はやし浩司
By Hiroshi Hayashi
教育を専門化せよ!
今、精神を病む先生は少なくない。東京都教育委員会の調べによると、教職員の全休職者
のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそのため休職し ている。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその一〇倍、さらにその 前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。 理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)はこう 言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業中だけで す」と。が、それだけではない。こんなこともある。 俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期症状 は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。@がんこ (自分の意見をゆずらない)、A自己中心性(自分が正しいと確信する)、B繊細さの欠落(ズ ケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後の人にその傾向が見られ るようになるという※。四〇歳といえば、子どもがちょうど中学生になるころ。一クラスに三〇人 の生徒がいたとすると、六〇人の親がいることになり、そのうち三人が、あぶない(?)というこ とになる。家族の一人がアルツハイマーになると、その周囲の家族もたいへんだが、そのまた 外にいる人も、何らかの影響を受ける。たとえば学校の先生。 もう五年ほど前のことだが、ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小 学校で英語教育をするというが、そんな教育は必要ない」と。ものすごい剣幕である。しかしそ れはそれからはじまる不毛の議論の、ほんの始まりにすぎなかった。「学校五日制はおかし い」「中高一貫教育には疑問がある」など。毎月のように電話や手紙で、あれこれ言ってきた。 が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えていると、最後はこう言った。「あんたは教 育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書けば、社会に害毒を流すことになる」 と。これには私も怒った。怒って電話をすると、義理の母親が出て、こう言った。「すみません、 すべてわかっています」と。そして数日後、夫から手紙が届いたが、それにはこうあった。「妻 の様子がおかしいので、今、病院へ通っているところです」と。もっとも私のばあい、それまでに もこのタイプの親は最初ではなかったので、それほどキズつかないですんだが、若い未経験の 先生だと、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。 結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意する。ち ょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放する。だいたい 今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、さらには家庭問題 まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちからのメールの返事を書 くだけで、一時間くらいそのため時間をとられます」と。こんな状態で、今の先生たちに「よい授 業」を期待するほうがおかしい。これは一つの参考にはなると思うが、カナダ(バンクーバー市 など)では、この方式が徹底している。親が先生に直接連絡をとることすらできない。また原則 として先生は、授業以外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性として は、やがてそうするべきではないか。
(※未推敲のまま。数値、病名など不完全です。))
日本の教科書を考える法(検定制度を廃止せよ!)
日本の教科書を考えるとき ●検定は暴力描写と性描写のみ オーストラリアにも、教科書(学校で使うテキスト)の検定らしきものはあるにはある。しかしそ れは民間団体によるもので、強制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の二つの 方面だけ。特に「歴史」については、検定してはならないことになっている(南オーストラリア 州)。 ●日本の首都は韓国人が建てた? 私は一九六七年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着いたときには、 ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っても、日本 攻撃の矢面に立たされた。私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏であったこともある。 韓国を代表する歴史学者である。私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しかし すべてを教えていない」と実感した。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。「奈良は、韓 国から見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は『奈落』と書いて、『ナラ』 と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。もし氏の言うことが正しいと するなら、日本の古都は、韓国人によって創建された都市ということになる。 ●日本史も東洋史の一つ もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一歩、日本を出る と、この種の話はゴロゴロしている。事実、欧米では、「東洋学」と言えば、中国を意味し、その 一部に韓国があり、そのまた一部に日本がある。そして全体として、東洋史として教えられてい る。たとえばフランスのほとんどの大学では、日本語は、朝鮮語学科の一部として教えられて いる。 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人か、それとも欧米 人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア人に近い、欧米人」と答えた。中に は「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジア人」と答えた子どもは一人もいなかった(二〇〇 一年春、浜松市の小学五、六年生児、約五〇人について調査)。先日もテレビの討論番組を 見ていたら、こんなシーンがあった。アフリカの留学生が、「君たちはアジア人だ」と言ったとき のこと。小学六年生くらいの男の子が、「ぼくたちはアジア人ではない。