はやし浩司

新・子育て格言(1)
目次に戻る トップページに戻る


新・子育て格言(「ママ100賢・第3巻の改訂版」・山手書房新社・発行)



●子どもに、子どもの育て方を教える

 子どもに子どもの育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。

 教えるだけでは足りない。身にしみこませておく。「幸せな家庭というのは、こういうものです
よ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうものですよ」と。そういう「し
みこみ」があってはじめて子どもは、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができ
るようになる。


●自分の過去をみる

 一般論として、不幸にして不幸な家庭の育った人(親)は、子育てがへた。どこかぎこちない。
自分の中に親像のない人とみる。

 ある父親は、ほとんどその母親だけによって育てられていた。(父親の父親は、今でいう単身
赴任の形で、名古屋に住んでいた。)そのため父親がどういうものであるか知らなかった? 
何か子どもに問題があると、子どもを、容赦なく、殴りつけていた。このように、極端にきびしい
親、あるいは反対に極端に甘い親は、ここでいう親像のない人とみる。

 また不幸な家庭に育った人は、「いい親子関係をつくろう」「いい家庭をつくろう」という気負い
ばかりが強くなり、結果として、子育てで失敗しやすい。

 もしあなたが自分の子育てのどこかで、ぎこちなさを感じたら、自分の過去を振りかえってみ
る。この問題は、自分の過去がどういうものであるかを知るだけで、解決する。まずいのは、そ
の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされること。


●「育自」なんて、とんでもない!

 よく「育自」という言葉を使って、「育児とは、育自」と言う人がいる。しかし子育てはそんな甘
いものではない。親は子育てをしながら、子どもに、否応なしに育てられる。

 子育てはまさに、山や谷の連続。その山や谷を越えるうちに、ちょうど稲穂の穂が、実るとた
れてくるように、親の姿勢も低くなる。もし「育自」を考えるヒマがあるなら、親は親で、子育てを
忘れて、一人の人間として、外の世界で伸びればよい。そういう姿勢が、一方で、子どもを伸ば
す。自分を伸ばすことを、子育てにかこつけてはいけない。


●カプセル化に注意

 家庭という小さな世界に閉じこもり、そこで自分だけの価値観を熟成すると、子育てそのもの
がゆがむことがある。これをカプセル化という。

 最近は、価値観の多様性が進んだ。また親たちの学歴も高くなり、その分、「私が正しい」と
思う人がふえてきた。それはそれで悪いことではないが、こと子育てに関しては、常識と経験
が、ものをいう。頭で考えてするものではない。

 そのため子育てをするときは、できるだけ風通しをよくする。具体的には、ほかの親たちと交
流をふやす。が、それだけでは足りない。いつも「私はまちがっているかもしれない」という謙虚
な姿勢を保つ。そして子どもを、自分を通して見るのではなく、別個の一人の人間としてみる。
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私の子どもは、私と同じように考えているは
ず」と過信している親ほど、子育てで失敗しやすい。

 このカプセル化のこわいところは、それだけではない。同じ過保護でも、カプセルの中に入る
と、極端な過保護になる。過干渉も、過関心も、極端な過干渉や、過関心になる。いわゆる子
育てそのものが、先鋭化したり、極端化したりする。


●親の主義に注意

 よく「私は○○主義で、子どもを育てています」などという人がいる。しかし「主義」などというも
のは、無数の経験と、試行錯誤の結果、身につくもの。安易に主義を決め、それに従うのは、
危険ですらある。いわんや、子育てに、主義などあってはならない。よい例が、スパルタ主義、
完ぺき主義、徹底主義など。

 これについては、以前、こんな原稿を書いたので、ここに張りつけておく。

++++++++++++++++

子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育
てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

++++++++++++++++

あなたは神経質ママ?
雑誌「ファミリス」に掲載済み

●『まじめ七割、いいかげんさ三割』
 子育ては『まじめ七割、いいかげんさ三割』と覚えておく。これはハンドルの「遊び」のようなも
の。この遊びがあるから、車も運転できる。子育ても同じ。

たとえば参観授業のようなとき、親の鋭い視線を感じて、授業がやりにくく思うことがある。とき
にはその視線が、ビンビンとこちらの体をつらぬくときさえある。そういう親の子どもは、たいて
いハキがなく、暗く沈んでいる。ふつう神経質な子育てが日常的につづくと、子どもの心は内閉
する。萎縮することもある。(あるいは反対に静かな落ち着きが消え、粗放化する子どももい
る。このタイプの子どもは、神経質な子育てをやり返した子どもと考えるとわかりやすい。)

●子育ての三悪
 子育ての三悪に、スパルタ主義、徹底主義、それに完ぺき主義がある。スパルタ主義という
のは、きびしい鍛練を主とする教育法をいう。また徹底主義というのは、やることなすことが極
端で、しかも徹底していることをいう。おけいこでも何でも、「させる」と決めたら、毎日、それば
かりをさせるなど。要するに子育ては自然に任すのが一番。人間は過去数一〇万年もの間、
こうして生きてきた。子育てのし方にしても、ここ一〇〇年や二〇〇年くらいの間に、「変わっ
た」と思うほうがおかしい。心のどこかで「不自然さ」を感じたら、その子育ては疑ってみる。

●こわい完ぺき主義
 完ぺき主義もそうだ。このタイプの親は、あらかじめ設計図を用意し、その設計図に無理やり
子どもをあてはめようとする。こまごまとした指示を、神経質なほどまでに子どもに守らせるな
ど。このタイプの親にかぎって、よく「私は子どもを愛している」と言うが、本当のところは、自分
のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の欲望を満足させるために、子どもを利用してい
るだけ。

●子育ての基本は自由
 子育ての基本は、子どもを自立させること。そのためにも子どもは「自由」にする。自由とはも
ともと、「自らに由(よ)る」という意味。つまり子どもには、@自分で考えさせ、A自分で行動さ
せ、そしてB自分で責任を取らせる。過干渉や過関心は、子どもから考えるという習慣を奪う。
過保護は自分で行動するという力を奪う。また溺愛は、親の目を曇らせる。たとえば自分の子
ども(中三男子)が万引きをして補導されたときのこと。夜中の間にあちこちを回り、事件その
ものをもみ消してしまった母親がいた。「内申書に書かれると、進学にさしさわりがある」という
のが、その理由だった。

●家庭はいやしの場に
 子どもが学校に入り、大きくなったら、家庭の役割も、「しつけの場」から、「いやしの場」へと
変化しなければならない。子どもは家庭という場で、疲れた心をいやす。そのためにも、あまり
こまごまとしたことは言わないこと。アメリカの劇作家のソローも、『ビロードのクッションの上に
座るよりも、気がねせず、カボチャの頭のほうがよい』と書いている。このテストで高得点だった
人ほど、このソローの言葉の意味を考えてみてほしい。

●子どもには自分で失敗させる
 また子どもに何か問題が起きたりすると、「先生が悪い」「友だちに原因がある」と騒ぐ人がい
る。しかしもし子どもが家庭で心をいやすことができたら、そのうちのほとんどは、そのまま解
決するはずである。そのためにも「いいかげんさ」を大切にする。「歯を磨かなければ、虫歯に
なるわよ」と言いながらも、虫歯になったら、歯医者へ行けばよい。痛い思いをしてはじめて、
子どもは歯をみがくようになる。「宿題をしなさい」と言いながらも、宿題をしないで学校へ行け
ば、先生に叱られる。叱られれば、そのつぎからは宿題をするようになる。そういういいかげん
さが、子どもを自立させる。たくましくする。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ズル休みのすすめ

 不登校児をもつ親などと話していて、いつも気になるのは、「学校とは行かねばならないとこ
ろ」という観念で、頭がガチガチにかたまっていること(失礼!)。ときには、「どうしてそこまで学
校にこだわるのか」とさえ思ってしまう。

昔、毛沢東は、『造反有理』と言った。「反抗するものには、理由がある」という意味だが、既存
のコースに反発する子どもには、必ず、それなりの理由がある。頭から、「おかしい」とか、「ま
ちがっている」とか決めつけないで、ときには、子どもの言い分にも、耳を傾けてやる必要があ
るのではないだろうか。

 もちろん勤勉であることは、それ自体は悪いことではない。しかし日本人は、勤勉であること
を美徳とするあまり、もっと大切なものを、見失っているのではないだろうか。そういう思いをこ
めて書いたのが、つぎのエッセーである。

+++++++++++++++++++
 
常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

@学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州
政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多
いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人
を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと
言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ
だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中
にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年調べ)。こう
した親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一
四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最
長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住
所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときは
どうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ
氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待って
いると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

B進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に
話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで
はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界
 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな
い。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなた
にしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶
対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこ
が仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!
 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

●「自由に学ぶ」
 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で
は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
 


●自意識を育てる
 小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかり
やすく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ
ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。
 たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い
(自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ
る。
 ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる
と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな
る。
 そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指
導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ
れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。
 子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年
生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ
ぶさないように指導する。


●幸福な家庭環境で包む
 「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで
きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ
る」と。
 つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形
で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど
もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格
言は正しい。
 まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。
そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。


●親の心は、子の心
 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。
 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。
 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。
 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。言
いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいものと
悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、自分
自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というより、あ
えて伝える必要はない。あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生
きザマになる。親子というのは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと
いうことになる。

●家庭の緊張感を大切に
 ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ
キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい
とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども
の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切
にする。
 しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族
全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。


●温もりのある園を
 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。
 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため
に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す
といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子
どもをやらないほうがよい。


●園は、先生を見て選ぶ
 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって
いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ
うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという
ような園は、さける。
 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、
よい。


●男児は男児
 男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル
のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取
っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって
いる。
 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ
とと決めてかかってはいけない。


●負けるが勝ち
 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、
「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう
に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。
 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ
れなりに深刻なケースと考えてよい。さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほ
かの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子ど
もにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。


●我流に注意
 子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」
「他人の育児論は役にたたない」と。
 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と
思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない…
…」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。
 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。


●二番底、三番底に注意
 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの
世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち
るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを
繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。
 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?
 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす
るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。


●信仰に注意
 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。
 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊
状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ
マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、
行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。
 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集
団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始
めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした
りする。
 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。


●機嫌を取らない
 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない
ことは、言うまでもない。)
 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの
親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子
どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育
児観は、捨てたほうがよい。
 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた
と子どものパイプを太くする。


●いつも我が身をみる
 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。
 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって
ほしいです」と。
 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て
をするときの、コツ。


●本物を与える
 子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」
というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ
うする」。
 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ
のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた
ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。こうした低俗、軽薄文化が、今、
この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかということ。このままでよいかというこ
と。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれば、子どもには、できるだけ本物
を与えたり、見せたり、聞かせたりする。


●親が生きがいをもつ
 子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。
 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは
結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言
える。
 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。


●仮面に注意
 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見
られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。
 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト
レスをためやすい。
 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。
 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。


●聞き上手になる
 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ
レーションする。そうでない親は、そうでない。
 親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。
 私「最近、元気がありませんが……」
 親「うちでは元気があります」
 私「何か、問題がありませんか?」
 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。
 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ
になる。


●親の悪口は言わない
 あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい
けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結
果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。
 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って
はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家
族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。


●無菌状態に注意
 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、
つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学
ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ
も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。
 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も
身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま
ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。


●子どもは削って伸ばす
 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。
 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。
 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。


●「偉い」を廃語に
 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い
人。わかるかな?」と言っていた。
 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ
る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま
り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、
ほとんど問題にならない。
 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。そこでどうだろう。も
う「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かっては、「偉い人になりな
さい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのようだが、こうした小さな
変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることができる。


●訓練(指導)と教育は別
 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、
教育ではない。
 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い
込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教
育の最大の悲劇がある。
 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも
訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり
えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す
ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。
 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。
むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。


●アルバムは見せよう
 子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい
思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。
おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見
る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自
分が成長していく、喜びを、その中に見る。
 アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。


●ベッドタイムゲームを大切に
 子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で
は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること
に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。
 コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ
たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。
子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。


●冷蔵庫をカラにする
 子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう
ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに
菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と
思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。
 そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜
半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。


●カルシウムを大切に
 子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する
に、海産物を中心とした献立にする。
 とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし
たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果
がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。


●歩かせる
 子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。
 昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ
ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。
ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無
数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知
ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される
ためである。


●クーラーを避ける
 都会ではそうはいかないかもしれない。しかしクーラーは、できるだけ避ける。私の家は、ク
ーラーなしで、やってきた。そのためか、息子たちも、かえってクーラーの不自然な冷気を嫌う
ようになった。ああいうものは、なければなくても、すむものか?
 反対に、夏など、クーラーがないと、苦しそうにハーハーとあえぐ子どもが多いのには、驚か
される。胸をかきむしる子どもさえいる。話を聞くと、家では、一日中、クーラーをつけっぱなし
だという。
 子どもの健康もさることながら、こういうぜいたくな生活に慣れきってしまった子どもは、将来
どうなるのか? そんなことも少しは、考えたほうがよい。


●子育ては楽しむ
 子育ての最大のコツは、子育てを楽しむ。「育てよう」「育ててやろう」と考えるのではなく、「い
っしょに楽しむ」。そういう姿勢が、子どもを伸ばす。
 もしあなたが子育てをしていて、それを負担に感じたり、不愉快に感じたら、親子断絶の第一
歩と考えてよい。それだけではない。長い時間をかけて、あなたの子どもの表情は、確実に暗
くなる。
 どうせ育てなければならないのだったら、はじめから、楽しむ。それだけのこと。


●外で遊ばせる
 子どもは、外で遊ぶのが、基本。しかし今、外で遊ぶ子どもは、ほとんどいない。田舎に住む
子どもほど、そうで、原因は、テレビゲーム。
 こうした現状を嘆いてもしかたないが、しかし、それでも子どもは、できるだけ外で遊ばせる。
努めて、そうする。子どもは外で遊ぶことにより、……。この部分を書き始めたら、とても数行
ではすまないが、ともかくも、そうする。あなたの子どもが日曜日になると、外へ元気よく遊びに
行くようなら、それだけでも、あなたの子どもの心は、まっすぐ伸びていることになる。


●ウソはていねいにつぶす
 子どものウソにもいろいろあるが、子どものウソは、ていねいにつぶす。叱ったり、威圧した
り、さらに脅したりすれば、そのときは効果(?)があるかもしれないが、それは一時的。子ども
は、ますますウソがうまくなる。
 子どもがウソをついたら、「なぜ」「どうして」だけを聞きかえしながら、それですます。子どもが
親のお金を盗んだようなときも同じように対処する。そういう意味で、子育ては、まさに根くら
べ。その根くらべに、親は負けてはいけない。


●子どもは使う
 子どもは使えば使うほど、いい子になる。生活力も身につくが、忍耐力も、それで養われる。
が、それだけではない。勉強もできるようになる。もともと勉強には、ある程度の苦痛がともな
う。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力ということになる。
 もっとも使うといっても、親がソファに寝そべっていて、「新聞をもってこい」は、ない。生活自
体がもつ緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。「これをしなければ、家族のみんなが
困る」という意識をどこかで、もたせるようにする。


●「いいかげんさ」を大切に
 子育てでは、「いいかげんさ」を、大切にする。そのいいかげんな部分で、子どもは羽を休
め、そして心をいやす。
 たとえば「歯をみがきなさい」とは言いながらも、適当にすます。虫歯になれば、歯医者へ行
けばよい。痛い思いをして、子どもははじめて歯磨きの大切さを知る。子育てには、こういうい
いかげんさが大切。先日、ある大学の教授(国立)がこう話してくれた。「うちの大学へくる学生
は、たしかに頭はいいが、自活する力がない。三食を、コンビニ食ですまし、健康を害する学
生はいくらでもいる」と。


●親は外に伸びる
 子育てじょうずな親と、そうでない親の違いは、親自身の社交は範囲によって決まる。社交範
囲の広い親は、それだけ人間関係の許容範囲が広いということになる。つまり子どもに対して
も、度量が広い。反対に、社交範囲の狭い親は、許容範囲が狭く、どうしても子どもにギクシャ
クしてしまう。それが、親子関係をゆがめる。
 子どもはあなたから生まれるが、同時にそのときから、一人の人間である。一人の人間であ
る以上、無限の可能性をもっている。決してあなたの世界だけで、子どもを見てはいけない。
育ててはいけない。


●互いに別世界
 親どうしの会話を聞いていると、互いに別世界というような会話をしていることがよくある。「あ
あら、信じられませんわ」「いえ、私だって……」と。
 子どもが親に向かって反抗するのを絶対許さないという親もいれば、反対に、まったく平気な
親もいる。反抗するのを許さない親からみれば、反抗する子どもというより、それを許す親がい
ることが信じられない。反対に、平気な親からすれば、子どものことでカリカリする親がいること
が信じられない。つまりたがいに別世界。
 こういう「別世界」を感じたら、一度、あなた自身の子育てを謙虚に反省してみるとよい。たい
ていあなたの子育てのほうが、ふつうでない。とくに「私が絶対、正しい」と思っている人ほど、
要注意。


●生活の音を大切に
 大根を切る音。味噌汁がにえる音。風の音。ドアの音。一見何でもないように見えるかもしれ
ないが、「音」には、不思議な力がある。少し前、何かの調査で、「あなたは二一世紀に何を残
したいですか」という質問を、インターネットで募集したことがある。そのとき、この「音」に関する
ものが、一番多かった。「水車の音」「ヒグラシの声」など。
 子どもには、「何の音かな」「どんな音かな」と、語りかける程度でよい。子どもが、音に関心を
もち、興味をもつようにしむける。ほかに、味や臭いもある。私もよく教室で、子どもたちに、い
ろいろな葉の味や臭いを調べさせる。子どもたちは、「臭い」とか、「いいにおい」とか言うが、そ
うした新発見が、子どもの知能をかぎりなく刺激する。


●叱っても、威圧しない
 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、一度、
その状態になると、あとは叱っても意味がない。

よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているからそうしている
のではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな子どもがいる。先生が何
か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床に頭をこすりつけるなど。多分、親
の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの子どもほど、何も反省していない。その場をの
がれたいがため、そしているだけ。

 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは時間を
まつ。


●「核」攻撃はしない
 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃はしてはい
けない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」など。

 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自覚させる
ためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほうは、そうでは
ない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言われた。しかしその言葉
ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、「核攻撃」だった。


●恐怖感は禁物
 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、虐
待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大きな心の
キズを負う子どもは、いくらでもいる。

 ある女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを言うよう
になってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神そのものが、分裂し
てしまった。

 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それが原因
で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。

 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思うかもしれ
ないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考える。


●引き金を引かない
 インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、ショックが
原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どんな子どもでも、ショ
ックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからない子どもは、いない。そう
いう前提で、子どもの心は考える。

 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を経験し
たあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショックには、注意
する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。

 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よくある例
は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不登校児になっ
たらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、子どもを本物の不登
校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と言い出す。(もちろんそうでな
いケースも多いが……。)

 どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き金は
引かない。


●親の情緒不安定は、百害のもと
 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子どもにさ
まざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大半の親は、
自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。

 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安にする。そ
の不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、絶対的な安心感
を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。子どもは、この絶
対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな心をはぐくむことができる。

 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよい。
「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というよりは、親自身
の問題ということになる。 


●家庭教育は、心づくり
 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚えたかでは
なく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭教育は、すべて、
「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子どもを伸ばす原動力とな
り、子どもを前向きにひっぱっていく。

 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理などが日常
化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家庭学習では、太陽
がよいに決まっている。

 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅れてしまう」
と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。子ど
もの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を加えるにしても、そのおおら
かさを、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、あきらめ、ほどほどのところでやめ
る。

 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよし。そうで
なければ、勉強のやり方そのものを、反省する。


●神経疲労に注意
 子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわせた
だけで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察を受けただ
けで疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にきつく叱られただ
けで疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。

 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、暴れたり
する(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももいる。どちらにせ
よ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。だからそれを悪いことと
決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけない。

 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を用意す
る。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキンシップを多く
して、CA分、MG分の多い食生活に心がける。


●あきらめることを恐れない
 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくても、伸び
る。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつんでしまうこと
もある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」
と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。また行かないと、親も気がつかな
い。

 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にしても、B
中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを落としたことで、
子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中学、E中学へと落ちてい
く。実際、こういうケースは、多い。

 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子どもは伸び
始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろんだからとい
って、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということではない。「あきらめる」
ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さこそが、親の「愛」の深さというこ
とになる。


●緩慢(かんまん)行動に、注意
 私が最初に、子どもの緩慢行動に気づいたのは、三〇年近くも前のこと。

ある日A君(小三)が、忘れものをしたので、近くにいたB君(小三)に、「これをもっていってあ
げて!」と叫んだ。私はB君が、パッと行動するものだとばかり思っていた。が、B君の行動
は、意外なものだった。ゆっくりと腰をあげ、まず自分のものを片づけ、おもむろに、イスを引い
て立ちあがった。それではまにあわない。そこで私は「おいおい、A君は帰ってしまうぞ。急
げ!」と号令をかけた。が、B君は、とくに気にするようでもなし、これまたゆっくりと歩き始めた
……。ノソノソと……。

 親はそういう子どもを見ながら、「うちの子はグズで」とか、「のろい」とか言う。ふつうは、親子
のリズムがあっていないだけと考えるが、しかしもう少し深刻なケースもある。それがここでいう
緩慢行動である。

 一般的に、子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。腹痛、下痢、頭痛
などの体の不調のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指
しゃぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強
迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、夜尿症、頻尿症な
ど。緩慢行動も、その一つということになる。わかりやすく言えば、心をふさぐ抑圧感が、慢性
化すると、子どもの行動は鈍くなる。さらにその行動そのものが長期化すると、それがその子
どもの特性(特質?)そのものになってしまう。こうなるとなおすのがむずかしくなるだけではな
く、一生つづくことにもなりかねない。

 あなたの子どもは、あなたが何かを頼んだり、号令をかけたとき、機敏に行動できるだろう
か。もしそうなら、それでよし。しかしどこか重く、ノソノソしているなら、一度、この緩慢行動を疑
ってみたらよい。


●イライラゲームにご注意
 最近、ゲームに没頭している子どもの脳について、いろいろな報告が出されている。脳の機
能的CTスキャンが発達し、脳の活動部を、リアルタイムで観察できるようになったこともある。
それによっても、ゲームに没頭している子どもの脳は、ある特異な部分だけが興奮状態にな
り、それ以外の部分は休眠状態になることがわかってきた。つまり子どもがゲームに没頭した
ところで、それが子どもの脳を、正常に発達させるということは、大脳生理学の分野で考えて
も、ありえない。

