はやし浩司

格言集
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子育て格言集
はやし浩司

これらの原稿は、幼稚園配布雑誌「よいこのくに」(学研)の
付録「ははのくに」の巻頭言として、1994年4月から
95年3月まで、12ヶ月にわたって、連載された原稿です。

引いて、発(はな)たず

名言から学ぶ子育て

引いて、発(はな)たず。
(孟子)

紀元前3世紀ごろの、中国戦国時代の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典の一つとさ
れる。


 子どもに矢の射り方を教える時も、矢の引き方までは教えても、その矢を放つところまでは見
せてはならないという意味です。教育といっても、何でもやりすぎはよくないということです。この
名言は、子育ての場で、いろいろに応用できます。たとえば…。
 子どもに自立心をつけたいと、ほとんどの親は思っています。そういう時は、『何でも半分』と
心得ます。たとえば服でも半分だけは着せてあげても、残り半分は子どもに着させる。靴下も
片方だけをはかせてあげても、もう一方は自分ではかせる、など。もしそれではたいへんだと
いう時には、『あと一歩、その手前でやめる』というのもあります。なんでも子どもにしてあげる
時には、完成する一歩手前でやめ、あとは子どもにさせます。つまり子ども自身の力で、完成
させるようにしむけます。
 しかし中に手取り、足取り教育をする人がいます。またそういう教育のほうが、ていねいでよ
い教育だと考えている人がいます。しかしこと幼児教育にあっては、これは誤解です。ある程
度の方向性はつけてあげても、依存心まではもたせてはいけません。子育てにはある程度
の、「冷たさ」も必要です。そしてその冷たさが、子どもを自立させます。
 手をかけすぎると、こんな子どもになります。幼稚園児とこんな会話をしたことがあります。
子「先生、絵が描けない」
私「どうして?」
子「クレヨンがない」
私「どうして、ないの?」
子「クレヨンが落ちた」
私「だったら、拾えばいいでしょ」
子「…取れない」
私「立って拾いなさい」
子「椅子が動かない」
私「力を入れて押してごらん」
子「動かない」
 その子どもの椅子は、隣の子どもの椅子と、脚がからんでいました。だからその子どもは、
「動かない」と言うのです。多分その子どもは、家庭でも日常的にそういう言い方をしているの
でしょう。そう言えば、何でもしてもらえるからです。さらにこの状態が進むと、無気力な子ども
になってしまいます。「クレヨンを持ってごらん」と言うと、クレヨンを持つだけ。次に、「丸を描い
てごらん」と言うと、丸を描くだけ。言われたことだけはしますが、それ以上のことは、自分から
は何もしません。強度の過干渉が日常化すると、子どもはそうなります。
 子育てとは、つまるところ、子離れのことです。子育てを意識したら、親は心のどこかで子離
れを考えます。子どもを育てるということは、子どもを自立させること。そして親が子離れをすれ
ばするほど、子どもはたくましく育ちます。またそれが子育ての目標でもあるのです。
 一見冷たく見える孟子の名言ですが、子育ての本質をついた名言です。


忠告は秘かに

名言から学ぶ子育て

忠告は秘かに、賞賛は公(おおやけ)に
(シルス)
Give advice secretly, and praise children openly.

古代ローマの劇作家。


 幼児にもおとなと同じ自尊心があります。生きる誇りのようなものです。この誇りに傷をつけ
るのは、タブー。その代表的なものが、皆の前で恥をかかせることです。注意したり、叱ったり
する時でも、決して皆の前でしてはなりません。できれば誰もいないところでします。あるいは
別の場所へ連れて行ってします。あくまでも一対一の関係でするのが、コツです。
 中にそのほうが効果的だからという理由で、わざと皆の前で恥ずかしい思いをさせる人がい
ます。しかしこのやり方は、子どもを確実に卑屈にします。そればかりではありません。以後、
ことあるごとに、その子どもをマイナス方向に追いやります。自信のない子どもや、覇気のない
子どもにしてしまいます。行動が退行的かつ消費的になります。退行的というのは、たとえばス
ポーツをして体を鍛えることを創造的というなら、隠れてタバコを吸うような行為をいいます。ま
た消費的というのは、テレビゲームに熱中するなど、その場のエネルギーを一方的に消費する
ような行為をいいます。幼児ですと、隠れて妹いじめをするとか、小さなおもちゃを意味もなく、
たくさん集めるなどの行為をいいます。
 しかし反対にほめる時は、皆の前でほめます。さらに効果的な方法としては、子どもに聞こえ
るようなところで、ほかの人に子どものことをほめるという方法があります。たとえばお父さんに
向かって、「あなた、今日ね、うちの子ったら、すごかったのよ」とか言うなど。しっかりとした自
尊心をもたせることによって、子どもは前向きな人生観をもちます。
 こう書くと、「子どもをうぬぼれさせるのではないか」と心配する人もいますが、幼児期にあっ
ては、子どもをややうぬぼれさせる程度のほうが、後々よい結果を生みます。もちろん自尊心
とうぬぼれはちがいます。自尊心は子どもを前向きに引っぱる力がありますが、うぬぼれには
それがありません。「ぼくを馬鹿にするやつは許せない」というのは、自尊心ですが、「ぼく以外
は皆、馬鹿だ」というのは、うぬぼれです。自尊心が強ければ強いほど、子どもには根性が生
まれます。その自尊心を育てる方法は、ほかにもいくつかあります。その一つが、『名前を大切
にする』という方法です。
 子どもの名前の書いてあるものは、大切に扱います。雑誌や新聞に、子どもの名前が出た
時には、それを大切にします。あるいは常に、「あなたの名前はいい名前だから、大切にしよう
ね」と教えます。
 もう一つの方法は、いつも子どもの成長を喜ぶという方法です。子どもが何か新しいことがで
きるようになるたびに、心底、それを喜んでみせます。「あら、もうそんなことができるの!」とで
す。子どものほうから、「お母さん、見て、見て」と言ってくるようになれば、しめたものです。そう
いう家庭の雰囲気が子どもを伸ばします。


