はやし浩司

子育て狂騒曲
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                                         はやし浩司
親バカたちの子育て狂騒曲

          何ともおどろおどろしいタイトルですが、
             あなたの子どもを守るためと許してほしい。


はじめに

「バカ」という言葉には、当然ですが、独特のヒビキがあります。
ふつうは使わない言葉です。使ってはいけない言葉です。
しかも本を買ってくださる方に向かって、「バカ!」とは……?
で、これまた当然のことながら、私はこのタイトルに、
ずいぶんと悩みました。苦しみました。
「ああ、これで私もおしまい」と。
しかしここであえて「バカ」という言葉を使ったのは
あなたという親をバカにしたからではありません。
世の親たちをバカだと思ったからでもありません。
私はあえてこの言葉を使いながら、
あなたにあなたの子育ての問題点をわかってほしかったからです。
そしてその結果として、あなたの子育てを
よりよくしてほしかったからです。
この本の中にはたくさんの親バカが登場しますが、しかしそれは、
そういう人たちを笑うためでも、また非難するためでもありません。
それは、子育てにまつわる問題の本質をえぐり出すためです。
で、「親バカ」という言葉を本文の中で使うのはここで最後。
以後本文の中には、いっさい、この不謹慎で
失礼な言葉はありません。
安心してこの本をお読みください。では……、



部屋の中はまるでクモの巣みたい!
砂糖は白い麻薬(失敗危険度★★)

●独特の動き
 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。
原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(ア
メリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。
●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、四月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。
 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、一〇〇〜一二〇グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そ
こで私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。
●禁断症状と愚鈍性
 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症
状に似た症状があらわれることがある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったの
で、「砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚
いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。
何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだ
け。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか……」と。
●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよ
い。効果がなくてもダメもと。砂糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程
度でみちがえるほど静かに落ち着く。
●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品
を遠ざけることはできない。
●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。
●U君の後日談
 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。
U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。子どもの食生活を安易に考えてはいけない。



給食もレストラン感覚で!
非常識が常識(失敗危険度★★★)

●「足の裏をみるのですかア」
 「最近の母親たちは、バッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医師が怒っていた。
が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてください」と言うと、今度はスリッパをはかせ
たままベッドの上に……! そこで看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母
親は、「足の裏をみるのですかア?」と。
●最近の親たち
 こういう非常識な母親は少なくない。最近だと幼稚園へ見学にきても、「入園させていただけ
ますか?」と聞く親はまずいない。当然入園できるという前提で、幼稚園へやってくる。中には
幼稚園へやってきて、思う存分遊具で子どもを遊ばせたあと、体験学習だの、さらには給食の
試食までしていく親がいるという。帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうします
か?」と聞くと、「もう二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな経験が
ある。
●「一回休みましたから」
 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずかだったが、別
に講座費(月額三〇〇〇円)をとっていた。が、それがよくなかった。五月の連休が重なって、
その子ども(年中女児)のクラスだけが、月三回になってしまった。それについて、その母親か
ら、「補講してほしい」と。しかしたまたま月三回になったのは、私の責任ではない。そこで「補
講はし考えていません」と答えると、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「月四回
ということで、講座費を払っている。三回しかしないというのは、サギだ。ついては、お前をサギ
罪で訴える」と。市内で歯科医師をしている父親からの電話だった。
 あるいは同じころ、たまたま月一回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)がいた。よくある
ことだが、あとでみると、講座費がちょうど四分の三の、二二五〇円になっていた。いや、その
ときはそれに気づかず、「お金が足りませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。
「一回休みましたから」と。
●給食もレストラン感覚で
 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園で講演をさせて
もらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。「今では、昼の給食もレストラン感覚
で出してやらないと親は納得しないのですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞く
と、「とんでもない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。
 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常識で、何が非常
識なのか、それさえわからなくなってきている。



子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?
 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。
 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにこんなことも書い
てあった。
●遊園地で子どもを迷子にさせろ?
 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。
●子どもにはナイフをもたせろ?
 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、この評論家は自説をひっこめて
しまった。当然だ。しかし証拠は残った。その文章は、日本を代表するM新聞社の小冊子の中
に載っている。その小冊子は今も私の手元にある。
●ゴーストライターの書いた本
 もう一人、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家がいた。もともとは中
学校の教師だったという。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強
に対する姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児
の気持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強
への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイの
ような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、
必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわ
かった」「その人の人格を知るためには、耳のうしろを見ればわかる。耳のうしろのきれいな人
は、人格もすぐれている」と。たまたま私が仕事をしていたK社でも、彼の本を出した担当者が
いたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。
●専用のゴーストライター
 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのK社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。
●タレント教授の錬金術
 「タレント先生」と呼ばれる人たちは、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れ
る。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字や事例を適当に変えて、自
分の原稿にする。そして本にする。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこの
タイプのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。
 冒頭にあげた教授がそうした手法で本を出しているかどうかは知らないが、こうした常識ハズ
レな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこんだときのこと、編
集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、こう言った。「アノ…
…、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もちろん私は
それを断った。
が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊並
んでいた。手にとってパラパラと読んでみたが、文章といい、体裁といい、とても八〇歳を過ぎ
た老人が書いたものとは思えなかった。私はしばらく立ち読みをしながら、「ああ、あのときの
本だな」と思った。
●インチキと断言してもよい
 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識になっている。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるし
くみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引
用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣
習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日
本人自身にある。
●私の反論
 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。
 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。
 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかないキズを子どもの心に残す。子どもはそれがきっかけで分離不
安にさえなるかもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくる
もの。こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!
 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして
考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなた
はどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。
 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずがない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。
●批判力をもたない母親たち
 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。それが本
当の問題なのだ。



