なポイントの一つである。 一つの教科書には
ギ酸の接触分解が触媒により反応生成物が異なる例が出てはいたが、もし環境問題とも直結
して考えるとすると、一酸化炭素と水素との反応があるかも知れない。 この水素と一酸化炭素
の気体からは、触媒を選ぶことにより、メタノール、メタン、ガソリンなどいろいろなもののどれか
を専ら作ることができる。 将来、石油や天然ガスが乏しくなって、石炭に頼る時代が到来した
とき、人類の生き残りにとって極めて重要な触媒反応になるのである。 このように、同じ反応
物からいくつかの種類の反応生成物ができ得る場合、触媒によってその選択性が異なり、欲し
いものだけを選択的につくる技術が常に問われるのである。 触媒によってそれぞれ異なった
反応経路を通って反応生成物ができて来る。 これまで作られたことのない新しい物質が、新し
い触媒の開発の結果得られるようになり、新しい化学工業が創生された例も少なくない。

現時点で先生たちは、触媒作用に関しては、教科書通りの教え方はむしろ避けて、触媒につい
ての基本的な考え方を教えながら、興味を持っていろいろと考えさせ、自ら学んで、調べたり、考
えたりした生徒を誉めて、励まして上げればよい。 生徒たちはそのようなことを通して、化学
と言う学問が非常に面白いばかりでなく、全ての人たちにとっても極めて重要なことを知るであ
ろう。 入試でも、前述の(B)の文章を出して「活性化状態」を抜いた穴あけ問題にしたりするよ
うな次元の低い出題は絶対にしないよう、今からお願いしたい。

蛇足を付け加えると、教科書によっては、「正反応と逆反応との活性化エネルギーの差が反応
熱になる」と書いてあるものもある。 もちろん、学問的には正しくない文章である。 だが高校
のレベルならそう言っておいても許されるのではないかと言う説もないことはない。 しかし、例
えば、窒素と水素とからアンモニアができる反応で、窒素1分子についての反応式を使った反
応熱を使うのか、それともアンモニア1分子についての式の反応熱を使うのか、少し考える生
徒なら先生に質問して来るかもしれない(一方、活性化エネルギーの方はどちらの式を使うか
とは無関係)。 教科書が間違っていると正直に答えるしかないのであろうか。 

また触媒について、「反応速度を変えるもの」として、反応を抑制するものも触媒作用の中に含
めた取り扱いをしている教科書もあった。 以前は、反応速度を遅くするものを「負触媒」と呼ん
でいた時代もあったが、それは「触媒」とは言わないことにするとIUPACの触媒部門で何十年も
前に結論したはずである。 触媒は常に反応速度を速めるもので、被毒作用をしたり、連鎖反
応のchain carrierを除いたりする作用をするものは負の「触媒」とは言わないことになっている。
         田丸謙二 (2002年6月9日)



2001-10-8
林様へ、最近書いたものを送ります。田丸謙二

教育の無責任体制を改めるには?

 日本の教育は文部科学省が取り仕切っていることになっている。最近の「ゆとりある教育」そ
の他いろいろな審議会で結論が出されていてそれが我が国の教育の基本になっている。「教
育改革」もそれによって遂行される。学修指導要領も概ね文部省の密室で作られる。発表され
てから後になって多くの人たちから「これでは我が国の教育は悪くなる」と騒がれている。審議
会のメンバーも,学修指導要領を作成する人たちにしても,どのようにして選ばれたものかよく解
らない。文部省としてもできるだけ公正な,バランスを考えて選んでいるに違いない。しかし例え
ば学修指導要領にしても,改訂されるごとになぜ変えなければいけなかったのか,の地道の議論
なしに,その都度その都度の人たちによって適当に変えられている。今回もこれでは悪くなると
いう声が多いのもことの決め方の何処かに基本的な仕組みが間違っているようにしか思えな
い。

 一方アメリカでは1989年頃から科学アカデミーの National Research Council が中心となり
理科教育の改革に乗り出した。全国から選ばれた人達が原案を作り,1992年5月から18ヶ月
の間に150回以上にわたりその内容を公開しながら数多くの人達,学会などの意見を聞き、
最後には4万部を刷って全国1万8千人や250のグループに配って意見を求めてNational
Science Education Standardsを作り上げている。地域的な色彩の強い教育を基本にしている
アメリカにおいて正に国を挙げての作業であった。日本と何たる違いなのであろうか。

 我が国でどうしてそのように手を尽くして、オープンにことが運べないのだろうか。教育につい
ての意見は個性が皆異なるように十人十色であっても少しもおかしくないものである。国の教
育の基本政策を決めるのには限られた数の委員たちが閉じられた委員会の集まりで結論を
出して終わりとするのではどうしてもその場限りのものになってしまう。その結論を沢山の人の
目に触れるようにして議論を積み重ねるべきではないだろうか。勿論いろいろと違った意見が
出ることではあろうが,矢張り大半が納得する議論の積み重ねを経て初めて納得のいくものが
出来上がるのではないだろうか。もう一つには最初に出す「原案」にしても,たまたまの委員会で
寄り集まって結論を出すのではなく,もっと年月をかけた基本的な調査,情報を基盤とし,日常的
に各種の意見を集約したものに基づいて出されるべきものではないだろうか。何かいうと「時間
がない」,「忙しい」,「そんな手間はかけられない」、皆やっつけ仕事でその場その場でことが決
まって行くとしたら,ことが百年の計の教育問題であるだけに到底許されるものとは思えない。こ
とに若い人たちの教育問題は,今から二、三十年先のますますコンピュータ化された世の中で
中心的に活躍する人たちの教育である。世の中の動きがますます速くなり,世界化が格段に進
むこれからの世の中で,速い動きに即応して判断が出来,時代をリードして創造的にものを考え
ることができる人材が求められるものである。「物知り」だけでは駄目である。そのようなこれか
らの将来を予測し,先見性を持って判断できる材料を集める必要があるのである。少なくとも,現
在のように、知識偏重の入試をし、「学びて思わざる」横並びの教育をしていては,時代から取り
残されるだけであることくらいは当然結論されることではないだろうか。

 このような地に足が着いた地道な積み重ねをし,それを具体化する機関が何処にあるだろう
か。昨年 アメリカのNational Research Councilから出された本:How People Learn: Brain,
Mind, Experience, and School を読んでも,最近の脳の科学にも基づいて学校教育がどうあるべ
きかということについていろいろの人たちを動員して書かれている。 National Research
Council も一つの例になるかもしれないが,日本的に教育の基本について各種の議論を広く集
約し,実践し,具体化する機関が何処かにあるべきなのである。「私達の教育改革通信」も素晴
らしい意見が多いが,ただ言いっ放しでは如何にも空しい感じがする。我が国の教育政策は全
体的に正に「無責任体制」なのである。「十人十色」の考えでも,その基本に流れる改革の仕方
をどこかで集約する一方で,世界の動き,入試制度の改革、学修指導要領など、これからあるべ
き教育の基礎になる情報,調査を地道にしながら,それを広く知らせ,その実現に貢献する機能
がもっとあるべきなのである。National Research Council の場合と違って,日本では学士院は
その役をするようにはなっていない。学術会議も駄目であるし,文部省も今までのようではとても
おぼつかない。国立教育政策研究所も今のままではそこまでの先導的な役割はとても果たし
ていない。今のままでいいとは到底思えない。行き当たりばったりの委員会制度での決定を避
けて日常的にみなの意見を集約する一方で,教育のあり方についての基本について、大地に
足がちゃんと着きながら、将来を見据える、ダイナミックに動ける機関の設立、またはそのよう
な機能の働きの実現を強く望む次第である。
(2001年10月)
「私達の教育改革通信」に投稿済み




これからの教育
知恵を育てるエデュケイション
田丸謙二

 教育に求められる先見性: 昨今のように時代の動きが速くなって来ると、激し
い渦の中に巻き込まれて、自分の位置付けを失ってしまいがちになる。例えば
30年前はどうであったか?FAXも一般に姿は見せていなかったし、アメリカやヨ
ーロッパとの文通も航空便を出せば返事が来るまで2週間はのんびりとしてお
れたものである。リストラとかインターネットとか、ましてやITなどのしゃれた言葉
は新聞、テレビには全く見られないものであった。、これらの言葉を通しても近
頃では世界化が肌で感じられるようになって来た。機器、機関の進歩は社会機
構は言うまでもなく、人の考え方まで変えて行き、社会が求める人材もそれに伴
って変って行く。これから先更に30年経ったらどうなっているだろうか?将来の
ことは解らないけれども、30年前に現在を想像できなかったのと同じように、多
分現在の時点で想像をしているものよりも更にずっと先に進んでいる世の中に
なっているのではないだろうか。確実に言えることは、現在普及して来た最近の
機器などは更に一段と普及し日常化をするであろうし、情報化が進み、世界化
が格段と身近になり、時代の動きが更に早まるであろうことである。なるようにし
かならないのだから、「先のことは先に任せておけ」と言っておれないのが「教
育」である。30年後に社会の中で中心的に活躍する現在の歳若い人たちが、多
分現在と比べものにならないほどの激動の世の中に生き、即応し、その時代を
リードできる人材になれるよう育てるのには如何に教育をすればよいのか。先
見性を持って判断する差し迫った問題として、現在の目の前に直面しているの
が「教育」の問題である。これからは、それを正しく判断し実際にやって見せた
社会、国が栄えることになるのである。

これからの社会と教育:このようにますますコンピュータも日常的になり、国際
化した激動の世の中になって来ると、「物知り」だけでは駄目である。知識の量
としては到底コンピュータに敵うはずがない。学校で学ぶ知識は、基本的な事
柄は別として、その寿命は時代の速い動きの中でどんどんと短くなって行く。基
本的、原理的なことをしっかりと理解し、それを知恵として自分の頭で考え、判
断し、創造的に物事を考えることができる人材がますます求められることにな
る。世の中の回転が速くなると技術の寿命も短くなり、それに代わる新しいもの
を生み出す創造性ある能力が求められるからである。皆の考えることしか考え
ない横並びの人材を作っていたのではコンピュータがそれに代わってしまう。こ
れまでのわが国でのように、知識偏重の入試を広く行い、それに合わせて、「学
びて思わざる教育」が大学や高校以下での横並びの教育を支配的に続けて行
くと、一年一年着々と時代から遅れて、取り残されるだけになってしまう。時代
は待ってはいない。どんどんと加速度的に変わっているのである。

アメリカではNational Research Councilを中心にして、5歳の子供から、理科的
な知識よりも、探求活動を通して、創造的に知識を求める科学的な新しい理科
教育を何年も前から始めているのも時代の大きな流れからして当然のことでも
ある(1)。理科教育は理科的な知識をただ覚えさせるのではなしに、その知識
が如何に求められ、説明されるのか、自分の頭で考えさせながら、科学者達が
やるように子供なりにそのレベルに応じて探求させるのである。実験も子供達
の興味に従って企画させ、やらせてもみる。子供達の興味を引き出しながら考
えさせるのである。教育は教師の個性もあり、これまでの慣習的なやり方もある
ので、新しい教育方式がどれだけの速度で広まって行くか、注目したい。わが
国でも、必ずしもその真似でなくとも、それを他山の石として、日本流の新しい
創造的な教育を至急に始めて、これからの時代に即応した人材作りをしないと
日本は本当に駄目になってしまう。私が最近「化学と工業」誌に書いた通りであ
る( )。

如何に知恵を会得させるか?: 「化学は暗記もの」と言う一般概念は未だに根
強く残っているようである。暗記しなければいけないことはしっかりと覚えなけれ
ばいけないことは言うまでもないが、私は十年余り前に「高校化学をつまらなく
する方法」という駄文を書いた(2)。先ず「実験をしないこと、させないこと」から
始まって、「知識を覚えるように押し付けて、それが何故であるかとか、それが
どうして解るかなどを取り扱わないこと」などなどが続き、最後に最も効果的な
方法は「大学入試に下らない問題を出すこと」に終っている。それはその後のア
メリカの新しい理科教育と軌を一にする中身であった。

アメリカの探求を通して教える理科教育の向こうを張って、これからの教育のあ
るべき姿として独断的に私なりの一つの仮想的な例を考えてみる。これからの
教育は生徒たちが受身になって教師の提供するものを受け取るだけでは駄目
である。エデュケイションは自分が生来持っている考える力を引き出すことであ
る。授業中は教師と生徒[学生]の間の密接なcommunicationを通して、一緒に
考え、議論しながら考えることによって、自分で考え判断することを前向きに学
ぶことである。将来は、現在既に外国でも始まっているように、生徒各人からの
コンピュータその他の機器を通してのお互いのやり取りをすることになるであろ
うし、その設備がなくても、工夫次第で直接の問答でもカバーできるはずであ
る。

原理に基づいた科学的知恵の育て方; 抽象的な議論ではいけないので、具
体的に述べてみよう。例えば「不揮発性分子が溶けている溶液の蒸気圧降下」
から始めてみる。先ず第一に生徒たちに蒸気圧とはどういうものか、どうしたら
それが測れるかを考えさせる。閉じた系に液体を入れると、蒸気が充満して来
て、蒸発と凝縮の速度が釣り合ったところで平衡蒸気圧になる話を出発点とす
る。その議論をした後で、『ある溶媒の中にその溶媒と馴染んで溶けている不揮
発性分子の希薄溶液がある。その溶液の蒸気圧は純溶媒のそれと較べてどう
なるであろうか?』という問題を出してみる。いろいろの意見を先ず出させ
debateさせるのである。厳密な意味では問題があるとしても、希薄溶液で溶液
の表面から溶媒の分子が蒸発する速度は、溶質分子の混ざっている分だけ邪
魔をされるので、遅くなり、一方蒸気からの溶媒分子の凝縮速度は、仮令溶媒
に馴染んでいる溶質分子の上にぶつかっても凝縮するので余り変らないとする
と、ある温度では:  蒸発速度= k1(1-- q)  但しqは溶質で表面がカバーされ
ている割合