 一人、ゲーム狂いの子ども(小一)がいた。道を歩いていても、ゲーム機を手にして、指先で
カチャカチャとそれを動かしていた。両親が共働きで、その子どもに目が届かなかったこともあ
る。その子どもはまさに、四六時中、ゲームをしていた。

 その子どもだけを見て判断するのは、正しくない。しかしその子ども特有の、ふつうでない症
状がいくつかあった。たとえばゲームをしていないときは、燃え尽きたようにボンヤリしている
が、何かのことで、突発的に興奮状態になった。ギャーというものすごい声をあげて騒いだりし
た。そのときの様子が、ふつうでないため、あれこれ抑えると、今度は一転、またボンヤリして
しまう。慢性的な睡眠不足児の症状や、かんしゃく発作の症状とも違う。キレる子ども特有の、
いわゆる錯乱(さくらん)状態とも違う。過剰行動児とも違う。どこかふつうでない。心の緊張状
態が、短い時間の間に大きく乱れ、緊張しているときに何かあると、突発的に興奮状態になる
といったふうだった。もちろん静かな思考力は、ほとんどなかった。

 そこで母親に会って話を聞くと、「夜中でも、ガバッと起きて、ゲームをしていることもありま
す」とのこと。

 こうなったら、もちろんゲームを遠ざけるのがよいが、無理にゲームを取りあげたりすると、
今度は、禁断症状が現れる。これは別の子ども(小五男児)のケースだが、母親が、無理にゲ
ームを取りあげたとき、その子どもは、母親を殺す寸前までのことをして、暴れまくったという。

 ゲームにもいろいろあるが、反射運動型の、やればやるほど、イライラがつのるようなゲーム
は、子どもには避けたほうがよい。とくに、就学前の幼児には避けたほうがよい。本当は、「そ
んなバカなゲームを、子どもに与えるな!」と言いたいが、立場上、そこまでは書けない。あと
はみなさんの、判断に任せる。


●いいかげんさの勧め
 子育ては『まじめ七割、いいかげん三割』と覚えておく。いいかげんであることが悪いのでは
ない。子どもはそのいいかげんな部分で、息を抜く。伸びる。たとえば「毎日手を洗いなさいよ」
と言いながらも、言うだけにとどめる。仮に病気になったら、病院へ行けばよい。虫歯だってそ
うだ。「歯をみがきなさいよ」と言いながらも、適当にしてすます。虫歯になったら、歯医者へ行
けばよい。子どもは虫歯になって、「痛い」ことを知る。痛いことがわかれば、自分でみがくよう
になる。

 ……こう書くと、「何て、いいかげんなことを!」と思う人も多いかもしれない。しかし今、あまり
にも、親たちは子育てに神経質になりすぎている。そしてその神経質さが、子育てをゆがめ、
ついで子どもを萎縮させてしまっている。そういう現状を私は知っているから、あえて、常識
(?)に抵抗してみた。

 これはずっと先の話だが、今、自己管理ができない大学生がふえている。子どものときから
ずっと勉強しかしてこなかったような、優秀な(?)子どもほど、そうなる。大学生になり、ひとり
で生活を始めたとたん、生活が乱れる。三食はすべてコンビニ食。炊事、洗濯はしない。でき
ない。睡眠時間も乱れる。そのため、精神そのものを病むようになる子どもも多い。

 子どもを自立させるということは、子育てからいかにして、手を抜くかということ。手を抜けば
抜くほど、子どもは自立する。子どもというのは、そういう意味でも、皮肉なもの。たとえば子ど
もは使えば使うほど、たくましい子どもになる。生活力も、それで身につく。一方、子どもは、か
わいがればかわいがるほど、スポイルされ、ドラ息子、ドラ娘になる。同じように、親が手を抜
けば抜くほど、もっと言えば、いいかげんになればなるほど、子どもは自立する。

 とくに日本では、「子どもをかわいがる」ということは、「子どもをかわいい子どもにする」という
ふうに考える人が多い。無意識のうちにも、そう育てる。そして「子どもに楽をさせること」、「子
どもにいい思いをさせること」が、親の愛の証(あかし)と考えている人がいる。しかし、これは
誤解。まったくの誤解。

 あなたが自分の子育てをしていて、心のどこかで、「いいかげんかなあ」と迷ったら、すかさ
ず、「これでいい」と、思いなおす。そういう思いが、子どもを伸ばす。
(02−12−19)


●成長は段階的
子どもの成長は、段階的なもの。何かを教えても、一次曲線的になだらかに伸びるのではな
く、段階的(あるいは階段的)に、トントンと伸びていく。とくに「はじめの一歩」のときは、そうで、
子どもはしばらく(観察)→(蓄積)を繰りかえし、それが一定の臨界点にきたとき、つまりある
日を境に、爆発的に伸び始める。たとえば何かのおけいこをさせるとき、子どもによっては、最
初の数か月は、ほとんど反応を示さないことがある。教えても教えても、教えたことが、そのま
まどこかへ消えていくような感じになる。

 よく短気な親は、この(観察)→(蓄積)の段階で、子どもを叱ったりする。しかし叱れば、子ど
もの興味そのものを、そいでしまうことがある。動機そのものを、つぶしてしまうこともある。こ
の時期は、一見、伸びが停滞するかのように見えるが、じっと、「待つ」。待って、子どもの中
で、「力」が臨界点に達するのを待つ。待ちながら、一方で、子どもを励ます。ほんの少しでも、
あるいはどんな小さなものでも、進歩が見られたら、ほめる。そういう姿勢が、子どもを伸ば
す。


●成長を喜ぶ
 子どもを伸ばすコツは、いっしょに成長を喜ぶ。「もうこんなことができるの!」「どんどんいい
子になるわね!」「今度は、もっとすごいことができるわよ!」とか。そこでテスト。

 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、そのつど、あなたに報告にくる
だろうか。もしそうなら、それでよし。そうでないなら、家庭教育のあり方を、かなり反省したほう
がよい。今は小さなキレツだが、やがて断絶ということにもなりかねない。

 ある家庭には、四人の男の子がいたが、どの子どもも明るく屈託がない。ふつう下の子が、
上の子のおさがりをもらうのを、いやがるものだが、その家庭ではそうでなかった。下の子が、
お兄ちゃんのズボンをもらったりすると、みんなに「見て!」「見て!」と言って、走りまわるの
だ。秘訣はすぐわかった。母親が、そのおさがりを下の子どもに与えるとき、母親はこう言って
いた。「ああら、すごい! あんたもお兄ちゃんのが、はけるようになったのね。すごい、すご
い!」と。


●名前を大切に
 子どもの名前は大切に。ことあるごとに、「あなたの名前は、いい名前」を口グセにする。子ど
もの名前が、新聞や雑誌にのったら、それを大切にする。切り抜いてアルバムにしまったり、
高いところに張りつけたりする。そういう姿勢の中から、子どもは名前を大切にするようにな
る。そしてそれがやがて、転じて、子どもの自尊心となる。この自尊心が、子どもを前に伸ば
す。

 何かのことで、道からはみ出しそうなとき、自尊人が、それを踏みとどまらせる。私とて、本当
は、邪悪な人間かもしれない。が、「はやし浩司の名前を汚したくない」という思いが、いろいろ
な場面で、ブレーキとなって働く。たとえばこうしてものを書くときも、「はやし浩司」の署名を入
れるときは、その文には、大きな責任を感ずる。決していいかげんな気持にはなれない。

ためしに、あなたの子どもに、こう聞いてみてほしい。「あなたは、自分の名前が好き?」と。
「どう思う?」と聞くのもよい。そのとき子どもが、うれしそうに、「好きだよ」と言えばよし。そうで
ないなら、ここに書いたことを参考に、子どもの名前の扱い方について、もう一度、よく考えて
みてほしい。


●喜ばす喜びを
 子どもをやさしい子どもにしたかったら、子どもには、喜ばす喜びを教える。たとえばスーパ
ーでいっしょに買い物をするときも、「これがあるとお兄ちゃん、喜ぶわよ」「これを妹の○○に
分けてあげると、○○は喜ぶわよ」と。そのつど、だれかを喜ばすように、しむける。

 やさしい子どもというのは、だれかを喜ばすことを知っている子どもということになる。こんな
子どもがいた。

 幼稚園でみると、いつもだれかを三輪車に乗せ、そのうしろを押していた。見ると、その三輪
車に乗りたいため、ほかの子どもたちが列をつくって待っていた。そこである日、私はその子ど
も(年長児)に、こう言った。「たまには、君の乗った三輪車を、だれかに押してもらったら?」
と。するとその子どもは、こう言った。「ぼく、このほうが、楽しいもん」と。

 実はその子どもというのは、私の二男だが、二男は、本当に心のやさしい子どもだった。今も
そうだ。そういう二男のことを思い出すと、親の私でさえ、心が洗われる。またそういう思い出
が、私の心を豊かにしてくれる。


●スキンシップを大切に
 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。これから先、
科学的研究がさらに進み、やがてスキンシップのもつ、不思議な力が解明されていくだろうが、
しかし現象としては、すでに証明されている。

 よく「抱きグセ」が問題になるが、抱きグセは、問題ではない。抱くことによって象徴される、依
存心が問題なのである。しかしその依存心は、スキンシップが多いからつくものでも、また少な
いからつかないものでもない。スキンシップと依存心は、まったく別のもの。少なくとも、分けて
考える。

 日本人は、もともとスキンシップの少ない(少なすぎる)民族である。南米などを旅するとわか
るが、向こうの親子は、(夫婦も)、本当にいつも、しかも日常的にベタベタしている。こちらが
見ていても、恥ずかしくなるほど、ベタベタしている。で、何か問題があるかというと、そういうこ
とはない。

 むしろ、スキンシップを受けつけない子どものほうが、心配。心のどこかに大きな問題をかか
えているとみてよい。たとえば心の緊張感がとれないタイプの子どもは、親が抱こうとしても、心
を許さない。許さないだけ、抱かれようとしない。(反対に、心を開き、心を許している子ども
は、抱くと、そのまま体を親のほうに、すり寄せてくる。)この話を、ある会合の席で話したら、一
人の父親が、こう言った。「子どもも女房も、同じですなあ」と。

 つまり夫婦でも、たがいの心が親密なときは、妻でも抱きごこちがよいが、そうでないときは、
そうでない、と。「夫婦げんかのあとなどは、妻でも、丸太のように感ずるときがあります」とも言
った。不謹慎な話だが、どこは的(まと)を得ている。

 そこであなたも一度、子どもを抱いてみてほしい。しばらくして子どもが、あなたの体と一体化
するようなら、それでよし。ふつう一体化すると、呼吸のリズムまで同じになる。が、そうでない
なら、スキンシップをふやし、どこかに何かのわだかまりがないかをさぐってみる。


●口グセに注意する
 あなたは日ごろ、子どもに向かって、どんなことを言っているだろうか。口グセにしていること
を、少しだけ、思い浮かべてみてほしい。長い時間をかけて、あなたの子どもは、その口グセ
どおりの子どもになる。口グセを、決して軽くみてはいけない。理由が、ある。

 子どもの心は、カガミのようなもの。英語の格言にも、『相手は、あなたが相手を思うように、
あなたを思う』というのがある。つまりあなたがあなたの子どもを、「いい子」と思っていると、あ
なたの子どもも、あなたのことを「いい親」と思っているもの。そうでなければそうでない。そして
こういうたがいの思いが、長い時間をかけて、たがいの心をつくる。

 口グセというのは、まさにあなたの「心」ということになる。そしてその口グセが、よいものであ
れば、それでよし。そうでなければ、今からすぐ、その口グセを改める。とくに、子どもをマイナ
スに引っぱるような口グセには注意する。「あなたはダメね」「いつになったら……」「どうしてこ
んなことができないの」は、タブー。


●ペットを飼う
 もしあなたにその余裕があれば、子どもにはペットを飼わせる。子どもはペットをとおして、多
くのことを学ぶ。犬やネコが代表的なものだが、ウサギ、小鳥、ハムスターなどもある。ペットを
ていねいに飼い、心をかよわせている子どもは、どこかほかの子どもと違う。ほっとするような
温かさを感ずる。

 が、そのペットが無理なら、温かい素材でできた、ぬいぐるみを与える。私の調査でも、約八
〇%の子どもが、(男女の区別なく、年中児〜小学高学年児)、日常的にぬいぐるみと親しん
でいることがわかっている。が、それだけではない。

 子どもに母性が(父性でもよいが)、それが育っているかどうかを知るためには、ぬいぐるみ
をもたせてみればわかる。心豊かな環境で、親の愛情をしっかりと受けて育ったような子ども
は、ぬいぐるみを見せると、さもいとおしいといった様子で、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せた
りする。そうでない子どもは、そうでない。同じく私の調査だが、約八〇%の子どもは、ぬいぐる
みを見せると、心温かい反応を示す。しかし二〇%の子どもは、ほとんど反応を示さない。中
には、ぬいぐるみを見せたとたん、キックしたり、放り投げる子どももいる。


●上の子教育を大切に
 子どもの心の中でも、嫉妬心と攻撃心は、できるだけいじらないほうがよい。これらのもの
は、原始的な感情であるだけに、扱い方をまちがえると、そのまま子どもの心をゆがめること
にもなりかねない。よくある例が、赤ちゃんがえりという現象。

 下の子どもが生まれたことにより、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よく知られ
ている。それまでしなかった夜尿症を再び始めたり、あるいは話し方そのものまで、赤ちゃんぽ
くなったりするなど。これは下の子への嫉妬心が、本能的な部分で、子どもの脳をいじるためと
考えられる。そういうとき、親は、よく、「上の子どもも、下の子どもも、平等にかわいがっていま
す」と言うが、上の子にしてみれば、平等ということが、不満。それまで一〇〇%受けた愛情
が、半分に減ったことが問題なのだ。

 本来は、そうならないよう、下の子どもを妊娠したときから、少しずつ、上の子教育を始める。
コツは、下の子が生まれるのを、少しずつ、楽しみにさせるようにしむける。「あなたの弟か
な? 妹かな?」「生まれたら、いっしょに遊んであげてね」と。まずいのは、いつの間にか、下
の子が生まれたというような状況にすること。

 ある母親は、下の子の出産のとき、上の子を立ちあわせたというが、それも一つの方法かも
しれない。参考までに。


●はだし教育を大切に!
 子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを
始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの
か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな
たは料理をするのに、困るはず。

 子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども
は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを
見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。
そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。

 またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
 

●言葉教育は、まず親が
 親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言
葉が育つというのだろうか。そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがき
ます。あなたは外でバスを待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっ
ていますか。先生に会ったら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。

 こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力
が身につくというのか。ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子ど
もは、約三〇%はいる。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ
気がついても、手遅れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の
問題は、親の問題であって、子どもの問題ではない。


●正しい発音を大切に
 文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。
「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける
子どもは、ほとんどいない。「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向
かって、「まちがっているわよ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。

 地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味
ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文
が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。

 子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども
もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。

 なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に
入れながら、子どもの発音を考えるとよい。


●同年齢の子どもと遊ばせる
子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい
けない。

 今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな
風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。こう書くと、「子分の子ども
がかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、子どもは子分になること
で、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったことがない子どもは、同時
に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。

 またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな
く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。ブランコを
横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによっては、相手
をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「いじめ」に
なる。

 子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ
けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。


●ぬり絵のすすめ
 一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして
おくとよい。

 子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり
絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。ちなみ
に、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。実際、
一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。

 また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約五〇%とみる。(別に正しいもち方というのは
ないが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残り、二〇%の子ども
は、たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めた
ら、一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛
筆をかませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。


●色づかいは、なれ
ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな
い子どもは、そうでない。

 たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、
冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと
みる。

 なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去三〇
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満
四歳から六歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化するこ
とがある。ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。しかし
そういう子どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようになる。
今、色づかいがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。

 ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ
とではない。


●ガムをかませる
 アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。
で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。

 その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への
血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。

 コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低三〇分はかませるよう
に指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。

 またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。


●マンネリは知能の敵
 人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約一〇万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化と
ともに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。

 このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激
教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす
く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。

 ……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。

(1)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ
で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが
な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ
るだろ!」と。

(2)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ
めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を
示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、
ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。

 家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台
の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。


●抱きながら本を読む
 「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日
本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き
に伸ばす。

 満四・五歳(四歳六か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し
かし決して、ムダではない。子どもは、伸びるとき、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではな
い。ちょうど階段を登るように、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子
どもは、一歳半から二歳にかけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度
に開花するようにである。

 同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と
いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の
カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し
ているとみる。

 もしあなたの子どもが、満四・五歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子
どもには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう
することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分
で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども
は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好
きになる。
 

●何でも、握らせる
 ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子
どもが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しな
いだろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ
る。が、それだけではない。

 最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる
とよいという説もある。たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。二個
のボールがペアになっていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジ
アへ行ったとき、それを買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたように
は、いまだに回すことはできないが……。)

 それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。

 なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が
旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと
しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり
する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ
ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。


●才能は見つけるもの
 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、二歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、
その子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始め
た。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子
どもを側面から支える。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉
強でつまずくと、そのままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見
つけ、その才能を用意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

 これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの
ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、
だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。


●何でもさせてみる
 子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい
のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。

 たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく
……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来
のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の
生徒たちに対しては、そうしている。

 威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り
すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え
るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か
な子どもほど、要注意!


●幼児教育は、種まき
 幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え
る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。

 言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。

 ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字
(左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え
方では困る!」と。

 その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き
な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ
タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で
きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。

 要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。


●えびで鯛(たい)を釣る
 『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく
とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が
ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。

 A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小二クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった
ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ
るようになった。そして半年もすると、小三レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君
を小三クラスへもどした。

 が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ
らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで
(鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし
れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。

 ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また一学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、一度失敗
すると、二度目は、ない。


●やなぎの下には……
 何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、二度目はない。子ども自身が、それに応じな
くなる。

 たとえばAさんは子ども(小五男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、
親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症
状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。

 ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った
が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し
た。

 一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理
は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも
早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって
しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。

 『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、二度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗
する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強
は組みたてる。


●航海のし方は、難破したことがある人に聞け
 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。
本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な
ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、
うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子
育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分
は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」
部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決まる。「うちの子のことは、私が
一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、子どものことを知らな
い。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のことがわからない」と、謙虚な
態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。だから、子どもの姿を正
確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。


●読んだら、聞いて、絵を描かせる

 子どもが何かの本を読んだら、(あるいは本を読んであげたら)、そのあとその本について、
絵を描かせるとよい。子どもは絵を描くことで、その本の内容に、自分の考えをつけ加える。批
判力も、そこから生まれる。感想文を書かせるという方法もあるが、年少の子どもには、まだ
ムリ。

 内容を理解した子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかる絵を描く。そうでない
子どもは、印象に残ったところを中心に、部分的な絵を描く。そして子どもが絵を描き終えた
ら、「これは、だれ?」「何をしているの?」と聞いてみるとよい。この方法は、子どもの思考力を
深くするという意味では、たいへん効果的である。


●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。このタイプの子どもは、その
直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほんの瞬間的で、おさえるとして
も、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからどこかピリピリとした印象を与
えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小二のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」PHP
新書)と。じゅうぶん考えなければならない説である。


●理屈は言わせる

 自己主張と、わがままはちがう。自己主張と、がんこもちがう。子どもをみるときは、これら三
つを、ていねいに見分ける。

 その中でも自己主張は、子どもの心の発達には、きわめて重要なものである。(わがままと
がんこについては、また別のところで考える。)子どもが自己主張するときは、@言いたいだけ
言わせる、A聞くべきことは、しっかりと聞くという態度でのぞむ。「親に向かって何てこと言う
の!」式に、威圧でおさえてはいけない。

 「お兄ちゃんは、三つもらったのに、どうしてぼくは二つなのか?」は、自己主張。
 「僕は、三つでないとだめ。二つはイヤ!」というのは、わがまま。
 「青いズボンでないと、幼稚園へは行かない」とがんばるのは、がんこ。

 「ママは、この前、○○をくれると約束したが、どうして約束を守ってくれないのか?」は、自己
主張。
 「あのおもちゃを、買って、買って」と泣き叫ぶのは、わがまま。
 「おもちゃを、なおせ!」と、こわれたおもちゃに、いつまでもこだわるのは、がんこ。

 「どうしてお父さんだけは、トイレ掃除をしなくていいのか?」というのは、自己主張。
 「お手伝いなんか、いや」と逃げるのは、わがまま。
 「いやだ」と言って、部屋に入ったまま、出てこようとしないのは、がんこ。

 不合理、不公平、不正義に対して、自分の意見を言うというのが、自己主張ということにな
る。子どもは自己主張をすることにより、道理や正義、倫理や理屈を学ぶ。豊かな常識も、そ
こから生まれる。決して、頭からおさえつけてはいけない。

 ときとして子どもは、反抗するが、反抗できないほどまでに、子どもをおさえつけてはいけな
い。よく「うちの子は、親の言うことを何でも、はいはいとよく聞いてくれます」と喜ぶ親がいる
が、そんなことを喜んではいけない。子どもの人格は、(おとなもそうだが)、いろいろな経験を
とおして養われる。生まれつき、あるいは子どものときから、ものわかりのよい子どもなど、い
ない。いるとしても、フリをしているか、ムリをしているだけ。そういう前提で、子どもの心を考え
る。



●子どもの世界

 子どもには、三つの世界がある。家庭を中心とする、家族とのかかわりをもつ世界。これを
第一世界という。つぎに、保育園、幼稚園、さらには学校を中心とする、先生や友人とのかか
わりをもつ世界。これを第二世界という。そして家庭や学校から離れて、同年齢の仲間を中心
とする、友だちとのかかわりをもつ世界。これを第三世界という。

 最近では、これら三つの世界のほか、ゲームやパソコンを中心とする、バーチャル(仮想現
実)の世界も生まれてきた。これを第四世界というが、これについては、ここではふれない。

 子どもがまだ幼いあいだは、第一世界(家庭)が大きく、またそれがすべてである。しかし子
どもが保育園や幼稚園へ通い始めると、やがて第二世界(園や学校)が大きくなり、ついで、外
での第三世界(交友)が大きくなる。と、同時に、相対的に、第一世界が小さくなる。

 子どもというのは、それぞれの世界で、まったく別人を演ずることが多い。どの世界の子ども
が、本当の子どもであるかということを考えても意味はない。また一つの世界だけを見て、その
子どもを判断してはいけない。家庭の中では、だらしなくても、学校という世界では、模範生
(?)ということは、よくある。あるいはさらに学校では模範生(?)でも、友だちの間では、陰湿
ないじめを繰りかえし、嫌われているということもある。

 こうした子どもの特性を理解したければ、あなた自身はどうであったかを思い出せばよい。あ
なただって、親に見せる姿、先生に見せる姿、それに友だちに見せる姿は、それぞれ別の姿
であったはずである。今の今でも、家庭の中で見せる姿、職場で見せる姿、そして友人に見せ
る姿は、それぞれ違っているかもしれない。問題は、こうした違いがあることではなく、そうした
違いを、それぞれの場所で使い分けながら、人は、生活しているということ。

