はやし浩司

子育て雑談
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子育て雑談

はやし浩司

未発表の雑談を集めてみました。

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4年前(01年8月)に書いた原稿を、
改めて読みなおしています。

そのままそれを紹介しながら、(補記)の部分で、あれこ
れ訂正、修正を加えてみたいと思います。

こうして読みなおしてみると、たった4年前の私ですが、
どこか過激で、どこか反骨的なのがわかります。

とくに進学塾に対する意見は、強烈です。なぜこのよう
な原稿を書いたかについては、いろいろな背景がありま
すが、「これも私」と思い、ここにコメントをつけて、
再掲載することにしました。

               はやし浩司

         2005年12月10日(土)

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●敬語と日本の文化論(フレキシブルな日本語?)

子どもに向かって、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言う人がいる。妻に向かっては、
「食わせてやる」とか「養ってやる」とか言う人がいる。Y氏(52歳)がそうだ。息子(27歳)と
娘(22歳)がいるが、子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言ってい
る。
さぞかし窮屈な家庭だろうと思いきや、Y氏の妻は妻で、「夫のおかげで生活できます」と言
っている。そのY氏の妻が私の家にやってきて、こう言った。「ウチのダンナなんか、冷蔵庫か
ら牛乳を出して飲んでも、それを冷蔵庫に戻すことすらしない。だから夏なんか、あっという間
に牛乳が腐ってしまう」と。
話を聞くと、Y氏は結婚して以来このかた、トイレ掃除はおろか、トイレットパーパーの差し替え
すらしたことがないという。家庭というのは、そういうものらしい。それでうまくいっているなら、
「あなたはまちがっている」などと言う必要はない。言ってはならない。

が、こういう人に限って、私に猛烈に反発してくる。「君は日本のよさまで否定するのか!」。Y
氏はこう言う。「日本では上の人を敬う。英語には敬語すらない。外国では、親でも先生でも、
『ヘイ、ユー』と言うではないか。そういう国が、本当に理想の国なのか」と。

 こういう人に出会うと、気が遠くなるほど、間に距離を感ずる。順に反論してみよう。人間の上
下意識を支えるのが、権威。「偉い人は偉い」という権威である。理由など、ない。日本人は、
平安の昔からこの権威を徹底的に叩き込まれている。「男は上、女は下」「親は上、子は下」と
いう、日本独特の男尊女卑思想や親意識もここから生まれた。こうした文化は、日本独特のも
のであることは認めるが、それが「日本のよさ」になるかどうかは別問題である。少なくとも、日
本を一歩外へ出た外国では、通用しない。

 次に敬語の問題。英語に敬語がないというのは、ウソ。「ユア・マジェスティ」とか「ハイ・エクセ
レンシー」とかいう言い方はある。「サー」という単語にしてもそうだ。日本語よりはるかに少な
いというだけだが、そのかわり、彼らはそれなりの人に対しては、ていねいな言い方をする。
仲間どうしだったら、「ハイ」かもしれないが、それなりの人には、たとえば「このようにお会いで
きる特権を、私の喜びとします」などいうような言い方をする。むしろ日本語に敬語が多いの
は、平安の昔から、きびしい身分制度をとってきたことによる。敬語があることを、必ずしも喜
んでばかりはおられない。

また敬語というのは、人間関係を飾る道具として使われる。あくまでも飾り。だから敬語を使う
から相手を尊敬しているということにもならない。使わないから尊敬していないということにもな
らない。私などいつも生徒に、「ジジイ」とか、「バカはやし」とか呼ばれている。しかしそのほう
が互いに心を開いているから、ストレートな人間関係を築くことができる。気も疲れない。

 最後に何も、アメリカや欧米が理想の国だとは思っていない。日本は日本だ。しかしここで大
切なことは、世界に理解される日本であるか否かということ。もし日本が今までのように、東洋
の島国でよいというのなら、それはそれで構わない。しかしそれでよくないというのなら、日本の
常識を外国へ押しつけるか、あるいは日本は世界の常識を受け入れるしかない。あるいは英
語の敬語を発明して、それをアメリカ人に押しつけるというのもよい考えだ。しかしそれができ
ないというのなら、日本を少しでも外国の常識に近づけるしかない。

私はそう考えるが、あなたは私の意見をどう思うか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)
日本語は、よい意味では、よりフレキシブル(=柔軟性のある)な言語ということになる。いろい
ろな言い方ができる。その点、反対に中国語などは、ガチガチしている。そんな印象を受ける。
たとえば「私はあなたを愛する」は、中国語では、「ウォー・アイ・ニー」となる。が、それだけ。

 しかし日本語のほうでは、「私ね、愛しているわ」「私は、愛しているよ」「ぼく、愛しているか
も」「ぼくさア、愛しているね」などと、いろいろな形で、微妙な表現ができる。

 敬語についても、そうで、これまたさまざまな言い方ができる。しかしそのさまざまな言い方が
できるという部分で、日本語は、より複雑になってしまった。そしてそれが、時をおいて、学者た
ちの間で、話題になったり、問題になったりするのでは?

 ところで、この文の中で、「君は日本のよさまで否定するのか!」と私は書いた。それを言っ
てきたのは、実は、女性である。当時は、まだ生々しい話だったので、「男性」とかえた。その
女性の年齢は、35歳くらいではなかったか。で、そのあと、その女性から、手紙まで届いた。し
かし内容は、支離滅裂。まるで文章になっていなかった。だから「返事を書くまでもない」と思
い、電話で返事をすることにした。

 しかし電話口に出た男性(その女性の夫)は、電話口で、ただ「すみません」「すみません」と
言うだけで、その女性には、電話をとりついでくれなかった。どういう事情になっていたのか、今
でもよくわからないが、多分、その男性(夫)も、その女性(妻)に手を焼いていたのかもしれな
い。
(はやし浩司 敬語 日本語 日本語の問題 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●壮絶な家庭内暴力(余計なことは、言うな)

 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は7、8年ぶりにそのT
君(中2)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。いわ
く、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通るとき
は、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶な家庭
内暴力を、頭の中に思い浮かべた。

 T君はものわかりのよい「いい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私はT君の心に、
いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。

 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、「自分の思っていること
や考えていることを、ストレートに表現できる子ども」をいう。従順で、ものわかりのよい子ども
を、すなおな子どもとは決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるストレスを内
へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさにそんなタイプの子どもだっ
た。

 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、「引きこもり」であ
る。家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症
状が現われてくる。しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒っ
たり、暴れたりする。少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。こ
のタイプの子どもも、やはり外の世界では、信じられないほど「いい子(?)」を演ずる。

 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、お母さんに告げようとし
たときのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の中にあった自分
の教室で授業をしていると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へ来て、
学習していた。T君の担任が、よく連れ戻しに来た。そこである日、私はT君のお母さんに電話
をした。「私の教室へよこしませんか」と。それに答えてT君のお母さんは猛烈に激怒して、「勝
手に誘わないでほしい。うちにはうちの教育方針というものがあるから」と。しかしT君はそれか
らしばらくして、私の教室へ来るようになった。家でT君が、「行きたい」と、せがんだからだと思
う。私は以後、一年半の間、T君を教えた。

 しかしその「ゆがみ」を告げようとしたとき、お母さんはこう言った。「あんたは、黙ってうちの
息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。

 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という戸惑
いがある。「このまま何とかやり過ごそう」という、事なかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、はじめて気づく。教育
にはどうしても、そんな面がつきまとう。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 このT君は、今でも強く印象に残っている。その後、どうなったかについては、知らない。私は
そのT君をとおして、自分の「すなおな子ども論」を、頭の中で完成させた。

 従順で、先生の指示にそのまま従う子どもを、すなおな子どもというのではない。心の状態
と、表情が一致している子どもを、すなおな子どもという、と。いやだったら、はっきりと、「いや
だ」と言う。それを表情や言葉にして、ストレートに表現できる。そういう子どもを、すなおな子ど
もという。
(はやし浩司 家庭内暴力 すなおな子ども 素直な子供 すなおな子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●21世紀の子育て論(悪しき画一平等主義)

 頭のいい子どもは、本当に頭がいい。遺伝子が違うかと思うほど、頭がいい。数年前東京の
A中学へ入ったD君も、また昨年同じ中学へ入ったN君も、そうだった。彼らは小学5年のとき
には、すでに中学3年程度の英語と数学をマスターしてしまっていた。と言っても、特別のこと
を教えたわけではない。教科書とノートだけを与えておけば、自分で学習していまう。教える側
からすれば、これほど楽な生徒はいない。ポイントだけを、それこそ雑談混じりに教えれば、そ
れですんでしまう。

 一方、そうでない子どももいる。教えても教えても、ちょうどザルから水がこぼれるように、教
えたことが消えてしまう子どもだ。S君もそんなタイプの子ども(中2)だった。たとえば英語の
単語でも、一時間かけて数個覚えるのが、限度。しかも次の週にはそっくり忘れてしまってい
た。

 誤解がないように申し添えるが、私は午前中は幼稚園の教師を勤め、午後は中高校生の塾
を開いていた。幼稚園の給料だけでは生活できなかったので、当時の園長と話し合ってそうい
うふうにさせてもらった。だから一日の流れの中で、私は幼児から高校3年生まで、見ることが
できた。結果的にそれがよかった。私は幼児を教えながら、いつも「この子どもはこうなるだろ
う」という予測をしながら教えるようになったし、またそれができるようになった。反対に中高校
生を見ながら、「この子がこうなったのは、幼児期のどのあたりに問題があるのか」を考えなが
ら教えるようになったし、それがわかるようになった。

 結論から先に言えば、人間の能力は平等ではない。平等であるという前提で教えるから、話
がおかしくなる。これも誤解があるといけないので申し添えるが、ただし優劣があるというので
はない。先に書いたD君やA君は、たまたま勉強という分野にすぐれた能力を発揮したが、そ
れがすべてではないということだ。D君は運動がまったくダメだったし、N君も、絵がまったく描
けなかった。一方勉強ができなかったS君は、学校をサボって、近くの公園でゴルフばかりして
いた。もし運動や絵画が主要科目ということになれば、D君やN君は、確実に落ちこぼれという
ことになっていたであろう。そのS君にしても、高校を中退したあと、プロゴルファーの道を歩ん
だが、25歳そこそこの若さで、100万円以上の月収を手にしていた(85年当時)。

 こうした子どもたちを見ていると、問題はもっと別のところにあるように思う。D君にしても、N
君にしても、いつも「学校の勉強はつまらない」と言っていた。S君もそうだ。そしてD君もN君
も、そしてS君も、結局は学校とは離れた世界で、自分を伸ばすしかなかった。しかしこれはた
いへんなエネルギーを要することだ。「能力は平等だ」を歌い文句にしている現在の教育が、
一方でこういう子どもたちを生み出している!

 繰り返す。子どもの能力は平等ではない。だからそういう前提で、今の学校教育を再編する
必要があると思う。またしなければならない。もうあの画一平等主義は、21世紀の日本の実
情に合っていない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたことは、すべて実話である。こうした子育てエッセーを書くとき、気をつけなけれ
ばならないのは、登場する親や、子どもたちが、だれであるか、それを絶対にわからなくするこ
と。その周辺の人が読んでも、わからなくすること。

 が、ここに書いた、D君にしても、N君にしても、彼らの名前の頭文字を、そのままとった。S
君については、本名は、M君である。この「悪しき画一教育」については、そのあとも、何度もテ
ーマとして、エッセーを書いた。

 で、それから4年。今、学校教育は、急速に変わりつつある。恐ろしいほどの変化と言っても
よい。先生たちの意識も、それに合わせて変わりつつある。いわゆる学校教育そのものが、従
来の「画一型」から、多様性をもった、「個性尊重型」に変わりつつある。

 と言っても、日本の教育が変わりつつあると考えるのは、正しくない。日本の教育は、戦後、
あまりにも(世界の常識)に背を向けすぎていた。それがここにきて、急速に欧米化し始めたと
考えるのが正しい。つまり、世界の標準に近づきつつあるということ。またそういう視点で日本
の教育をながめないと、日本の教育のこの変化を、正しく理解できない。
(はやし浩司 画一教育 教育の欧米化 個性尊重 子どもの能力 日本の教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育界を吹きすさぶ、むなしい風(目標をなくした教育)

 できない子どもがふつうになっても、親は「効果があった」とは言わない。ふつうになればなっ
たで、親は「もっと……」と言う。できないままであれば、親は、「効果がなかった」とか、「あの先
生はダメな先生」とか言ったりする。できる子どもについても同じ。少しでも成績がさがったりす
ると、親は大騒ぎする。考えてみれば、こんなむなしい仕事はない。こうした現象は、算数の世
界でよく見られる。

 計算力というのは、訓練で伸びる。幼稚園児でも掛け算の九九を暗記したり、あるいは小学
一年生でも、計算を即座にしたりする子どもがいる。そういう子どもの親は、「うちの子どもは、
算数の力(=考える力)がある」と思う。しかし計算力と、算数の力は別。基本的な力がないと、
やがてメッキがはがれるように、算数の力は低下する。こういうとき教師は一番、苦労する。親
のきびしい視線を、子どもを通して痛いほど、感ずるからだ。

 教育、教育と言いながら、親の意識の中にも、「育てる」という意識がない。教育とは、勉強を
教えること。子どもの側では勉強をすること。そしてその目的はと言えば、「よい学校に入り、よ
い大学を出て、よい会社に入社するため」と考える。だからどうしてもそこに成績至上主義がは
びこる。成績がよければ善。成績が悪ければ悪、と。こうしたものの見方は明治時代以来、日
本の伝統的な教育観として定着している。あの夏目漱石の「坊ちゃん」の中にも、職員会議の
席で一人の教師が、「我が校の実績も着実にあがってきております」と発言するシーンがある。
この場合、「実績」とは、大学への進学率をいう。

 私は一度、ある塾連盟の機関紙にこんな記事を書いたことがある。「何だかんだと言ったとこ
ろで、日本の教育の柱は人間選別ではないか。もしこの教育界から受験をはずしたら、塾な
ど、あっと言う間につぶれてしまうでしょ。学校教育だってあぶない。もし塾が本当の教育とや
らをしたいのなら、受験科目とは関係ない科目で、生徒を集めてみればいい」と。ふつうならあ
ちこちから反論が殺到するが、このときばかりは何も反応がなかった。塾教育そのものを、ま
っこうから否定したからだ。

 話をもとに戻すが、今のような教育体制を続ける限り、この教育界から、この「むなしさ」は消
えない。そしてこのむなしさがある以上、教師にやる気など、出てこない。だからいくら外部の
人間が教育改革を叫んでも、絵に描いた餅で終わってしまう。考えてみれば昔はよかった。教
育がわかりやすかった。進学率を高めることが、教育の目標だった。しかし今は、その目標が
ない。現場の教師たちが、何に向かって努力したらよいのか、それがわからなくなってしまっ
た。

へたに創意工夫をすれば、隣のクラスの父母から文句を言われる。「どうしてうちのクラス
では、してもらえないのか」と。そうそう毎日のように子どもたちを近くの公園へ連れていき、そ
こで授業をしていた先生がいた。しかし親たちの反対で、あっという間にやめになってしまっ
た。「そんなことすれば勉強が遅れる」と。

 創造力豊かな子どもを育てるといったところで、教師自身にそれが許されていないのに、どう
してそれができるというのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ごく最近(05年夏)でも、こんなことがあった。

 ある小学校に、オーストラリア人の英語教師が派遣されてやってきた。で、そのオーストラリ
ア人教師が、自分の生徒たちを、近くの公園へ連れて行こうとしたとき、教頭が、それにストッ
プをかけた。「授業は、教室でするように」と。

 そのオーストラリア人の教師は、私にこう言った。「野外授業は、オーストラリアでは、みなや
っている。当たり前の授業なのに、どうして日本では、だめなのか?」と。

 その学校には、その学校なりの、いろいろな事情や規則があったのだろう。「事故でもあった
らたいへん」と、その教頭は考えたのかもしれない。オーストラリア人の教師は、こう言った。
「オーストラリアの子どもたちの遊びを教えたかったのに……」と。

 だからといって、私は、全面的に、そのオーストラリア人の教師の言い分を認めたわけではな
い。日本人には、「土俵」という考え方がある。「土俵では、相撲のルールに従え」と。そこで私
はそのオーストラリア人の教師に、こう言った。「本当に自由な教育をしてみたいと思ったら、英
語教室を自分でつくり、生徒を自分で集めること。そこで好きなことをすればいい」と。

 この私の考え方は、少し、保守的かな?
(はやし浩司 教師の自由 教育の自由 教師のやる気 自由な教育)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の皮肉(教育の原点)

 家庭教育では、子どもは使えば使うほど、いい子になる。忍耐力も育つし、生活力もつく。そ
してその上、親の苦労のわかる子どもになる。

 子どもは突き放せば突き放すほど、自立する。「あなたの人生だから、あなたはあなたで、勝
手に生きなさい」という姿勢を、親がもてばもつほど、子どもはたくましくなる。

 子どもに期待をしなければしないほど、子どもは親の期待を超えた子どもになる。「私が老人
になっても、子どもたちにはめんどうをみてもらわない」と言う人がいるが、そういう人ほど、ま
た子どもたちの愛を一身に集めている。

 一方、家庭教育では、子どもは手をかければかけるほど、またお金をかければかけるほど、
ドラ息子化する。生活がルーズになり、自分勝手になる。

 子どもは溺愛すればするほど、わけのわからない子どもになってしまう。あるいは親に反発
する。そうでなければ超マザコンタイプの子どもになってしまう。

 子どもに期待をかければかけるほど、子どもはどんどんその期待からはずれ、親の望む方
向とは別の方向へ進んでしまう。あるいは親の過剰期待の中で、子どもは窒息してしまう。

 皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。親たちがよかれと思ってしていることが、かえって
裏目、裏目に出てしまう。なぜか。私はその理由の一つとして、人間には本来、いじってもよい
部分と、そうでない部分があるように思う。たとえば人間の自立に関する部分はいじってはいけ
ないし、いじればいじるほど、子どもの自立は遅れる。つまりそういう部分は、人間が「教育」を
意識する、ずっとはるか昔から人間に備わっていた「力」だと思う。庭にやってくるスズメにして
も、実にたくましい。犬の目を盗んでは、ドッグフードを盗んでいく。

 となると教育とは何か、ということになる。そこで一のヒントとして、スズメの話を続ける。この
スズメは、山バトがやってきても、まったく逃げない。しかしモズがやってくると一斉に逃げ出
す。モズは肉食だ。そこでスズメをよく観察してみると、「逃げる」という行動は、親から子へと
代々教え継がれていることがわかる。親鳥が逃げ出すと、間髪を入れず、子スズメたちが逃げ
出す。そしてやがて子スズメたちはモズがやってきたら、逃げるということを学習する。

 わかりやすく言えば、教育とは、先人の知識や経験を、子どもたちに生きる武器として与える
こと、ということになる。またその視点を忘れて、教育はありえないし、またその視点からはず
れた教育は教育ではありえない。たとえば歴史教育にしても、原爆の悲惨さを教えるのは教育
であっても、○○年△△条約成立などという年号を子どもに暗記させるのは、歴史教育ではな
い。教育がそういう視点に立ちかえったとき、教育が本来どうあるべきかがわかるのではない
だろうか。

 家庭教育は、あくまでもその一部に過ぎない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 今、このエッセーを読みかえしてみても、「まったく、そのとおり」と思う。そういえば、冬になっ
たというのに、ここ1、2年、そのモズが私の庭に来なくなった。どうでもよいことだが、ふと、
今、そう思った。

 また20年来つづけてきた、スズメの餌づけだが、それについては、今年から、やめた。鳥イ
ンフルエンザの問題もある。が、それ以上に、やってくるスズメの数が、あまりにも多くなりすぎ
た。昨年当たりは、数十羽ずつに分かれた群れが、ひっきりなしに私の庭にやってきていた。
 

 朝早く、1〜2キロの餌を庭にまいたり、餌台にのせるのだが、午前中には、それがきれいに
なくなってしまった。しかしこういう餌づけは、結局は、野鳥のためにはならないのでは……。野
鳥が、人間に依存するようになり、野鳥が野鳥でなくなってしまう。

 それがやっとわかった。それでやめた。私自身は鳥が大好きで、庭に鳥がいないと、さみし
いのだが……。
(はやし浩司 忍耐力 自立 子どもの自立 教育の原点 教育の目的)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●新学力観という、観点(役に立つ教育)

 「地面に立てたポールを利用して、太陽の高度を調べるにはどうしたらよいか。図解して説明
せよ」という問題がある。文部省が実施した「新学力テスト問題」の一つだが、中1年生での正
解率は、たったの10・4%。しかしこんなことは、教育が始まる以前から、人間には常識だっ
た。昔の人間は、皆、太陽の位置や影の長さで時刻を知った。今の子どもたちは、そんなこと
も知らないのかということにもなるし、裏を返せば、今の教育は一体、何を教えているのかとい
うことにもなる。

 教育の基本は、「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えるこ
と」ではないのか。そういう視点がないと、受験教育に代表されるように、教育がただ単なる点
数稼ぎのための道具にされてしまう。もっと言えば、教育が人間選別の道具にされてしまう。

ちなみに中学生にこう聞いてみればよい。「君たちは、なぜ勉強するか」と。大半の子どもたち
は、こう答える。「高校へ入るため」「大学へ入るため」と。親にしてもしかり。勉強をしない子ど
もを叱るとき、「そんなことでは、いい大学へ入れないぞ」と叱ることはあっても、「将来、必要な
知識が身につかないぞ」とは言わない。こうした教育がさらにいびつになると、幼稚園で掛け算
の九九を暗記させたり、漢字の読み書きを教えたりするようになる。

 一方、これは当然のことだが、子どもたちはその必要性を感じたとき、実に生き生きと自ら学
習し始める。私はときどき、「お金儲けごっこ」をするが、そのときもそうだ。それはこうして遊
ぶ。

 まず子どもたち(年長児)に、紙で作ったお金を渡す。そしてそれで折り紙を買わせる。大小
さまざまな大きさの折り紙があって、それぞれ値段が違う。子どもたちはその買った折り紙で、
いろいろなものを作る。絵を描く子どももいる。で、それができたら、今度はこちら(教師)が、そ
のできたものを買いあげてあげる。じょうずにできたのは、高い値段で。そうでないのは、低い
値段で。あとはこれを繰り返す。

ときどき、ほかの子どもが作ったものを、別の子どもに売ってあげることもある。20円で買いあ
げたものを、40円で売りつけたりすると、子どもたちは「ずるい、ずるい」と言うが、「これが資
本主義の原理だ」などと難しい言葉で言ってやると、たいてい静かになる。さらに慣れてくると、
子どもたちどうしで、ものの売買をし始めるようになる。

 こうした動機づけがあると、あとは放っておいても、子どもたちは自ら、足し算や引き算をする
ようになる。多い少ないの判断も、そして損得の判断もできるようになる。さらに「労働すること
の喜び」もわかるようになる。

 文部省の新学力観では、「知識の獲得量ではなく、自分で考え、表現する力を重視する」とい
うもの。私はこれには大賛成だが、ただし一言。こういう指導が全国一律になされるところに
も、問題がある。皆が同じように自分で考え、表現するようになったら、それこそ、この日本は
どうなる。そんなことも頭に入れておいてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 日本の教育は、全体としてみると、将来、その道の学者をめざす子どもたちにとっては、きわ
めて効率よく、かつ体系的にできている。理由は、わかりきっている。教科書が、その道の学
者たちによって、作られているからである。

 たとえば英語という科目にしても、将来、英語の文法学者になるには、たいへん効率よく、体
系的にできている。(最近は、こうした考え方が、大きく変わりつつあるが……。)

 しかし今、将来、学者になる、あるいはなりたいと言っている子どもは、いったい、何%いるの
か? 