やめるということは、クビ切りだ!
去り際の美学(失敗危険度★)

●リセット症候群
 この世の中、人との出会いは、意外と簡単。その気になれば、それこそ掃いて捨てるほど
(失礼!)できる。携帯電話やインターネットの普及が、その背景にある。しかし問題は別れる
ときだ。別れるときに、その人の真価がためされる。
 もっとも今は、その別れ方も電子化している。ちょうどパソコンのスイッチを消すかのように、
まったくゼロに戻して別れる。こういった別れ方を「リセット症候群」と呼ぶ人もいる。別れ方そ
のものが、サバサバしている。たとえば卒業式にしても、昔は皆が泣いた。先生も生徒も、そし
て親たちも泣いた。しかし今はそれがすっかりさま変わりした。
 もっともドライといえばドライなのが、ブラジルからやってきた日系人家族だそうだ(K小学校
校長談)。ある日突然学校へやってきて子どもを入学させる。そしてある日突然、同じようにい
なくなる、と。日本人もドライになったとはいえ、まだそこまでドライではない。ないが、それに近
い状態になりつつある。
●「怒りで手が震えたよ」
 私と二〇年来の友人に、学習塾を経営しているF君がいる。ちょうど同じ年齢で、あれこれ情
報をもらっている。そのF君は温厚な人物だが、そんなF君でも、しばしば憤まんやるかたなしと
いったふうにメールを送ってくることがある。いわく、「月末の最後の最後の授業が終わって、さ
ようならとあいさつをしたとたん、生徒から紙切れを渡された。見ると、『今日でやめます』と母
親の字でメモ書き。怒りで手が震えたよ」と。
 この世界の外の人にはわからないかもしれないが、「やめる」という話は、塾の教師にとって
は、クビ切り以外の何ものでもない。そういう話をメモですまそうとする母親たちの神経が、F君
には理解できない。生まじめな男だけに、ショックも大きいのだろう。いや、私にも似たような経
験はあるが、しかしこの世界はそういうものと割り切ってつきあっている。いちいち目くじらを立
てていたら、こちらの神経がもたない。F君もそう言っているが、しかしこちら側にもこちら側の
やり方がある。F君のばあいは、そういうふうにやめた生徒は、一切、アフターケアはしないと
いう。それはまさに人間関係のリセット。ゼロにする。F君はこう言う。「メールがこようが、電話
がかかってこようが、そういったものには一切、答えない」と。
●皆はどうなのか?
 ……と考えて、ふと今、医院を経営するドクターたちのことが頭を横切った。考えてみればド
クターたちも、同じ立場ではないか。患者である私たちは、必要なときに医院へ行き、必要でな
ければ、たとえ「また来い」と言われていても、行かない。あのドクターたちは、私のような患者
のことをどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。もっと
もドクターと塾の教師は、立場がまったく違う。ドクターは、その身分や収入がしっかりと公的に
保証されている。しかし塾の教師はそうでない。
……と考えて、今度は理容店を経営するいとこのことを思い浮かべた。客とはいいながら、そ
の客ほど、浮気な客はいない。毎月定期的に来るともかぎらないし、メモどころか、何も連絡し
ないまま、別の店に乗りかえていくことだってある。いくらそれまでていねいに散髪していたとし
ても、だ。そのいとこは、そういう客をどう思うのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気
なのだろうか。
●塾は人間関係で決まる
 考えてみれば、塾の教師たちがどう感じようとも、子どもを塾へやるというのは、親たちから
すれば、医院や理容店へ足を運ぶようなものかもしれない。「入るのも親の自由。やめるのも
親の自由」と。となると、F君のように、怒るほうがおかしいということになる。が、教育は病気や
商売とは違う。どこか違う。
 いくら「塾」といっても、そこは教師と生徒の人間関係で成りたつ。この「関係」があるため、医
院や理容店とは、違って当然。また「やめる」という感覚が、これまた違って当然。いやいやそ
ういうふうに「違う」と思うこと自体、手前ミソかもしれない。医院のドクターだって怒っているかも
しれない。理容店のいとこだって怒っているかもしれない。怒っていても、皆、平静を装っている
だけかもしれない。
●非常識な別れ方
 で、非常識な別れ方を列挙してみる。私の経験から……。
 私に、「今度、BW(私の幼児教室)から、K式幼児教室に移ろうと思いますが、先生、あのK
式幼児教室をどう思いますか?」と聞いてきた母親がいた。私ははじめ、冗談を言っているの
かと思ったが、その母親は本気だった。
 別の教室にすでに入会届けを出したあと、(そういう情報はあらゆるところからすぐ入ってくる
が……)、私に「先生、来月からどうしたらよいか、一度相談にのってくださいな」と言ってきた
母親がいた。
 「私は息子に、何度もBW(私の教室名)をやめるように言っているのですが、どうしてもいや
だと言っています。先生のほうからもやめるように言ってくださいませんか」と電話で言ってきた
母親もいた。
 反対にある日突然、道路ですれ違いざま、「今週でBWをやめます」と言っておきながら、そ
の一週間後、また電話がかかってきて、「今日からまた行きますから」と言ってきた母親もい
た。
●美しく別れる
 こうした母親たちからは、私は神様に見えるらしい。喜んでいいのか悪いのか……? どん
なことをしても、また言っても、私は許すと思っているらしい。しかし私とて、生身の人間。生き
る誇りも高い。だからこうした母親たちとは、その後、交友を再開したということはない。(だか
らこうしてここに書いているのだが……。)またこれから先も、何らかのかかわりをもつというこ
ともない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)
 何ともきわどいことを書いてしまったが、こと子どもの教育については、いかに美しく別れるか
について、親はもう少し慎重であってもよいのではないか。塾のみならず、今では学校教育そ
のものが自動販売機になりつつある。「お金を入れれば、だれでも買える」と。しかしこうしたド
ライな見方は、結局は教育そのものまでドライにする。そしてそれは結局は、子ども自身をドラ
イにし、人間関係までドライにする。そうなればなったで、結局は、子ども自身が何か大切なも
のを失うことになる。



