はやし浩司

私の学校論
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私の学校論
はやし浩司

(第1部)……ダイジェスト版

(第2部)……本編

************************ダイジェスト版************************

このダイジェスト版は、
2001年2月5日、12日に、
「教材新聞」紙上で、発表したものです。

世界の常識の通ずる学校

●国が違えば、考え方も違う……

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだ
が、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。職場のパーティでも、
そうだ。向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いをした
り、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由に
なる。浜ちゃんやスーさんのように、男同士ででかければ、同性愛者とまちがえられても
文句は言えない。もちろん単身赴任などというのは、論外。私がメルボルン大学で研究
生だったころ、日本の単身赴任が、話題になったことがある。当時は「短期出張」と言っ
た。商社でも六か月以内の出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で出張が終ることは
なかった。たいてい「出張のハシゴ」で一度外国へ出ると、数年は帰ってこられなかっ
た。私が「日本ではふつうのことだ」と説明すると、皆が一斉にこう言った。「家族がバラ
バラにされて何が仕事か!」と。
 困るのは『忠臣蔵』。ボスが殺傷事件を起こして、死刑になった。そこまでは彼らにも理
解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボ
ス(吉良上野介)に復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしに
した、自分たちのボス(浅野内匠頭)にこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィ
アの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではない
のだから、復讐するというのもおかしい」と。「抗議をするなら、相手のボスではなく、極刑
にした政府(幕府)に対してすべきだ」とも。
 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たち
が、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する
一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。江戸時代という時代は、世界の歴
史の中でも類をみないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代であった。もしオーストラリアあた
りで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあ
う。オーストラリアでは、たった一人で総督府の警官と戦った、マッド・モーガンのような人
物が英雄になっている。イギリスでは、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウオレス(映画「ブレ
イブ・ハート」のモデル)のような人物が英雄になっている。

●日本の教育、世界の標準?

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本で
は学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主
義。欧米の教育は能力主義。日本は権威主義。欧米は挑戦主義。日本では、子どもを
学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)
では、「先生によく質問するのですよ」と言う。日本では、静かで従順な生徒がよい生徒と
いうことになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということにな
っている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エ
デュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている。まだある。
日本では「立派な社会人になれ」とか、「社会で役立つ人になれ」という。一方欧米では、
「よき家庭人になれ」とか、「よき市民になれ」という。私はこれを勝手に「家族主義」と呼
んでいるが、もちろん彼らにそういう主義があるわけではない。それが彼らにしてみれ
ば、常識なのだ。……などなど。同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧
米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校
が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげ
ている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と
質問すると、こう教えてくれた。
 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマー・スクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキ
ュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるよう
に。木工が好きな子どもは木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。
ジーロン・グラマー・スクールには、入学試験はない。親は出生届と同時に、学校へ入学
願書を出すならわしになっている。つまり早い者勝ち。
 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 


人間にやさしい学校

●落第を喜ぶアメリカの親たち

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに
喜んで従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、
「うちの子は、まだ進級する準備ができていない。落第させてくれ」と頼みに行くケースも
多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。そういうとき親は、「そのほうが、子どもの
ためになる」と判断する。が、この日本では、そうはいかない。先日もある親から、こんな
相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の先生から、なかよし学級(養護
学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」と。
 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話
が、側面から支えてきた。今も、支えている。日本人の「お上」への隷属性は、世界に名
だたるもの。戦国時代の昔から、徹底的に叩き込まれている。その上、集団性も強い。
「長いものには巻かれろ」式の考え方が根強く残っている。「皆で渡れば怖くない」とも言
う。いや、封建時代においては、組織や家に属さないものは、「無宿」と呼ばれ、社会か
ら排斥された。そういう意識も残っている。だから親は「子どもがコースからはずれるこ
と」イコール、「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何もので
もない。軽い不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。その相談してきた人も、電話
口の向こうでオイオイと泣いていた。