 また日本の教育には、「子どもたちに実用的なことを教えるのは、悪」と考えているフシすら、
見受けられる。しかしどうして実用的であっては、いけないのか。アメリカでは、中学校の数学
の時間に、小切手の使い方を教えている。

 ここで「将来、子どもたちが生きていく上で、役にたつ知識や経験を、分け伝えること」と教え
てくれたのは、オーストラリアのM大学で、教授をしている私の友人である。
(はやし浩司 日本の教育 実用的な教育 子どもの学力 子供の学力 新学力観)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●一つの暴論(教育革命論)

 これはあくまでも暴論だが、学校は午前中だけでやめたらいい。午後は、生徒の自由にす
る。そしてそれぞれの特性に合わせて、塾へ行けばいい。何も学習塾や受験塾だけが塾では
ない。ピアノ教室、料理教室、工作教室、釣り教室、水泳教室、フランス語教室、ダンス教室な
ど。学校の中に、塾を呼びこんでもいい。その分、月謝は割安にする。

 原則として文部省は、学校の運営管理だけに口を出す。教科書検定は廃止。一方、受験指
導は、それを「よし」とする、業者に任せればいい。生徒の答案用紙を採点するのは、しかたな
いとしても、順位をつけ、進学校へ割り振るなどという行為は、教育者を名乗る教師のする仕
事ではない。

 また学校の敷地の3分の1には、樹木を植えさせる。校庭には、緑の芝生をしきつめる。管
理は、授業の一つとして、子どもたちに任せる。また校舎は今後、完全なバリヤーフリー構造
にして、身体障害者や知的障害者を差別することなく入学させる。そして子どもたちどうしで、
互いにめんどうをみあう。

 教師のする仕事は、「教える」ことではなく、「引き出す」こと。子どもたちの特性を見極めな
がら、その特性に応じた指導をする。具体的には子どもの特性に応じたカリキュラムを組んで
あげる。読書が好きな子どもは、毎日でも読書ができるようにしてあげる。皆が皆、算数ができ
なくてもいい。算数ができない子どもは、算数ができる子どもを尊敬し、ピアノがひけない子ど
もは、ピアノがひける子どもを尊敬する。互いに皆が、それぞれの立場で相手を認め合う。

 そうそうA中学に優秀なスペイン語塾があれば、B中学やC中学からも、自由に越境受講で
きるようにすればいい。そうすればもっと多様性が広がる。また基礎学力(算数の基礎、読み
書きなどの基礎)については、単位制を導入して、義務教育機関中に終了すればよいとする。
クラス担任制度は廃止して、生徒の責任者制度を導入する。その責任者(教師)が、それぞれ
の子どもの指導について、責任をもって指導する。必要に応じて、一日中、行動をともにしても
よい。

 高校、大学も基本的には、子どもの多様性に合わせて、多様化する。高校や大学にスキー
学部があってもいいし、釣り学部があってもいい。文学部も、作家部、読書評論部などに分け
る。経済学部も、起業部、ベンチャービジネス部などに分ける。もちろん一方に、アカデミックな
学問を探求する学部があってもいい。哲学や数学の分野で、すぐれた才能を示す子どもにつ
いては、それはそれとして伸ばす。

 これは暴論だが、しかしもし実行したら、それはまさしく教育革命というにふさわしい。長い
間、鎖国と封建制度の中で苦しめられてきた子どもたちにとっては、まさに革命。自由を求め
た革命。が、あなたはそれでも今の教育制度がいいと思うか。もしそうならあなた自身の子ども
時代を思い浮かべてみてほしい。あなたは心の中で、どんな学校を求めていたかを、だ。力の
ない子どもの革命を助けるのは、あなたしかいない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 この原稿を書いてから、4年になる。が、実は、こうした(流れ)は、すでに世界の常識になり
つつある。ドイツやイタリアでは、学校外教育が、ますますさかんになりつつある。カナダでも、
そうだ。「教育は学校で」という発想そのものが、もう古い。

 ただしこの日本で、教育を自由化するには、1つの条件がある。まず、学歴社会を是正する
こと。それをしないで、自由化すれば、進学塾だけが、学校外教育ということになってしまう。
(はやし浩司 教育の自由化 学歴社会 教師の責任)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学歴信仰は、迷信?(有M文部大臣への反論)

 大学の教授は、高校の先生より、エライ。高校の先生は、中学の先生より、エライ。中学の
先生は、小学校の先生より、エライ。小学校の先生は、幼稚園の先生より、エライ。少なくと
も、大学の教授は、幼稚園の先生より、エライ。誰しも、心の中でそう思っている。こういうのを
学歴信仰という。

 家計がひっくり返っても、親は爪に灯をともしながら、息子のために学費を送り続ける。が、
肝心の息子様はそんな親の苦労など、どこ吹く風。少しでも仕送りが遅れたりすると、ヤンヤ
の催促。それでも親は、「大学だけは出てもらいたい」と思う。そしてそれが「親の務めだ」と思
う。こういうのを学歴信仰という。

 浜松にもA高校からD高校まで、ランクがある。やっとの思いでD高校へ入れそうになると、親
は「C高校を」と希望する。そしてC高校が合格圏に入ってくると、今度は「A高校。それが無理
なら、何とかB高校を……」と希望する。親の希望には際限がないが、そういう思いが、誰にで
もある。こういうのを学歴信仰という。

 新聞記事だけなので、有M文部大臣の発言の真意はわからないが、文部大臣が、母校のA
高校へ来て、「学歴信仰があるというのは迷信」と述べたとか(99年2月)。つまり「日本には
学歴信仰はない」と。東大の総長という学歴の頂点に立ったような人が、しかもその信仰の総
本山の、そのまた法主の立場にある有M文部大臣が、そういう発言をするところに、日本のこ
っけいさがある。学歴信仰がなかったら、誰も、受験勉強などしない。誰も自分の息子を塾や
予備校に通わせない。もし本当にないのなら、成績に関係なく、東大の学生を入学させたらい
い。あるいは文部省は、学歴に関係なく、役人を雇ったらいい。

 学歴のある人には、学歴は不要だ。しかし学歴のない人は、それを死ぬほどほしがる。お金
と同じだ。金持ちが、いくら「お金では幸福は買えません」と言ったところで、その日のお金に困
っている庶民には、説得力はない。私もある時期、自分の学歴にしがみついて生きていた。特
にこの教育の世界ではそうで、もし私に学歴がなかったら、私の教育論になど、誰も耳を傾け
てくれなかっただろう。反対に肩書きや地位がないため、いかに辛酸をなめさせられたことか。

 話は変わるが、ニュージーランドのある小学校では、その年から手話を教えるようになったと
言う。教室の壁には、手話の仕方が描いた絵が、ペタペタとはってあった(テレビ番組より)。理
由は、その年から、聴力のない子どもが入学してきたからだという。こういう姿勢、つまりその
子どもに合わせて、学校が自由にカリキュラムを組むという姿勢の中に、私は学校の本来、あ
るべき姿を見た。

反対にもし日本の小学校で、こういう身体に障害のある子どもが入学してきたら、教師や父母
は、どのように反応するだろうか。さまざまな問題が起きるであろうし、その起きる背景に、学
歴信仰がある。天下の文部大臣にさからって恐縮だが、文部大臣ももう少し庶民の側におり
て、ものを考えてほしいと思う。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いた時点(01年)と今では、障害児に対する考え方が、大きく変わってきた。1
5年ほど前のことだが、ある小学校(静岡県)で、1人の身体に障害のある子どもを入学させよ
うとしたことがある。そのとき、「そういう子どもが入ってくると、子どもたちの勉強の進度にさし
さわりが出る」と、反対運動を起こした親たちがいた。テレビなどでも、報道されたので、覚えて
いる人も多いと思う。

 たった15年前には、日本はまだそういう国だった。が、今、そんな反対運動をすれば、反対
に、その親たちが袋叩きにあうだろう。日本の教育というより、親たちの意識が、たしかに今、
変わりつつある。
(はやし浩司 学歴信仰 学校神話 受験カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●不気味な思考回路(ポケモン現象)

 一時期よりは下火になったが、いまだにポケモンは根強い人気を保っている。年齢的には幼
稚園の年長児から小学2、3年生児が、そのピーク。私の調査でも、約80%の子どもたち
がハマっていたことがわかっている(98年はじめ)。

 一度こういう世界ができると、「ポケモンを知らない」とか、「ポケモンなんて、つまらない」など
と言おうものなら、それだけで仲間はずれにされてしまう。当時あの「♪ポケモン言えるかな」と
いう歌を、どこまで歌えるかが、その子どものステイタスを決めていた。たとえばその歌を途中
までしか歌えなかったりすると、その子どもは「バカ」というレッテルをはられてしまった。

 問題は、そのハマリ度だ。好きとかファンというレベルならまだしも、中には熱狂してしまう子
どもがいる。現実とゲームの世界が区別できなくなってしまう子どももいる。こうなるとゲームと
は、もう言えない。信仰だ。しかもカルトだ。ある子ども(小3男児)は、親に叱られると、いつも
「♪ポケモン言えるかな」を心の中で歌っていたという。また別の中学生は、毎夜、空に向かっ
て、超能力を授けてもらうよう、祈っていたという。そうでなくても、大半の子どもは、あの黄色い
ピカチューの絵を見ただけで、興奮状態になってしまった。

 今はまだよい。今は、まだゲームの世界に収まっているから、よい。しかしもしポケモンが思
想をもったらどうなる。たとえばサトシが、「子どもたちよ21世紀は暗い。一緒に海へ入って
死のう」などと訴えたら、どうなる。それに従ってしまう子どもが続出するかもしれない。ポケモ
ン、いや一連のポケモン現象には、そういう危険性が潜んでいる。

 それにもう一つ、心配なことがある。幼児期に一度、こうした思考回路ができると、以後、何
かにつけてその思考回路に沿って、ものを考えるようになるということだ。迷信を信じやすくなっ
たり、カルトにハマりやすくなったりする。低劣な運命論やバチ論を振りかざすようになるかもし
れない。ある妻は、狂信的なカルト教団に身を染め、夫に向かってこう言い出した。「あんたと
私は、前世の縁で結ばれていなかったのよ。それを正すためには、信仰の力が必要なのよ」
と。もしあなたの妻がある日突然、そんなことを言い出したら、あなたはそれに耐えることがで
きるだろうか。こんな例もある。

 ある教団では手術そのものを禁止している。私がそのことをその教団に確かめたら、「禁止
はしていないが、熱心な信者なら手術を拒否します」ということだったが、ともかくもそういうこと
だ。そしてその結果として、一人の子どもが交通事故で死んだ。子どもの母親が熱心な信者
で、手術をがんとして拒否したからだ。が、悲劇はそこで終わらなかった。この事件で孫を失っ
た老人はこう話してくれた。

「今は、息子夫婦とも断絶しています。それまでは愛だとか、平和だとか、信仰もそれほど悪い
ものだと思っていなかったのですが……」と。私にはこれ以上のことは何も言えないが、もしあ
なただったらそうするか。それを一度考えてみてほしい。ポケモン現象にはそんな一面も隠さ
れている。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 カルト教団と戦うのも、疲れる。本当に疲れる。彼らは、その信仰に、命をかけている。かた
や私の方は、そこまではしない。命をかけてまで戦うということはしない。が、この(ちがい)が、
結局は、カルトをのさばらせてしまう結果となる。

 私は、当時、まだカルト教団と戦っていた。で、そうしたカルト教団のもつ、カルト性というか、
危険な側面を、あのポケモン・ブームの中に見た。子どもたちは、狂信的なまでに、ポケモンに
夢中になっていた。

 そこで私は「ポケモン・カルト」(三一書房)という本を書いた。

 が、反響というか、抗議の嵐は、すさまじかった! 今でも、その世界では、「トンデモ本」とし
て酷評されている。どこか「?」な人たちに、「トンデモ本」と酷評されることは、たいへん名誉な
ことではないか。

 このエッセーは、そういうときに書いた。いくら酷評されても、今でも私は、自説をひっこめる
つもりは、まったく、ない。
(はやし浩司 カルト カルト教団 ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●わからぬフリをする(うちの子は、どうですか?)

 子どもの情緒障害、専門的には脳の機能的障害には、軽重の程度の差がある。重い場合
は別として、軽い場合には、ふつう児との境があいまいで、そのため指導が難しい。いろいろな
ケースがある。

たとえば自閉症にしても、それと明らかにわかる子どももいるが、「どこか心を開かない」「勝手
な行動をして、どうも心をつかめない」という程度の子どももいる。かん黙児にしても、外の世界
ではまったくしゃべらない子どももいれば、ふとしたきっかけで黙りこくってしまう子どももいる。
私にしても、それぞれ何10例もの子どもたちを直接指導してきたが、その私でもいまだに迷う
ことが多い。いや、判断を誤ることはまずないが、親に言うべきかどうかで迷う。「もし万が一に
もまちがっていたら……」という思いと、「治療法も用意しないまま、診断だけをくだすことはでき
ない」という、二つの思いの中で迷う。言えば言ったで、親に与える衝撃ははかり知れない。

 だから親は、子どもがどこか変わった症状を示したりすると、子どもを叱ったり説教したりす
る。「どうして静かに落ちつけないの」とか、「皆の前で、もっとハキハキ、しゃべりなさい」とか。
しかし脳の機能的障害というのは、そういうものではない。子ども自身がコントロールできな
い、脳の奥深い部分で起こる。そして次に親は、その矛先を、教師に向けてくる。「先生の指導
が悪いから、こうなったのだ」と。教師がやりきれない気持ちに襲われるのは、たいていこんな
ときだ。

 が、教師は知らぬふりをして教える。そういう知識はないという前提で、教える。少なくとも親
のほうから、「どうしてでしょうか?」という質問があるまで、そうする。……こう書くと、無責任な
教師のように思われるかもしれないが、教育には、はっきりとわからなくてもいいことは、山ほ
どある。あるいはわかっていても、わからないふりをして教えることは山ほどある。たとえば子
どもの知能や、家庭問題。性格や気質など。その子どもはそういう子どもなのだということを納
得した上で、教える。仮に情緒に問題があるとしても、ふつう児として自然に扱ったほうが、そ
の子どもにとってはよいということもある。意識すればするほど、逆効果になる。

 そうそう、教師が一番いやがる会話を教えよう。何がいやかって、親に、「うちの子、どうでし
ょうか」と聞かれることぐらい、いやなことはない。「うちの子、最近、いかがでしょうか」と聞く人
も多い。親というのは先生と顔を合わせると、たいていそう言うが、言われたほうは答えようが
ない。親は軽いあいさつのつもりでそう言うのだろうが、何をどの程度答えるべきか、その返答
に困ってしまう。私の場合、そういうふうに聞かれたら、たいてい、「おうちではいかがです
か?」と聞きなおすようにしている。そうすると、相手の聞きたいことがわかる。

私「おうちではいおかがですか」
親「最近、家の手伝いをしなくて困っています」
私「ああ、そのことですね」と。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 「問われるまで、答えない」……それが、教師の間の不文律にもなっている。いくら子どもに
問題があっても、教師の側から、それを指摘してはいけない。中には、それを正しく受け取って
くれる親もいるが、ほとんどの親は、その瞬間から、狂乱状態になってしまう。

 で、最近の教師の傾向としては、こういう言い方をするのが、通例になっている。「一度、専門
医に相談してみられてはいかがですか?」と。あとの判断は、親がすればよいという指導のし
方である。

 一見、無責任にみえる指導法だが、現状では、それもやむをえないのではないか。
(はやし浩司 子供の問題 育児の問題 子供の心の問題 教師の対処法)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●溺愛ママ・ブルース(溺愛は愛ではない)

 子どもを溺愛する親は、珍しくない。たいていは親側の情緒的欠陥が原因で、親は子どもを
溺愛するようになる。ある母親は、息子(小6)が、修学旅行に行った夜、一睡もせず泣き明か
した。また別の母親は、やはり息子(中3)が初恋をしたことについて、はげしい嫉妬心を燃や
した。

 こうしたケースで特徴的なことは、溺愛している母親は、それを「親の深い愛」と誤解している
点にある。ある母親は臆面もなく、こう言った。「息子(高1)の汚れた下着を見ていると、いと
おしくて、頬ずりしたくなります」と。つまりそうすることが、親の鏡というわけである。中に生きが
いのすべてを、子どもに注いでしまう人がいる。考えることといえば、明けても暮れても、子ども
のことばかり。毎月、子ども(幼稚園児)の成長記録を、小冊子にして発行している人もいる。
こういう人は、「子どもは私のすべて」と公言してはばからない。

 しかし溺愛は、「愛」ではない。代償的愛ともいう。つまり自己の支配欲を満たすために、子ど
もを愛する。あるいは自分の心のスキ間を埋めるために、子どもを愛する。つまりは親の身勝
手な愛に過ぎない。子どもを愛するということは、子どもが巣立っていくのを見守りながら、じっ
とそのさみしさに耐えることにほかならない。もっともこう書いたからといって、溺愛が悪いとい
うのではない。もちろん笑っているのでもない。

ただ私がここで言いたいことは、親が溺愛すればするほど、子どもの「核」形成が遅れるという
ことだ。核というのは、子どものつかみどころをいう。その年齢になると、その年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかし親が溺愛したりすると、そのつかみどころがわからなくな
る。全体にその年齢に比して、幼い印象を与えるようになる。が、それだけではすまない。

 子どもはその年齢ごとに、ちょうど蝶がカラをぬぐようにしてカラをぬぎながら、成長を繰り返
す。しかしその段階で溺愛などが原因で、カラをぬがないと、そのツケはあとへあとへと回され
る。しかもあとになればなるほど、その衝撃は何10倍も大きくなる。はげしい家庭内暴力に
つながることもある。

