はやし浩司
夏物語
オーストラリアでは、春のおわりに、夏のための牧草を収穫します。夏は暑く
乾燥するためです。日本とは考え方が反対ですね(日本では冬に備えて、秋に 牧草を収穫します)。そうそう中東の国々では、日陰は、「オアシス」を意味しま す。日本では、「日陰者」というと、悪い意味で使われますが……。
ぼくは子どものころ、夏が来るのが、楽しみでした。どれほど、夏が来るのを、
待ち焦がれたことか。夏になると、川で泳ぐことができました。夏になると、母の 実家で、夏休みを過ごすことができました。今でも、夏になると、そのときの感 動がよみがえってきます。ただ、ぼくが子どものころの夏は、あっという間に終 わってしまったように思います。8月15日を過ぎると、急に涼しい風が吹き始 め、もう川では泳げなくなりました。今では、10月へ入るまで、真夏日が続いた りしますね。地球温暖化という言葉がありますが、この50年だけを見ても、確 かにこの地球は熱くなっているように感じます。
まあ、深刻な話は別として、夏は、すべてのものが、生き生きと輝く季節です。
静かな早朝、つんとした森のにおいをかぐと、生きている喜びさえ覚えます。み なさんは、いかがですか?
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花火
山荘へ行く途中、K町の祭りにでくわした。大きな花火が、断続的に打ち上げ られた。私とワイフは、車を路肩にとめて、しばし、その花火を楽しんだ。
あの花火には、不思議な魅力がある。ヒューと音をたてて、大空にドンと光
る。散る。そして消える。あとには、夜空に残る白煙。それを繰り返し見ている と、人生そのものを感ずる。花火に命はないが、花火は命そのものの象徴か? 若い人にとっては、人生の華々しさを。壮年、中年の人には、過ぎ去りし日々 のロマンスを。そして私のような老人の入り口に立つ人には、人生の悲哀を… …。 私は子どものころ、よく祖父に手をひかれて、町内の夜祭に行った。そのとき の感触が、今でも忘れられない。花火を見ていると、その感触がそのまま伝わ ってくる。
青春時代、恋人と川原に座って一緒に花火を見たことがある。ゆかたが艶(な
まめ)かしく乱れ、そのすき間から、白い乳房がこぼれんばかりに光っていた。
息子たちができてからのこと。バス会社の企画旅行で、どこかの花火大会を
見に行った。弁当つきで、私たちはその弁当を食べながら、ゴザの上に寝転ん でそれを見た。
そして今、私はワイフと車の中で手をつなぎあって、花火を見ている。こうした
時間も、つぎの瞬間には、どこかへ消えてなくなるのだろう。花火が光って消え るたびに、この年齢になると、「時間よ止まれ!」と心の中で叫ぶ。しかしそうい う私の気持ちなど、おかまいなしに、花火は光ってはまた消える。ドン、ドン、 と。 また車を走らせると、それまでは気づかなかったが、暗闇の中に、多くの人が いるのがわかった。道端に座っている人。歩道にイスを持ち出して座っている 人。寝転んでいる人もいた。たわむれている若い男女も目についた。それぞれ がそれぞれの思いの中で、花火を楽しんでいた。そう、それはあたかも走馬灯 にうつる影絵のようでもあった。つぎつぎとそういう人たちが現れては消える。そ れらをうしろに見やりながら、私たちは、やがて山荘へつづくわき道へと入った。 (02−8−17)※
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クーラー
ぼくはずっと、クーラーなしで、がんばっています。そのためか、息子たちも、
むしろクーラーをいやがるほど、クーラー嫌いです。女房も、クーラーを嫌いま す。そういうぼくたちを基準にするのも、正しくないのかもしれませんが、なけれ ばないで困らないのがクーラーではないかと思っています。
いや、クーラーにあたればあたったで、そのあと、体がその何倍も疲れます。
この時期になると、教室で、青白い顔をして、ハーハーと息苦しそうにしている 子どもが、何割かはいます。中には、汗をふくというよりも、胸をかきむしってい る子どもさえいます。明らかにクーラー病です。そういう子どもたちを目(ま)の当 たりにすると、「本当にいいのかなあ」と考え込んでしまいます。
水分補給
夏になると、ぼくは毎日水(実際にはペットボトルのウーロン茶)を、2〜3リット
ルは飲みます。ひっきりなしに飲んでいるといった感じです。もともと血圧が低 いので、飲まざるをえないという状況です。(飲まないと、頭がボーッとしてきま す。)それはそれですが、今、子どもたちは、自動販売機でジュースを買ったりし て、それを飲んでいます。
しかし体重が10キロ前後の子どもが、缶ジュースを一本飲むということは、体