日本人だ!」と。そこで そのアフリカ人が、「君たちの肌は黄色ではないか」とたたきかけると、その小学生はこう反論 した。「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ!」と。 ●検定制度の廃止こそ先決 二〇〇一年の春も、日本の教科書(※)について、アジア各国から非難の声があがった。韓国 からは特使まで来た。こうした中、国会審議の中で、当時の文部大臣はこう言った。「韓国や 中国は国定教科書で、日本は検定教科書です」と(二〇〇一年春)。つまり「教科書の内容に まで日本政府の責任はない」と。しかしこういうのを詭弁という。国定も検定も、中身は同じ。ど こも違いやしない。さらに質問側の議員が、「ドイツは隣のポーランドと相談しながら教科書を 作成している。日本もそうしたらどうか」と言ったのには驚いた。「他国と相談して教科書を作 れ」という意見に驚いたのではない。「ドイツに教科書がある」という意見に、驚いた。そこでさっ そくドイツの友人にメールで問い合わせてみると、こう教えてくれた。「東ドイツには、教科書の 検定制度はあったが、西ドイツにはなかった。今のドイツにはもちろん、ない」と。 いろいろいきさつはあるが、日本が日本史にこだわっている限り、日本はいつまでたっても、世 界の一員どころか、アジアの一員としても迎え入れられることはない。そのためにも教科書の 検定制度など、もうやめたらよい。 (付記) ●テキストブックと教科書 そもそもの誤解は、「テキストブック」を「教科書」と訳するところにある。英語で「テキストブッ ク」というときは、補助教材的な教材をいい、日本語で「教科書」というときは、検定済教科書を いう。アメリカ人が「テキストブック」という言葉から受ける印象と、日本人が「教科書」という言 葉から受ける印象は、まったく異質のものである。日本の文部科学省はこの二つの言葉を、た くみに混同させながら、よく国民を煙に巻くから注意されたい。
教育がゆがむ元凶
●不公平社会の是正●日本は民主主義国家? Yさん(四〇歳女性)は、最近二〇年来の友人と絶交した。その友人がYさんにこう言ったか らだ。「こういう時代になってみると、夫が公務員で本当によかったです」と。たったそれだけの ことだが、なぜあなたはYさんが絶交したか、その理由がわかるだろうか。 平安の昔から、日本は官僚主義国家。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日 本人だけ。学生時代、オーストラリアの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」となっ ていた。「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。現在の今でも、四七都道府県 の知事のうち二七以上の知事は、元中央官僚。国会議員の大半も元中央官僚。いや、それぞ れの官僚が悪いというのではない。問題は、こうした官僚支配体制が、日本の社会をがんじが らめにし、それがまた日本の社会を硬直化させているということ。たとえばよく政府は、「日本 の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これはウソ。国家公務員と 地方公務員の数だけをみればそうだが、日本にはこのほか、公団、公社、政府系金融機関、 電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけでも、「日本人のうち七〜 八人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)となる。が、まだある。こうした公務員、準公務員のいわ ゆる天下り先団体として機能する協会、組合、社団、財団、センター、研究所、さらに下請け機 関がある。こうした組織は全国の津々浦々、市町村の村レベルまで完成している。そしてこうし た団体で働く職員は、この不況も何のその。完全な終身雇用に守られ、満額の退職金に満額 の年金を手にしている。「身分の保障があって、はじめてよい仕事ができる」と豪語している労 働組合すらある。 何でもない会話かもしれないが、その友人の言った言葉は、Yさんを激怒させた。一方、こう した怒りは、公務員の人には理解できない。つまりそれくらい互いの意識にズレがある。そして このズレこそが、日本の教育そのものをゆがめている。 この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受ける。そうでない人はまったくと言ってよいほ ど、受けない。こうした不公平感が結局は、受験競争の温床になっている。二〇〇〇年、大卒 の人気ナンバーワンの職種が、公務員というのも、その一つ。なぜそうなのかというところにメ スを入れない限り、日本の教育のゆがみはなおらない。
The ringleader to which education is distorted - Correction - Japan of unfair society is a
democratic state. The Y (40 years-old lady) cut his connection with the friend over 20 years recently. It is because the friend said to the Y like this. "When it became such times, the husband was really good at the government official." Although it is the thing of only that which left, why did the Y cut his connection or do you understand the reason? The ancient times of the Hirayasu time to Japan is a bureaucratism state. Probably only for Japanese people, it is that Japan thinks that it is a democratic state. It had become " Japan is a bureaucratism state" at the student time and the text used at the university in Australia. There was also that it is a "sovereign (Emperor) bureaucratism state." Also for the present now, 27 or more governors are former central bureaucrats among the governors of 47 all prefectures. Most members of the Diet are former central bureaucrats. No, each bureaucrat does not say that it is bad. Such bureaucrat rule organization should