あんたはそれでも日本人ですかア!
アルツハイマー病(失敗危険度★)

●アルツハイマー病という病気
 アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆症)という恐ろしい病気がある。近年、急速にその
原因が究明されてきて、その治療薬もどんどん進歩している。だから以前ほど深刻に考える人
は少ないかもしれない。しかし恐ろしい病気であることには違いない。
 そのアルツハイマー病の初期症状は、記憶力低下、被害妄想、短気、人格の変化などだそ
うだ(東京慈恵会医科大学・笠原洋勇氏)。が、その初期症状の、そのまた初期症状というの
もあるそうだ。たとえばがんこになり、融通がきかなくなる。自己中心的になり、自分が絶対正
しいと思う。繊細さが消えて、ズケズケとものを言う、など。アルツハイマー病になる人はともか
くも、(案外、本人はハッピーな気持ちかもしれないが)、その周囲の人が迷惑をする。いや、
家族はそれなりに納得してつきあうが、そのまた周囲というか、親しくもないが、他人とも言えな
い人たちが迷惑をする。たとえば学校の先生。ふつうの迷惑ではない。ズケズケとものを言う
のは、本人の勝手だが、言われたほうはたまらない。Jさん(四五歳)という母親がいた。
●飛躍する論理
 ある日Jさん(四〇歳女性)が、血相を変えて私の事務所へやってきた。そしてこう言った。
「私、頭にきたから、三〇年来の友人と今度、絶交した」と。よほどのことがあったのだろうと思
って理由を聞くと、こう言った。「Uさんは日本人のくせに、エトロフ島はロシアの領土だと言うの
よ。許せない」と。私はとっさに「そんなことで!」と思ったが、つづけてJさんは、「エトロフ島に
は、アイヌ民族の墓があるのよ。日本人の祖先でしょ」と。
 論理がどんどんと飛躍していって、つかみどころがない。が、私が「まあ、どうでもいい問題で
すね」と言うと、今度は私に向かって、「先生、あんたはあちこちで講演なさっているということで
すが、それでも日本人ですかア!」と食ってかかってきた。私は「人にはそれぞれ違った考え方
があるから、それはそれとして尊重してあげればいい」という意味でそう言った。が、それにつ
いても、「先生は、自由の意味をはき違えている!」と。
●発症率は五%
 問題は発症率だが、四〇歳前後で発症し始め、五%前後というのが通説になっている。五%
といえば、二〇人に一人ということになる。それに四〇歳前後といえば、ちょうど子どもが中学
生くらいになった年齢に相当する。ということは、仮に三〇人クラスで計算すると、親の数は六
〇人。何と一クラスに、三人はそういう症状をもった親がいるということになる。
実際、このタイプの親にからまれると、かなりタフな神経をもっている教師でも、かなりキズつ
く。ある中学教師は、父母懇談会の席で、ある母親に、「あんたのような教師が教師をしている
と、日本が滅ぶ」と言われたという。「最近の子どもたちが荒れるのは、先祖を粗末にする教師
がふえたからだ。学力がさがったのも、そこに原因がある。あなたにも責任をとってほしい」と
も。
●私の経験から
 このタイプの母親は(父親もそうだが、私は職業上、圧倒的に母親に接する機会のほうが多
いので、父親のケースは、ほとんど知らない。またことアルツハイマー病についていうなら、女
性の発症率は男性の三〜四倍だそうだ)、どこか心がかよいあわないといった感じになる。こ
ちらが親密な話をしようとしても、うわの空。何か質問をしても、不自然で、ぶっきらぼうな反応
しかない。
 私「夏休みには、どこかへ行くのですか?」、母「夫の稼ぎしだいですわ」、私「計画は…
…?」、母「計画なんてものはね、破るためにつくるものでしょ。あんた先生なのに、そんなこと
もわからないの!」、私「しかし一応、ご予定があるでしょう?」、母「夫が心筋梗塞か何かで倒
れるとかね。ははは」と。
●突然解雇!
 そんなある日、一人の女性教師から電話がかかってきた。何でも突然クビを切られたという
のだ。話を聞くと、庭で園児を指導していると、園長が突然やってきて、「あんたは来週から、も
うこの園にはこなくていい」と言われたという。その教師は興奮してそのときの状況を話してくれ
た。よほど悔しかったのだろう。自分の方からいかに、その幼稚園に貢献したかを、あれこれ
話してくれた。
しかしこういう解雇のし方は、労働基準法に照らすまでもなく不当である。で、私もそのことが気
