はやし浩司
「おしん」と「マトリックス」
●私の実家は閉店状態に…… 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、 全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。九七年に約 二〇〇〇億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさん がモデルだとされている。それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私 の実家の母も、おめでたいというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系 列の大型スーパーができ、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに 受けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込まれた。 ●生きるために働くが原点 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働 く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来」母体(マトリックス)であ るはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと錯覚してしまう。一つの例が単身 赴任という制度だ。もう三〇年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当時の副学部長だ ったブレナン教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という制度があるそう だが、法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までも が、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外ではない。 ●たまごっちというゲーム あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物 (?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。私が「何も死んでいないのだよ」と 説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を 誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そのときもそうだ。そのときも子ども (小三女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまった。いや、子どもだけではない。当 時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。 マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女性(二〇歳くらい)もいた (NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。 ●たかがゲームと言えるか? 常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。 しかし本当にそうか? その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教 団が現れた。この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていな い「電子の生物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信 者は、どこが違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが 違うというのか。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。 ●仮想現実の世界 さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人は いくらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得 たとしても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価 値というのは、もっと別のことである。地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこ なくてもかまわない。そういうものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。 ●そんな必要があったのか あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなか った。その息子のW氏にしても、全盛期には世界一六カ国、グループで年商五〇〇〇億円も の売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。私の父などは、自分で勝手 にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄だから自転車は売らない」 などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内で自転車が売れたりする と、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に気をつかったためである。 しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさ にめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザー で地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。 ●私の父は負け組み? 晩年の父は二、三日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世 界の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断 することのほうが、まちがっている。父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を 忘れなかった。人間性ということを考えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だった が、W氏にまさることはあっても、劣ることは何もない。おしんもある時期までは生きるために 働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように富と財産を追い求め始めた。