 凝縮速度= k2P 但しPは溶媒の蒸気圧

従って平衡では両者の速度は等しいから溶液の蒸気圧は (1 - q) に比例する
ことになり、qを溶質のモル分率とおくと、それを1から引いたものが溶媒のモル
分率であるから、溶媒の蒸気圧は溶媒のモル分率に比例すると言うラウルの
法則が出て来る。既知の分子量を持つ溶質を用いてその比例定数を知れば、
モル分率を通して一般的に溶質の分子量を求めることもできる。
この関係が出て来れば、次にそのような蒸気圧が降下した溶液の沸騰点や凝
固点について尋ねてみる。結論を教えることなしに、生徒それぞれの意見を尋
ね、考えさせ、議論をさせる。(凝固点と言うものは純溶媒の固体と蒸気と溶液と
が共存する温度である)当然の結果として溶液の蒸気圧降下から溶液の沸点
上昇や、凝固点降下が議論できる。溶液を作ることによる両者の温度変化の仕
方が、溶質の分子量にも関係することも解る。

次に浸透圧の実験の装置を描いてみせる。半透膜の説明をしてから、溶液と純
溶媒の液面がどうなるかを考えさせてみる。溶液の面と純溶媒の面とは蒸気圧
が異なっているので、同じ高さで平衡に共存できないから、蒸気圧の低い溶液
の面の方が上方に昇って行くことになる。従ってこのようにして浸透圧を示す実
験を使って、浸透圧の生まれる筋道も明らかになる。望むならばファントホッフ
の浸透圧の式も、少し出来る高校生なら、天下りすることなく、その実験を使っ
て、成る程成る程と計算して求めることさえ出来るのである。(3)この場合もモル
分率が話の中に含まれることから、溶質の分子量も求まる。歴史的に言って
も、アレニウスの電解質の電離現象もこのような現象から初めて証明されたの
である。[電解質の水溶液が電気を導くことはFaradayがその大分前から電気分
解などについて知っていたが、電離することまでは考えていなかった。つまり電
解質の水溶液が電気を通すから電離している証明にはならなかったのである]
浸透圧の延長として、台所でのきゅうりの塩もみも生体膜の話でも、何十メート
ルもの高い木の上まで水が上がって行くことなど、いろいろな身の回りの出来
事が関連して議論もできる。

溶液の蒸気圧降下も、沸点上昇も、凝固点降下も、浸透圧も、ファントホッフの
式も全て天下り式にお互いに関連のない知識として暗記させる教え方もあり得
る誌、その方が決まった時間内に多くのことを教えることになるかもしれない。
けれども、それで面白い話しになるのであろうか。物知りにはなれるけれども、
その知識を基にして何か新しいことに対応して自分で何か考えることができる
のだろうか。新しい疑問も、問題も頭に浮かんで来るはずがない。それよりも上
述のように、蒸気圧、沸点、凝固点などを知っていれば、何も暗記することなく
話しが進んで行き、成る程成るほどと納得して考えて行けば、自然界が基本的
な大きな原理、原則に基づいて成り立っていることを知り、初めて自分で考える
知恵もつき、その他の新しい現象に対してもその原理に基づいて頭を使って自
分で理解し、考えようとする気にもなって来るし、新しい疑問や問題提起もそれ
なりに生まれて来るのである。コンピュータのようにインプットされた情報だけを
吐き出す物知りだけで終るか、それとも自分で考える筋道や知恵を身につける
かの違いは殊に新しいことを考えることができるか否かの点で正に根本的に重
要な違いなのである。これからの時代が求める創造的な考え方にしても、基本
的な原理をしっかりと理解しそれから出発して物事を考えることが如何に大事
なことであるか、それがcreative に物事を科学的に考える基本であり、出発点
になるのである。断片的な知識を個別に暗記をするものとして教える不毛の教
え方よりも、たとえ知識の量はそれだけ犠牲になったとしても、時間をかけて自
分で考える道筋を原理的に教える方がこれからの教育方法であることは言うま
でもない。(How People Learn, Brain, Mind, Experience, and School) その考え
方の道筋を身につければ、何も理科だけでなく歴史でも、社会でも、あらゆる学問
を知識の集積としてではなく、基本に立ち返って、筋道を立てて科学的に考える
ことができるようになるのである。このように物の本質を見極めれるか否かの点
が学問的な専門家と駆け出しの学生との違いであって、必ずしも知識の量では
ないのである。(4)「ゆとりある教育」として教科内容の削減をする場合でも、一
様に削減したのでは駄目で、知識は犠牲にしても知恵がつく教科内容にするの
がこらからのあるべき教育である。

同じようにして生徒たちに考えさせながら、酸、塩基、中和、酸化、還元、などな
ど、水素イオン、酸素、電子などのやり取りを基本として納得させ、それが釣り
合ったところが平衡として教え、化学反応式を理解させる。環境問題での排気
ガスの浄化反応など身の回りの問題にまで発展させ、化学の役割を納得させ
るのである。自動車の排気ガスの浄化作用が排気ガス中に含まれる酸化性の
気体と還元性気体とが触媒の作用で一瞬の内に反応を終えて排気される仕組
みなど技術の進歩の成果が理解されるであろうし、資源、エネルギー、環境、
生命現象[遺伝子、脳の働きなども含め]などこれからは化学の時代であること
が生徒たちに解って貰えれば、化学と言うものが如何に重要でこれからの時代
の中心的な学問の一つであることが解ってくれるのではないであろうか。台所
での話し、燃焼、料理などについても沢山の化学での話が含まれていることは
言うまでもない。問題はそれら雑多な事柄の基本にある原理的な考え方を身に
つけて自分の頭で考える知恵を身につけさせることである。勿論、何が毒物で
あるか、化学物質の生理的な反応について、記憶して心得ていなければいけ
ないことも少なくないし、理屈抜きに暗記をしなければいけないことも少なくない
し、それを避けては通れない。しかし、そのような分野でも、身の回りの化学物
質、人類が餓えなくて済んでいる一因である農薬の話し、成長ホルモンの話
し、面白い話に事欠かないはずである。面白いと思うことに関連させたことを暗
記することはそれほど苦になるものではないのではないであろうか。

大学入試の役割:アメリカでの探求を通して理科教育をするのはどうかと言わ
れた場合、或いは原理的に自分の頭で考える方式は、と言われた場合、それら
がこれからのあるべき教育であると頭で理解しても、先ず簡単に返って来る返
事は、「そんなことをしたら、大学入試に合格しませんよ」と言うことではなかろう
か。大学入試に成功をすることを至上の目的とする立場からすると当然の答え
ではある。知識偏重の大学入試のやり方が変わらない限り教室での普段のテ
ストも変らないし、教育の内容もそれに備えたものにならざるを得ない。教育の
内容を時代に即応しようとするならば当然試験制度もそれに応じて変えなけれ
ばいけないこと今更言うまでもない。私はある新設大学での入試に高校の教科
書持参で、答えは記述式にしてやってみた(5)。教科書持参であるから、これを
覚えているか式の出題はなくなり、こういうことは何故であるか、こういう場合はど
うしたらよいのか、と考えさせる出題になる。答えは記述式であるから受験生の
思考能力が手にとるように伝わって来る。この方式では、別に受験生が減るわ
けでもなく、正にこれからの頭を使う教育用の入試のタイプの一つになっている
ことが明らかになる。入試が変らないと高校以下の教育は変らない。この意味
でも大学の教育に対する責任は重大である。入試の高校以下の教育に及ぼす
影響が如何に大きいいか、決して手抜きの入試はしてはいけないこと、大学教
員は肝に銘じて心得ておくべきである。ただ大学教員がこの思考力のテストを
する制度を嫌がるとしたら、答案の内容の採点よりもその種の出題をする能力
の問題のようである。不慣れのこともあるかもしれないけれども、普段に知識を
主にして教えている教授たちの思考能力のレベルがもろに現れてくるからであ
る。入試の手間を問題にするならば、先ずセンター試験で数倍に絞ってからやっ
てもよろしいし、本当はその上に一人最低15分間の面接までするに越したこと
はない。アメリカの有名大学では入試はleadership と creativityを重視すると言
っていたが、日本の知識偏重の出題で、○×でコンピュータが判定して一点でも
違ったところで線を引くのが人間を判断する上で公正だと言う旧来の方式はとう
の昔に時代遅れになってしまっているのである。時代遅れの試験制度の下で
は時代から取り残された人材が輩出されるだけである。若い人たちが犠牲者に
なるだけでなく、将来の日本の運命がかかっているのである。これからは入試
でも物知りの程度を調べるのではなく、知恵の程度を判定する方向に向かうべ
きである。

私は前述のような「下らない大学入試問題」の例としてセンター試験の問題で
出された、水酸化第二鉄のコロイド粒子のもつ電荷がプラスかマイナスかを問う
問題を取り上げた。大学の化学科の教員でも大半の人は知らなかった。考えて
も解らない、全く基本的でないこんな問題を出すよりも、コロイドの粒子は一般
に電荷を持っているから安定にコロイドとしていること、その電荷は水素イオン
濃度などで変化しする(電荷がなくなるところを等電点という)、と教えると、少し
知恵のあるものは、濁った水をどうしたら清澄な水にできるか、を考え始めるの
ではなかろうか。電解質を加えたり、幾つかの方法を考える基礎になるのであ
る。特定のコロイド粒子の電荷を覚えても「物知り」にはなるかも知れない。しか
し、何の知恵も生まれない単なる「物知り」に終る情報と、「知恵の源泉」になる
情報とははっきりと区別して、重要なことを教え、或いは試験に問う、ことがこれ
からますます大事なことになって来るのである。

これまでのように「こんなことくらい知らなければ」とか、入社試験などでも「君こ
んなこと知らないの?」などと言って「学力」を見るようなことよりももっともっと大
事なことがあることを知らなければいけない。

おわりに: 私は研究室で学生達に「折角いい頭をお持ちなのですからもっと考
えなさい」と常に言って来た。別に皮肉ではなしに、頭を使うことにより頭が働く
ようになると思うからである。近年になって脳の科学が進歩してみると、それが
正に本当であり、脳は使うほどに進歩し、その構造までダイナミックに変わって
来るという。自分では十分に頭を使っていると考えるのが常人の常である。教
育とは外から、なるべく年少の頃から、自分の頭を使う訓練をさせることである。
殊にこれからの激動の時代では、それがどれだけしっかりできるかどうか、その
程度によって時代に即応できるかどうか、国の運命がかかってくるのである。
これから30年先の世の中を考え、それに備えるべき現在の教育を考えなけれ
ばいけない時に、多分30年前に現在教員でいる人たちが過去に受けて来た知
識の教え込みの教育を無意識的ではあっても、金科玉条として真面目に教育
に携わる時、そこには正に半世紀以上の時代の遅れが生じていることが解る。
それは正に「若い人の芽を摘む」加害者であり犯罪行為なのである。ただ教員
自身が自分でそれを意識していないだけのことである。大学の教員も大学入試
を通して無意識の内に同じ加害者の役をしている。近頃はやりの構造改革では
ないけれども、これからの時代の急速な動きに即応して、日本の教育も大きく
変らなければいけない曲がり角に差し掛かっているのである。



林様;

メール有難うございました。 日本化学会の機関誌「化学と工業」の今度の8月号
に出る「21世紀の理科教育」は、会員(約4万人)は読むかもしれないが、いわゆ
る教育会員と称する高校の先生達は、同じ化学会から出ている「化学と教育」と
いう雑誌を取っているので、むしろその方にも書いてくれないかということが議
論されています。 どうせ重なることを承知の上で、このようなものならという
例を書き下ろしています。まだまだ素原稿のまたその素原稿の段階ですし恥ずか
しいものですが、ご参考までにお見せします。教育の専門家の理科の先生相手で
すので、話が専門的になっていますが。

お元気で。       
                    田丸謙二


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   教える人の責任はこれでよいのか
  「学びて思わざる教育」

  私は本誌の昨年の新年号に「これからのエジュケイション」と題して拙文を書かせていただ
いた。 要するに本来的に教育は各人が生来持っている長所をeduce(引き出す)ものであり、
一方的に知識を詰め込むものではないとして、私の双生児の娘から生まれたアメリカ育ちの
孫と日本育ちの孫の大きな違いについて書いてみた。 わが国では入学試験に成功すると言
う教師、親子を挙げての強い願望が教育全体を大きくゆがめていることは否めない。 本当は
「真の教育」をちゃんとやれば成功する入試内容にする必要があるのである。 文部省辺りが
入学試験を「知識の量でなく考える思考力をもっと重視せよ」と言っても、まず出題者にそれだ
けの知恵が乏しい。 前に書いたように私は「教科書持参の大学入試」を施行してみたが,受
験生は減らないのに、そのネックは出題者の知恵である。 日本は昔から外国から知恵を取り
入れて来た歴史が教育に深く根付いている。 日本の子供は国際的な試験でも、教科書に書
いてあることは比較的よくできるが,出ていない考える問題は苦手である。 その大きな理由
は日本での「学びて思わざる」教育の内容である。 まず先生がその種の教育を受けて育って
いる。 終戦後のどん底から這い上がって来た段階では確かに「知識を取り入れる教育」が有
効に働いたが,現在の世の中はすっかり違ってしまっている。 世界化,リストラの時代であ
る。 新しい時代は自分の知恵を持った人材を要求するのである。 知識はあっても自分で自
立して考えることが出来ない人材は既にコンピュータがそれに置き換わって来つつある。 で
はその教育の改革はどうすればよいのだろうか。 とても大変な問題とは思うが、一つには大
学入試をセンター試験に加えて二次試験で「高校の教科書持参」(或はそれに類する出題)で
することである。 「これは何故であるか、こうした時はどうすればよいのか」、考える問題を記
述式で答えさせるのである。 これは受験生だけでなく、出題者に考えることの大変によい訓
練になる。 学ぶだけでなく「思う」(思考力)ことの大切さ、学問の知識としてでない本質的面白
さや深さを知る訓練になる。 (大学教員のこの種の考える訓練は研究の上でも必ずプラスに
なる) 大学入試が変れば高校以下の教育も自ずからそれに従って変るはずである。 アメリ
カでは5歳から"science inquiry"と称して子供達に考える訓練をする計画を進めている。 日本
でも小学生の時は理科が好きであるのに、上に行くほど「つまらない受験技術」を詰め込ま
れ、「芽を摘まれ」て、横並びの考え方しか出来なくなる。 先生はまず教える内容が面白いも
のであると理解しなければ子供が面白がる訳がない。 子供がおだてられながら自分のレベ
ルに応じて、自分の頭で自立して考える訓練を受け、勉強が面白くなり、自負と希望を生み出
す教育こそがこれからの激動の時代に「生きる力」を与えることになるのである。

