はやし浩司

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はやし浩司

賢明な人

賢明な人は、
子どものよさを、
なくす前に気づき、
愚かな人は、
子どものよさを
なくしてから気づきます。
子どもが悪く(?)なるときは、
「以前のほうがまだよかった……」という
状態を繰り返しながら、
ストンストンと悪くなります。
だから「おかしい」と
感じたら、そこで
立ち止まる……。
この立ち止まりが、
子どもの心を開きます。
少し時間はかかるかもしれないが、
それで子どもは立ち直ります。
まずいのは、
何んとかしようと
あせることです。
あせればあせるほど、
あとはその悪循環。
子どもはますます悪く(?)なります。


信用

愛人を作って遊んでいる男がいます。
しかしそういうふうに、平気で妻を裏切るような男は、
信用してはいけません。妻すらも裏切るような男です。
あなたをだますことぐらい、平気です。だから信用してはいけません。
これは私がいろいろな男とつきあって知った教訓です。
浮気がよいわけではありませんが、しかし
「遊び」ではなく、「真剣」であれば、それはまた別問題です。
人を愛するということは、理性や道理を超えた、
もっと根源的なものです。もしそうであれば、
それが「浮気」というものであっても、私は許されると思いますが……。
つまりそうした「愛」は、人間が人間であることから発生するもので、
もしそれがまちがっているというのなら、
人間がまちがっているのです。
どちらにせよ、「愛」は遊びでするものではありません。
もっと崇高で、純粋なものです。


日々の積み重ねが人格?

五〇歳を過ぎると、どっと出てくるのが持病。
しかし60歳を過ぎると、どっと出てくるのが、その人の人間性。
気力が弱くなり、ごまかしがきかなくなるためですね。
それまでは何とかごまかして、よい人ぶっていても、
60歳を過ぎると、そうはいきません。
心の醜い人は、モロにそれが出てくるようになります。
で、私はこう考えます。
日々の積み重ねが月となり、
月々の積み重ねが、歳となり、そして人格となる、と。
むずかしいことではありません。
ほんの日常的なささいなことが、その人の人格を
決定するのです。
たとえばウソをつかない、モノを捨てない。
正直に生きる、まじめに生きるなど。
そういう何でもないことが積み重なって、
その人の人格となるのです。
で、……私のこと。
私はこのことに気づくのが遅すぎたようです。
もう50歳を過ぎたのですが、そろそろ自分をごまかすことが
できなくなってきました。仮面をかぶっていたりすると、
疲れるのです。だからやがて醜い自分が外に出てくるように
なるでしょう。今からそれを心配しています。


見え、メンツ、世間体

「自分」のない人ほど、見え、メンツ、世間体を気にします。
もし「自分」があれば、他人の目など気にしないはずです。
「私は私」という生き方を貫くことができます。
そんなわけで、もしあなたが、見えやメンツ、それに世間体を
気にするようなら、あなた自身と戦います。
自分を強くするしか、ないのです。
しかし村社会のような閉鎖的な社会に生きていると、
どうしても、世間体が気になります。あるいは世間体を
気にするのが、常識になっている社会もあります。
息苦しい社会ですが、そういう社会は社会で、
また別のメカニズムで動いているのですね。
そういう社会と戦うのは容易ではありません。
しかし自分を作ることはできます。
世間体が気になったら、それはそれとして、
「自分」をつくります。「私は私」という生き様を、
より確固たるものにします。そしてその結果として、
見え、メンツ、世間体から決別します。


会話を多く

親子、仲良くしようと考えると疲れますね。
あるがままでいいのです。
そのかわり、会話を多くしましょう。
それだけでいいのです。
あなたのほうから、子どもに
何でも、ペチャペチャと
語りかけてみてください。
親子で沈黙は、危険信号。
何でも語りかけてみてください。
あとはなりゆきまかせ。
それでうまくいきますよ。


「急いで」は、禁句

「急いで……」「早く……」は、
できるだけ言わないように、ね。
言わなければならないときも、ありますが、
心のどこかでブレーキをかけましょう!
たったそれだけのことですが、
家庭の雰囲気が変わってきますよ。