「俺を、こんな俺にしたのは、オマエだ!」
「許して、お母さんが悪かったわ」と。

そうでなければ、そのまま子どもはマザコンタイプの子どもになっていく。30歳になっても、40
歳になっても、親離れできない。これは極端なケースだが、結婚してからも実家へ帰るたびに、
母親と風呂へ入ったり、一緒に寝ている男性がいた。そういうふうになる。

 自分自身の中に「溺愛」を感じたら、子育てから遠ざかる。しかしこれは簡単なことではない。
唯一方法があるとすれば、母親であることを忘れ、妻であることを忘れ、ついで女であることを
忘れ、一人の人間として、自分のしたいことをする。そしてその反射的効果として、子育てから
遠ざかる。もちろん自分自身に情緒的欠陥があれば、それと闘う。(以上、01年記「子育て雑
談」)
 
(補記)

 マザコンになるのは、何も男児だけとはかぎらない。女児も、マザコンになるケースは、多
い。しかも女児(女性)のマザコンのほうが、男児(男性)よりも、強烈になりやすい。女性のば
あい、実家に帰って、母親といっしょに風呂に入っても、だれも、おかしいと思わない。(男性だ
ったら、それだけで、大問題になるが……。)そういうスキをついて、女性は、男性よりも、より
強烈なマザコンになる。

 さらにファザコンというのも、ある。自分の父親を偶像化する。「オレのオヤジの悪口を言うヤ
ツは、許さない」と、公の場所で、叫んだ男性(50歳くらい)がいた。

 でき愛は、「愛」ではない。自分の心の欠陥を埋め合わせするために、親は、子どもをでき愛
するようになる。ご注意!
(はやし浩司 溺愛 でき愛 子どもの成長 子供の成長 子供の心の発達 心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●スポイルされる子どもたち(忍耐力のない子ども)

 アメリカ人の友人が、「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」という。わかり
やすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、どんなところを見て、そう
言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

 「ときどきホームスティをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、
「日本の子どもは何もしない」と。反対にアメリカへ、ホームスティしてきた高校生が、こう言って
驚いていた。「向こうでは、明らかに不良と思われるような高校生でも、家事だけは手伝ってい
た」と。

 日本人は、子どもを使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解している
ようなところがある。だから生活感がない。「水はどこからくるか」と、年長児たちに聞くと、「水
道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持っていってくれる」と。あるいは
「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「おとうさんが、やってくれるから
いい」と答えたりする。

 こんな話をある講演会で話したら、一人の母親がこう質問してきた。「何をやらせればいいの
ですか」と。話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの30分ですんでしまう。買物といっても、食材
は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。料理のときも、台所の周囲でうろうろされると、かえって
迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親がせんべいを口にして、
寝そべりながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと
動き回り、子どももそれに合わせて、キビキビとすべきことをすることをいう。たとえば次のよう
なとき、あなたの子どもはどういう反応を示すだろうか。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたが……。さっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかしそ知ら
ぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育をかなり反省したほうがよい。

 よく誤解されるが、子どもの忍耐力は、「いやなことをする力」をいう。台所の生ゴミを手で始
末できるとか、寒い夜に隣へ回覧版を届けることができるとか。一日中サッカーをしているか
ら、忍耐力があるということにはならない。その子どもは好きなことをしているだけである。その
忍耐力がないと、子どもは学習面でも伸び悩む。勉強するということには、どうしても苦痛がと
もなう。その苦痛が乗り越えられないからだ。またそれ以前の問題として、生活力が身につか
ない。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女子)がいた。話を聞くと、
「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないた
めにも、子どもは使って使って、使いまくる。子どもが2〜4歳のときが勝負で、それ以後にな
ると、このしつけはできなくなる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(補記)

 ここに書いたアメリカ人というのは、浜松市に住んでいた、R・ケリーという人だった。4、5年
前にアメリカへ帰っていった。で、一度、彼の家を訪問したことがある。すばらしい御殿のような
家だった。半地下室には、卓球ルームまで作ってあった。

 彼が日本へやってきたのは、52歳のとき。ある店で、ぼんやりと外をながめていたとき、私
の方から声をかけた。以来、10年近く、つきあった。

 すばらしいアメリカ人だった。彼の送別会には、300〜400人近い人たちが、ホテルに集ま
った。この原稿を読んでいるとき、それを思い出した。ここ1、2年、音信がないが、今ごろは、
どうしているだろうか? 


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●崩壊家庭の中で(ゆがむ子どもの心)

 荒れた自分の家を、得意げになって見せていた子ども(小3男児)がいた。敷きっぱなしにな
った破れたふとん。その周囲に散乱するティシュペーパー。割れた窓ガラス。汚れた台所に、
ゴミの山。一定の限界を超えると、子どもの心から「家庭」とのつながりが消える。ふつうなら、
「家庭の恥ずかしい部分は隠そう」という意識が働くが、そういう意識がない。当然、心も荒れ
る。ものの考え方が粗野になり、他人の心の動きに鈍感になる。

 いわゆる「家庭崩壊児」はこうして生まれる。家庭が本来あるべき家庭として、機能していな
い。こうした拒否的な環境で育った子どもは、心に深刻なキズを負うことがわかっている。こん
な子ども(高1男子)がいた。いわく、「台風で壊れる家を見ていると、楽しい」と。そこで私が
「本当に楽しいのか」と聞くと、「おもしろい」と。さらに「それが君の家だったら、どうするのだ」と
聞くと、「もっと楽しい」と。

 このタイプの子どもは、「世間に迷惑をかける」ということに、たいへん鈍感になる。真夜中に
マフラーをはずしたバイクを、バリバリとふかしても、それが悪いことだという意識がない。ある
いは路上にビンを叩きつけて割っても、それが悪いことだという意識がない。むしろ人に迷惑を
かけることを楽しむようなところがある。善悪を判断する中枢部分が、変調をきたしているため
と考えるとわかりやすい。仮に立ち直っても、その影響は一生続く。俗に言う、ヒネクレ症状と
いうのが、それである。

夫「こんなところに、サイフを置いてはダメだ」
妻「あんただって、この前、ここに置いたじゃ、ない」
夫「だから、ここに置いてはダメだ」
妻「自分だって、ここに置いたクセに、何よ!」 

 このところの不況で、程度の差こそあるが、このタイプの子どもがふえている。平気で自分の
家族や家庭の恥を口にするから、わかる。

「うちの父ちゃんね、毎晩、エロビデオを見てる」
「ママね、パパの稼ぎが少ないから、苦労してるよ」
「パパが本を投げつけて、ママが頭にけがをした」など。

 家庭崩壊を子どもに経験させてはいけない。これは子どもを妊娠したときからの、親の義務
のようなものだ。が、それでも……というのであれば、これはもう個人の問題ではないように思
う。福祉とか、福祉社会というのなら、老人や障害のある人に、こういうタイプの子どもたちも含
めるべきだと、私は思う。客観的に見て、そういう心配のある子どもは、行政による手厚い保
護が必要だ。親の理解と協力が期待できない以上、そうするしかない。

 家庭崩壊を経験した人は不幸だ。結婚しても、「よい家庭を作ろう」という気負いばかりが先
行して、結局は失敗しやすい。あるいは結婚そのものができない。子どもをつくっても、うまく子
育てができない。頭の中に「家庭像」や「親像」がないからだ。

繰り返すが、家庭崩壊だけは子どもに経験させてはいけない、……と思う。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 ……とは言っても、思うがままにならないのが、生活。だれが、自ら不幸になることを望むだ
ろうか。そんな人はいない。

 ただいくら貧しくても、「心」だけは、見失ってはいけない。とくに、子どもの前での、夫婦げん
かは、タブー中のタブー。はげしい夫婦げんかは、子どもに、極度の緊張感と恐怖感を与え
る。それが子どもの心にキズをつける。ときに、トラウマとなり、その子どもを生涯にわたって、
苦しめる。が、それだけではすまない。

 このトラウマには、副作用がある。

 やがて時間をかけて、親子関係を破壊する。世代連鎖する。そのトラウマが大きければ、そ
の子どもが多重人格性をもつこともある。激怒したようなときに、まったくの別の人格になってし
まったりする。

 幼児期においては、すねたり、ひがんだり、ぐずったりしやすくなる。人格の「核」形成が遅
れ、善悪の判断にうとくなることもある。

 子どもは、心安らかな家庭環境の中で、親の愛情をたっぷりと受けながら育つのがよい。何
度も書くが、絶対的な信頼関係、絶対的な安心感、この2つが子どもの心をはぐくむ二大要素
と考えてよい。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。
(はやし浩司 夫婦喧嘩 夫婦げんか 家庭崩壊 崩壊児 子供の心理 絶対的な安心感)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●信頼関係を大切に(先生の悪口はタブー)

 子どもの前では、先生の批判、悪口はタブー。子どもが悪口を言ったとしても、「あんたが悪
いからよ」と言ってすます。もし問題があるなら、それは子どものいないところで、また子どもと
は関係のない世界ですます。あなたが先生を批判したり、悪口を言ったら、子どもは学校で、
その先生に従わなくなる。私にはこんな経験がある。

 幼稚園で教えていたころ、まったく私の指示に従わない子ども(年長女児)がいた。ある日そ
の子どもに、「どうして言うことを聞かないのか」と聞くと、その子どもはこう答えた。「だって、先
生は、本物の先生ではないでしょ」と。この話には余談がある。

 このことを当時の園長に告げると、私はそれほど気にしていなかったのだが、その園長は激
怒して、その母親に即刻、電話をした。そしてこう怒鳴った。「何てことを子どもに教えているの
ですか! あなたがそんなこと言ったら、指導できないでしょ!」と。当時はまだこういう気骨の
ある園長が、あちこちにいた。

 「子どもにこの話は、先生には内緒よ」と言うことは、「先生にこの話をせよ」と言うのと同じ。
子どもが言った先生の悪口に、相槌を打つということは、あなたが先生の悪口を言ったのと同
じ。子どもは先生に、こう言う。「ママもこう言っていた」と。仮に子どもが言わなくても、先生に
はそれがわかる。どういう形であるにせよ、あなたの「思い」は、必ず先生に伝わる。子どもと
いうのは、自分の心を隠すことができない。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。
裏を返して言うと、子どもの前では、先生をたてる。「あなたの先生は、すばらしい先生よ」「先
生のような立派な先生に、あなたが教えてもらえて、とてもうれしいわ」と。

 教育は信頼関係で成り立つ。中には「お金(税金)を出しているのだから」という思いからか、
教育を自動販売機のように考えている人がいる。あるいは今では、先生より、特に幼稚園の先
生より、高学歴の人が多い。そういう人は、どうしても先生を下に見る。こういうものの考え方
は、その信頼関係を破壊する。教師だって人間だ。自分を信頼してくれる人には、その期待に
応えようとするし、そうでない人には、熱意そのものが沸いてこない。いくら相手が子どもとわか
っていても、時と場合によっては、「このヤロー」と思うこともある。そうなったら教育そのものが
成りたたない。

 たいへんきわどい話をしてしまったが、そうでなくても難しいのが最近の教育。親と教師が信
頼しないで、どうして教育ができるというのだろう。問題のある教師がいるのも事実だが、もし
そうであるなら、冒頭にも書いたように、子どもとは関係のない世界ですます。

一番よいのは、直接、その先生と交渉することだ。今の制度の中では、教育委員会に相談す
ると、どうしてもおおげさになってしまう。校長に訴えるとしても、校長は今、校長というよりは事
務長に近い。アメリカのように教師を選ぶ権利が親にあれば別だが、日本にはそれがない。な
い以上、やはり直接交渉がよい。勇気がいることだが、それが一番よい。……と私は思う。こ
れはあくまでも私個人の一意見だが。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 今でこそ、保育士というのは、一定の地位を確立しているが、35年前には、そうではなかっ
た。私が「幼稚園で働いている」と言っただけで、ほとんどの人は、「あの林は、頭がおかしい」
と言った。

 そんなわけで、私は、幼稚園の内部では、自分の過去を隠し、幼稚園の外では、自分の職
業を隠さねばならなかった。

 また保母というのは、「母」、つまり女性にかぎられていた。「保父」が生まれたのは、私が30
歳になったころ。現在の保育士という名称になったのは、さらにあとのことである。

 ここに書いた園長というのは、恩師の松下哲子先生をいう。すばらしい先生だった。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ズケズケ言う子どもたち(教師の威厳はどこに?)

 「先生、口、臭いから、あっち向いていてよ。ああ、臭い臭い」と言った子ども(小6女子)がい
た。もともと多動性のある子どもだった。頭の回転はキリキリと早いが、一貫性がなく、ものの
考え方が浅い。幼児のころは、無頓着、無遠慮、無関心などの特徴も見られた。小学校の高
学年になってからは、症状も落ち着いてきたが、ズケズケとものを言うクセは残っていた。

 それはそれとして、私はそう言われたとき、喜んでいいのか不愉快に思っていいのか、一
瞬、迷った。そしてその子どもは、いい子なのか悪い子なのか、迷った。さらに私とよい関係に
あるのかそうでないのか、迷った。あえて私の判断はここには書かないでおくので、皆さんで判
断してほしい。ただ言えることは、こういうふうにものをズケズケと言う子どもが、ふえていると
いうこと。そしてそれを民主的になったと喜んでいいのか悪いのか、このところわからなくなって
きたということだ。

 口が悪いのは、しかたない。今時の子どもは皆そうで、先生に向かって、「ジジイ」とか「クソジ
ジイ」と言う子どもは、いくらでもいる。冗談だとわかっているから、それほど気にならない。問
題は、相手が気にしていること、あるいは気にしそうなことを、ズケズケと言う場合だ。しかもス
レスレのことを言い、またそれを言い合うことを、親しみの表れと誤解しているような場合だ。ど
こかテレビの低俗番組のお笑いタレントのようだが、今は、そうでない子どもをさがすほうがむ
ずかしい。

 最近の子どもは、先生に対して、畏敬の念をなくしたとよく言われる。それはその通りだが、
こういうとき子どもの側ばかりが問題になる。しかし教師の側にも問題がないのか。学校レベ
ル、あるいは教育委員会レベルでもみ消される、教師によるハレンチ事件は、あとを断たな
い。授業にしても、参観用の授業と普通の授業が、天と地ほど違うことを、子どもたちなら皆、
知っている。また教育、教育と言いながら、自分たちが選別されていることを、子どもたちは感
じ取っている。しかもこの傾向は、高学年、さらに中学校になるほど、強くなる。ズケズケともの
を言う子どもは、こういうスキ間をねらって生まれる。

私「臭いか?」
子「臭い」
私「そうか。ありがとう。このところ、女房もそれを教えてくれなくてね。君のおかげで、恥をかか
なくてすむ」
子「もうかいているでしょ」
私「そうだな。申し訳ない。これからも臭かったら、臭いと言ってよ。なおすから」 
子「わかりゃ、イーの。わかりゃア」

 私が子どものころは、そういうことを言いたくても言えなかった。回ってきた先生が、鼻クソを
ポタリと机の上に落としたこともある。しかし私は黙って、それをがまんするしかなかった。そう
いう時代がよかったのか悪かったのか、それも私にはわからない。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 管理能力という言葉がある。この管理能力には、行動の管理能力、精神の管理能力、情緒
の管理能力などがある。

 ここでいう「ズケズケ言う子ども」というのは、行動(言動)の管理能力に欠ける子どもというこ
とになる。言ってよいことと悪いことの判断にうとい子どもということになる。たとえば多動性の
ある子どもには、同時に、多弁性がよく見られる。このタイプの子どもは、相手の気持ちもかま
わず、言いたいことを、そのまま口にする。そのため、それによって相手がキズつくということ
が、よくある。

が、その一方で、こうした子どもには、ウラがない。つまりそれだけ、心の中が、わかりやすい。

 教師と生徒の間ではともかくも、親子や兄弟の間では、言いたいことを言うが、信頼関係の
原点である。それがないと、信頼関係そのものを、築くことができない。

 そこで重要なことは、(言うべきことは)言う。しかし自分の心の中で処理できるような、(言わ
なくてもよいこと)は言わない。そういう判断を的確にするということ。またそういう判断のできる
子どもにするということ。

 ただし一言。「アッ、風が吹いた」「カーテンが揺れた」式の、底の浅い、軽薄な言動について
は、そのつど、たしなめること。
(はやし浩司 子供の多弁性 多弁性 子どもの多弁性)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司
 
●しつけの時期(だらしなくなる子ども) 
  
 4、5歳ごろに一度、決められたことに忠実になる時期がある。母親が花を切っていたりす
ると、「先生がねえ、お花、切っちゃダメって、言っていたよ」と。あるいは食事をしながらテレビ
を見ていたりすると、「パパは、この前、食べているときは、テレビを見てはダメと言ったじゃな
い」と。

この時期をうまく利用すると、しつけがしやすい。しかしそれが「頂点」。この時期の過ご
し方が悪いと、どういうわけだか、子どもはだらしなくなる。具体的には幼稚園児より、小学生。
小学生より中学生のほうが、概して、だらしない。学校の周囲を見ても、一番空き缶やゴミが多
いのが、中学校だ。

 先日も街中を歩いていたら、5、6人の男子高校生が飲んだ空き缶を、道路へポイと捨て
た。そこで私はこれ見よがしにその空き缶を拾って、近くのゴミ箱に入れてやった。すると高校
生たちはすっとんきょうな声を張りあげて、「イーヤーミィ」と声を合わせた。また別の日。どこか
の家のまん前で、犬に便をさせていた女子高校生がいたので、私が注意すると、こう言った。
「ここ、アンタの家?」と。

 理由は簡単だ。世間を知れば知るほど、まじめに生きるのがバカらしくなる。子どもたちは年
齢とともに、世間を広げ、それを知る。善か悪かといえば、この世の中、悪のほうがずっと多
い。そういう悪の中でうまく立ち回ることを、スレるというが、子どもたちは年齢とともに、ますま
すスレる。しかもこの傾向は都会ほど強い。そこで私は以前、こんな格言を考えたことがある。
「子どもは社会の縮図」と。

これは社会に4割の善があれば、子どもの中にも4割の善。社会に4割の悪があれば、子ども
の中にも4割の悪が育つという意味だ。社会を是正しないおいて、どうして子どもを是正できる
か。よい例が自然教育。おとなたちが一方でさんざん自然を破壊しておいて、子どもたちに向
かって、「自然を大切にしましょう」は、ない。少し話はそれるが、私は禁煙運動を精力的にして
きたが、息子の一人がどこかで喫煙を覚えたのを知って、その運動はやめた。自分の息子が
吸っているのに、他人に向かって、「タバコをやめましょう」は、ない。反論もあろうかと思うが、
私はそう考えた。

 一方、まじめな子どももいる。ある日一緒にバスを待っているとき、「ジュースを買って飲もう
か」と声をかけたら、「私はこれから夕食を食べるから、いい」と言って、断った女の子(小4)
がいた。そこで私は自分なりに、いつどのように子どもが分かれていくのか観察してみたことが
ある。子どもは、いつ頃からだらしなくなるか、と。その結果得た結論が、冒頭に書いた事実で
ある。4、5歳ごろ、である。

 この時期までにしつけをうまくして、それに合わせた思考回路をうまく作ってあげると、子ども
はまじめになる。一方、その時期をだらしなく過ぎると、子どもはだらしなくなる。ほかにもいろ
いろな要因があるが、そういうことだ。そして一度だらしなくなってしまうと、なおすのが大変難し
い。身についたシミのようなもので、なかなか落とせない。だからこそ、この時期のしつけが大
切なのだ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ジュースを断った女の子については、よく覚えている。ただ、ここで(小4)と書いたが、(小3)
だったかもしれない。名前を、Aさんと言った。

 で、そのAさんと、それから10年くらいしてから、それについて話しあったことがある。そのと
きAさんは、オーストラリアの大学に留学していた。が、Aさんは、「覚えていません」と。「そんな
ことありましたア?」と。ケタケタと笑っていた。

 そのAさんが、私にこんなことを頼んだ。「いつか結婚するとき、結婚式に来てくれますか?」
と。私は、一も二もなく、「いいよ」とだけ、返事をした。つまり私は、Aさんを、子どものときか
ら、全幅に信頼していた。その信頼感は、あの自動販売機の前でできたものだと思っている。

 ただ残念なことに、Aさんは、そのままオーストラリアに居ついてしまった。今は、オーストラリ
ア人の男性と結婚して、パースに住んでいるという。
(はやし浩司 子どものしつけ まじめな子供 まじめな子ども)


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●肩書き人間(悪しき学歴人間)

 私のいとこの義父に、国の出先機関の長をしていたのがいる。死ぬまで、長の名札をぶらさ
げて生きていたような人で、本人が「自分は偉いのだ」と思うほど、世間は相手にしなかった。
葬式か
ら帰ってきた母は、こう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。

 老人が老人社会へ入るためには、過去の肩書きを捨てなければならない……らしい。過去
の肩書きにこだわっていると、周囲の者が近づかない。恐れ多いからではなく、そういう人とつ
きあっていると、疲れるから。が、こういう人たちにはそれがわからない。どこへ行っても、「私

