はやし浩司

不況時代の子育て論
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はやし浩司

不況時代の子育て論


たくましい子ども

 子どものたくましさは、危機的な状況においてみるとわかる。A君(年長児)は、両親が急用で
実家へ帰るときになったときのこと。簡単な食事の用意、戸じまりはもちろんのこと、四歳にな
る妹の世話まですべて一人でやりこなした。そのつど母親が実家から電話をして、あれこれ指
示したというが、母親はこう言って笑った。「やらせればできるもんですね」と。こういう子どもを
「たくましい子ども」という。
 そのたくましさ。「子どもは使えば使うほど、たくましくなる」と覚えておく。家事でも何でも、子
どもにさせる。中に、「子どもに楽をさせるのが、親の愛」と考えている人がいるが、これは誤
解。こんな子ども(年中児)がいた。帰りの時刻になっても、机の上のものを片づけようともしな
い。そこで身ぶり手ぶりで、片づけるよう指示したのだが、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。「片づける」という意味すら、わからないようだった。が、その日は運の悪いことに、母親が
その子どもを迎えにきていた。母親は子どもの泣き声を聞きつけると教室の中へ飛び込んで
きた。そしてていねいだが、すご味のある声でこう言った。「どうして、うちの子を泣かすのです
か!」と。

自我とたくましさ

 「私は私」というものの考え方を「自我」という。教える側からすると、自我の強い子どもは、
「つかみどころ」がはっきりしている。「この子どもはこういう子どもだ」という輪郭(りんかく)のこ
とだと思えばよい。反対に自我の弱い子どもは、そのつかみどころがない。「何を考えているか
わからない子ども」ということになる。ものの考え方が、優柔不断で、グズグズした感じになる。
フロイドの自我論はよく知られているが、それを子どもにあてはめると、次のようになる。

(参考)フロイト(1856〜1939、オーストリアの心理学者)は、自我の強弱によって、人の様
子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめた表が、次のものである。

自我が強い子ども

●ものごとに攻撃的になり、積極的になる。「やる」「やりたい」という言葉が、子どもの口からよ
く出てくる。
●現実感が強く、ものの考え方が現実的になる。頼れるのは自分だけというような考え方をす
る。
●将来に向かって、創造的な趣味が多くなる。たとえば「お金をためて楽器を買う。その楽器で
コンクールに出る」「友だちの誕生日のプレゼント用に、船の模型を作る」など。
●ほしいものがある。目の前にはお金がある。こういうときセルフコントロールができ、自分の
行為にブレーキをかけることができる。自制心が強く、そのお金には手を出さない。

自我の弱い子ども
●ものごとに防衛的になり。消極的になる。「いやだ」「つまらない」という言葉が多くなる。
●ものの考え方が非現実的になり、空想や神秘的なものにあこがれや期待を抱いたりするよ
うになる。
●一時的な快楽を求める傾向が強くなり、趣味も退行的かつ非生産的になる。たとえば意味も
ないカードやおもちゃをたくさん集める、など。もらった小遣いも、すぐ使ってしまう。
●衝動性が強くなり、ほしいものに対して、ブレーキをかけられなくなる。盗んだお金で、ほしい
ものを買っても、欲望を満足させたという喜びのほうが強く、悪いことをしたという意識が生まれ
ない。

自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理現
象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神分析)な
ど。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。
 
 その自我は、「育てる」という視点からではなく、「引き出す」という視点で考える。どんな子ど
もも、生まれながらにして、その自我は平等に備わっている。つまり子どもというのは、あるべ
き環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。反対に、親の過干渉、過関心が
続くと、その自我はつぶれる。

自己主張(自我)とわがまま

 よく誤解されるが、自己主張(自我)とわがままは違う。自己主張にはそれを主張するだけの
理由がある。しかしわがままには、ない。たとえば「お兄ちゃんは、この前、○○を買ってもらっ
たのに、どうしてぼくはだめなのか」と言うのは、自己主張。「あれがほしい、これがほしい」と泣
き叫ぶのは、わがままということになる。一般に自己主張には、ていねいに耳を傾けてあげ
る。わがままは無視するという方法で、対処する。

がんばる力

 よく「うちの子はサッカーだと一日中している。忍耐力はあるはずだ」と言う人がいる。しかし
そういうのは忍耐力とは言わない。子どもの場合(おとなもそうだが)、いやなことをする力のこ
とを忍耐力という。たとえばあなたの子どもに、台所の生ゴミを手で始末させてみてほしい。そ
のときそれをいやがらずにすれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。
 この忍耐力のある子どもは、学習面でも伸びる。もともと「勉強」には、ある種の苦痛がつき
もの。その苦痛を乗り越える力が、忍耐力ということになる。
 その忍耐力をつけるためには、子どもは、幼いうちから使う。できれば「乳児のときから使
う」。……と、講演会の席などで話すと、親は驚く。「乳児のときから……!」と。その通り。子育
てのリズムは、実は子どもが乳児のときから始まる。もっと正確には、子どもを妊娠したときか
ら始まる。ある母親は、子どもを妊娠したとき、胎教とか何とか言って、クラシック音楽を聞か
せた。その子どもが生まれると、時間に正確にミルクを与えた。そして子どもが四歳になると、
音楽教室と英会話教室へ通わせた。この母親に共通するのは、「何でも子どもが望む前に与
える」というリズムである。一度このリズムができると、そのリズムを変えるのは容易ではない。