田丸謙二

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

林様:

どうせ訳した部分がありますので、・・・下手な流し訳ですみませんが・・・
教育のご専門家のご参考までに、取り敢えず抜き訳してお送りします。 
アメリカの National Research Councilの専門家の集まった委員会で作った
ものですので、私は比較的に信用していますが。

飛ばして部分的に集めましたので、非常に不完全なものですが。

お元気で。

                 田丸謙二
 (
2001-6-16

第5章 Mind and Brain
一般の報道機関が示すように、人々は、如何に脳が働き、考える過程が育成されるかと言うこと
について鋭い興味を持っている。(Newsweek, 1996, 1997; Time, 1997a.b) 特に赤ん坊や幼児の
神経系統が如何に発達し、学修する初期の経験が如何に効果を及ぼすかに関する話に極め
て高い興味を示す。 神経の科学や認識科学の分野の研究が人々が如何に考え、学ぶかに
ついての基本的な好奇心を満足させる助けになる。

脳に関する研究のどの発見が人間の学修、更に延長して、教育に関連するかと言うことを考え
る時に注意をしなければいけないのは、教室の中での実際には何も価値がないと解っているよ
うな流行を追う考え方を避けることである。 この中でも学修の効果を最大にさせるのには、脳
の左と右の半分をそれぞれ分けて教えるべきであると言う考えがあったり、もう一つの意見は、
脳は全体的に急速に成長するのであるから、それに合わせて教育目的を整えるべきであると
か言うものであるが、この章で取り扱うように、その特定の教育の意味は未だ解っていないけれ
ども、脳の部分はasynchronously[非同時に]に発達するという証拠がある。 もう一つの広く
言われている誤解は人々は脳の20%だけ使っているので・・・・違った使い方では違ったパー
セントであるが・・・・もっと多くを使うことができるはずである、と言うことである。 こう信じられて
いるのは、神経の科学の初期に、知覚または筋肉の動きに活性化しない「沈黙の地域」からな
る脳の皮質の多くがあるという発見から由来している。 然しながら、今ではこの「沈黙の地域」
は知覚や筋肉の活動とは直接には取り組んでいないが、より高い認識の働きを伝えているこ
とが知られている。

Wiring the Brain (p.117)
Wiring the brainにおける経験の役割は動物や人間の視覚皮質の研究によって明らかになって
来た。 成人では、二つの目から脳に入って来るものは視覚皮質の隣の領域に別々に届けら
れる。 その結果として二つの届いたものは次のセットのニューロンに集まる。 人々はこのニ
ューロンのパターンを持って生まれては来ない。 しかし、視覚の正常な過程を通して脳がそ
れを整理するのである。

神経科学者達はこの現象を視覚の異常、例えば、白内障または筋肉の異常で目を痛めたよう
な例から発見している。 もしも、このような異常のために発達の初期段階で適当な視覚経験
が奪われた場合には視覚情報を神経の中心部に伝える能力を失ってしまう。 極く初期の年
齢で目で見ることができなかった場合に後でそれを正しく直しても、正すだけでは直すことが出
来ない、駄目になった目はそれでも見ることが出来ないのである。 研究者達が同じような事を
猿の脳について実験してみると正常な目の方は普通より多くのニューロンを捕らえていて、駄
目になった目の方はそのために接続を失うことが解った。

このような現象は発達の極く初期段階で正常の視覚を経験することが妨げられた場合にのみ
起こるのである。 このような目が敏感な時期は視覚外皮でシナプスが過剰に生成され消滅す
る時期に相当する。 丁度重なり合っている初期の混ざり合いの中から、正常に見ることがで
きる目の神経の接続は整理されて生き残れるが、異常な目の方の接続は駄目になってしまう。
 両方の目が正常に見える場合はそれぞれの目は重なり合う接続の一部を失って両方の目
共に正常な数を保つ。

生まれた時から駄目になっている場合はもう一つの目がその代わりを務める。 誕生後時間
が経ってそのような駄目になることが起こる場合は遅くなるほどその効果は少ない。 大体生
まれて6ヶ月辺りまで何週間も閉じた目は何の効果もなくなる。 このクリテイカルな期間を過
ぎれば接続点は自動的に選択し重なり合っている接続点は消えてしまう。

このような異常なことが科学者たちを助けて正常な視覚発達についての深い理解をさせること
になる。 正常な発達ではそれぞれの目の通り道は正しい数の接続点に彫刻(または切り取ら
れ)され、パターンを見れるようになる。 シナプスを作り過ぎ、次に正しい接続点を選ぶことに
より、脳は組織化され適正に働くwiring diagramを発達させるのである。 脳の発達過程は単な
る本質的な分子メカニズムだけで考えられるよりももっと正しく組織化されるように視覚情報を
外側から使っているのである。 この外側からの情報はその後になっての認識の発達段階で
更に重要になって来る。 人が世界と相互作用を多くするほど脳の構造に取り込まれる世界か
らの情報が必要とされるのである。

シナプスの過剰生産と選択は脳の異なった部分で異なった速度で進むらしい。(Huttenlocher
and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかにピークに達す
る。 中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところであるが、その過程
は更にゆっくりと進み;シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの密度は5,6歳の年齢ま
で増え続く。 選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそ
れに続く4,5年続き、初期の青年期で終わる。 このように脳の部分で異なった速度で進むこ
とはそれぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて異なった速度で進む可能性
が高い。(Juraska, 1982, on animal studies 参照)

シナプスの過剰生産と選択のサイクルが一回りした後で、それに加えて脳に次の変化が起こ
る。 それは既存のシナプスの修正であり、且つまた全く新しいシナプスが脳に加えられること
である。 次の節で述べてあるが、研究によって得られた証拠からすると、神経システムの活動
は学習の経験と結びついて神経細胞に新しいシナプスを創生させることが示唆されている。 
シナプスの過剰生産と消滅の過程とは違って、シナプスが加えられ、修正される過程は経験に
よって進む生涯にわたる過程なのである。 本質的に申して、人が曝される情報の質や人が得
る情報の量はその人の生涯を通して脳の構造に反映するのである。 多分この過程は脳の中
に情報が蓄えられる唯一の方法だけでなく、人が如何にして学ぶかということの深い理解を提
供する大変に重要な方法なのである。

Experiences and Developments for Brain Development
学修をしている間に脳が変化すると言うことは神経細胞を更に能率的あるいは強力にさせるこ
とになる。 籠の中で育てられた動物(孤独で育てられようが仲間と一緒に育てられようがそれ
に係わらず)よりも、複雑な環境の中で育てられた動物は神経細胞当たりにより大きな毛細構
造を持っていて、したがって脳にそれだけ多くの血液が供給されることになる。(Black et al,
1987) (毛細構造は酸素や他の栄養物を脳に供給する小さい血管の脈管である) このよう
に、経験をすることは脳の働きの全体的な質を高度化するのである。 ニューロンの働きを助
けるように栄養物を供給したり、排泄物を取り除いたりする働きをするastrocyteを指標として使
って調べると解るが、ニューロン当たりのastrocyteの数は複雑な環境で育った動物の方が、籠
の中で育ったものよりも多い。 全体的に言って、これらの研究で明らかなように経験に依存し
て脳の中で共同的に働く容量が増えるのである。

動物に関する他の研究は学修によって脳の中に他の変化が起こることを示している。 Box 5.1
参照。 脳の皮質の重さや厚さは鼠の場合に乳離れさせて育てたり、大人に生育したとして大
きな籠の中で一連の対象物で遊んだり、探検させたり、他の鼠と遊んだり探検させたりさせる
と、はっきりと測れるほど変化をする。(Rosenzweig and Bennett, 1978)  これらの動物は標準
的な実験室の籠の中で育てられたものよりも各種の問題を解くことに優れている。 面白いこ
とに、仲間と相互作用をさせることと環境と直接物理的な接触をさせることは共に重要な因子
である(Ferchmin et al, 1978; Rosenzweig and Bennett, 1972) このようにして脳の皮質も全体
的な構造は学修の機会にさらされたり、仲間との中で学んだりすることによって変化をするので
ある。

Box 5.1 Making Rats Smarter
鼠は如何にして学修するか? 鼠は教育することができるのであろうか? 古典的な研究では
鼠たちを皆で一緒に遊んだり、探険させるに充分な物体を沢山つめた複雑な共有環境の中に
入れる。(Greenpigh, 1976)  その物体を毎日とり変え、再配置する、その変更時間中には鼠は
他の種類の物体を詰めた環境に置く。 このようにして鼠たちはニューヨークの下水の中と
か、カンサスの原野とかの実社会に出会うことになり、いろいろな情報を引き出す豊かな経験
をすることになる。 それと対照的な鼠のグループはもっとずっと典型的な実験室の環境の中
に置かれ、孤独か、一匹、二匹の仲間と味気ない籠の中に住まわせられ、明らかに鼠の実社
会とかけ離れているところにいる。 これらの二つのセットの中で経験と言うものが正常な脳や
正常な認識構造を発達する上で影響をするかを決める助けになるだけでなく、動物達が
criticalな経験をさせられないと何が起こるかを見ることもできるのである。

複雑な模様替えをなされた環境の中に乳離れから大きくなるまで育てられた後で、この二つの
鼠のグループが学習の経験をさせられたのである。 複雑な環境で育てられた鼠はそうでない
のよりも初めに少ない間違いをし、更にもっと早く学修して全然間違いなくやって見せた。この
意味で、利口になったわけである。 そして、各籠に別々に育てられたものよりも複雑な問題を
解くのに優れていた。 大変に意味あることは学修により鼠の脳が変化したことである。 複雑
な環境で育った鼠は視覚皮質の中の神経細胞当たり20から25%多くのシナプスを標準的な
籠の中で育ったものよりも多く持っていたのである。(Turner and Greenough, 1985; Beaulieu
and Colonnier, 1987:参照) 明かなことは動物が学修すると脳のwiringの接続点を新たに作る
ことであり、初期の発達だけに限ることではないと言うことである。(e.g.,Greenough et al, 1979)

Localized Changes (局所化された変化)
学修するという特定の仕事はその仕事に適当な脳の地域に局所化された変化をもたらす。 
例えば、若いおとなの動物が迷路を教えられると、脳の皮質の視覚地域に構造変化が起こる。
(Greenough et al, 1979)  その迷路を不透明のレンズで片目を閉じて学ぶと、開いた目に繋が
った脳の部分だけが変化をする。(Chan and Greenough,1982)  複雑な運動筋肉の腕前を学
ぶと、脳の皮質の運動筋肉の部分と小脳、運動筋肉活動に繋がる後頭部の構造に構造変化
が起こる。(Black et al, 1990; Kleom et al, 1996)
これらの脳の構造の変化は脳の働きをする組織における変化の基になっている。 即ち、学修
により脳の上に新しい組織のパターンを持ち込むことになり、この現象は神経細胞の活動を電
気生物学的に記録されて確認されている。(Beaulieu and Cynader, 1990)  脳の発達の研究は
細胞レベルで学修過程のモデルを供給している。つまり鼠について最初に発見された変化は
二十日鼠、猫、猿、鳥においても確認され、人間でも殆ど間違いなく起こっているのである。

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林浩司様

 新緑が目にしみる,春たけなわのよい季節になりました。 その後もお元気にご活躍のことお喜び申し上
げます。 最近アメリカの大学の教育を如何に改善するか,教育の評価をどうしたらよいのかなどに関する
資料が手に入りましたので,ご参考までにお送り申し上げます。 ほんの一ヶ月前の会合での資料です
が,昔から向うの教授達の方が日本の教授達よりも教育に熱心なことは知っていましたし,近年向うでは大
学教育の改善に大分力を入れていることも耳にしてはおりましたが,実際に殆ど全く旧態依然たるわが国
の大学に比較して大きく先を行かれてしまった実感がするほどの違いがあります。 殊にこの25年の間で
向うは随分と変ってしまい,教育の改善が進んでいます。
昔は日本では大学はエリートが入学する所でしたし,教授達も選ばれた人達でした。 その状態で確立した
大学での教育,運営(管理)体制が,現在大学が大衆化して,全体の4割を超える人達が大学に進む時代に
なっても,そのままに広がって行われております。 何百という大学では,学生の質が落ちたと嘆く教授達も
大衆化してその多くは昔では到底考えられなかった人達でもあるわけです。 大学の自治,教授会の自治
と言うことで,教育の内容や教え方などは全て教授達に任されていて誰も学外からくちばしを入れることは
できません。 講義にしてもそれは一種の「聖域」であって,他の人がそれに触ることはタブーになっており
ます。 これでは大学,特に大学教育がよくなるはずはありません。 むしろ社会の方が,世界化,リストラ
などを通して驚くほどの速度で変革して行きますので,大学は取り残され,この頃では学外から教育改革,
大学の改革が叫ばれている状態です。 教師の方は大学は居心地のよい無風地帯かもしれませんが,実
際には学生達が被害者になっています。 大学も今では大きな曲がり角にあるのです。 大学,殊に学部
の段階では,教育が主体にならなければいけないはずなのに、大学の人事、昇格にしても教育の面は殆ど
全く無視されている状態です。 (教育についての評価がなかったので仕方がなかった面もありますが)  
これでは教育が育つ道理はありません。 どんな教え方でも改善する余地がないことはあり得ないと書いて
あります。今まではともかくとしてわが国でも,出来るだけ早い時期に大学教育を改善する,大学での教育
の評価システムを確立させる必要があるのではないでしょうか。
教育は今何か叫ばれても実際に軌道に乗るのには何十年もかかります。 絶え間ない日々の努力が積み
重なって始めて成果が身を結ぶのです。 「釈迦に説法」の嫌いはありますが,ご健闘を祈り上げます。

田丸謙二

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林様

今度、北大で堀内先生と言う先生の生誕百年ということで、国際学会が開かれ、その冒頭に
話をします。 その原稿です。

Professor Horiuti and I

  Speech at the Centenary Celebration of Professor Horiuti
Kenzi Tamaru
It is certainly my great pleasure and honor to be here to attend the Centenary of 
Professor Horiuti. First I should like to express my thanks to the organizing members of this 
meeting for the kind invitation to speak on Professor Juro Horiuti. Although I was never his 
student, I not only have great respect for his pioneering work. but also owe him personally 
very much for his kindness and encouragement in my life.