make society of Japan eye , and a problem should say that it is making society of Japan stiffen again. For example, the government says well, "Even if it compares the number of Japanese government officials with the West, there is not". [ so many ] but this are a lie. Although that is right if only the number of a national civil servant and local civil servants is seen, in addition to this, there are monopolistic commercial business organizations, such as a public corporation, a public corporation, a government financial agency, and electric gas, in Japan. At least the number of these personnel becomes "one person is beaurocrats in 7-8 of Japanese people" (Mr. Takao Tokuoka). ?a -- it is still There are the association which functions as the so-called coming-by-orders-from-above place organization of such a government official and a semi- government official, an association, a corporation, a foundation, a center, a research institute, and also a subcontract organization. Such an organization has completed to national all over the country and the village level of cities, towns and villages. and the personnel who work in such an organization -- this depression - - never mind It is protected by perfect lifetime employment and the pension of the amount of full is gained for the retiring allowance of the amount of full. There is even a labor union which is bragging "Can perform good work only after there is security of a status." Although it may be the conversation which is not anything, the language which the friend said enraged the Y. On the other hand, a government official's man cannot understand such anger. That is, gap is in as mutual consciousness as it. And just this gap has distorted the education itself [ of Japan ]. This Japan and those who receive public protection receive thoroughly. those who are not so -- completely -- ?A -- it does not receive so that you may say Such an unfair feeling is the hotbed of an entrance exam race after all. Popular number one's of 2000 and a college graduate's occupational description is a government official, that is, its one. Unless a scalpel is put into the place referred to as whether to pat, distortion of education of Japan does not heal up. ゴミを捨てる日本人 ●日本文化に根ざず問題 登山家の野口健氏がこう言った。「登山家の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本 隊は最悪。ヒマラヤをゴミに山にしている。ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰 るのに」(F誌〇〇年六月)と。野口氏のとった写真には、H大学山岳部のボンベなどが写って いた。 日本人はのこぎりで木を切るとき、手前に引きながら切る。欧米人は、向こう側に押しながら 切る。何でもないような違いだが、こうした文化の違いは、私たちの日常生活にも大きな影響 を与えている。たとえば日本の子どもは、消しゴムを使ったあと、そのカスを手前にパッパッと 払って下へ落とす。欧米の子どもは、カスを向こう側に押しやり、そこにためておく。子どもに紙 とハサミを与えて作業させても、同じような行動をする。言い換えると、日本人は、そもそもゴミ に対する感覚が欧米人と違う。美意識が違うと言ってもよい。日本人は無意識のうちにも、ま た幼児期から、「ゴミは下へ落とすもの」「ゴミは見えなくなればそれでいい」と考える。自分の 見える範囲が、美しくなれば、それでよいのだ。たとえば庭をつくるときも、日本人は庭を塀で 囲み、その中で美を追求する。美を自分の世界に引き込もうとする。一方欧米人は、通りから 見た美を追求する。美を外の世界に押し出そうとする。わかりやすく言えば、日本人は塀の外 はどうなっても構わないと考える。欧米人は塀の外…というより、塀そのものをつくらない。 ついでに…。日本の文化は、自閉文化と言ってもよい。長く続いた封建時代という圧制が、日 本の文化を自閉させた。よい例が、金沢の伝統工芸だ。蒔絵にしても金細工にしても、実に精 緻で細かい。細かすぎる。自閉症児もその初期の段階で、同じような症状を示すことがある。 小さな丸だけを並べて絵を描くなど。数字だけを数千個も書いていた子どももいた。自意識が 抑圧されると、文化も子どもも、同じような方向に向かう。こういう社会では、「身の回りさえよけ れば」というエゴイズムが加速される。 話を戻す。世間の人は、ゴミを捨てる日本人を、鬼の首でも取ったかのように非難する。一 方、野口氏のような人物を、人のカガミのように称える。実際、野口氏はすばらしい人だが、ゴ ミの問題は、世間の人が考えているほど、単純な問題ではない。またそういう視点からでは、こ の問題は解決しない。日本の文化そのものに由来する問題なのだ。