子どものうしろを歩く

 あなたの子どもがヨチヨチ歩きをし始めたころのことを思い出してほしい。そのときあなたは、
@子どもの前を手を引きながら歩いていた。A子どもの手を握りながら、子どもの横を歩いて
いた。B子どものうしろを、子どもをガードするように歩いていた。
 どのケースであるにせよ、それがあなたの子育てのリズムとみる。@のタイプに親は、何ごと
につけ権威主義的で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と言う。そして子どものこと
を何でも先に決めてしまう。おけいこごとでも、何でもだ。しかしその裏で、子どもの心があなた
から離れ始めているのに気づかない。最初は小さな亀裂だが、その亀裂はやがて大きくなる。
そして断絶へ……と。
 英語国では、親子でもこんな会話をしている。父親「お前はパパに何をしてほしいのか」、子
ども「では、パパは、ぼくに何をしてほしいの」と。こういう謙虚な気持ちが、互いの心を開く。
 もしあなたが@のような親だったなら、今日からでも遅くはない。子どものうしろを歩く要領
で、子どもの心を確かめながら子育てをしてみてほしい。たったそれだけのことだが、あなたは
親子の断絶を防ぐことができる。

リズムと自立

 子育ての目標は、子どもを「よき家庭人として、自立させる」こと。そこであなたのテスト。
 あなたの子ども(小学三年生くらい)が、寝る前になって突然、「明日の宿題をやっていない」
と言ったとする。そのとき、あなたは@、子どもを起こして、一緒に宿題をすませてあげる。A、
「宿題をやっていないのは、あなたが悪い。明日、学校で叱られてきなさい」と言って、そのまま
寝させる。
 これは両極端なケースで、その中間ということもある。しかしもしあなたがAのような親である
なら、あなたは子どもの自立を考えた子育てをしていることになる。「自立」とは、自らが立つと
いうこと。つまり、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるということ。一見冷たい子育て
に見えるかもしれないが、子どもを自立させるということは、自分で責任をとらせるということ。
が、もし@のようであれば、これまた一見、子ども思いのやさしい親に見えるかもしれないが、
こういう子育て観(リズム)は、子どもから自立心を奪う。それだけではない。そういう甘さの間
げきをぬって、子どもがドラ息子、ドラ娘化する危険性もある。

子育て自由論

 子どもは自由にして育てる。自由とは、もともと「自らに由る」という意味。そしてその内容は、
自分で考えさせ、自分で行動させ、自分で責任をとらせるということ。特に三番目の「自分で責
任をとらせる」ということが大切。こんな親がいた。
 その子ども(中三男児)が、万引きをして補導されたときのこと。その母親は、「進学にさしつ
かえる」ということで、その夜のうちにあちこちを走り回り、事件そのものをもみ消してしまった。
その子どもがそのあと、ますますドラ息子化したことは言うまでもない。
 子どもを自由にする時期は、できるだけ早い時期がよい。乳幼児のとこからでも、早過ぎると
いうことはない。たとえばミルクでも、子どもが泣いてから与える、など。そういう姿勢が、子ども
をたくましくする。

あと片づけと、あと始末

 日本人の習性のようなものだが、日本人は、あと片づけにはうるさいが、あと始末には甘い。
たとえば冷蔵庫から牛乳パックを取り出して飲んだとする。そのときそのパックをまた冷蔵庫
へ戻せば、それでよし。しかしそのままにしておくようであれば、あと始末のできない子どもとみ
る。
 数年前だが、アメリカ人の友人が私にこう言った。「ヒロシ、日本の子どもたちは一〇〇%、
スポイルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子」という意味である。そこで私が、
「では君は、一体、子どものどういうところをみてそう思うのか」と聞くと、こう話してくれた。
 「ときどきホームスティさせてやるのだが、料理の手伝いをしない。食後も、食器洗いを手伝
わない。シャワーを浴びても、アワを流さない。朝起きても、ベッドをなおさない。何もしないの
だよ」と。
 一方、欧米では、あと片づけについては、親はそれほどうるさく言わない。反対に、あと始末
にはうるさい。かなり突っ張ったような子どもでも、食後は食器をシンクへ運び、それを自分で
洗ったりしている。反対にこの日本では、「勉強する」「宿題がある」と言えば、子どもはすべて
を免除される。親、「スキヤキの焼き豆腐がないから、スーパーで買ってきて」、子、「勉強があ
る」、親、「じゃあ、いいわ」と。

