生きる哲学
生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。
もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。
人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。
そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。
人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。
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常識をみがく
常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。
ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。
反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。
私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。
今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。
あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。
「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。
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