 もっともこうした「違い」は少なければ少ないほど、よい。この私でも、仕事をしているときも、
友だちと会っているときも、家族といっしょにいるように、それが気楽にできたらよいと思う。し
かし現実には、それはできない。できないから、ときには、疲れる。

 ……という話はまたの機会にして、結論だけをここに書く。

(1)一つの世界だけを見て、子どもを判断してはいけない。
(2)子どもが大きくなるにつれて、「家庭」はしつけの場から、心をいやし、心を休める「いこい
の場」になることを忘れてはいけない。
(3)子どもの姿を正しく知るためには、@子どもが、どんな友だちとつきあっているかを知る、
A先生に対しては、「聞きじょうず」になり、子どもの情報を正しく入手する。

 このうち、(3)に関連して、自分の子どもが、外の世界で、何かトラブルを起こすと、たいてい
の親は、「うちの子は悪くありません。友だちにそそのかされただけです」などという。そういうケ
ースももちろんあるが、そういうときは、まず自分の子どもを疑ってみる。とくに「私の子どもの
ことは、私が一番、よく知っている」という親ほど、そうする。自分の子どもを疑うことはつらいこ
とだが、あなたの子どもについて言うなら、あなたが知っている面より、知らない面のほうが、
はるかに多い。

 また先生に対しては、いつも聞きじょうずになること。先生と自分の子どもについて話すとき
は、自分の子どもでも、他人と思って話す。そういう姿勢があれば子どもを、より客観的に見る
ことができる。そして先生も、そのほうが、いろいろ話してくれる。



●幼児の伸びは、階段的

 幼児は成長するにつれて、さまざまな変化を見せる。それは当然だが、しかしその伸び方を
観察してみると、一次曲線的に、なだらかに伸びるのではないのがわかる。ちょうど階段をの
ぼるように、トントンと伸びる。

 たとえば年中児(満四歳児)をしばらく教えてみる(蓄積期)。しかしすぐには、変化は起きな
い。中にはまったく反応を示さない子どももいる。が、そういう時期(熟成期)が、しばらくつづく
と、ある日を境に、突然、別人のように変化し始める(爆発期)。同じようなことはたとえば、言
葉の発達にも、見られる。生まれてから一歳半くらいまで、子どもはほとんど言葉を話さない。
しかしある日を境にして、急に言葉を話すようになり、一度話すようになると、言葉の数が、そ
のあと、まさに爆発的にふえ始める。

 これをチャート化すると、つぎのようになる。

 (蓄積期)→(熟成期)→(爆発期)

 教える内容にもよるが、たとえば文字にしても、満四・五歳(四歳六か月)までは、教えても教
えても、教えたことがどこかへそのまま消えてしまうかのような錯覚にとらわれることがある。し
かし満四・五歳を境に、急速に文字に関心を示すようになり、そのまま、たいていの子どもは、
とくに教えなくても、ある程度の文字が読み書きできるようになる。
 
 こうした特性を知っていれば問題はないが、知らないと、親はどうしても、無理をする。その無
理が、かえって子どもの伸びる芽をつんでしまうことがある。文字にしても、満四・五歳にひとつ
のターゲットをおき、それまでは、「文字はおもしろい」「文字は楽しい」ということだけを教えて
いく。具体的には、子どもをひざに抱いてあげ、温かい息をふきかけながら本を読んであげる
とよい。こうした積み重ねがあってはじめて、子どもは、文字に対して前向きな姿勢をもつよう
になる。

 私も、幼児を教えるようになったころ、こうした特性を知らず、苦労をした。何とか効果を出そ
うと、あせって無理をしたこともある。しかしやがて、そうではないことを知った。(蓄積期)や(熟
成期)には、無理をせず、教えるべきことは教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時
がくるのを待つ。それがわかってからは、教える側の私も気が楽になったし、子どもたちの表
情も、みちがえるほど、明るくなった。

 このことは家庭教育についても言える。子どもに何かを教えようとするときも、教えるべきこと
は教え、言うべきことは言いながらも、あとはその時がくるのを待つ。決して、あせってはいけ
ない。決して無理をしてはいけない。その時がくるのを、辛抱づよく待つ。これは子どもの学習
指導の、大鉄則と考えてよい。
(02−11−24)


●幼児は、音で文字を読む

 文字を覚えたての子どもは、目で見ただけでは、その文字の意味はわからない。この時期、
幼児は、一度、文字を「音」にかえ、その音を自分で聞いて、その文字の意味を理解する。わ
かりやすくいえば、この時期の子どもは、黙読ができない。

 もう少し専門的に説明すると、こうなる。

 右利き児のばあい、約九二%が、言語中枢は、左脳にあるとされる。(右利き児でも、七%
が右脳に言語中枢がありとされ、左利き児のばあいは、五四%が右脳に言語中枢があるとさ
れる。)

 まず耳から入った言葉は、左半球の聴覚野に入って、そこで言葉として認識される。そしてそ
の情報はそのまま、隣にある側頭平面にある言語中枢に送られ、そこで言葉として翻訳され
る。

 一方、黙読として見た「文字」は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。
そこで情報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大
脳連合野に送られる。

 ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間的な
関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。文字は、い
わゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭連合野の担当ということにな
る。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだけでは、まだ文字として、理解される
わけではない。さらにその段階から、その文字の形に対応する「音」を、記憶の中から拾いだ
し、さらにその音をつなげて、言葉として理解する。

 おとなの脳の中では、瞬時にこうした一連の作業がなされるため、音読も、黙読も、同じよう
なレベルで理解されるが、しかし複雑さということになるなら、黙読のほうが、はるかに複雑な
経路をたどることになる。つまり音読と、黙読は、最終的に大脳連合野で理解されるまでに、ま
ったく別の経路をたどるということになる。さらにわかりやすく言うと、音読と黙読は、まったく異
質のものであるということになる。

 こうした一連の脳の働きは、つぎのような現象によっても、裏づけられる。

 たとえば、算数の文章題を、黙読では理解できない子どもがいる。このタイプの子どもは、足
し算の問題なのか、引き算の問題なのかさえわからないため、勝手に数字をあちこちつなげ
て、メチャメチャな式を書いたりする。しかしそういう子どもでも、「声を出して一度、問題を読ん
でみてごらん」などと指示して、一度、声に出して読ませると、「わかった!」と言って、その問題
を説くことができる。

 そんなわけで、子どもが文字を読めるようになったら、今度は、どこかで黙読の練習を少しず
つ始めるとよい。具体的には、「口を閉じて読んでごらん」と指示すればよい。

 なお、小学三、四年生になっても、まだ音読のクセが残っているようなら、一度、その問題
を、別の紙に書き写させてみるとよい。音読しないと、文字が理解できない子どもも、同じよう
に指導する。



●夢を、子どもに託さない

子どもに夢をもつのは、悪いことではない。この夢があるから、子育ても、また楽しい。しかしそ
の夢が、過剰にふくらんだとき、その夢は子どもを苦しめる。何が苦しめるかといって、親の過
剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。

少し前だが、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。「小学校入学をひかえて、あいさつのでき
る子どもにするにはどうしたらいいか」「学校で友だちと仲よくできるためには、どうしたらいい
か」、それについて書いてくれ、と。

 しかしこんな原稿など、書けない。自分ができないのに、どうして子どもに、それをしろと書くこ
とができるのか。あいさつなど、したければすればよいし、したくなければしなくてもよい。アメリ
カのある地方では、ニコッと笑うのがあいさつになっているし、オーストラリアでは、顔をややか
しげながらあいさつをする人も多い。

 さらにこんなことを言ってくる親もいる。「子どもには、立派な人間になってほしい」と。

 「立派」というのは、社会的名誉や地位のある人をいうのだろう。そこで私はその親に、こう言
った。「子どもに立派になってほしかったら、お母さん、あなたがまずその立派な人になってみ
せることです」と。

 さらにこんなことを言う親もいる。「夫は、学歴がないため苦労をしています。息子にはそうな
ってほしくないので、何とか学歴をつけさせてあげたいです」と。さらに「私は英語を話せないか
ら、子どもには英語を話せるようになってほしい」と。

 親は、それぞれの思いの中で、子育てをする。しかし『子どもに夢は託さない』が、子育ての
鉄則。もし「夢」があるなら、親は自分で自分の夢を追求する。自分が過去にできなかったこと
を嘆くのではなく、今、できる夢、あるいはこれからできる夢を追求する。そういう前向きな姿勢
が子どもに伝わったとき、子どもは、子どもで自分の夢を追求するようになる。それだけではな
い。

 親が子どもの人生の中で生きようとすればするほど、親は自分の姿を見失う。そして自分の
時間を、ムダにしてしまう。どこまでいっても、子どもの人生は子どものものであるように、親の
人生もまた、親の人生でなければならない。


●「今」を生きる、二つの意味

 「今」を生きるということには、二つの意味がある。一つは、未来のために、「今」を犠牲にして
はいけないということ。もうひとつは、過去を振りかえり、悔やんだり、後悔してはいけないとい
うこと。

 日本人は、無意識のうちにも、未来のために現在を犠牲にしながら生きている。子どものと
きから、幼稚園は小学校へ入るため、小学校は中学校や高校へ入るため。そして高校は大学
へ入るためと教えられている。だから社会へ入ってからも、この考えから抜け出ることができな
い。たまの休みでも、その休みを楽しむ前に、休みが終わってからの仕事のことを心配する…
…。

 同じように、過去に振りまわされてはいけない。よく「私は、若いとき、もっと勉強しておけばよ
かった」とこぼす人がいる。しかしもし、そう思うなら、今、すればよい。勉強するのに、時期な
ど、ない。早いも、遅いもない。さらに深刻な例としては、「今の夫と結婚しなければよかった」と
言う人もいる。しかし本当にそう悩むのなら、離婚すればよい。が、離婚できないというのであ
れば、現状を受け入れ、その中で生きていけばよい。いつまでも過去をズルズルと引きずって
生きてはいけない。

 どちらにせよ、日本人は、「今」を生きるのが、苦手な民族である。どうしてそうなったかという
ことについては、いろいろな説が考えられるが、そのひとつが、大乗仏教の影響ではないかと
思う。大乗仏教では、いつも「結果」を重んじる。「死に際の様子で、その人の人生がわかる」と
説く宗教団体さえある。

 しかし考えてみてほしい。今、あるのは、「今」だけ。過去など、どこにもない。未来など、どこ
にもない。あなたがどんな過去をもっているにせよ、過去は過去。そんなものに振りまわされて
はいけない。またたとえ結果が悪くても、それが、最後の結果だと思う必要はない。大切なこと
は、それを乗り越えて生きていくこと。あるいはそのときどきを、懸命に生きていくこと。

 ある母親は、息子(中三)が、高校受験に失敗したあと、私にこう言った。「ムダでした」と。
「小さいときから、算数教室や音楽教室へ通わせたりしましたが、すべてムダでした」と。

 そこで私はその母親にこう言った。「あなたは子育てをしながら、人生を楽しんだはずです。
子どもが生きがいを与えてくれたこともあるでしょう。だからムダだったなんて、言わないでくだ
さい」と。

 どちらにせよ、つまり、「(過去に)ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔しながら
生きるのも、未来のために現在を犠牲にして生きるのも、愚かなことである。大切なのは、
「今」という時間の中で、精一杯、自分を輝かせて生きること。あなたもそうだし、子どももそうだ
し、子育ても、またそうである。


●今を生きられない人たち

 「今」を生きるということは、簡単なことではない。とくに、そういう生き方を知らない人にとって
は、簡単なことではない。

 こんなことがあった。私の知人が、今度リストラで、それまで勤めていた会社をクビになった。
が、その知人は、その翌週から、仕事さがしを始めた。そこで、私はその知人に、こう言った。

 「失業手当が出るなら、どうしてそれで、目いっぱい、遊ばないのか。ぼくなら、半年ぐらいか
けて、外国を回ってみる」と。

 それに対して彼は、「林君、君はそう言うけど、不安で不安で、家の中で遊んでいるわけには
いかないのだよ」と。

 私も学生時代、テスト週間になると、テストが終わったあと、どうやってその休みを過ごそう
か、そればかりを考えていた。が、いざテストが終わってみると、結局は何もしなかった。できな
かった。

 同じように、社会へ出てからも、仕事に追われているときは、休暇になったときのことばかり
考えていた。しかし休暇になると、今度は、仕事のことばかり考えていた。しかし考えてみれ
ば、これほど、中途半端な生き方はない。最近でも、こんなことがあった。

 昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の知人が、こう言った。「私は、定年退職をしたら、
日本中を、車で、一周してみたい」と。

 しかしその知人は、退職しても、日本中を、車で、一周するなんてことはしないだろうと思う。
退職したらしたで、今度は、再就職の心配ばかりをするにちがいない。生きザマというのはそう
いうもので、ある時点から、急に一八〇度、転換できるものではない。

 そこで私はその知人にこう言った。「車で一周したいなら、今からすればいい。手始めに、紀
伊半島を一周するとか……。定年まで待つのはいいけど、そのとき、今のような健康があると
はかぎらない。あるいは何か不幸があるかもしれない。今、できることは、今、しておけばいい」
と。

 そこであなたの子どものことを、振りかえってみてほしい。あなたの子どもは、月曜日から金
曜日まで、学校に行く。なぜ学校へ行くかといえば、土曜日や日曜日に、自分のしたいことをす
るためである。しかしその土曜日や日曜日に、あなたの子どもが家の中でゴロゴロしていると、
きっと、あなたはこう言うに違いない。「明日の宿題はすんだの?」「今度のテストはだいじょう
ぶなの?」「勉強しなさい!」と。

 こういう生きザマが、子どものころから日本人の基本になっているから、日本人は、それ以外
の生き方を知らない。そしてそれが死ぬまで、つづく。「やっと楽になったと思ったら、人生も終
わっていた」と。しかしこれほど、愚かな生き方はない。


●『よい魚は、下を泳ぐ』

 『よい魚は、下を泳ぐ』というのは、イギリスの格言。子どももそうで、すぐれた才能や能力の
ある子どもは、どちらかというと、目立たず、静かに成長する。印象に残っている子ども(年中
児)に、D君という子どもがいた。

 最初、D君が教室へ入ってきたとき、そのあまりの「静かさ」に、私は何か問題のある子ども
と誤解してしまった。しかしそれは誤解だった。D君にとっては、まわりがあまりにも幼稚なた
め、やがて、その雰囲気になじめだけということがわかってきた。

 そこで私はD君を年長児のクラスに入れてみた。しかしそこでも、D君にはもの足りなかった
らしい。で、さらに小一のクラスにいれてみた。すると今度は、水を得た魚のように、生き生きと
勉強し始めた。

 そののち、このD君は、小学三、四年生のころには、中学の数学の勉強まで自分で終えてし
まった。教えるといっても、特別なことをしたわけではない。「自分で教科書を読んで、わからな
いところだけもってきなさい」という指導で、じゅうぶんだった。

 実際、こういう子どもがいるのは、事実。「遺伝子そのものが違う」とさえ思ってしまう。私の経
験では、レベルの違いもあるが、その年齢の子どもとの学習が無理と思われる子どもは、一〇
〇〜一五〇人に一人はいる。さらにD君のような子どもも、三〇〇〜四〇〇人に一人はいる。
同学年の子どもを、一〇〇万人とするなら、このタイプの子どもは、全国に一万人はいること
になる。勉強ができなくて苦しんでいる子どももいるが、このタイプの子どもは、勉強がつまらな
くて、苦しんでいる。しかもその苦痛は、想像以上のものである。さらに悲劇的なことは、教師
によっては、そういう子どもの能力が理解できず、「生意気だ」とか、「親が無理に勉強ばかりさ
せている」と、誤解するケースも多い。日本の教育には欠陥がたくさんあるが、これもそのうち
の一つと考えてよい。

 さてその「よい魚」だが、このタイプの子どもには、共通した特徴がある。@目つきが静かに
落ちついている。A目つきが鋭い、B人並みはずれた集中力がある、C思考がきわめて柔軟
で、幼児の段階でも、おとなのユーモアが理解できる、など。


●幼児教育は、種まき

 幼児にものを教えるときは、すべからく、『種まき』と思うこと。教えても、その効果をすぐに求
めてはいけない。またここが大切だが、中には芽を出さない種もある。そういう種があっても、
無理をしてはいけない。そういう種もあるという前提で、子育てをするとよい。

 たとえば文字や数にしても、この時期、大切なのは、(できる・できない)ではなく、子どもがそ
れを(楽しんだか・楽しまなかったか)である。楽しめば、それでよしと考える。あとは子ども自
身の「力」を信ずる。そういう前向きな姿勢が育っていると、やがて子どものほうから、「ママ、
字を教えて!」と言ってくるようになる。

 まずいのは、ギスギス教育。中には、たった一時間、カタカナを教えただけで、子どもに、「ど
うしてできないの!」と叱る親がいる。短気といえば短気だが、どこかギスギスしていて、余裕
がない。

 もっともこういうことは、何千人も子どもに接したことがある私にはわかるが、母親にはわから
ない。またそれを理解せよといっても、無理かもしれない。よく『となりの家の芝生はよく見える』
(イギリスの格言)というが、何かにつけて、となりの子どもというのは、よく見えるもの。自分の
子どもに何か問題があったりすると、たいていの親は、「どうしてうちの子だけが……」と悩む。

 しかしこれはまったくの誤解。どんな子どもにも、何らかの問題がある。問題のない子どもな
ど、絶対に、いない。そのため、その家族は、その問題と必死になって戦っている。それがあま
りあなたに伝わってこないというのは、問題が小さいからではなく、その家族が、一方で、必死
になって隠しているからにほかならない。

 話が脱線したが、要するに、子どもに何かを教えるときは、「適当」であるのがよい。一〇教
えても、頭の中に入るのは、そのうちの五くらい。あるいはそれ以下でもよい。そしてやがて身
につくのは、一か二。あるいはそれ以下でもよい。そういうおおらかさが、子どもを伸ばす。子
どもの表情を、明るくする。

*********************************
私の教室の来年度の生徒の募集を、1月からします。
とくに来ていただきたいのは、幼稚園、保育園の、年長児、年中児の
みなさんです。1月以後、見学は自由にしていただけるようにします
ので、おいでください。子どもの「笑い声」を、大切にした教室です。
詳しくは、



●指は便利な計算機

 人間がなぜ十進法を使うようになったかといえば、指が十本だったから。もし人間の指が、三
本や四本だったら、三進法や四進法になっていたかもしれない。

 幼児は、ものを計算するとき、指を使う。親が教えるときもあるが、だれに教わるということも
なく、使い始めることもある。これは「数」を、「具象化」するためである。たとえば「2+3」は、
「○○と○○○」と具体的に図形化し、それを数えて計算する。そういう意味では、計算をする
とき、指を使うことは、悪いことではない。むしろ子どもがある程度、ものを数えられるようにな
ったら、指の使い方を教えるとよい。で、そのとき、つぎのような指導をすると、あなたの子ども
は、計算に強い子どもになる。

(1)指を見ないで、数を具象化させる……たとえばあなたが、子どもに「4!」と言い、子ども
に、頭の上で、指を4本のばさせる。このとき、子どもに自分の指を見させてはいけない。なれ
てくると、子どもは、即座に、7とか9をつくることができるようになる。
(2)早数えの練習をする……「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」から、「イチ、ニ、サン……」、さらに
は、「イ、ニ、サ……」と、数えられるように練習する。たとえば1から10までを、「イ、ニ、サ、
シ、ゴ、ロ、シ、ハ、ク、ジ」と、数えさせる。さらにそれができるようになったら、数を信号化させ
るとよい。「ピッ、ピッ、ピッ……」と。具体的には、手を早くパンパンと叩かせて、それを数えさ
せる。
(3)年長児になったら、指から、今度は、丸を描かせるようにして、計算させる。たとえば「2+
3」は、丸を二つと、三つを描かせ、それを数えさせる。少しめんどうだが、めんどうだと思うか
ら、今度は、子どもは頭の中で数え始める。それをねらう。

 なお計算力があるからといって、算数の力があるということにはならない。計算力と、算数の
力は、まったく別のものである。計算力は訓練で伸ばすことができるが、算数の力を伸ばすの
は、容易ではない。


●『やけどをした子どもは、火を恐れる』

 これはイギリスの格言。子どもというのは、何かのことで、一度失敗すると、自分では、なかな
かその失敗を克服することができない。とくに幼児期はそうで、この時期のつまずきは、そのあ
と大きな影響を与える。

 たとえば今、年中児でも、「名前を書いてみよう」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、一〇人中、二人はいる。中には、涙ぐんでしまう子どももいる。原因は、家庭での無理な
学習が考えられる。しかしそれで問題が終わるわけではない。このタイプの子どもは、そのあ
と、(逃げる)→(ますます苦手になる)の悪循環の中で、文字からますます遠ざかってしまう。
そして一度、こうなると、その悪循環を断ち切るのは容易ではない。

 日本でも昔から、『坊主、憎ければ、袈裟(けさ)まで憎い』という。もともとの意味は、坊主が
憎いと、その袈裟まで憎くなるという意味だが、この格言を裏から読むと、こうなる。「袈裟をみ
ただけで、坊主への憎しみがわく」と。こうしたつまずきが原因で、そのあと、「文字を見ただけ
で、勉強が嫌いになる」ということもありうる。そういう意味でも、幼児期の学習は、慎重にす
る。


●山には登らせる

 低い山だと思っていても、登ってみると、意外に遠くが見えるもの。登る前に、その山に登る
ことがムダだとか、そういうふうに考えてはいけない。いわゆるマイナス思考の人は、何でもや
るまえに、「あれはダメだ、これはダメだ」と逃げてしまう。

 同じように、子ども自身が、いろいろな山に登りたがるときがある。もう二〇年近くも前のこと
だが、ある母親からこんな相談を受けた。その息子(高二)が、アメリカで夏休みを過ごして帰
ってきた。そのあと、その息子が「高校を中退して、アメリカへもどる」と言い出したというのだ。
そこで私に、「何とか、思いとどまらせてほしい」と。

 その高校生は、ホームスティをしたことで、「山」に登った。そして遠くの景色を見た。その結
果、「アメリカで高校生活を送りたい」と。今のように、まだ海外留学がポピュラーな時代ではな
かった。学歴信仰も、根強く残っていた。高校を中退するということが、考えられない時代だっ
た。その母親は、さかんに、「このままでは、うちの子は、中卒になってしまいます」と泣いてい
た。