人学ばざれば、道知らず

名言から学ぶ子育て

玉、磨かざれば、器ならず。人、学ばざれば、道知らず。(礼記)

中国五経の一つ。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めたのが、礼記。


 今さら説明すべき言葉ではありませんね。人は学ぶことで、初めて真理に到達できるという
意味です。しかし幼児教育の分野にこの名言をあてはめると、次のようになります。つまり「学
ぶ」という方向性をつくるのが、幼児教育だということです。もう少しわかりやすく言うと、学ぶた
めのプロセスをつくるのが幼児教育だということです。考える、その道筋と言ってよいかもしれ
ません。
 たとえばあるお母さんは、子どもと                      こ
こんな会話をしました。子どもの考え方を少しずつ引き出しながら、それにお母さんの考え方を
つけ加えているのが、わかります。
子、月を見ながら、「どうしてお月さまは落ちてこないの」
母「どうしてかしら。糸のようなものでつりさげているのかしら」
子「でも糸が見えないよ」
母「そうね。糸は見えないわね」
子「お空にくっついているのかな」
母「くっついていたら、動かないわ」子「そうすると、やっぱり糸だ」
母「そうね、きっと見えない糸よ。それがあるのよ」と。
 しかしこんな会話もあります。
子「どうしてお月さまは落ちないの」母「神様がそうしているからよ」
子「どうしてお月さまは、夜になると明るいの」
母「神様がそうしているからよ」
 何でも神様のせいにするのは、便利ですが、子どもの立場からすると、何も答えになっていな
いのがわかります。年中児になるころから、子どもの会話の中に、「なぜ・どうして」が、急激に
ふえてきます。乳幼児期から少年・少女期への移行期と考えます。そして年長児ともなると、子
どもの「核」がはっきりしてきます。核というのは、「この子どもはこういう子どもだ」という、とらえ
どころのことを言います。そして同時に、子どもの考え方も論理的になってきます。まさにああ
言えば、こう言う式の反抗も目立つようになります。
 論理的な子どもは、A=B、B=C、だからA=Cというような考え方ができます。しかし苦手な
子どもは、たとえばこんな会話をします。
私「犬と鳥はどこがちがいますか」
子「犬はこわい」
私「鳥はどうかな」
子「私のおばあちゃんの家に、ニワトリがいる」
私「だから、そのニワトリと犬とはどこがちがうかな」
子「犬はいないけど、猫がいる。猫はこわくない」
 もしこういうふうに、会話が浅いところで上すべりするようであれば、反対に親のほうから、「な
ぜ・どうして」を繰り返します。そして頭の中に思考のプロセスをつくるつもりで、ものの考え方を
教えます。知識を教えるのではありません。ものの考え方を教えます。子ども自身がいつか自
分で、考
えることができるように、です。


教育は母のひざに始まる

名言から学ぶ子育て

教育は母のひざに始まり、幼年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する。
(I.バロー)
Education starts in mother's lap and what children hear in those days
will form their character.