家庭は自然体で

無理することはないのです。
「親子はこうあるべきだ」
「家庭はこうあるべき」って、
決めてかかると、疲れますよね。
大切なことは、
家庭が、いこいの場であること。
やすらぎの場であること。
みんなが信頼しあっていること。
みんなが守りあっていること。
それだけ守れば、
あとは自然体で……。


あいさつ

親子でも、家族でも、
あいさつなんか、
したければすればいいし、
したくなければ、
しなくていい。
そんなこと、
いちいち
気をつかっていたら、
疲れてしまう。
だってね、
この日本、
人間が多すぎる……。
せめて家庭の中ぐらい、
虚礼を廃して、
好き勝手なことをしましょう。
おならを出したいときには、
出せばいい。
鼻くそをほじりたいときは、
ほじればいい。
それが家族。
それを許すのも家族。
家族は、どこまでも気楽に!


先生の批判はタブー

子どもの前で、
学校の先生の批判や悪口は、
タブー中のタブー。
子どもはが先生の指導に従わなくなるばかりか、
あなたの話は、確実に、先生に伝わります。
子どもは、絶対に隠しごとはできません。
先生と接する時間のほうが、
長いのです。
だから、これは絶対に守ること。
もし先生への批判をするなら、
子どものいないところでします。
子どもとは関係のない世界でします。
これは家庭教育の
大鉄則です。


恩着せはしない

「産んでやった」だの、「育ててやった」だの、
子どもに恩着せはしない。
それが日常化すると、子どもは子どもで、
「産んでもらった」だの、「育ててもらった」だのと、言い出す。
日本人の悪いクセです。
無意識のうちに、そういう意識を
子どもに植えつけてしまう……。
あるいは植えつけられてしまう……。
結局は独り立ちできない親が、
自分の依存心を、子どもに植えつけているだけ。
子どもは子どもで、親離れできなくなってしまうだけ。
親は親で、前向きにいきる。
どこまでも前向きに生きる。
そういうひたむきな姿勢が、子どもを伸ばす。
子どもを自立させる。
子どもをたくましくする。


無条件の愛

見返りを求めない愛。
すべてを許し、受け入れる。
それが無条件の愛。
親の愛は、その無条件の愛。
裏切られても、裏切られても、
その愛を貫く。それが無条件の愛。


「立派な」は、もうやめよう!

「立派な社会人」思想。
それが戦後の日本の教育の根幹だった。
しかしこの言葉の裏で、
いかに多くの子どもたちがキズつき、倒れ、
そして日本の教育をゆがめたことか!
立派な社会人など、いらない。
人間に、立派な人も、そうでない人もいない。
人間は皆、同じ。平等。
みんな、自分がすべきことを、
自分ができることを、
懸命に、ただひたすら懸命にすればいい。
人がどう思おうと、
人が何と言おうと、
ただひたすら自分の道を進めばいい。
結果はあとからついてくる。
名誉や地位や肩書きは、あとからついてくる。
仮にそんなものなくても、
その人の価値とは関係ない。
あっても、その人の価値とは関係ない。
だからあなたも、自分の子どもに、
「立派な人になれ」と言うのをやめよう。
言うとしたら、「人に尊敬される人になれ」と、教えよう。
「心の美しい人になれ」と、教えよう。


子どもに洗ってもらおう

子どもは心の洗濯人。
子どもに接していると、
心が洗われる。
子どもの純粋さに、
あなたも心を洗ってもらおう。
汚れて、疲れた心を
洗ってもらおう。
知識や経験は、
時として
あなたを見苦しくする。
だから、知識や経験のない
子どもを笑ってはいけない。
下に見てはいけない。
あなたも子どものように、
虹を見て、感動しよう。
広い海を見て、感動しよう。
それともあなたは、
もう、あの純粋は心を
忘れてしまったとでも
いうのか。


