はやし浩司

秋物語・はやし浩司
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秋物語



山荘の居間は、南側は、全面透明ガラスになっていて、
谷の向こうの山々が、一望できる。
その山々が、11月に入ると、少しずつだが、
色づき始める。

昔、二男が、まだ高校生のとき、
「ぼくは秋が好きだ」と言った。
そのときは、「ああ、そう」と言ったが、
それから秋になるたびに、
「二男が好きな秋だ」と思うようになった。
そしてどこか、いつも、二男の目を通して、
秋を見るようになった。

すばらしい紅葉を見たりすると、
「ああ、きっと二男はこういうのを見てそう思ったのだ」と、
そんなふうに考えるようになった。


浜松市北部・渋川にて(04・11)




秋の子育て

「何かをした」という思い。「何もできなかった」という思い。それに「もう、た
いしたことはできないだろうな」という思い。そういうのが、複雑に入り乱れ
る。子育てが終わると、どっとやってくるのが、老後。人生の終着点は、もう
遠くない。いや、平均寿命から計算すれば、あと30年くらいは生きられる
のかなと思ったりする。が、その30年も、あっという間に終わる……。この
年齢になると、それもわかる。

年をとるのが、こわいのではない。私は頭がボケるのが、こわい。実際、そ
ういう人をたくさん見ている。数年ぶりに会うたびに、どんどん頭の働きが
鈍くなっていくのがわかる人がいる。そういう人を見ると、「明日は、我が身
かな」と思ったりする。

私の前には、まだ荒野が手つかずのまま、広がっている。もし私がボケた
ら、その荒野をどうやって進むことができるというのか。急がなくてはいけな
い。時間がない。人はよく私にこう言う。「忙しいですか?」と。私は忙しくは
ない。しかし時間がない。時間が足りない。時間がほしい。一日だって、一
時間だって、一分だって、私にはムダにできる時間はないのだ。

冬は近い。冬支度もしなければならない。この冬をどうやって暖かく生きて
いくのか、そんなことも考える。

……あいさつなのに、暗い話でごめんなさい。人間がセンチメンタルになる
のが、秋ということでしょうか?

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育自?

今日の新聞にも、こんな記事が載っていた。「子育ては、自分を育てることだ」と。「育
自」という言葉を使って、それを説明する人もいる。しかし子育ては、そんな甘いもので
はない。親は子どもをぞだてるのではない。親は、子育てをしながら、否応なしに、子ど
もに育てられる。「育自」などと言っておられるのは、幸せな人だ。たいていの人は、日々
の生活に追われ、自分の心を見る余裕すらない。あたふたしているうちに、その日が終
わってしまう。「育自」なんかしているヒマさえない。

こんなことを言えるようになったのも、人生も晩年にきたためか。いろいろと振り返って、
自分がわかるようになった。

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秋の風がさわやかにやってくる。つんと冷たい風。……不思議なものだ。そういう風を肌
で感ずると、子どものころの運動会の日を思い出す。体のほうが記憶しているのだ。

みんながイスを並べて運動場のまわりの座っている。目の前に横を向いて立っている子
どもがいるが、名前はわからない。男の子だが、遠くをじっと見ている。そんな光景が、
頭の中に浮かぶ。きっとその部分だけ、風の感触とともに、記憶に残ったのだろう。

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今年(2001)も、秋の収穫ができた。栗、柿、あんず、しいたけ、ナシ……。そのつど女
房が「とれたわ」と言ってもってくる。もうすぐミカンもとれるはず。今年はミカンが、たくさ
ん実っている。こうした季節感というのは、山荘をもつまで、あまりはっきりしなかった。し
かし山の中に住んでいると、その季節感が、実にあざやかに、明確に見えてくる。今はそ
の秋だ。(9・30)

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女房がこう言った。「もう10月も半分、終わったのね」と。
考えてみれば、あっという間に、10月も終わろうとしている。
そして2001年という年も終わろうとしている。つい先日、2001年の
年賀状を書いたばかりのような気がするのに、もう2002年の年賀状……?
来年は「馬歳」だそうだ。(2001年10−20)

あ〜あ、今年も何かをしたようで、結局は何もできなかった。
こんなことでいいのかというあせりばかりを感ずる。
もっともっと荒野を歩いてみたい。その先に何があるか知りたい。

アメリカ人の友人のJIMが、分厚い聖書をくれた。
KING JAMES版は読みにくいとこぼしたら、
新しいのをくれた。私の名前を
印刷してくれた。Matthewのところを読み始める。

「精神の貧しい人は、祝福される。なぜなら、天国の王国は彼らのものである」とある。
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.

そこでJIMに、「精神の貧しい人とはどういう意味か」と聞くと、こう教えてくれた。
「新しいことや真理を知りたがっている人のことを、精神の貧しい人という」と。
つまり日本語で「精神の貧しい人」というと、もっと別の意味で使われるが、
それではないということだ。

しかし日々に真理を探究するのは、むずかしい。あっという間に時間だけは
過ぎていく。一日は過ぎていく。月日は過ぎていく。こうして毎日、机の前にすわり、
パソコンをたたいていても、その日に発見できる「真理」は、本当に少ない。
魚釣りで言えば、数時間も座って考えていても、釣れるのは、小さな小魚一匹だ。
それくらい遅々として前に進まない。目の前には荒涼たる荒野が横たわっている
というのに……。

これが私の限界なのか? どこかで悪魔がこうささやく。

「浩司、もうやめろ! お前には無理だ。時間の無駄だ。もっと楽しめ。人生は一度しか
ないぞ。お前だけが、まじめに生きて何になる! どうせゴールには行けないのだから、
はやくあきらめて、楽しい人生を送ったら、どうだ! お前には友もいないだろ。
お前には、仲間もいないだろ。お前はもっとお金を稼げばいいのだ。その才能はある。
どうしてお金を稼いで、いい生活をしない? いい生活をして、うまいものを食べたら
どうだ? 無理をすることはないぞ。どうせお前ごときに、真理などわかるはずもない。
あきらめて、現状を受け入れろ。楽しく生きろ。どうせこの世の人間には、お前の
価値などわかるまい。見ろ、マスコミの人間にしても、肩書きや地位や、名誉で
人間を判断しているだろ。そういう世の中なのだ。だったら、あきらめろ。だれも
お前なんか、評価しないぞ。バカめ。ドンキホーテのようなことをして、一人で
いきがって、それが何になる。浩司、もうやめろ。今夜も家族でビデオを見て、
夜を楽しめ。考えるのをやめろ。考えたところで、お前ごときに何がわかるか!」と。

あああ、私はバカなのか?

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