 しかし山に登るのも、子ども。そこで子どもがどんな景色を見るかは、本当のところだれにも
わからない。親にもわからない。だからその段階で、親は子どもの人生は、子どもに託すしか
ない。親としてはつらいところだが、そういう「つらさ」に耐えるのも、親の役目ということになる。
また子どもが大きくなればなるほど、一方で、そういうつらさがふえる。

 先の子ども(高二)だが、親の言うことを聞いて、そのまま日本の高校に通った。私が説得し
たわけではない。直接、面識があった子どもではないので、そのあと、その子どもがどうなった
かは知らない。


●やればやるほど、空回り

 子どもに何か問題が起きたとする。すると親は、その問題を解決しようと、何かをする。それ
は当然にことだ。しかしそのとき、ときとして、何かをやればやるほど、ものごとが空回りしてし
まうことがある。子どものために何をしているはずなのに、それが子どもの心に響いていかな
い。こういうときの鉄則は、ただひとつ。それ以上、状態を悪化させないことだけを考えて、時
の流れを待つ。

 子育てがカベにぶつかると、たいていの親は、そこが「底」だと思う。だからそこを基準にし
て、子どもを「なおそう」と考える。しかし「底」の下には、さらに「別の底」があり、さらにその下
にも「別の底」がある。たとえば娘が門限を過ぎて帰ってきたとする。すると親は、それをなおそ
うと娘を叱ったり、説教したりする。が、いっこうにそれがなおらない。これがここでいう「空回
り」。

 そこでさらに親が叱ったりすると、今度は、娘は外泊をするようになる。これがここでいう「別
の底」。あるいは家出ということにもなりかねない。集団非行を繰り返すようになるかもしれな
い。これも「別の底」。

 子育てをしていてその空回りを感じたら、こうした「別の底」に落ちる前兆として、警戒する。
子どもというのは、一度その「別の底」に落ちると、あとは、つぎつぎと別の底に落ちていく。そ
こで、ここにも書いたように、一度、その底を感じたら、「なおそう」と思うのではなく、今の状態
を悪化させないことだけを考えて、一年単位で(一年でも短いほうだが……)、時の流れを待
つ。


●「やればできる」は、禁句

 たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」という。しかし、(やる・やらない)も、力の
うち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。やればできるは
ずと、子どもを責めたてることほど、子どもを苦しめるものはない。

 子どもの可能性を否定しろと言っているのではない。ともすれば、暴走しやすい親の期待に
ブレーキをかけろと言っている。というのも、親というのは、子どものよい面だけを見て、それを
基準にものを考える傾向が強いからである。いつもは七〇点くらいしか取れない子どもが、た
まに一〇〇点をとってくると、「やっぱり、うちの子はすごい」と思うことはある。しかし「どうして
今回は一〇〇点なのかしら」と疑問に思う親はいない。

 こんなことがあった。

 ある日、一人の中学生(中二・男子)が、父親につれられてやってきた。そして父親はこういっ
た。「うちの子は、中学一年のとき、(二〇〇人中)、三〇番になったことがある。うちの子に
は、そういう力があるはず。どうかそれを伸ばしてほしい」と。

 そこで少し教えてみると、とてもその力がないことがわかった。そこで私は父親に手紙を書い
た。「私のところでは、とてもご期待にそえるような指導はできません。申し訳ありませんが、お
断りします」と。

 こういう手紙を書くと、どういう書き方をしても、親というのは、激怒する。デパートで販売拒否
にでもあったかのような怒り方をする。その父親もそうだった。「偉そうなことを言いて、お前は
何様のつもりか!」と言って、その父親は電話を切った。


●ユーモアでしつける

 ユーモアは、子どもの心を開放させる。『笑えば、子どもは伸びる』が、私の持論でもある。子
どもをしつけるときは、このユーモアを大切にする。

 たとえば私のばあい、授業中、なかなか手をあげようとしない子どもには、「パンツにウンチ
がついているなら、手をあげなくていい」と言う。「ママのオッパイを飲んでいるなら、手をあげな
くていい」とも言う。フラフラと歩き回っている子どもには、「おしりにウンチがついているのか?
 おしりがかゆいから、歩いているの?」と言う。あるいは「パンツをかえてあげるから、おいで」
と、やさしく声をかける。

 指しゃぶりをする子どもも多い。そういうときは、「おいしそうな指だね。先生にもなめさせて」
と声をかける。あるいは、「そういう指のしゃぶり方をするから、幼稚、幼稚って、バカにされる
んだよ。いいか、もっとかっこうよくしゃぶりな」と言って、指のしゃぶり方を教える、など。鼻くそ
をほじっている子どもには、「おいしそうな鼻くそだね。先生にも、食べさせて」と声をかける、な
ど。

 いろいろな言い方があるが、こうした言い方をすることによって、トゲトゲしさがなくなる。子ど
もも、聞く耳をもって、こちらの話を聞いてくれる。が、一方、頭ごなしの命令や、禁止命令は、
方法としては手っ取り早いが、ほとんど、効果はない。それだけではない。命令や禁止命令が
多くなると、子どもは、自分では考えることができなくなってしまう。時とばあいには、こうした命
令も必要だが、しかしできるだけ少なくしたほうがよい。



●命令より、理由づけ

 子どもに指示を与えるときは、命令より、理由づけを大切にする。「手を洗いなさい」ではな
く、「手が汚れているね。どうしたらいい?」と。「歯をみがきなさい」ではなく、「歯をみがかない
と、虫歯になるわよ」と言う。

 日本語の特徴というか、日本では、子どもに指示を与えるとき、どうしても命令口調になりや
すい。一方、英語国では、命令口調が少なく、反対に、理由づけが多い。仮に英語国で、子ど
もに何かを命令したりすると、反対に「命令しないで」と言い返されたりする。私も昔、オーストラ
リアにいたころ、ガールフレンドに何かのことで命令したことがある。そのとき、私は「私はあな
たの奴隷ではないから、命令しないで」と言われてしまった。
 
 そこであなたの今日、一日の会話を思い出してみてほしい。あなたは子どもと、どんな会話を
しただろうか。そしてその会話はどんなものだっただろうか。親意識が強く、権威主義的な親ほ
ど、子どもに対して、命令口調が多くなる。さて、あなたは、どうか?


●文字学習の前に、正しい発音

 世界広しといえども、幼児期に発音教育をしない国は、それほどない。が、この日本では、そ
の発音教育を、ほとんどしない。あるいはあなたは保育園や幼稚園で、発音教育をしている先
生の姿を見たことがあるだろうか。

 たまたま先ほども、わらび餅売りの車が家の前を通り過ぎた。隣のT市(愛知県)からやってく
るわらび餅売りだが、T市の人たちは、独特の発音をする。「わらび〜もち、早く来ないと、いっ
ちゃうよ〜」と言うのだが、それが、「ウェラビィー、メォチ〜、ヒェヤクゥ〜、コネエェ〜ト、イッチ
ャウイヨ〜」と聞こえる。

 こういう発音を、一方で野放しにしておいて、子どもに向かって、「正しく書きなさい」はない。
ちなみに、「昨日」を、「きのう」と正しく書ける年長児は、ほとんどいない。たいていは、「きの
お」「きの」「きお」とか書く。そういうときは、一度、一音ずつ音を区切って発音してみせるとよ
い。「き・の・う」と。そのとき、手をパンパンとたたいてみせるとさらに効果的。

 ただしい発音は、文字学習の基礎である。文字学習に先立って、あるいは、文字学習と平行
してするとよい。口をしっかりと動かしながら、息をしっかり吐き、一音ずつ区切って言うとよ
い。


●文字は使って生きる

文字の目的は、「書くこと」ではない。「自分の意思を伝えること」である。こんなわかりきったこ
とが、この日本では、逆転している。たとえばどうしてこの日本には、いまだに、トメ、ハネ、ハラ
イが、あるのか。その上、書き順まである。ある程度の約束ごとは大切なことだが、しかしそれ
ばかりにこだわっていると、肝心の「自分の意思を伝えること」が、おろそかになってしまう。

 もちろんだからといって、トメ、ハネ、ハライ、それに書き順を無視してよいというのではない。
ただそれにも程度というものがある。それにこうまで情報化時代が進んでくると、「書く」という意
味そのものが変わってくる。たとえば私はこうして文章を書いているが、すべてパソコンを使っ
て書いている。

 こういうことを言うと、「日本語の美しさがそこなわれる」と反論する人が、必ずといってよいほ
どいる。「子どものころ、正しい書き順を教えておかないと、あとがたいへん」と言う人もいる。し
かし三〇年ほど前、こんな議論もあった。

 当時、「今どきの子どもは、ナイフで鉛筆も削れない」と、よく批評された。そのとき私はこう反
論した。「ナイフで削らなくても、鉛筆削りがある。鉛筆削りで削れば、ずっと早く削れるし、時間
も節約できる。鉛筆を削るときは、鉛筆削りを使えばよい」と。

 これはナイフの話だが、その時代ごとに、こうした議論が、打ち寄せる波のように、それぞれ
の分野で起こっては消える。このトメ、ハネ、ハライも、そのひとつかもしれない。(あるいはそう
でないかもしれない?)私は個人的には、もう書き順も、適当でよいのではと思っている。


●もとの木阿弥

 『もとの木阿弥(もくあみ)』という言葉がある。いろいろやってはみたが、結局は、もとに戻っ
てしまうという意味である。苦労や努力が、水のアワになってしまうことをいう。

 子育てをしていると、そういう状況によく陥(おちい)る。私の世界でも、こんなことがあった。

 小学三年生の子どもだったが、まだ掛け算があやしかった。そこで小学二年生のクラスに入
れてみた。その子どもは、それまで「算数は、わからないもの」と思っていたらしい。しかし一年
レベルをさげたことで、むしろ生き生きと勉強し始めた。で、半年もすると、その勢いもあって、
やがて何とか、小三レベルの学習も、こなすようになった。そこで私は小三クラスへ移した。
が、そのとたん、親の無理が始まった。

 親は、「もっと、もっと……」と、子どもに勉強を強いるようになった。ワークブックもどっさりと
買い込んだ。とたん、その子どもは、オーバーヒート。かえって前よりも、勉強嫌いになってしま
った。そして一度、こういうつまづき方をすると、二度目がない。四年生になったとき、親のほう
から、「もう一度、学年をさげて教えてみてほしい」と言ってきたが、子どもがそれを受けつけな
かった。そしてそのまま私の実験教室へこなくなってしまった。

 子どもには子どもの「力」がある。その力を見極め、ほどほどのところであきらめるべきこと
は、あきらめる。この「あきらめ」が、子どもの心に穴をあけ、子どもを伸ばす。子育てをしてい
て、あきらめることを恐れてはいけない。でないと、結局は、『もとの木阿弥』になってしまう。



●子どもは芸術品

 母親にとって、子どもは芸術品。とくに乳幼児期から幼児期にかけての子どもは、そう思うべ
し。こんな投書が載っていた。

 郵便局で並んで待っていたときのこと。前に立っていた母親が、子どもをおんぶしていた。子
どもは母親の背中で、アイスを食べていた。そのアイスで、その人の服を汚してしまった。そこ
でその人が、「アイスで服が汚れましたが……」と母親に注意すると、その母親はこう言ったと
いう。「子どものすることだから、しかたないでしょ!」と。投書したその人は、「何ともやりきれな
い気持ちになった」と書いていた。

 私にも似たような経験がある。

 新幹線の中で走り回っている子どもたちがいたので、注意すると、いっしょにいた母親はわざ
と私に聞こえるような大声で、こう言った。「うるさい、おじさんねエ」と。以後、私はともかくも、
一時間近く、ピリピリとした雰囲気のままだった。さらにレストランで、箸を口に入れたまま、走
っている子どもがいたので、「あぶないよ」と声をかけたことがある。どこかの子どもが、綿菓子
の棒が喉に刺さって死ぬという事件が起きる、少し前のことだった。が、その子どもの母親は、
私にこう言った。「あんたの子じゃないんだから、いらんこと言わないでくれ」と。すごみのある
声だった。

 こうした母親は、自分の子どもが注意されると、自分の作品をけなされたかのように感ずるら
しい。芸術家が、自分の作品をけなされたような気持ち? つまり親と子の間に、カベがない。
子どもとの間に距離をおいて、子どもを客観的に見ることができない。私自身は母親になった
ことがないので、そういう心理はよくわからないが、そういうことらしい。

 こうした心理がよいとか悪いとか判断する前に、母親にはそういう心理があるという前提でつ
きあうこと。だから、母親の前で、子どもを注意したり、批判したりするときは、じゅうぶん注意
する。そのときはそうでなくても、『江戸の敵(カタキ)を、長崎で討つ』ということも、この世界で
はよくある。クワバラ、クワバラ。


●美徳の陰に欠点あり

 『美徳の陰に欠点あり』。これはイギリスの格言。美徳とまでは言わなくても、こうした例は、
子どもの世界ではよくある。たとえば「字のきれいな子どもは、書くのが遅い」など。こんなこと
があった。

 E君(小三)という子どもがいた。習字の教室で書くようなきれいな字で、いつも書いていた。
それはそれでよいことかもしれないが、その速度が遅い。みなが書き終わって、一服している
ようなときでも、まだ半分も書いていない。ノロノロといったふうではないが、遅い。そこで何度も
はやく書くように言うのだが、それでも、それが精一杯。

 が、とうとう私のほうが、先に限界にきてしまった。そこでこう言った。「ていねいに書かねばな
らないときもある。そうでないときもある。ケースバイケースで、考えて書きなさい」と。とたん、E
君ははやく書くようになった。が、その字を見て、私は驚いた。まったく別人の字というか、かろ
うじて読めるという程度の悪筆だった。しかしそれがE君の「地」だった。

 ほかにも「よくしゃべる子どもは、内容が浅い」など。ペラペラとよくしゃべる子どもは、一見、
利発に見えるが、その実、しゃべっている内容が浅い。脳に飛来する情報を、そのつど加工し
て適当にしゃべっているだけといったふうになる。子どもの世界には、『軽いひとりごとは、抑え
ろ』という格言もある。子どもがペラペラと意味のないことを言いつづけたら、「口を閉じなさい」
といって、それをたしなめる。

 言葉というのは、それを積み重ねると、論理にもなるが、反対に軽い言葉は、その子ども
(人)の思考を停止させる。まさに両刃の剣。たとえば、「ほら、花」「きれい」「あそこにも花」「こ
こにも花」「これもきれい」式の言葉は、その言葉の範囲に、子ども(人)の思考を限定してしま
う。人間の思考は、もっと複雑で深い。それにはやい。が、こうした軽い言葉を口にすることで、
その言葉にとらわれ、それ以上、子ども(人)はものを考えなくなってしまう。

 その状態が進むと、いわゆる多弁性が出てくる。「多弁児」という言葉は、私が考えたが、こ
のタイプの子どもは多い。概して女の子(女性)に多い。

 これについて、こんな興味ある研究結果が報告されている。ついでにここに書いておく。

 言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)は左脳にあるが、女性のばあい、機能的MRIを使って
脳を調べると、右脳、つまり右半球のだいたい同じような場所(対照的な位置)にも、同じような
反応が現れるという。また言語中枢(ウエルニッケの言語中枢)の神経細胞の密度も、女性の
ほうが高いということもわかっている。このことから、男性よりも女性のほうが、言葉を理解する
のに、有利な立場にあるとされる。つまり女性のほうが、相手の言葉をよく理解できると同時
に、おしゃべりということ(「脳のしくみ」新井康允氏)。ナルホド!

 
●『人、その子の悪、知ることなし』

出典はわからないが、昔から、『人、その子の悪、知ることなし』という。つまり、親バカは、人の
常ということ。

私の印象に残っている事件に、こんなのがあった。それを話す前に、子どもの虚言(いわゆる
ウソ)と、空想的虚言(妄想)は分けて考える。空想的虚言というのは。言うなれば病的なウソ
で、子ども自身がウソをつきながら、自分でウソをついているという自覚がない。Tさん(小三)
という女の子がそうだった。

 もっともそういう症状があるからといって、すぐ親に報告するということはしない。へたな言い
方をすると、それこそ大騒動になってしまう。また教育の世界では、「診断」はタブー。何か具体
的に問題が起き、親のほうから相談があったとき、それとなく話すという方法をとる。

 が、そのTさんが、こんな事件を起こした。ある日、私のところへやってきて、「バスの中で、教
材用の費用(本代)を落とした」と言うのだ。そこでそのときの様子を聞くと、ことこまかに説明し
始めた。「バスが急にとまった。それで体が前にフラついた。そのときカバンが半分、さかさま
になって、それで落とした」と。落とした様子を覚えているというのも、おかしい。そこで「どうして
拾わなかったの」と聞くと、「混んでいた」「前に大きなおばさんがいて、取れなかった」と。

 しかしその費用が入った袋の中にあった、アンケート用紙は、カバンの中に残っていたとい
う。これもおかしな話だ。中身のお金と封筒だけを落として、その封筒の中のアンケート用紙だ
け残った? それ以前からTさんには、理解しがたいウソが多かったので、私は思いきって事
情を、父親に説明することにした。が、父親は私の話を半分も聞かないうちに、怒りだしてしま
い、こう怒鳴った。「君は、自分の生徒を疑うのか!」と。父親は、警察署で、刑事をしていた。

 そこで私は謝罪するため、翌日の午後、Tさんの家に向かった。Tさんの祖母が玄関で私に
応対した。私は疑って、失礼なことを言ったことをわびた。が、そのときこのこと。私は玄関の
右奥の壁のところに、Tさんが立っているのに気づいた。私たちの会話をずっと聞いていたの
だ。私はTさんの顔を見て、ぞっとした。Tさんが、視線をそらしたまま、ニンマリと、笑ってい
た。

 そのあとしばらくして、Tさんの妹(小一)から、Tさんが、高価な人形を買って、隠しもっている
話を聞いた。値段を聞くと、そのときの費用と、一致した。が、私はそれ以上、何も言えなかっ
た。

 子どもを信ずることは、家庭教育の要(かなめ)だが、親バカになってはいけない。とくに子ど
もを指導する園や学校の先生と、子どもの話をするときは、わが子でも他人と思うこと。そうい
う姿勢が、先生の口を開く。先生にしても、一番話しにくい親というのは、子どものことになる
と、すぐカリカリと神経質になる親。つぎに「うちではふつうです」とか、「うちでは問題ありませ
ん」と反論してくる親。そういう親に出会うと、「どうぞ、ご勝手に」という心境になる。


●『火の中に、鉄を入れすぎるな』 

 『火の中に鉄を入れすぎるな』は、イギリスの教育格言。詰め込みすぎても、かえって逆効果
ということ。子どものやる気(火)は、消えてしまう。が、親にはそれがわからない。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と考える。また多少できるようになると、「もっと」とか言
い出す。そういう親の心理が理解できないわけではないが、子どもはロボットではない。あなた
と同じ人間だ。そういう視点をふみはずすと、子どもの姿を見失う。

 やはり印象に残っている子どもに、S君(小二)がいる。S君は、能力的にはそれほど恵まれ
ていなかったが、たいへん生まじめな子どもで、学校の宿題でも何でも、言われたことをきちん
とやりこなす子どもだった。

 しかし実際のところ、このタイプの子どもほど、何か心の問題をもっていることが多い。たいて
いの親は、そういう状態をみると、「まじめないい子」と誤解するが、誤解は誤解。S君は毎日
学校から帰ってくると、一時間は書き取りの勉強をした。ときには、それが二時間にもなること
があったという。しかし、動きざかりの子どもが、二時間も机の前にすわって、黙々と書き取り
の練習をすることのほうが、おかしい。そこで私は、何度も、「そういう勉強はやめたほうがよ
い」と忠告した。

 しかし家族、とくに祖母はその言葉に耳を貸さなかった。まったく耳に入らないというよりは、
むしろ、そういう子ども(孫)を喜んでいた。「先生の指導のおかげで、ああいうう子どもになりま
した」と。「きのうは三時間も勉強してくれました」と言ったこともある。(三時間!)