つまりそ の時点で、おしんは働くために生きるようになった。 ●進学塾の商魂 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者という のは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例だが、二〇〇 二年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校である。その説明 会には、定員の約六〇倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は約六倍という狭き門 になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステリー状態になる親も続出し た。で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、その ための特別講座の説明会を開いた(二〇〇二年二月)。入試が終わってから一か月もたって いなかった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。私も進学塾の世界はか いま見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講座を開くようになった かがよくわかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きるために働く」というレベ ルを超えている。あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの 成功者というのは、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら「成 功」とは何かということになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネを あげた周囲の商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあった。 ●自分を見失う人たち お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生 きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を 見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。しかしそのW氏の サクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたことか。私の父もその 一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の関係者は別として、 W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。 ●仮想現実の世界にハマる人たち 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家 が土建業者から一〇〇〇万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者 は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。 しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから 贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。たとえばA氏が取り引 き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人に対してではなく、B 氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮想現実の世界に住ん でいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。しかし仮想現実は仮想現 実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。たぶんA氏はB氏など相手に しないだろう。こうした例は私たちの身のまわりにはいくらでもある。 ●子育ての世界も同じ 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本 分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を 育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわって いる。ある母親はこう言った。「そうは言っても現実ですから……」と。つまり現実に受験競争が あり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはない、と。しかしそれこそま さに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらのほうを「現実」と錯覚 してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切な ものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果として、 親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわかりやすい例で考えてみよ う。 ●人間的な感動の消えた世界 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたとき のこと。私が中学一年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車とい う意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語 のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだったの? これではA高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い 月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親すらいる。こういう親の教 育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さらには親のきず なまでこなごなに破壊する。 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、 そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として 子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまって いる。