The Japanese who dumps garbage
- Mr. Ken Noguchi, a basic problem mountaineer, said to day text-ization like this. "The reputation of the Asia party is bad also of a mountaineer. Japanese party is the worst also of it. Himalaya is used as garbage in the mountain. The mountaineer of Europe is with having even the cigarette end of tobacco and returning" (F magazine June, 00). H university alpine club's cylinder etc. was in the photograph which Mr. Noguchi took. Japanese people cut, pulling to the front, when sawing a tree. Europeans and Americans cut, pushing on the other side. Anything, although it is the difference which is not, the difference in such culture has had big influence also on our everyday life. For example, after a Japanese child uses an eraser, he pays the dregs with ?p?b?p?b to the front, and drops downward. A European and American child pushes aside dregs on the other side, and accumulates there. Same action is carried out, even if it gives paper and scissors and it makes them work to a child. In other words, feeling of primarily as opposed to garbage in Japanese people differs from Europeans and Americans. It is good although an aesthetic sense is different. While Japanese people are unconscious, they think from infancy are [ drops garbage downward ] "what", and "garbage is good if it disappears." If the range by which he is seen becomes beautiful, it is good. For example, when building the yard, Japanese people surround the yard with a wall, and pursue beauty in it. It is going to draw beauty in its world. On the other hand, Europeans and Americans pursue the beauty seen from the passage. It is going to push out beauty in the outer world. If it says plainly, Japanese people will think that the outside of a wall may become what. Europeans and Americans do not build the wall itself rather than -- outside a wall. On the occasion [ -- ] Culture of Japan may call it self-closeed culture. Oppression called the feudal age which continued for a long time is self-closed about culture of Japan. A good example is the tradition craft of Kanazawa. Even if it makes it Makie and it makes it golden work, it is very minute and is fine. It is too fine. In the early stage, an autistic child may also show the same condition. Only a small circle is put in order and a picture is drawn. There were some children to whom no less than several 1000 pieces were writing only the number. If self-consciousness is oppressed, culture and a child will go in the same direction. In such society, the egoism of "if even personal appearance is good" is accelerated. The talk is returned. The public man blames as if he took the Japanese who dumps garbage also with a demon's head. On the other hand, a person like Mr. Noguchi is praised like a man' s mirror. Although Mr. Noguchi is actually a wonderful person, it is not a simple problem so that the public man considers the problem of garbage. Moreover, this problem is not solved from such a viewpoint. It is a problem originating in the culture itself [ of Japan ].