になって、別の幼稚園の園長に電話をかけ、その女性教師の勤める幼稚園の園長の様子を
聞くことにした。が、電話をかけると、その園長はこう教えてくれた。「あの、D幼稚園のD園長
ね、あの園長、最近少し様子がおかしいですよ。まともに相手にしてはいけません」と。そういう
こともある。
●それでもやけどする
 もっともこういう仕事を三〇年以上もしていると、問題のある母親は、直感的にかぎ分けるこ
とができる。昔から『さわらぬ神にたたりなし』というが、かかわらないことこそ賢明。ただ淡々
と、事務的に会って別れる。へたに首をつっこむと、それこそおおやけどをする。……と言いつ
つ、そのおおやけどをすることが多い。
●印象に残ったSさん
 私がSさん(四二歳女性)をおかしいと最初に思ったのは、私がトイレから出たときのことだ。
Sさんはトイレのドアの外で立って私を待っていた。まだ洗った手から水がポタポタと落ち、トイ
レの中の臭いが体にまとわりついているような状態だった。私なら人を待つとしても、そういうと
ころでは待たない。相手が当惑することが、簡単に予想できるからだ。が、Sさんは、そのトイ
レのドアのところで私を待っていた。そして「このワークでいいか」と聞いてきた。「子どもに与え
るワークは、これでいいか」ということだった。私は「そんなことで!」と思いながら、Sさんをすぐ
別の部屋に招いたが、そのとき感じた不快感は、Sさんと別れるまでずっと消えなかった。
●奇怪な行動
 そのSさん。大病院の精神科の医師を夫にもっていたが、それ以後、信じられないような奇
異な行動が目だった。あとでこの話を別の友人に話すと、「まさかア」と絶句してしまったが、た
とえば……。
事務所でひとりで待たせておいたりすると、インスタントコーヒーなどを盗んでもって帰ってしまう
のである。それも封を切ったようなコーヒーをである。あるいは懇談会の席で、「Gさんのダンナ
さんは、この前飲酒運転をして、警察に逮捕されたんですってね」とか言ったりしたこともある。
この事件のときは、さすがのGさんも激怒して、裁判ザタになる寸前まで、話がこじれた。
 が、こういうSさんのような母親が、父母会などに出てくると、それこそ話がめちゃめちゃにな
ってしまう。それはさておき、そのSさんは無数の「Sさん語録」を私に残してくれた。
●Sさん語録
○子どもは一人。多くて二人。三人以上はダ作。日本人の平均的給与でカバーできるのは、
二人まで。三人以上は、国が預かるようにすればよい。
○コンピュータ教育は人間をダメにする。コンピュータに頼れば頼るほど、人間の思考と記憶
は退化する。
○幼児期からしっかり教育すれば、どんな子どもでも東大へ入れる。入れないのは、幼児期の
教育がまちがっているから。
○サッカーは、人間をダメにする。ボールと能力はよく似ている。能力を左右に動かしても、人
間の能力は向上しない。
また政治問題にも詳しく(?)、こんなことも言った。
○韓国や中国の現在の繁栄は、日本のおかげだ。日本が指導したから、今のように繁栄でき
るようになった。韓国や中国は日本の占領に感謝すべきだ。
○アメリカは日本を植民地化しようとしている。一方、日本政府は、アメリカの六〇番目の州に
立候補している。
○日本は満州を占領したが、もともとあの土地には人は住んでいなかった。だから占領しただ
け。だれも文句を言うべきではない。
○太平洋の半分は日本のものだ。アメリカと日本で半分ずつ分けるべきだ。太平洋の中央に
境界線を引けばよい、ほか。
●人格障害
ある時期Sさんは、毎日のように私のところへやってきて、とっぴもない議論をふっかけてき
た。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、逃げ腰になった。が、そういう私の姿勢に対して、
今度は私の悪口を言いふらすようになった。Sさんの友人のTさん(三七歳)はこう言った。
 「Sさんに反論すると、Sさんは苦り虫をつぶしたような顔をして、怒りだします。だからこわく
て反論できません。機嫌をそこねないように、こちらも『そうです、そうです』とだけしか言いよう
がないです」と。
 それからほぼ一五年になるだろうか。聞くところによると、Sさんは自宅のマンションに閉じこ
もったまま、一歩も外へ出てこないという。あれこれトラブルを引き起こすので、夫が外へ出し
たがらないとのこと。どういう病気であるかは断定できないが、しかしおおよその推察はつく。