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている! ●休息を求めて疲れる 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来の ために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や 高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。こうした生き方、 つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生をムダにすること になる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚かな生き方の 代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてし まう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。 ●あなた自身はどうか こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知 ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、二週間という休暇を 与えられたとする。そのとき、@休暇は休暇として。そのときを楽しむことができる。A休みが 数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことばか り考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。あなたの子ど もの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、@子どもは子どもで、休みは思う存分、 遊べばよい。A子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またしっかり勉強するた めだ。 @のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質 は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから 未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。 ●日本人の結果主義 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば 仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。実際に、「死 に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。この結果主義もつきつめれ ば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日本人が仏教を取り入れたと きから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくない。 ●なぜ今、しないのか? こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターン に入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演 算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がいる。何でもその人はもうす ぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八か所を巡礼して回ること だそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「ならば、なぜ、今しないの か」と。 ●「未来」のために「今」を犠牲にする その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその 人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大き い。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅 行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感 の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚 すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と 考える。 ●今を生きる こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の 映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校 教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるの は、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過 ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。だったら大切な ことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生きることではない のか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。 ●再起をかけるW氏 聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの 人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。いや、実際にはそれ に気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きている人はいくらでもい る。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。「君は幼稚園の教師をして いるというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかったのだろう」と。彼は 退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事もな い。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断する。稼 いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。 ●リチャード・マクドナルド マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャ ードマクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、一九五五年にレストランの権利 を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド 氏は、九八年の七月に満八九歳で他界。)そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利 を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えてい る。 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、 弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、 のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れな かった人ということにあんる。 ●残る職業による身分制度 私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは 道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、母が言ったこと は、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけではない。私は自分のした いこと、自分の本分とすることをした。一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」 というだけで、何でもかんでもありがたがる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下す る一方、そういう人間を必要以上にあがめる。今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高 校、中学の教師と続き、小学校の教師は最下位。さらに幼稚園の教師は番外、と。こうした派 序列は、何かの会議に出てみるとわかる。一度、ある出版社の主宰する座談会に出たことが あるが、担当者の態度が、私と私の横に座った教授とでは、まるで違ったのには驚いた。私に 向っては、なれなれしく「林さん……」と言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペコペコす る。こうした風潮は、出版界や報道関係では、とくに強い。 ●マスコミの世界 実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・二〇〇五) の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口 をすべらせた新聞社の記者(四〇歳くらい)がいた。私には、「どうしてあんたなんかが……」と 聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実の世界に住んでいる。人間を見るという視 点そのものがない。私のような地位や肩書きのない人間を、いつもそういう目で見ている。自 分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だからそう言った。が、このタイプの人たち は、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自分の人生をムダにしながら、ムダ にしているとさえ気づかない。 ●人間を見る教育を 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地 域の中高一貫校、約六〇校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進 学大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それ が実に偽善ぽい。それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何か のようですらある。子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界 に押し込めようとしているような印象すら受ける。 ●仮想現実の世界に気づく ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のま わりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれない が、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたち のためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。 先日、六〇歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の 友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のよ うな人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。まさに人生の核心を ついた言葉ではないか。
汝自身を、知れ(キロン)
小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学 校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。 ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身 を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も 「随想録」の中で、こう書いている。「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自 己が相手なのだ。私はつねに自己を考察し、検査し、吟味する」と。 このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分である 部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ども がいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ども 自身にその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親にも言え る。 ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな 子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない 子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題はそのことではない。その子どもにはチックもあった し、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」と いうことのほうこそ、その親はもっと深刻に考えるべきではないのか。 