17世紀のイギリスの数学者、神学者。


 スキンシップには不思議な力があります。魔法の力と言ってよいかもしれません。子どもはお
母さんの温かいスキンシップを通して、心をはぐくみます。そればかりではありません。子ども
は疲れた心を、そのスキンシップの中でいやします。もし子どもがグズグズとわけのわからない
ことを言ったり、あるいは情緒不安症状を示したら、子どもを温かく抱いてみてください。最初
は少し抵抗する様子を見せるかもしれませんが、やがて静かになります。子どもの呼吸がお母
さんの呼吸と一つになった時、子どもの心は安らかに、落ちつきます。
 よく抱きぐせがつくといけないからという理由で、子どもとのスキンシップを避ける人がいま
す。もちろんベタベタのスキンシップはよくありません。依存心の強い子どもにしたり、それこそ
親がいないと何もできない子どもにしたりします。あくまでも子どもの様子を見ながら、判断しま
す。
 そしてこのバローの言葉です。子どもの「心」は、お母さんの温かいスキンシップによってつく
られると思ってください。やさしさ、思いやり、心の温かさ、など。反対にじゅうぶんなスキンシッ
プがないまま育てられた子どもは、いろいろ言われていますが、要するに心の冷たい子どもに
なると考えると、わかりやすいでしょう。性格がゆがんだり、あるいはものごとに無感動、無表
情になったりします。そんなわけで、子どもの「心」は、お母さんのひざの中でできると思い、温
かいスキンシップを大切にします。
 私はこの名言を一歩進めて、次のように解釈しています。『心は抱いて語れ』です。こんな例
があります。
 一人、幼稚園で先生が手を焼くほど、いたずら好きの子どもがいました。走っている子どもの
間に自分の足を、すべりこませ、ころばせたり、すべり台の上から砂の入ったバケツを落とした
りする、など。友だちにけがをさせることも、しばしばありました。苦情を受けるたびに、お母さ
んはその子どもを強く叱りました。しかし効果はありませんでした。しばらくすると、また新手の
いたずらを繰り返していました。
 がある日。お母さんが困り果てて、その子どもをひざに抱きながら、思い悩んでいた時のこと
です。その子どもがふと、「お母さん、ごめんね」と言ったというのです。そのお母さんは、「あれ
ほど強く叱っても、あやまらなかった子どもが、ごめんねと言ったのには驚きました」と、話して
くれました。
 時として親は子どもに、自分の心を語らねばならない時があります。しかし相手は幼児です。
むずかしい話は理解できません。その上、心は言葉では語り尽くせません。そういう時は、子
どもを抱いて、その心を伝えます。お母さんの心、特に心のやさしさは、そのまま子どもに伝わ
り、それが子どもの心となります。


教育の秘法は、生活尊重にある。

名言から学ぶ子育て

教育に秘法があるとするなら、それは生活を尊重することである。(エマーソン)
1803ー1882、アメリカの詩人、思想家。『自然論』の著者。
The secret way for education, if there is, is to make important of the life.


「うちの子どもは、何をさせてもすぐあきてしまいます。どうしたらよいで
しょうか」という相談は、多いですね。
「忍耐力がない」と言うのです。
 そこで親は勉強させることによって、忍耐力を養おうということで、子どもに勉強を強制しま
す。これはいわば一石二鳥をねらった、むしのよい話で、まず失敗します。と言うより、私はそ
の成功例を知りません。子どもは勉強嫌いになった上、忍耐力もどこかへ…、ということになっ
てしまうのがふつうです。
 子どもの場合、(おとなもそうですが)、忍耐力というのは、「いやなことをがまんしてする力」
のことをいいます。たとえば台所の生ゴミを始末するとか、赤ちゃんのよだれを拭くとか、など。
おむつを替えるのも、その一つです。忍耐力のある子どもは、人がいやがることを、がまんして
します。しかし忍耐力のない子どもは、自分がいやだと感ずることを、露骨に拒否し、それをし
ません。「手が汚れるからいやだ」とか、「臭いからいやだ」などと、言ったりします。
 そこで教訓。『教育の秘法は、生活尊重にある』です。エマーソンは、「自分の生活を大切に
することこそが、教育の要だ」と言っているのですが、私はこの教訓を裏から読み、「子どもに
生活を分担させることが、教育の要だ」と解釈しています。
 もっと言えば、子どもはどんどん使います。さらに具体的には、子どもには家事の手伝いをど
んどんさせます。決して子どもを王様にしてはいけません。家族の一員として、その緊張感の
中に引き込むようにします。「自分がそれをしなければ、家族が皆、困るのだ」という意識をも
たせるように、しむけます。
 まずいのは子どものかわいさに負け、子ども中心の世界を家の中につくってしまうことです。
献立も、休日の過ごし方も、生活のリズムまで、子どもに合わせてしまうことです。こういう環境
が日常化すると、子どもはやがて、ドラ息子化します。
 昔はというと、裕福な家庭の子どもがドラ息子になったものですが、今ではむしろ中産階級と
いわれる家庭に、このタイプの子どもが多いのが特徴です。生き方が享楽的で、わがまま。他
人が喜ぶのを好まず、自己中心的。そしてここでいう忍耐力がなくなります。万事にあきっぽく
なり、損得勘定に敏感になり、自分の利益にならないことは、何もしません。少しでも勉強させ
ようものなら、「疲れた!」を連発し、「勉強したら、○○を買ってくれるか」などと、要求したりし
ます。
 いやなことでもする…そんな力が勉強の原動力になります。そこでさらにこの考えを押し進め
て、子どもは、『使えば使うほどよい子』と考えます。子どもは使えば使うほど、生活力のあるた
くましい子どもになり、そして結果として、勉強のできる子どもになります。