[Professor Hirsute and his Institute]: Professor Horiuti received the Imperial Award of the 
Japan Academy of Sciences in 1940 for his theoretical and experimental studies on 
reaction kinetics. This award is the most honorable prize in this country. In the following 
year the Research Institute of Catalysis was founded in this University。 It was the first 
such Research Institute of Catalysis in the world. The Institute was set up on behalf of 
Professor Hirsute, and it is rather exceptional in this country to have such a Research 
Institute founded in honor of one prominent professor.

After the end of the Second World War, while the whole country was still in an extremely 
miserable situation, the field of catalysis advanced rather quickly because this Research 
Institute worked as a center of activity. They inaugurated
the Meeting for the Discussion of Catalysis , which later further developed to become the 
Catalysis Society of Japan. Throughout that period the Institute always played a very 
important role in the development of research in catalysis in this country. And everything 
was due to Professor Horiuti.

I am afraid that most of you may have never met Professor Horiuti, so I will briefly tell you 
what kind of person he was and try to show you what he looked like. Let me start to give 
you my personal impression, which may be different from that of his students. He had a 
dignified appearance and was actually quite the emperor in his own empire, that is, his 
research institute, and so always seemed self-assured. He looked like a Sumo wrestler, 
Rikishi: although not so tall, he was very strongly built and powerful, not only physically, but 
also in his character. He was consequently not always easily accessible, especially for 
strangers, and it might be said that some peoplr were even afraid of him, although all of us 
respected his science very highly.

At every meeting on heterogeneous catalysis in those times, Professor Horiuti always sat 
at the front of the audience, a frightening presence for many of the speakers, because he 
always raised fundamental and penetrating questions in a deep threatening voice, and some 
times even disagreed about the meaning of the research itself. For example, if someone 
were to discuss the Langmuir-Hishelwood mechanism, and the Eley-Rideal mechanism, then 
Professor Horitui would ask to be told the difference between the two mechanisms. They 
would explain as is written in many text-books. However, of course, such explanations would 
not satisfy Professor Horiuti. He would say that the rate of a reaction is determined by the 
free energy difference between the initial state and the activated state, and that it does 
not matter whether the activated state was formed via a chemisorbed state or via an 
ambient gas molecule. It did not make any sense to discuss the difference in the two 
mechanisms. In this manner his way of thinking was always very exact, sometimes, too 
exact, and severely critical. Howeverm I believe that he was not only severe on others in 
science, but was most severe on himself.

  Under those circumstances, we had to be really careful in using any terminology without 
understanding the basic definitions, and, of course, the exact target of our research. Being 
stimulated by such discussions, at catalysis meeting in those times people used to have 
very pasionate and serious discussions. I feel I was fortunate to be exposed to such a 
serious and severe atmosphere, in particular, in the initial stages of my research life.

[ A Stray Sheep among the Wolves]: I entered the graduate course at the University of 
Tokyo. When my professor gave me a topic to study, he said to me "How about studying 
catalysis ?" This was all that he said, nothing else. Nothing on the reaction system I should 
study, and nothing on the target of research. I had to decide everything by myself. In 
addition, the situation was quite severe for me. The worst thing was that no one else was 
studying catalysis not only in my laboratories, but also in the Department of Chemistry, and 
I had no one to consult with. It was as if a lion abandamed its cub deep down in a valley. 
Further, since it was just after the war, there was no literature available from abroad. 
Under those circumstances, I struggled and struggled to find out what I should study on 
catalysis, which made even more difficult because it was just the beginning of graduate 
school and I really had no understanding of what research was. 

During this isolated period of struggling, I was always aware of great pressure from 
Professor Horiuti group. In the same field of catalysis I was like a small puny lamb which was 
just looking for its own way, whereas the group of Professor Horiuti, on the other hand, was 
quite self-confident and very proud of its research based upon the the way of thinking of 
Professor Horiuti. At the Annual Meeting of the Chemical Society held in the University of 
Tokyo, for instance, the people in the Research Institute were walking together in a group of 
more than a dozen members , having Professor Horiuti at the head, and such a scene 
suggested to me a pack of wolves. I think it was the highest point of their group, being 
devoted to real science, and getting original data. It was approximately ten or fifteen years 
after the foundation of the Research Institute.

[My Stay in Princeton and Sir Hugh Taylor]: After I received my Doctor of Science degree 
after four years, in 1953 I was very fortunate to have the opportunity to spend time at 
Princeton University in the United States and work under Sir Hugh Taylor. Sir Hugh Taylor 
was, as you probably know, one of the great pioneers in the field of catalysis and he was 
always very kind to me and I learned great deal from him.

 At Princeton I studied the decomposition of germanium hydride, germane, to form hydrogen 
and germanium:

GeH4 = Ge + 2H2

In this reaction germane gas decomposes on the Ge surface which works as a catalyst. In 
other words, the germanium catalyst surface is always renewed by a fresh deposition of Ge 
as a reaction product. One of the characteristic features of this reaction, which I 
discovered, was that it is a beautiful zero-order reaction, and the rate of the decomposition 
is independent of the pressure of germane as well as hydrogen. (Figure 1) What is the 
characteristic feature of zero-order reaction? The zero- order reaction strongly suggests 
that the active sites on the catalyst surface is fully occupied by some chemisorbed 
reaction intermediate, and its rate of reaction is rate-determining. Consequently, I thought 
at that time that if I could measure adsorption on the working catalyst surface during the 
course of the zero-order reaction I may not only discover the species which saturates the 
active part of the catalyst surface, as pressure independent adsorption, but I could also 
estimate the area of the active region from its amount. So I purposely put many thin glass 
rods in the reaction vessel to have a large surface area for the germanium to form. In such 
a manner I could directly measure adsorption during the course of reaction, and it was the 
first time that the adsorption was directly measured on a working catalyst surface. 

The results of direct adsorption measurements during the course of the reaction was as 
follows (OHP slide) But to cut a long story short in the decomposition of germanium hydride 
the entire surface of germanium is saturated with dissociatively adsorbed hydrogen, and the 
desorption of fully covered hydrogen is the rate determining step. 

After I obtained these results I visited Sir Hugh Taylor in his office and said to him that I 
should like to measure directly adsorption during the course of catalytic reaction in general, 
especially for zero-order reactions. such as the decomposition of ammonia on tungsten 
surface. Sir Hugh listened to me and said, "you are very ambitious" and repeated that 
twice. 
 In this way I started adsorption measurements during the course of the catalytic reaction.  
The key point of my method was very simple, I used a closed circulation system with both a 
large amount of catalyst and with a large surface area. (for instance, approximately two or 
three orders of magnitude larger than usual experiments), and measure directly not only 
adsorption during the reaction, but also the rate of reaction.  
 
  At that time no one had ever directly measured adsorption during catalytic reaction. The 
catalyst was always kept in a black-box and on the basis of the information at the entrance 
and exit of the black-box, we speculated what was happening inside the black-box. At those 
times Eischens reported the infrared spectroscopic observation of chemisorbed species on 
a catalyst surface. Later we started to study "in situ adsorption measurements" by means 
of infrared techniques to identify the species on the working catalyst surface , their amount 
and structure. However, even if some species is adsorbed on the catalyst surface, it does 
not follow that it is the reaction intermediate. Later we developed the "Isototpe Jump 
Method" to identify the real reaction intermediate; in other words, we replaced one of the 
reactants with labelled species during the course of reaction and folloowed the behavior of 
the isotope as it appeared in one of the adsorbed species, and then in the other species 
finally coming to the reaction products. By following such behavior in the working state we 
could identify not only the reaction path, but also the rate of each of the steps involved.

[Professor Horiuti and I] : After my stay in Princeton for two years and 9 months I returned 
to Japan in 1956 and presented my method of measuring adsorption on the working 
catalyst surface at a meeting in Tokyo. Professor Horiuti was sitting at the front seat as 
usual, and as soon as I finished my talk he jumped up and proceeded to praise my 
presentation very highly. At the reception after the meeting he even mentioned that my 
work was worthy of receiving the Academy Prize. After the meeting he said "Please come 
with me. Let's go to the Ministry of Education." And so we went to the Ministry of 
Education together and met the chief of the research promotiom section. Professor Horiuti 
requested the chief to give some special support to me, and, as a consequence, I obtained 
an extra 15 man Yen which corresponded, at that time, to about $400. At that time I was 
just a young assistant professor at a small university and during my leave of absence while 
staying in Princeton, most of the equipment I had, including even my vacuum pump, had 
diappeared. The amount of extra money I could receive was not a great amount, of couse, 
but was really helpful to allowing me to start my experiments which I eagerly wanted to do. 
What he had kindly done for me really was not only the matter of the money, but was really 
to encourage me, working in an isolated manner in a small university. From that time on 
Professor Horiuti was always very kind to me and did many other things for me.  

 [ I said earlier that I had never been a student of Professor Horiuti, but I did have some 
other connection with him, as follows: when he was young, he studied in Germany, staying in 
Goettingen first and later in the Kaiser-Wilhelm Institute in Berlin, which is now called the 
Haber Institute. Before the First World War, especially, the Institute was one of the centers 
of science not only in Germany, but also in the world, and my father was one of the regular 
research staff members of the Institute until the outbreak of the First World War, and 
Professor Horiuti told me that it was very exceptional at that time for a Japanese to 
occupy such a position at such a top level Research Institute.]  
.
 If we think of the fundamental side of catalysis research over the past century, we can 
divide the century into two, The first half was the time of the macroscopic age, while the 
latter, the microscopic. In the first half of the century most fundamentasl bases of catalysis 
research were established owing to the contribution of prominent pioneers such as the 
Nobel Prize winners Ostwald, Sabatier, Haber, Nernst, Langmuir, Bosch, and Hinshelwood, in 
addition to those memberss, Taylor, Rideal, Schwab, Emmett and Horiuti. In the latter half of 
the century, in addition to such fundamental bases, the microscopic information has been 
accumulated by means of many varieties of physical tools, such as electron spectroscopies 
and STM. Much information especially on well-defined crystal surfaces was added. The 
theory of kinetics which Professor Horiuti developed and discovered the famous "
stoichiometric number" is one of the most fundamental concepts in reaction kinetics. I feel 
that his important concept for constructing the kinetic structure of heterogeneous catalysis 
will be developed further on the bases of the elementary steps directly studied by means of 
modern techniques..  

 As some of you know, about 13 years ago some leading people wanted to close down the 
Research Institute of Catalysis because of its low research activity, as a part of a general 
restructuring. At that time I was the president of the Catalysis Society of Japan. In the 
Catalysis Society people were not always sympathetic to this Institute for a variety of 
reasons. But I objected very strongly to its closing, contacting with the president of this 
university, and persuading other influential people against its closing. If we were once to lose 
the center of research of catalysis, it would be almost impossible to again reconstruct such 
a center. Since the field of catalysis remains vital for the survival of human beings I wanted 
to keep a center of catalysis research in Japan. On the one hand, I owe Professor Horiuti 
so much from the past, and wanted to return the kindnesses he extended to me. "One good 
turn deserves another" we might say. But indeed I was very glad that the Institute could 
survive as a Research Center, and is now demonstrating a high level of research activity. "
All is well that ends well". Anyway, in conclusion it only remains to be said that this 
Research Center should be always very proud of Professor Horiuti as its founder, and 
should continue to foster the spirit of its founder on into the future.


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大学教育改革論


2000年3月24日(1:00-3:00p.m.)にVirginia Tidewater Consortium for Higher
Education がsponsorになってVirginia工科大学において 「Changing Practices in
Evaluating Teaching」  (A Practical Guide to Improve Faculty Performance and
Promotion/Tenure Decisions) と言う題で、その道の権威であるP. Seldin, W.
McKeachie両博士を招いて討論会が開催されました。 アメリカにおける大学での教育
を改善する非常にはっきりした現状が読み取れると言う意味で参考になる資料です。 
考えようによってはわが国での旧態依然の大学教育の現状はアメリカのよりも三拾年は
遅れてしまって,大きな差がついてしまっていることがよく解ります。

Program Overview

職員の教え方を評価する問題は全ての学科や学部で直面している重要な問題である。 今回
の集まりにおいて討論や聴衆の反応,Videotapeによる資料などを通してそれをどうやってや
るのがよいのか、実際に実施できる形で提供しようとするものである。 Seldin, McKeachieの
両博士は長年の経験に基いてこの問題についてどのような傾向があり,またどのような含みを
持たすべきか,について述べて下さる。 つまり,何故このような評価が必要なのか,また評価
がLearningについての影響をもたらすか,それから過去25年の間にわたって評価の実際がど
のように移り変わって来たか,その研究の結果どのようなことが明らかになったかについてま
とめてみる。
このようなことをする上で,次のことをどうすればよいかを学ぶことである。 評価の助けになる
Climateを確立すること。 学生,同輩,自己による評価に共通にある弱点を避けること。 互
いに共通点のない資料源をうまく結びつけるやり方。 学生による評価,教室訪問,教える内
容などを如何に効果的に組み立て用いるかである。

今回の集まりに参加すべき人達:
Full- and part-time college and university faculty
学科または専門分野の主任
学部長
Academic vice-president
教員の質的向上委員会のメンバー
教育担当責任者



teachingを評価する方法の変化

情報源19731998
1 教える資料[教材]       14%39%
2 学生の評価           29%88%
3 研究業績            20%27%
4 教室訪問            14%40%
5 自己評価            37%39%





Dr.Peter Seldin: New YorkのPleasantvilleにあるPace大学のLubin School of Businessにお
けるManagementのDistinguished Professorであり,米国のみならず,世界の25ヶ国において
大学教員の質的向上や評価に関する専門家であり次の著書がある。Changing Practices in 
Evaluating Teaching: Improving the Evaluation of College Teaching: Improving College 
Teaching: Successful Use of Teaching Portfolios: How Administrators Can Improve Teaching: 
Successful Faculty Evaluation Programs: How Colleges Evaluate Professors.