何をお高くとまってんの!
神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」
 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学し
ていたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親
は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えて
いるか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。
●幼児と教育論?
 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教
室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あ
れこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家
に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?
●「失礼」を知らない母親たち
 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいる。
さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言う
のでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じ
ない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、
それすら口で言うほど簡単なことではない。
●「フン、何をお高くとまってんの!」
 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。
教室といっても、私の教室は内々の実験教室と位置づけている。そのためこの三〇年間、外
の世界で生徒を募集したことはない。紹介のあった人を中心に教えている。それについても、
「紹介? あんたんどこは紹介がないと入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そん
な偉そうなこと言える教室じゃないでしょ」と悪態をついて電話を切った母親もいた。つい先日
もこんなことがあった。
●初対面のときとは別人
 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会
うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言葉づかいだったが、ど
こかインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたあと、私は「返事はあとで」とその場
は逃げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引き受けるわけにはいかない。
で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。
「お前は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったら
どうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありませ
ん」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせ
る!」と怒鳴った。
もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、
その事実に妙に納得した。「うむ……」と。



うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい
 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親か
ら、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もあり
ますから」と言いそうになるときがある。が、それを言ったら、おしまい。
●三割削減
 最近だと、学習内容が全体で三割程度削減されることになった。それについて、「このあたり
には私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校で
は、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男
児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども
だった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではない
のか。そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラス
でも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ること
はない」と。
●親の過剰期待
 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、過剰
期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思
っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やっ
てここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。子どもの学習について、いろいろな誤解が
ある。
 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。
しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそう
いう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、
子どもはますますできなくなる。
 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになると
いう誤解。しかしダビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうよう
に、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。要するに意欲をともな
わない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉
(勉強しているというフリだけをする)、ダラ勉(体をダラダラをもてあます)、ムダ勉(やらなくて
もよいような勉強ばかりする)がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ
腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。
 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算
や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし
計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからとい
って、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなる
と、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力がある
ということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。本の内容はほとんど頭に入っ
ていない。
●一人の母親がやってきた
 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。
私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も
遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断
ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあい
だだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。
●ワークブックがぎっしり!
 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつうJ
社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題
がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。たとえば同じ見
開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右
下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問
題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。
こういうワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワー
クブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものば
かり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、
それも誤解。ワークブックをスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。
●ワークブックが足かせに
 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、@動機づけ、A達成感の二つを大切に
する。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感の
ことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。
 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに
私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚
いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 


昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)

●人間そのものを狂わす
嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しく
ないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を
育てる。が、使い方をまちがえると、人間性そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつ
に加えた。
@まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かな
い。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書か
ねばならないときもある。こんな話だ。
●ライバルの子どもを足蹴り
 H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の
子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であるこ
とをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女
児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれ
となく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうした
の?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しく
そのときの状況を話すことができる。
 その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。
当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、そ
の母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで話にな
らなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。相談してき
た母親の夫は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできな
かったという。
●珍しい話ではない
 嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂
う。これも実話だが、ある母親は同じ団地に住む別の母親の子ども(四歳児)に、チョークをこ
まかく切ったものを、「お菓子よ」と言って食べさせていたという。結局この事件は、証拠があい
まいということで、そのままうやむやになってしまったが、こういう話は、この世界では珍しくな
い。
問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTA
の会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考え
るだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔
母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子ど
もを殺すことまでする……?
 つぎにA虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつも
他人の目の中で、自分を判断する。価値観も相対的なもので、他人より財産があれば、豊かと
感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親には、「飾り」でしかな
い。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そしてその返す刀で、子ど
もに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。
●他人の不幸を喜ぶ親
 このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相
対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三
五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に
会ったりすると、きどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーますね。まあ、
すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。そんなTさんを見て、私はTさんを、てっきりすごい
家柄の母親だとばかり思っていた。そしてこんなことがあった。
 幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという
話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあ
たりをおさえるようにして、こう言った。「ア〜ラ、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆
さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。
 で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でも
Tさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は割安とは言ったものの、当時の平均
的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言えな
かった。
●豪華な着物
 そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内の
レストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声
がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。その
クラスで、浦島太郎をすることになった。が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやら
せたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに
押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物
は、日本舞踊で着るような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、
「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには
昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししますから、いつでも言ってく
ださいね、ホホホ」と。
 Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。
●私はわが目を疑った!
 私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫
人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある
大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう
書くからといって、そういう人がザーます言葉を使うのはおかしいと言っているのではない。誤
解がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたの
だ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それ
を見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそく
さと離れた。
 そしてB母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではない。
この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりのも
のにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。
●子どもは芸術品
 母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりす
ると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。私
が忘れることができない事件にこんなのがあった。。
 M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん
黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、か
ん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世
界に入ってしまう。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番にな
ったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促せ
ば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んでし
まった。
●M君の問題点
 実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の
世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、
「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリを
する。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそ
う考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親は
声を荒げてこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけで
す!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、ほ
かに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。
 じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッ
チして、その場を逃げるのだが、M君の問題点を母親に理解してもらいたかった。それでいつ
もより時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないか
な?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。
●激怒したM君の母親
こういうとき親のほうから、「どうしてうちの子は、何も言わないのでしょうか」という問いかけが
あれば、そのときから指導ができる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかる
が、親自身が子どもの問題点に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いや
りながら、時間が過ぎるのを待った……。が、そのときだった。
M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕
をつかむと、M君をそのまま引きずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっ
という間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけ
は、よく覚えている。
 が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってき
た。「あなたの指導方法はうちの子にあっていない!」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M
君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任だ。ちゃんと話せて
いたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をとっ
てもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁してく
ださい」としか、言いようがなかった。
●自分で行き着くところまで行くしかない
 しかし今でもときどきあのM君を思いだす。そしてこう思う。親というのは、結局自分で行き着
くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。子育てにはそういう面がいつもつ
いて回る。それは子育ての宿命のようなものかもしれない。



自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★)

 年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流
だが、それはそれとしてこの時期は大目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた
文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話
のあと園長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫
った。
 これに宗教がからむと、かなりやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女
児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話。いわく「赤字で名
前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせいですから
ね!」と。またこんなことも。
 ある日、年長児の子どもが、「この前の遠足の日に雨が降ったのは、バチが当ったからだ」と
言った。そこで私が「バチなんてものはないのだよ。それにね、このところの雨不足で、農家の
人は喜んでいるよ」と言った。が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、う
ちの孫に何てことを教えるのだ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しない
でください!」と。その家族はある仏教系の信仰宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。
 クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた母親もい
た。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そのときもそうだった。子ども(小二)が、重い
小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思っていたので、つい気を許して、「お願いします」
と言ったが、それからがたいへんだった。まず箱いっぱいの書籍をもってきた。ついで、そのガ
ンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。しかし、それはまずい。相手の人は、相手の人
で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族に、本当に救えるのならまだしも、宗教をす
すめるのはまずい。しかしその母親にはそれがわからない。私はていねい断ったのだが、こう
言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせっかくのチャンスをムダにした」と。



身のほど知らず(失敗危険度★★★★)

 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親か
ら、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もあり
ますから」と言いそうになるときもあるが、それを言ったら、おしまい。
 最近だと、学習内容が全体で三割程度削減されることになった。それについて、「このあたり
には私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校で
は、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男
児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子ども
だった。そういう子どもの親が三割削減を心配する? むしろ三割削減を喜ぶべきではないの
か。そう言えば、豊橋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラスでも
中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはな
いよ」と。
 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の
過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」
と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、
「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。
 誤解、その一。むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。し
かし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそうい
う無理は長続きしない。(子どもは勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の
中で、子どもはますますできなくなる。
 誤解、その二。勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという
誤解。しかしダビンチも言っているように※、「意欲をともなわない勉強は、身につかない」。実
際には逆効果。子どもは時間つぶしや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一
度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむず
かしくなる。
 誤解、その三。訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢
字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算
力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、
国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年長児ともなると、掛
け算の九九をペラペラとそらで言う子どもがいる。しかしだからといって、その子どもは算数の
力があるということにはならない。



何を考えている!(失敗危険度★★★★)

 どうしようもないドラ息子というのは、たしかにいる。飽食とぜいたく。甘やかしと子どもの言い
なり。これにアンバランスな生活が加わると、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。「アンバランスな
生活」というのは、たとえば極端に甘い父親と極端に甘い母親で、子どもの接し方がチグハグ
な家庭。あるいはガミガミとうるさい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような家庭を
いう。こういう環境が日常化すると、子どもはバランス感覚のない子どもになる。ものの考え方
が突飛もないものになったり、極端になったりする。常識はずれになることも多い。友だちの誕
生日に、虫の死骸を箱につめて送った子ども(小三男児)がいた。先生のコップに殺虫剤を入
れた子ども(中二男子)などがいた。さらにこういう子ども(小三男児)さえいる。学校での授業
のとき、先生にこう言った。
 「くだらねえ授業だなあ。こんなくだらねえ授業はないぜ」と。そして机を足で蹴飛ばしたあと、
「お前、ちゃんと給料、もらってんだろ。だったら、もう少しマシなことを教えナ」と。
 実際にこのタイプの子どもは少なくない。勉強だけはよくできる。頭も悪くない。しかしこのタイ
プの子どもに接すると、問題はどう教えるではなく、どう怒りをおさえるか、だ。学習塾だった
ら、「出て行け!」と子どもを追い出すこともできるが、学校という「場」ではそれもできない。教
師がそれから受けるストレスは相当なものだ。
 が、本当の問題は、母親にある。N君(小四男児)がそうだったので、私がそのことをそれと
なく母親に告げようとしたら、私の話をロクに聞こうともせず、こう言った。「あんたは黙って、息
子の勉強だけをみてくれればいい」と。つまり「余計なことは言うな」と。その母親の夫は、大病
院で内科部長をしていた。
 


神経質になる母親たち(失敗危険度★★)

 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先
生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学し
ていたこともある。まあ、音楽教室の中では、そこそこ評価の高い先生だった。しかしその母親
は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えて
いるか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。
 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教
室の先生は思った。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれこれ
説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に帰っ
て、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?
 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通う
ことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につ
くのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算
数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてくる母親さえいる。さらに「うちの子はBW
(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言うのでよろしく」と言ってき
た母親もいる。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じない。で、私は私で、そ
ういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、それすら口で言うほど簡
単なことではない。
 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと
入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでし
ょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。
 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキ
のなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたという感じだった。会うと父
親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、インギン無礼
というのは、そういう父親をいう。で、一通り話は聞いたが、「返事はあとで」とその場は逃げ
た。で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてき
た。「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといっ
たらどうだ!」と。初対面のときの態度とはうって変わっていた。私が「息子さん能力とは関係
ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れ
てみせる」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから三か月後に、脳内出血でなくなってしまっ
た。私と女房は、妙にその事実に納得した。「やっぱりねえ……」と。



理由なき怒り(失敗危険度★★)

 その母親がどんなメンツにこだわっているか、それは外からではわからない。わからないか
ら失敗もする。しかし今になっても、「どうして?」と首をかしげるような事件もあった。
 ある日のこと。その日はたまたま公開授業の日だった。園長も顔を出していた。で、私は一
通りの授業をほぼ終えたあと、一人の父親に前で助手をしてもらうことにした。その父親は母
親とともに最前列にいた。私はその父親に教材と原稿を渡し、それを子どもたちの前で読んで
もらった。
 その授業はその授業なりに、結構わきあいあいの雰囲気でなされた。その父親は少し照れ
てはいたが、それは当然のことだ。が、その夜から、母親からものスゴイ剣幕の電話。「よくもう
ちの主人に恥をかかせてくれたわね!」と。母親だって一緒に笑っていたはずだ。が、それは
違っていた。それはそれで理解できたので、私は平謝りに謝ったが、その程度では母親の怒り
をしずめることはできなかった。その電話はその夜だけでも、ネチネチと一時間以上もつづい
た。翌日の夜もやはり一時間以上つづいた。三日目になると、さすがに私の女房も電話のベ
ルが鳴るたびに、体を震わせておびえるようになった。が、その三日目は電話はなかった。
が、そのまた翌日から、ほとんど毎日、その母親から電話がかかってきた。
 当時の私はまだ二七歳そこそこ。今ならもう少し賢い言い方で電話をかわしたかもしれない
が、そのときはそうではなかった。私も女房と同じように、電話のベルが鳴るたびに、体を震わ
せてそれにおびえた。
 ……で、今も、なぜあの母親がああまで怒ったのか、私には理解できない。ただそのあと、一
〇年近くもたってからだが、その母親は、今でいうアルツハイマー病になって入退院を繰り返し
たという話を風のたよりに耳にしたことがあるので、あるいはその病気と関係があったのかもし
れない。あるいはそれとは別に、うつ病になっていたのかもしれない。うつ病になると、そういっ
た症状を示すようになる。もっとも今でもその母親がまとも(?)なら、こんな文章はとてもここに
書けない。もし私がこんな文章を書いたのがわかったら、その母親は私を殺しにくるかもしれな
い。私の印象に残っている母親の中でも、最高に恐ろしい母親だったことだけはまちがいな
い。