許して忘れる

親は
許して、忘れる。
FOR・GIVE(許す) & FOR・GET(忘れる)
つまり、子どもに愛を与えるために子どもを許し、
子どもから愛を得るために、子どもを忘れる。
子育てで行き詰まりを覚えたら、
この言葉を思い出してみてほしい。
あなたは必ずその先に出口を見出すはず。


負けるが勝ち

子どもがからんだトラブルが起きたときは、
負けるが勝ち。負けて、相手をのみます。
ほかのことならともかくも、
あなたがヘタにがんばればがんばるほど、
キズつくのは、子どもです。
だから負けるが勝ち。
一に頭をさげ、二に様子をみます。
それでだめなら、また頭をさげて様子をみます。
あとはこの繰り返し。
くやしい思いもするでしょう。
つらい思いもするでしょう。
しかし、頭をさげる。
相手が先生でも、ほかの親でも、
誰でも、です。
あなたが頭をさげればさげるほど、
あなたは山の向こうの
「真」の親に近づくことができます。
負けるが勝ちというのは、そういう意味です。


悪口は聞かない

ほかの親から、学校や先生の悪口を聞かない。
聞けば聞いたで、今度はあなたが言ったこととして、
皆に伝わってしまいます。もちろん相槌など
打ってはいけません。どんな場合も、
間に子どもがいることを忘れてはなりません。
この世界、「如水淡交」が原則。大原則。
水のようにサラサラと、美しい人間関係だけを
守るようにします。
この世界、一度こじれると、修復が難しいばかりか、
結局は子どもが犠牲になります。
くれぐれもご注意ください。


信じてあげましょう!

信じてあげましょう、子どものこと
どんな道へ進むと言っても、
どんなことをしたいと言っても、
子どもが自分で決めて、
子どもが自分で行動して、
自分で責任をとるといったら、
それを信じてあげましょう。
親としてはつらいことも、
いっぱいありますが、
しかし子どもの人生は、
子どもの人生。
だから信じてあげましょう。
そのつらさに耐えるのも、
子育てのうち。
親の務め。


子どもの人生は子どものもの

「あなたの人生はあなたのもの。
思う存分、自分の人生を生きなさい」と、
一度は背中を叩いて、
この世界に子どもを送り出してこそ、
親は親の義務を果たしたことになるのです。
安易な親孝行論や、家で、
子どもをしばってはいけません。
子どもの人生は子どものもの。
あとは子どもの判断に任せましょう。
子どもを愛するということは、
子どもと別れるさみしさに耐えること。
もし、あなたが子どもの将来を
心配し、不安に思うなら、
その気持ちは、社会全体に
向けましょう。
あなたの孫、そのまた孫のことを考えて……。


勉強

もう昔とは時代が違います。
これからはプロが認められ、
プロが生きていく時代です。
またそういう時代にしなければいけません。
人間に上下はありません。
仕事に上下はありません。
学歴なんかで人間の価値は決まらない。
こんなわかりきったことが、
どうして今まで、
この日本では理解されなかったのでしょうか。
私が幼稚園で働くと言ったとき、
母は、電話口の向こうで泣き崩れました。
昔の仲間は、「はやしは気が狂った」と言いました。
近所の男は、「どうせお前は
学生運動か何かをしていて
ロクな仕事につけなかったのだろう」と
言いました。今でも、
「お前は偉そうなことを言うが、
文部科学省あたりから
地位が回ってくれば、お前は
シッポを振る部類だろ」と
言ってきた人がいます。
こういう愚かな価値観を
なおさない限り、
日本は世界に相手にされません。
日本に未来はないのです。
勉強がムダだとは言いません。
しかし、私たちが子どもに向かって
「勉強しなさい」と言うとき、
あなた自身の中に、
こうしたゆがんだ価値観がないかどうか、
それを疑ってみてください。


感激

子どもが英語を話すようになったら、
それをまず、率直に喜んであげましょう。
それを、
「何よ、この点数は!」と子どもを叱るから、
子どもはやる気をなくすのです。
「こんなことでは、いい高校へ入れないわよ」と
脅すから、子どもはやる気をなくすのです。
どうか、教育の原点にかえって、
子どもの立場で、教育のすばらしさを
語ってあげましょう。
遠い昔の、
あなた自身の子ども時代を思い出しながら……。