Dr. Wilbert McKeachie: 1949年にMichigan大学で学位を得て以来その大学で
Learning and teachingに関する研究センターの所長をした心理学の教授。 専門はCollege 
teaching、College teacherのTrainingについてであり,過去において米国心理学協会の会長、
American Association of Higher Educationの会長をした。 著書も多いが中でも有名なのは
Teaching Tips, Strategies, Research and Theory for College and University Teachers.





Student Ratings
The validity of Use

W.J. McKeachie (University of Michigan)

他の参考文献も含めて全ての著者は学生による評価は有効であるとしているが,評価を取り
上げて判断に用いる人事委員会で、より適切にそれを用いるためにはどうすればよいかにつ
いて考えてみる。

私の役割は、私の研究者として,教師として、更には教育評価をする者としての経験を通して、
教育を如何に改善し,人事を決めるかについての overviewを与えることであろう。 ここで三
つの主な点について考えてみることにする。 1).学生による評価を教育についてどれだけの
範囲にわたって人事委員会に報告するものであるか。 2)学生による評価は教え方の有効な
尺度になるか。 3)学生による評価は教え方のeffectiveness以外のものによってゆがめられ
ることがあるか。 この三つについてであるが,私はむしろ基本的問題は学生による評価自身
よりもむしろ人事委員会がそれを如何に取り扱うかの問題について考えてみる。 そして結論
としてそれについての研究と実際にどうすべきかについて勧告をしてみる。

1)学生の評価というものが教育に関してどれだけの範囲で報告するものであるか。
この質問に対する答えは学生の評価について何を欲するかによって異なる。 大半の人達は
教え方を改善する上で学生の評価が、教員に feedback される結果として役立つことをその第
一の目的と考えている。 確かにコンピュータで数多くの項目にわたって沢山プリントされて出
て来ると改善に役立つように見えるものである。 しかし人事を決める委員会への報告はどう
であろうか。 この委員会は教育効果全体への唯一の判断を出さねばならないのである。 教
育効果の全体的評価をするには数多くの因子に基づくものだけに,いろいろな因子に重みを
つけてやる方法もあるが,私は学生の評価は教育の目的をどれだけ達成しているかに焦点を
当てるのがよいように思う。 私は Apollonia と Abrami達が結論したように、我々は教え方の
効果について唯大雑把に判断することを勧めるのがよいと思う。 人事委員会で細かい決定
をする必要があるとは思えない。 最も critical な決定はその教員を昇格させるか否かであ
る。 恩典を与えるかどうかについても例えば給料を増やすか,教育の改善を助成するかの類
いである。 教育効果は様々な方法で達成されるものであり,人種や男女の別に基く判断は避
けるべきことは言うまでもない。 昇格や昇給などを決める委員会ではネガテイブな情報がポ
ジテイブな情報よりも重視され勝ちであるので注意が必要である。 要するに人事委員会では
細かい違いを議論するよりも極力広い視野に立って判断するようにせねばならないのである。
 

2)教育効果についての学生による評価は有効な判断資料になり得るか? 教育改善のため
の評価

学生による教育評価が教育の改善に役立つと言うことについては殆ど全部の人達に異存はな
い。 しかし次の二つの問題があり得る。 「効果的な教え方」について学生達がどのような概
念を持つかの問題である。 多くの学生達は唯聞いていればよい教え方を望むものである。 
つまり学生にとって教材を組織化してテストに準備をし易い教え方である。 不幸にして大半
の college teacher達は試験をどのようにしたらよいかがよく訓練されていない。 学生に考え
方を第一目標にして育てる教員でさえも機械的な記憶を主にした試験をしている。 しかし学
生がもっと活発にしゃべり,書き,動作をするように仕向けると,学生はより多くその内容を取
り入れ,考え,やる気を起こすようになることが解っている。 

第二の問題は学生による評価が悪いと教員がやる気をなくすようなことさえあることである。 
教員が自分の授業で学生が退屈していて満足していないということを既に気にしているところ
に,その印象を確かめるような評価が出て来ると教員は教室に入って学生と面と向かう気にも
ならなくなってしまう。 

これらの問題はどのようにして解決されるかと言うとまずfeedbackをよくすることである。 Marsh
と Roche (1993)は学生による評価の中に指摘される特定の問題に的を絞ってfeedbackするこ
とにより教育の改善に役立たせることが出来ると言う。 MurrayとSmith (1989)が見出したよう
に,教える上での特定の行動について取り上げる方が、一般的な特徴を評価するよりも教育
の改善に役立つのである。 更にはAleamoni(1989), Cohen(1980), Marsh and Overall
(1979),McKeachie(1980)達が述べているように,学生の評価についてconsultantとか同僚と
話し合うことがとても助けになるのである。 理想的に言えば,同僚と教え方について話合い,
学生と教員双方が学び続ける上で何が最も助けになるか,お互いにより深く理解し合うことが
望ましいのである。

昇格の評価: 人事を決める場合学生による評価をどのように利用するか? 今回の全ての人
達が同意することは学生による評価は教える効果についての唯一の最も有効な資料であると
言うことである。 Marsh and Roche(19997)が言うようにその他の如何なる資料でもその有効
性については不確かなものでしかない。 しかしながら,学生による評価は必ずしも学生が学
んだものと完全な相関性があるとは必ずしも限らない。 しかし教え方が効果的であると言うこ
とは何を指すかと言うと,これは更に複雑である。 これは教育の定義によるからである。 も
しもその授業で習ったものがどれだけ覚えられ,後になって使われるかが重要であると信じる
ならば多くのことを教えそれを記憶させることが効果的ということになってしまう。 もしも継続し
て更に学ぶ上でプラスになる考え方,自立して考えることが出来,生涯を通して勉強する気に
させたり、フレキシブルにものを考えることが重要であると信じるならば,効果的な教え方と言
うものは学生ともっと話し合い,,書かせ,考えさせるような方法などを採用すべきである。

Marsh and Rocheが言うことに私は賛成であるが,これらの研究をする上では単なる事実を言
うだけでなく,それに加えて有効なデータを提供する必要がある。 私もMarshもともに学生に
よる評価は他の基準、例えばやる気を出させたり、心構えなど教育の他の目的を併せ含むも
のが有効であると思う。 嬉しいことに学生による評価は教員のeffectivenessの指標とよい相
関があるのである。 一方では教員は全ての目標について,或は全ての学生について,同じよ
うにEffectiveであるとは限らない。 Hoyt and Cashin (1977)によると、何か事実を記憶させる
教え方は学生に問題解決や自覚を促す能力を向上させることとは同じではないと言う。 従っ
て人事評価をする際には,教え方を評価する上での異なった目的を意識しながらその相対的
な重要性を考慮しなければいけないのである。 もう一つ考慮に入れなければいけないのは1
年と2年のコースにまたがっての教育が多いが,この段階では学生による評価は有効性が充
分でなく、むしろもっと進んだコースを学ぶ場合の方が学生はより広い経験も積み,適切な評
価をするようになる。

次に問題なのはどの分野でも共通なのはどれだけ達成することが出来たかの尺度である。 
つまり教員が学生をどれだけ試験のために準備させたかということが教育の評価の中に入っ
て来てしまい、テストを越えた,より高い判断の能力を評価していないことである。 つまりテス
トは殆ど必然的に教科書にある共通した資料に基いてなされるので,教室での指示に従って
教科書だけを勉強した学生の方が,教科書を越えた勉強をした学生よりもよい成績を取るの
である。 しかし優れた教員は教科書を超えて教えるものであり,本当に教え方が優れている
かどうかを有効に判断する為には一般的に教えることだけでなく普通の試験での最低なものを
越えて教育により獲得したものをも見るようにすべきである。

3)学生による評価は他のものによりゆがめられることはないか?

GreenwaldとGillmore(1997)の報告によると,少なくとも二つの原因によりゆがめられる可能性
がある。 つまりクラスのサイズと採点の甘さである。 大半の教員にとって小さいクラスの方
が討論も出来易いし,よい教育をすることが出来るのである。 従ってその点の配慮も必要で
ある。 一方点の甘さはもっと厳しい問題である。 学生が一般よりも多くを学んだと自分で思
う時高い点をつけてやっても,そのために学生の評価がよくなるわけではないようである。 し
かしIneffective teacherがよりよい評価を得るために高い点をつけたとしても,そのためにそ
れほど評価がよくなるとは思えない。 私の学科に元いた教員で最も甘い点をつけていた人が
最悪の評価であった。 Abrami,Dickens,Perry and Lebenthal(1980)は統計的な証拠として,
それに値しないのに甘い点をつけたために否定的な負の効果をもたらしたことを示している。

点をつける標準は大学によっても異なっている。 Clark and Trow (1966)の統計的資料によ
ると,ある大学では学問的な価値を強調するし,他の大学では社会性や大学生活を楽しむこ
とに重点を置いている。 もしも学生が第一義的に大学生活を楽しむことに重点を置いて大学
を選ぶのなら,学問的な雰囲気の強い大学よりもEasy teacherをより高く有り難がるものであ
る。 学生による評価が点の甘さに依存しようがしまいが,昇格させるかどうかの人事委員会
の判断への効果は,委員会が普通よりも甘い点を付けていると見なすと否定的にならざるを
得ない。 教員達や行政関係者は競って点を甘くすることのないよう注意して見張っている。

点を甘くして学生による評価をうまく獲得しようとする人達が成功することのないよう何が出来
るであろうか。

 GreenwaldやGillmore(1997)によると、クラスのサイズが小さい方が有利であり,大きいと不利
になるようなことは避けるべきである。 一方点の甘さについては多くの人事委員会では何処
に標準を置くのかよく解っていない。 勿論これについてはいろいろな所で議題に取り上げられ
ているし,事実教員達の集まりでも議論されている。 彼等は,点の甘さがゆがめていると言う
仮設は相関性に関する4つのパターンを説明するので,統計的に補正を施せばよいとしている
がそれについて検討してみよう。 (最も私自身はいささか疑問視しているが)

クラスの中での点の甘さと学生による評価との関係:今クラスの中で先生の教え方が全ての学
生にとって同じであったと仮定してみよう。 Remmers は示唆し、Elliottはつぎのように示し
た。 クラスの中で点の程度と学生による評価は教師がそのクラスをどう取り扱うかによって決
まる。 教師が程度の高い学生に合わせて教えるとすると,その学生達は期待以上に伸びる
し,他の学生達よりも高く評価する。 しかし一方で教師が比較的程度の低い学生を助けるよ
うにすると,それらの学生は高い評価を得るので,両者の間には負の関連を示す。 多くの教
師は比較的に出来る学生にに向けて教え[特に理科ではそうである]最初の学年から出来ない
学生を排除するようにしている。

採点レベルの相対的尺度と学生評価のより強い相関性,

GreenwaldとGillmoreが示したこれに関しての素晴らしい解析の腕前に感心させられる。 しか
しながらコース間での評価の問題となるとどうだろうか。 学生はうまく学べないと教師を非難
し,教師の欠点を指摘するものである。 学生による評価は全体的な教育効果についてであ
り,学生をその気にさせることが大事なのである。 教師が彼等学生(しばしばできの余りよくな
い学生)にとって勉強のためにならないと感じる時よい感じを持たないが,教師が自分達を前
向きに育てようとしていると感じるとプラスの影響を受けるのである。

クラスの間でのworkloadと採点レベルの負の関係

採点レベルとworkloadとが負の関連を示すということは採点の甘さとの関連があるわけではな
い。 自然科学では人文科学,社会科学よりも点が辛いし,学生は沢山勉強させられる。 多
くの学科ではineffective teacherがいて,学生から遠ざかるように感じ,より沢山のworkを課
し,且つ学生を教師の求めるレベルまで達しないと非難する。 Greenwald等は勉強時間は,学
んだ量と点数に関連すると仮定している。 多分そうではあろうが,しかし一般に言えば,そう
簡単には言えない。 勉強が難しいと感じる学生は優れた学生に較べて比較的に長い時間勉
強するものである。 従ってGreenwald等が期待するように workload と点数の間の正の相関
性になるとは限らない。 出来の悪い学生の方がよく勉強することもあるからである。 
Workloadと点数との関係は学生による評価の中には含まれないが,Greenwald等が明らかに
推論していることは,Workloadが少ないコース程高い評価を得ているということである。 学生
と面接してわかることはworkloadがHeavyである理由はTeacherがIneffectiveであり,言うこと
がはっきりせず,講義もきちんと整理されていないで,テストは定義や沢山の特定の事実を記
憶することを要求したりしている。 従ってむしろPoor instructionを補うためにかける時間と学
問的に身について,やる気を起こす建設的なWorkとは区別が必要である。 Greenwald等はこ
れらのものworkを"I increased my interest in the field" の欄での評価で区別していると解釈
すべきでろう。

結論:

点数にかかわる歪みやteaching-effectivenessの仮説はGreenwald等が見出したものと説明し
ている。 しかしながら私が彼等に同意するのは点数の甘さは確かに学生による評価に影響
を与えることもあると言うことである。 もしも平均の点数と学生による評価の間の相関性を通
して高い評価を意識的に得ようと努力するなら統計的補正は矢張り必要であろう。 皆が異口
同音に言うように学生による評価は有効であるが、矢張り他の証拠によって補正されるべきで
ある。 との証拠とは何か,更なる研究が望まれる。

人事委員会で学生による評価を用いる可能性:

