はやし浩司

VIP Room
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はやし浩司

  Welcome to VIP room!
    
 We have honor to share
  time with you in this room!

           Hiroshi Hayashi
 
生きることを、一緒に考えませんか?
  


 ここにいくつかのエッセイを紹介します。
よろしかったら、お読みください。
「生きる」ことについて書いたエッセイです。

「VIP ROOM」などと、大げさな言い方をしましたが、
最新の原稿は、以下のところで読んでいただけます。

どうか、おいでください。(0410記)

はやし浩司のエッセー集



            高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。

 たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。

 「♪その人はどこにいる。私たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」と。それから三十年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。

 「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。

 もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす…。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

 いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわからない。

 さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしかない。あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。

 人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。




               
               生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。

 もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。


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                     常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

 私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。
 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。



運命と生きる希望

●希望をなくしたら死ぬ?●平凡は美徳だが…

  不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。まるで運命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数ヶ月で失敗。半年間ほど自分の持ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。

 そうこうしていたら、今度は妻が重い病気に。検査に行ったら、即入院を命じられた。家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業すると同時に、暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、お金を無心する…。

  二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備軍の一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持ちが、痛いほどよくわかる。昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いていたときのこと。

 私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。するとその友人はこう言った。「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立派な希望だよ」と。

  Y氏はこう言う。「何がまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何もまちがっていない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会という大きな歯車の中で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、Y氏のような人に集中することもある。運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のところでふんばるかどうかということは、その人の意思による。決して運命ではない。

  私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、今言えることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、希望なのだ。私のことだが、不幸が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美徳であり、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生に、どれほどの意味があるというのか。

  私はどうにもならない問題をかかえるたびに、こう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来い。お前なんかにつぶされてたまるか!」と。生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかないのだ。



          
無条件の愛unconditional love

●「私」をなくせば、死もこわくない…?

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由だ」といくら叫んだところで、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか…? その方法はあるのか…? 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら、死の恐怖から、私は自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子が、アメリカ人の女性と結婚することになった。そのときのこと。息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしなっている。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人でなくなる、ということか…」息子「そう」「…いいだろ」と。

私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆるものを、愛し、許し、受け入れるということ。「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文なしの人が、どろぼうを恐れないのと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。



 
    「ぼくは楽しかった」・脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。



すばらしい人たち
二人の知人

●二人の知人

  石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっともすばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすばらしい人を、私は知らない。この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。またそういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることながら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲しい話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人たちということになる。

●自分をさらけ出すということ
 
 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさらけ出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られたくない、醜いものばかり。つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の四タヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。

 元野球監督の妻(脱税で逮捕)、元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、演劇俳優の女性の四人である。

 四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いかにして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがままの自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮がはがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよいかもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんなわけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、どんなに気が楽になるだろうと思う。が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なおって生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれない。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる
 
 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、ときとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するからだ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう二〇年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かある。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしまう。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだけで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そのときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分になろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になるとしたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。

 つまり日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人の人格をつくる。日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもその人の日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれて身を清めるとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする人もいる。私はそれがムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも日々の生活。もっと言えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向かって、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びることができた。もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずである。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということは、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちはまずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしない。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをしない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……

 で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、それには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をすると、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能としてもつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこともあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもできる。大切なことは、その本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な価値観をもった人間になることができる。またならねばならない。

●ワイフの意見
 
 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどうすればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、その誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えていくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ているのに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこうも共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに書いたようなことを知った。
 
S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。
 
 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走する。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度では、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、かっこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれがわかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自尊心はもっている? 

 もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力をする。私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なのか、その境目を知ることは本当にむずかしい。卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかからどこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


これからもみんさんと、生きることを一緒に考えていきます。
どうかご意見、ご希望をお寄せください。