尊敬されるべきだ」というような態度をとる。

 戦争をはさんで教育を受けた人たちというのは、とくにこの傾向が強い。「立派な社会人にな
る」ことイコール、善と、徹底的に叩きこまれている。ここで言う立派な社会人というのは、言う
までもなく「肩書きのある人間」をさす。あるいは「肩書きを見せただけで、相手がひれ伏す人
間」をさす。

 実際、この日本は肩書きのある人は、それだけで得をする。一方、肩書きのない人は、せっ
かくその力があっても、社会に埋もれてしまう。肩書きのある人は、それはそれでいいと思うか
もしれないが、一方でそうでない人を、いかに虐げているか、それを忘れてはならない。仮にあ
なたはいいとしても、あなたの子どもはどうだろうか。あるいはあなたの孫はどうだろうか。あな
たがもっているような肩書きを手にすることができるだろうか。

 人間の価値は、肩書きではなく、何をしたかによって決まる。こんなわかりきったことが、この
日本で住んで、生活しているとわからなくなる。先のいとこの義父も、同年齢の人と会うたび
に、「あなたは何をしていましたか」と聞いていた。よほどそのことが気になるらしく、自分より立
場が上だった人にはペコペコし、そうでない人に向かっては、胸を張った。年下の人に向かっ
ても、少しでもできが悪そうに見えたりすると、「君は、算数が何点ぐらいだったかね」と聞いて
いた。あるいは「こんなのは、簡単な計算で解けるよ。こんなのもわからないのかね」と言った
りした。

唯一の趣味といえば、新聞や雑誌への投書。毎日のようにせっこらせっこらと書いては、新聞
社や雑誌社へ送っていた。たいてい自画自賛で、読むに耐えない文章だったが、私の母は「偉
いもんだ」と言っては、その記事を人に見せていた。

 その人はその人で、懸命に生きてきたのだろう。彼とてその時代の価値観に染まっただけ
だ。かく言う私だって、私の生きた時代の流れに染まっている。彼がまちがっているということ
にもならないし、私が正しいということにもならない。あるいは次の世代の流れが正しいというこ
とにもならない。ただ私の立場で言えることは、こうした悪しき肩書き人間は、世界では通用し
ないということ。それだけではないが、それも含めて、こういう過去の流れをここで止めなけれ
ばならない。私のいとこの義父には悪いが、肩書きで自分の人生を見失ってはいけない。……
と私は思う。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 権威主義の人は、電話のかけ方をみればわかる。動物的なカンで(?)、相手が自分より
(上)か(下)かを判断する。そしてそれに応じて、電話のかけ方が、まるでちがう。(上)の人に
は、ペコペコし、(下)の人には、威張った言い方をする。

 こうした権威主義が家庭に入ると、親子関係そのものを破壊する。親にとっては居心地のよ
い世界かもしれないが、子どもにとっては、そうではない。その居心地の悪さが、親子の間に、
キレツを入れる。

 これからは親の権威だけで、子どもをしばる時代ではない。またそれでは、子どもを指導する
ことはできない。
(はやし浩司 権威主義 肩書き人間 肩書きで生きる人)


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●超辛口教育論(子どもには本物を)

 音程がズレたような、チャラチャラしたジャリ歌手の歌う歌を、「名曲だ」と思い込んで、
CDやMDを聞き入っている若い人たちを見ると、「かわいそうだ」と思う。「あんな音楽しか知ら
ないのか」と思ってしまう。が、我が身を降り返れば、そうばかりは言っておれない。私たちも中
学生や高校生のときは、そういう歌手の歌う歌を、毎日のように聞いていた。

 今朝もテレビのチャンネルを入れると、タレントカップルの破局を大げさに報道していた。見
るからに知性のひとかけらも感じないようなカップルだが、そんなカップルの破局が、日本中の
ニュースになること自体、不思議なことだ。男のほうが名古屋駅を歩く様子が報道されたが、
報道陣に混じって、若い女性たちがキャーキャーと、声を張りあげていたのが印象的だった。
が、私たちだって、同じようなことをしていた。

 子ども時代、なかんずく幼児期には、本物を見せておく。画家をしている知人にそのことを話
すと、こう教えてくれた。「絵といっても、子どもを圧倒せんばかりの大きな絵がいい」と。食べ物
も、飲み物もだ。最近の子どもたちは、おいしい食べ物はと聞くと、ファーストフードのハンバー
グ。おいしい飲み物はと聞くと、自動販売機のジュースをあげる。しかしこうした食感覚にして
も、いかに不自然なことか。ニセモノばかり見たり、聞いたり、食べたりしていると、子どもは、
皆、そうなる。

 となると、私たちの時代はどうだったのかということになる。私自身もニセモノばかり見て育っ
た。いや、ニセモノしか、周囲になかった。当時はそういう時代だったように思う。5円で買うラ
ムネにしても、10円で買う駄菓子にしても、味はついていたが、それだけのものでしかなかっ
た。今から思うと、「どうしてあんなものばかり欲しがったのか」とさえ思う。

 かく言う私も、高校時代に口ずさんだ歌謡曲を聞くと、たまらないほどの懐かしさを覚える。た
だ私の場合、学生時代はずっと合唱団にいたし、その後も、ごく最近までパソコンミュージック
が趣味で、自分で作曲したりして、より高度な(?)音楽を楽しむことができた。そういう視点で
考えると、どこか損をしたような気分にもなる。人生は長いようで短いし、短いなら短いで、もっ
と本物に触れておけばよかったという気持ちだ。つまりニセモノに染まっていた時代の自分が、
何となく一方で、時間を無駄にしていたようにしか、思えない。

 さて、子どもたちはどうか。今、本物を見ているだろうか。あるいは本物とニセモノを見分ける
力は育っているだろうか。私はこれについては疑問だ。「たまごっち」というゲームに夢中になっ
ていても、小さな虫を見ただけで、キャーキャーと逃げ回る子どもはいくらでもいた。あるいは
「たまごっち」をしている子どもの横で、「殺せ、殺せ!」とはやしたてている子どもはいくらでも
いた。さらに「たまごっち」が終わったあと、本物の動物を育て始めたという話しは聞かない。果
たしてこのままで、いいのだろうか。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本物を、いつどうやって見せていくか……。しかし実際には、子どもたちは、親が見せるより
も先に、テレビや雑誌などによって、ニセモノをニセモノと見抜けないまま、それを本物と思いこ
んでしまう。

 そこで大切なことは、「子どもに見せよう」「教えよう」と考えるのではなく、親自身が、自分で
本物を見ることではないだろうか。日々の生活の中で、いつも本物だけを見て、それを評価す
る。またそういう目を養っておく。これは子どものためというより、あなた自身のためでもある。

が、だからといって、子どもも本物を見るようになるとはかぎらない。イギリスの格言に、『水場
に馬を連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』というのがある。最終的に、子
どもが自分の世界で、どういうものを見るかは、親の問題ではなく、子どもの問題ということに
なる。
(はやし浩司 本物 本物を見せる)


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●教育の裏の、人間ドラマ(女房が妊娠した!)

 ある日突然、一人の男が私の部屋に飛び込んできて、こう言った。「うちの女房が、妊娠し
た。どうしてくれる!」と。寝耳に水とは、まさにこのこと。私が驚いて戸惑っていると、その様子
から察知したのか、男は急に態度をやわらげ、「すまん、すまん。カマだ」と。話をよく聞くと、こ
うだった。

 私は「幼児教育は母親教育」という信念から、毎日のように母親教室を開いていた。しかしそ
れがよくなかった。その男の妻は、私の話を聞くたびに、家で「はやし先生が……」「はやし先
生が……」と言うようになってしまった。夫であるその男には、あまり愉快なことではなかったら
しい。で、そういう最中にその男と妻は、はげしい夫婦喧嘩をした。喧嘩をして、妻が家を飛び
出してしまった。その男は、妻が私のところに逃げたに違いないと思った。冒頭の話は、そのと
きの続きである。

 またこんなこともあった。ある日幼稚園の庭で園児を迎えていると、黒塗りの外車がスーッと
止まった。そして中から細身の紳士が飛び出し、ツカツカと私のところへやってきて、「貴様が、
はやしか!」と。ものすごい剣幕である。私が「そうです」と言うと、いきなり「このヤロウ!」と言
って、数発、殴りかかってきた。避ける間もなかった。気がつくと私は、地面にたたきつけられ
ていた。男はそのまま帰っていったが、私にはまったく身に覚えがなかった。かけつけたほか
の先生たちが、「どうしたの?」「どうしたの?」と。私は、ポカンとするしかなかった。

 すぐにその紳士が、A君という子ども(年長児)の父親であることがわかったが、そこで一人
の年配の先生が、「A君と何があったか話してごらん」と。私はA君のことを話した。

 「いやあ、A君がいつも忘れ物ばかりするから、昨日も電話して、もう少しけじめのある生活を
してくださいと言いました」と。するとその先生はパチンと手を叩いて、「それよ!」と言った。「け
じめ」という言葉が悪かったのだ、と。A君の母親は、その男の愛人だった。何気なく使った言
葉だが、その言葉が、A君の母親を大きくキズつけてしまっていた。

 ほかにB君という子ども(年長児)が、C君という子どもにいじめられていたから、C君の母親
に、それを注意したことがある。私は軽い気持ちで、「何か家庭で不満に思っていることがある
のではないですか」と言っただけなのだが、その父親が、名誉毀損だと騒ぎ始めた。そして何
回か抗議の電話がかかってきたあと、私を裁判所へ訴えるとまで言い出した。結局この事件
は、私が謝罪する形で決着したが、あと味の悪さだけは、いつまでも残った。

 こうした事件を通して、私は多少なりとも、利口になった。毎日開いていた母親教室は、週一
回にしたし、使う言葉も慎重になった。もう少し正直に言えば、子どもの教育のことで、出しゃば
るのをやめた。相手から聞かれるまで言わないという姿勢をもつようになった。教育、教育と言
いながら、その裏では、さまざまな人間のドラマが展開している。(以上、01年記「子育て雑
談」)

(付記)

 教育の世界には、『問われるまで、言うな』という大鉄則がある。わざわざ火中の栗を拾うよう
なことは、してはいけない、と。拾えば、大ヤケドをする。

 先日も、ある小学校で、校長と、こんな会話をした。その校長のほうから、こう言った。「あの
3年B組、金P先生という番組ね。あれほど、教育現場を混乱させている番組は、ありません
よ」と。

 「つまり親たちは、ああいう番組を見て、金P先生のような先生こそが、理想の先生だと思い
こんでしまう。そしてそれを現場の私たちに求めてきます。しかし実際には、教育は、そんな単
純な仕事ではありません」と。

 私も同感である。それはちょうど、ピストルをバンバンと撃ちあうようなシーンを見て、「刑事の
仕事というのは、そういうもの」と思いこむのに似ている。現実には、ありえない。もっと言え
ば、教育の世界は、無数の欲望が複雑にからみ、ドロドロしている。家庭の事情も、千差万
別。さらに子育てには、その親の人生観や哲学観がすべてからんでくる。

 一介の教師の、人生観や哲学観だけで、解決できるほど、子どもの世界の問題は、単純で
はない。


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●短気な子ども(引き金は引かない)

 短気な子ども、つまりすぐカッとなりやすい子どもというのは、確かにいる。しかしそういう表面
的な症状にだまされてはいけない。どんな人でも、短気なときは短気だし、そうでないときは、
そうでない。では、何がそうさせたり、そうさせなかったりするのか。

 子どもたちを観察してみると、こんなことがわかる。子どもたちはカッとなるときは、ほぼ条件
反射的にそうなるということ。何か気にさわることを言われたり、されたりすると、カッとなる。つ
まりある一定の分野で、いつも緊張感をもっている。そしてその緊張感を刺激されたとき、カッ
となる。たとえばある子どもが、「明日の宿題がやっていない」と、心のどこかで思い悩んでいた
とする。子どもはそのことを、心のわだかまりにしている。そういうとき、家族の誰かが「宿題は
やったの?」と声をかけると、それが引き金となって、子どもはカッとなる。「うるさい!」と。

 緊張感のない分野については、カッとなることはない。かなりはげしいことを言われても、子ど
もたちはそれを冗談ととらえる。心にまだ余裕があるからだ。わかりやすく言えば、短気な子ど
もはいつも短気というわけではないし、またそうでない子どもでも、痛いところに触れられるとカ
ッとなる。

 A子さん(年長児)は、母親が「ひらがなを書いてみようね」と言っただけで、別人のように急
変し、そして暴れた。ふつうの暴れ方ではない。母親に向かって手当たり次第にものを投げつ
けた。

 B君(小4)は、父親が何か疑いをかけるようなことを言うと、やはり急変した。「この貯金箱
のお金のことだが……」と。B君は、それだけで「自分が(盗んだと)疑われた」と思ってしまっ
た。父親はこう言った。「ふだんは静かで穏やかな様子なのですが、一度そういう状態になる
と、ピリピリとした雰囲気になります」と。 

 こうした緊張感は、親子の間、友だちどうしの間、さらには教師と子どもの関係にも生まれ
る。そしてそれが刺激されたとき、それぞれの立場で子どもは、カッとなる。ひどい場合には、
キレる。

 もっともこれだけで、子どもたちが「キレる」原因を、すべて説明することはできない。しかし大
半の子どもたちが、「勉強」という言葉に強い反応を示すのも事実で、親が「勉強しなさい」と言
っただけで、カッとなる子どもはいくらでもいる。つまりそれだけ「勉強」に対してわだかまりや、
あるいは緊張感をもっているということになる。あるいはそれ以前の段階として、抑うつ感をた
めこむ。

 子どもがカッとなったら、そんなわけで、子どもがどういう分野で、どういうように緊張感をもっ
ているかを判断する。もしそこに何らかのわだかまりを感ずることができたら、そのわだかまり
にはできるだけ、触れないようにする。要するに引き金を引かないようにする。(以上、01年記
「子育て雑談」)

(付記)

 情緒が不安定な子どもというのは、それだけいつも、心が緊張状態にあるとみる。その緊張
状態にあるところに、不安や心配が入りこむと、その不安や心配を解消しようと、一気に、情緒
が不安定になる。カッとなったり、グズッたりする。

 だから「うちの子は、情緒が不安定だ」と感じたら、何が、その子どもの心を緊張させている
かを、観察、判断する。
(はやし浩司 情緒 子どもの情緒 子供の情緒 情緒不安 情緒不安定)


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●ふえる睡眠障害(寝る前は興奮させない)

 年長児の子どもたち、10人に聞いてみた。「君たちは、恐い夢を見るか」と。すると、その
中で3人が、「見る!」と答えた。「死体の夢を見る」「ワニに食べられる夢を見る」「迷子になっ
た夢を見る」「ロボットに追いかけられる夢を見る」「誰かに食べられる夢を見る」など。

 この答には驚いた。私は幼児というのは、恐い夢を見ないものだとばかり思っていた。見るに
してもときどきで、しかも朝になれば忘れてしまうものだ、と。しかし子どもたちは、あたかもそ
の朝見た夢であるかのように、ワイワイと言って、それを説明してくれた。

 睡眠中というのは、本来、もっとも心身ともに、リラックスした状態になる。またそうでなければ
ならない。特に子どもの世界ではそうで、もしそうでないというのなら、どこかに問題がある。

 この話とは別に、睡眠障害になる子どもがふえている。「夜更かしする」「朝、起きられない」
「夜中に起きる」「なかなか寝つかない」など。夜驚症(夜中に狂人のようになって、大声をあげ
たり、暴れたりする)や、夢中遊行(ねぼけてフラフラとさまよい歩く)になる子どももいる。わか
りやすく言えば、静かに眠って、ぐっすり休んで、爽快な気分で朝を迎えることができない子ど
もがふえているということだ。私の実感では、約50%の子どもに、その傾向が見られる。恐
い夢を見る子どもを含めたら、もっと多いかもしれない。

 原因は、日中のストレスだとよく言われるが、私はもっと身近な問題にあると思う。これはあく
までも「思う」というレベルの話だが、その一つがテレビであり、テレビゲーム。

 子どもにとっては、睡眠前の数時間には、特別の意味がある。特に年少の子どもほどそう
で、この時間、子どもを興奮させたりすることは禁物。心を少しずつ落ち着かせ、やがて睡眠
へと導いていく。少なくともごく最近まで、人間は過去数10万年間、そうしてきた。が、それが
乱れた。子どもたちは寝る間際まで、テレビを見ている。テレビゲームをしている。

しかしこの時間帯に興奮させれば、その睡眠そのものが乱される。根拠はないが、こんなこと
は常識だ。幼稚園児でも、平均して午後八時半前後には床につく。しかし平日でも、幼児向け
番組は、午後5時〜7時台に集中している。午後七時〜九時台には、一応、おとな用とはなっ
ているが、
小学生でも見たがるような番組が、目白押しに並んでいる。こういうものを野放にしておいて、
「うちの子どもは、なかなか寝なくて困る」は、ない。

 子ども、特に幼児には、日没後は、静かな生活を大切にする。そして静かな眠りに入るため
の準備をさせる。そのために、一つの方法として、テレビのスイッチは切る。もちろんテレビゲ
ームなど、言語道断。眠る間際まで、「やっつけろ!」「殺せ!」「倒せ!」と叫んでいて、どうし
て静かな眠りに入ることができるのか。ある子ども(小5男児)は、真夜中にガバッと起きて、
テレビゲームをしていた(姉の話)。もちろんこういう症状が見られたら、即刻、子どもからゲー
ムを遠ざけるようにする。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も、最近は、午後8、9時以後は、ビデオ類などを見ないようにしている。この時間帯に一
度、脳ミソを興奮させると、そのまま、寝つかれなくなってしまう。そしてさらに一度、眠りそこね
てしまうと、今度は、午前0時過ぎまで、眠れなくなってしまう。(時には、午前2、3時まで寝つ
かれないこともある。)

 子どものばあいも、同じと考えてよいのでは……。とくに子どものばあいは、就眠儀式(ベッ
ド・タイム・ゲーム)のあり方に注意する。子どもは、眠る前、毎晩、同じこと(儀式)を繰りかえ
す。そのしつけに失敗すると、睡眠不足を引き起こし、さまざまな症状を見せるようになる。
(はやし浩司 子供の睡眠 睡眠不足 就眠儀式)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●塾ブルース(10%のニヒリズム)

 塾を開くのに、認可も許可もいらない。届出も必要ないし、資格もいらない。もしあなたさえそ
の気になれば、明日からだって塾は開ける。塾は通産省の職業区分では、サービス業になっ
ている。

 こう書くと、塾は簡単な商売だと思う人がいるかもしれない。事実その通りだが、それだけに
競争もはげしい。毎年雨後の竹の子のように塾は生まれ、そしてつぶれていく。10周年記念
ができる塾は、何割もない。さらに20周年、30周年記念ができる塾は、10パーセントも
ないのではないか。現在、ほとんどの個人塾はつぶれ、残っているのは、中、大手規模の進学
塾か、チエーン化された塾だ。

 塾は、通産省ではサービス業になっている。そのことは冒頭で述べたが、塾でしていること
は、教育ではない。指導である。中に「教育だ」とがんばっている塾教師がいるが、がんばらな
ければならないところに無理がある。少なくとも世間は、教育機関とは認めていない。

 その塾。毎年あちこちの私塾会に誘われて顔を出すが、酒が入り始めると、本音が出てく
る。おもしろいのは、むしろこちらのほうだ。昼間は「新学力観の問題点とは……」と論じていた
ような教師でも、「塾教師なんて……」と話し始める。そういうところで取材した話をここで書くの
も気が引けるが、たとえばこんなことを言う。「塾教師が教え子の結婚式に呼ばれることはまず
ないよ。いくら苦労した生徒でもね」とか、「中学が受かったとたん、ハイさよならね。あとは塾
へ来たことそのものを、隠す」とか。

 この世界には「10%のニヒリズム」という言葉がある。いくら「指導」に専念しても、全力投
球はしない。全力投球すれば、キズつくのは、結局は塾教師。どんなに専念しても、最後の
10%は自分のためにとっておく。生徒に裏切られても、キズつかないためだ。

 もっとも10%のニヒリズムを意識する教師は、まだ誠実なほうだ。たいていの塾教師はもっ
とドライ。「生計のため」と、はっきりと割りきっている。むしろこういう塾のほうがわかりやすい
し、今の世の中に受ける。手のこんだ料理よりも、ファーストフードのレストランの料理のほうが
おいしいと思う人は、いくらでもいる。

 おまけに塾教師には、当然と言えば当然だが、保障はまったくない。退職金もなければ、年
金もない。30年勤めても、ハクなどつかない。明日病気になって倒れれば、それで塾はおし
まい。収入もそれで途絶える。こういう世界から、学校の先生をながめると、本当に学校の先
生は恵まれていると思う。いろいろたいへんだろうとは思うが、それでも恵まれている。