家族

子どもには、
「世界で一番大切なものは、家族」と
自信をもって、教えましょう。
家族は守りあい、
家族は助けあい、
家族は教えあい、
家族は理解しあいます。
そういうことを、
日ごろから、子どもに
言いましょう。
たったこれだけのことですが、
こうしたものの考え方が、
あなたの社会観を変え、
あなたの人生観を変え、
あなたの子育てを変え、
そして日本の教育を変えます。


親子げんか

いつも同じパターンで親子げんかが始まるなら、
あなたの心の奥底に潜む、わだかまりをさぐってみてください。
何かあるはずです。
そのわだかまりが、あなたの心や行動を
裏からあやつっているのです。
問題はわだかまりがあるということではなく、
そのわだかまりに気づかないまま、
それにあやつられることです。
ただこの問題だけは、そのわだかまりに
気づくだけでも、解決します。
少し時間はかかるかもしれませんが、
それで解決します。
勇気を出して。
一度、自分の心の中をのぞいてみてください。


「がんばれ!」を慎重に!

何気なく使う言葉、それが「がんばれ!」です。
一見子どもを励ましているかのように見えますが、
その実、子どもを追いつめているだけ。
だから、子どもに向かって、「がんばれ」と
言うのは慎重に。言えば言うほど、
ひょっとしたら、あなたと子どもの間を遠ざけるだけです。
言うとしたら、「あなたはよくやっている」という言葉。
そういうねぎらいが、子どもの心を救い、
あなたと子どものきずなを深めます。
ついでながら、英語には、「がんばれ」に
あたる言葉がありません。
同じような状況では、
「Take it easy!」(気楽にね)と言います。
「がんばれ」なんていう言葉は使わなくても、
ちっとも困らないのです。


「偉い」を廃語に!

「偉い」という言葉を廃語にしましょう。
実にくだらない言葉です。
もし言うとしたら、
「尊敬」という言葉です。
ですから子どもには、
「偉い人になれ」ではなく、
「尊敬される人になれ」と教えましょう。


子どもの向こうに孫

子育てをするときは、
いつも、
あなたの子どもの中に
あなたの孫がいることを
考えながらします。
つまり
子どもに、
そのまた子ども(あなたから見れば孫)の
育て方を教えるつもりで
します。
「あなたが親になったら、
こういうふうに
子どもを育てるのですよ」
「あなたが親になったら、
こういうふうに
子どもを叱るのですよ」とです。
それができるようになると、
あなたは子どもの向こうに孫、
さらには孫の向こうに、
そのまた子どもを
見ることが
できるようになります。
つまりあなたの「命」が、
未来に向かって、
ずっと先まで続いていくのを
感じます。
それはとっても
すてきなことです。
それに、ね。
そういうふうに考えると、
あなたの視野も広くなります。
今は一対一の
親子関係かもしれませんが、
それがずっと広く、
大きくなっていきます。
子どもを通して、
あなたは社会や、世界を
見ることができます。
そして今は、一対一の関係かもしれませんが、
「この社会をよくしよう」
「この日本をよくしよう」という視点に変わってきます。
だってね、30代先には、
二人の親が、二人の子どもを産みつづけたとしても、
日本人はすべてあなたの子孫になるのです。
まあ、そこまでは考えなくても、
とりあえずは、
あなたの子どもの中に
あなたの孫を見てください。
あなたの子育て観が、
驚くほど変わってくるはずです。