●最高というのは、幻想

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(九
九年春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。その小学校
では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を見なが
ら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(一年生となって)入学してくるからです」と。
 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているから、「落第させましょう」と
言われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住
んでいるアメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年
間、勤めていた。
 私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリ
カではどうか?」友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」私「アメリカでは、
そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」友「歓迎される」私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」私「知的な障害のある子どもはどうか」友「別のクラスが用意さ
れる」私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」友「どうして、いやがらなけれ
ばならないのか?」と。
そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリ
アフリー(段差なし)になっている。障害のある子どもをまったく差別しない。
 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こう
いう事実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなに
遅れているのか?」と。
 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。
それ以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここ
で言える。日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。制度も
遅れているが、意識も遅れている。その上、内容もお粗末。東大の教授(化学)が、こん
な話をしてくれた。「化学の分野には一〇〇〇近い分析方法が確立されているが、基本
的に日本人が考えたものは一つもない」と。最近、ノーベル賞が話題になっているが、そ
のノーベル賞についても、日本人の受賞者は数えるほどもいない。が、アメリカには二五
〇人以上もいる。ヨーロッパ全体ではもっと多い。二年前TOEFLの国際英語検定試験
が問題になったが、ここに書くのもなさけない。何でも一六五か国中一五〇位。アジアで
日本より低い国はモンゴルだけ。あの北朝鮮とブービーを争うレベルだそうだ(「週刊新
潮」一九九八年)。
日本の教育は、基本的な部分で、どこか狂っている。それだけのことだが、あえてここで
「こんな学校がほしい」ということを言うなら、もう少し、国際的な常識の通ずる学校という
ことか。ちょうど三〇年前、ジョン・レノンは、こう言った。「こんなところで子どもを育てた
くない」と。「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの、いろいろ
な思いがあってそう言ったのだろうが、この言葉のもつ意味は重い。


***********************本編***********************

子育て随筆byはやし浩司

子どもの学力が心配!
不公平社会の是正こそ、先決!

 完全学校五日制や新学習指導要領など、二〇〇二年春から実施された教育改革について、学力低下を心配する親が、七五%もいることがわかった(日本PTA全国協議会調査)。
 調査は、公立小中学校に子どもを通わせる父母、六〇〇〇人に聞いたもので、約四八〇〇人が回答を寄せた。それによると、つぎのような結果が出た。

  学校完全五日制について、始まったばかりで何とも言えない……41%
              とまどっている        ……22%
              安心して働けない、非常に困る …… 7%
              とてもよい          ……15%

  新学習指導要領について、学力低下がかなり心配     ……26%
              学力低下が多少心配      ……49%

 この調査でもわかるように、親たちは子どもの学力低下を心配していることがわかる。合計すると、七三%もの親たちが、心配していることになる。しかしこれはまったくのウソ! ウソであることは、実は、あなた自身が一番よく知っている。親たちは子どもの学力の低下を心配しているのではない。自分の子どもが、日本の受験体制の中で不利になることを心配しているのだ!

 公立小学校や中学校だけで、学習要領が削減された。その結果、単純に計算しても、小学校で約二年分の指導内容が削減された。(6年分x0・3=1・8年分で計算。)たとえばそれまでは小学六年の一学期では、分数の掛け算、割り算を学習していたのだが、〇二年度からは、分数の足し算、引き算になってしまった。
 一方、多くの私立小学校や中学校(とくに中学校)では、従来どおり教えるところが多い。不利か不利でないかということになれば、公立中学校の子どもは、決定的に不利である。親たちが子どもの学力を心配する理由は、すべてここにある。

 となると、まず解決すべき問題がある。言うまでもなく、不公平社会の是正である。この日本、不公平が、蔓延(まんえん)している。人生の入り口で、ほんの少し受験勉強を勝ち抜いたというだけで、生涯、楽な生活をしている人はいくらでもいる。権利や権限、地位や特権に守られて、それこそ死ぬまで、楽をしている。そういう社会を一方で放置しておいて、何がゆとりだ! 何が個性だ! 何が教育改革だ! 事実、私のように、保障のない人間は、本当に、損! 退職金もなければ、天下り先もない。年金もアテにならない。すべてがナイナイづくし。今日、病気になったり、交通事故にあったりすれば、それで万事休す。もっとも私のような立場のものが、子どもの学力の低下を心配するのならまだわかる。しかし実際には、不公平の恩恵をたっぷりと受けている人ほど、学力の低下を心配している。皮肉といえば、これほど、皮肉なことはない。