そうそう学校の先生にそんなグチをぶつけた塾の教師がいる。そしたらその学校の先生は、こ
う言ったという。「くやしかったら、学校の教師になればよかったではないか」と。「私たちは教育
に生
きる。あんたたちは教育で生きる」(塾教師1氏談)とも。

 一見気楽な商売(?)に見える塾の世界だが、もの悲しいブルースは、毎日のように聞こえて
くる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 本当に自由な教育というのは、「塾」でこそ、可能である。しかしその自由な教育をすれば、そ
の塾は、あっという間につぶれる。

 そこで本当に自由な教育をするためには、長い時間をかけて、塾教師は、コツコツと、信用と
実績をつみあげるしかない。いきなり自由な教育、というのは、土台、ムリ。反対の立場で考え
てみれば、それがわかる。

 ある日いきなり、あなたの近所に塾ができた。自由な教育をするという。そういう塾に、あなた
は、自分の子どもを預けるだろうか。預けることができるだろうか。子どもを預けるということ
は、親にとっても、それほどまでに覚悟のいることなのである。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●代償的過保護(自分のために子どもを愛する)

 過保護は過保護だが、親の支配欲を満たすためだけの過保護を、代償的過保護という。い
わば過保護モドキの過保護のことになるが、外見上は、一般の過保護とは区別がつきにくい。

 ふつう過保護には、そうするだけの理由、つまり心配の「種」がある。病気ばかりしていたか
ら、子どもを運動面や食事面で過保護にするなど。しかし代償的過保護には、それがない。こ
のタイプの親は、「親に甘えてくれる子どもがいい子ども」と、とらえる傾向がある。つまり子ども
を管理する一方、子どもには依存心をもたせる。そして結果として、子どもを自分の支配化に
置く。Tさんも、そんなタイプの母親だった。Tさんは、こう言った。

 「息子(27歳)の結婚相手は、私が選んであげます。ヘンな女にくっつかれると、財産を食
いつぶされますから」と。そして息子が好きになった女性との結婚に猛反対して、それをつぶし
てしまった。今でも息子の帰宅がちょっとでも遅れたりすると、それをくどくどと叱っている。

 Tさんが恐れているのは、子どもの自立だった。自立して自分から去っていくことだった。こん
なこともあった。息子が高校三年生のときである。息子が県外の大学に進学したいと言ったの
に対して、Tさんは、反対。そして私のところへ来て、こう頼んだ。「先生のところへ来週にでも
息子をよこしますから、よく説得してやってください。先生の言うことなら聞きますから」と。そし
て帰り際に、「今日、私がここへ来たことは内緒にしておいてくださいよ」と。

 このタイプの親に共通しているのは、他人に心を許さないこと。自分の子どもすら信じていな
い。言いかえると、自己中心性が強く、わがまま。その上、気が小さく、おくびょう。「自分」という
ものがあるようで、どこにもない。Tさんも、いつも世間体を気にしていた。「もっと自分の世界を
広くしないと」と、私は言いかけたが、やめた。Tさんは、そのとき、私よりも一〇歳も年上だっ
た。

 かつてアメリカの教育者が、日本人の子育て法を観察して、こう批判した。「日本人は、自分
の子どもに依存心をもたせることに、あまりにも無関心過ぎる」と。つまり子どもに依存心をも
たせながら、平気でいる、と。その結果かもしれないが、同年齢の子どもを比較しても、アメリカ
人の子どもは日本人の子どもよりも、一回りおとなびて見える。反対に日本人の子どもは、幼
稚っぽい。概して甘えん坊が多い。あの成人式にしても、大半の女の子は、親のスネをかじっ
て、美しい着物を着ているという。成人したという自覚すらない。キャーキャーと式場で騒ぐだ
け。

 要は子育ての目標をどこに置くかという問題に帰結する。いろいろな考え方があると思うが、
「子どもをよき家庭人として自立させる」ということであれば、こうした代償的過保護は、百害あ
って一利なし。子育ての大敵と考える。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 代償的過保護 代償的愛 真の愛)

(付記)

 同じような意味で、私は、よく「代償的愛」という言葉を使う。いわば愛もどきの愛。ニセの愛
をいう。つまりは、親が自分の心のすき間(情緒不安、精神的欠陥)を埋めるために、子どもを
自分の支配下において、溺愛することをいう。

 これは一見、愛に見えるが、決して愛ではない。たとえて言うなら、ストーカーが見せる、身勝
手な愛に似ている。相手の迷惑もかえりみず、その相手にしつこく、つきまとう。ストーカー行為
を繰りかえす本人は、「愛しているから」と言うが、それは本来の愛とは、まったく異質のもので
ある。

 よくある例は、子どもの受験競争に狂奔する親。一見、子どものことを考えているようで、そ
の実、子どものことは、何も、考えていない。だから代償的愛という。
(はやし浩司 代償的愛 自分勝手な愛 身勝手な愛 溺愛 でき愛)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司・

●親孝行の限界(育ててやったではないか)

 親をだます子どもはいる。しかし世の中には、子どもをだます親もいる。だまして、子どもから
お金を巻き上げる。そうでない人には信じられないような話だが、実際にはある。そういう親を
もっている人に向かって、親孝行論を説いても、かえってその人を苦しめるだけだ。Hさん(4
0歳)も、その一人。

 「就職して以来、給料の何割かを、実家の母に送ってきました。母はいつも、『あんたの代わ
りに貯金しておいてやるから』とか、『あんたのかわりに故郷を守ってやるから』と言っていま
した。『先祖を供養せよ』と言って、間接的に、お金を要求してくることもありました。しかしお金
はすべて、自分のために使っていました」と。

 さらに悲劇は続く。Hさんが父親から譲り受けた土地の権利書を、言葉巧みに取りあげ、そ
のまま他人に売却してしまった。「もともと死んだ父の土地でしたが、実家を新築するにあたっ
て、私は2000万円、負担しました。そのお金と交換ということで、土地の権利書を受け取っ
たのです。権利書というのは、それです」と。

 結果、親子の縁は切れた。ついで、親戚との縁も切れた。親戚の叔父や叔母は、表面的な
様子だけを見て、「親不孝者!」とHさんを責めている。無論、Hさんも苦しんでいる。「しかし母
親のことを悪く言うのは、もっとつらい」と。

 子どもは親から生まれる。それは事実だが、子どもの側から見ると、自分が生まれてはじめ
て、親がわかるにすぎない。つまり子どもは親を選べない。このHさんのケースでは、Hさんの
母親は自分の息子を、自分の所有物か何かのように考えているのがわかる。昔はこのタイプ
の親が多かった。しかし一方、子どもの側から見ると、「私は私」であって、決して親の所有物
ではない。親は「産んでやったことを感謝せよ」とか、「育ててやったことを感謝せよ」と言う。「こ
こまで大きくしてやったではないか」とも言う。しかし子どもの側から見ると、そういう親のものの
考え方は、重荷でしかない。

 自分の子どもにいい子になってほしかったら、まず自分がそのいい子になって、手本を子ど
もに見せる。これが親孝行の基本だが、こういうHさんのようなケースを見聞きすると、私には
もう言葉がない。もう少し古い世代の人は、「それでも親は親だから、親に頭をさげるべきだ」と
言う。しかしHさんという、一人の人間を中心に考えると、それもおかしい。Hさんもこう言う。
「私も二人の娘を育てていますが、育ててやっているという意識はどこかにあっても、娘たちに
はそれを言わないようにしています。それを言ったら、親として、おしまい。親として当然のこと
をしているだけです」と。

 いろいろ考えてはいるが、これ以上のことは、私にはわからない。ただ言えることは、このH
さんのケースを知って以来、私は安易に「親孝行」という言葉を使わなくなった。子育ても難しい
が、親孝行も、それと同じくらい難しい。とくに子どもが成人するころになると、それがつくづくと
わかるようになる。(以上、01年記「子育て雑談」)
 
(付記)

 少し前のこと。まだ電話による相談を受けつけていたときのこと。数日おきに、あれこれと電
話をかけてくる母親がいた。

 「今日は、学校に呼び出された」「おかげで、パートの仕事ができなかった」
 「先日は、近所の看板を倒してしまった」「おかげで、その弁償をさせられた」
 「今日は、学校から電話がかかってきて、給食費を請求された」などなど。

 私はその電話を聞きながら、「その程度の問題なら、どこの家庭にもあるのになあ」と思って
いた。しかしそれを口にすることはできない。その母親は母親なりに、真剣に悩んでいた。

 が、ある日、気がついた。その母親は、子どものことをあれこれ問題にしているが、そうでは
ない、と。つまり、その母親にとっては、子育てそのものが、苦痛なのだ。子育てがいやだか
ら、あれこれ問題を自分で作って、それで悩んでいるだけ。あるいは結婚そのものに、問題が
あったのかもしれない。

 つまり大もとに1つの問題があり、それがあれこれ姿を変えて、その母親を悩ませていた。…
…というような例は多い。

 ここでいう「産んでやった」「育ててやった」と言う親も、そうである。どこかに犠牲的精神がとも
なうということは、すなわち、子育てがそれだけ苦痛であることを意味する。本来なら、親は、子
どもにこう言わねばならないはず。

 「おまえのおかげで、人生を楽しくすごすことができた。ありがとう」と。

 それがあるべき、子育ての本来の姿ということになる。
(はやし浩司 子育て 親の恩 恩着せがましい子育て)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●サトシ君(いじめ問題の陰で)

 サトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ
ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのサトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆(静岡県)にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、サトシ君の祖
母から聞
いた話だ。

 祖父はサトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。サトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とサトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。帰る道す
がら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、サトシ君は、「高校に合格しますように
と祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように祈らなか
ったか」と。そこでサトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「サトシ君」で呼ぶようになった。とても
呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、サトシ君のような子どもも
いる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しかっりと
判断する。愚かな人ばかりではない。サトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内の
K高校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。サトシ君は、見るからに人格が違ってい
た。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐えない
と、子どもがひ弱になってしまう。

今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に
相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの訴えることに、とことん耳を傾けてやること
でしかない。子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と励ましてあげることでし
かない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師にも、できることには限
界がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、 親や教師の務めではないかと、私は思う。
(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 人は、ドン底に落ちると、2つのタイプの人間に分かれる。そのときから、徹底した善人にな
るタイプと、徹底した悪人になるタイプである。どちらの道を選ぶかは、紙一重。

 そこまで深刻な問題ではないにせよ、子どもの世界でも、同じようなことが起きる。いじめを
受け、それをバネに、ここに書いたサトシ君のようになる子どもと、同じように、今度は反対に、
いじめる側に回る子どもである。「いじめられる前に、いじめてやれ」という考え方である。

 そういう意味では、いじめる側の子どもが、すべて「悪」とは言い切れない。(もちろんいじめ
は、悪いことだが……。)抑圧されたうっぷんが、長く蓄積されて、それがいじめに転化すると
いうことも、子どもの世界では、よくある。

 それにいじめる側は、それを(いじめ)と認識していないケースも、多い。軽い遊びか、ふざけ
のつもりで、それをする。しかしいじめられる側にとっては、そうではない。ちょっとした相手の
言動を、おおげさにとらえてしまう。そういうケースも、多い。

 さらに「A君がいじめる」と言うから、学校の先生に相談して、A君を近くから排除してもらう。
すると今度は、その子どもは、「B君がいじめる」と言い出す。そこでまた今度は、B君を近くか
ら排除してもらう。が、つぎに今度は、その子どもは、「学校の先生がいじめる」と言い出したり
する。そういうケースも、少なくない。

 これを「ターゲットの移動」という。つまりその子どもは、もっと大きな心の問題をかかえてい
て、それが原因で、学校へ行きたくないだけである。それがわからないから、親や先生は、子
どもの言うことに、振りまわされてしまう。そういうケースも、多い。

 ここに(いじめの問題)のむずかしさがある。
(はやし浩司 いじめ いじめの問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育の「陰」の部分(作られる私たち)

 教育には教えて教える部分と、教えずして教える部分の二つがある。前者を「陽」の部分とす
るなら、後者は「陰」の部分ということになる。たとえばこの日本で教育を受けていると、都会へ
出て、大企業に就職することが大切なことで、反対に、田舎に残り、農業をすることは、つまら
ないことだという意識を植えつけられてしまう。

さらに集団の中で、肩書きをもち、名誉や地位を得ることは大切なことであり、反対に集団から
離れて、一人で生きることは、変わり者のすることだという意識を植えつけられてしまう。これが
教育の「陰」の部分であり、そういう意識が大きな流れとなって、子どもたちの将来像を形づく
る。

 こうした教育の「陰」の部分は、外国の教育と比べてみると、それがよくわかる。たとえば軍事
政権が幅をきかせているような国では、当然のことながら、子どもたちは軍人になることイコー
ル、理想の未来像ととらえる。戦前の日本を例にとるまでもない。マルコス政権下のフィリッピ
ンもそうだったし、今のベトナムもそうだ。

一方、オーストラリアでは、自然保護団体の職員の地位が、日本のそれとは比較にならないほ
ど高いし、欧米では福祉団体の職員の地位が高い。この日本では、戦後、一貫して「金儲け」
イコール、善という社会観が定着している。私たち団塊の世代は、就職先といえば、一にも、二
にも、商社や銀行、あるいは大企業を考えた。

 教育されるのは、子どもたちばかりではない。親もまたそうで、たとえば子どもが不登校を起
こしたりすると、親ははげしい絶望感に襲われる。この日本では集団から離れることは、恐怖
以外、何物でもない。しかしそういう集団性とて、教育の「陰」の部分に過ぎない。幼児のときか
ら、幼稚園の先生は、こう言う。「(幼稚園を)休むと、遅れますから」と。かくして幼稚園や学校
は、行かねばならないところという無意識の意識を植えつけられる。そういう子どもが親にな
り、それを代々繰り返すうちに、今の日本ができた。

 問題は、いつどのような形で、その「陰」の部分に気づくか、だ。気づいた段階で、教育に対
する考え方が、一変する。「私は私だ」と思っているあなただって、「作られた私」を、あなたの
中に発見する。たとえば私の父は、「(天皇)陛下」という言葉を耳にしただけで、いつも体をブ
ルブルと震わせていた。その父とて、結局は戦前の教育で、そのように「作られた」だけなの
だ。

 さて、あなたはどうだろうか。あなた自身を冷静にながめてみてほしい。あなたの中に巣くう、
あなた自身の価値観を、ながめてみてほしい。あなたは今、子育てをしながら、どのような価値
観をもっているだろうか。そしてそれは、あなた自身が自分で考えて手にした価値観なのだろう
か。それとも、昔、いつかどこかで、植えつけられた価値観なのだろうか。ひょっとしたら、あな
たが「私の価値観だ」と思っている価値観は、その「陰」の部分によって作られた価値観かもし
れない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このところ、日本人の意識そのものが、大きく変わりつつある。旧来型の出世主義から、実
力主義へ。それに権威主義も、音をたてて崩れ始めている。そういう意味では、ここに書いた
ことは、実情には、合わなくなっているかもしれない。あくまでも、参考に。

Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司※

●天下の大暴論(子ども知らずの教授たち)

 「子どもにはナイフを持たせろ。親が子どもを信頼している証(あかし)として」と書いた、評論
家がいた。あるいは「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子に
させろ」「子どもにやる気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみれば
いい」「夫婦喧嘩は子どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の
尊さを教えるために、お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた、大学の教授が
いる。ともに、日本を代表する(?)、著名な教育評論家であり、教授だ。

 こういう暴論を書くと、本は売れる。またそういう暴論を書かないと、本は売れない。しかし子
どもには、ナイフなど持たせるものではない。幼児教育の現場では、「マッチやカッターで、遊ん
ではいけません」と教える。またわざと子どもを迷子にすれば、それが子どもにわかったとき、
(わからなくても)、親子の信頼関係は、崩壊する。2、3日、家から追い出してみるとよいとい
う考えにしても、実際には実行不可能だ。もしあなたの子どもが、半日いなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。さらに夫婦喧嘩など、子ども
に見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするなら、話は別だが、そんな夫婦がどこにいる
だろうか。

 さて「命の尊さ」だが、命の尊さは、たとえば身の回りの生き物を通して教える。故人の遺骨
を見せるとは、何事か。私は死んでも、私の骨など、誰にも見せてほしくない。もし子どもに教
えるとするなら、それは教えるのではなく、たとえばペットの死などを、ていねいに弔うことで教
える。「死」があるから、「生」がある。「死の恐怖」があるから、「生きる喜び」がある。もしあな
たがペットの死骸を紙でまるめて、ゴミ箱にポイと捨てるようなことがあれば、子どもは、「死」と
いうものはそういうものだと思う。同時に「生」とはそういうものだと思う。が、もしあなたが死ん
だペットを、ていねいに弔い、その死を悲しめば、子どもは同時に、生きていることの尊さを学
ぶ。そしてそれが命の尊さを学ぶということにつながる。

 私はこういう評論家や教授は、実際には、子どもを教えていないのではないかと思う。もっと
はっきり言えば、どこかの研究室の奥で、子どもの世界を想像しながら原稿を書くから、こうい
う原稿になる。が、世間は、こういう評論家や教授の意見をありがたがる。そして心のどこかで
は「おかしい」と思いながらも、それに従ってしまう。

 暴論は確かにおもしろいが、こと子育てに関する限り、この種の暴論にはじゅうぶん注意した
ほうがよい。子育てに王道はないし、近道もない。流行もないし、時代性もない。あるわけがな
い。人間は、何10万年もの間、子育てを繰り返してきたし、その子育てが、ここ10年や1
00年ぐらいで、質的に変化したと考えるほうがおかしい。要するに子育ても、常識の範囲で
すればよいということになる。その常識があれば、子育てがゆがむということはない。(以上、
01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 暴論 教育の暴論)

(付記)

「子どもとの絆(きずな)を深めるために、子どもを遊園地でわざと迷子にさせろ」「子どもにや
る気を起こさせるためには、子どもを、2、3日、家から追い出してみればいい」「夫婦喧嘩は子
どもに見せよ。意見の対立があることを教えるのに、よい機会だ」「命の尊さを教えるために、
お墓参りをしたら、故人の遺骨を見せるとよい」と書いた大学の教授がいたというのは、事実で
ある。

 最近でも、日本を代表する、教育(幼児教育)者として、別の新しい本を書いている。しかしそ
の教授(現在は、元教授)の言っていることが、いかに暴論であるかは、ほんの少しだけ常識
を働かせてみれば、わかるはず。

しかしその本を読んだのがきっかけで、私も育児論を書く気になった。体中に充満した怒りを、
抑えることができなくなった。恐らくその教授は、肩書きはともかくも、実際には、子どもを指導
した経験がないのではないか。経験がほんの少しでもあれば、とても、そんな本は、書けない。

また「子どもには、ナイフをもたせろ」(A新聞社刊行の小冊子)と書いた評論家は、そのあと、
派手なパフォーマンスをいろいろしてみせた。が、その直後、中学校などで、ナイフ殺傷事件が
つづくと、その評論家は、自説をいつの間にか、ひっこめてしまった。

ときとして、こうした暴論が、社会をにぎわす。そのほうが、(受け)がよいからである。それを読
む親たちは、じゅうぶん、注意したほうが、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●学級崩壊の陰で(学校教育相対論)

 「わしら昔は、学校へ行くのが楽しみだった。学校へ行けば、家の仕事はしなくてすんだから」
と。引佐町(静岡県)で石材屋をしているK氏は、そう言う。私にも、それに似た覚えがある。
たとえば学校の運動会や遠足が、何よりも楽しみだった。運動会には、巻き寿司を食べること
ができた。また当時は、学校で遠足に行くこと以外、旅行で町を出るということはまずなかっ
た。学校で出される給食のほうが、家の食事より、ずっとおいしかった。

 しかし今は違う。子どもにとっては、毎日が盆と正月のようなものだ。食べ物も豊富だし、家
族旅行も、そのつど、している。学校の外には、おもしろいものが、山のようにある。つまり相
対的に、学校の地位がさがった。と、同時に相対的に、学校がおもしろくなくなった。

 幼稚園児とて例外ではない。少しでも作業っぽい学習をさせようものなら、すぐ「つまんナ〜
イ」とか、「もっと、おもしろいの、ナ〜イ?」とか、言い出す。それでも無理に刺せようとすると、
勝手に席を離れて、どこかへ行ってしまう。あるいはほかの子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。
最近の子どもは忍耐力がないとよく言われるが、ないと言えば、まったく、ない。

 誤解がないように言っておくが、子どもの忍耐力は、いやなことをする力のことをいう。たとえ
ば台所の生ゴミを手で始末できるとか、寒い夜に隣の家に回覧版を届けることができるとか。
そういうことを平気でできる子どもを、忍耐力のある子どもという。一日中、サッカーをしている
からといって、忍耐力のある子どもということにはならない。その子どもは好きなことをしている
だけである。