「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう 日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たような言葉だ が、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉い人」と言うとき は、地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人とは言わない。一方英語で は、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう 言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信 長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打 ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国 書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら 覚える。しかし…? 実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ 恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生 活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶 安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏 は、「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と 書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の 悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結 果でしかない。 …と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた自 身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが地 位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心のど こかで引きずっていることになる。そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残 っている限り、偉い人をめざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えな い。民間でならまだしも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一 番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。
"to be great" into "NO-USE"
- It teaches [ a child ] "Become those who are respected" and needs. When calling it "a great person" in Japanese, in English, it is called "those who is respected." Although it is the language which was well alike, it is between these two language. There is such a big valley that it is hard to exceed. When calling it "a great person " in Japan. Those with a status or a title are said. Those who are not so do not call it a not much great person. On the other hand in English, a status and a title are hardly made into a problem. then -- being certain -- Japanese -- I asked junior high school students "Are Nobunaga and Hideyoshi great persons?" Then, everybody said like this. "Hideyoshi's image is bad although Nobunaga is a great person." since "Nobunaga unified the world when it came out and it heard further "it is ? why"" It is also in the textbook used in a junior high school like this. the organization and society with old "Nobunaga -- destroying -- a barrier is abolished, ”ichi”s(free market) and ”za”(free shop) are taken out and free commerce was made to be made -- " (the imperial drawing room version) Even an illusion when only this was read, as if Nobunaga was the founder of free society is memorized. However, --. The Edo period which begins from it as a matter of fact was darkness to the extent that a kind is not seen in the history in the world, and a time of terrorism. While wealth and power were centralized on some of men of power, common people had forced a life of ultimate poverty. Of course, the counterinfluence was oppressed merciless. While it had been ambiguous also "Keian Era" to be also strange" as for the whereabouts of an incident, the punishment attained to all relations. [ which it is supposed that Yui right snow started ] Mr. Sakamoto Hisae is writing, "For the reason, the brook near Abekawa dyes and comes with blood, and was called river today" (Chunichi Shimbun column). Even if it made it Ieyasu, while being thoroughly glorified over 300 years after that, the fact inconvenient to him can come and was erased thoroughly again. There is the "Ieyasu image" which we have to the last only at the result. When it is written as --, there are those who say, "The feudal age is an old talk." However, does it meet truly? Then, I want you yourself to ask. It is what man you regard as the great person. Supposing you regard those with a status or a title as the great person, you will still drag the ghost of the feudal age by somewhere in hearts. Then, a proposal. I will make into "no use" anymore the word of "being great." As long as this language remains, the success-in-life principle of aiming at a great person spreads, and the subordination consciousness of the people supporting it does not disappear. It will be surprising, when it is better used for politics, if it is among the people. There was even a prime minister who called it "the greatest person in me and Japan." While there is such consciousness, democracy of Japan is not completed.