※二人の夫婦が二人ずつの子どもを産みつづけると、
27代目に、1・3億人を超える。


うしろ姿は見せない

子どものために苦労しているという姿が、うしろ姿。
生活のために苦労しているという姿が、うしろ姿。
見せたくなくても見せてしまうのが、親のうしろ姿。
そうかもしれませんが、子どもには、親のうしろ姿は見せない。
親は子どもの前では、どこまでも気高く生きましょう。
たとえ空腹でも、たとえ貧しくても、たとえ苦しくても……。
「私は私の人生を前向きに生きる。
だからあなたはあなたの人生を前向きに生きなさい」と、
子どもの背中を叩いてあげましょう。
あの『一杯のかけそば』のような、みじめな姿を、
子どもの前でさらけ出してはいけません。
あの話の中では、親子がかけそばを分け合って食べていますが、
そんなお涙頂戴のことはしてはいけない。
そんな恩着せがましいことはしてはいけない。
親は親で、どこまでも気高く生きましょう。
子どもに、「産んでやった」とか、「育ててやった」とか、
そういうふうに、恩着せがましく思わせるのは、やめましょう。
あなたの子どもは、あなたという人から生まれますが、
決して、あなたの「もの」ではないのです。
一人の独立した人間なのです。
うしろ姿を見せるのは、結局は、
あなたが子どもに甘えているということです。
その甘えが、回りまわって、
あなたの子どもに依存心をもたせ、
あなたの子どもの自立をさまたげます。


賢い親

賢い親は、愚かな親を相手にしない。
しかし愚かな親は、賢い親にかみついてくる。
だから……
もしあなたが誰かにかみついているなら、
あなたは愚かな親。
もしあなたが誰かにかみつかれているなら、
あなたは賢い親。
愚かな親は、自分が愚かだとわからない。
わからないから愚かな親。
賢い親は、愚かな親がよく見える。
見えるから賢い親。
子どものことで、
ほかの親と何かトラブルがあったら、
この言葉を思い出してみてほしい。
そして自分はどうなのかと、
考えてみてほしい。
そうそう、愚かな親同士も、
互いによくかみつきあう。
少し言い過ぎましたか?
もしそうなら、ごめんなさい。


子どものトラブル

子どもどうしのトラブルは、
一に静観、二に静観、三に様子をみて、四に先生に相談。
親が出るのは、ずっとあと。
もしどうしも……、ということなら、
一、二年年上の子どもをもつ親に相談してみるとよい。
たいていその段階で、「うちもね……」という話を聞いて、
問題は解決する。
親としてはつらいところだが、このがまんが、
子どもを大きくする。たくましくする。


子どもには本物を

子どもには本物を見せよう。
絵でも美術でも、そして音楽でも……。
本物を知れば知るほど、
子どもは本物とニセ物の区別がつくようになる。
本物を知らない子どもは、
ニセ物がニセ物とわからず、
そのニセ物にだまされる。
だから子どもには本物を見せよう。


アルバムを大切に

おとなは過去をなつかしんで
アルバムを見る。
しかし子どもは、未来を見るために
アルバムを見る……。
そのアルバムには、
不思議な力がある。
心をいやす力。
生きる勇気を与える力。
だって、悲しいときや、
苦しいときを、
アルバムに残す人はいない。
だからアルバムは、
いつも部屋のまん中。
子どもの手の届くところに
おいてみましょう。
あなたも
アルバムのもつ
不思議な力に
気づくはず。


他人を喜ばすように

もしあなたに二人の子どもがいたとします。A君とB君です。
そういうとき、つまりA君にものを買ってあげるときは、
「これがあるとB君が喜ぶわね」と、言って、A君にB君のものを
買わせます。反対にB君にものを買ってあげるときは、
「これがあるとA君が喜ぶわね」と、言って、B君にA君のものを
買わせます。
こういうちょっとした会話が、子どもの心にやさしさを育てます。
そう、やさしい人というのは、他人を自然な形で喜ばすことが
できる人のことをいいます。


子どもともに歩く

神はあなたの前を歩く。
あなたのガイドとして。
神はあなたの横を歩く。
あなたの友として。
神はあなたのうしろを歩く。
あなたの保護者として。

……これはあるキリスト教団体の
案内書にあった言葉です。
これを親子の関係に置きかえてみると、
こうなります。

親は子どもの前を歩く。
子どものガイドとして。
親は子どもの横を歩く。
子どもの友として。
親は子どものうしろを歩く。
子どもの保護者として。

すてきな言葉ですね。