はやし浩司
はやし浩司
親が子育てで行きづまるとき
●苦労のない子育てはない 苦労のない子育てはないし、その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子ど もが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がい る。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てで苦労しな がら、それこそ幾多の山や谷を越えて、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうな しに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてきたような親は、確かに若くてきれ いだ。しかしどこかツンツンとして、中身がない(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおば さんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょ うど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。 ●子どもは下からみる 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。しかしそうでない人は、それをなくし てから気づく。健康しかり。生活しかり。そして子どものよさも、またしかり。 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男 は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海の真ん中で。しかもほとんど 人のいない海の真ん中で、一人魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選 手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近く の浅瀬で泳いでいるはずだった。が、三歳になったばかりの三男が「お兄ちゃんがいない!」と 叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、 何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟を出すため、懸命にい かりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだっ た。ふと振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。 以後、二男については、問題が起きるたびに、私は「こいつは生きているだけでいい」と思い なおすことで、乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも。受験勉 強を放棄して、作曲ばかりしていたときも。それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすこ とで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリな し」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないと いうことだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から 見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思 議である。 ●子育ては許して忘れる 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive & Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように 「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子ど もに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深 さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるとい うことは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、自分のこと として、あるがままを認めるということ。それを繰り返しながら、親は真の親になっていく。 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と いう原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してほしい。 「許して忘れる」と。それだけであなたの心はずっと軽くなるはずである。 |