私の自転車通勤
●「下」の立場の教育論●傲慢になったら… 自転車通勤をして、もう二十五年になる。が、私が通うY街道。歩道と言えるようなものはな い。道路に描かれた白線の外、つまり側溝のフタの上が歩道(?)。それも電柱や標識など、 いたるところで、寸断されている。あぶないなんてものではない。まさに命がけ。年に一、二度 は、そのために死にかけている。 一方、ときどきだが、各地へ講演で招かれることが多くなった。県外の場合は、たいていグリ ーン車を用意してくれる。駅へ着けば、車が待っていてくれる。そういうとき何だか自分が、別 人になったような気分になる。私が私でなくなってしまう。で、その自転車通勤。最初は健康の ために始めたが、このところ別の意味を感ずるようになった。こうした講演のあった翌日、また 自転車に乗ったりすると、ハッと我に返る。「ああ、これが私の本当の姿なのだ」と。 ものを書く人間で一番こわいのは、ごう慢になることだ。どうしても思想が、行動より先行して しまう。わかりやすく言えば、「頭でっかちの人間」になりやすい。そういう人間が世間でちやほ やされると、自分が偉い人間にでもなったかのように錯覚する。自分を見失う。実際、そういう 人は多い。ある作家は、「上京するたびにホテルに泊まるが、そのホテル代だけで家が建つ」 と豪語していた。ふつうの作家ではない。仏門に入って頭を丸めた作家である。が、自転車通 勤はそれをいましめてくれる。いや、何もグリーン車が上で、自転車通勤が下と言っているので はない。しかし自転車通勤をしていると、その「下」がよく見える。 先日もコンビニの前の駐車場を横切ろうとしたら、一台の乗用車が目の前で急停止した。私 はあやうくはね飛ばされるところだった。見ると若い男女だった。声は聞こえなかったが、口の 動きから「バ〜カ」と言っているのがわかった。女はニヤニヤ笑いながら、私から視線をはずし た。かわいそうな若者たちだ。私がなぜ、今こうして教育論を書いているかといえば、それは彼 らのような人たちがいるからではないのか。彼らのもっとも味方であるはずの私を、バカにして 喜んでいる! 問題のない子どもや親に、教育論は必要ない。そういう子どもは受験参考書でも読んでいれ ばよい。私が私であるのは、「下」の世界に住んでいるからだ。もし私が「上」の世界に住んで いたら、水面の下は絶対に見えない。自転車通勤は、それを私に教えてくれる。
My bicycle commutation
- educational theory [ of a "lower" position ] - if it becomes haughty -- Bicycle commutation is carried out and it has already been 25 years. But Y highway to which I go. There is nothing that can be called sidewalk. The lid top outside the white line drawn on the road (i.e., a sewer) is a sidewalk (?). It is also cut in pieces in everywheres, such as a telegraph pole and a sign. It is not it a thing that it is dangerous. Just desperate. For the reason, it is close to death 1 or twice for the year. It was sometimes but invited [ one side and ] to every place more often in the lecture. In a case outside the prefecture, a first-class car is prepared mostly. If it arrives at a station, the car is waiting. He turns into the feeling which became another person somehow at such a time. I will stop being me. It comes out and is the bicycle commutation. Although begun at first for health, it came to feel the meaning of an exception this place. If it rides on the next day with such a lecture, and a bicycle, I realoze who I am on the spot to myself. "Oh, this is my true figure." It is the most fearful to become arrogant in the human being who writes a thing. Thought will surely precede from action. If it says plainly, it will be easy to become "top-heavy human being." It is hallucinated as if he became even great human being, when such human being was indulged in the world. He is missed. There are actually many such a people. A certain writer was bragging "Although it stays at a hotel whenever it comes up to Tokyo, a house is built only by the hotel 'a." It is not an ordinary writer. It is the writer who went into the French gate and became the priest. ?a and bicycle commutation admonish against it. No, bicycle commutation has said [ the first-class car ] nothing as the bottom in the top. However, when bicycle commutation is carried out, the "bottom" of it can be clearly seen. When it was also going to cross the parking lot in front of a convenience store the other day, one passenger car carried out the sudden stop at hand. I was almost eliminated off. When seen, it was young man and woman. Although voice was not able to be heard, it turns out that it has called it "?o - the mosquito" from the motion of a mouth. The woman removed the look from me, grinning. They are pitiful young men. If I say why I am writing the educational theory in this way now, isn't it because there are the men like them? I whose they must be allies most am made into ?o?J, and it is pleased with me! Toward satisfactory child and parents, an educational theory is unnecessary. Such a child should just also be reading the crammer. It is because it lives in the "lower" world that I am me. Supposing I live in the "upper" world, the bottom of the water surface does not look absolute. Bicycle commutation teaches me it.