親の身勝手(失敗危険度★★★★)

 三〇人もいれば、いろいろな生徒がいる。たとえあなたの子どもに問題がないとしても、いる
かいないかと言えば、問題のある子どものほうが多いに決まっている。中には親ですら、手に
負えない子どもすらいる。そういう子どもを三〇人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんど
うをみろ」はない。もっと言えば、あなたという親から見れば、先生とあなたの関係は一対一か
もしれないが、先生のほうから見れば、一対三〇になる。たとえばあなたは「一〇分くらいの相
談ならいいだろう」と思って電話をするかもしれないが、三〇人ともなると、それだけで計五時
間となる。五時間である! が、親にはそれがわからない。どの親も、「私だけだ」と思って行
動する。あるいは自分や自分の子どものことしか考えない。こんなことがあった。
 ある日一人の母親が血相を変えて私の家にやってきた。そしてこう言った。「今日、学校で席
決めのとき、先生が『好きなどうし並んでもよい』と言ったという。ウチの子(小二男児)のよう
に、友だちがいない子どもはどうしたらいいのか。そういう子どもに対する配慮が足りない。こ
れから学校へ抗議に行くので、一緒に行ってほしい」と。もちろん私は断ったが、すべての子ど
もに対して満点の指導など、実際には不可能だ。九〇%の子どもによかれと思ってしても、残
りの一〇%の子どもにはそうでないときもある。たまには自分の子どもが、その一〇%に入る
ときもある。そういうことでいちいち目くじらを立てていたら、学校の先生だって指導ができなく
なる。
 学校や学校の先生に対して完ぺきさを求める親というのは、それだけで依存心の強い人と
みてよい。もし教育は親がするもの、その責任は親がとるものという考えがもう少し徹底すれ
ば、こうした過関心は、少しはやわらぐはず。このタイプの親は、「何とかせよ」と学校や学校の
先生に迫ることはあっても、その責任は自分にあるとは思わない。席決めを問題にした親にし
ても、先生の発言よりも、むしろ子どもに友だちがいないことこそ問題にすべきではないのか。
「なぜ友だちがいないのか?」と。また友だちがいないからといって、それは先生の責任ではな
い。子ども自身が自分で、「ぼくには好きな子がいない」とでも言えば、それはそれでわかる
が、そうでなければ、先生にそこまで把握することは不可能だ。家へ帰ってから子どもが親に、
「ぼくには友だちがいない」と訴えたとしても、それは子ども自身の問題と考えてよい。
 子どものことに関心をもつのは、それはしかたないことだが、しかしそれが過関心になり、こ
まかいことが気になり始めたら、バカママの初期症状と思ったらよい。ほうっておけば、あなた
は育児ノイロ−ゼになって、自らの心を狂わすことになる。



子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★)

 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。
 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものを買い与えることから得る満足感は、おとなが一万円のものを買った
ときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇
円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生に
なれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうで
なければやめたほうがよい。
 が、中にはお金をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは
高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤
解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時
的。子どもはさらに高価なものを求めてくる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも
その朝発売になるゲームソフトを買うために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並ん
でいるというのだ。しかも徹夜で。そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性は
こう答えていた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども
(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)も、こう言っていた。「おばあちゃん、が
んばって。ありがとう」と。
 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、そういった犠牲的精神を孫に押しつけるため
に、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解で
きるかどうか。苦労というのは、同じような苦労をした人だけに理解できる。さらにこんなこと
も。
 何でも今では、七五三の祝いも、会場を借りてする家庭がふえているという。見ると結婚式の
披露宴よろしく、幼い子どもが豪華な衣装に身を包み、壇上に座っていた(テレビ報道)。会費
は一人二万円から三万円(報道)だそうだが、その母親はレポーターの質問に答えてこう言っ
ていた。「家でするよりも楽ですから」「費用も、祝儀をいただきますから、トントンですみます
(差し引きゼロ)」と。
 今では成人式の晴れ着一式は当然のことながら、結婚式の費用、さらには結婚後の生活費
のめんどうまで親がみる時代になった。親としては、「親子のきずな」をそれで深めたいと思
い、多分そうするのだろうが、そういう「思い」の間げきをくぐりぬけて、子どもはドラ息子、ドラ
娘になる。このことについては、別のところで書くとして、少なくともこういう方法では子どもの心
をつかむことはできない。いや、むしろ逆効果!
 イギリスの格言に、『子どもには釣り竿を買ってあげるより、一緒に魚釣りに行け』というのが
ある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、思い出を豊かにせよとい
う意味だが、一度、その意味をじっくりと考えてみてほしい。