意欲をともなわない勉強は、記憶されない

名言から学ぶ子育て

食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそ
こない、また記憶されない。(レオナルド=ダ=ビンチ)

1452ー1519、イタリア、ルネッサンス期の代表的画家。「万能の人」として、知られ
る。


 子どもの勉強の四悪に、無理、強制、条件、それに比較があります。子どもの能力を越えた
学習を強いることを、無理。時間や量を決め、子どもの意思を無視してさせるのを、強制とい
います。これら二つが、子どもの学習意欲を奪うことは言うまでもありませんが、問題は、条件
と比較です。
 ここで条件というのは、「○○したら、△△を買ってあげるからね」と、学習に何らかの条件を
つけることをいいます。「百点を取ったら、お小遣いを100円あげる」というのも、条件です。こ
うした条件が日常化すると、子どもはその条件なしでは、勉強しなくなります。あるいは年齢とと
もに、どんどんエスカレートし、やがて親の手に負えなくなります。「塾へ行ってやるから、テレビ
ゲームを買え」とか、「(安い学費の)公立高校へ入ったから、(その分で)、アメリカへホームテ
ィさせろ」とかいうことに、なりかねません。こんな例もあります。
 ある英語教室の先生が、単語を一番多く書いた子どもに、天体望遠鏡をあげると約束しまし
た。先生としては、生徒を励ますつもりでそうしたのですが、最初はともかくも、やがて次々と生
徒が脱落し、最後に残ったのは二人だけになってしまいました。大半の子どもたちは、「どうせ
やっても負ける」と、最初からあきらめてしまいました。その二人の子どもにとっては、よい刺激
になったかもしれませんが、問題はその後に起きました。その二人も、まったく単語を書こうと
しなくなってしまったというのです。「賞品がなければ、いやだ」と、です。
 時に親は子どもの勉強に条件をつけることがありますが、つけるとしても、最小限におさめま
す。物を与えるとしても、心のこもったものにし、子どもの物欲を刺激するようなものは、極力避
けます。「勉強はあくまでも、あなたのため。あなたが自分でするものだ」という姿勢を貫きま
す。
 最後に比較。「隣の○○ちゃんは、もうカタカナが書けるのに、あなたはまだひらがなも書け
ないのよ」とか、「お兄ちゃんはいい子だけれど、あなたはダメね」とか、など。こうした比較は
子どもから学習意欲を奪うと同時に、「自分は自分なんだ」という自我を、確実に奪います。わ
かりやすく言えば、他人の目の中で生きる子どもにしてしまいます。世間体やメンツ、見栄や体
裁ばかりを気にするようになる、など。
 ダビンチは、こうした人間の心理を見抜いていたのかもしれません。この名言を子育てにあ
てはめてみると、『まず子どもの意欲を育てよ。勉強はその次だ』ということになります。教育の
世界では、その意欲を育てることを、動機づけと呼んでいます。その動機づけなしでは、そも子
どもの勉強は成り立たないと言ってもよいでしょう。あるいは、害になるかもしれません。無気
力で、覇気のない子どもにしてしまう危険性すらあります。


教育がつけば、好奇心がます。

名言から学ぶ子育て

人は、教育がつけばつくほど、ますます好奇心が強くなる。
(ルソー)
The more people are educated, the more they are eager to know.