全ての人達が認めることは学生による評価がteaching-effectiveness
についての最も有効な実際上のデータ源である。 この資料を教員またはadministratorsによ
り解釈されなければならないし,その結果として昇格させるか、昇給させるか,が決定されるこ
とになる。 どれだけきちんと解釈されるかが大きな問題である。 私はこれまで千人以上の教
員の昇格,昇給に参画して来たが,その経験からすると,確かに学生の意見を正視しながら
も,よく言われる言葉は,「彼は優れた研究者でないから素晴らしい教師ではあり得ない」、「学
生は大学を出て数年して初めてその先生がよい先生であるのかが解るものである」、「全ての
学生はjokeを好んだり,甘い点を望むものである」などということである。 どんな理由にしても
学生による評価は昇格決定にあまり重く見られないこともある。 統計的に補正を加えれば学
生による評価はGreenwald等が言うように信頼度は高まって来ている。 人事についての決定
もこれまでよりも重く取り扱われるべきである。 唯クラスによって学生も異なるし,目的も教育
方法もその内容もいろいろな点でクラス間で異なっている。 私が前に指摘したように人事決
定の上で互いに比較する必要はないのである。 あるとしたらどれだけの学生がその教師を
Good or excellentとみなしたか,どれだけの人数の学生が不満足とするかである。

What can be done to improve the validity of the use of student ratings
Michigan大学では人事委員会でどのように決定されているかと言うと正直の所余り研究されて
いない。この分野での多くの研究者達は教え方についての学生による評価を正しく理解する上
で大きな貢献をしている。 しかしこれらの研究に加えて必要な研究は学生に評価書式に書き
入れるのにどのような考えですべきかということを教えることである。 例えば,学生が何を考
えながらするか,判断しているのか,彼等自身の学び得たことを考えてのことなのか,単に退
屈凌ぎにやっているのか,定性的な研究が望ましい。 正しく評価するためには、どんな項目
がよろしいのか,その組み立て,バランスなどいろいろ学生に考えさせながら書かせることで
ある。 私は米国内での学生による評価の書式を集めてみた。 1990年代に入り教えること
の理論に関する有効な組み立てが出来て来た。 それにしてもいろいろな教え方があり得る
し,それらを全てを取り扱うには充分でない。 

IDEA (Instructional Development and Effectiveness Assessment)
による書式は10種類の考える目的それぞれに関連しているが,どれだけ進歩したかを問うて
いる。 つまりGood teachingの率直ないろいろな見方についての情報を与えるだけでなく,教
育の目的は何かと言う学生の考えを広げる教育的なものも与えている。 自分で考えるやり方
を身につけたか,そのコースについて何が最も重要だと考えたか,もっと勉強したい興味が湧
いて来たか、など,教員にとっても勉強が必要であるし,学生にも解るように説明することが求
められている。 学生がbetter learningに向けての理解とやる気を起こすよう組み立てられる
のが望ましいことは言うまでもない。

結びの言葉:

H. Simon (1997)が最近に言ったように"Learning is ultimately a human activity regardless of 
the technology used"である。 学生は教育により影響を最も受けやすい立場にあるし,従って
学生による評価はこれからも有益なのである。 Greenwaldは一つのコースで教えているのと
全く同じに教えていても他のコースでは低い評価を得たことを驚いている。 クラスが違えば効
果的な教え方も違えなければいけないのである。 むしろ教育は学生と教師との間の相互作
用のプロセスである。 Good teachingとは教師の頭にあるものと学生の頭にあるものとの間に
橋をかけるようなものである。 一人の学生,一つのクラスでよかったからと言ってもその他に
そのまま当てはまるものではない。 うまく作戦を立てる必要があるのである。









The Teaching Portfolio (teachingの関係書類)

Peter Seldin

大学での生活の中で殆どの教授はその大半の時間を教えることに費やしている。 しかし実際
に大学では教育よりも研究面でも高く評価され研究業績リストや研究費はどれだけ貰ったかと
か,他の学問的な業績が取り上げられてTeachingについてはほんの少ししか言及されないで
いた。 しかし風向きが変ってCarnegie Foundation for the Advancement of Teaching、高等教
育の米国協会,州議会,大学,学生達が米国における大学をもう一度見直して、Teachingの
重要性を考え直すことになって来て,教授達が教室でどんな具合にやっているか,それを改善
するためにはどんな努力をしているかがKey question
として問われるようになって来た。

Teaching portfolioと言うのは教育をどうやっているかの資料を集めたものである。 つまりそれ
によって大学にとっても教えることが如何に大切であるか,研究などと並んで昇格や昇給の判
断材料にされるのである。 この概念は既に20年来カナダ(カナダではTeaching dossier[教育
関連書類]と呼ばれる)で使われていたものであり,米国でも今日ではますます多くの大学で採
用されつつある。 正確な数はつまびらかでないが、米国では1,500の
Collegeや大学でTeaching portfolioを用いている。

Teaching Portfolioの作成:
これについてはちょうど指紋のように高度に個人的なものであるので簡単ではない。 その内
容や作り方は一人一人の教授によっても異なる。 しかしgood portfolioは昇格や教育改善な
ど次の三つの分野を含んでいる。  teachingに関しての教員自身からの資料や他人からの情
報である。 それは特定の教育上の立場に関連した項目を教授が選択する広い範囲の可能
性を含んでいる。.

1)the products of good teaching:
学生がどれだけ学び取ったかの証拠としての試験の成績
学生のEssays,fieldwork reports,実験レポート
学生の書いたものをExcellent,average,及びpoor workに分けた実例
その分野でadvanced studyに成功した学生の記録
学生がそのコースに関連して書いたもの
学生や職員がその教授のCareer choiceについて影響を受けたレポート
2)自己申告材料:
その学科や大学の教育にどれだけ貢献したかの報告
担当コースの授業計画,宿題のやらせ方,更にはそのクラスが何故其のように構成されてい
るかの報告(reflective statement)
教育法を改善する研究努力
その教授がこれから5年間にTeaching goalについてどう考えているかの報告
自分の教育を改善するためにどのようなステップを取ったか。 これについては自己評価から
する変化,教育改善についての雑誌を読むのにどれだけの時間を費やしたか,教育方法を磨
くためにセミナーや研究会に参加したか。
特別に問題がある学生を同定し,その学生が勉強し易くするように教育を工夫し,評価手続き
をどのようなステップで進めたかの概要
3)他からの資料:
学生によるコースや教育評価資料で、その中には全体的な教育効果や満足度の程度を指摘
し,改善の資料とする。
仲間からの報告:この中にはその教授の教室での資料,コースの授業改革,実際の試験,読
書リストなどを含む。
大学外の機関から来て教えてもらい、教育に関する集会に教育に関する論文発表をする。
仲間からの報告でTeaching teamのメンバーとして、または関係のない参観者として,教室での
その教授について観察したことを述べる。
学内の教育センターからのTeaching/developmentのactivityの書類
他の大学の仲間から大学院生として学生がよく育ったかを報告させる。

教員の教育上のPerformanceを公正に表すためにどれだけの情報や証拠を必要とするだろう
か? その答えは簡単ではないが,やってみた経験からすると,7乃至10ページにタイプした
ものに,それを支持する付属資料があれば大体充分である。 Portfolioは無限に大きくなるも
のではない。その書類は生き物みたいに時によって変化するし,新しい項目が付け加えられる
し,あるものは除かれる。 このPortfolioを作成するのにすごく時間がかかるように考えるかも
しれないが,実際にはそんなことはない。 それが日常的に決まってくれば,教員も経験をつむ
し,うまく作るようになりそのメリットは大学生活の中に所を得て来るのである。 

Portfolioを人事決定に使うのはそう多くはない。 主な目的は教育法の改善に資するためであ
る。 では本当に教育改善になるのかと言うと,その答えは「その通り」である。 その資料を通
して教授は1)自分の教育上の活動を考え,2)大事なものを優先し,3)教育の戦術を考え直
し,4)将来に向けて計画する。 教授達が改善する上で大変に役立っているのである。 経験
からすると,Teaching portfolio作成に際しては他の人の意見も聞きながらするとよい。 そのこ
とについてベテランの知恵を借りるのである。
文献や経験を通してportfolioを使って教育改善をする上に注意しなければいけないことを幾つ
か述べてみる。

1)Strong administrative backingが必要である。 行政にたづさわる人達はこの概念を公的に
支持し,必要な経済的支えを与えなければならない。 大学では高度に優れた質のTeaching 
portfolioを作るために教員達が時間と労力を費やすように行政面から強く支えなければいけな
い。

2)Open communication:portfolioを取り入れさせるためにopenに話し合うことは絶対に必要で
ある。 完全に全ての教員,主任,学部長,行政面の人達も含めて,率直且つ解るように話し
合うべきである。 そしてteaching portfolioを教育業績についての情報源として透明で公正なも
のにしなければいけない。

3)Portfolioを作成するには個人的な違いにも考慮しなければいけない。
4)Portfolioのモデルを作って置くべきである。
5)Portfolio programは定期的に評価すべきである。
6)Portfolioの相談役を作っておくべきである。

教授達もadministrationの人達もPortfolioがうまく働き、公正でない面があったら除去し或は正
しくさせるべきである。 このようにして信頼して取り扱われるようにするのである。 Teaching 
portfolioを通して教育が改善され個人的な決定がなされるのである。











Using Student Feedback to Improve Teaching

Peter Seldin

Student feedbackは最も広く用いられ,多くの場合Teaching effectiveness
を評価したり改善するための唯一つの情報源とされている。 教え方を改善するのに人によっ
てはこの方法をうまく使っているが、人によっては必ずしもそうではない。 この論文では何が
効果的に働き,何がそうでないのか,Key strategy、tough decisions, 最近の研究結果,評価
と改善との結びつきなど重要な新しいLessonについて論じようとするものである。

教授が教室で教えている様子を直接毎日見ている人達は教室にいる学生だけである。 従っ
て学生は潜在的に教授の教え方についての貴重な情報源なのである。 何故そのような判断
用の情報が必要なのかと言うと,それには二つの理由がある。 第一に教え方の改善のため
であり,第二に人事決定のための合理的で公正なよりどころを供給するからである。 この章
では学生による評価を教育の改善に用いる点に焦点を当ててみよう。 教え方を評価する結
果として,教員がたじろいでいるのを助け,疲れたのを元気付け、優柔不断なのを励ます資料
を提供する。 大学の教授は教室において第一級の行動をすることを期待されている。 勿論
Seldin(1995)が指摘したように,教師の中には彼ら自身のTeachingを改善する必要を認めない
人もいる。 例えば殆ど300に及ぶ college teacherを調査した中にBlackburn達は次のことを
見出している。 つまり92%の人達は大体平均以上と思っている。 しかしながらある特定の
教授が教室において如何にEffectiveであろうとも,それを改善することは可能なのである。 
一言注意を加えるとすると,教室における学生に対する行為を評価するのに限ることは望まし
くない。 もっと公正で正確な評価はもっと他の情報源からのものも加えることであり,例えば
教室の参観,自己評価,教材の例,教室でのVideotapeされたものなどである。 このようない
ろいろな情報源は明らかに貴重な資料ではあるが,Student feedbackが最も広く使われてい
る。 時には唯一の資料として。

質問の書式:  
全てのコース,学科,大学にとって適当な唯一の質問形式があり得るであろうか。 多分ない
であろう。 何故ならば異なったコースを評価する為には異なった様式が必要であるし,異なっ
た情報を得るからである。 大教室での授業,セミナー,実験コースなどそれら全てについて有
効な学生による評価の仕方を実際にデザインすることも不可能である。 しかし他方では共通
のやり方を教育方式や教材の範囲を評価するのに用いるのも比較用のデータとして有意義な
ものである。

ある大学では(例えばWashington大学,ニューヨーク州のBrockportにある SUNY College)教員
が幾つかの異なった形式の中から、彼らのコースや教え方に最も適しているとしたものを選ぶ
やり方もある。 各様式は全ての形式に共通な一般的な質問も含んでいる。 しかしその中の
一部は一般的診断に役立つFeedbackをされるような質問を含み異なった勉強環境に適したよ
うな質問を含んでいる。 a) Lecture/discussion,emphasis on content, b)lecture format with 
a minimum of class participation,c) seminar/discussion report, d) lecture/discussion format, 
emphasis on process, and e) formal for student self/study or mediated courses などである。
 どのような質問形式が用いられるとしても,学生が正しく答えられないような質問はしてはな
らない。 コースの中で使われる資料が時代遅れでないかどうか,講師がその問題についてど
れだけ知っているかなどを学生に判断させるようなことは期待してはならない。 これらの判断
をするには専門的知識が必要なのであり,教員の仲間にゆだねるべきである。
他方でSeldin(1993)が指摘したように,質問の形式が適切でさえあれば,学生によるコースや
教授に対する評価は極めて貴重である。 先生に質問する事項としてそのコースで何を学んだ
か,そして教授が学生達のレベルで話し合うことが出来るかどうか,teacherの教室における職
業的倫理的行動,学生と先生の関係,その主題に関して興味をかき立てることが出来るか,
について報告することが望まれる。

注意することはそれぞれの質問についての学生による評価の少しばかりの違いを間違って解
釈する誤りをすることである。 評価が4.13とされた教授がその分野の質問で4.05と評価された
人よりもはっきりと優れていると考えない方が無難である。 その特定の授業態度やそのコー
スの特異的面を問うことも一般的な質問をするよりもずっと判断に役立つものである。 その
質問は特定の授業態度そのコースの特徴に関する20乃至30の質問を取り上げるのも望まし
い。 (「例えばその教授がクラスの中でしばしば用いる例)「教授が学生を名前で呼ぶ」とかで
あり,コースについては「読めと言われた本は余りに難し過ぎる」などである」 教育改善のため
には質問はイエスとかノーではなくて,スケールにのせて書かせるべきである。

Effects of Student or Instructor Characteristics

一般に学生による講義評価は講師の地位、男女別,研究の生産性などとは余り関係がない。
 宿題や採点レベルとも余り関係していない。学生の方の年齢,男女別,在学年数,講師によ
る評価とも関連性が乏しい。 学生による評価は小さいクラス[13人以下],討論学級,人文
学級などに比較的高いが,その違いは統計的に意味があるほどでもない。 何百人もの学生
が彼等による評価を決めているので,その結果は信頼が置けるし,[いつも同様の結果を与え
ている]有効なものと考えられる。 American Academy of Arts and Sciencesや Carnegie 
Commission on Higher Education両方ともに、学生によるteaching performanceについての評
価が重要で,信頼が置ける尺度として使うことが出来るとしている。