 やがて小学三年になるころには、漢字練習だけではなく、算数のワークブックも、それなりの
量をこなすようになった。そうしたワークブックは、励ます意味もこめて、私が一応目を通すこと
にしている。が、そのワークブックを見て、私はさらに驚いた。たとえば計算問題なども、まちが
えたところには、別の紙がはりつけてあり、きちんとやり直してあったのだ。

 こうした家庭学習では、ほぼあっていれば、大きな丸をつけてあげるのがよい。いいかげんと
言えば、いいかげんだが、子どもはその「いいかげんな部分」で、息を抜く。羽をのばす。とくに
計算練習などは、一〇問やって、七〜八問できればよしとする。あとは大きな丸を描いて、ほ
めてしあげる。が、その祖母にはそれがわからなかった……らしい。私がそういった丸をつけ
ると、そのつどやってきて、「こういういいかげんな丸をつけてもらっては困ります」と。

 こうなるとS君が、プツンするのは時間の問題だった。S君はやがて慢性的なものもらいにな
り、はげしいチック(筋肉の不規則なけいれん)が起こすようになった。眼科でみてもらうと、塾
が原因と言われた。そこで祖母は、それまで行っていた、おけいこ塾すべて(スイミング、英会
話、算数教室)を、やめた。

 こういうケースでは、一挙にすべてやめるのは、たいへんまずい。やめるとしても、少しずつ
やめるのがよい。あとあとの立ち直りができなくなってしまう。が、S君の祖母は、そういう私の
アドバイスも無視した。私としては、もうなずべきことは何もない。

 で、S君はその直後から、はげしい無気力症状ができてきた。学校から帰ってきても、ただぼ
んやりと空を見ているだけ。反応そのものまでなくなってしまった。好きだったゲームを与えて
も、上の空。もちろん漢字の学習も、計算練習もしなくなってしまった。

 S君はいわゆる、バーントアウト(燃え尽き)してしまったわけだが、そのS君がなぜ、こうまで
私の印象に残っているかといえば、それには理由がある。そういう症状が出てからしばらくした
あと、父親と母親が私のところに相談にやってきた。そしてこう言った。

 「先生、わかっていたら、どうして前もって、それを言ってくれなかったのですか!」と。私が
「こうなることは予想していました」と話したときのことだ。何ともやりきれない思いだけが、あと
に残った。「どうしてこの私が叱られなければならないのか」という思いだけが、強く残った。と、
同時に、S君のことは忘れられない子どもになった。

 S君がそういう子どもになったのは、要するに『火の中に鉄を入れすぎた』からにほかならな
い。しかし親は、「まだだいじょうぶ」「まだいける」と、どんどんと鉄を入れる。そして火が消えて
はじめて、それが失敗だと気づく。これも家庭教育のもつ、大きな落とし穴ということになる。
(02−10−18)


●子どもの会話

 ある日幼稚園の庭のすみに座っていると、横の子どもたち(年長児)が、こんな会話を始め
た。

A男「おまえ、赤ん坊はどこから生まれてくるか、知っているか?」
B男「知らないよ」
A男「だからお前は、バカだ。赤ん坊はな、ママのお尻の穴から生まれてくるんだぞ」
B男「ふうん」
A男「いいか、うんちがかたまって赤ん坊になるんだぞ」
B男「ふうん、じゃあさあ、どうして男からは赤ん坊が生まれないんだよ?」
A男「バカだなあ。男はなあ、うんちがかたまって、金玉になるんだぞ。金玉はうんちがかたまっ
たもんなんだぞ」と。

 また別の日。母親とこんな会話をした子ども(年長児)がいた。

C女「お母さん、お肉を食べると、どうなるの?」
母親「やっぱり、お肉になるんじゃ、ないかしら」
C女「野菜は、どう?」
母親「血になるのよ」
C女「でも、野菜は赤くないわ」
母親「でも、トマトは赤いでしょ」
C女「ふうん、わかった。サツマイモを食べると、そのままうんちになるのね」と。

 こんなことを話してくれた子ども(年長児)もいた。「どうしてうんちは茶色になるか、わかった」
というのだ。「どうして?」と私が聞くと、「絵の具をいろいろ混ぜると、茶色になる。うんちも、そ
れと同じだ」と。

 さらにこんなことも。ある男の子(小学三年生)が、トイレから戻ってきて、こう言った。「先生、
青と黄色を混ぜると、緑になるね」と。何のことかと思って、「どうして?」と聞くとこう言った。「ト
イレの水(消臭剤の入った青の水)と、黄色いおしっこがまざったら、緑になった!」と。

 子どもの考えることは、おもしろい。あなたも子どもたちの会話に、一度耳を傾けてみてはど
うだろうか。


●フリップ・フロップ理論

 箱がある。どちらか一方に倒れているときは、安定している。しかし中途ハンパな姿勢になる
と、フラフラとして、たいへん不安定になる。これを心理学の世界では、『フリップ・フロップ理
論』という。もともとは、有神論の人が無神論に、反対に無神論の人が有神論になるときの様
子を説明したもの。有神論の人であるにせよ、無神論の人であるにせよ、どちらか一方に倒れ
ているときは、そういう人は、たいへん静かに落ちついている。が、有神論の人が無神論にな
るとき、あるいはその反対のときは、心理状態がたいへん不安定になる。ワーワー泣き叫ん
で、それ抵抗したり、猛烈にどちらか一方を攻撃したりする。

 学歴信仰も、それに似たところがある。学歴信仰にこりかたまっている人や、反対に、まった
くそれがない人というのは、静かに落ちついている。しかしそれが移行期に入ると、たいへん不
安定になる。人間の心理というのは、そうい不安定状態には弱い。自らどちらか一方に倒れ
て、自分の心理を安定させようとする。言いかえると、不安定になったときというのは、どちらか
一方に倒れるその前兆と考えるとよい。しかもそれが短期間で、コロリと倒れる。そのため私
は、このフリップ・フロップ理論を、勝手に「コロリ理論」と呼んでいる。

 この理論は、子育ての場でも、広く応用できる。もしあなたの子どもが何かのことで、大声で
それに抵抗したり、あるいは反対にぐずぐずしているようであれば、どちらか一方に倒れる前
兆と考えてよい。そういう子どもほど、コロリと倒れると、突然、ものわかりがよくなる。昔から
「今鳴いたカラスが、もう笑った」というが、そういう現象が起きる。が、反対に、よい意味につ
け、悪い意味につけ、どっしりと静かに落ちついている子どもは、それだけ自分をもっているこ
とになる。何かを説得しようとしても、なかなかうまくいかない。とくにがんこで、自分のカラにこ
もってしまったような子どもは、指導がむずかしい。


●子どもの心理

 子どもの心理を考えるとき、現象面だけを見て判断すると、その心理がつかめなくなる。よく
ある例が、引きこもり。

 心の緊張状態がとれないことを、情緒不安という。そういう心理状態のところに、不安や心配
が入り込むと、それを解消しようと、心理状態は一挙に不安定になる。そのひとつが、引きこも
り。

 自分の子どもが部屋に引きこもったりすると、よく親は、「気のせいだ」とか、「心はもちよう
だ」とか言って、それを安易に考える。しかし引きこもりは、あくまでも現象。無理をして、その
状態から子どもを外に出しても、元となる、情緒不安はなおらない。もう少し具体的に考えてみ
よう。

 私も精神状態が不安定になると、人に会うのがおっくうになる。人ごみへ入るのが、いやにな
る。そういうときの自分の心理を観察してみると、こうだ。

 まず人の言動が気になる。しかもささいなことが気になる。タバコを平気で道路へ捨てる人。
道路にツバを吐く人。大声であたりかまわず話す人。体臭のある人。平気で道路に駐車する
人。工事の騒音など。ふだんなら気にならないようなことが、そういうときは、やたらと気にな
る。そしてそういうことがいくつか重なると、頭の中はパニック状態になる。

 この段階で、まず自分の中のセルフコントロール機能が働きだす。どうすれば、そのパニック
を収めることができるか、それを考える。私のばあいは、外出を避けるとか、何かの気分転換
をするとかいう方法で対処する。カルシウム剤が有効なことも多い。こういうことができるのは、
それだけ経験もあるということだが、子どもはそれができない。症状は、一挙に悪化する。

 ある子ども(高三)はこう言った。「外に出ると、人に会うのがこわい」と。ここでいう「こわい」と
いうのは、それだけ心の緊張感が取れないことをいう。相手の言動のすべてが、自分の心を
突き刺すように感ずるらしい。だから引きこもる。心理学の世界では、これを防衛機制という。
自分を守るための心理反応と考えるとわかりやすい。

 要するにこうした現象は、風邪にたとえて言うなら、「熱」のようなもの。その熱をさまそうとし
て、子どもを水風呂につける人はいない。同じように、引きこもりだけを見て、子どもを外の世
界に引きずり出しても意味はない。あるいはそんなことをすれば、かえって逆効果。中には、そ
ういう乱暴な方法で、子どもをなおす(?)人もいるそうだが、私に言わせれば、とんでもない方
法ということになる。昔、Tヨットスクールというのがあったが、あれもそうだ。生徒の死亡事件
がつづいて、当時の寮長は刑事訴追まで受けたというが、当然のことだ。が、この種の乱暴な
治療法(?)は、今でもあとをたたない。最近でも、子どもや親を、大声で罵倒(ばとう)しながら
なおす(?)人もいる。素人(失礼!)にはわかりやすい方法なので、そのときどきの親には受
けるが、こうした方法には、じゅうぶん警戒したほうがよい。


●はじめの一歩

 幼児教育の世界で、『はじめの一歩』というときには、つぎの二つの意味がある。ひとつは、
何でも最初に経験させることは、慎重に選べということ。もうひとつは、そのときの方向づけが、
その後の子どもの方向性に大きな影響を与えるから注意しろという意味。

 体操教室を例にとって考えてみる。
 体操教室に入れたから、体操が好きになるとはかぎらない。恐らく何割かの子どもは、かえっ
て体操を嫌いになってしまう。(そういう事実は、教室側としても隠すが……。)マット運動にして
も、鉄棒にしても、あるいは跳び箱にしても、それができたからといって、どういうこともない。で
きないからといって、これまたどういうこともない。しかしそういうところでは、それがあたかも人
間の成長には必要不可欠な要素でもあるかのように教える。親もそう錯覚する。私も中学の授
業でマット運動をさせられたが、あのマット運動ほどいやなものはなかった。そういう子どもの
「思い」は、外には出てこない。

 こうした「おけいこごと」を子どもにさせるときには、子どもの方向性をじゅうぶん、見きわめる
こと。だいたいにおいて、「できないからさせる」「苦手だからさせる」という発想はまちがってい
る。子どもに何かをさせるときは、「得意な分野をさらに伸ばす」という発想で、考える。要する
に、オールマイティの子どもは求めないこと。また求めても意味はない。

 つぎにこの時期できた方向性は、当然のことながら、その子どもの一生に大きな影響を与え
るから注意する。私にも、いろいろなことがあった。たとえば私は小学三年のときに、バイオリ
ン教室へ通わされた。「通わされた」というのは、それだけいやだったということ。今でもレッス
ンの日が、毎週水曜日の午後四時一五分覚えているほどだから、それがいかにいやなもので
あったかは、わかってもらえると思う。ただ私のばあい、バイオリンがいやだったわけではな
い。あの棒がいやだった。何かをまちがえると、講師の先生は、容赦なく私の頭や手を叩い
た。それがいやだった。一年かかって、やっとやめさせてもらったが、その結果、私は大の音
楽嫌いになってしまっていた。小学六年の終わりまで、「オ・ン・ガ・ク」という言葉を聞いただけ
で、背筋がゾーッとしたのを、今でもはっきりと覚えている。幼児教育では、こういうことは、絶
対にあってはならない。

 で、子どもの方向性をつけるコツは、子どもをほめること。最初はウソでもよいから、ほめる。
「この前よりじょうずになったわね」「せんせいがほめていたよ」とか。父親や母親の前でほめる
のも効果的。この時期の子どもは、自分を客観的に評価できないから、周囲の人にほめられ
ると、その気になってしまう。そしてそれが原動力となって、子どもを前向きに伸ばす。


●「恥」の文化

 極東のアジアの小国には、世界の人が見ても、理解しがたい民族性がある。そのひとつが、
「恥」。たいていの日本人は、奈良時代の昔から、日本は文明国だと思っている。しかし日本程
度の歴史なら、アフリカの各部族ならみんな、もっている。(だからといって、日本の歴史を否定
しているのではない。傲慢になってはいけないと言っている。)

 この「恥」には、二種類ある。他人に向かう恥と、自分に向かう恥である。他人に向かう恥とい
うのは、世間を気にした生き方そのものということなる。他人の目の中で生きる人ほど、この恥
を気にする。

 もうひとつは自分に向かう恥。自分の生きザマにきびしい人。あるいは自分にきびしく生きて
いる人ほど、この恥を気にする。人が見ているとか見ていないとか、あるいは人が知っていると
か知らないとか、そういうことは関係ない。あくまでもその恥は自分に向かう。

 この二種類の恥は、たがいに相関関係がある。他人に向かう恥を意識する人ほど、自分へ
の恥に甘い。「人にバレなければよい」とか、「自分さえよければよい」とか考える。あるいは自
分をごまかしてでも、体裁をとりつくろう。

 一方、自分に向かう恥を意識する人ほど、他人を気にしない。「他人がどう思おうが、知った
ことではない。私は私だ」というような考え方をする。これらをまとめると、他人に向かう恥と、自
分に向かう恥は、いわば反比例の関係にあるということになる。同時に両方の恥をもっている
人は、まずいない。(両方ともない人というのは、いるかもしれないが……。)

 ある母親はこう言った。「私の家は、昔からの養鰻業の本家です。息子にはそれなりの大学
へ入ってもらわねば、恥ずかしいです」と。幼稚園を選ぶときにも、それがある。「B幼稚園では
恥ずかしい。S幼稚園でなければ」と。(幼稚園は幼稚園でそういう親の意識をよく知っている
から、それとなくうちは「S」幼稚園ですと、親ににおわす幼稚園もある。)

 こうした傾向は都会より、当然のことながら、農村地域のほうが強い。今でも身なりや、成
績、進学校などなど。家柄や格式、評判や財産にこだわる人は、少なくない。子どもでもいる。
ある中学生(二年男子)は、ことあるごとに自分の家をいうのに、「D家は……」と、「家(け)」を
つけていた。そこで私が「そんな言い方、よせ」と言うと、こう言った。「うちの先祖は、昔は○○
藩の家老だった」と。(私はこういうところが、「理解しがたい民族性」と言っているのだ。)

 さらにこんなことを言った高校生もいた。ある夏の日に私の家に遊びにきて、「先生、D大学
と、M大学は、どちらがかっこうがいいですかね。結婚式の披露宴でのこともありますから」と。
まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを気にしていた!

 他人に向かう恥を気にし始めると、生きザマそのものが卑屈になる。へんな小細工をしたり、
見栄をはったり。さらには体裁だけを整えたりする。しかしそういう生き方をすればするほど、
結局は自分の人生をムダにすることになる。もちろん「恥」がすべて悪いわけではない。自分に
向かう恥は、むしろ大切にしたい。しかしこれには大きな前提がある。それを恥じるだけの、哲
学なり生きザマ、さらには確固たる信念が必要だということ。それがないと、恥じるべき対象そ
のものがないということになる。言いかえると、哲学や生きザマ、確固たる信念のない人は、自
分に恥じることはない。さらに言いかえると、自分に恥じる人は、哲学や生きザマ、確固たる信
念がある人ということになる。「自分に恥じる」と言っても、そうは簡単なことではない。


●バツはお尻

 子どもに体罰を加えるとしても、決して「頭」にしてはならない。「バツはお尻」と決めておく。頭
は人体の中で、もっとも重要な部分であり、人格そのものも、この頭に宿る。で、こうした体罰
は、一度習慣になると、すぐ手が頭に向かうということになりかねないので、気をつける。その
ためにも、もし今、あなたが頭に向けて体罰を繰り返しているなら、「バツはお尻」と、何度も復
唱してみるとよい。あなたの心構えそのものを、訂正する。

 で、子どもたちが親からどんな体罰を受けているかを調査してみた。三七人の子どもたち(小
学校の低学年児)で、約半数が体罰を受けていることがわかった。圧倒的に多いのが、「親に
叩かれる」(二〇人)。その方法としては、「手で頭や顔を叩く」のほか、「チビクル」「殴る」「パン
チ」「ビンタ」「キック」「ケツ叩き」「ぶっ叩き」など。「押入れに入れられる」「家からの追い出し」
という、オーソドックスなのも、まだ健在のようだ。「出て行くと言って出て行くと、たいて親がさが
しにくる」と話してくれた子どももいた。ちなみに、「出て行け」と言われたことがある子どもは、
一一人。

 つぎに多いバツが、「取りあげ」。おもちゃや本、ゲームなど。子どもが大切にしているもの
を、親が取りあげるという。一人、「お金をまきあげられる」と言った子どももいた。さらに「しば
られる」と言った子どももいた。何でも庭や柱に、ヒモでしばられるという。その話を聞いた別の
子どもが、「ぼくは物干しにつりさげられる」と言った。これには、みな、爆笑した。

 さらに、「嫌いなトマトジュースを飲まされる」「犬小屋で寝させられる」「掃除をさせられる」「頭
の毛を短くされる」と言った子どももいた。「昔は、お灸をすえられるというのもあった」と私が言
うと、「そんなものは知らない」と。ほかに「ごはん抜き」「おいてきぼり」「ものを投げつけられる」
など。「台所のすみで、正座」というのもあった。さらに……。

 「亡くなったお父さんの仏壇の前で正座」と答えた子どももいた。何でもとても恐ろしいことだ
そうだ。その子どもの父親は、その少し前、なくなったばかりだった。私はその話を聞いて、し
んみりとしてしまった。


●子どもの健康は鼻先見る(あくまでも参考に)
 
 子どもの健康状態を簡単に知りたければ、鼻スジを見ればよい。鼻スジがツヤツヤと輝いて
いれば、体力もあり、健康とみる。反対に、鼻スジから鼻先にかけて、どんよりとしてくれば、体
力が落ち、風邪など、何かの病気の前ぶれとみる。

 ほかにも顔だけを見て診断する方法がある。

(1)額(ひたい)の横に青筋がある子ども……神経質な子ども。かんしゃく発作のある子ども。
キレやすい子どもとみる。
 
(2)両ほほの下が、青白い子ども……貧血を疑うが、そうでないときはお腹(なか)の虫を疑
う。私はそれを言い当てるのが得意で、顔を見ただけで、それがわかる。

(3)顔の色が、あちこち赤白、まばらな子ども……発熱直前の状態とみる。たとえばほおの一
部だけが赤いとか、額の右だけが赤いなど。今はそうでなくても、やがて発熱するとみる。

(4)鼻先など、先端だけが赤い……虚弱体質など。生まれつき体が弱い子どもは、体の先端
部が赤くなったりする。

(5)顔の色がくすんでいる子ども……子どもの顔色は、大勢の中で比較して見ると、判断しや
すい。気うつ症的な子どもは、生彩が消え、粉をまぶしたような感じになる。大声で笑えない、
大声を出せないなど。親の威圧的な過干渉が日常的につづくと、子どもはそうなる。黒ずん
で、生彩がないときは、慢性病を疑ってみる。

(6)くちびるの色が淡い子ども……栄養不足、好き嫌いのはげしい子どもを疑ってみる。胃腸
の弱い子どもも、くちびるの色が淡くなる。あわせて顔全体が青白いようであれば、貧血も疑っ
てみる。

 以上は、あくまでも経験的にみた健康診断法で、必ずしも正しくない。(しかし運勢占いや星
占いよりは、ずっと確実!)一度、ここに書いたことを参考にして、そういう目で、あなたの子ど
もを診断してみたら、どうだろうか。
(02−10−16)※

(追記)漢方では、望診論といって、顔色や外の現れた症状をみて、その人の病状を診断する
方法があります。
私が書いた、「目で見る漢方診断」を、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の、「ビデオ・動画コ
ーナー資料倉庫」に収録しておきます。(一部ですが)興味のある方は、一度、お読みください。


●成熟した社会

 年長児でみても、上位一〇%の子どもと、下位一〇%の子どもとでは、約一年近い能力の差
がある。さらに四月生まれの子どもと、三月生まれの子どもとでは、約一年近い能力の差があ
る。そんなわけで、同じ年長児といっても、ばあいによっては、約二年近い能力の差が生まれ
ることがある……ということだが、さてさて?

 しかし日本の教育の大義名分は、「平等教育」。親もこの時期、子どもの能力には、過剰なま
でに反応する。ほんのわずかでも自分の子どもの遅れを感じたりすると、それだけで大騒ぎす
る。以前、こんなことがあった。ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう
怒鳴った。

 「先生は、できる子とできない子を差別しているというではありませんか。できる子だけ集め
て、別の問題をさせたそうですね。どうしてうちの子は、その仲間に入れてもらえないのです
か」と。私が何かの調査をしたのを、その母親は誤解したらしい。そこでその内容を説明したの
だが、最後までその母親には、私の目的を理解してもらえなかった。が、私はそのとき、ふとこ
う考えた。「どうして、それが悪いことなのか」と。

 仮に私ができる子だけを集めて、何か別のことをしたところで、それは当然のことではない
か。日本の教育は平等といいながら、頂上には東大があり、その下に六〇〇以上もの大学が
ひしめきあっている。それこそピンからキリまである。高校にも中学にも序列がある。もともとで
きる子と、できない子を、同じように教えろというほうが無理なのだ。……と思ったが、やはりこ
の考え方はまちがっていた。

 できる子はできない子を知り、できない子はできる子を知り、それぞれがそれぞれを認めあ
い、助けあうことこそ大切なのだ。そういう社会を成熟した社会という。「力のあるものがいい生
活をするのは当然だ」「力のないものは、それなりの生活をすればいい」というのは、一見正論
に見えるが、正論ではない。暴論以外の何ものでもない。たとえあなたの子どもが、今はでき
がよくても、その孫はどうなのか。さらにそのひ孫はどうなのか……ということを考えていくと、
自ずとその理由はわかるはず。

 その社会が成熟した社会かどうかは、どこまで弱者にやさしい社会かで決まる。経済活動に
は競争はつきものだが、しかし強者が弱者をふみにじるようになったら、その社会はおしまい。
そういう社会だけは作ってはいけない。そのためにも、私たちは子どもを、能力によって、差別
してはいけない。そしてそのためにも、できる子とできない子を分けてはいけない。子どもたち
を温かい環境で包んであげることによって、子どもたちは、そこで思いやりや同情、やさしさや
協調性を学ぶ。それこそが教育であって、知識や知恵というのは、あくまでもその副産物に過
ぎない。

 日本では「受験」、つまり人間選別が教育の柱になっている。こうした非人間的なことを、組織
的に、しかも堂々としながら、それをみじんも恥じない。そこに日本の教育の最大の欠陥が隠
されている。冒頭に、私は「上位一〇%」とか、「下位一〇%」とか書いたが、こうした考え方そ
のものが、まちがっている。私はそのまちがいを、その母親に教えられた。


●のどは心のバロメーター
  
 大声を出す。大声で笑う。大声で言いたいことを言う。大声で歌う。大声で騒ぐ。何でもないよ
うなことだが、今、それができない子どもがふえている。年中児(満五歳児)で、約二〇%はい
る。

 この「大声で……」というのは、幼児教育においては、たいへん大切なテーマである。この時
期、大声を出させるだけで、軽い情緒障害くらいなら、なおってしまう。(「治る」という言い方
は、教育の世界ではタブーなので、あえてここでは、「なおる」とする。)私も幼児を教えて三〇
年以上になるが、この「大声で……」を大切にしている。言いかえると、「大声で……」ができる
子どもに、心のゆがんだ子どもは、まずいない。そういう意味で、私は、『のどは、心のバロメー
ター』という格言を考えた。

 が、反対に「大声で……」ができない子どもがいる。笑うときも、顔をそむけて苦しそうにクッ
クッと笑うなど。「大声を出してくれたら、それほど気が楽になるだろう」と思うのだが、大声で笑
わない。原因は、母親にあるとみてよい。威圧的な過干渉や過関心、神経質な子育て、暴力、
暴言が日常化すると、子どもの心は内閉する。ひどいばあいには、萎縮する。意味のないこと
をボソボソと言いつづけるなど。が、そういう子どもの親にかぎって、自分のことがわからない。
「うちの子は生まれつきそうです」とか言う。中には、かえってそういう静かな(?)子どもを、で
きのよい子と思い込んでいるケースもある。こうした誤解が、ますます教育をむずかしくする。

 ともかくもあなたの子どもが、「大声で……」を日常的にしているなら、あなたの子どもは、そ
れだけですばらしい子どもということになる。


●のびたバネは、必ず縮む
 
 無理をすれば、子どもはある程度は、伸びる(?)。しかしそのあと、必ず縮む。とくに勉強は
そうで、親がガンガン指導すれば、それなりの効果はある。しかし決してそれは長つづきしな
い。やがて伸び悩み、停滞し、そしてそのあと、今度はかえって以前よりできなくなってしまう。
これを私は「教育のリバウンド」と呼んでいる。

 K君(中一)という男の子がいた。この静岡県では、高校入試が、人間選別の関門になってい
る。そのため中学二年から三年にかけて、子どもの受験勉強はもっともはげしくなる。実際に
は、親の教育の関心度は、そのころピークに達する。