話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない 部分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それ に振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことを するかということがわからないまま、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこ かで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることすらできない。わかりやすく言 えば、つまり「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに 振り回される。それを表す言葉は日本語には多い。たとえば、ひがむ、いじける、ひねくれる、 すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じ たら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくことが、自分を知る第一 歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分でない自分に振り回され ることである。 さてあなたのこと。あなたは自分をよく知っていると、自信をもって言えるだろうか。
(補足)
小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、ここに書けないが、そ
の子どもに、それとなくこう聞いてみた。「君は、先生にかなりめんどうをかけたのだが、それを覚えているか」と。する とその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくのせいしにて、ぼくをしかった」と。またこん なことも。ある日一人の母親が、ものすごい剣幕でやってきて、こう言った。話を聞くと、こう言った。「うちの子(小二 男児)は、学校でウンチもらしと呼ばれている。学校の指導が不じゅうぶんだ」と。その子はその少し前、教室でウン チをもらした。それをネタに、みなが彼をからかうというのだ。 この二つの話は、その底辺でつながっている。どこがどうつながっているか、あなたはそれがわかるだろうか。私は その子どもを前にしたときも、またその母親を前にしたとき、考え込んでしまった。つまり、この二人は自分のことがま るでわかっていない。いや、考え込んでしまったのは、そのことでもない。「では、私はどうなのか」と思った瞬間、そ の二人が笑えなくなってしまった。その母親についていうなら、ウンチもらしと呼ばれていることが問題ではない。な ぜそういう子どもかということが問題なのだ。その子どもは軽いがチックもあったし、吃音(どもり)もあった。神経質な 過関心が、明らかに子どもの心を萎縮させていた。ウンチをもらした事件も、その延長線上にあった。 自分を知るということは、本当にむずかしい。もっと言えば自分の中には、自分である部分と、自分であって自分で ない部分がある。その自分であって自分でない部分を知るのは、ふつうの生活をしていたら、まずそれに気づくことは ない。かく言う私も、幼児を教えるようになってもう三〇年になるが、自分がどういう幼児だったのか、その姿がどうし てもつかめない。
自然との融和論
フランシス・ベーコン(1561−1626、イギリスの哲学者)は、「ノーヴェム・オルガヌム」の中 で、こう書いている。「まず、自然に従え。そして自然を征服せよ」と。このベーコンの自然論の 基本は、人間と自然を、相対した関係に置いているというところ、つまり人間がその意識の中 で、自然とは別の存在であると位置づけているところにある。それまでのイギリスは、ある意味 で自然に翻弄されつづけていたとも言える。つまりベーコンは、人間の意識を自然から乖離 (かいり)させることこそが、人間の意識の確立と考えた※。この考えは、その後多くの自然科 学者に支持され、そしてそれはその後さらに、イギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらに は1740年ごろから始まった産業革命の原動力となっていった。 一方、ドイツはまったく別の道を歩んだ。ベーコンの死後から約100年後に生まれたゲーテ (1749−1832)ですら、こう書き残している。「自然は絶えずわれわれと語るが、その秘密を 打ち明けはしない。われわれは常に自然に働きかけ、しかもそれを支配する、何の力ももって いない」(「自然に関する断片」)と。さらにこうも言っている。「神と自然から離れて行動すること は困難であり、危険でもある。なぜなら、われわれは自然をとおしてのみ、神を意識するからで ある」(「シュトラースヴェルグ時代の感想」)と。ここでゲーテがいう「神」とは、まさに「自己の魂 との対面」そのものと考えてよい。つまり自己の魂と対面するにしても、自然から離れてはあり えないと。こうしたイギリスとドイツの違いは、海洋民族と農耕民族の違いに求めることもでき る。海洋民族にとって自然は、常に脅威であり、農耕民族にとっては自然は、常に感嘆でしか ない。海洋民族にとっては自然は、常に戦うべき相手であり、農耕民族にとっては自然は、常 に受け入れるべき相手でしかない。が、問題は、イギリスでも、ドイツでもない。私たち日本人 はどうだったかということ。 日本人は元来農耕民族である。ドイツと違う点があるとするなら、日本は徳川時代という、世 界の歴史の中でも類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治を体験したということ。そのためその 民族は、限りなく従順化された。日本人独特の隷属的な相互依存性はこうして説明されるが、 それに反してイギリス人は、人間と自然を分離し、人間が自然にアクティブに挑戦していくこと を善とした。ドイツ人はしかし自然を受け入れ、やがてやってくる産業革命の息吹をどこかで感 じながらも、自然との同居をめざした。ドイツ人が「自然主義」を口にするとき、それは、自然へ の畏敬の念を意味する。「自然にあるすべてのものは法とともに行動する」「大自然の秩序は 宇宙の建築家の存在を立証する」(「断片」)と書いたカント(1724−1804)に、その一例を 見ることができる。一方、日本人は、自然を従うべき相手として、自らを自然の中に組み入れ てしまった。その考えを象徴するのが、長岡半太郎(1865−1950)である。物理学者の彼で すら、こんな随筆を残している。「自然に人情は露ほども無い。之に抗するものは、容赦なく蹴 飛ばされる。之に順ふものは、恩恵に浴する」と。日本人は自然の僕(しもべ)になることによっ て、自然をその中に受け入れるというきわめてパッシブな方法を選んだ。が、この自然観は、 戦後、アメリカ式の民主主義が導入されると同時に、大きく変貌することになる。その象徴的な できごとが、田中角栄元首相(1972年・自民党総裁に就任)の「日本列島改造論」(都市政策 大綱、新全総、国土庁の設置、さらには新全総総点検作業を含む)である。 