教科書問題
一九六七年の夏。私はUNESCOの日韓学生交換学生の一人として、韓国に渡った。当時 はまだ、日韓の間には国交はなかった。プサン港に着いたときは、ブラスバンドで迎えられた が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされ た。直接私たちを指導してくれたのが、あの金素雲氏であったこともある。韓国を代表する文 化人である。私は、「日本の教科書はまちがってはいない。しかしすべてを教えていない」と痛 感した。 それから三〇年以上。この状態は、いまだに変わっていない。ある男性(六五歳)はこう言っ た。「韓国併合は正しかった。日本が鉄道や道路を作ってやったから、韓国はここまで発展で きた」と。こういう時代錯誤のことを言う人がいるから、日本はいつまでたっても、アジアから白 い目で見られる。いくらお金をばらまいても、相手にされない。もしあの韓国併合が正しかった とするなら、将来、日本が、逆の立場で、どこかの国に併合されても文句は言えないことにな る。日本人よ、なぜそれがわからない。 ちなみに日本で採択された教科書では、次のように なっている。 「日本は植民地にした朝鮮で、鉄道、かんがいの施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を 開始した」(扶桑社版)。 しかし一方で、日本の統治政府は、韓国語の使用を禁止し、神社への参詣を強制し、反抗し た人を弾圧した。闇から闇へと葬られた人は、数知れない。こうした事実を覆い隠して、韓国併 合を正当化しようとすれば、韓国や中国の人が怒って当然ではないか。教科書では次のように なっている。「韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考え た」と。そこには戦争を起こした当事者としての、反省の念は一片も織り込まれていない。 自分のまちがいを認めることは苦しいことだ。しかしまちがいを認めることから正義は始ま る。その正義なくして、国は成りたたない。教育すら成りたたない。私たちは子どもに、胸を張 って、何を教えることができるというのか。 九九年の終わり。その交換学生の同窓会があった。私は行けなかったが、出席したM君は、 こう話してくれた。「韓国側の当時の学生のほとんどは、今、国会議員や会社の社長をしてい る」と。せっかくこういう人たちが、今、日本のために努力しているというのに、なぜ日本よ、日 本人よ、あえてそれをぶちこわすようなことをするのか。
Textbook problem
The summer of 1967. I went over the Republic of Korea as one of the Japan-South Korea student exchange students of UNESCO. Those days, there were still no diplomatic relations between Japan and South Korea. Only for the day and one day, it will be to have been welcomed although it was greeted in the brass band when it arrived at the Pusan harbor. Wherever the rest might go, ?h was stood as the target of a Japanese attack. That Mr. Kim So-Un (金素雲) had guided us directly. It is a man of culture representing the Republic of Korea. " It has not made a mistake in a Japanese textbook. Me, however, all are not taught -- " was keenly realized And 30 years or more. This state has not yet changed. A certain man (65 years old) said like this. "South Korean annexation was right. Since Japan made the railroad and the road, the Republic of Korea has developed so far." Since there are those who say such anachronism, Japan is always seen by the white eye from Asia. It is not made a partner however it may scatter money. A complaint can be said, even if Japan will be merged into some country in a reverse position in the future, supposing that South Korean annexation is right. Japanese people -- it is not known why With the textbook incidentally adopted in Japan, it is as follows. "In Korea made into the colony, Japan developed preparing a railroad and the institution of irrigation etc. and started land investigation." (the Fuso version) However, the person who the Japanese government government forbade Korean use, forced the worship to a shrine, and offered resistance by one side was oppressed. The person hushed up from darkness is innumerable. If such a fact tends to be covered and it is going to justify South Korean annexation, isn't the man of the Republic of Korea or China angrily natural? With the textbook, it is as follows. "It was thought that it was required in order that a South Korean annexation may defend safety of Japan and the rights and interests of Manchuria." There, as for the remorse as a person concerned who caused war, one piece is not woven, either. It is painful to accept one's mistake. However, since a mistake is accepted, justice starts. The justice is made for there to be nothing and a country is not realized. Even education is not realized. Do we stretch a breast to a child and what tell him we can teach? The end for 99 years. There was the exchange student's class reunion. Although I was not able to go, the present M talked like this. "Most students of that time by the side of the Republic of Korea are acting as the president of a member of the Diet or a company now." saying [ that such men are trying hard now with much trouble the sake / of Japan ] -- why -- Japan -- Japanese people -- is what dares beat and break it done? 