 そのK君は、進学塾へ週三回通うほか、個人の家庭教師に週一回、勉強をみてもらってい
た。が、母親はそれでは足りないと、私にもう一日みてほしいと相談をもちかけてきた。私はと
りあえず三か月だけ様子をみると言った。が、そのK君、おだやかでやさしい表情はしていた
が、まるでハキがない。私のところへきても、私が指示するまで、それこそ教科書すら自分では
開こうとしない。明らかに過負担が、K君のやる気を奪っていた。このままの状態がつづけば、
何とかそれなりの高校には入るのだろうが、しかしやがてバーントアウト(燃え尽き)。へたをす
れば、もっと深刻な心の問題をかかえるようになるかもしれない。

 が、こういうケースでは、親にそれを言うべきかどうかで迷う。親のほうから質問でもあれば
別だが、私のほうからは言うべきではない。親に与える衝撃は、はかり知れない。それに私の
ほうにも、「もしまちがっていたら」という迷いもある。だから私のほうでは、「指導する」というよ
りは、「息を抜かせる」という教え方になってしまった。雑談をしたり、趣味の話をしたりするな
ど。で、約束の三か月が終わろうとしたときのこと。今度は父親と母親がやってきた。そしてこう
言った。「うちの子は、何としてもS高校(静岡県でもナンバーワンの進学高校)に入ってもらわ
ねば困る。どうしても入れてほしい。だからこのままめんどうをみてほしい」と。

 これには驚いた。すでに一学期、二学期と、成績が出ていた。結果は、クラスでも中位。その
成績でS高校というのは、奇跡でも起きないかぎり無理。その前にK君はバーントアウトしてし
まうかもしれない。「あとで返事をします」とその場は逃げたが、親の希望が高すぎるときは、受
験指導など、引き受けてはならない。とくに子どもの実力がわかっていない親のばあいは、な
おさらである。

 親というのは、皮肉なものだ。どんな親でも、自分で失敗するまで、自分が失敗するなどとは
思ってもいない。「まさか……」「うちの子にかぎって……」と、その前兆症状すら見落としてしま
う。そして失敗して、はじめてそれが失敗だったと気づく。が、この段階で失敗と気づいたからと
いって、それで問題が解決するわけではない。その下には、さらに大きな谷底が隠れている。
それに気づかない。だからあれこれ無理をするうち、今度はそのつぎの谷底へと落ちていく。K
君はその一歩、手前にいた。

 数日後、私はFAXで、断りの手紙を送った。私では指導できないというようなことを書いた。
が、その直後、父親から、猛烈な抗議の電話が入った。父親は電話口でこう怒鳴った。「あん
たはうちの子には、S高校は無理だと言うのか! 無理なら無理とはっきり言ったらどうだ。失
敬ではないか! いいか、私はちゃんと息子をS高校へ入れてみせる。覚えておけ!」と。

 ついでに言うと、子どもの受験指導には、こうした修羅場はつきもの。教育といいながら、教
育的な要素はどこにもない。こういう教育的でないものを、教育と思い込んでいるところに、日
本の教育の悲劇がある。それはともかくも、三〇年以上もこの世界で生きていると、そのあと
家庭がどうなり、親子関係がどうなり、さらに子ども自身がどうなるか、手に取るようにわかるよ
うになる。が、この事件は、そのあと、意外な結末を迎えた。私も予想さえしていなかったことが
起きた。それから数か月後、父親が脳内出血で倒れ、死んでしまったのだ。こういう言い方は
不謹慎になるかもしれないが、私は「なるほどなあ……」と思ってしまった。

 子どもの勉強をみていて、「うちの子はやればできる」と思ったら、「やってここまで」と思いな
おす。(やる・やらない)も力のうち。そして子どもの力から一歩退いたところで、子どもを励ま
し、「よくがんばっているよ」と子どもを支える。そういう姿勢が、子どもを最大限、伸ばす。たと
えば日本で「がんばれ」と言いそうなとき、英語では、「テイク・イッツ・イージィ」(気を楽にしなさ
い)と言う。そういう姿勢が子どもを伸ばす。

ともかくも、のびたバネは、遅かれ早かれ、必ず縮む。それだけのことかもしれない。


●谷底の下の谷底

 子どもの成績がさがったりすると、たいていの親は、「さがった」ことだけをみて、そこを問題
にする。その谷底が、最後の谷底と思う。しかし実際には、その谷底の下には、さらに別の谷
底がある。そしてその下には、さらに別の谷底がある。こわいのは、子育ての悪循環。一度そ
の悪循環の輪の中に入ると、「まだ以前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、つぎつ
ぎと谷底へ落ち、最後はそれこそ奈落の底へと落ちていく。

 ひとつの典型的なケースを考えてみる。

 わりとできのよい子どもがいる。学校でも先生の評価は高い。家でも、よい子といったふう。
問題はない。成績も悪くないし、宿題もきちんとしている。が、受験が近づいてきた。そこで親
は進学塾へ入れ、あれこれ指導を始めた。

 最初のころは、子どももその期待にこたえ、そこそこの成果を示す。親はそれに気をよくし
て、ますます子どもに勉強を強いるようになる。「うちの子はやればできるはず」という、信仰に
近い期待が、親を狂わす。が、あるところまでくると、限界へくる。が、このころになると、親の
ほうが自分でブレーキをかけることができない。何とかB中学へ入れそうだとわかると、「せめ
てA中学へ。あわよくばS中学へ」と思う。しかしこうした無理が、子どものリズムを狂わす。

 そのリズムが崩れると、子どもにしても勉強が手につかなくなる。いわゆる「空回り」が始ま
る。フリ勉(いかにも勉強していますというフリだけがうまくなる)、ダラ勉(ダラダラと時間ばかり
つぶす)、ムダ勉(やらなくてもよいような勉強ばかりする)、時間ツブシ(たった数問を、一時間
かけてする。マンガを隠れて読む)などがうまくなる。一度、こういう症状を示したら、親は子ど
もの指導から手を引いたほうがよいが、親にはそれがわからない。子どもを叱ったり、説教し
たりする。が、それが子どもをつぎの谷底へつき落とす。

 子どもは慢性的な抑うつ感から、神経症によるいろいろな症状を示す。腹痛、頭痛、脚痛、
朝寝坊などなど。神経症には定型がない※。が、親はそれを「気のせい」「わがまま」と決めつ
けてしまう。あるいは「この時期だけの一過性のもの」と誤解する。「受験さえ終われば、すべて
解決する」と。

 子どもはときには涙をこぼしながら、親に従う。選別されるという恐怖もある。将来に対する
不安もある。そうした思いが、子どもの心をますますふさぐ。そしてその抑うつ感が頂点に達し
たとき、それはある日突然やってくるが、それが爆発する。不登校だけではない。バーントアウ
ト、家庭内暴力、非行などなど。親は「このままでは進学競争に遅れてしまう」と嘆くが、その程
度ですめばまだよいほうだ。その下にある谷底、さらにその下にある谷底を知らない。

 今、成人になってから、精神を病む子どもは、たいへん多い。一説によると、二〇人に一人と
も、あるいはそれ以上とも言われている。回避性障害(人に会うのを避ける)や摂食障害(過食
症や拒食症)などになる子どもも含めると、もっと多い。子どもがそうなる原因の第一は、家庭
にある。が、親というのは身勝手なもの。この段階になっても、自分に原因があると認める親
はまず、いない。「中学時代のいじめが原因だ」「先生の指導が悪かった」などと、自分以外に
原因を求め、その責任を追及する。もちろんそういうケースもないわけではないが、しかし仮に
そうではあっても、もし家庭が「心を休め、心をいやし、たがいに慰めあう」という機能を果たし
ているなら、ほとんどの問題は、深刻な結果を招く前に、その家庭の中で解決するはずであ
る。

 大切なことは、谷底という崖っぷちで、必死で身を支えている子どもを、つぎの谷底へ落とさ
ないこと。子育てをしていて、こうした悪循環を心のどこかで感じたら、「今の状態をより悪くしな
いことだけ」を考えて、一年単位で様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果。(だ
から悪循環というが……。)『親のあせり、百害あって一利なし』と覚えておくとよい。つぎの谷
底へ落とさないことだけを考えて、対処する。
(02−10−13)※


●何でも握らせる
 
 人類の約五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どちらか一方の大
脳が優位にたっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって
決まるという生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに
決まるとされる。
 
 それはともかくも、幼児を観察してみると、何か新しいものをさしだしたとき、すぐ手でさわりた
がる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかる。さわるから知的好奇心が刺激されるの
か、あるいは知的好奇心が旺盛だから、さわりたがるのかはわからないが、概して言えば、さ
わりたがる子どもは、それだけ知的な意味ですぐれている。これについて、こんな話を聞いた。

 先日、タイを旅したときのこと。夜店を見ながら歩いていたら、中国製だったが、石でできた
球を売っていた。二個ずつ箱に入っていた。そこで私が「これは何?」と聞くと、「老人が使う、
ボケ防止の球だ」と。それを手のひらの中で器用にクルクルと回しながら使うのだそうだ。そし
てそれが「ボケ防止になる」と。指先に刺激を与えるということは、脳に刺激を与え、それが知
的な意味でもよい方向に作用するということは前から知られている。

 もしあなたの子どもが乳幼児なら、何でも手の中に握らせるとよい。手のマッサージも効果
的。生活習慣説によれば、左利きも防げる。(左利きが悪いというのではないが……。)そして
「何でもさわってみる」という習慣が、ここにも書いたように好奇心を刺激し、「握る」「遊ぶ」「作
る」「調べる」「こわす」「ハサミなどの道具を使う」という習慣へと発達する。もちろん指先も器用
になる。

(補足)子どもの器用さを調べるためには、紙を指でちぎらせてみるとよい。器用な子どもは、
線にそって、紙をうまくちぎることができる。そうでない子どもは、ちぎることができない。


●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時
間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。


●入試は淡々と

 入試は受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。とくに幼児の
ばあいは、そうする。

 入試でこわいのは、そのときの合否ではなく、仮に失敗したとき、その失敗が、子どもの心に
大きなキズを残すということ。こんな中学生(中二女子)がいた。「ここ一番」というときになると、
必ず決まって、腰くだけになってしまう。そこで私が「どうして?」と理由を聞くと、こう言った。「ど
うせ私はS小学校の入試で失敗いたもんね」と。その女の子は、もうとっくの昔に忘れてよいは
ずの、小学校の入試で失敗したことを気にしていた。

 こうしたキズ、つまり子ども自らが自分にダメ人間のレッテルを張ってしまうということは、本
来、あってはならないこと。そのためにも、子どもの入試は、すべることを考えて準備する。もっ
とわかりやすく言えば、淡々と迎え、淡々とすます。(もちろん合格すれば、話は別だが……。)

実際、子どもの心にキズをつけるのは、子ども自身ではなく、親である。中には、子どもが受験
に失敗したあと、数日間寝込んでしまった母親がいる。あるいはあまり協力的でなかった夫と、
喧嘩もんかになってしまい、夫婦関係そのものがおかしくなってしまった母親もいる。さらに、長
男が高校受験で失敗したとき、自殺をはかった母親もいる。子どもの受験には、親を狂わせ
る、恐ろしいほどの魔力があるようだ。

 それはさておき、子どもの入試には、つぎのことに注意するとよい。「受験」「受かる」「すべ
る」という言葉は、子どもの前では使わない。「選別される」という意識を子どもにもたせてはい
けない。ある程度の準備はしても、当日は、「遊びに行こう」程度ですます。あとはあるがままの
子どもをみてもらい、それでダメなら、こちらからその学校を蹴飛ばすような気持ちですます。
そういう思いが子どもに伝わったとき、そのときから子どもはその時点から、また、前向きに伸
び始める。


●寝起きのよい子どもは安心

 子ども情緒は、寝起きをみて判断する。毎朝、すがすがしい表情で起きてくるようであれば、
よし。そうでなければ、就眠習慣のどこかに問題がないかをさぐってみる。とくに何らかの心の
問題があると、この寝起きの様子が、極端に乱れることが知られている。たとえば学校恐怖症
による不登校は、その前兆として、この寝起きの様子が乱れる。不自然にぐずる、熟睡できず
眠気がとれない、起きられないなど。

 子どもの睡眠で大切なのは、いわゆる「ベッド・タイム・ゲーム」である。日本では「就眠儀式」
ともいう。子どもには眠りにつく前、毎晩同じことを繰り返すという習慣がある。それをベッド・タ
イム・ゲームという。このベッド・タイム・ゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ることに恐怖心を
いだいたりする。まずいのは、子どもをベッドに追いやり、「寝なさい」と言って、無理やり電気
を消してしまうような行為。こういう乱暴な行為が日常化すると、ばあいによっては、情緒そのも
のが不安定になることもある。

 コツは、就寝時刻をしっかりと守り、毎晩同じことを繰り返すようにすること。ぬいぐるみを置
いてあげたり、本を読んであげるのもよい。スキンシップを大切にし、軽く抱いてあげたり、手で
たたいてあげる、歌を歌ってあげるのもよい。時間的に無理なら、カセットに声を録音して聞か
せるという方法もある。

また幼児のばあいは、夕食後から眠るまでの間、興奮性の強い遊びを避ける。できれば刺激
性の強いテレビ番組などは見せない。アニメのように動きの速い番組は、子どもの脳を覚醒さ
せる。そしてそれが子どもの熟睡を妨げる。ちなみに平均的な熟視時間(眠ってから起きるま
で)は、年中児で一〇時間一五分。年長児で一〇時間である。最低でもその睡眠時間は確保
する。

 日本人は、この「睡眠」を、安易に考えやすい。しかし『静かな眠りは、心の安定剤』と覚えて
おく。とくに乳幼児のばあいは、静かに眠って、静かに目覚めるという習慣を大切にする。今、
年中児でも、慢性的な睡眠不足の症状を示す子どもは、二〇〜三〇%はいる。日中、生彩の
ない顔つきで、あくびを繰り返すなど。興奮性と、愚鈍性が交互に現れ、キャッキャッと騒いだ
かと思うと、今度は突然ぼんやりとしてしまうなど。(これに対して昼寝グセのある子どもは、ス
ーッと眠ってしまうので、区別できる。)


●指示は具体的に

 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「先生の話をよく聞くのですよ」「友だちと仲よくす
るのですよ」と子どもに言うのは、親の気休め程度の意味しかない。そういうときは、こう言い
かえる。「幼稚園(学校)から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」
「この○○(小さなプレゼント)を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶわよ」と。

「交通事故に気をつけるのよ」と言うのもそうだ。具体性がないから、子どもには説得力がな
い。子どもに「気をつけろ」と言っても、子どもは何にどう気をつけたらよいのかわからない。そ
ういうときは今度は、寸劇法をつかう。子どもの前で、簡単な寸劇をしてみせる。私のばあい、
年に一度くらい、子ども(生徒)たちの前で、交通事故の様子をしてみせる。ダンボール箱で車
をつくり、その車にはねられ、もがき苦しむ子どもの様子をしてみせる。コツは決して手を抜か
ないこと。茶化さないこと。子どもによっては、「こわい」と言って泣き出す子どももいるが、それ
でも「子どもの命を守るため」と思い、手を抜かない。

 ほかに、たとえば、「あと片づけをしなさい」と言っても、子どもにはそれがわからない。そうい
うときは、「おもちゃは一つ」と言う。またそれを子どもに守らせる。子どもはつぎのおもちゃで
遊びたいため、前のおもちゃを片づけるようになる。(ただし、日本人ほど、あと片づけにうるさ
い民族はいない。欧米では、「あと始末」にはうるさいが、「あと片づけ」については、ほとんど何
も言わない。念のため。)

 これは私の教室でのことだが、私はつぎのように応用している。

 勉強中フラフラ歩いている子どもには、「パンツにウンチがついているなら歩いていていい」
「オシリにウンチがついているのか? ふいてあげようか?」と言う。

 なかなか手をあげようとしない子どもには、「ママのおっぱいを飲んでいる人は、手をあげなく
ていいよ」と言う。

 こうした言い方をするには、もちろんそれなりの雰囲気が大切である。言い方をまちがえる
と、セクハラ的になる。「それなりの雰囲気」というのは、教師と親の信頼関係と、そうしたユー
モアが理解されるようななごやかな雰囲気をいう。それがないと、とんでもない誤解を招くことが
ある。私もこんな失敗をしたことがある。

 ある日、一人の男の子(小三男児)が、勉強中、フラフラと席を離れて遊んでいた。そこで私
が、「おしりにウンチがついているなら、歩いていていいよ」と声をかけた。ふつうならそこでそ
の男に子はあわてて席につくのだが、そこでハプニングが起きた。横にいた別の男の子が、そ
の立っている男の子のおしりに顔をあてて、こう叫んだ。「先生、本当にこいつのおしり、ウンチ
臭い!」と。

 そのときはそれで終わったが、つまりその言われた子どもも、それなりに笑って終わったが、
その夜、父親から猛烈な抗議の電話が入った。「息子のウンチのことで、息子に恥をかかせる
とは、どういうことだ!」と。


●仲のよいのは、見せつける

 子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育
てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませ
ておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。

 子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。
とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはど
んどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な
形で、子育てができるようになる。

 その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮
せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきた
ら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうも
のであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。

 中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ
世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。
しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえ
ない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう
思うだけ。が、それだけではない。

 子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑
いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があ
って、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったと
き、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子ど
もへの依存性と戦う。

家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるとき
は、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦
が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。


●流れには従う

 世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちという
ことになる。

 たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ〜」(舟木一夫の「高校三年」)と
歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌
った。この違いは大きい。

 そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それが
よいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約六〇%の子どもが、「勉強で苦労
するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サ
イレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのも
のが、今、着実に変わろうとしている。

 ところで親子を断絶させる三要素に、@親子のリズムの乱れ、A信頼感の喪失、B価値観
の衝突がある。このうちB価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについていけない
親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観を子ど
もに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。

親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。

 どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶して
いく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは五五%もいる(「青少年白
書」平成一〇年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは八〇%弱もいる。この時期、
「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。


●なくしてわかる生きる価値

 賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康し
かし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠
れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親が
いつ気がつくかということ。

 たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうして
うちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中
に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。

 その娘(中三)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎
日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、一年もつづくと、母親の精
神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。
「どうしてうちの娘は……?」と。

 しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだ
やかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダー
で、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方
は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を
悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。

 昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望
や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ
苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづま
りを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子ども
が生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。

 あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あな
たの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。


●名前は呼び捨て

 よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。
先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれ
た。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで
私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、た
いへんなことになります」と。

 子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中に
は、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。し
かし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせ
ればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、
生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまで
もなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。

 そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「〜〜さん」とか、「〜〜ちゃん」づけで呼ぶ親を
見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、
どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子ど
もにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしてい
る。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。

 子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子で
も、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあって
いる。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則
は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を
閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。

 ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」で
は、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではない
かもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。


●名前は大切に

 子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。

@名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子ども
はほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」については、
ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。

A人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や威
圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような「核」
攻撃は、タブー中のタブー。

B人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。
子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好まし
いものではない。

C自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけ
に、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。
もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。

D名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前はす
ばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることから、
自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、高
いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を大
切にすることを学ぶ。


●涙にほだされない

 心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、
その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気
を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、
大きく分けて、@攻撃型と、A内閉型がある。
 
 攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私
はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引き
こもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多
い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)

 こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうし
た反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体
験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育
て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。

そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しい
じめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情
緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。た
とえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうした
恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊んで
いても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の情
緒を安定させようとする。

 もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということ
を、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダというこ
とをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状
況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり
方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多
い食生活にこころがける。

 こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年より
よくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、
立ちなおりがむずかしくなる。


●波間に漂(ただよ)わない

 子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、
右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報
に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。

 ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせ
ようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、
あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子ど
もに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあ
るので心配です。だから迷っている」と。

 こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないというこ
と。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう
思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出
たようなもの。迷うほうが、おかしい。

 「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものが
ないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの
「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。

 親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなた
がこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、三日置いて出す。このタイプの母
親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だから
三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えると
よい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週
間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうものか。
その親自身の全人格がそこに反映される。


●『ひまな子どもほど、忙しいと言う』

 『ひまな子どもほど、忙しいと言う』は、イギリスの格言。つまりひまで、時間をもてあましてい
る子どもほど、何かを言いつけたりすると、「忙しいからできない」を口実に、しない。日本でも、
昔から、『大工は、いそがしい大工に頼め』という。いそがしい大工は、それだけ仕事から手を
抜くかといえば、そうではない。反対にヒマそうな大工ほど、それだけよい仕事をしてくれるので
はと思いがちだが、実際には、しない。

 人はある緊張感に巻き込まれると、そのリズムで、仕事をするようになる。わかりやすく言え
ば、「活気」ということか。これは教師についても言える。毎日、忙しそうにキビキビと動いてい
る教師は、そのリズムの中で、どんどんと仕事をこなしていく。仕事ぶりもよい。しかし毎日ひま
そうな教師は、そのリズムで、どんどんと仕事をあと回しにしていく。そのため仕事から、できる
だけ手を抜こうとする。

 子どもを伸ばすコツは、言うなれば、こうした緊張感のあるリズムの中に、子どもを巻き込む
こと。そして子ども自身が、日々の生活をキビキビとこなしていくようであれば、よし。そうでなけ
れば、……と書いたが、この先がむずかしい。一度だらしなくなってしまった生活は、なかなか
もとには戻らない。たとえば子どもに退行的な生活態度(約束や規則、目標が守れない。時間
がルーズになる。生活習慣が乱れる。だらしなくなる)が見られるようになると、それをなおすの
は、容易ではない。要は、そういう子どもにしないことだが、親が寝そべって、せんべいを食べ
ながら、「あんたはしっかりしてね」はない。結局は、親の心がまえの問題ということになる。

 そこであなた自身はどうか。毎日、メリハリのある生活を、キビキビとこなしているだろうか。
さらに月単位、年単位で、キビキビとこなしているだろうか。もしそうなら、そうした緊張感は、子
どもによい影響を与えているはずである。そうでなければ、そうでない。

 ふつうキビキビと目標をもって生活している子どもは、「忙しい」とは言わない。「時間がない」
という。だからこのイギリスの格言をもじると、こうなる。

 『忙しい子どもほど、時間がないと言う』と。さて、あなたの子どもはどうか。あなた自身はどう
か。


●肥満傾向は手の甲を見る

 もう三〇年前になるが、仕事で香港へ行くたびに、私は低周波治療器なるものを数台買って
きた。向こうでは五〜六万円のものだったが、日本へもってくると、一〇万円以上で売れた。日
本では針治療や、ハリ麻酔の研究にそれを使った。治療器と言っても、簡単な機械で、ぎょう
ぎょうしい外装とは別に、中身はがらんどうだった。