田中角栄氏の無鉄砲とも思える短絡的な国家主義が、当時の日本に受け入れられたのは、 「展望」をなくした日本人の拝金思想があったことは、だれも疑いようがない。しかしこれは同時 に、イギリスからアメリカを経て日本に導入されたベーコンイズムの始まりでもあった。日本人 は自らを自然と分離することによって、その改造論を正当化した。それはまさに欧米ではすで に禁句となりつつあった、ハーヴェィズム(「文明とは、要するに自然に対する一連の勝利のこ とである」とハーヴェィ※2は説いた)の再来といってもよい。日本人の自然破壊は、これまた世 界の歴史でも類をみないほど、容赦ないものであった。それはちょうどそれまでに鬱積してい た不満が、一挙に爆発したかのようにみえる。だれもが競って、野や山を削ってそれをコンクリ ートのかたまりに変えた。たとえば埼玉県のばあい、昭和三五年からの四〇年間だけでも、約 二九万ヘクタールから、約二一万ヘクタールへと、森林や農地の約三〇%が消失している※ 3。田中角栄氏が首相に就任した1972年以来、さらにそれが加速された。(イギリスにおいて も、ベーコンの時代に深刻な森林の減少を経験している。)そこで台頭したのが、自然調和論 であるが、この調和論とて、ベーコンイズムの変形でしかない。基本的には、人間と自然を対 照的な存在としてとらえている点では、何ら変わりない。そこで私たちがめざすべきは、調和論 ではなく、ベーコンイズムの放棄である。そして人間を自然の一部として再認識することであ る。私が好きな一節にこんなのがある。ファーブルの「昆虫記」の中の文章である。「人間という ものは、進歩に進歩を重ねたあげくの果てに、文明と名づけられるものの行き過ぎによって自 滅して、つぶれてしまう日がくるように思われる」と。ファーブルはまさにベーコンイズムの限 界、もっと言えばベーコン流の文明論の限界を指摘したともいえる。言い換えると、ベーコンイ ズムの放棄は、結局は自然救済につながり、かつ人間救済につながる。人間は自然と調和す るのではない。人間は自然と融和する。そして融和することによってのみ、自らの存在を確立 できる。自然であることの不完全、自然であることの不便さ、自然であることの不都合を受け入 れる。そして人間自身もまた、自然の一部であることを認識する。たとえば野原に道を一本通 すにしても、そこに住む生きとし生きるすべての動植物の許可をもってする。そういう姿勢があ ってこそ、人間は、この地球という大自然の中で生き延びることができる。 ※……ベーコンは「知識は力である」という有名な言葉を残している。「ベーコンは、ルネッサンス以来、革新的な試 行に哲学的根拠を与えた人物としても知られ、『自然科学の主目的は、人生を豊かにすることにある』とし、その目標 を『自然を制御し、操作すること』においた。この哲学が、自然科学のイメージを高め、将来における科学の応用、さら には技術や工学の可能性を探求するための哲学的根拠となった」(金沢工業大学蔵書目録解説より)。 ※2……ウィリアム・ハーヴェイ(1578−1657)、医学会のコペルニクスとも言われる人物。彼は「自然の支配者で あり、所有者としての役割は、人類に捧げられたものである」と説いた。 ※3……埼玉県の「森林および農地」は、昭和35年に296・224ヘクタールであったが、平成11年現在は、211・ 568ヘクタールになっている(「彩の国豊かな自然環境づくり計画基礎調査解説書」平成九年度版)。
疑わしきは、罰する
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紫外線対策を早急に
子どもが環境に影響されるとき
●オムツがはずせない子ども 今、子どもたちの間で珍現象が起きている。四歳を過ぎても、オムツがはずせない。幼稚園 や保育園で、排尿、排便ができず、紙オムツをあててあげると、排尿、排便ができる。六歳に なっても、大便のあとお尻がふけない。あるいは幼稚園や保育園では、大便をがまんしてしま う。反対に、その意識がないまま、あたりかまわず排尿してしまう。原因は、紙オムツ。最近の 紙オムツは、性能がよすぎる(?)ため、使用しても不快感がない。子どもというのは、排尿後 の不快感を体で覚えて、排尿、排便の習慣を身につける。たとえば昔の布オムツは、一度排 尿すると、お尻が濡れていやなものだった。この「いやだ」という感覚が、子どもの排尿、排便 感覚を育てる。 このことをある雑誌で発表しようとしたら、その部分だけ削られてしまった(M誌・九八年)。 「根拠があいまい」というのが表向きの理由だったが、実は同じ雑誌に広告を載せているスポ ンサーに遠慮したためだ。根拠があるもないもない。こんなことは幼稚園や保育園では常識 で、それを疑う人はいない。紙オムツをあててあげると排尿できるというのが、その証拠であ る。 ●流産率は三九%! ……というような問題は、現場にはゴロゴロしている。疑わしいが、はっきりとは言えないとい うようなことである。その一つが住環境。高層住宅に住んでいる子どもは、情緒が不安定にな りやすい……? 実際、高層住宅が人間の心理に与える影響は無視できない。こんな調査結 果がある。たとえば妊婦の流産率は、六階以上では、二四%、一〇階以上では、三九%(一 〜五階は五〜七%)。流・死産率でも六階以上では、二一%(全体八%)(東海大学医学部逢 坂文夫氏)。マンションなど集合住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、 一戸建ての居住者の四倍(国立精神神経センター北村俊則氏)など。母親ですら、これだけの 影響を受ける。いわんや子どもをや。が、さらに深刻な話もある。 ●紫外線対策を早急に 今どき野外活動か何かで、まっ赤に日焼けするなどということは、自殺的行為と言ってもよ い。私の周辺でも、何らかの対策を講じている学校は、一校もない。無頓着といえば、無頓 着。無頓着すぎる。オゾン層のオゾンが一%減少すると、有害な紫外線が二%増加し、皮膚が んの発生率は四〜六%も増加するという(岐阜県保健環境研究所)。実際、オーストラリアで は、一九九二年までの七年間だけをみても、皮膚がんによる死亡件数が、毎年一〇%ずつふ えている。日光性角皮症や白内障も急増している。そこでオーストラリアでは、その季節になる と、紫外線情報を流し、子どもたちに紫外線防止用の帽子とサングラスの着用を義務づけてい る。が、この日本では野放し。オーストラリアの友人は、こう言った。「何も対策を講じていな い? 信じられない」と。ちなみにこの北半球でも、オゾンは、すでに一〇〜四〇%(日本上空 で一〇%)も減少している(NHK「地球法廷」)(※)。 ●疑わしきは罰する 法律の世界では、「疑わしきは、罰せず」という。しかし教育の世界では、「疑わしきは、罰す る」。子どもの世界は、先手先手で守ってこそ、はじめて守ることができる。害が具体的に出る ようになってからでは、遅い。たとえば紫外線の問題にしても、過度な日焼けはさせない。紫外 線防止用の帽子を着用させる、など。あなたが親としてすべきことは多い。 ※ ……日本の気象庁の調査によると、南極大陸のオゾンホールは、一九八〇年には、面積 がほとんど〇だったものが、一九八五年から九〇年にかけて南極大陸とほぼ同じ大きさにな り、二〇〇〇年には、それが南極大陸の面積のほぼ二倍にまで拡大しているという。