学歴に興奮する親たち(失敗危険度★★★★)

 親にしてみれば、自分の子どもは芸術品。それはわかる。だからかなり寛大な親でも、自分
の子どもにケチをつけられると、かなり怒る。私もこんな失敗をしたことがある。
 体重一五キロの子どもが缶ジュースを一本飲むということは、体重六〇キロのおとなが、四
本飲むのに等しい。同じように、子どもがソフトクリームを一個食べるということは、四個食べる
量に等しい。そのときもそうだった。ファーストフードの店で、横に座った子ども(四歳児くらい)
が、自分の顔よりも大きなソフトクリームを食べていた。目と目があったので、私はその子ども
にこう言った。「そんなにたくさん、食べないほうがいいよ」と。とたんその向こうから、母親の金
きり声が飛んできた。「人の子だから、いらんこと言わんでください!」と。
 親というのは、自分で自分の子どもをバカと呼ぶのは平気だが、しかし他人に言われるのを
許さない。それはそうだが、それと同じように、自分の子どもが評価される場に落とされると、
興奮状態になる。嫉妬心や競争心が刺激されるらしい。その一つ、親、とくに母親は、学歴の
話になると、興奮状態になる。これはおもしろい習性(?)だと思う。夫の学歴、自分の学歴、さ
らに子どもの学歴となると、興奮状態になる。なぜそうなのかということは、別として、これをう
まく利用すると、そのまま金儲けにつながる。こんなことがあった。
 ある教育機器メーカーの説明会でのこと。私も興味があったので、招待状をもって、その会
にでかけた。予定では九時三〇分に始まるということだったが、行ってきると、黒板に、「一〇
時から」と書いてあった。そこでしばらく待っていると、うしろのほうからヒソヒソ話が聞こえてき
た。サクラである。主催者の教育機器メーカーが送り込んだサクラである。聞くと、「あなたのご
主人は、どちらの大学ですか?」「あなたのお子さんは、将来、公立、それとも私立?」と。とた
ん、会場の中におかしな緊張感が漂い始めた。しかしそれこそまさに、その会社のねらいであ
る。サクラが、「あの中学はむずかしいそうよ」「進学塾では役にたたないそうよ」と言い出した
……。
 それに拍車をかけるように、一〇時からの説明かでは、ビデオが映し出された。N研が作成
したビデオだが、子どもの受験勉強の様子、受験会場に行く様子、受験しているときの様子、
そして合否発表の様子がつぎつぎと映し出される。意味のないビデオだが、しかし合否発表の
ところでは、受験に落ちて、泣き崩れる母親や子どもの姿が、これでもかこれでもかとつづく。
会場がますます異様な雰囲気になる。しかしそれこそまさにその会社のねらいである。
 やがてその会社の教育機器の説明会が始まったが、ワンセット何一〇万円もする教材が、
飛ぶように売れていったのは、驚いたというより、あきれんばかりの光景だった。まさに親の弱
い心理をたくみについた商法と言える。



占いにこる親たち(失敗危険度★★)

 占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。
だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデ
パートの通路などで、若い女性を相手に占いなどしない。自分で自分を占い、うんとこさお金を
儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の占
い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいな
い。
 (ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれ
から先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれ
は超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができ
るようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。
万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断
名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相
手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と
称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。「あなたの体に乗り移っている悪霊は
悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇二年四月)と。こういうことを平気で口
にすることができる人は、人格の崩壊した人とみてよい。)
 若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占
いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。
 「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
 「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
 「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるとい
うのです」
 「不幸って?」
 「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。
 そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散
る。

 

見え、メンツ、世間体(失敗危険度★★)

 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。
裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。ま
ず見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だからどう
してもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親も苦し
むが、それ以上に、子どもも苦しむ。
 次にメンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も顔を
出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で送り
迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だった
ようだ。また駅の近くで、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。が、こういう
姿勢は子どもの自尊心を傷つける。子どもを卑屈にする。
 最後に世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「どうし
てもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思います
が」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」と。
何とか「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立
場の人間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、無駄。この
タイプの親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中
が自分に注目しているようかのように錯覚している。
 考えてみればドングリの背くらべ。A高校だろうがC高校だろうが、日本というちっぽけな国
の、そのまたちっぽけな町の、序列にすぎない。この地球という惑星にしても、宇宙から見れば
ゴミのような存在ではないか。私の部屋には太陽と地球の模型がかざってある。太陽を直径一
五センチの球にしてみると、地球は、それから約一〇メートルも離れたところにある、直径〇・
五ミリ(一ミリの半分!)の玉にすぎない。にもかかわらずその時期になると、多くの親たちは
子どもの受験戦争に狂奔する。
 しかし一言。学歴にぶらさがって生きている人は、結局はその学歴で苦しむようになる。ある
父親は、ことあるごとに自分の出身高校を自慢していた。「そうそう今度ね、A高校の同窓仲間
と、ゴルフをしましてね」とか。それとなく会話の中に、自分の出身高校名を織り込むわけだ
が、やがて自分の息子(中三)がいよいよ高校受験ということになったときのこと。しかしその子
どもにはその力はなかった。なかったから、その分その親は、見えとメンツの中で、地獄の苦し
みを味わうハメになった。ほとんど毎晩、その父親と息子は、「勉強しろ!」「ウルサイ!」の大
乱闘を繰り返していた。
 この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」とい
う、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうも
ので、一朝一夕には確立できない。