1712ー1778、フランスの文学者、啓蒙思想家。教育論『エミール』など。


 伸びる子どもの三条件は、・好奇心が旺盛であること、・生活力があること、・持続的な集中
力があることです。この三つを兼ねそなえている子どもは、たとえ今は、「5」の能力であって
も、やがて「6、7…」と伸びていきます。好奇心の旺盛な子どもは、常に新しいものに、挑戦的
な姿勢を見せます。趣味や遊びが、周期的にどんどん変化していきます。幼児の場合、趣味
や遊びがいつも同じというのは、あまり好ましい姿ではありません。もしそうであれば、お母さん
自身が新しい趣味や遊びを始め、子どもをその世界の中に引き込むようにします。特にマンネ
リ化した生活は、知能発達の大敵と考えます。子どもの周辺にはいつも、変化を用意します。
 次に持続的な集中力ですが、集中力のある子どもは、人をよせつけないほどの気迫を見せ
ます。お絵描きでも、ブロック遊びでも、夢中になってします。ただし反復性の強い作業をいつ
までも黙々とするというのは、子ども本来の姿ではありませんから、もしそうであれば、興味の
対象を子どもから静かにそらすようにします。またテレビゲームなど、強い興奮性をともなう遊
びも、幼児には好ましいものでありません。真夜中でも突然飛び起きてゲームをするというよう
であれば、当然、やめさせます。
 なおこの集中力の大敵は、睡眠不足です。年中児で、10時間15分、年長児で10時間とい
うのが、平均的な熟睡時間です。何らかの原因で、恒常的に睡眠時間が短くなると、子どもは
特有の睡眠不足症状を見せるようになります。日中生彩なくボーッとしている、など。集中力に
持続性がなくなるのが特徴で、ものごとにあきっぽくなります。この時期、昼寝ぐせのある子ど
もも同じような症状を見せますが、昼寝ぐせのある子どもはその時間にだけ、その症状を見せ
るという点で区別できます。いつまでも昼寝ぐせが取れないということであれば、その時間だ
け、ガムをかませるという方法でなおします。
 さてルソーの名言です。ルソーは、『教育がつけばつくほど、好奇心がます』と言っています。
それだけ子どもの世界が広がるからです。そしてその世界を広げてあげるのが、教育というこ
とになります。
 方法は簡単です。子どもにはあらゆる経験をさせます。そしてあらゆるところへ連れていきま
す。お金を使って、旅行をせよということではありません。郵便局で切手をはらせることだって、
子どもにはすばらしい経験になります。こうした日常的な努力が、子どもの世界を広め、続い
て、子どもの好奇心をかきたてます。
 ある著名な女流評論家のお母さんは、その評論家が小学生だったころ、ただの一度も同じ
お弁当を作らなかったといいます。つまりそういうお母さんの努力が、その評論家をすばらしい

性にしたと考えられます。


ビロードのクッションより

名言から学ぶ子育て

ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうが、よい。
(ソロー)
It is better to sit on a pumpkin in the field rather than be spoiled by the soft
velvet cushion in the palace.

1812ー1862、アメリカの随筆家、思想家。ロマン主義的思想家。『日記』など。


 子どもに、「後片づけしなさい」という言葉ほど、空しい言葉はありません。子どもにはその必
然性がないからです。子どもにしてみれば、何でも手の届くところにあるほうが、むしろ便利な
のです。
 世界中あちこちの家庭を見て回りましたが、日本人ほど後片づけにうるさい国はないのでは
ないかというのが、私の実感です。世界の親は日本の親より、もう少しおおらかです。日本の
住宅事情が悪いこともあるのかもしれません。あるいは日本人特有の感覚なのかもしれませ
ん。とにかく子育て相談会などをすると、決まってこの後片づけの問題が、話題になります。
 しかし再度子どもの立場で言うと、こうなります。子どもにとって大切な場所は、きれいに片づ
いている場所ではなく、気が休まる場所だということです。そのためには、ソローが言うように、
『ビロードのクッションより、カボチャの上』ということになります。そのカボチャは、次のようにし
て発見します。
 まず子どもが外から帰ってきた時、最初にどこに座るかを観察します。あるいは疲れて帰っ
てきた時、どこで体を休めるかを観察します。子どもにとっては、そこがカボチャの上ということ
になります。
 このカボチャは大切にします。いわば子どもの聖域のようなものです。親が不用意に足を踏
み入れたり、あるいはかき乱してはいけません。そして一度子どもがそのカボチャの上に座っ
たら、静かにそっとしておいてあげます。子どもはそのカボチャの上に座り、心をいやします。
どんな動物にも、最後の逃げ場というものがあります。もし親がこの逃げ場を踏みにじるような
ことがあると、子どもの情緒は確実に不安定になります。最悪の場合には、帰宅拒否、あるい
は家出ということになりかねません。
 そこで教訓。後片づけも大切ですが、一部子どもの聖域については、子どものしたいようにさ
せます。どんな形であれ、子どもは子どもなりのやり方で、自分の聖域をつくります。おもちゃ
が散乱していても、それが子どもにとって居心地のよいものであれば、しかたのないことです。
もし気になるようだったら、ある特定の場所だけは子どもの好きなようにさせます。そのほかの
ところでは、たとえば『おもちゃは一つ』を、守らせます。このしつけを最初に徹底しておけば、
子どもは次のおもちゃで遊びたいがため、前のおもちゃを片づけるようになります。
 後片づけができないからといって、人間がルーズになることはありません。むしろ幼いころよ
り手をかけすぎ、それこそ掃除のしかた一つ知らない子どもほど、後々、後片づけができなくな
ります。また後片づけというと大きな問題に思う人が多いですが、幼児教育の世界では、何で
もない問題の一つです。子どもにはカボチャのほうが、ずっと重要だということです。


孔子は、恭にして安し

名言から学ぶ子育て

子(孔子)は温にしてはげし。威ありて猛からず。恭にして安し。(論語)