 こうした子どもたちを取り巻く環境の変化に対して、学校教育は、それに応えていない。旧態
依然のまま、30年前、あるいは40年前の教育を繰り返している。子どもたちに「おもしろく
ない」とソッポを向かれても、「子どもたちのほうが、おかしい」と言わんばかりに、文部省も、そ
して学校の教師たちも、努力を怠ってきた。結果、これはあくまでも相対的な変化だが、学校
教育がつまらないものになった。K氏の時代には、学校へ行くのが楽しかったが、今は反対
だ。「明日は学校は休みです」と先生が言おうものなら、子どもたちは、大声で「バンザーイ!」
と叫ぶ。学校が休みになることについて、それを悲しむ子どもなど、まず、いない。

 これだけではないが、つまりほかにも、いろいろな要素がある。が、しかし私は、これが学級
崩壊の大きな原因の一つだと思う。それは自由を知った小鳥を、再び籠の中に押しこめるよう
なものだ。押しこめれば押しこめたで、子どもたちにはストレスがたまる。そしてそのストレス
が、形を変えて校内暴力やいじめに発展する。唯一、子どもをしめつける手段があるといえ
ば、受験でおどすことだが、今はその神通力も消えつつある。

 このままでは学校教育は、完全に崩壊する。あるいはその前に、学校の教師たちが皆、神
経症か何かで倒れてしまう。現在、学校がかかえる問題は、それくらい根が深い。(以上、01
年記「子育て雑談」)

(付記)

 この原稿を書いたあと、「ゆとり教育」が叫ばれるようになり、「総合的な学習」の時間がもう
けられるようになった。

 学校教育も、質的に大きく変動し始めた。今は、その過渡期にあると考えてよい。もちろん失
敗もあるだろうが、試行錯誤の段階と考えるべきではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾VS親(殺伐とした人間関係)

 進学塾の月謝は、平均して2万〜2万5000円(月刊「私塾界」)。しかしこの額では、決
してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。入会金、教材費、光熱費、模擬テスト
代、補講費などが、「万」単位で、次々とかかってくる。しかも支払いは、銀行振り込み。大半の
進学塾は、そういう支払いをカモフラージュするためにか、「ガクヒ」という名目で引き落とす。

親が通帳を見ても、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわからないしくみになっている。
まだ、ある。どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コースにしている。そういう連絡
は小さな文字で生徒に連絡し、お金は前もって自動的に引き落とす。親が、「特訓授業を申し
込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキャンセルできません」と言われ
るだけ。

 こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾でも同じ。……とまあ、こう書くと、進学塾の悪どさ
ばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他
人を蹴落としてでも……」、あるいは、「他人に蹴落とされる前に……」と考えて、親は、子ども
を進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみに利用して、それを金儲けにつなげる。
現在ある進学塾の現実は、親と進学塾の、醜い闘いの結果ともいえる。塾経営者に言わせれ
ば、「親なんて、信用できない」ということになるし、親に言わせれば、「塾は必要悪」ということ
になる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこにも、ない。

 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人
たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるには、ある。しかしそういう塾でも、
「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、
「塾教育は、矛盾と錯覚の連続だ」と結論づけている。矛盾というのは、今言った、ジレンマをさ
す。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大切なもであると、思いこんでいること」だ
そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。

 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリートの凋
落に見られる価値観の変動。それに中高一貫教育に見られる、制度の改革など。そういう中、
したたかな進学塾は、対象学年を、より低年齢化させ、一方大学受験にまで触手をのばし始
めている。金集めを、さらに巧妙化させている。親たちは、そういう事実を知りながら、「この時
期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にとる。もうそこには、「教育」という
概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。

 「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いても無駄です。そも
そもそういうものを期待していない。生徒集めのチラシにしても、4色を使ったカラフルで、豪
華なものでないと、生徒は集まりません。そういう目でしか、教育をながめていないのですから」
と。(以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 進学塾 受験競争 受験の弊害)
 
(付記)

 この日本では、受験は避けては通れない。しかしやり方は、あるはず。そのやり方を考えるこ
となく、子どもたちをただ、競走馬のようしにて競争させることが、本当に(教育)なのか。私た
ちは、もう一度、冷静に、考えなおしてみる必要がある。

 たとえばアメリカでは、成績だけでは、有名な大学には入れない。そこで各学校や、指名され
た教師に、推薦権なるものが与えられる。その推薦を受けて、人格的にもすぐれた子どもが、
その有名大学へと進学していく。

 もちろんこの推薦権を濫用すれば、その推薦権が剥奪(はくだつ)されたりする。だから各学
校は、こぞって真剣に、どの子どもを推薦するかを、独自の立場で検討する。

 日本ではそれにかわるのが、内申書ということになる。が、その大前提として、教師自身に、
子どもを見る目がなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●教育も適当に!(やり過ぎは、かえって……?)

 当初は喜んでくれた父母も、それが長く続くと、当たり前になる。そしてそれを前提として、父
兄はものを考えるようになる。教育というのは、そういうものだが、問題はそのあとに起こる。
やがて教師はその重圧と多忙から、ふつうの状態に戻ろうとする。しかし父母はそれを許してく
れない。いろいろな例がある。

 ある教師は子ども(小3男児)が、掛け算がまだ苦手なことを知って、毎日授業が終わると、
その子どもを残して、九九を教えた。掛け算でつまづくと、割り算ができなくなり、この二つでつ
まづくと、その子どもは算数がまったくといってよいほど、できなくなる。

 で、やっとのことで掛け算の九九を覚えたころには、割り算の授業は終わっていた。そこで今
度はその教師は、割り算の特訓をしたが、やっとその割り算ができるようになったころには…
…、あとはこの繰り返し。こういうケースでは、子ども自身も、先生の努力を評価しない。子ども
は先生の特訓を「バツ」ととらえる。「できないから、先生はぼくにバツを与えているのだ」と。適
当にしておかないと、かえって子どもを苦しめることになる。

 親は親で、掛け算ができるようになると、「もっと……」と、先生に期待する。そしてその期待
が要求に変わり、要求に答えるのが、教師の努めだと考えるようになる。が、教師とて人間。
聖人ではない。スーパーマンでもない。生徒といっても、30人もいる。できることにも限界が
ある。そこでそういう子どもから手を引こうとすると、親は、「何という教師だ!」となる。

 以前、熱血教師という言葉がもてはやされた。武田T也が扮する、金P先生という人気番組が
あった。しかし教育に携わったことがある人なら、誰でもわかることだが、あれはドラマ。ピス
トルをふりかざして、バンバン撃ち合う、刑事ドラマの類だと思えばよい。あんなことは現実に
は、ありえない。もし金P先生のような先生がいたら、その先生はあっという間に、身も心もズ
タズタにされてしまう。現実の世界は、もっと毒々しい。

 私も教師になりたてのころは、親のウソに、さんざん引き回された。すでによその幼稚園へ入
園届けを出したあとに、「今の担任の指導についていけません。先生のほうから、クラス替えの
ことで、園長にお口添えいただけないでしょうか」と。こんなこともあった。

 明らかに過保護児特有の症状を見せている子どもがいた。原因は、おばあちゃんだったが、
その日は、たまたま母親が、迎えに来ていた。そこでその母親に、「少し、おばあちゃんから離
したほうがいいですよ」と言ってしまった。が、この一言が、そのあと大問題になってしまった。

 ほぼ一か月後、再び母親に会うと、母親は別人のようにやつれた形相をしていた。そしてこう

った。「先生、あれから大変だったのですよ。祖父母と別居か、さもなくば離婚かということにな
りまして、結局、祖父母も別居に同意してくれました」と。

私の一言が、それまでくすぶり続けていた嫁・姑戦争に火をつけた形になってしまったが、こう
いうケースは日常茶飯事。適当にすますところはすます。教育には、そんな面も必要だ。(以
上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 それぞれの家庭には、外からは見えない、複雑な問題がある。100の家庭があれば、それ
ぞれの家庭がかかえる問題は、100種類、ある。そういう家庭の中へ、独断と偏見だけで、一
介の教師が、土足であがりこんでいってよいものか。私が見た、金P先生の番組の中には、金
P先生が、その子どもの親と、その子どもの家で、酒を飲みながら、子どもの教育について論じ
あうシーンがあった。いかにもテレビドラマといった感じのシーンだったが、しかし現実には、そ
んなことはありえない。また、教師たるもの、そこまでしてはいけない。

 教師の本分は、学校という場で、教育をすることである。その点、カナダでの学校教育は、徹
底している。教師は、教室の中で、自分のする教育には、全責任を負う。しかし生徒が一歩、
教室を出たら、何が起きても、それはもうその教師の責任ではない。そのため、学校側は、教
師の住所はもちろん、電話番号すら、教えない。

 日本の病院の中における、医療制度を思い浮かべてみればよい。医師が、それぞれの家庭
にあがりこんで、健康について、患者と議論するなどということがありえるだろうか。もしそんな
ことをすれば、病院における医療行為そのものに、さしさわりが出るようになる。

 今、学校の教師たちは、本当に、いそがしい。そのため、肝心の教育そのものが、おろそか
になる傾向さえ見られる。が、だれも、それでよいとは、思わない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●受験に狂奔する親たち(学歴信仰の陰で)

 「期末試験のころになると、お粥しかのどを通りません」と言った親がいた。「進学塾の光々と
した明かりを見ただけで、頭の中にカッと血がのぼります」と言った親もいた。さらに「子どもが
寝そべってテレビを見ていたりすると、それだけで子どもがダメになっていくようで、不安でなり
ません」と訴えた親もいた。自分の子どもが選別されていくというのは、親にとって恐怖以外、
何物でもない。こういう親を、一体、誰が笑うことができるか。

 ある親は子どもの塾通いのために、免許を取り、軽自動車まで買いそろえた。また別の親
は、子どものテストで採点ミスがあったりすると、学校まで乗り込んでいって、それを訂正させて
いた。子どものために、子ども部屋を増築したり、コピー機を買い入れたりする親になると、い
くらでもいる。ふつうは質素な生活をしていても、子どもの教育のこととなると、惜しみなくお金
を使う親も多い。30万円もする英会話教材をそろえたり、40万円もする百科事典をそろえ
たりするなど。休みのたびに、外国へホームスティさせる親もいる。

 念のために申し添えるなら、こういう親を、私は批判しているのではない。それぞれの親に
は、それぞれの思いというものがあり、その思いをこめて、親は、子どもを育てる。私のような
立場の者が、とやかく言う問題ではない。教育の世界には、「内政不干渉」という大原則があ
る。しかも教育というのは、まさにその人の人生観そのもの。他人が「まちがっている」とか、
「おかしい」などと言うほうが、まちがっている。

 しかしこれだけは言える。自分の意思でそうしていると思っている人でも、結局はもっと大きな
力によって動かされているに過ぎないということ。そしてその力とは何かと言えば、自分の心の
奥底に潜む、無意識の意識であるということ。ある女の子(小5)は、首にお守りをさげてい
た。私が不用意にそれに手をかけ、「これは何?」と聞いたときのことである。その女の子はギ
ャーッと、ものすごい声を出して私の手をはらいのけた。そしてこう言った。「汚(けが)れるか
ら、よして!」と。私は「ごめん、ごめん」とあやまったが、その女の子をそうさせたのは、その無
意識の意識である。つまりそれと同じことが、教育の世界でも起きている!

私「あなたは、本当に自分の意思で、子どもに勉強をさせているのですか」
親「私の意思です。勉強は必要だと考えるし、それを子どもにさせるのは、正しいことです」
私「誰かにそう操られていると、考えたことはありませんか」
親「ありません。あくまでも私の意思です」と。

 私は同じような会話を、いつか、どこかで、カルト教団の信者としたことがある。彼らもまた、
自分たちが絶対に正しいという信念のもと、自分の意思で動いていると主張してやまなかっ
た。学歴信仰が信仰と言われるゆえんは、そこにある。 (以上、01年記「子育て雑談」)
(はやし浩司 教育カルト 学歴信仰 教育のカルト性)

(付記)

 「私はカルトとは無縁」と思っている人でも、無数のカルト的信仰をもっている。その1つが、
学歴信仰ということになる。が、ほとんどの親たちは、学歴信仰が何であるかもわからないま
ま、それを信仰している。信仰しているという自覚すら、ない。

 さらに信仰であるがゆえに、その人から、そのカルト性を抜くのは、容易なことではない。中
には、学歴そのものを、本尊か何かのように、大切にしている人もいる。そういう人から、学歴
信仰を抜くと、かえってその人は、大混乱を起こす。精神不安になる人さえいる。その前に、猛
反発する。私に向って、「あなたにとっては、他人の子どもだから、何とでも言える。自分の子ど
もに向って、同じことが言えるか!」と、食ってかかってきた父親さえいる。

 私が、その子どもの父親に、「受験勉強はあきらめたほうがよい」とアドバイスしたときのこと
である。その子どもは、過負担が原因で、燃え尽きる一歩、手前にいた。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●恐るべき集団性(思考回路の形成)

 80〜90%の子ども(年長児から小2児)が、「ポケモン」にはまった(99年春)。その前
は、やはり同じくらいの子どもが、「たまごっち」にはまった。この原稿を書いているとき(99年
3月)には、「だんご3兄弟」という、たわいもない歌が、子どもたちの世界を支配し始めてい
る。

 私たちの時代にも、フラフープや、ダッコチャンが、流行したことがある。そういう時代を知っ
ているから、今の時代だけが特殊だとは思わない。しかしどこか違う。私たちは流行にハマり
ながらも、流行は流行として、現実の世界との間に、一線を引いていた。……引くことができ
た。しかし今は、違う。

子どもたちは流行にハマりながら、現実と空想の間の垣根をとっぱらってしまう。そして現実の
世界に、空想、あるいは空想の世界に、現実を持ち込んでしまう。あるいは空想の世界に、逃
げ込んでしまう。そういう子どもが少数派であれば、まだいい。互いにブレーキをかけることが
できる。しかしそれが全体となったとき、ブレーキをかける人間がいなくなってしまう。子どもた
ちは暴走するまま、仮想現実の世界に入り込んでしまう。

 「超能力がほしい。そういう力があれば、ビルを吹き飛ばすことができる」と言った子ども(中
1)がいた。そこで私が、「吹き飛ばしたいと思うのは、君の勝手だが、それが君の家だった
ら、どうするのだ」と聞くと、「ぼくの家は、だいじょうぶ。超能力で守るから」と。ずいぶんと身勝
手な考え方だが、そう答える子どもは真剣だ。真剣にそういう「力」があることを、信じている。
信じた上で、自分の論理を組み立てる。が、問題はここから始まる。

 脳には思考回路というものがある。人間は自分の思考回路に従って、ものを考えるという傾
向がある。たとえばかつて和歌山市で、「ヒ素中毒事件」というのがあった。誰が犯人かは知ら
ないが、犯人は「ヒ素でものごとを解決する」という手法を見につけた人物であることには、まち
がいない。ヒ素と遠い距離にある人には、想像もつかない。が、その犯人は、ヒ素と、近い距離
にあった。……と思う。ほかにたとえば私は物を書くのが仕事だから、何か問題があれば、文
を書くことによって解決しようとする。つまりそれぞれ自分の思考回路に従っているにすぎな
い。

 一度、仮想現実の世界でものごとを考えるくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そ
の思考回路に沿ってものごとを考えようとする。あるいは問題を解決しようとする。これがこわ
い。たとえば幼児期に論理的なものの考え方を見つけた子どもは、ものの考え方が論理的に
なる。そうでない子どもは、そうでない。つまりこの時期に、仮想現実の世界でものごとを考え
るくせのついた子どもは、以後、何かにつけて、そういう世界でものごとを考えようとする。そし
てそれが、いつカルト(狂信)へと発展するかもしれない。

 私は子どもたちの流行を見ながら、それを心から心配している。(以上、01年記「子育て雑
談」) 

(付記)

 この日本では、テレビゲームを批評したり、批判したりすると、たいへんなことになる。猛烈な
抗議の嵐がわき起こる。珍現象といえば、珍現象。しかも抗議してくるのは、20代を中心とし
た若者たちである。

 ゲームの世界にハマっている若者たちにすれば、そのゲームが批評されたり、批判されたり
するということは、自分を否定されるのと同じということになる(?)。だから猛烈に反発する
(?)。私のほうは、親切心で、「ゲームには、あぶない部分もありますから、注意したほうがい
いですよ」「とくに子どもに与えるゲームには、注意したほうがいいですよ」と言っているだけで
ある。が、それに対して、反発とは!

 私の息子の友人などは、ゲームにはまりすぎて(?)、現在、おかしくなってしまった青年すら
いる。精神病院に入退院を繰りかえしながら、もう3か月になるという。そういう事実があること
も、忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●国家論(よき家庭人)

 欧米の子育ての柱は、「自立したよき家庭人を作る」こと。このことについては、もう何度も書
いたが、「家庭人」と言うと、日本人は、すぐ「小市民的な生き方」を連想する。しかし家庭人イ
コール、小市民ではない。

 たとえば戦争が起きたとする。そして他国が日本を侵略してきたとする。そのとき日本人は、
「国のために戦う」と言うかもしれない。しかし欧米人は、「家族を守るために戦う」と言う。あの
ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」でも、最後のシーンの中で、主人公のアメリカ人は、
「(国のためではなく)、マリアのためになら死ねる」と叫んで、機関銃を撃ち続ける。

 「国」という言葉が出たので、もう少しつけ加えるなら、日本人は「国があっての国民」と考え
る。一方、欧米人は、「家族を守るために、その集合体としての国がある」と考える。もう少し具
体的には、戦前の日本では、「国」というのは、「天皇」をさしていた。(今も、そう考えている人
は多い。)つまり私たち国民は、あくまでも天皇の臣下に過ぎない、と。

しかし欧米人にとっては、国というのは、あくまでも一つの単位に過ぎない。オーストラリアの友
人とこんな会話をしたことがある。「君たちは北からインドネシア軍が攻めてきたら、どうする
か」と聞いたときのことである。彼はこう言った。「故郷のスコットランドへ家族を連れて逃げる」
と。そこで「国を守らないのか」と聞くと、「オーストラリア人が横一列になって手をつないでも、
オーストラリアの端から端まで、カバーできない。どうやって守ることができるのか」と。彼らが
国を意識するとすれば、それは思い出のしみこんだ国土をさす。日本人のように、抽象的な概
念としての「国」を想定しない。

 こうした国民意識の違いは、そのまま教育の場にも反映される。日本は明治以来、「国(=天
皇)のための国民づくり」が、教育の柱になっている。今もそうだ。国が栄えれば、国民も自動
的に豊かになれる。あるいは企業が栄えれば、社員も自動的に豊かになれる。宗教団体の中
にも、そう考える教団は多い。教団が栄えれば、信者も自動的に幸福になれる、と。さらに県レ
ベル、市町村レベルでも、そう考える人も多い。つまり教育は、常にそういう視点、言いかえる
なら全体主義的な視点で、子どもをとらえてきたし、今もとらえている。しかし、こんな考え方
が、21世紀に通用するはずがない。

 「よき家庭人」というのは、まさに個人主義的な生き方そのものを象徴する。また子どもにそう
教えたからといって、それは決して、子どもに「小さくまとまれ」と教えるのでもない。「よき家庭
人」というのは、「まず自分を大切にせよ」と教えることをいう。そしてその視点で、社会を考え、
国を考え、また社会や国がどうあるべきか考えよと教えることをいう。繰り返すが、国や社会が
あるから、あなたがいるのではない。あなたがいるから、国や社会がある。そういう視点の基
本となるのが、ここでいう「自立したよき家庭人」という考え方なのである。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 家族主義を主張する人たちが、ここ5、6年の間に、急速にふえてきた。99年前後には、ど
んな調査をみても、30〜40%だったのが、最近では、80%以上の人が、家族主義を唱える
ようになった。日本人の意識が、革命的に変化しつつあることを示す。

 考えてみれば、当然のこと。今までの出生主義、権威主義のほうが、まちがっている。幸福な
どというものは、遠くにあるのではない。私たちの身のまわりに、じっと息をひそめて、そこにあ
る。それに私たちは、気がつき始めた。

 そのため、これまた当然のように、「国」に対する考え方も、変わってくる。今までは、「国あっ
ての民」と考えた。しかしこれからは、「民あっての国」と考える。つまり日本人も、やっと、民主
主義の意味がわかるようになった。

 こうした(流れ)に対して、もちろん抵抗勢力もある。旧態依然の考え方に、固執している人も
いる。決して、年配の人たちばかりではない。が、ここで重要なことは、こうした(流れ)を、私た
ちは、守ることはあっても、決して、後退させてはならないということ。

 国、民、そして国の基本法である憲法のあり方は、その結果として、自然に決まる。
(はやし浩司 国家論 民主主義 民主主義論 家族主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●進学塾の合格発表(子どもは宣伝のダシ)

 今年も新聞紙2面を使って、高校入学試験合格者の名前が、発表された。ただし新聞社自
身がそうしたのではない。どこかの進学塾が、それをした。

いわく「今年度、S塾出身の合格者」と。その下にはすぐ、「ここに名前をあげた子どもは、中途
退会者を含まず。模擬試験だけを受けた人を含まず」とある。つまり「正規の(?)塾生の名前
だけだ」と。その進学塾としては、精一杯の良心(?)を演出したつもりなのだろう。以前は、模
擬試験だけに参加した子どもまで合格者に並べて、世間のひんしゅくを買った進学塾がたくさ
んあった。

 しかし、こういうことが堂々とできるところに、問題がある。いくら言論や出版の自由があると
はいえ、そこには教育に携わる者の、一片の良識が感じられない。たとえば合格者名を発表
するぐいらいなら、不合格者名も発表すべきでないか。あるいは、その人数だけでもいい。どこ
の病院が、治療成功者の名前など、新聞紙上で発表するだろうか。もう少し、身近な問題で考
えてみよう。

 仮にあなたに10人の生徒がいたとしよう。そしてそのうち、7人が合格し、3人が落ちたと
しよう。そういうときあなたは合格した子どもに向かって、「よくやったね、おめでとう」と言うこと
はできても、祝賀会など開けるものではない。祝賀会など開けば、残りの3人がキズつくだけ。

もともと受験指導というのは、一人の生徒を合格させれば、別のどこかで1人の生徒を不
合格にさせるだけだ。その底辺では、毒々しい、人間の醜い欲望が渦巻いている。そういうこと
も考えると、ますます祝賀会など、できなくなる。

 もし本当に合格者を祝いたいのなら、こっそりとすればいい。その進学塾がこうして、大々的
に新聞紙上で、合格者の名前を発表するのには、もっと別の意図がある。つまり宣伝である。
「うちの塾は、これだけの合格者を出している。もし受験を考えるなら、うちへ来い」と。わかり
やすく言えば、名前を出された子どもは、宣伝のダシに使われたに過ぎない。ダシになる子ど
もも子どもだが、そういうふうに子どもをダシにしながら、みじんも恥じない進学塾も進学塾だ。
そうまでして、お金を稼ぎたいのか!