The Need for Consultation
  学生による評価は教え方の改善に役立つであろうか? McKeachie(1975)
が昔調べた所では確かになると言う。 しかし彼はその改善の程度は特定の影響によって異
なっている。 第一にその評価が教師にとって何か目新しいものを明らかにしているかどうか
に関連している。 第二にその評価が教師にとってやる気を起こさせるかどうか, 第三に教
師が如何に改善するかを知っているかどうかによるのである。 学生による評価は心が通い
知識ある同僚と話し合うと有益な助言になるし,或は教え方を改善する得意な人と相談すると
更によい。 この場合の相談相手は学生の評価を正しく解釈できる人であり,どうしたらよいか
が解るからである。
California大学のBerkeley campusでは各教員の必要に応じて費用のかからない,しかし効果
的な方法を始めた。 これはPersonal teaching improvement guideと称し特定の教え方の行動
を出発点として、24項目にわたる学生による評価書式に基いている。 その手引きはその講
師の最も低い点の項目に合わせて,うまくやるには実際にどうしたらよいのかを述べてあるの
で,教員は簡単な実際上の支持が得られ,教え方の改善に直ちに役立つようになっている。

Additional ways to obtain student feedback

評価書式は教え方についてのStudent feedbackを得る最も一般的な方法であるが,他の方法
も用いることが出来る。 
面接:教授から教え方の相談としてそのクラスと面接するよう書いた要望が出された場合に行
われる。 Consultantは教授からの一連の質問や気遣いのリストを与えられる。 30分間に及
ぶクラスとの面接の間学生は話し合いを通してそのそれぞれの気遣いに対してその通りと思う
かそうでないか,或はどちらでもないのかを明らかにする。 その結果が記録される。例えば,
学生は試験に際してもっとEasy questionがあればよいと思うか? 70%同意,20%反対,
10%どちらでもない、と言った具合である。 面接の後で,教え方の相談役はその話し合った
話題についての報告を書き,その応対の百分率と特定の学生の意見[無記名]をまとめること
になる。 最後にConsultantはその結果を教授と話し合い,教え方を改めるために必要な目的
や戦術を決めることになる。

Student evaluation committee

この方法においては少数の学生達[普通3から5]でそのクラスのEvaluation committeeを作
る。 この委員会はクラスの外でWorkload,課題が適当かどうか,,クラス外で教授と話し合え
るかどうか,などを定期的に話し合う。 正式または正式でない方法で委員以外の学生からの
意見も募る。 学期の間中その委員会は教授と定期的に話し合うことになる。

Quality control circles

このCircleの目的は教室の中での教え方や学び方についてStudent feedbackを組織的に集
め,伝達をするためである。 クラスの中でのコースについての意見,批判,指示をcircleのメ
ンバーと教師とが話し合うのである。 Penn State大学のある教授は学生と話し合い,教授の
教え方をよくするのに役立つ貴重な指示を学生が教えてくれると言う。 その中には例えば,
教授の講義ノートの写しを図書館に置いておいて黒板の使い方を,より効果的にする方法に
まで及んでいる。

小グループで教え方を話し合う: このやり方は多くの場合学期の途中で行われるが,教授と教
え方のConsultantとの間で特に何か教え方について何か気になることがあると言って話し合う
ことから始まる。 次にConsultantは学生を6から8人のグループに分けて各グループと次の三
つの質問について意見が合うまで約10分間話し合う。 「その講義はどの点が好きなのか」,
「教え方の改善はどうすればよいのか」,「その改善を実施させるにはどのような方法を取れば
よいのか」[この第三の質問は重要である]

コンサルタントは各グループの応答を記録し,必要ならば分類し,まとめられ,教授と話し合う
ことになる。 このようなことを通して教授は学生の批判や示唆に対応し,学生に対して彼等の
意見を真剣に取り上げていることを示すのである。

Student-visitor program

学生の意見をFeedbackする普通の方法として教授はクラスの正式のメンバーではないが,教
室を観察するのに慣れている人達を教室に招待する。そのStudent-visitorは講師を観察し,
クラスの中の学生と話し合い,学生が学ぶ上で教授のEffectivenessを増すにはどうしたらよい
かを見出すのである。 この方法はBringham Young大学でなされた。

Talking with Faculty about their teaching

教え方を改善するためにConsultantは教員とどのようにして話し合うか? 最も大事なのはコ
ンサルタントは教員がやり遂げたことを誉めることもすることである。 Teachingの弱点を克服
してやり遂げた中で話し合うことが大事なのである。 教授の誠実さや自尊心を傷つけること
はすべきではない。 長年の実際上の経験に基き次のようなガイドラインが大事である。

1.教え方改善の活動は教員の意志に基いてなさるべきで,どのように改善するかは教員が
選択することである。

.教授は学生による評価について意見を持つことは望ましい。 質問書式の中に先生個人の
教え方やその目的と結びつく二,三の質問を評価の中に加えるのも悪くない。 標準的な評価
書式に含まれなくても,職員達に特定の興味ある情報を与えるからである。

3.常に休みなく教え方について検討を加えなくてはいけない。 教授は常に教え方に関する記
録を作っておくべきである。 教え方を変えるのは楽なことではない。 しかし常に休むことなく
進歩をチェックし、教室での行動を考え,自分のした努力が正しいものであることを確認する必
要がある。

4  教授はStudent feedbackを信頼ができ,知的で好意的であるとして意     
  識されるべきである。 さもないとConsultantの指示や情報に応答する 
  のにしらけてしまうからである。

5  話し合いは教えることに焦点を絞ってなさるべきである。 抽象的に教
  え方を取り扱うのは避けるべきである。

6  教え方を話し合う際には評価についてではなく,教え方に的を絞るべき  
  である。 教える効果は学生一人一人によって異なるものである。 実際 
  に学生の中には経験も違い考え方もやる気も全て異なっているのである。   
  それが故に全ての学生に対して等しく効果的な教え方の唯一つの方法があ 
  るわけではなく,全ての学生は教師に各個別に反応するのである。

結論

教え方に関するStudent feedbackは教育についての万能薬ではあり得ない。 しかし教え方を
より効果的にすることが出来るし,その結果教育の質を高めることが出来る。 Student 
feedbackは信頼出来,有効な情報を提供するものであるという充分な経験的な証拠が挙がっ
ている。 この効果を更に高めるには教授達が学生の意見の解釈やどうしたらよりよく出来る
か,特定の行動をどうしたら直せるのかについて熟練したConsultantの腕前に頼ることが望ま
しい。 Dinnerが美味しいかどうかを知りたければ,そのDinnerを食べる人の意見を尋ねるべ
きなのである。


Teachingを評価する方法の変化:

情報源19731998

1 教材14%39%
2 学生の評価29%88%
3 研究業績20%27%
4 教室訪問14%40%
5 自己評価37%59%







Building Successful Teaching Evaluation Programs

Peter Seldin

多くのcollegeや大学ではteachingを評価するプログラムを改善しようと努めている。 彼等はゴ
シップや噂話や偏見を証拠として格下げして,もっと目的に合致した評価プログラムを作り直
そうとしている。 それは結構なことではあるが、不幸にしてそれらは何時もうまく行っていると
は限らない。 何故か? 原因はいろいろである。 Institutionの中では手早くそれを採用して
いる所もあるが,,他の中には重大な欠陥を含む評価方法を採用している。
その結果として職員の中で混乱が起こったり摩擦さえ起こしている所もある。

失敗の原因

教え方の評価プログラムではしばしば二つの理由で失敗している。 第一に職員に改善意識
を持たせることに失敗しているし,第二にpoor,adequate,and good teachingを区別できずに
いる。 何故失敗なのだろうか。 私の経験からすると次のように説明することが出来る。
1)評価プログラム自身が最初から間違っている。 いい加減で漠然としていて、職員や
administratorがどうやってよいのか解らずにいる。 或は,余りに広い範囲にわたって詳細で
あり…完全過ぎて各種の教え方や評価情報源に重みを割り当てたりして、うまく行くはづがな
い状態なのである。

2)データが不適切に使われている。 評価プログラムは二つのはっきりした目的に向けて作ら
れている。 教え方の改善と給料,契約更新、昇格、tenure決定などの為のデータを供給する
のである。 Administrator達は教え方の改善のためのデータを集めながら,それを直ちに個
人の人事にまで採用するのである。 教え方の改善のためのプログラムは人事決定のための
ものとは全く異なるのである。

3)評価プログラムがそれを再吟味するための安全弁が欠けている。 プログラムを定期的に
再吟味することは成功への不可欠なことである。 公式であれ,非公式であれ,この種の再点
検はそれによってプログラムを作りかえるきっかけにならなければならない。

4)一人或はあるグループ職員がそのプログラムが失敗することを望んでいる。 どうやって駄
目にしようとするのだろうか? 冷たい,しらけた態度を取るのである。 例えば,「我々は充分
なデータがないから何も出来ないよ」とかである。 愛想よく微笑をし、明るい態度を取りながら
出来立てのプログラムを静かに協力しないでいるのである。 能力もなく興味も失せてこっそり
と反対しながら評価プロセスの再構築する努力を壊すのである。

5)不適切なadministration: 一般的な誤りの中にはイ)矛盾を含む標準。ロ)書式の中にはっ
きりしない指示がある。ハ)不規則な評価スケジュールがある。 これらの間違いのどれについ
ても職員を混乱させ,うまく行かなくさせてしまう。 そのプログラムを本当に成功させる為に
は,そのプログラムを行政的に取り扱うことがそのプログラムの内容と勝るとも劣らず重要な
のである。

失敗しているシステムを改定すること
職員や行政の一部でその評価プログラムは失敗していると見なされているとしよう。 またその
プログラムの間違いを正しくしようと心から思っていると仮定してみよう。 このinstitutionは何
をすべきであろうか。 一つのうまく行ってやり方はよく構築された研究グループを任命するこ
とである。 このグループのメンバーは注意深く選ぶべきである。 Campusでもそのようにして
選ばれた人達であると見なされるのである。 このグループは次の質問に答える計画を書く準
備をするのである。
1)この教え方の評価のプログラムの目的はは何が適当であるか。
2)このプログラムのどの部分がこれらの目的の達成の邪魔になり,除去すべきであるか。

3)このプログラムのどの部分がこのプログラムの目的を達成するのに役立ち,保たれるべき
か。

4)そのプログラムを改定し,institutional evaluation goalをうまく達成させるには何ができ,,何
をしなければいけないか。
5)我々のcampusではこの改善をするのに人的,経済的な充分な備えがあるのか。

6)我々の目的を達成させるために学外から熟練した人ガ加勢してくれることが望ましいのか。
 advisory committeeがあるとよい。
7)いつ頃までに実際にそのプログラムを改定する計画であるのか。
成功する為には次の三つのことをなすべきである。
1)職員の中で影響力の強い人にそのプログラムが貴重であることを信じてもらえれば他の職
員も同様について来る。
2)適当なcommunication channelを利用することである。 公開フォーラムを開催したりして、
グループメンバーが質問に答え意見や示唆を考える。 このプログラムの活動振りを定期的に
報告し,教授会ニュースレターを通して進み具合を知らせたりして、広い範囲で支持するように
するのである。
3)新しい書式を直ちに発展させることをしないで,その目的に同意する人達をまず募り,この
プログラムに職員達を巻き込むように宣伝する。そして最後に公開の集まりでそのプログラム
の内容や進み具合を報告する。

     うまく行ったteaching evaluation programの特徴

あるinstitutionがフレキシブルで総括的で且つ公正なteachingを評価するプログラムを作り上
げるにはどのようなステップを経なければならないであろうか。 うまくteaching評価プログラム
を作る一般的共通的な道筋は何であろうか。

そのシステムの目的を決めることである。 まずそのプログラムが何の役に立つためにするの
かの目的を決めることである。 適当な人事資料を整えたり教え方の改善に役立つデータを供
給するためである。 どのような情報を集め,評価手続きを取るかはそのシステムの目的に直
接かかわることなのである。 多くのinstitutionではこの異なった目的の為に別のシステムを準
備している。

Administrationの支えを求めることである。 どんな評価プログラムでも行政面での強い支えが
なくては駄目である。 行政面での力と影響がそのプログラムの支えとなって皆が明るく受け取
れるようにしなければいけない。

職員が参加できる形にしなければいけない。 職員がその評価プログラムを理解してくれ,自
分達もそれに従ってする公正で意義なものと判断してもらえないといけない。
職員の反対を押し切らなければいけない。 職員達は,一般の人達と同じように,評価を
implicit threatと感じる傾向がある。 誰でも脅かされることは好まないものである。 この自然
な抵抗をどうやって克服することが出来るだろうか。 経験によると,このプログラムの利点と
いうものを好意的に理解してもらうことである。 行政面からの力を借りて職員の抵抗を克服
し,これまでよりも効果的なことを納得してもらうことである。 職員達のこの評価については勝
手に公表したりすることはしないというプライバシーを守ることである。 自分達のプログラムは
一,二年やった上で不都合な点があったら手直しする用意があるということを決めればよい。
Use Open Communication: 教え方の評価プログラムはその内容について職員や行政に携わ
る人達の間で,充分に意思を通わせることをしなければうまく行くはずがない。 プログラムの
全てのステップは皆が分かるように話し合わなければいけない。 そのプログラムの原案を職
員フォーラムや公聴会を開いて話し合うのも特に重要であるし,話の進み具合を広く報告する
ようにするのである。

Rely on Campus Influential: どのような大学でも皆に影響力がある人がいるものである。 そ
の人達にそのプログラムについて充分に理解してもらい,その忠告を受け入れ,指示をしても
らうことは他の人に対する影響が強くあるだけに,そのプログラム成功には欠くべからざるもの
である。 

いろいろな所から情報を得ることである。 よく起こる間違いは学生による評価をTeaching 
effectivenessのための唯一つの情報と受け取ることである。 教え方の効果を知るためには
それだけでなくいろいろな他の情報源をも求めるべきである。 学生,同僚,行政にに携わる
人,その人自身などなどの情報はそれぞれ貴重な情報を与えるが,その中の一つだけで足り
ることはない。 人事についても限られたものでしかないからである。 それぞれからどのような
情報が得られるであろうか。

学生から:学生は教師の教え方の腕前,教材,教師と学生の相互作用,説明の明瞭さ、
Workload,学生からの忠告。

同僚から:教材(テスト,書類など)のreview,コースの主題をどの程度解っているか,教えるこ
とに対する興味と気遣い。
Administratorから:仕事に対する責任感,よくやっているかどうか、コースにどれだけに人数の
学生が聞いているか,教え方を改善しているか。
その人自身から:教師としてよくやっているかどうか,教材,学生がよく学んでいるかどうか,学
生からの忠告。

評価プログラムをうまくやっている所から学ぶのもよいし,学内学外のその道のベテランの手
を借りるのも望ましい。 またEvaluator達について評価する目的を正しく心得てもらい,その評
価がプラスに働くよう、公正で信頼のおける評価をすることが望ましいこと今更言うまでもな
い。 そのためには何処に標準を置くか,標準化をきちんとすることが望ましいし、評価書式が
明瞭で矛盾や誤りがないか,についても注意しなければいけないし,誤りや不都合な点があっ
たら直ちに手を加えるべきである。 また余りに頻繁に評価を求めても却って興味を失わせる
し,また自己評価にしてもそれだけで判断すべきものでもない。 ある所からよく言われたとし
ても必要以上にそれにこだわるのも考え物である。 学生の職員に対する評価は概要を書か
ないで,公表する際は全てを載せるか,公表しないかのどちらかにするのがよい。 要は全て
の人が納得でき信頼できるポジイテイブなプログラムを確立し,全ての人に慶んで協力してもら
いながら運営するようにすることである。 また,それには関係者全てがそうなるように日常的
に訓練されて行く必要もあるのである。
Teaching evaluation is only a mean to an end--the improvement of teaching in order to 
improve student learning.