BC552ー479、中国、春秋時代の思想家。儒教の祖。その言行は、『論語』に記され
ている。


 孔子は心温かかったが、きびしかった。威厳があったが、荒々しくなかった。礼儀正しかった
が、心安かった、と。
 理想の親はどんな親かとたずねられれば、この論語の一節に尽きるのではないでしょうか。
私はこの名言を親としてではなく、一教師として座右にかかげています。もちろん目標として、
です。が、いざ実行するとなると、簡単なことではありません。その時々の問題に埋没するあま
り、ついつい甘くなったり、荒々しくなったりします。それではいけないと思いつつ、いつもその
そのギリギリのところで、右往左往してしまいます。教えることの限界を感ずるのは、そんな時
です。いろいろなことがありました。
 幼稚園の門のところで、子どもたちの出入りを見ていた時のことです。一人の女の子が母親
の姿を見つけて、私の制止も聞かず、門から飛び出しました。と、その瞬間、一台の自動車が
キーッと急ブレーキをかけて止まりました。その女の子はあやうく自動車にひかれるところでし
た。そこで私は当たりかまわず、その女の子のおしりを思いっきり、ひっぱたいてやりました。 
が走りよってきた母親は、その私を見て激怒し、「どうしてそんなひどいことをするのですか!」
と。
 それに心安くといっても、限度があります。教師がツンツンとしていては、子どもは質問をする
ことすらできません。しかし気を許しすぎると、教室の秩序そのものが保てなくなります。要する
にバランスの問題で、どのあたりで妥協するかということになります。あるいはその両方を、時
と場所に応じて、いかに使い分けるかということになります。
 教育でむずかしい点は、ここです。教育がむずかしいというのではなく、いかに親として自分
をつくりあげていくかという点です。他人に対してなら、家の外だけで善人ぶればそれですみま
すが、子どもとなると、そうはいきません。子どもは家の中で、あなたという親を判断します。嘘
やごまかしはききません。あなたは子どもという、あなたの写し鏡を見ながら、生活しなければ
なりません。あなたの姿が醜ければ、当然子どももその影響を受けます。そんなわけで、子ど
もを育てるということは、結局は、いかに自分を育てるかという問題に、帰結します。子育てイコ
ール自分育て、です。もっと言えば、子育てというのは、自分育ての結果としてできる、いわば
副産物のようなものだということです。
 が現実は反対で、少し油断すると、親は自分育てを忘れ、子育てのみに埋没してしまいま
す。子どものことで、「何とかならないものか」と悩むことはあっても、自分のことで悩むことは、
まずありません。本当はそれではいけないのです。
 時には孔子の人間像を思い浮かべながら、自分自身を振り返ってみることも、大切なことか
もしれません。


馬に水を飲ますことは、できない。

名言から学ぶ子育て

馬を水場まで連れて行くことはできても、その馬に水を飲ますことはできない。(イギリ
ス)

A man may lead a horse to the water, but he cannnot make it drink.


 子どもを伸ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。そしてそれを好きにさせること。日本で
も『好きこそ、もののじょうずなれ』と言いますね。英語にも、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』と
いう格言があります。「好きだ」という前向きな姿勢が、子どもを伸ばす原動力となります。
 たとえば文字。この時期、自分の子どもの遅れが目立ったりすると、親はそのあせりから、子
どもに無理な学習を強いたりします。しかしこの無理が、子どもから学習意欲を奪い、かえって
子どもを文字嫌いにしてしまいます。幼稚園でも、「名前を書いてごらん」と言っただけで、体を
こわばらせたり、メソメソ泣きだしてしまう子どもは、十人に一人ぐらいいます。目をそむける子
どもも珍しくありません。文字に対して嫌悪感をもっているからです。ほかに鉄棒にはまったく
触れようとしない子ども、絵をまったく描こうとしない子どももいます。やはりどこかでマイナスの
イメージをもってしまったためです。
 こんな相談がありました。その幼稚園では毎月一度参観保育があるのですが、その子どもが
お母さんに、「来てほしくない」と言うというのです。そのため、「どうしたらよいか」と。
 そこであれこれ話を聞くと、どうやら原因はそのお母さん自身にあることがわかりました。お
母さんは参観日の後に、必ずといっていいほど、子どもの欠点を指摘し、そして子どもを叱って
いました。子どもが親の参観をいやがるようになって、当然です。月に一度だからいいようなも
のの、毎週参観…ということにでもなったら、子どもは幼稚園へ行くことそのものを、いやがる
ようになるかもしれません。
 ではどうするか。まず好きにさせます。文字についても、運動についても、まずそれが楽しい
ことを徹底的に印象づけます。参観日についても、その後には必ず子どもをほめ、その成長ぶ
りを喜んでみせます。できる・できないは、次の次。はっきり言って、この時期どうでもよいこと
です。たとえば文字について遅れが目立つならなおさら、お母さんは子どもをひざに抱き、温か
い息をふきかけながら、本を読んであげます。根気よくこの努力を続けます。まずいのは、い
つか子どもが自分で本を開いた時、そこにお母さんのカリカリとした神経質な顔を、思い浮か
ばせるようなことをしてしまうことです。子どもは、(嫌い)→(しない)→(嫌い)の悪循環の中
で、ますます自信をなくしていきます。
 子どもを「馬」にたとえるのも、失礼なことかもしれませんが、その馬を水場まで連れて行くこ
とはできますが、無理に水を飲ますことはできません。飲むか・飲まないか、それを決めるのは
子ども自身だということです。
 一見何でもない格言のように見えますが、幼児教育はすべからくこうであると言えるほど、こ
の格言には重要な意味が隠されています。