 まだある。進学塾は、A高校、S高校など、静岡県下の主だった、進学高の合格者だけを発
表していたが、こういう形で、世間が必死になって忘れようとしている高校の序列を見せつけて
いる。

こういう高校を受験して不合格になった子どももかわいそうだが、そういう序列を見せつ
けられて、不愉快に感じている親や子どもは、その10倍はいる。進学塾にとっては、序列の
低い高校など、高校ではないのだ。まだある。こうして進学校に入り、名前を出してもらった子
どもは喜びながら、ゆがんだエリート意識を植えつけられる。「ぼくたちは、ほかの人間とは違
うのだ」と。皆が皆、そうなるとは思わないが、子どもがそうなる危険性は高い。

 どこをどう考えても、そんなわけで、こういう進学塾の合格者発表は、異常である。こういう宣
伝がなくなったとき、日本の教育は正常になる。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 4年前には、かなり過激なことを書いていた……と、自分でも、そう思う。しかし進学塾のあく
どさは、私自身も20代のころ、その進学塾で講師をしていたことがあるので、よく知っている。
で、その当時の印象があまりにもよくなかったので、今でも、その印象を、心からぬぐい去るこ
とができない。

 しかし今では、ふつうの私立高校などが、進学塾から講師を招いて、教育指導を受ける時代
になった。つまり高校自体が、進学塾化している。

 しかしここで誤解していけないことは、進学塾があるから進学競争が過熱しているのではない
ということ。それを求める親や子どもたちがいるから、過熱する。そしてなぜ過熱するかといえ
ば、そこに不公平社会があるからである。親たちは、日々の生活をとおして、その不公平さを、
肌で感じている。

 そのことは今の中国をみれば、わかる。拡大する貧富の格差の中で、進学競争は、今の今
も、過熱の一途をたどっている。つまりこの不公平社会が是正されないかぎり、進学競争もま
た、是正されない。

 もちろん努力した人や、がんばった人たちが、それなりによい生活をするのは、当然である。
しかし今のこの日本では、そうではない。ないことは、あなたの周囲を見れば、わかる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●去り際の美学(わだかまりをつくらず)

 教育には入り口と出口がある。学校でいえば、入学式と卒業式がある。この二つの行事がい
かに大切なものであるか、それは教育をしてみると、わかる。まず入学式だが、そこで教師が
生徒や父母に与える、第一印象は、その後の教育のあり方全般にわたって、大きな影響を与
える。反対にこのときに「わだかまり」をつくると、それを取り除くのに、何倍もの努力とエネル
ギーを、必要とする。

 もう一つは卒業式だ。この卒業式のやり方をまちがえると、これまた大きな「わだかまり」をつ
くってしまう。「どうせ別れるのだから、どうでもいいではないか」と思う人がいるかもしれない
が、そうはいかない。不愉快な別れ方をすると、自分の人生そのものを無駄にしたような感じ
てしまう。もともと教師というのは、どんな立場の教師であれ、自分の時間を切り売りしているよ
うなところがある。仮に4年間、教えた子どもがいたとしよう。そうすると教師というのは、「あ
あ、自分の人生の20分の1は、この子どもとともに過ごしたのだ」と考える。

 これは教師側の意見だが、しかし問題は、父母のほうにある。いくら教師側がそう思っていて
も、父母の中には、机を蹴っ飛ばすようにして去っていく人がいる。それぞれ、いろいろな思い
があってそうするのだろうが、しかしこういう別れ方は、その後の人間関係を完全に破壊する。

ある塾の教師はこう言った。「何が頭へ来るかといってですね、小さな紙切れ一枚、あるいは
電話一本で、『やめます』と言ってくるケースですよ」と。「中には、月末の最後の授業のあと、
つかつかと私のところへやってきて、『今日でやめます』と言ってくる子どももいます。まだある。
『今度、B塾へ行くことになったけど、そちらがおもしろくなかったら、また戻ってきます』と言うの
もいる」と。

塾教師にとっては、「やめる」というのは、「クビを切られる」ことと同じである。それが親にはわ
からない。親にとっては塾というのは、どこまでも自動販売機。それに近い存在。私も「形」は、
塾という形で子どもの指導をしているから、その教師の気持ちはよく理解できる。
 
昔から「初めよければ、終わりよし。終わりがよければ、すべてよし」と言う。私の場合、相手
が幼児だから、よけいにそうなのだろうが、100人教えて、10年後に連絡を取り合ってい
る生徒は、1人ぐらいなものではないか。20年後となると、さらに少ない。もちろん連絡を取
り合っていないからといって、人間関係が消えたというわけではない。最近では、教え子たち
が、息子や娘を連れて、私のところへ来てくれる。

 さて私の場合だが、去り際の美学というのを、常に考えている。いくら頭にきても、あるいは
内心では不愉快に思っていても、きれいに別れるようにしている。人生は長いようで短い。人
の出会いも、多いようで少ない。こちらにもいろいろな「思い」はあるが、別れたとたん、その子
どものことはすべて、忘れるようにしている。そういう形で、自分の心を整理したり、あるいは掃
除したりして、また次の子どもを迎えるようにしている。 (以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 私も若いころは、紙切れ一枚でやめていく生徒がいたりすると、がく然とした。今でもそういう
生徒がいないわけではない。それに今でも、そういう気持、つまりがく然とする気持ちが、消え
たわけではない。

 が、この世界はそういう世界であると、ずいぶんと前に、割り切った。不愉快な思いをするだ
け損だし、不愉快な思いをしたところで、その生徒がもどってくるわけではない。だから不愉快
な思いをするといっても、その瞬間だけ。あとは忘れる。何もかも忘れる。その生徒の思い出
も、名前も。つまりそうして、私は、自分の心を守る。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●医学志願(理想と現実)

 A高校二年の担任が、こう言った。「うちの生徒のうち、20人が、医学部をめざしている」
と。20人といえば、約50%弱ということになる。実は私の三男もそうだったので、ある日こう
言った。「本当になりたいと思うなら、E病院へ行って、その二階の待合室で、一日を過ごして
みろ」と。あそこは消毒薬と悪臭、それに患者の体臭がプンプンと臭う。廊下にポタポタと血が
落ちていることもあるし、ベッドの上で、で、ゲーゲーと吐いている人もいる。「そういうところで
もよかったら、医者になれ」と。

 一方、日本では今、おかしなことが起きている。静岡県は豊かな県だからあまり目立たない
が、鳥取県や島根県へ行ってみると、それがよくわかる。さびれた寒村や町の中で、病院や医
院だけが、やたらと目立つ。虫歯だらけの口の中に、ところどころ金歯があるようなもの。立
派な建物と言えば、病院や医院だけ。それらが周囲の建物とは不釣あいなほどに、目立つ。
言うまでもなく、それだけ国によって手厚く保護されているためである。

 こういう現実を見せつけられると、誰しも、医者になりたいと思う。「医者は儲かる」と。実際、
医者は高額な所得を手にしている。そういう部分だけを見ると、不公平な感じがするが、では、
本当にいい仕事なのかどうかと言えば、疑わしい。世の中には、(汚い・きつい・臭い)という三
Kの仕事があるというが、医者の仕事は、まさにその三K。そういう職場に、優秀な人材を集め
ようと思えば、待遇面で優遇するしかない。要はバランスの問題だが、それでもなおかつ、医
者には魅力があるらしい。それが冒頭で述べた、「50%弱」である。

私「お金が儲かるから医者になりたいと思うと、まちがえるぞ」
子「そうではないけど」
私「世の中には、世間の評判とはまったく違うが、すばらしい仕事はいくらでもある」
子「たとえば……」
私「ぼくは幼児を教えているが、これほどすばらしい仕事はないと思う。子どもは健康だし、純
粋だ。生きる力が満ち溢れている」
子「でも……」
私「でも、何だ?」
子「みんなが笑う……」
私「どうして笑う? あのタレント業にしても、ぼくたちが子どものころは、役者と呼ばれて軽蔑さ
れていた。が、今は違う。そういう目で職業を考えなくてはダメだ」

 それから一年。結局私の息子は医学部をめざすのをやめた。今は、宇宙飛行士になりたい
などと言っているが、それはあくまでも夢。宇宙飛行士だって、命がけだ。私などたった一度、
飛行機事故に遭遇しただけで、以後、飛行機恐怖症になってしまった。現実はそんなに甘くな
い。そうそう戦時中は、医学部はどこも定員割れをしていたそうだ。今から思うと、信じられない
ような話だが、事実は事実だ。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 その三男だが、自分の入った大学がどうも肌にあわなかったらしい。そこである日、突然、
「ぼくは、パイロットになる」と言い出した。

 私は、内心では、当初は、迷った。しかし私は三男を支えるしかない。が、ただ一言、こう言っ
た。「お前は、金メダルを捨てて、銅メダルを買うようなものだぞ。それでもいいのか」と。すると
三男は、「ぼくはそうは思わない」と言った。

 私の考え方のほうが、まちがっていた。

 で、今は、そのパイロットになるべく、がんばっている。毎日三男のBLOGを読んでいるが、
生き生きした文面を読むたびに、「これでよかった」と、自分に言い聞かせている。あとは、事
故でも起こさないように願うだけ。親としてできることは、ここまで。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●一流大学は出たけれど……(ゆがんだエリート意識)

 こんなエピソードが、新聞に載っていた。ある東大の学生が、就職試験で落ちた。それについ
てその学生が、「どうして私をとらないのか」と聞いたら、その試験担当の社員はこう答えたとい
う。「君は、もっとも一緒に仕事をしたくないタイプの人間だから」と。

 学歴さえあれば何とかなる時代は、もう終わった。あるいは学歴をひけらかして生きる時代
は、もう終わった。この私にもこんな経験がある。もう20年以上も前のことだが、私は小さな
翻訳事務所を出していた。そこでのこと。時々、外部の人に仕事を頼んだことがあるが、4年
制の英文科を出た人は、まったく役にたたなかった。むしろ外国で数年、遊んできた人のほう
が、ずっと役にたった。実戦力もあった。通訳についても同じ。

 こう書くからといって、教育を否定しているのではない。私が否定しているのは、立身出世主
義のために利用される教育だ。学歴させ身につけておけば、社会的地位や名誉、さらには富
を手にすることができるという考えだ。こういう考えで、教育が利用されたら、たまらない。

 私の同年齢で、T大やK大を出た人が何人かいる。一緒に仕事をしてきた人も多い。たとえ
ばあの出版社のS社にしてもG社にしても、東大や筑波大の社員がゴロゴロしている。大半が
そうであると言っても過言ではない。ただ救いなのは、そういう人たちでも、ごくふつうの社員と
して、仕事をしているということだ。特別のエリート意識を感じさせる人はいない。世間を「下」に
見ているということもない。大企業か中小企業かの違いを除けば、私の町にある会社の社員
と、区別がつかない。

 高い学歴があるなら、あるでいい。しかし人間は、その中身。その中身で決まる。そういう意
味で、大学を卒業したら、知識や学力(学ぶ力)だけを残して、一度、学歴を捨ててみることが
大切ではないか。あるいは学歴そのものを忘れてしまう。そして一度、裸になったところからス
タートする。

 日本のエリートは、エリートはエリートでも、何かが欠けている。冷たいというか、ドライという
か、どこか人間味が薄い。ものごとをソツなく、合理的にできるが、万事、事務的。その理由を
すべて受験勉強にもっていくことはできないが、私は、あの受験勉強が大きな影響を与えてい
ると思う。勝てば勝ったで、へんなエリート意識をもつし、敗れれば敗れたで、へんな挫折感と
劣等感を植えつけられる。どちらにころんでも、それは人間が本来もっているはずの、「やさし
さ」とは、相容れないものだ。
もちろん子どもたちには罪はないが、問題は子どもたちのCPU(中央演算装置)が狂っている
ため、子ども自身が自分の「狂い」に気がつかないことだ。それが本来の人間の姿であり、ま
たそれが当然だと思いこんでしまう。そしてそのままそれを、次の世代に伝えてしまう。そして
冒頭に述べたような大学生を作ってしまう。つまり「勉強ができれば、社会は自分を優遇すべ
きだ」という、実に鼻持ちならぬゆがんだ、エリート意識をもってしまう。  (以上、01年記「子
育て雑談」)  

(付記)

 中国には、「小皇帝」と呼ばれる子どもたちがいるそうだ。裕福な家庭に生まれ育ち、勉強し
か、しない。勉強しか、できない。勉強だけがすべてで、家庭の中では、皇帝のように振る舞っ
ている子どもたちである。

 先日もそういう子どもがテレビ(NHK)で紹介されていたが、まさに「皇帝」といった感じだっ
た。自分は学校から帰ってくると、デンとソファに座っているだけ。そこへ母親や父親が、かし
づくようにして、お菓子や果物をとどける。

 ……実にこっけいなシーンだったが、20年前、30年前には、この日本でも、同じようなシー
ンが、あちこちの家庭でも見られた。中国は、そういう点では、日本の20年、30年前を再現し
ているのかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●幼稚園児のかけ算(見かけの力)

 幼稚園児でもかけ算の九九を、ペラペラとソラで言うことができる子どもがいる。同じように足
し算や引き算を、スラスラすることができる子どもがいる。あるいは本をスラスラと読むことがで
きる子どもや、漢字を読み書きできる子どもがいる。そういう子どもを見ると、「優秀な子ども」
と思いがちだが、本当にそうか。私にはこんな経験がある。

 ある日のこと。年長児になったばかりのTさんが、本をもってきて、それをスラスラと読んでみ
せた。そこで私は別の本を渡し、「これを読んでみてごらん」と言うと、Tさんは、その本もスラス
ラと読み始めた。私はTさんをほめたが、しかしすぐ、それがまちがいであることに気がつい
た。私が「どんな話だったの?」と聞くと、Tさんは、「わかんない」と。そこでさらに「クマさんはど
こへ行ったのかな?」と聞くと、それも「わかんない」と。Tさんは、文字を音に変えていただけだ
った。

 ついでに言うと、読みの深い子どもは、むしろ一文ずつ意味を考えながら読んだり、挿し絵を

て考えながら読む。子どもにとって大切な「力」というのは、そういう力のことをいう。が、親たち
はそれがわからない。わからないから、いわゆる見かけの力でも、それが力だと思いこんでし
まう。幼児ばかりではない。この傾向は大学へ入るまで続く。

子(小5)「分数の割り算ができるよ」
私「ほう、それはすごいね。それは小学6年生が、勉強するところだよ。どうやってやるの?」
子「分数をひっくり返して、かければいい」
私「なるほど。でもさ、どうしてそうすればいいの?」
子「わかんない」

 話を少し戻すが、計算力は訓練によって伸びる。できない子どもはできないが、しかしそうで
ないなら、訓練によって伸びる。少しずつでも毎日すれば、効果的だ。しかし計算力は計算力。
それだけのものであって、それ以上のものではない。が、問題はここから始まる。

多くの親は、そういう表面的な力(?)を見て、自分の子どもは算数が得意だと思う。そしてそ
れを前提にして、子どもの勉強を組み立てる。そして少しでもその力に陰りが見えたりすると、
無理をする。あるいは新たな学習を強要する。そして一度こういう状態になると、親にも子ども
にも、安らかな日々はもうない。山のようなワーク。転々と移り変わる教育方針。そしてお決ま
りの塾めぐ
り。

 こういうケースでは、最終的に行きつくところまで行かないと、親は気づかない。子どもが多少
できるようになればなったで、親の意識はさらに先へ行く。一度できたものの考え方、つまり子
育ての筋道というのは、そんなに簡単に変えられるものではない。「小さいころは、もっとでき
た」「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない。何かのまちがいだ」を繰り返しなが
ら、行きつくところまで、行きつく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 子どもに、見かけの力をつけることは、それほどむずかしいことではない。説明すると長くな
るが、しかしそれをすると、今度は、子どもに、依存性ができてしまう。

 家庭教育の柱は、「よき家庭人として、子どもを自立させること」だが、同じように、教育の柱
は、「子どもの心に灯をともし、その能力を引き出すこと」。

 そのためには、ある時期がきたら、子どもを自立させなければならない。「こんな先生に習うく
らいなら、自分で勉強したほうが、まし」と、子どもが思うようになったら、しめたもの。そういう
方向に、子どもを、誘導していく。

 それに見かけの力は、いわばメッキのようなもの。やがてすぐはがれてしまう。子どもの本当
の力は、子ども自身が、自ら自分の力を引き出そうとしたときに発揮される。時間はかかる
が、そういう力を、ていねいに育てていく。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●ドラ息子(N君の場合)

 生意気で、教師を教師と思わないような生徒がいる。態度もおうへいで、ふてぶてしい。その
くせわがまま。おとなの世界そのものを、なめきっている。こちらからあいさつをしても、「フン」
と横を向いたりする。概してこのタイプの子どもは頭がいい。何かを教えようとしても、「そんな
の知ってっらア」と、吐き捨てたりする。

 その分、生活を楽しんでいるかと思いきや、不平、不満だらけ。何かにつけて、「たいくつだ」
「つまらない」「もっと、おもしろいことはないか」「何かほしい」「何かしてよ」を繰り返す。口をと
がらせて、露骨に不快感を表現することも多い。いわゆるドラ息子だが、N君(小三)も、そんな
タイプの子どもだった。

 両親は共働きだったが、同居している祖父母に、N君は溺愛された。恐らく幼児期において
は、蝶よ花よとかわいがられ、何一つ家事の手伝いはしなかったのだろう。使った道具を片づ
けさせようとしても、両手を下へくるりと巻いて、それを見おろすだけ。片づけようという意識そ
のものが、ない。ほかの子どもの使った道具について、「一緒に片づけてよ」と指示しようもの
なら、「何で、ぼくがしなきゃア、いかんよオ!」と、大声で抗議したりする。 

 こういう生徒と対峙すると、相当気の長い教師でも、頭にくる。大のおとなが、どうしてこんな
子どもを相手にしなければならないなかとさえ、考えたりする。いや、自分がなさけなくなる。
「教育なんて、やっておられるかア!」という気分にすら、なる(失礼!)。

 しかし問題はそのことではなく、親自身に、その自覚がまったくないことだ。親は自分の子ど
もしか見ていない。N君が一人息子だったこともある。教師というのは、それぞれの子どもを比
較しながら、その子どもの位置づけをすることができるが、親にはそれができない。そういう
「問題のある子」でありながらも、それに気づくことがない。せいぜい私が言えることは、「もっと
家事を手伝わせなければいけない」という程度のことでしか、ない。が、それとて、この年齢
になると、手遅れ。だから自然と口が、重くなる。

 そのN君は、小学4年生になるとき、私の手を離れたが、彼の将来を予測することは、そん
なに難しいことではない。このタイプの子どもはいくらでもいる。私も、何10例と経験してき
た。で、その予測。まずこのタイプの子どもは、やがてすぐに家の中でも、手がつけられなくな
る。親は、そういうわがままな態度に手を焼くが、体力的にも、もう追いつけない。「うるせエ!」
とすごまれただけで、震えあがってしまう。そして親の期待と夢はことごとくつぶされ、結果的に
は、「人様に迷惑さえかけなければ……」というレベルまで、落ちる。

勉強については、そこそこにはできるようになるが、あくまでも「そこそこ」。本人も、自尊心と現
実のギャップで悩むのだろうが、しかし自分自身に原因を求めない。おとなになってからも、社
会や世間、あるいは親を逆恨みしながら、不平、不満タラタラの人生を送る。要はそういう子ど
もにしないこと。そういうことを知ってもらいため、私はこの原稿を書いた。(以上、01年記「子
育て雑談」)

(付記)

 教えていて一番、虚しさを感ずるのは、いわゆる、ドラ娘、ドラ息子に接したときである。この
タイプの子どもは、たとえば料理人が、丹精(たんせい)こめて作った料理を、食い散らすような
ことを平気でする。いくらお金のためとはいえ、がまんするにも限度がある。

 そこで私のばあいは、(つまりBW教室では)、小学生以上の子どもについては、紹介のある
人以外は、入塾を認めていない。実際には、小学生になってから入ってくる子どもは、ほとん
ど、いない。

 こうしたドラ息子、ドラ娘になるかどうかの分かれ道は、年中児から年長児にかけてある。つ
まりこの時期の指導が、きわめて重要。

 で、今、この原稿を読みなおしながら、なぜN君はN君のようになってしまったかについて考え
ている。が、そのN君は、たしか、小学2、3年のときに、私のところにやってきたのではなかっ
たか。決して責任のがれをするわけではないが、私のところへきたときには、すでに、手のほ
どこしようがないほどのドラ息子になっていた。

 それにこのN君の話は、今からもう10年以上も前の話である。なぜ4年前に、そのN君のこ
とを書いたのか、よくわからない。多分、何か、いやなことがあって、そのうさ晴らしのために、
この原稿を書いたのだと思う。自分の生徒のことを、こうして悪く書くのは、私のやり方ではな
い。それに今、読みかえしても、どうも、あと味が悪い。

 削除することも考えたが、これも、私の(一部)。このままこの原稿を、ここに残しておくことに
する。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●「女」になる子どもたち(これも時代の流れ?) 