 考えてみれば、文部科学省という、もっとも官僚的な官僚組織が、つまりその不公平社会の不公平から生まれる恩恵をたっぷりと受けている組織が、「教育改革」を口にすること自体、おかしい。あの旧文部省だけで、天下り先として機能する外郭団体が、一八〇〇団体近くもある。この数は全省庁の中でも、ダントツに多い。文部官僚たちは、死ぬまでこうした組織を渡り歩き、移動するたびに億単位の退職金を手にしている。一般の人が想像もつかないような優雅な生活を、こっそりと楽しんでいる。そして、だ。課長程度が発する一片の通達で、全国の小中学校が、いっせいに動く! 私のような民が、何十人、何百人集まって意見を言っても、そういう意見は、絶対に通らない。そういうしくみが、できあがってしまっている。日本人も、このおかしさに、もうそろそろ気がつくべきときにきているのではないのか。
 
さらに一言、つけ加えるなら、こうしたおかしさを知ると、ほとんどの日本人は、「あわよくば自分も」とか、「せめて自分の息子や娘も」と考える。不公平を知ると、その不公平を正す前に、その不公平を利用しようと考える。「お上にはさからわない」という、隷属意識も、骨のズイまでしみこんでいる。中には、「自分さえよければ……」と考える人も多い。
たとえば補助金という制度がある。たいていはそれなりに必要な補助金だが、しかし中には、おかしいものも多い。「どうしてこんなお金がもらえるのだろう」と思うのもある。そういうとき、ほとんどの人は、「おかしい」と思いつつ、それを返すということは、しない。たとえば町内の自治会費。毎年、市からいくらかの援助金が交付される。たいした金額ではないが、その自治会費があまりそうになると、みな、「使わなければ損」と言って使う。予算を使い切ってしまわないと、次年度の補助金が削減される。つまり「おかしい」と思いつつ、結局は、自分の利益を優先させてしまう。「もらえるものは、もらっておけ」と。こうした意識は、日本人は上から下まで、みなもっている。そしてそういった意識が回りまわって、不公平社会の温床になっている。
 つまり、不公平社会を支えているのは、ほかならぬ、私たち自身ということになる。もっと言えば、子どもの受験体制を支えているには、ほかならぬ、私たち自身ということになる。さらに言えば、民主主義のあり方を、根本から考えなおさないかぎり、新の教育改革はありえないということになる。

むずかしい話はさておき、みなさんも一度、冷静に心の中をのぞいてみてほしい。みなさんは、なぜ、子どもの学力の低下を心配するか、と。
(02−8−22)



子育て随筆byはやし浩司

萎縮する教師たち

 つい先ごろ、「わいろ」をテーマにした授業をして、新聞沙汰(ざた)になった事件があった(〇二年八月・北海道のA小学校)。カードゲームのようなもので、役人をわいろで買収して、無事、関門を通過するというゲームであったらしい。
 しかしここで問題となるのは、そのゲームのことではなく、たかがそれだけのことが、全国ニュースになるという、その異常性である。仮に問題があるとしても、一教室で、一教師が起こした、ささいな事件に過ぎない。全国のマスコミが騒がなければならないような問題ではない。まさに、「たかがそんなこと」で、ある。
 教師だって、たまには、ハメをはずすことがある。あって当然。私などは、ハメをはずすことで、子どもの心に風穴をあける。それをひとつの技術にしている。たとえば私のばあい、「笑えば伸びる」が、私の教育モットーでもある。私とワイフは、このニュースを新聞で読みながら、「こんなことで!」と驚くと同時に、「もしそれが悪いなら、ぼくなどは、年がら年中、新聞沙汰になる」と笑った。たとえば……。