 その機械を日本でもできないかと考えていたとき、私は皮膚電気抵抗値という言葉を知っ
た。人間の体に微弱な電流(3V程度)を流すと、体の部位によって、抵抗値が違うというのだ。
測定はマイクロアンペア計ですればよい。このアンペア計が、当時、精度のよいもので、四〜
五〇〇〇円。あとはそれに整流体(一方向に電流を流すようにするもの)や抵抗体(電流を、
測定しやすい値に補正するもの)をつければ、それで皮膚電気抵抗値を測定できた。実に簡
単な装置だった。値段も、乾電池を含めても、五〇〇〇円前後だった。私はそれを使って、ハ
リ麻酔の研究をつづけた。

 が、やがてその皮膚電気抵抗値を応用して、体脂肪測定器ができるとは、思ってもみなかっ
た。脂肪分の多い人は、当然抵抗値が大きくなる。脂肪は電気を通さないからだ。一方、脂肪
の少ない人は、それだけ抵抗値が小さくなる。この値を補正すれば、「体脂肪率○○%」と表
示することができる。まちがいなく、私はそのとき皮膚電気抵抗値の研究では、最先端を走っ
ていた。もしそのとき、それに気づいていれば、億万長者になっていたと思う。人生には、そう
いう、つまり、あとで気がついてみるとわかるが、そのときは見逃してしまうチャンスというの
が、ときどきあるものだ。しかしこれは余談。

 その肥満。長い間、子どもの肥満を見ていて気づいたことがある。満四歳前後までは、乳幼
児期の肥満がつづいているが、それ以後、子どもの体形は、少年少女期に向かって、スリム
になっていく。そのとき、肥満傾向がつづく子どもは、手の甲の肉がぷっくりとふくれたような感
じになる。そうでない子どもは、そうでない。もう少し詳しく言うと、こうだ。

 手のひらをぐいとのばしてみる。すると五本の指の付け根に、指からのびる五本の腱が現れ
る。この腱の様子を見れば、子どもの肥満度をある程度、判断できる。

(肥満度一)子どもの肥満傾向が進むと、四肢の末端からその傾向がはっきりとわかるように
なる。たとえば手の甲(てのひらの部分の反対側)が、何となくぷっくりと張れたような感じにな
る。腱そのものが、わかりにくくなる。

(肥満度二)さらに肥満度が進むと、この腱がまったく見えなくなり、かわって、付け根のところ
に、えくぼが現れるようになる。

(肥満度三)さらに肥満度が進むと、手の甲全体が丸くふくらんだようになり、手を伸ばすと、甲
に深いえくぼが現れるようになる。この段階になると、肥満がだれの目にもわかるようになる。

 子どものばあい、肥満は大敵。(太る)→(運動不足になる)→(ますます太る)の悪循環に入
ると、肥満度は一挙に加速する。学習にも大きな影響が出てくる。これはあくまでも見た感じだ
が、脳へ行くべき血流が、どこかほかへ行くような感じになってしまう。そのため集中力や思考
力が弱くなる。

 こうした肥満傾向が見られたら、できるだけ初期の段階で、家庭の中から、食べ物を一掃す
るのがよい。思い切って捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、そうする。そういう「思
い」が、まちがった買い物習慣を改めさせる。このタイプの親ほど、「うちの子はそれほど食べ
ていません」とか、「食事には注意しています」とか言う。しかしその反面、家の中には、食べ物
がゴロゴロしているもの。基準そのものが、ふつうの家庭と大きくズレていることが多い。

 なおこの手の甲をみる肥満度検査法は、ここにも書いたように、満四歳児以下には応用でき
ない。


●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まましてしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。「ヒロシ、日
本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ドラ化して
いる」という意味だ。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。しかしそれを見て見ぬフリし
たり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家庭教育のあり方を、かなり反
省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうことなのか。子どもを育てるという
ことがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えなおしてみたほうがよい。


●昼寝グセはガムで

 慢性的な睡眠不足とは別に、満五歳をすぎても、昼寝グセが残っているようなら、その時間、
ガムをかませるとよい。(だからといって、昼寝が悪いといっているのではない。もし気になるな
ら、ということ。)

 ここまで書いて気がついたが、本来人間は、生物学的に、昼寝をする習慣をもっているので
はないか。外国へ行っても、昼食後、昼寝する民族は多い。スペインに住んでいる知人も、少
し前メールで、こう教えてくれた。「このあたりでは、昼休みが長く、子どもたちは一度家へ帰っ
て、昼寝する。それで子どもたちも、夜一〇時をすぎても、通りで遊んでいる」と。日本の生活
習慣、あるいは常識が、そのまま世界の生活習慣の基準と考えるのは、正しくない。

 実のところ、私も五〇歳を過ぎるころから、昼寝をするようになった。毎日というわけではない
が、数日おきくらいにそうしている。そういう自分を振り返ってみると、昼寝は悪いものではない
と思うし、それが子どもにあっても、不思議ではない。むしろ現代生活のほうが、人間本来の生
活習慣をねじまげているのではないか?

 話はそれたが、ガムをかむことには、いろいろな利点がある。頭がよくなる(サイエンス誌)と
いう説もあるが、これなどは、素人が考えても、納得できる。あごの運動が、脳の活動を活発
化する。ほかにあごの筋肉を鍛えるということもある。当然、咀嚼(そしゃく=かむ)力が鍛えら
れる。胃腸のためにも、よい、などなど。そんなわけで、子どもにはガムをかませるとよい。が、
これにはいくつか、コツがある。

(1)当然のことながら、菓子ガムは、避ける。
(2)ガムは、一枚与えて、最低でも三〇分は同じガムをかませる。つぎつぎと交換するのは避
ける。
(3)はげしい運動中は、ガムは避ける。息を吸い込んだとき、のどをつまらせる。
(4)子どもの口にあった適量にする。幼児のばあい、ふつうのガムの半分の量でよい、など。
ほかにガムを捨てるときの、マナーを最初に、しっかりと教えておくというのもある。


●不安の原因は、わだかまり

 子育てをしていて、いつも同じパターンで、同じように失敗するというのであれば、あなた自身
の中に潜む、「わだかまり」をさぐってみる。わだかまりは、あなたの心の奥に巣をつくり、あな
たを裏から操る。

 わだかまりがあるということが悪いのではない。ほとんどの人は、何らかのわだかまりをもっ
ている。わだかまりがあるということが悪いのではなく、その「ある」ことに気がつかないまま、そ
れに振り回されるのが悪い。

 望まない結婚であった。望まない子どもであった。妊娠中に大きな不安があった。実家とうま
くいっていない。不幸な家庭生活だった。生活苦がある。夫婦げんかが絶えない。夫婦関係が
ぎくしゃくしている、などなど。こうした「思い」が、わだかまりとなり、それが「子育ての不安」を
増大させる。

 ある母親は、小学一年生の男の子を、「イヤーッ!」と叫んで、手で払いのけていた。長い
間、その理由がわからなかったが、いろいろ振り返ってみると、望まない結婚が原因だったと
いうことがわかった。

現在の夫(子どもの父親)は、その母親に対して、結婚前、執拗なストーカー行為を繰り返して
いた。が、その母親は心のやさしい人だった。「実家に迷惑がかかってはいけない」「私ひとり
ががまんすれば何とかなる」と考えて、その男と結婚した。が、そんな結婚だから、最初からう
まくいくはずがない。殺伐(さつばつ)とした結婚生活がつづいた。そこでその母親は、「子はか
すがいという。子どもをつくれば何とか、うまくいくだろう」と考えて、その男の子をもうけた。子ど
もが「ママ!」とすりよってくるたびに、その母親は、無意識のまま、その男の子を払いのけて
いたというわけである。

 こうしたわだかまりは、それに気がつくだけで、消えることはないが、おとなしくさせることはで
きる。そのあと少し時間はかかるが、やがて問題も解決する。そこで大切なことは、冒頭に書
いたように、いつも同じようなパターンで、同じように失敗するというのであれば、このわだかま
りを疑ってみる。何かあるはずである。
(02−10−19)



●不安がデマを呼ぶ

毎年、受験期が近づくと、いろいろなデマが飛び交うようになる。おもしろいのは(失礼!)、毎
年、同じデマだということ。親にしてみれば、その年一回だけだから、それがわからない。しか
し毎年みていると、それがわかる。もっと言えば、毎年親や子どもは移り変わるが、親や子ども
の質は変わらないということ。

 S小学校の入試についても、今までこんなデマがあった。

○今年は受験者数が多い。男子(もしくは女子)が、とくに多いので、不利。
○学校の内部資料(合格基準)が漏れている。一〇〇万円出せば、手に入る。
○幼稚園から内申書が行くようになった。幼稚園の先生には、よくしておいたほうがよい。
○不合格者も、四〇〇万円寄付すれば、合格にしてもらえる。
○親の職業が重要視される。母子家庭の子どもは合格できない。
○S小学校の現役(もしくは退職)教師が、個人レッスンをしている。受けたほうが有利。

さらに具体的になると、「ハサミやホッチキスが使えない子どもは合格できない」「あいさつがき
ちんとできなければ、不利」「野菜の名前をすべて知っていないと、合格できない」などなど。こ
れらすべてが、デマ(ウソ)だから、すさまじい。

 こうしたデマの背景には、親の不安がある。その不安が、正常な判断力をなくし、ふつうなら
(?)と思うような話まで、信じてしまう。そしてそれが人から人へと伝わるうちに、勝手にどんど
んとふくらんでいってしまう。

 「受験」という制度は避けては通れないものかもしれないが、しかし合格したからといって、そ
の人が優秀だとか、反対に不合格だったから、その人が劣っているということにはならない。だ
いたいにおいて、基準そのものが、いいかげんである。どこがどう「いいかげんか」ということに
なると、話が長くなるが、ともかくも、いいかげんである。そういうものを基準にして、人間の価
値まで決められたら、たまらない。

 もっとも親が不安になるのは、親の勝手。デマを飛ばしあうのも、親の勝手。しかしその不安
を子どもにぶつけてはいけない。あるいはそのデマで、子育てを見失ってはいけない。私はと
きどき親たちにこう言う。「あるがままの子どもを育てましょう。そういう子どもがダメだというの
なら、こちらからそんな学校は、蹴飛ばしてやりましょう!」と。親が子どもの心を守らなかった
ら、だれが守る? そんな心構えも、子どもの受験には必要だということ。


●夫婦円満は、教育の要

子どもは絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむことができる。「絶対的」というのは、疑
いを抱かないということ。そのためには、子どもの前では、夫婦は円満に。よく誤解されるが、
夫婦が子どもの前でベタベタする姿を見せるのは、悪いことではない。悪いことでないことは、
外国へ行ってみればわかる。欧米の夫婦は、(もちろん仲のよい夫婦だが)、日常的にベタベ
タしている。日本人の私たちが見ていても、恥ずかしいほどだが、だからといって、子どもがど
うこうということはない。子どもたちは子どもたちで、ごく日常的な光景として、それを受け入れ
てしまっている。

 一般論として、心豊かな家庭で、親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、どっしりとした
落ち着きがある。態度も大きく、ばあいによっては、ふてぶてしい。そうでない子どもは、どこか
セカセカいて、愛想はよいが、心を許さない。許さない分だけ、心をゆがめやすい。ひねくれ
る、いじける、ひがむ、つっぱるなど。が、夫婦が円満であることには、もっと大切な意味があ
る。

 子どもは親たちが、助けあい、いたわりあい、慰めあい、励ましあい、教えあう姿を見て、自
分の中に、あるべき家庭像や夫婦像をつくる。つまりそういう家庭で育った子どもは、いつか自
分が親になったとき、自然な形で、よい家庭や夫婦関係を築くことができる。そうでなければそ
うでない。これも一般論だが、不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、夫婦関係や親子関係
が、ぎくしゃくしやすい。「親像」「家庭像」が、脳にインプットされていないとみる。このタイプの
人は、「いい家庭をつくろう」「いい親にならなければ」という気負いばかりが先行する。いわゆ
る「気負い先行型」の子育てというのは、こういう子育てをいうが、親が気負えば気負うほど、
親も疲れるが、子どもも疲れる。この疲れが、たがいの間に、ミゾを入れる。

 ……だからといって、不幸な家庭に育った人が、すべてよい家庭作りに失敗するというので
はない。人間は、学習によって、あるべき夫婦や、あるべき家庭の姿を学ぶことができる。友
人や知人の家庭を見たり、親類や映画の中の家庭を見たりして、それを自分のものにするこ
とができる。いろいろ回り道をすることはあるかもしれないが、幸福な家庭や、よい親子関係を
築いている人は、いくらでもいる。

 ともかくも、子どもの前では、夫婦は円満に。中には、「夫婦げんかは子どもに見せろ。意見
の対立を教えるにはよい機会だ」(C大元教授)と、とんでもないことを言う人もいる。夫婦で哲
学論争でもするならともかくも、ほとんどの夫婦げんかは、とるにたりない痴話げんか。そんな
ものは子どもに見せる必要はない。見せてはならない。

 
●子どもの自立

 アメリカには「要保護者遺棄罪」という、恐ろしい法律がある。子どもを家に残し、夫婦だけで
外出したりすると、その罪に問われる。アメリカに住む二男がそのことについて、「日本はいい
国だね」と言った。何でもアメリカでは、子どもだけで外へ遊びに行くということすら、考えられな
いというのだ。「そんなことをすれば、すぐ誘拐されてしまう」と。

 しかし日本では、そこまでうるさくない。そういう意味では安全な国だ。ここで書くことは、その
「安全」を前提にしてでのことだが、私は以前、『夫婦で外出』という格言を考えた。子どもがあ
る程度大きくなり、子どもたちだけで何となく生活ができるようになったら、できるだけこまめ
に、夫婦だけで外出するとよい。親にすれば、子離れの準備ということになるし、子どもに対し
ては、親離れをうながすということになる。

 一般的に、子どもは、小学三〜四年生ごろ、親離れを始める。それまで学校でのできごとを
話していた子どもも、急に話さなくなる。親と一緒に、入浴しなくなる。家族と一緒の外出をしぶ
るようになる。あるいは自分だけの部屋を求めるようになる。こうなれば親離れの時期は近い
とみる。ただそのとき、子どもの情緒は不安定になり、幼児期にもどったり、あるいは妙におと
なびてみせたりする。それを繰り返す。幼児にもどれば、幼児に、おとなびたりしてみせたら、
それなりにおとなに扱う。いきなりあるときからおとなあつかいをするとか、反対に幼児ぽくなっ
たりすることを、叱ったりしてはいけない。

 コツは、成長することを喜ばせながら、そのつどおとなあつかいをする。「あんたも、おとなの
スカートがはけるようになったね」とか、「一度、ネクタイをしめてみるか」などと言ってみる。親
どうしが外出したあとも、きちんと家の管理ができていれば、それをほめる。「あんたももう、一
人前ね」と。こうした前向きな指導が、子どもを伸ばす。

 さらにそれができるようになったら、金銭的な自立、生活的な自立をうながす。ひとりで祖父
母の家まで旅をさせる。親どうして、子どもを交換するという方法もある。ただし無理をしないこ
と。無理をすると、夜中に迎えに行くということになりかねない。またこれは私の個人的な経験
だが、こんな方法も効果的である。

 私は思い立ったとき、息子たちを連れてよく、「目的なしの思いつき旅行」に連れていった。行
き先は、その先々で子どもたちと相談して決める。が、いつもうまくいくとは限らない。ある夜な
どは、泊まる宿をさがして、夜中の一時ごろまで、その小さな町をさまよい歩いた。しかしそうい
う旅をするごとに、子どもたちが精神的にたくましくなっていくのを、肌で実感することができた。
結構、お金のかかる旅になるが、子どもの自立をうながすという意味では効果がある。


●『深い川は静かに流れる』

 『深い川は静かに流れる』は、イギリスの格言。日本でも、『浅瀬に仇(あだ)波』という。つまり
思慮深い人は、静か。反対にそうでない人は、何かにつけてギャーギャーと騒ぎやすいという
意味。

 子どももそうで、その子どもが思慮深いかどうかは、目を見て判断する。思慮深い子どもの
目は、キラキラと輝き、静かに落ち着いている。会話をしていても、じっと相手を見据えるような
鋭さがある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 私は先日、ある女性代議士の目をテレビで見ていて驚いた。その女性は何かのインタビュー
に答えていたのだが、その視線が空を見たまま、一秒間に数回というようなはやさで、左右、
上下にゆれていたのだ。それはまさに異常な視線だった。その女性代議士は、毒舌家として
有名で、言いたいことをズバズバ言うタイプの人だが、しかしそれは知性から出る言葉というよ
り、もっと別のところから出る言葉ではないのか。私はそれを疑った。これ以上のことはここに
は書けないが、そういうどこかメチャメチャな人ほど、マスコミの世界では受けるらしい。

 が、この時期、親というのは、外見的な派手さだけを見て、子どもを判断する傾向が強い。た
とえば本読みにしても、ペラペラと、それこそ立て板に水のうように読む子どもほど、すばらしい
と評価する。しかし実際には、読みの深い子どもほど、一ページ読むごとに、挿絵を見たりし
て、考え込む様子を見せる。読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。

 これも子どもをみるとき、よく誤解されるが、「情報や知識の量」と、「思考力」は、別。まったく
別。モノ知りだから、頭のよい子どもということにはならない。子どもの頭のよさは、どれだけ考
える力があるかで判断する。同じように、反応がはやく、ペラペラと軽いことをしゃべるから、頭
のよい子どもということにはならない。むしろこのタイプの子どもは、思考力が浅く、考えること
そのものから逃げてしまう。何か、パズルのような問題を与えてみると、それがわかる。考える
前に、適当な答をつぎからつぎへと口にする。そして最後は、「わからない」「できない」「もう、
いや」とか言い出す。

 その「考える力」は、習慣によって生まれる。子どもが何かを考える様子を見せたら、できる
だけそっとしておく。そして何か新しい考えを口にしたら、「すばらしいわね」「おもしろいね」と、
それを前向きに引き出す。そういう姿勢が、子どもの考える力を伸ばす。


●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

○教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちてい
ませんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小
五)は、あたりをさがし始めた。しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで
私が、「忘れたら忘れたで、最初からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、
「そんなことはありません!」と。そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、とき
おり、あたりをさがすマネをしてみせる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たし
かにここに置きました!」と。
○A君(小三男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそ
れを渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫ん
だ。が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出し
た。それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな
顔をして見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。
○R子(小六)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と
言ったときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ
野郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない
状態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目
をしていた。

こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみる。
何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱ったり、
注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。たとえばシ
ャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆがめていた。B
君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見られる症状で
ある。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ父親から性的虐待を受けていた、など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。「おいで」と手を広げてあげると、
そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子どもを観察してみてほしい。何人か子
どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。もしあなたの子どもの行動や言動
が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなたの子育てのし方そのものを反省し
てみる。子どもではない。あなた自身の、だ。
(02−10−20)※


●質素を旨(むね)とする
 『見せる質素、見せぬぜいたく』という格言を考えた。子どもには、質素な生活は、どんどん見
せる。しかしぜいたくは、するとしても、子どものいないところで、また子どもの見えないところで
する。子どもというのは、一度、ぜいたくを覚えると、あともどりできない。だから、子どもにはぜ
いたくを、経験させない。

 質素とケチは、よく誤解される。質素であることイコール、貧乏ということでもない。質素という
のは、つつましく生活をすることをいう。身のまわりにあるものを大切に使いながら、ムダをで
きるだけはぶく。古いカーテンを利用して、枕カバーを作ったり、古いイスを修理して、子どもの
イスに作りかえたりする、など。そういう「工夫」のある生活をいう。

 人間関係もそうで、冠婚葬祭のような、はでな交際を「ぜいたく」とするなら、近所の人と、も
のを分けあって食べるような生活は、「質素」ということになる。要するに、こまやかな心が通い
あう生活を、質素な生活という。


●うしろ姿を押し売りしない
 生活のためや、子育てのために苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では、うしろ
姿を子どもに見せることを美徳のように考えている人がいるが、これは美徳でも何でもない。
子どもというのは、親が見せるつもりはなくても、親のうしろ姿を見てしまうかもしれないが、し
かしそれでも、親は親として、子どもの前では、毅然(きぜん)として生きる。そういう前向きの
姿が、子どもに安心感を与え、子どもを伸ばす。

 中には、うしろ姿を押し売りするだけでなく、さらに子どもに恩を着せる人がいる。「産んでや
った」「育ててやった」「大学を出してやった」と。このタイプの親は、依存心の強い、つまりは自
立できない親とみる。子育ての第一目標は、子どもを自立させること。親が自立しないで、どう
して子どもが自立できるのか。そういう意味でも、子どもには、親のうしろ姿は、見せない。


●死は厳粛に
 死があるから、生の大切さがわかる。死の恐怖があるから、生きる喜びがわかる。人の死の
悲しみがあるから、人が生きていることを喜ぶ。どんな宗教でも、死を教えの柱におく。その反
射的効果として、「生」を大切にするためである。

 子どもの教育においても、またそうで、子どもに生きることの大切さを教えたかったら、それ
がたとえペットの死であっても、死は厳粛にあつかう。もしあなたが、ペットが死んだようなとき、
それをゴミのようにあつかえば、あなたの子どもは、生きることそのものも、ゴミのようにあつか
うようになるかもしれない。しかしあなたが、その死をいたみ、悲しめば、あなたの子どもは、そ
ういうあなたの姿から、生きることの大切さを学ぶようになるかもしれない。ここで「……しれな
い」と書くのは、あくまでもそうするかどうかは、子どもの問題ということ。しかし子どもがどう判
断するにせよ、その大前提として、子どもの前では、死は厳粛にあつかう。


●一喜一憂しない
 子育ての度量の大きさは、(たて)X(横)X(高さ)で決まる。(たて)というのは、その人の住む
世界の大きさ。(横)というのは、人間的なハバ。(高さ)というのは、どこまで子どもを許し、忘
れるかという、その深さのこと。

 (たて)については、親の住む世界は、大きければ大きいほどよい。大きな目標をもち、多く
の人と接する。趣味を多くもち、交際範囲も広くする。
 (横)については、たとえば川のハバにたとえるとよい。人間的なハバの広い親は、一喜一憂
しない。そうでない親はそうでない。たとえばとなりの子どもが英語教室へ入ったと知ると、「さ
あ、たいへん」とばかり、自分の子どもも英語教室へ入れたりする。

 (高さ)というのは、つまるところ、親の愛の深さということになる。どこまで子どもを許し、どこ
まで子どもを忘れるかで、親の愛の深さは決まる。もちろんだからといって、子どもに好き勝手
なことをさせろということではない。要するに、あるがままの子どもを、どこまで受け入れること
ができるかということ。