よき家庭人思想

 日本ではことあるごとに、学校の先生はこう言う。「立派な社会人になってくれ」「社会で役立
つ人になれ」と。一方、アメリカやオーストラリアでは、こう言う。「よき家庭人にんれ」と。「よき
市民になれ」と言うときもある。フランス人に確かめたら、フランスでもそうだそうだ。ドイツでも
そうだそうだ。私はこうした違いから、日本人の子育てを、出世主義。欧米の子育てを、家族主
義と呼んでいる。もちろん彼らにそういう主義があるわけではない。それが彼らにしてみれば、
常識なのだ。
 何でもないような違いだが、この違いは大きい。日本の出世主義は、日本独特の上下意識、
さらには権威主義とからみついている。そしてそれが全体として学歴信仰や学校神話と結びつ
いている。一方、たとえばアメリカ人にしても、日本でいうような学歴社会はない。大学にして
も、入学後の学部変更は自由だし、大学から大学への転籍すらほぼ自由化されている。学校
にしても、九七年度だけでも、いわゆる家庭で勉強する「ホームスクーラー」が、一〇〇万人を
超えた。二〇〇一年末には、二〇〇万人になるだろうと言われている。「LIF(自由に学ぶ)」と
いう組織も、できている。こうした違いの背景にあるのが、ここでいう家族主義である。子どもの
ときから、アメリカの子どもたちは、「よき家庭人として自立する」ことを徹底的に叩き込まれて
いる。だから大学生にしても、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければなら
ないほど、少ない。どこの大学へ入るかよりも、どこからどの程度の奨学金を得るかのほう
が、彼らにしてみれば重要なのだ。「大学へ行くのは、その道のプロになるため」という意識も、
そこから生まれる。

一芸論

 子どもの才能は作るものではない。見つけるもの。S君(年長児)は、父親が新車を買ったと
き、その車についているスイッチに、たいへん興味をもった。そこで父親がパソコンを買い与え
ると、案の定S君は、そのパソコンにのめり込んでいった。小学三年生のときにはベーシック言
語を。中一のときには、C言語をマスターしてしまった。今は、大手のコンピュータソフト会社
で、プログラムの分析技師をしている。
またB子さんは、歩くよりも先に、風呂の中で泳ぐことを覚えた。そこで母親が水泳教室に入れ
てみたところ、まさに水を得た魚のように泳ぎ始めた。このB子さんは、そののち、中学三年の
ときには、水泳の全国大会にまで出場するようになった。
 こうした例は多い。が、この一芸には、もう一つの意味がある。中に、「勉強一本」という子ど
もがいる。しかしこのタイプの子どもは、一度つまずくと、それこそ坂をころげ落ちるように、成
績がさがる。そういうときのために、というわけではないが、子どもには一芸をもたせるとよい。
その一芸が子どもを側面から支える。

一芸論(2)

 ここでいう一芸といっても、それは集団の中で「光るもの」でなければならない。カード集めを
しているとか、ゲームをうまくできるというのは一芸ではない。モデルガンをたくさんもっていると
いうのも、一芸ではない。一芸というのは、努力と才能によって、前向きに伸びていくものをい
う。
 この一芸を見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。この思い切りのよさが、子どもの一
芸を伸ばす。

プロ型社会の到来

 日本のバブル経済が崩壊したとき、同時に日本の「エリート神話」も、崩壊した。Y証券の倒
産劇の中で、社長が、「みんな、私が悪いのです」と泣いてみせたのが、それを象徴している。
私たちが学生時代には、大企業の社長がマスコミの前で大泣きするなどということは、考えら
れなかった。また就職先にしても、都会の大企業へ就職できたのは「出世組」。そうでないの
は、「失敗組」と考えられていた。
 五年ほど前だが、私にこう言った男(六八歳)がいた。「君は、学生運動か何かをしていて、ど
うせロクな仕事にはつけなかったのだろう」と。私が「幼児教育を開いています」と言ったときの
ことである。こうした職業観は、日本人が共通してもっていたものであり、それが一方で日本の
教育をゆがめてきた。
 が、これからはもうそういう時代ではない。日本以外の先進国では、学生たちは、その道のプ
ロになるために勉強している。大学生たちも、そういう意識をしっかりともっている。日本もやが
てそうなるだろうし、またそうしなければならない。権威者が、力もないまま、いばったり、権力
を振り回すような時代は、もう終わったのだ。
 
プロを認める社会

 プロ型社会では、当然のことながら、プロであることが正当に評価されねばならない。が、と
いうことは同時に、私たちの意識もプロ化しなければならない。言うなれば、「互いに力のなさ
をなぐさめあうような甘い社会」からの脱皮をするということ。今までの日本の社会は、あまりに
も、「ムラ」的であった。(このムラ意識は日本のよさだと主張する人もいるにはいるが、もしそ
うなら、「国際化」などという言葉は使わないことだ。それともアフリカの原住民のように、東洋
の島国でひっそりと、静かに暮らすということか。)
 そういう意味では、きびしい世界がやってくる。それは覚悟しなければならない。話はそれた
が、ここでいう一芸論は、そういうプロ型社会の到来を予想したものである。


(以下、続く……)