学校教育の限界 ●教育のきびしさ●教育の自由化が解決方法 参観日の一日。子どもたちより、うしろに立った親たちのほうが騒々しい。廊下で携帯電話を かけている親すらいる…。 日本では見慣れた光景だが、アメリカではこういうことはありえない。カナダでもありえない。 教育の構造そのものが、違う。欧米では、政府は一度補助金を、親に直接渡す。たとえばドイ ツでは子どもをもつ親に対して、子ども一人につき、一律月額二三〇ドイツマルク(日本円で一 万四千円程度)の「子どもマネー」を渡す。アメリカではバウチャと呼ばれる学校券を渡す。いく ら補助金とはいえ、サイフの中に入れば区別はない。親はこうしたお金を手にしたあと、学校を 選ぶ。教師を選ぶ。つまり「学校」や「教育」を見る目が、日本の親たちとは基本的に違う。 またカナダでは、教師は授業には責任をとるが、授業を離れて責任をとらないという姿勢が 徹底している。そのため学校側は、教師の住所はおろか、電話番号すら教えない。言い換える と、だらしない授業をすれば、それだけでその教師のクビは吹っ飛んでしまう。さらにアメリカの 多くの学校では、教師の雇用に対して、一年ごとの契約更新制をとっている。こうしたきびしさ が、学校教育を緊張あるものにしている。 欧米では教育の自由化はもう常識。アメリカの公立小学校ではカリキュラムすら、ほぼ自分 に自分たちで決めている。もちろん日本でいう教科書など、ない。そしていわゆる学外クラブ活 動がさかんで、子どもたちは学校が終わると、算数クラブや科学クラブ、あるいは各種のスポ ーツクラブに通う(ドイツ)。日本政府ですら、各地に「日本文化センター」などを作って、そのク ラブ活動を支援している(カナダ、オーストラリアなど)。 が、この日本では、学校万能主義がいまだにハバをきかせている。教育はもちろんのこと、 道徳しつけ、さらに生活指導まで教師に押しつけて、皆は平気な顔をしている。活発ざかりの 子どもと一時間まともに接すると、かなり体力のある教師でも、ヘトヘトに疲れる。そういう「た いへんさ」が、官僚も、そして一般の親たちも、まったくわかっていない。 「構造改革」という言葉がよく使われるが、今その構造改革が一番求められているのは、教 育の世界である。日本の将来を考えて、構造の中で安穏な生活をしている人も、そうでない人 も、一度この問題を、冷静に取りあげてみてほしい。 The limit of school education - Liberalization of educational severity - education is the solution method. An one-day visit day The parents who stood back are louder than children. There are even parents who have telephoned in the passage -- Although it is the familiar spectacle in Japan, such things cannot exist in the United States. It cannot also be Canada. The educational structure itself is different. In Europe and America, the government hands parents a subsidy directly at once. For example, in Germany, the "child money" of 230 German marks of monthly amounts (it is about 14,000 yen at a Japanese circle) is uniformly passed per one child to the parents with a child. The school ticket called voucher is passed in the United States. It is fair if it enters into a subsidy of house income how much. Parents choose a school, after gaining such money. A teacher is chosen. That is, the view toward a "school" and "education" is fundamentally [ Japanese parents ] different. Moreover, in Canada, although a teacher takes responsibility for a lesson, a lesson is left and the posture in which responsibility is not taken puts into practice. Therefore, in a school side, a teacher's address does not teach even a telephone number. If in other words an untidy lesson is carried out, it will come out so much and the teacher's job will be blown away. Furthermore, in many schools in the United States, the renewal system of a contract in every year is taken to employment of a teacher. Such severity makes school education the strain thing. In the West, educational liberalization is already common sense. At the public elementary school in the United States, even the curriculum is mostly decided to be himself by itself. There is no textbook said of course in Japan. And after the so-called outside-the- university club activities are prosperous and a school finishes children, it goes to an arithmetic club, a science club, or various kinds of sport clubs (Germany). Even from the Japanese government, a "day text-ized center" etc. is made in various places, and the club activities are supported in him, (Canada, Australia, etc.). The school omnipotent principle is making it still hear in widely and this Japan. Not to mention education, it is forced on a teacher to morality upbringing and also a living guidance, and everybody is doing the calm face. If the child of active is touched directly for 1 hour, it will get tired all also by the considerably sturdy teacher. Neither bureaucrats nor common parents understand such "difficulty" at all. Although the word "structural reform" is often used, it is the educational world to be now asked most for the structural reform. I consider the future of Japan and those who are living a peace life in structure, and those who are not so want you to take up this problem calmly at once.
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