この日本 でも北海道の札幌市での上空オゾンの全量が、約三七〇(m atm-cm)から、三四〇(m atm- cm)にまで減少しているという。 なお本文の中の数値とは多少異なるかもしれないが、気象庁は次のように発表している。 「成層圏のオゾンの量が一%減ると、地上に降りそそぐ紫外線Bの量は、一・五%ふえる。国 連環境計画(UNEP)一九九四年の報告によると、オゾン量が一%減少すると、皮膚がんの発 生が二%、白内障の発生が〇・六〜〇・八%ふえると予測している」と。 ●危険な高層住宅? 逢坂文夫氏(東海大学医学部)は、横浜市の三保健所管内における四か月健診を受けた母 親(第一子のみを出生した母親)、一六一五人(回収率、五四%)について調査した。結果は次 のようなものであったという。 流産割合(全体) …… 七・七% 一戸建て …… 八・二% 集合住宅(一〜二階) …… 六・九% 集合住宅(三〜五階) …… 五・六% 集合住宅(六〜九階) ……一八・八% 集合住宅(一〇階以上)……三八・九% これらの調査結果でわかることは、集合住宅といっても、一〜五階では、一戸建てに住む妊 婦よりも、流産率は低いことがわかる。しかし六階以上になると、流産率は極端に高くなる。ま た帝王切開術を必要とするような異常分娩についても、ほぼ同じような結果が出ている。一戸 建て、一四・九%に対して、六階以上では、二七%など。これについて、逢坂氏は次のようにコ メントしている。「(高層階に住む妊婦ほど)妊婦の運動不足に伴い、出生体重値の増加がみ られ、その結果が異常分娩に関与するものと推察される」と。ただし「流産」といっても、その内 容はさまざまであり、また高層住宅の住人といっても、居住年数、妊娠経験(初産か否か)、居 住空間の広さなど、その居住形態はさまざまである。その居住形態によっても、影響は違う。 逢坂氏はこの点についても、詳細な調査を行っているが、ここでは割愛する。詳しくは、「保健 の科学」第36巻1994別冊七八一ページ以下に掲載。 ●流・死産の原因 流・死産の原因の一つとして、「母親の神経症的傾向割合」をあげ、それについても 逢坂文 夫氏は調査している。 神経症的傾向割合 全体 …… 七・五% 一戸建て …… 五・三% 集合住宅(一〜二階) …… 一〇・二% 集合住宅(三〜五階) …… 八・八% 集合住宅(六階以上) …… 一三・二% この結果から、神経症による症状が、高層住宅の六階以上では、一戸建て住宅に住む母親 より、約二・六倍。平均より約二倍多いことがわかる。この事実を補足する調査結果として、逢 坂氏は、喫煙率も同じような割合で、高層階ほどふえていることを指摘している。たとえば一戸 建て女性の喫煙率、九・〇%。集合住宅の一〜二階、一一・四%。三〜五階、一〇・九%。六 階以上、一七・六%。 子どもの環境を考える法(高層住宅に気をつけろ!) 子どもが環境に影響されるときA ●大きな反響 先に「疑わしきは罰する」の中で、「高層住宅の一〇階以上に住む妊婦の流産率は、三 九%」「(マンションなど高層住宅に住む人で)、マタニティブルー(妊娠関連うつ病)になる人 は、一戸建ての家に住む人の四倍」などと書いた。このコラムは新聞(中日新聞・二〇〇一年 春)に発表したが、大きな反響を呼んだ。と同時に、多くの人に不安を与えてしまった。報道部 の人ですら、「本当ですか?」「建設会社から、抗議がきたのでは……」と言ってきた。しかしそ こに書いたことに、まちがいはない。私はそのコラムを書くにあたって、前もってそれぞれの研 究者と手紙で連絡を取り、元となる論文を入手した。しかもある程度の反響は予測できたの で、担当のI氏には論文のコピーを渡しておいた。 ●心理的な風通しをよくする ただし流産の原因については、高層住宅とそのまま結びつけることはできない。高層住宅の もつ問題点を知り、対応策を考えれば、流産は防げる。逢坂氏も流産率が高いことについて、 「居住階の上昇に伴い、外に出る頻度(高さによる心理的、生理的、物理的影響)が減少する」 (「保健の科学」第三六巻一九九四別冊七八三)と述べている。高層階に住んでいると、どうし ても外出する機会がへる。人との接触もへる。それが心理的なストレスを増大させる。胎児の 発育にも悪い影響を与える。そういういろいろな要因が重なって、それが流産につながる、と。 このことを言いかえると、高層階に住んでいても、できるだけ外出し、人との交流を深めるな ど、心理的な風通しをよくすれば、流産は防げるということになる。事実、高層階になればなる ほど、心理的なストレスが大きくなることは、ほかの多くの研究者も指摘している。 ●マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳 たとえば平均死亡年齢について、マンション住人の平均死亡年齢は、五七・五歳。木造住宅 の住人の平均死亡年齢は六六・一歳。およそ九歳もの差があることがわかっている(島根大 学中尾哲也氏・「日本木材学会」平成七年報告書)。さらにコンクリート住宅そのものがもつ問 題点を指摘する研究者もいる。 ●好ましい木造住宅? マウスを使った実験だが、コンクリート住宅と木造住宅について、静岡大学農学部水野秀夫 氏は、興味深い実験をしている。水野氏の実験によれば、木製ゲージ(かご)でマウスを育てた ばあい、生後二〇日の生存率は、八五・一%。しかしコンクリートゲージで育てたばあいは、た ったの六・九%ということだそうだ。水野氏は、気温条件など、さまざまな環境下で実験を繰り 返したということだが、「あいにくとその論文は手元にはない」とのことだった。 ただこの実験結果をもって、コンクリート住宅が、人間の住環境としてふさわしくないとは断言 できない。マウスと人間とでは、生活習慣そのものが違う。電話で私が、「マウスはものをかじ るという習性があるが、ものをかじれないという強度のストレスが、生存率に影響しているので はないか」と言うと、水野氏は、「それについては知らない」と言った。また私の原稿について、 水野氏は、「私はコンクリート住宅と木造住宅の住環境については調査はしたが、だからとい って高層住宅が危険とまでは言っていない」と言った。水野氏の言うとおりである。 ほかにコンクリート製ゲージで育ったマウスは、生殖器がより軽い、成長が遅いなどというこ とも指摘されている(前述、水野氏)。さらに高層住宅にいる幼児は、体温そのものが低く、三 六度以下の子どもが多い(「子どもの健康と生活環境」V四一・小児科別冊)など。こういう事実 をふまえて、私は、「子どもは当然のことながら、母親以上に、住環境から心理的な影響を受 ける」と書いた。 ●結局は私たちの問題 こうした事実があるにもかかわらず、日本の政府は、ほとんど対策をとっていない。一人、 「そうは言っても、都会で一戸建てを求めるのは難しいです」「日本の住宅事情を考えると、高 層住宅を否定することもできません」と言った人もいた。しかしここから先は、参考にする、しな いの問題だから、判断は、読者の方がすればよい。ただこういうことは言える。あなたや子ども の健康を守るのは、あなた自身であって、国ではないということ。こうした建設がらみの問題で は、国は、まったくあてにならない。 |