 女子の性体験は、16歳がピークだという。それはそれとして、その子どもがセックスを経験
しているかどうかは、男の教師なら、すぐわかる。「男を見る目つき」そのものが、ほかの子ど
もと違う。ものの言い方や考え方が、「男」をなめた感じになる。「今度のテストは、がんばった
か?」「フフフ、いいじゃん、どうでも……フフフ」と。

 Tさん(中3)が、大きく変化したのは、中学2年の夏ごろだった。ある日爪を見ると、マニキ
ュアをしたあとがついていた。眉にソリを入れ、しかもかすかだが口紅をしていることもわかっ
た。Tさんは、明らかに「おとなの世界」で遊び始めていた。どういう形で遊んでいるかは、私に
はわからなかったが、携帯電話を始終大切そうに持ち歩いていたから、そういう方面で遊んで
いることは、察しがついた。

 こう書くとTさんのことを、不良(?)と思う人がいるかもしれないが、そういうことはまったく、な
い。頭もよかったし、勉強もまあまあできた。家庭もごくふつうだった。いや、両親が別々に外
車を乗り回していたから、平均的な家庭よりもずっと裕福だったかもしれない。いつかTさん
が、「おやじのマンション」と言ったのを覚えている。父親はマンション経営もしていた。そのTさ
ん、性格も明るく、何かにつけて、大声でよく笑った。

 が、この種の問題は、止めて止められるものではないし、親に言えば、かえってやっかいなこ
とになってしまう。男の「カン」だけで、子どもの指導はできない。そこで私は何度かTさんに、ア
ドバイスを試みた。「同年齢の男の子とつきあったら」と。しかしTさんは、同年齢の男子を、「ガ
キんちょ」と呼んだ上、「あんなガキんちょたち、つまんない」と。そしてこの傾向は、Tさんが中
学3年生になるころには、もっと激しくなった。まさに遊びまくっているといった感じになった。

もうそのころになると、筆箱の中の指輪類を隠そうともしなかった。私が「これは何だ?」と、
指輪の一つをつまんで声をかけると、「いいじゃん」と、あやしげな目つきで、それを私の手
からパッと取り返したりした。もしその場だけのやり取りを見た人がいたら、どこかのスナッ
クか、バーでの男と女の会話だと思ったかもしれない。私自身がドキッとするほど、Tさんの
目つきは「女」のそれになっていた。

 こういうケースを、あなたならどう考えるだろうか。またどうTさんを、どう指導したらいいと考え
るだろうか。あるいは、そもそも指導する必要があるのだろうか。ないのだろうか。男と女で
は、判断のしかたも違うだろう。ある人(女性)は、「親のほうから相談があるまで、放っておくし
かないわね」と言った。また別の人(女性)は、「それも時代の流れでしょうか」と笑った。私は男
だから、もう少しシビアな見方をするが、正直言って、まったくわからない。ただ言えることは、T
さんは今、高校2年生だが、今は何ごともなかったかのように、ごくふつうの学生として、学校
に通っている、ということだ。いやいや、男と女の関係などというのは、もともとそういうものかも
しれない。セックスを楽しむことを、悪と決めてかかるのも、正しくないのかもしれない。

それぞれの子どもは、それぞれの方法で、おとなになっていく。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 少し前だが、道で、男子高校生の落としたサイフを拾ったことがある。中を見ると、その学生
証のほかに、コンドームが2つ、入っていた。

 それを見て、そのサイフを交番へ届けるのが、バカ臭くなった。それでそのサイフを、落ちて
いたところの近くにあった自動販売機の上に、のせた。

 今は、そういう時代である。で、この話を、私の生徒(当時、女子高校生)にしたら、その生徒
は、こう言った。

 「先生、あのね、放課後の教室って、ラブホテルみたいよ」と。「学校の先生は、何も注意しな
いのか?」と聞くと、「だって、先生はこないもん」と。

 こういう問題でカリカリする、私のほうが、おかしいということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●臭い街(相対性理論)
 
 アインシュタインは、相対性理論を唱えた。そんな高尚な理論ではないが、反対の立場で見
ると、ものの価値観が180度変わるということはよくある。

 引佐郡引佐町のT村に住んでいる婦人が、こう教えてくれた。「町の空気は臭いですね」「先
日もアクトタワー(駅前の高層ビル)へ行ったのですが、通路を歩いているだけで、吐き気を覚
えました。食堂からの臭いがあちこちからしてきて、気持ちが悪くなりました」と。

 こういう感覚は町の中に住んでいる人には、当然のことながら、わからない。それに慣れてし
まっているからだ。そういう意味で、「慣れ」というのは、こわい。自分たちのまわりの様子がわ
からなくなる。そしてそれを前提として、ものごとを考えるようになる。

 そのアクトタワーだが、建設費だけでも2000億円とも、3000億円とも言われている。
あの東京の国立劇場が400億円で建設されているから、いかに莫大な額かが、それでわか
る。で、このことを市の役人に話すと、その役人は笑ってこう話してくれた。「はやしさん、そんな
ものじゃ、ありませんよ」と。もっとお金がかかったというのだ。「土地代は別ですから」と。

 さらに、そのアクトタワー。人の通りもまばらで、楽器博物館にしても、閑古鳥が鳴いている。
「音楽の町にふさわしい建物を」と意気込んで建てられたものの、地下に大小、二つのホール
があるにすぎない。建設費を床面積で割ると、百万円の札束を敷きつめたほどのコストがかか
っているという。

 何となくグチになってしまったが、私が言いたいのは別のことだ。町の人間が「町」を考える
と、こういう町づくりになってしまう。そこで私はふと、こんなことを考えた。T村の住人が町づくり
を考えたら、どんな町を作るか、と。彼らがまず真っ先に考えるのは、「臭くない町」だろうと思
う。

具体的には、田舎の様子をそのまま町へ持ちこむ。土や緑をそのまま町へもちこむ。ちょう
ど町の建設業者が、村の土手や小川を、灰色のコンクリートで埋めつくすように、その反対の
立場で、町を土や緑で埋めつくす。互いにそのほうが、居心地がいいからだ。と、考えると、日
本の社会は、実に都会優先にできていると思う。町の価値観が田舎へ来ることはあっても、田
舎の価値観が、町へ入ることはまず、ない。都会らしい田舎づくりをすることはあっても、田舎
らしい都会づくりをすることは、まず、ない。

先の臭いにしても、都会の人が田舎へやってきて、「おいしい空気ですね」と言うことはあって
も、田舎の人が町へやってきて、「臭いですね」とは、言えない。心の中でそう思っても、それを
口に出して言えない。田舎の人がせいぜいできることと言えば、口をタオルでおさえ、顔をしか
めながら、その場から急ぎ足で立ち去ることでしかない。

 町の人は、自分たちはいい生活をしていると思うのは勝手だが、一度、田舎の人の目で、自
分を見てみるとよい。ものの価値観がひっくりかえるということはよくあるし、新しいものの見方
ができるようになるかもしれない。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 都会優先型の社会構造そのものに問題がある。行政にせよ、文化にせよ、すべてが都会側
から一方的に、地方へ流れてくる。反対に、地方から、都会にそれらが向うことは、めったに、
ない。が、こればかりは、いかんともしがたい。

 しかし何も問題意識をもたないのと、問題意識をもつのとでは、ものの考え方が変わってく
る。ときには、田舎の中に自分の視点を置いて、ものを考えることも重要なことだと、私は思
う。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●笑わない子どもたち(萎縮する心)

 子どもというのは皆、大声で笑うもの……と考えているなら、それはまちがいだ。今、大声で
笑えない子どもが、ふえている。10人に2、3人はいる。皆がドッと笑うようなときでも、顔を
そむけてクックッと笑ったりする。原因はいろいろあるが、それだけ心がゆがんでいるとみる。

 まず第一に、過干渉。威圧的な子育て、権威主義的な子育てが日常化すると、子どもの心は
内閉する。次に育児拒否。家庭崩壊や暴力的なしつけが原因で、内閉することもある。最近で
は、「機能不全型家庭」がふえている。家庭が本来果たすべき機能そのものが、欠落している
家庭だ。母親がパチンコに狂う、父親が仕事人間で、家庭を顧みないなど。生活が混乱してい
て、秩序そのものがない。朝食、夕食といっても、時間もめちゃくちゃで、しかも「食」としての形
がない。テーブルの上に、食べかけのパンがころがっているだけ、というように。子どもは満た
されない愛情への欲求不満から、自分の心を傷つける。情緒や精神状態そのものが不安定
になることも珍しくない。

 神経症や脳の機能的障害が原因となることもある。自閉傾向やかん黙傾向のある子ども
は、心のそのものにマクがかかったようになり、いわゆる「何を考えているかわからない子ど
も」になる。自閉傾向のある子どもは、自分の世界に陶酔してしまうので、意思の疎通そのも
のができなくなる。こちらからの働きかけに反応して笑うこともあるが、それが突然であったり、
あるいは場違いなほどおおげさであったりする。ギャーギャーと、勝手に騒ぐこともある。また
かん黙傾向のある子どもは、いつももう一つの心が、別のどこかにあるような感じになる。いつ
も柔和な笑みを浮かべたまま、それでいてまったく話さない。

 子どもは笑わせる。何でもないようなことだが、子どもは大声で笑うことによって、心を開放さ
せる。裏を返して言うと、大声で笑うだけでも、子どもの心がまっすぐ伸びているという証拠だ。
そこでいよいよ本論だが、あなたの子どもはどうだろうか。幼稚園や小学校での様子はどうだ
ろうか。先生の話を聞きながら、大声で笑っているだろうか。それとも笑っていないだろうか。
笑うことはないしにしても、大声で反論したり自分の意見を言っているだろうか。それとも静か
だろうか。

 もしあなたの子どもが静かで、大声で笑うこともないようであれば、あなたは家庭教育のあり
かたを、おおいに反省してみる必要がある。中には「子どもというのは、生まれながらにそうい
う性質は決まっている」と考える人がいるが、それはとんでもない誤解である。子どもは(おとな
も)、生まれながらにして、大声で笑ったり、話したりすることのほうが、自然な姿だ。

 繰りかえすが、幼児教育の世界で、「すなおな子ども」というときは、従順でおとなしい子ども

すなおな子どもとは、言わない。自分の思っていることを、ハキハキと言うことができる子どもを
すなおな子どもという。これも誤解がないように。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 『笑えば、伸びる』……それが私の指導法の柱にもなっている。笑うことには、不思議な力が
ある。その(力)は、大脳生理学の分野でも、近年になってつぎつぎと証明されつつある。

 また「学習」という分野においても、笑うことによって、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれ
てくる。私は、ときには、1時間中、幼児たちを笑わせつづけることがある。大声で、ゲラゲラ笑
わせつづける。

 コツがある。

 子どもを笑わせようとしても、あまり意味がない。それでは、子どもは、笑わない。私自身が、
とことん、楽しむ。楽しんで笑う。そのウズの中に、子どもを巻きこんでいく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●養殖される子どもたち(牙を抜かれる子ども)

 岐阜県の長良川。その長良川の鮎に異変が起きて、久しい。その鮎を見続けてきた1人の
老人は、こう言った。「鮎が縄張り争いをしない」と。武儀郡板取村に住む、N氏である。「最近
の鮎は水のたまり場で、ウロウロと集団で住んでいる」と。原因というより理由は、養殖。この
20年、長良川を泳ぐ鮎の大半は、稚魚の時代に、琵琶湖周辺の養魚場で育てられた鮎だ。
体長が数センチになったところで、毎年3〜4月に、長良川に放流されている。人工飼育とい
う不自然な飼育環境が、こういう鮎を生んだ。しかしこれは鮎という魚の話。実はこれと同じ現
象が、子どもの世界にも起きている!

 スコップを横取りされても、抗議できない。ブランコの上から砂をかけられても、文句も言えな
い。ドッチボールをしても、ただ逃げ回るだけ。先生がプリントや給食を配り忘れても、「私の分
がない」と言えない。これらは幼稚園児の話だが、中学生とて例外ではない。キャンプ場で、焚
き火が予想以上に燃えあがったとき、「こわい!」と逃げてきた男子がいた。小さな虫が机の
上をはっただけで、「キャーッ」と声をあげる子どもとなると、今では、大半がそうだ。

 子どもというのは、幼いときから、取っ組み合いの喧嘩をしながら、たくましくなる。そういう形
で、人間はここまで進化してきた。もしそういうたくましさがなかったら、とっくの昔に人間は絶滅
していたはずである。が、そんな基本的なことすら、今、できなくなってきている。核家族化に不
自然な非暴力主義。それに家族のカプセル化。カプセル化というのは、家族の中だけでしか通
用しない価値観の中で生きることだ。このタイプの家族は、他人の価値観を認めない。あるい
は他人に心を許さない。カルト教団の信者のように、その内部ではわきあいあいと仲がよい。
「私たちは正しい」という信念のもと、返す刀で、他人には「あなたはまちがっている」と言い切
る。

 また「いじめ」が問題視される反面、本来人間がもっている闘争心まで否定してしまう。子ども
どうしの悪ふざけすら、「そら、いじめ!」と、頭から抑えつけてしまう。

 こういう環境の中で、子どもは養殖化される。嘘だと思うなら、一度、子どもたちの遊ぶ風景
を観察してみればいい。最近の子どもはみんな、仲がいい。仲がよ過ぎる。砂場でも、それぞ
れが勝手なことをして遊んでいる。私たちが子どものころには、どんな砂場にもボスがいて、そ
のボスの許可なしでは、砂場に入れなかった。私自身がボスになることもあった。そしてほか
の子どもたちは、そのボスの命令に従って砂の山を作ったり、あるいは水を運んでダムを作っ
たりした。もしそういう縄張りを荒らすような者が現われたりすれば、私たちは力を合わせて、
そいつを追い出したりした。

 平和で、のどかに泳ぎ回る鮎。見方によっては、縄張りを争う鮎より、ずっといい。理想的な
社会だ。すばらしい。すべての鮎がそうなれば、「友釣り」という釣り方もなくなる。人間どもの傲
慢な楽しみの一つを減らすことができる。しかし本当にそれでいいのか。それが鮎の本来の姿
なのか。その答は、みなさんで考えてみてほしい。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 ときどき、わんぱくで、たくましい子どもをみかける。30年前には、まだそういう子どもが多か
ったが、今では、そういう子どもは、むしろ少数派。そのため、集団の中では、目立ち、そのた
め、ほかの父母からは、白い目で見られること多い。

 しかし子どもというのは、ADHD児が見せるような多動性は別として、わんぱくで、自己主張
が強ければ強いほど、あとあと、伸びる。たくましく成長していく。このタイプの子どもは、集団
からはみ出るという理由だけで、決して抑えこんでしまってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++DEC. 05+++++++++++++はやし浩司

●カプセル家族(心のさみしい人たち)

 自分の価値観だけで生きる家族、それがカプセル家族。言葉の上では、それで説明できる
が、その言葉の裏には、とてつもないほど巨大な問題が隠されている。しかしここでいうカプセ
ル家族は、どこかの国の、どこかの町の、ある特殊な家族をいうのではない。あなたの周囲に
もいくらでもあるし、あなた自身の家族がそうである可能性は高い。

 核家族は核家族だが、カプセル家族は、他人の価値観を認めない。心を開かない。ものの
考え方が独善的で、排他的。「私は正しい」という確信のもと、相手に向かっては「まちがってい
る」と断言する。いろいろなタイプがある。子どもを溺愛しながら、「これが親の深い愛だ」と、錯
覚している人。子どもの受験戦争に狂奔しながら、「これが教育だ」と、誤解している人。子ども
を自分の欲求不満のはけ口にしながら、「私は子どものよき理解者だ」と、うぬぼれている人。
いろいろあるが、もとはと言えば、現代社会が生み出した、さみしい犠牲者たちだ。

 考えてみれば、この世の中。生きているのは、自分一人だけ。明日、隣人がお金に困って
も、あなたはその人を助けない。そういう思いが、あなたを孤独にする。あなたとて明日、病気
で倒れれば、万事休す。そういう思いが、あなたの家族をカプセル化する。愛することができる
のは、自分の子どもだけ。学歴は人生のパスポート。学歴さえあれば、何だって手に入る。家
族だけが信じられる相手。他人は誰も信じられない。そうそう一つ、忘れた。お金だ。お金。お
金さえあれば何だってできる。地位や名誉があれば、もっといい。

 カプセル家族には、社会も国もいらない。選挙に行くことすら、バカバカしいと思っている。も
ちろん社会奉仕などというものは、時間の無駄。上辺ではいろいろなことを言いながら、自分
の損になることは何もしない。その上、幸福感も相対的なもので、他人が自分より幸福になる
のを許さない。あるいは反対に、他人が不幸になればなるほど、自分が幸福になったと感ず
る。自分こそが、絶対、正しい。

 今、日本では、家族のカプセル化が、急速に進んでいる。田舎よりも都会。しかも皮肉なこと
に、地位の高い人、収入の多い人、学歴の高い人ほど、それが進んでいる。こういう人たち
は、「自分こそが社会のリーダーだ」と思いこんでいる。あるいは「世間も自分たちに見習うべ
きだ」と考えている。結果、この日本がこれからどうなるか。

 私に見える日本の将来は、殺伐とした砂漠のような世界だ。空気はかわき、心を潤す緑はど
こにもない。人はますます功利的でドライになる。なりながら、それが当たり前だと思う。あとは
この悪循環。

 私はこのことを、田舎に住むようになってはじめて、わかった。田舎に住むようになって、人
間というのは、本来、もっともっと不完全で、もっともっと温かいものだということを知った。そし
てこれはたいへんショックなことだったが、自分自身が、そのカプセル家族になっていたことを
知った。(以上、01年記「子育て雑談」)

(付記)

 このエッセーについては、いろいろ書き改めたい点もあるが、このままで……。カプセル家族
だから、選挙に行かないということはない。この点については、まちがっていると思う。ただ自
分の住む世界がカプセル化すると、ものの考え方が、独善的になったり、ひとりよがりになった
りする。そういう意味で、つまりその返す刀で、相手を、全面的に否定したりしやすくなる。

 だから……、こう書くと、手前味噌のようでつらいが、もしあなたに子どもと接する機会があっ
たら、どんどんと子どもと接したらよいと思う。子どもは、あなたの進むべき道を、正してくれる。
子どもには、そういう力がある。



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