はやし浩司

心のオアシス
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子育てで行き詰まったら……

(1)許して、忘れる、ですよ!
英語では、「Forgive & Forget」と言います。
この単語をよく見てくださいね。
フォ・ギブは、「与える・ため」とも訳せますね。
フォ・ゲッツは、「得る・ため」とも訳せますね。
つまりね、
「許して忘れる」ということは、
「子どもに愛を与えるために許し、
子どもから愛を得るために忘れる」ということ。
もし子育てで、どうしようもない袋小路に入ったら、
この言葉を思いだしてみてください。
心がずっと軽くなりますよ。
約束します。

(2)次に大切なことは、
袋小路から出ようとは思わないこと。
「今の状態」を、これ以上悪くしないことだけを考えながら、
静かに時の流れに身を任せます。
ビートルズも昔、こう歌ったでしょ。
「Let it be!」と。
「なるように任せろ」「あるがまま受け入れろ」ということです。
これはまさに「知恵の言葉」ですね。
「今の状態」を受け入れれば受け入れるほど、
あなたは今の袋小路から抜け出ることができます。
あなたが、「ようし、一つや二つ、私も十字架を背負ってやるぞ」と
思ったとき、また思えるようになったとき、
あなたは今の袋小路から抜け出ることができます。

子育ては、まさに、無数の山越えです。
一つ越えると、またその向こうに次の山がある……。
しかしですよ、こうした山越えをしながら、
親は、子どもを産んだ親から、
真の親へと、成長していくのです。
いいですか、親が子どもを育てるのではないですよ。
子どもが、親を育てるのです。
それに気がつけば、もうあなたはこわいものがないはず。
勇気を出して、前に進んでください。
どんな小さな山でも、登ってみると、意外と遠くが見えるもの。
そしてそのとき自分を振り返ってみると、
それまでの自分が、いかに小さく、
狭い世界で右往左往していたかが、わかるはずです。
必ずそういう日がきますよ。
必ずそういう状態になりますよ。
それを信じて、前に進んでください。
心からあなたを応援します。

はやし浩司




今まで私の本、雑誌、新聞で発表してきた原稿を、
ここに転載します。一部内容が重複しますが、お許しください。
子育てで行き詰ったようなとき、一度読んでみてください。
私の経験というより、私の前を通り過ぎた無数の人たちの
喜びや悲しみ、それに迷いや苦しみを、これらの原稿の中に織り込みました。

子育てのすばらしさ

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓に映る自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚くことがある。先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形ばかりではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰(だれ)のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何物でもない。死はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理なり」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもをよい学校へ入れることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それがわかる。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫(ごう)にわたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらしいことはない。


親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとして、中身がない。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂の穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で。しかもほとんど人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男を助け出すところだった。

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなおすことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したときも、受験勉強を放棄して、作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と思いなおすことで乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリなし。下見てキリなし」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいると、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」と。英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という言葉は、「与えるため」とも訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、そして忘れるかで、親の愛の深さが決まる。許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろという意味ではない。子どもを受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」という原点から見る。そしてそれでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほしい。「許して忘れる」と。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。



ふつうこそ最善内容が先のと少しダブります)

 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づき、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさもまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点など)を見ろ」というのではない。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたいうのだ。私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えることがある。

 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年もしていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したものではないか。



それ以上、何を望むか

 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。

 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。

 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。


子育ての目標(上の原稿と一部ダブります)
 
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。


子どもを信ずるということ
 
 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をした。息子「アメリカで就職したい」、私「いいだろ」、息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのこの地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」、私「いいだろ」、息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」、私「いいだろ」と。その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。息子「アメリカ国籍を取る」、私「……日本人をやめる、ということか……」、息子「そう……」、私「……いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。


「今」の価値を忘れない

 未来はあるという。過去はあるという。……しかし、どこにあるのか? 「未来はある」と思っている人も、「過去はある」と思っている人も、もう一度、冷静に考えてみてほしい。どこにあるのか、と。未来にせよ、過去にせよ、それは人間がバーチャルな世界で勝手につくりあげた概念で、実のところ、どこにもない。あるのは「今」という現実のみ。どこまでも、どこまでも「今」という現実のみ。「現在」はあくまでも、いままでの「結果」でしかない。そして未来があるとするなら、それは「現在」の結果でしかない。
 ……とまあ、こんなことを書くと、「はやし浩司は頭がおかしい」と思う人がいるかもしれない。私とて、こう書きながら、そこまで厳格に考えているわけではない。ただ人間は、過去にしばられるのもよくないし、また未来のために今を犠牲にするのもよくないということ。あくまでも「今」を大切にして生きる。どこまでも、どこまでも、「今」を大切にして生きる。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
 一人の子どもがいる。その子どもは、今、懸命に遊んでいる。大切なことは、その子どもが今、懸命に生きているという事実なのだ。一方、こういう子どもがいる。幼稚園児のときは、小学校入学のため、小学校生のときは中学や高校へ入学するため。そして高校生のときは大学へ入学するため。さらに大学生のときは就職するためと、いつも未来(?)のために「今」を犠牲にしている。人生が永遠に保証されるならまだしも、しかしこういう生き方をしていると、いつまでたっても「今」をつかむことができない。気がついたときには、人生が終わっていた……、と。中には自分の子ども(中一男子)に向かって、こんなことを言う親だっている。「あんたを高い月謝を払って、幼稚園児のときから英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と。その子どもがはじめての英語のテストで、悪い成績をとってきたときのことだった。こうしたものの考え方は、どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日本人は、独特の過去観、未来観をもっている。来世、前世思想に代表される、日本独特の仏教観の影響とも考えられる。「空から伊勢神宮の御札が降ってきた。こりゃなんか、ええことがあるぞ。まあ、ええじゃないか」と。
 今には今の価値がある。大切なことは、今というこの時点において、いかに自分を燃焼させて生きるかということ。結果は結果。結果かはあとからついてくる。ついてこなくてもかまわない。今やるべきことを、懸命にすればよい。「今を生きる」というのは、そういうことをいう。


あきらめは悟りの境地

 子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開ける。もともと子育てというのはそういうもの。

 一方、「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。要はどの段階で、親があきらめるかだが、その時期は早ければ早いほどよい。……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)してみるまで、自分が失敗するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。

 要は子どもの限界をどこで知るかということ。それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。

 もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あなたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入○○万円程度の男」と。またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ」「何だ、この点数は!」とあなたを叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近い。

 親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。それで道は開ける。


子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそんな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイをしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてやればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいなあ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たちも、ああだったなあ」と。問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やがてくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 


脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。


母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。