重60キロのおとなが、6本飲む量に匹敵します。いくらのどがかわいていても、 6本は飲めません。飲めば飲んだで、腹の中がゴボゴボになってしまいます。し かしそれと同じことを、親たちは子どもにしています。そして一方で、「小食で困 っている……」とこぼしています。考えてみれば、身勝手な話ですね。
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先週、教室でふと見ると、小学二年生の子どもたちが、扇風機に向かって、
「アーアー」と声を出していました。その瞬間のことです。私は自分の子ども時 代を思い出しました。私も子どものころ、まったく同じことをして遊んだからです。 何とも言えないなつかしさが、こみあげてきました。
自分の子ども時代は、遠い遠い昔になってしまったような感じです。しかし今
ここに、その年齢の子どもたちがいるのを知ると、これまた不思議な気持ちに襲 われます。この子どもたちがおとなになるころには、もう私はこの世界にはいな い……。そんなときです。私は何かを子どもたちに残してあげなければという気 持ちになります。
時間がない……。今日、女房と、長崎屋の二階で昼食を食べました(7・1
4)。その窓の向こうに大きなパチンコ屋があって、ときおり人が出入りしている のが見えました。ぼくはそれを見ながら、「どうしてあんなことで時間をムダにで きるのか」と、そういう人たちの気持ちが理解できませんでした。時間がもった いない……。人生は短いのだから、もっ有意義に時間を使ったほうがいいので は……、と。
それぞれの人にはそれぞれの人生があり、それについてとやかく言うことは
許されません。が、しかしぼくには、そういう人たちの気持ちがどうしても理解で きません。健康で、死の不安のない時間のほうが、実際には短いのです。
そうそう、50歳も過ぎるとですね、どんな人に会うときでも、「この人は何をし
てきた人だろう……」というような目で、その人を見ます。地位や肩書きではな く、中身です。そしてやはり、「何かをもっている人」は、面白いですね。がんばっ て生きてきた人です。そういう人に会うと、自分までうれしくなってきます。「あ あ、あなたもがんばったのですね」と。
私にはたった一回しかない人生だから、思う存分、自分の人生を生きてみま
す。みなさんは、こういう私の気持ちをどう思いますか。女房は、「あなたは貧乏 性ね」と笑いますが……。
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でもね……。
あちこちの人の子育て論を読んでいると、頭が混乱するというようなことはあり
ませんか? 私ね、正直に告白しますが、他人の子育て論は、できるだけ読ま ないようにしています。自分のオリジナルな考えかたが影響を受けるからです。 私が信ずるのは、目の前にいる「子どもたち」だけです。
私の子育て論でわからないところがあると、必ず、子どもたち自身に聞くように
しています。アンケートをとったりするのもそのためです。つまりですね、私にと っては、生徒たちが先生というわけです。
こわいのはね、そういう現場経験のない教育者や学者が、頭の中だけで考え
て子育て論を組み立てるときです。そういう人が子育て論を混乱させます。私は そういう人たちの書く子育て論は、「知恵のゴミ」と呼んでいます。
……だからといって、私の子育て論が正当だ、なんて言うつもりはありませ
ん。それを判断するのは、あなた自身だから、です。でもね、私が自信をもって 言えることは、私はすべて「経験」に基づいて話したり、書いたりしているという ことです。それが私の子育て論の基本になっています。それだけはどうか信頼 してください。経験数だけは、ほかの誰にも負けません。
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この世界、まともでない人もたくさんいます。(だからといって、私がまともだと
言い切るのも危険ですが……。)バックに宗教団体やカルト教団をかかえてい る評論家も結構います。どうかみなさん、ご注意ください。そういう人に出会う と、それこそたいへんなことになります。
私はどうかって? 安心してください。このHPでは、個人のプライバシーに触
れるようなことは、いくつかの事例を合わせたりして書いていますが、それ以外 は、正直に書いています。「はやし浩司はあやしい?」と思われましたら、どう か、はやし浩司まで、質問を寄せてください。詳しくは、「はやし浩司」→「自己 紹介」のところに書いておきました。
どうですか? これで安心していただけましたか?
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