●「今」を大切に
 過去なんてものは、どこにもない。未来なんてものも、どこにもない。あるのは、「今」という現
実。だからいつまでも過去を引きずるのも、また未来のために、「今」を犠牲にするのも、正しく
ない。「今」を大切に、「今」という時の中で、最大限、自分のできることを、懸命にがんばる。明
日は、その結果として、必ずやってくる。

 だからといって、記憶としての過去を否定するものではない。また何かの目標に向かって努
力することを否定するものでもない。しかし大切なのは、「今」という現実の中で、自分を光り輝
かせて生きていくこと。たとえば子どもについても、幼稚園教育は小学校へ入学するため、小
学校教育は中学校へ入学するために、さらに高校教育は大学へ入学するためにあるのでは
ない。こうした未来のために、いつも現在を犠牲にする生き方をしていると、いつまでたっても、
「今」という時を、自分のものにできなくなってしまう。

 それではいけない。子どもは、小学生のときは小学生として、中学生のときは中学生として、
精一杯、自分を輝かせて生きる。そこに子どもの生きる価値がある。それともあなたは、今、
豊かな老後のために生きているとでもいうのか。しかし、そうは問屋がおろさない。老人に近づ
けば近づくほど、健康があやしくなる。頭の回転も鈍くなる。「やっと楽になったと思ったら、人
生も終わっていた」と。もしそうなれば、何のための人生だったか、わからなくなってしまう。だ
から、「今」を大切に。「今」という時のなかで、自分を完全に燃焼させながら生きる。繰りかえ
すが、明日は、その結果として、必ず、やってくる。


●『休息を求めて疲れる』
 イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。つまり「い
つか楽になろう、楽になろうとがんばっているうちに、疲れてしまい、結局は何もできなくなる」と
いうこと。

 私も昔、商社に勤めていたころ、帰りには、大阪の阪急電車に乗っていた。しかしあの電車。
長い通路を歩いていると、発車ベルが鳴るしくみになっていた。そこであわてて走り出し、電車
に飛び乗るのだが、しかしそうして乗った電車には空席がなかった。で、ある日、私は気がつ
いた。一つだけ、つぎの電車を待てば、座席に座ることができる、と。時間にすれば、たったの
一五分である。

 今でも、多くの人は、毎日、毎日、あわてて電車に乗るような生活をしている。早く家に帰って
休息したいと思ってそうするが、しかし電車に飛び乗るために、最後のエネルギーを使いはた
してしまう。疲れてしまう。そして何もできなくなってしまう。しかしほんの少し考え方を変えれ
ば、あなたの生活はみちがえるほど、豊かになる。方法は簡単。あなたも一五分だけ、時間を
あとにずらせばよい。


●生きる源流を大切に
 「子どもがここに生きている」という源流に視点をおくと、子育てにまつわるあらゆる問題は、
解決する。

 私は、三人の息子のうち、あやうく二人の息子を、海でなくしかけたことがある。とくに二男が
助かったのは、奇跡中の奇跡だった。だからそのあと、二男に何か問題が起きるたびに、私
は「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、すべての問題を解決することができ
た。不登校を繰りかえしたときも、受験勉強を放棄したときも、「いいよ、いいよ、お前は生きて
いるだけで」と。そういうおおらかさが、かえって、二男を伸びやかにし、また一方で、親子のパ
イプを太くした。

 あなたももし、子育てをしていて、行きづまりを感じたら、この源流から、子どもを見てみると
よい。それですべての問題は解決する。


●モノより思い出
 イギリスの格言に、『子どもには、釣りザオを買ってあげるより、いっしょに魚釣りに行け』とい
うのがある。子どもの心をつかみたかったら、そうする。

 親は、よく、「高価なものを買い与えたから、子どもは感謝しているはず」とか、「子どもがほし
いものを買い与えたから、親子のパイプは太くなったはず」と考える。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは逆効果。子どもは一時的には、親に感謝するかもしれないが、あくまでも一時的。
物欲をモノで満たすことになれた子どもは、さらにその物欲をエスカレートさせる。小学生のこ
ろは、一〇〇〇円、二〇〇〇円で満足していた子どもも、中学生、高校生になると、一〇万
円、二〇万円、さらに大学生ともなると、一〇〇万円、二〇〇万円のものを買い与えないと、
満足しなくなる。あなたにそれだけの財力があるなら、話しは別だが、そうでないなら、やめた
ほうがよい。

 どこかの自動車会社のコマーシャルに、『モノより思い出』というのがあった。それは子育て
で、まさに核心をついた言葉ということになる。(ただし、息子に自動車を買ってあげたからとい
って、パイプが太くなるとはかぎらない。念のため。)


●よき友になる
 よく、「親は子どもの友か、いなか」という議論がなされる。しかしこういう議論、そのものが、
ナンセンス。友であって、どうして悪いのか。いけないのか。友でないとするなら、親は、いった
い何なのか。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。昔、オーストラリアの友人が教えてくれたことだが、日
本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし横を歩くのが苦手?

 そうでなくても、上下関係のある人間関係からは、良好な人間関係は、生まれない。親子関
係も、つきつめれば、人間関係。「親だから……」「親子だから……」「子どもだから……」とい
う、「ダカラ論」で、人間関係をしばってはいけない。

 総じてみれば、子育てじょうずな親というのは、いつも子どもの横を歩いている。子どもも伸び
やか。表情も明るい。だから……。あなたも「親だから……」と気負う必要はない。気楽に、子
どもといっしょに、もう一度、少年少女期を楽しむつもりで、人生を楽しめばよい。あなたが気
負えば気負うほど、あなたも疲れるが、子どもも疲れる。そしてそれが親子の間に、ミゾをつく
る。


●先輩をもつ
 あなたの近くに、あなたの子どもより、一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、多少、無理
をしてでも、その人と仲よくする。その人に相談することで、あなたのたいていの悩みは、解消
する。「無理をしてでも」というのは、「月謝を払うつもりで」ということ。相手にとっては、あまりメ
リットはないのだから、これは当然といえば、当然。が、それだけではない。あなたの子どもも、
その人の子どもの影響を受けて、伸びる。

 子育ては、まさに経験がモノを言う。何かあなたの子どものことで問題が起きたら、相談して
みたらよい。たいてい「うちも、こんなことがありましたよ」というような話で、解決する。


●子どもの先生は、子ども
あなたの近くに、あなたの子どもより一〜三歳年上の子どもをもつ人がいたら、その人と仲よく
したらよい。あなたの子どもは、その子どもと遊ぶことにより、すばらしく伸びる。この世界に
は、『子どもの先生は、子ども』という、大鉄則がある。

 私もときどき、子ども(生徒)を、わざと、数歳年上のクラスに入れて、自習させてみることが
ある。「好きな勉強をすればいい」というような指導のし方をする。この方法で数か月も自習さ
せると、子どもに勉強グセができる。上の子どもを見習うためである。子ども自身も、同じ仲間
という意識で見るため、抵抗がない。また、こと「勉強」ということになると、一、二年、先を見な
がら、勉強するということは、それなりに重要である。


●指示は具体的に
 子どもに与える指示は、具体的に。たとえば「あと片づけしなさい」と言っても、子どもには、あ
まり意味がない。そういうときは、「おもちゃは、一つですよ」と言う。「友だちと仲よくするのです
よ」というのも、そうだ。そういうときは、「これを、○○君に渡してね。きっと、○○君は喜ぶわ
よ」と言う。学校で先生の話をよく聞いてほしいときは、「先生の話をよく聞くのですよ」ではな
く、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話をしたか、あとでママに話してね」と言う。

 昔、側溝(ドブ)で遊ぶ子ども(幼児)がいた。母親が何度叱っても、効果がなかった。そこで
ある日、母親は、トイレの排水が、どこをどう流れて、その下水溝へ流れていくかを、歩きなが
ら説明した。とたん、その子どもは、下水溝で遊ぶのをやめたという。


●友を責めるな(中日新聞発表済み)
 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。
 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。


●仕事に誇りを
 あなたが母親なら、子どもの前ではいつも、父親(夫)の仕事をたたえる。ほめる。「あなたの
お父さんは、すばらしい仕事をしているのよ」「私は、お父さんを尊敬しているのよ」「お父さんし
か、その仕事はできないのよ」と。まちがっても、あなたは父親(夫)の仕事を批判したり、けな
してはいけない。これは家庭教育の、大原則。それが世間一般の基準からしても、だ。(世間
一般の基準など、気にしてはいけない。)

 ある母親は、自分の息子に、「お父さんの仕事は汚(きたな)いから、いやね」といつも言って
いた。父親の仕事は、井戸掘り職人だった。何かにつけて、家の中が汚(よご)れた。それをそ
の母親は嫌った。また別の母親は、娘に対して、いつもこう言っていた。「あんたのお父さん
は、会社の倉庫番よ。ただの倉庫番」と。しかしそういうことを言ったところで、それが何になる
のか? 言う必要もないし、言ったところで、マイナスになることはあっても、プラスになること
は、何もない。それだけではない。子どもはやがて、父親はもちろんのこと、母親の指示にも、
従わなくなる。

 親は親として、自分の仕事に誇りをもち、前向きに生きる。そういう姿勢が、子どもに安心感
を与え、子どもを伸ばす。

++++++++++++++++++++++
これに関連して、中日新聞掲載記事から
++++++++++++++++++++++

おとななんかに、なりたくない」・未来を脅さない

 赤ちゃんがえりという、よく知られた現象が、幼児の世界にある。下の子どもが生まれたこと
により、上の子どもが赤ちゃんぽくなる現象をいう。急におもらしを始めたり、ネチネチとしたも
のの言い方になる、哺乳ビンでミルクをほしがるなど。定期的に発熱症状を訴えることもある。
原因は、本能的な嫉妬心による。つまり下の子どもに向けられた愛情や関心をもう一度とり戻
そうと、子どもは、赤ちゃんらしいかわいさを演出するわけだが、「本能的」であるため、叱って
も意味がない。

 これとよく似た現象が、小学生の高学年にもよく見られる。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえ
り、である。先日も一人の男児(小五)が、ボロボロになったマンガを、大切そうにカバンの中か
ら取り出して読んでいたので、「何だ?」と声をかけると、こう言った。「どうせダメだと言うんで
チョ。ダメだと言うんでチョ」と。

 原因は成長することに恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。この男児のばあい
も、日常的に父親にこう脅されていた。「中学校の受験勉強はきびしいぞ。毎日、五、六時間、
勉強をしなければならないぞ」「中学校の先生は、こわいぞ。言うことを聞かないと、殴られる
ぞ」と。こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 ふつう上の子どものはげしい受験勉強を見ていると、下の子どもは、その恐怖心からか、お
となになることを拒絶するようになる。実際、小学校の五、六年生児でみると、ほとんどの子ど
もは、「(勉強がきびしいから)中学生になりたくない」と答える。そしてそれがひどくなると、ここ
でいうような幼児がえりを起こすようになる。

 話は少しそれるが、こんなこともあった。ある母親が私のところへやってきて、こう言った。「う
ちの息子(高二)が家業である歯科技工士の道を、どうしても継ぎたがらなくて、困っています」
と。それで「どうしたらよいか」と。そこでその高校生に会って話を聞くと、その子どもはこう言っ
た。「あんな歯医者にペコペコする仕事はいやだ。それにうちのおやじは、仕事が終わると、
『疲れた、疲れた』と言う」と。そこで私はその母親に、こうアドバイスした。「子どもの前では、家
業はすばらしい、楽しいと言いましょう」と。結果的に今、その子どもは歯科技工士をしている
ので、私のアドバイスは、それなりに効果があったということになる。さて本論。

 子どもの未来を脅してはいけない。「小学校では宿題をしないと、廊下に立たされる」「小学校
では一〇、数えるうちに服を着ないと、先生に叱られる」などと、子どもを脅すのはタブー。子ど
もが一度、未来に不安を感ずるようになると、それがその先、ずっと、子どものものの考え方
の基本になる。そして最悪のばあいには、おとなになっても、社会人になることそのものを拒絶
するようになる。事実、今、おとなになりきれない成人(?)が急増している。二〇歳をすぎて
も、幼児マンガをよみふけり、社会に同化できず、家の中に引きこもるなど。要は子どもが幼
児のときから、未来を脅さない。この一語に尽きる。

+++++++++++++++++++++


●逃げ場を大切に
 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるもの
をすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、
ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出
は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)

 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。

 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。

 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。


●守護霊にならない
 昔、『砂場の守護霊』という言葉があった。今でも、ときどき使われる。子どもたちが砂場で遊
んでいるとき、その背後で、守護霊よろしく、子どもたちを見守る親の姿をもじったものだ。

 もちろん幼い子どもは、親の保護が必要である。しかし親は、守護霊になってはいけない。た
とえば……。
 子どもどうしが何かトラブルを起こすと、サーッとやってきて、それを制したり、仲裁したりする
など。こういう姿勢が日常化すると、子どもは自立できない子どもになってしまう。できれば、親
は親どうしで勝手なことをしたらよい。

 ……と書きつつ、こうした親どうしの世界にも、一定のルールがあるという。たとえば母親たち
にも序列があって、その母親たちがすわるベンチの位置、場所も、決まっているという。さらに
服装、マナーまで。ある母親がそれを話してくれたが、何とも息苦しい世界に思えた。

 それはともかくも、子どもの世界のことは子どもに任せる。そういうニヒリズムが、子どもを自
立させる。


●同居は、出産前に
ずいぶんと前だが、「好かれるおじいちゃん、おばあちゃん」というテーマで、アンケート調査を
してみた。結果わかったことは、@子どもの教育に口を出さない、A健康であることがわかっ
た。ついでにした調査では、こんなこともわかった。

 「祖父母との同居をどう思うか」という質問だったが、総じてみれば、子どもが生まれる前から
同居した例では、「うまくいっている」。しかし子どもが生まれたあと同居した例では、「うまくいっ
ていない」だった。そんなわけで、祖父母と同居するにしても、子どもが生まれる前から同居し
たほうがよい。

 なお、子どもをはさんでの、嫁と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との争いは、この世界ではよくあ
る。相談も多い。そういうときは、別居もしくは離婚が考えられないようであれば、母親(嫁)が
あきらめて、舅、姑に迎合するのがよい。そして母親は母親で、勝手なことをすればよい。「お
ばあちゃんたちがいらしてくださるから、本当に助かります」と。

 おじいちゃん子、おばあちゃん子にも、たしかにいろいろ問題はある。あるが、全体としてみ
れば、マイナーな問題。デメリットよりも、メリットのほうが多い。だから「あきらめる」。もちろん
そうでなければ、別居もしくは離婚を考える。しかしこれは、最終手段。


●許して忘れる
 『許して忘れる』の子育て論は、はやし浩司のオリジナルの持論。今では、あちこちで言われ
るようになった。うれしいことだ。

++++++++++++++++++++++
もう、一〇年近く前に書いた原稿を転載します。
中日新聞に掲載済み
++++++++++++++++++++++

生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、
「生きていてくれるだけでいい」と思いなおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解
決するから不思議である。特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校
を繰り返した。あるいは中学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女
房も少なからずあわてたが、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切
ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおす
ようにする。朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なこと
をし、自分は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何
でもない生活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それがで
きたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、
「as you like」と英語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばら
しい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。
が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++++++

代償的愛(雑誌「ファミリス」に書いた原稿から転載)


●三種類の愛
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的な愛、それに真の愛である。
本能的な愛というのは、若い男性が女性の裸を見たときに感ずるような愛をいう。たとえば母
親は赤ん坊の泣き声を聞くと、いたたまれないほどのいとおしさを感ずる。それが本能的な愛
で、その愛があるからこそ親は子どもを育てる。もしその愛がなければ、人類はとっくの昔に滅
亡していたことになる。

つぎに代償的な愛というのは、自分の心のすき間を埋めるために子どもを愛することをいう。
一方的な思い込みで、相手を追いかけまわすような、ストーカー的な愛を思い浮かべればよ
い。相手のことは考えない、もともとは身勝手な愛。子どもの受験競争に狂奔する親も、同じよ
うに考えてよい。「子どものため」と言いながら、結局は親のエゴを子どもに押しつけているだ
け。

●子どもは許して忘れる
三つ目に真の愛というのは、子どもを子どもとしてではなく、一人の人格をもった人間と意識し
たとき感ずる愛をいう。その愛の深さは子どもをどこまで許し、そして忘れるかで決まる。英語
では『Forgive & Forget(許して忘れる)』という。つまりどんなに子どものできが悪くても、また
子どもに問題があっても、自分のこととして受け入れてしまう。その度量の広さこそが、まさに
真の愛ということになる。

それはさておき、このうち本能的な愛や代償的な愛に溺れた状態を、溺愛という。たいていは
親側に情緒的な未熟性や精神的な問題があって、そこへ夫への満たされない愛、家庭不和、
騒動、家庭への不満、あるいは子どもの事故や病気などが引き金となって、親は子どもを溺愛
するようになる。

++++++++++++++++++++++++


●管理・規則は家庭教育の敵
 イギリスの格言に、『無能な教師ほど、規則を好む』というのがある。これをもじると、『無能な
親ほど、規則を好む』ということになる(失礼!)

 家族にはいろいろな役割がある。助けあい、励ましあい、わかりあい、教えあい、守りあい、
いやしあうなど。そのどの一つをとっても、管理や規則は、その役割を、そこなうことになる。つ
まり子どもの側からみて、思う存分、心を休めることができるから家庭という。

 ……こう書くと、子どもは管理されるべきだし、規則があってもいのではと反論する人がい
る。しかし、それでも、管理や規則は、必要最小限にとどめる。たとえば子どもの門限につい
て。

 「外出はいいが、夜、一〇時まで」と決めている家庭は多い。しかいこのばあいでも、大切な
のは、親子の信頼関係。一応「一〇時」とは決めていても、たまには、一〇時を過ぎるときもあ
る。そのとき親子の信頼関係があれば、「どうしたの?」「ごめん!」ですむ。しかしその信頼関
係がないと、「約束が守れないのか!」「うるさい!」の大げんかになってしまう。むしろ問題な
のは、信頼関係がないまま、子どもの行動をしばるために、管理や規則を強化すること。そう
なれば、ますます信頼関係は崩壊する。

 が、それだけではない。

 子どもに何か問題が起きると、親は、その状態を「最悪」と思うかもしれない。しかしその最悪
の下には、さらに二番底、三番底がある。(門限を破る)→(外泊する)→(家出をする)と、対処
のし方をまちがえると、子どもはあとは、坂をころげ落ちるかのようにして、つぎつぎと落ちてい
く。そうならないためにも、管理や規則を問題にする前に、まず信頼関係を築く。もちろん家族
の絆(きずな)を守るための管理や規則は、問題ない。たとえば「誕生日のプレゼントは買った
ものはダメ」「借りたものは、必ず、返す」「小遣いは、一か月○千円」など。

+++++++++++++++++++++++++
これに関して、以前書いた原稿(中日新聞発表ずみ)を
ここに転載します。
++++++++++++++++++++++++++

親が子どもを叱るとき 

●「出て行け」は、ほうび
 日本では親は、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け」と言う。しかしアメリカでは、
「部屋から出るな」と言う。もしアメリカの子どもが、「出て行け」と言われたら、彼らは喜んで家
から出て行く。「出て行け」は、彼らにしてみれば、バツではなく、ほうびなのだ。

 一方、こんな話もある。私がブラジルのサンパウロで聞いた話だ。日本からの移民は、仲間
どうしが集まり、集団で行動する。その傾向がたいへん強い。リトル東京(日本人街)が、その
よい例だ。この日本人とは対照的に、ドイツからの移民は、単独で行動する。人里離れたへき
地でも、平気で暮らす、と。

●皆で渡ればこわくない
 この二つの話、つまり子どもに与えるバツと日本人の集団性は、その水面下で互いにつなが
っている。日本人は、集団からはずれることを嫌う。だから「出て行け」は、バツとなる。一方、
欧米人は、束縛からの解放を自由ととらえる。自由を奪われることが、彼らにしてみればバツ
なのだ。集団性についても、あのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒険」の著者)はこう書い
ている。『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。つまり「皆と
違ったことをするのが、自由」と。

●変わる日本人
 一方、日本では昔から、『長いものには巻かれろ』と言う。『皆で渡ればこわくない』とも言う。
そのためか子どもが不登校を起こしただけで、親は半狂乱になる。集団からはずれるというの
は、日本人にとっては、恐怖以外の何ものでもない。この違いは、日本の歴史に深く根ざして
いる。日本人はその身分制度の中で、画一性を強要された。農民は農民らしく、町民は町民ら
しく、と。それだけではない。

日本独特の家制度が、個人の自由な活動を制限した。戸籍から追い出された者は、無宿者と
なり、社会からも排斥された。要するにこの日本では、個人が一人で生きるのを許さないし、そ
ういう仕組みもない。しかし今、それが大きく変わろうとしている。若者たちが、「組織」にそれほ
ど魅力を感じなくなってきている。イタリア人の友人が、こんなメールを送ってくれた。「ローマへ
来る日本人は、今、二つに分けることができる。一つは、旗を立てて集団で来る日本人。年配
者が多い。もう一つは、単独で行動する若者たち。茶パツが多い」と。

●ふえるフリーターたち
 たとえばそういう変化は、フリーター志望の若者がふえているというところにも表れている。日
本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%
もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。
「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前
のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない(※)。これはまさに
「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そ
のものが、今、着実に変わろうとしている。

 さて今、あなたの子どもに「出て行け」と言ったら、あなたの子どもはそれを喜ぶだろうか。そ
れとも一昔前の子どものように、「入れてくれ!」と、玄関の前で泣きじゃくるだろうか。ほんの
少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。

※……首都圏の高校生を対象にした日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によると、
 卒業後の進路をフリーターとした高校生……一二%
 就職                ……三四%
 専門学校              ……二八%
 大学・短大             ……二二%

 また将来の進路については、「将来、フリーターになるかもしれない」と思っている生徒は、全
体の二三%。約四人に一人がフリーター志向をもっているのがわかった。その理由としては、
 就職、進学断念型          ……三三%
 目的追求型             ……二三%
 自由志向型             ……一五%、だそうだ。

●フリーター撲滅論まで……
 こうしたフリーター志望の若者がふえたことについて、「フリーターは社会的に不利である」こ
とを理由に、フリーター反対論者も多い。「フリーター撲滅論」を展開している高校の校長すら
いる。しかし不利か不利でないかは、社会体制の不備によるものであって、個人の責任ではな
い。実情に合わせて、社会のあり方そのものを変えていく必要があるのではないだろうか。い
つまでも「まともな仕事論」にこだわっている限り、日本の社会は変わらない。