 私は教室で子どもどうしが喧嘩(けんか)をしたようなときは、両方の子どもの頬(ほお)に、キスをする。これは男児のみに対する罰則だが、そうする。ほとんど毎回親たちが参観しているので、親たちの前で堂々とそれをする。が、いまだかって、それに抗議してきた親は、一人もいない。要はやり方の問題ということになるが、それ以上に大切なのは、私と親の信頼関係である。先日も、ワーワーと騒いでいた小学生(四年男児)がいたので、「静かにしないと、チューするぞ」と、おどした。するとその小学生は、机の間を走り回りながら、「できるもんなら、やってみろ!」と私にけしかけた。私は何度も警告したが、それでも騒いだ。そこで最後に、その子どもをつかまえて、思いっきり、ブチューと、頬にキスをしてやった。
 その子どもは、「本当にやるなんて……、やるとは思っていなかった……、どうしてチューしたよ!」とベソをかいていたが、私は「これで、わかったか!」と言って、その場を離れた。

 こういう事件で、なぜ私の行為が問題にならないかといえば、理由は二つある。ひとつは、私は公的な立場にはいないということ。もうひとつは、それを問題にする親がいないということ。
 公的な立場ということは、いわば、それ以外に抜け道のない、絶壁(ぜっぺき)のような立場をいう。いわゆるミスの許されない世界と言ってもよい。たとえばおけいこ塾であれば、生徒はいつでも自由にやめられる。やめたところで、どうということはない。教える側にしても、教師はいつでも自由に生徒にやめてもらうことができる。生徒をやめさせたところで、これまたどうということはない。しかし学校の先生は違う。生徒はやめることもできないし、先生はやめさせることもできない。いわば絶壁の上に立つような立場ということになる。そう、先生がバツで与えるキスが気に入らなければ、親はそのおけいこ塾をやめればよい。
 もうひとつは、「それを問題とする親がいない」ということ。正直に告白するが、神経質な親というのは、実際にはいる。教師のささいな失敗やミスをとらえては、ことさらそれをおおげさに問題にする。このタイプの親にからまれると、教師歴二〇年という教師ですら、心底、神経をすりへらす。さらに脳の病気にアルツハイマー病というのがある。このアルツハイマー病には、初期の、そのまた初期症状というのがある。繊細さが消える(ズケズケとものを言う)、がんこになる(自説をまげない)、自己中心的になる(人の話を聞かない)など。四〇歳くらいの人で、約五%の人にその傾向が見られるという。で、このタイプの親にからまれると、教育そのものが成り立たなくなることも珍しくない。こんなことがあった。

 私が幼稚園で特別教室をもっていたときのこと。月四回という約束で、幼児を教えていた。が、そのクラスだけは、五月の連休もあって、月三回になってしまった。それについて、私に、「サギだ。補講をしろ。しなければ、訴える」とからんできた父親がいた。
 あるいはたまたまその日、その子どもの父親が参観にきていた。そこで私の授業を手伝ってもらった。それについて、その夜母親から、「よくもうちの主人に恥をかかせたわね」と、電話がかかってきた。ふつうの電話ではない。一週間にわたって、毎晩、しかもネチネチと、そのつど一時間程度もつづいた!
 さらにある日、突然、一人の女性(四五歳くらい)が、私の事務所にやってきて、「戦争をどう思うか」「先祖をどう思うか」「中国の意見をどう思うか」と、ああでもない、こうでもないと議論をふっかけてきた。で、そのつど私が意見を述べていると、「あんたのような人が、あちこちで講演しているなんて、おかしい」「日本の歴史を否定するような親からは、いい子どもは生まれない」と。(私は何も、日本の歴史を否定しているわけではない。また私には三人の息子がいるが、どの息子も、自慢の息子である。念のため!)

 もちろん授業中に、先生がワイロの話をするのは、まずい。それはわかる。しかしそれは決して全国のニュースになるような大事件ではない。また大事件にしてはならない。
 今、どこの学校で講演をさせてもらっても、校長先生以下、どの先生も、異口同音にこう言う。「先生たちが萎縮してしまって、授業ができなくなっています」と。少し子どもを叩いただけで、親たちは、「そら、体罰だ!」と騒ぐ。少し授業中にふざけただけで、親たちは、「そら、不適格教師だ!」と騒ぐ。もともと信頼関係がないからそういうことになるが、一方で、親たちの過剰反応も、問題とされなくてはならない。

 まさに現代は、教師受難の時代といってもよい。教育そのものが、たいへんやりにくい時代になった。その原因のひとつは、親にもあるということ。それがわかってほしかった。
(02−8−22)


(近日、掲載)