目の見える人は、その幸福がわからない

名言から学ぶ子育て

目の見える人間は、見えているという幸運を知らずにいる。(A.ジイド)
Those who can see do not know the happiness that he can see.

1869ー1951、フランスの小説家。個性の束縛と闘った、20世紀を代表する作家。ノ
ーベル文学賞を受賞。


 お母さんの子育て相談を聞いていると、際限がないのがわかります。子どもができないならで
きないなりに、お母さんは悩み、できるならできるなりに、お母さんは悩みます。子どもを伸ば
そうという気持ちは大切ですが、それが度を越すと、過剰期待となり、かえって子どもをマイナ
ス方向へ追いやってしまいます。
 こんなお母さんがいました。「子どもの教育で失敗しました」と言うのです。話を聞くと、足し算
は何とか理解できるようになったものの、引き算が理解できず、ほんの数問を解くのに、半時
間もかかってしまう、と。市販のワークを見せると、それを見ただけで拒絶反応を示し、ワーッと
泣きだしてしまうというのです。そして「どうしたらよいか」と。
 私にはこんな苦い経験があります。三人の子どもたちを、近くの湖へ連れていった時のことで
す。私と女房は浅瀬だとばかり思って船の上で寝ていたのですが、三男が突然、「お兄ちゃん
がいない!」と叫んだ時には、上の二人ははるか沖合まで流されてしまっていました。長男は
何とか助けたものの、まだ泳げない次男(年長児)は、すでに頭が半分、水の中に潜っていま
した。私は必死で船を出そうとしましたが、錨が遠くまで延びていて、それをたぐることもできま
せんでした。
 しかし奇跡が起きました。その近くで、元国体選手という人が魚を釣っていたのです。私が振
り返った時、ちょうどその人が次男を助け出してくれるところでした。以来、私は次男のできの
悪さを見せつけられながらも、「生きていてくれるだけでよい」と思いなおすようにしています。
 懸命な人は、何でもなくす前に、その価値に気づき、そうでない人は、なくしてからその価値
に気づくのかもしれません。青春しかり、健康しかり。そして子どものよさも、またしかり。ジイド
は、『目が見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる』と言います。同じように、子どもを
もっている親は、子どもをもつという幸福を、知らずにいるということになります。そういう観点で
見ると、この世の中に、子どもとともに生きているということだけでも、すばらしいことだとわかる
はずです。と、同時に、子育てのあらゆる問題が解決するはずです。
 子育ての悩みというのは、すべて、親の未来にわたる我欲が原因で起こります。「もう少し何
とかならないものか…」という思いが、あらゆる子育ての問題の基本にあります。だったらそう
思うのをやめればよいのです。そうすればすべての問題は、解決するはずです。そして自分の
子どもだけを見据えて、子育てをする…。
 これはいわば「居直りの論理」ですが、もっと言えば、生きている、そのことだけをすべての前
提に置いて、子育てを考えます。またそうすることによって、子どもも幸福に、そしてかつ伸び
やかに成長します。


三つほめて、二つ叱ってよき人となせ

名言から学ぶ子育て

かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ。(二宮尊徳)