Appendix: Selected Forms to Evaluate Teaching

いろいろの大学ではお互いに使っている評価書類を参考にしてそのモデルを作っている。 た
だしInstitutionやその学科,目的などによって,その質問する内容もが異なることも当然あり得
るのである。 唯一般的な手直しの基になる参考モデルを次に示すことにするが,これらはあく
までも唯の参考モデルであって,これが決定版などと思ってはならない。 ほんの出発点でしか
ないものであって,それぞれの学科やcampusによって好きなように手を加えればよろしいので
ある。 


Teaching Evaluation Program Forms

付録 12−1

教え方について学生はどのように認識したか。

講師名:
コース番号:         日付:

学生が参加したクラス、コース自身及び教師に関して次に書いてあることについて答えて下さ
い。 貴方の答えは教育を改善する為に用いられます。 貴方のそれぞれの項目について賛
成するかしないか,1から5の中で選びなさい。
強く不賛成  1  2  3  4  5  強く賛成
___________________________________
個人[学生]
1私はこのクラスで予習をします。   1  2  3  4  5
2必要な場合私は助けてもらいます。  1  2  3  4  5
3私はこのコースの教材を学びました。 1  2  3  4  5


___________________________________
コース
6このコースはよく組み立てられている。     1  2  3  4  5
7コースに必要なことは明瞭に述べられている。  1  2  3  4  5
8コースの目標に適切に割り当ててある。     1  2  3  4  5
9著しく異なった学説,考え方も述べられている。 1  2  3  4  5
10最近の進歩も述べられている。        1  2  3  4  5
11書かれているコースの目的に合致している。  1  2  3  4  5
12このコースについての私の総体的な評価は   1  2  3  4  5
  (1 駄目:2 一応:3 どちらでもない:
  4 よい: 5 素晴らしい)
13                      1  2  3  4  5
14                      1  2  3  4  5
___________________________________

教師
15教師はクラスのためによく準備している。        1 2 3 4 5
16教師は学び易い様にクラスの雰囲気を与えてくれる。   1 2 3 4 5
17教師は考え方や情報を効果的に伝えてくれる。      1 2 3 4 5
18教師はこのコースについて熱心である。         1 2 3 4 5
19教師は学生に勉強するよう励ましてくれる。       1 2 3 4 5
20教師は勉強を助けてくれる。              1 2 3 4 5
21教師は学生の成績を評価するのに適切な方法を用いている。1 2 3 4 5
22教師は学生を丁寧にRespectをもって接してくれる。   1 2 3 4 5
23この教師の総体的な評価は (1駄目: 2一応:      1 2 3 4 5
  3どちらでもない: 4よい: 5素晴らしい)
24 1 2 3 4 5
25 1 2 3 4 5
教師により随意の質問を付け加える。

何でもコメントを:


教師の強い点は:

 
教師の弱い点は:

 
このコースで次のことが最も貴重である:

 
次のことがこのコースを改善する点である:

 
その他のコメント:






付録 12−2

学生がどう認識したかの報告:

コース名コース番号:
教師

印しのつけ方について: 次の質問それぞれについて貴方の考えに最も合致するものに丸く印
しをつけて答えなさい。
強く同意=SA: 同意=A: 不確か=U: 不同意=D: 強く不同意=DS
答えなし=NA
___________________________________
1このコースは難し過ぎるSA A U D DS NA
2教師はこのコースの内容を効果的に伝えるSA A U D DS NA
3教師は学生にどれだけ出来て欲しいかを伝えるSA A U D DS NA
4教師はそのクラスに準備してあるSA A U D DS NA
5教師はコースの初めにはっきりした授業計画を作ってあるSA A U D DS NA
6異なった見解を表現することを奨励したSA A U D DS NA
7教師は内容を理解し易いよう教育機器を使ってくれたSA A U D DS NA
8教師は忠告や助言をしてくれたSA A U D DS NA
9このコースの教科書は現代的で有益であるSA A U D DS NA
10このコースで読むものはこの主題に関連している SA A U D DS NA
11質問やテストは公正であるSA A U D DS NA
12このコースを友人が取るように勧めたいSA A U D DS NA
13教師は教室でTeacherとして効果的であるSA A U D DS NA

___________________________________
芸術工房の評価のみ
14批評は効果的であるSA A U D DS NA
15このコースは私の創造的能力を伸ばすのに役だったSA A U D DS NA
16このコースは私の芸術的判断を伸ばすのに役だったSA A U D DS NA
17教師はこのクラスの特定の要求に敏感であるSA A U D DS NA
18教師は媒材の範囲で実習させてくれたSA A U D DS NA 
19教師は教えたやり方を創造的,実習的に応用させるよう励ましてくれた
SA A U D DS NA
20教師は学生の個人的な才能を盛り立てるようにやってくれた
SA A U D DS NA
21教師は教えた主題に熱心であったSA A U D DS NA
22教師は学生の質問によく答えてくれたSA A U D DS NA
23教師は学生に新しい考えで冒険することを許してくれた
SA A U D DS NA
___________________________________
科学実験室の評価のみ
24実験室での実習は講義の話題とよく関連していた SA A U D DS NA
25実験が終わってその結果に充分よく討論してくれた SA A U D DS NA
26実習中教材は直ぐ使えるようちゃんと準備されていたSA A U D DS NA
27実習の教師は実習中何時もついていてくれた SA A U D DS NA
28実習の教師は実習の手続きや実習の関しての安全の注意について説明してくれた SA 
AU U D DS NA

書き入れ部分


イ このコースが有益である点は?



ロ このコースの弱点は?



ハ このコースの中で受けた教え方についての意見は?



二 このコースについての総体的な貴方の意見は?







付録 12―3

学生による評価書式

学生へ: 下記の質問に注意深く答えて下さい。 教室の構造はいろいろと異なっていることを
頭に入れて質問について答えて下さい。
読み易いように答えを書いて下さい。 貴方の考え深く責任のあるコメントは教え方の改善に
大変に役立つものですから。

1コースの選択: 何故このコースを取りましたか? これは選択ですか,必修ですか?


2貴方の参加の仕方: 貴方はこのコースでどれだけ頑張ったと思いますか。 貴方のこのクラ
スへの出席率を書きなさい。.


3コースの内容: 学ぶ上でこのクラスの授業以外の宿題がどれだけ役立ちましたか,それに
ついてコメントしなさい。 書籍,実習,練習問題などでどれが最も役立ちましたか,またどれが
最も役に立ちませんでしたか。 その理由を書いて下さい。



4評価: このコースで貴方が評価されたやり方について意見を述べなさい。 テスト,課題,プ
ロジェクトなどはこのコースにある教材についての貴方の知識を正しく定量的に評価することを
していますか。 その難しさやWorkloadはこのコースのレベルに適切なものでしたか。



5教え方のEffectiveness: 教師が新しい知識や概念を伝え,説明するのに,解り易くしていた
か、うまく工夫して討論を発展させたりして効果的であったか考えを述べなさい。



上記の質問への答えに基いて貴方が取ったこのコース全ての中で教え方がよかったかどうか
全体的な評価を書いて下さい。
___________________________________
           Poor  Fair  Good  Very good  Excellent
このコースの質 〇  〇  〇   〇     〇

コースのEffectiveness 〇   〇   〇   〇     〇


付録 12―4
教室参観報告

評価された教師:
コース:    学生数:
日時:
評価する人:

目的: この教室参観の目的は 1)tenure,昇格,昇給などに関して出来るだけ正確で公正な
決定をするための資料を得ること:2)教員のやり方を改善するためである。
実施方法: 各項目を注意深く考慮して下さい。 そして素晴らしい効果的なやり方にのみ最も
高い点をつけて下さい。 質問12と13はわざと空白にしてあります。 貴方と評価されている教
員とで随意に項目を入れて下さい。 各教師は二度の参観を受けます。 参観者はクラスの初
めから終わりまで教室にいて下さい。 参観者は教師と打ち合わせて第一回,第二回の参観
日を決めて下さい。
Highest:5 4 Satisfasctory:3 2 Lowest:1 Not applicable:NA
1そのクラスでやることの目的をきちんと定義している
2クラスでやることの目的に合って勉強するよう効果的に組織している
3学ぶ過程にある学生にうまくやるようにやり方を教えている
4クラスの時間を効果的に使っている
5主題について熱心にやって見せている
6学生のレベルに合わせて明瞭且つ効果的に伝えている
7簡単且つ明瞭に重要な考えを説明している。
8主題になる教材をよくまとめている
9学生の質問やコメントに適切に答えている
10大事な考え方や解析をするよう励ましている。
11上記の項目に基いて学科内の他の人達と較べてこの教師をどのように評価 
  するか
12
13
14全体的な評価

この教師を貴方が相談役になっている学生に推薦するか?



この特定のクラスに関してどのようにしたらもっとよくなると思うか?


貴方は第一回の参観の話し合いがあったか?  第二回については?




付録 12―5:

教室参観報告

評価される教師の名前:
参観者:
学生数:コース名:
日付:

指示: 教室参観の数日前に教師は参観者に対して教師のコースの目的,内容,組み立てを
含むコースの授業計画を手渡しておくべきである。
手続き: 参観者は参観の数日前に教師と会い,教師のクラスの目標や教え方について学ん
でおくべきである。 参観してから数日以上経たない内に参観者は教師と参観した内容や結論
について討論すべきである。

1教師の熟練さ,心の広さと深さについて述べて下さい。

2教え方について述べて下さい。

3表現がどれだけ明瞭でよく組み立てられているか?

4学生がどのような形でどれだけ授業に参加しているか述べて下さい。

5教師の教え方を改善するのにどのようなSuggestionがありますか?


付録 12―6

教員が自分の教え方について自分でする評価:

名前:日付;
学科:

1貴方の身につけた教え方の中で貴方が最も強い点と思うものは何ですか?


2貴方の教師として最も偉大な長所は何ですか? 貴方の最も弱い点は?


3この1年間で教師として貴方が成し遂げた最も重要な事柄は何ですか?


4貴方の学科の他の人達と較べて貴方が成し遂げたことをどのように評価しますか?


5貴方の教室の雰囲気をどのように書き表しますか?


6この三年間にわたって教師として最も大きな不行届き何ですか?


7貴方の学科の他の人と較べて教師として全体的にどの程度頑張っていますか?  どのよう
な根拠からそう判断しますか?








付録:12―7

職員が自分の教え方について自分でする評価:

名前:日付:
学科:

Highest:5  4  3  2  1 Lowest 関係なし:NA

1貴方のコースの主な目標を学生にはっきり解るようにしましたか?

2クラスでの説明はよく計画され,うまくやりましたか?

3教室での試験はコースの目標に適切でしたか?

4用いた教材は適当なものでしたか?

5貴方が教室で教えたことは学生に興味や情熱をかき立てましたか?

6学生に貴方が出来ることは何でもしてあげるから遠慮なく申し出るよう学生に言いました
か?

7クラスの時間をうまく使いましたか?

8難しい話題も明瞭に説明しましたか?

9貴方はコースの内容についてどれだけ熟達しているかどのように判断しますか?

10上記の質問に対する答えを考慮して貴方が教師としてやっていることを全体的にどのよう
に評価しますか?





付録 12―8

年度別活動リスト:Teaching

名前:
学科:
地位:

teachingの強い点と弱い点:

1Teaching Philosophy

2教え方の実際

3私の教えることに対して学生はどんな反応を示すか

4教え方の改善(improve)する努力をした証拠

5教え方を高める(enhance)努力をした証拠

6全体的,倫理的その他もろもろのことをまとめて。

7新しいコースまたはカリキュラムを作る上での貢献

8学生の勉強法を改善する計画

9現在やっている研究が私の教え方をどれだけ高めたか?

10私のコンサルタント/職業的活動が私の教え方にどれだけ為になったか。

11Teachingについての事柄で今年他に新しいことは

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私がはじめて書いた本の、推薦文を、先生に
書いてもらいました。今から思うと、赤面のいたりです。
先生は、私が頼むと、何も言わず、この推薦文を書いてくれました。

これは後日談になるのですが、その本を見た、
ある出版社の社長は、こう言いました。
「あの田丸先生に、推薦文を書いてもらったのですか?
信じられない……」と。田丸先生という先生は、そういう先生です。

先生、ありがとうございました!

(追って掲載許可をいただいたものを
紹介していきます。)