1787ー1856、江戸時代後期の農政家。農村復興の指導者。通称、二宮金次郎の名
で知られる。

 子どもの価値観にまで干渉するお母さんがいます。その典型的な過干渉型ママの会話。本
屋さんで、子どもと絵本を選んでいた時のことです。お母さんは子どもが持ってくる本を、次々
と本棚へ戻しながら…。
「この本はよくないわ。あのあたりの本にしなさい。わかった!あそこから選ぶのよ。…そうじゃ
ないのよ。その本よ。ちがうわ、ちゃんと自分で選んでごらん。そうそう、その本よ、それよ。そ
れを選んでごらん」と。
 あるいは先生が子どもに、「夏休みはどこへ行ってきたのかな」と声をかけると、横に立って
いたお母さんが、「おばあちゃんの家へ行ってきたのよね。だったら、そう言ってごらん。黙って
いたらわからないでしょ。楽しかったわね。だったら楽しかったと言ってごらん」と。
 お母さんが過干渉になる背景には、子どもへの根強い不信感があります。さらにその原因は
何かというと、子育てに対する不安感です。(うちの子は何をしても心配だ)という不安感が、お
母さんを過干渉型ママにします。長男、長女に、過干渉児が多いのはそのためです。もしそう
であれば、お母さんはお母さん自身の心をつくり変えます。でないと、(不安)→(過干渉)→(不
安)の悪循環の中で、子どもはますます覇気のない子どもになってしまいます。ひどい場合に
は、子どもの性格そのものが萎縮することもあります。
 なおす方法は簡単です。子どもをまずほめること。最初は嘘でもかまいません。子どもが何
をしても、ほめるようにします。欠点を見つけたら、なおさらほめるようにします。たとえば鉄棒
が思うようにできないようであれば、「あなたはこの前よりじょうずにできるようになったわね」
と。こうした前向きな姿勢が、やがてお母さんの心をつくりかえ、結果として子どもを伸ばしま
す。
 子育ての要は、二宮尊徳が言うように、ほめ方と、叱り方にあります。そしてそのバランスは
と言えば、二宮尊徳が言うように、三つほめ、二つ叱るぐらいがよいのです。具体的には、『ほ
めて、叱って、ほめて仕上げる』です。特に幼児は叱りっぱなしにしてはいけません。叱ったら、
必ずその後で、「ほら、あなたはちゃんとできるじゃない。あなたはいい子だから」と、ほめて仕
上げます。叱りっぱなしにすれば、子どもは自信をなくし、自らを悪い方向へ追いやってしまい
ます。さらに、「あなたはやっぱりダメな子ね」式の、人格攻撃は、タブー中のタブーです。
 ただしほめるといっても、子どもの努力や、やさしさにとどめます。頭のよさについては、ほめ
てよい場合とそうでない場合がありますから、慎重にします。子どもの顔やスタイルについて
は、ほめないこと。後々、そちらばかりに関心が移ってしまうということに、なりかねません。


父母は習慣の教師なり

名言から学ぶ子育て

一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり。(福沢諭吉)

1835ー1901、明治の啓蒙思想家。慶応大学の創始者。『学問のすすめ』の著者。


 私は山歩きが好きで、よく女房と二人ででかけます。そこで見た光景。一人の母親が数人の
子どもと歩きながら、たぶん昼食の時にできたゴミだと思うのですが、そのゴミの入った袋を、
道端の草むらの中に押し込むようにして、捨てていました。
 最近ではこういう人は少なくなりましたが、しかしまだなくなったわけではありません。それだ
けによけいにショックで、私は思わず呼び止めて注意したい衝動にかられました。
 かわいそうなのは、その子どもたちです。そういう母親の様子を見ながら、子どもはそういう
行為をあたり前の行為として、身につけてしまいます。いつか子ども自身も平気でゴミを捨てる
ようになるかもしれません。かく言う私にも、こんな経験があります。
 オ−ストラリアで生活していた時のことです。女友だちと、ある程度までは親しくなれるのです
が、ある一定のところまでくると、互いの不協和音がギシギシと音をたて始めるのです。しばら
くすると、理由がわかりました。何だかんだと言っても、私の体の中には、日本古来の男尊女
卑の感覚が身についてしまっていたのです。少し親しくなると、「おい、お茶!」式の命令を、女
友だちにしてしまっていました。オーストラリアでは、たとえ夫でも、そういう言い方はしません。
食後の後でも、食器洗いはむしろ夫の仕事になっています。生活習慣が、天と地ほど、互いに
違っていました。福沢諭吉は、『父母は習慣の教師なり』と言っていますが、多分彼も外国で私
と同じような経験をしたのではないかと思います。
 そこで教訓。よく母親懇談会の席などで、子どものしつけが話題になりますが、こと子どもの
しつけに関しては、その責任はまず第一に、お父さん、お母さんにあります。人から安易にもの
を借りない。借りたものは返す。人の世話になったら、必ず礼をする、など。あるいは人の悪口
は言わない。グチを言わない。人をねたまない、など。価値観や人生観、さらには死生観も、そ
れに含まれます。こうした生活の基本的なものの考え方については、子どもは親から学びま
す。
 しつけと言っても、国や時代が変われば変わるというようなものは、しつけとは言いません。
たとえば箸の持ち方だとか、靴の脱ぎ方など。じょうずにできれば、それに越したことはありま
せんが、少なくとも、『これがしつけだ』と、大上段に構えなければならないことではありません。
またそれができないからといって、しつけが悪いということにはなりません。
 さらにこの時期一度身についたしつけなり、習慣は、以後その子どもを一生支配すると言っ
ても、過言ではありません。よいしつけや習慣なら、それで問題はありませんが、悪いしつけや
習慣だと、そのために子どもが一生の間、悩んだり苦しんだりすることになります。

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