はやし浩司

原稿を書きます
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はやし浩司
  子育ての原稿を書きます!  
見本原稿を書かせてください!


マスコミ、新聞社、雑誌社のみなさんへ……

★はやし浩司は、独特の視点から、鋭い評論を書きます。
★はやし浩司は、だれにも負けない、経験数とノウハウをもっています。
★はやし浩司は、読者が望む、硬軟さまざまな文章を書くことができます。
★はやし浩司は、原稿料について、不平不満を述べたことは一度もありません。
★経歴などは、このサイトの「はやし浩司」をご覧ください。

今まで、新聞、雑誌などに、無数の投稿記事や連載記事などを書いてきました。
現在、約500項目のテーマについて、原稿がまとめてあります。
書く機会、発表の機会があれば、どうかご一考ください。
原稿についての姿勢は、下に書いておきました。

得意な分野
いろいろな角度から
教育論を展開してい
ます!
●子育て論
●教育評論
●子育て診断
●子育て評論
●教育論
●世相評論
●育児論
●子育てエッセーなど


では、ご連絡をお待ちしています!


文を書くということ

 文章にはおもしろい側面がある。そのときは「名文だ」と思って書いた文でも、何年後かに読みなおしてみると、「どうしてこんな文を書いたのか?」と思うときがある。内容もさることながら、文そのものがおかしいときもある。

 それはちょうど山登りに似ている。遠くから見ると低い山でも、登ってみると、意外と高い。高いので、結構遠くまで見渡せる。たとえば浜名湖の奥に、舘山寺という温泉街がある。あの温泉街の反対側に大草山という山がある。下から見ると、低い山だ。舘山寺側の遊園地からロープウェィで登ることができるが、あの山にせよ、登ってみると、浜名湖はもちろんのこと、遠くは浜松市まで一望できる。つまり人間というのは、一つの山を登るごとに、その視野を広くする。そして一度自分が広い視野に立つと、それまでの自分が、小さく見える。それが予想以上に小さく見える。よく、「賢い人からは愚かな人がよくわかるが、愚かな人には賢い人がわからない」と言う。それと同じようなことが、文についても言える。へたくそな文を書いているときは、名文というのがどういうものだかわからない。しかし名文(あくまでも自分でそう思っているだけだが……)を書けるようになってくると、へたくそな文がへたくそとわかるようになる。

 これは自分の文についての話だが、他人の文についても同じことが言える。自分の技量があがればあがるほど、へたくそな文がよりへたくそに見えてくる。が、ここで私はハタと考えてしまう。「私の文はどうなのか?」と。私は今、全力とは言わないが、ある程度は真剣にこの文を書いている。私はいつもうぬぼれだけは強いので、この文はこの文なりに、それほどへたくそとは思っていない。しかしそう思うのは、今の実力がその程度だからではないのか。もし私がさらに大きな山に登り、今の文を振り返ってみるようなことがあると、きっと私は今のこの文をへたくそだと思うだろう。さらに私よりはるかに技量のある人から見ると、私の文は、どうしようもないほどへたくそに見えるに違いない。そんなことを考えていると、文そのものが書けなくなってしまう。外に向って発表できなくなってしまう。実際文を発表すると、たいていそのあと後悔する。「ああ書けばよかった」「どうしてこんな文を書いたのだろう」と。自分で満足できる文を書けることなど、めったにない。しかしそこで戸惑っていたら、文は書けないし、発表もできない。たいていは「ええい、ままよ」と、まあ、何というか、大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、清水の舞台から飛び降りるような心境で、文を発表する。またそういう心境にならないと、文は発表できない。

 が、このことは、そのまま文の世界の奥深さを意味する。文そのものというより、その文を支える「思想的な深さ」と言ってもよい。文を書いていると、ときどきキラキラと光る宝石のようなものを発見することがある。それまで知らなかった新しい「真理」と言ってもよい。たいていは偶然に、それが見つかる。しかも私の目を引くほど大きくはない。そこで私はそれまでの文を書くのをやめ、その宝石に集中する。そしてその宝石のまわりを掘り始める。大きな宝石のときもあるし、小さな宝石のときもある。もちろん大きな宝石のときは、喜ぶ。「ヤッター」という思いにかられる。そのときほどうれしいことはない。そして次に私がすることは、その宝石をみがくことだ。具体的には一つの文にしてまとめる。決して楽な作業ではない。頭の中で煙がモヤモヤしているような状態だ。それを文にして吐き出す。いや、なかなか吐き出せないこともある。悶々とした気分が続く。しかしここであきらめてはいけない。何度も書き、そして何度も書きなおす。そしてそれを吐き出す。少し不謹慎な話だが、それは便秘の人が、何日ぶりかにあれを出したときの気分に似ているのではないか。いつか女房がそう言った。事実、頭の中のモヤモヤを吐き出した気分は、実に爽快なものだ。吐き出したとたん、スッキリする。カラリとする。が、それだけではない。気がつくと、自分がまた一つ山に登ったことがわかる。それまでの自分がいかに小さかったかを知る。

 文を書くということは、まさにその繰り返しだが、それがあるから文を書くのをやめられない。私にとって文を書くということは、そういうことだ。

(追記)
 私は文を書くとき、次のことに気をつけている。
@わかりやすい文章を書く。(できるだけ平易な言い方をする。)
A誤解のない文章を書く。(別の意味にとらえられるような表現を避ける。)
B短い文章をリズミカルにつなげる。(読む人が心地よく読めるようにする。)
Cオリジナリティを追求する。(誰かのマエはしない。同じようなことは書かない。)
Dムダなことは書かない。(飾りは入れない。端的にものごとを言いきるようにしている。)
Eありのままを書く。(ウソを書かない。ただしプライバシーに触れることには、注意を払う。)
Fどんな文章も、手を抜かない。(外で発表するときは、いつも真剣勝負で書く。)
 どこかの文豪様が言うようなことを書いたが、あくまでも参考に!




私の原稿

●忙しいときほど……

 原稿を書いているとき、これは私だけの現象なのかもしれないが、かえって忙しいときほど、よい原稿が書ける。昔から、「大工は忙しい大工に頼め」という格言もある。ヒマそうな大工は、それだけ時間をかけてよい仕事をしてくれそうに思うかもしれない。が、実際には、そういう大工ほど、手を抜く。で、私のことだが、たとえば一週間も休みが続いたりすると、その間、何も書けないことがある。反対に、仕事や講演が続き、そういうときに二つ三つの原稿依頼をもらったりすると、かえって緊張感のあるよい原稿が書ける。よく「教育の原稿は、腐らないですからいいですね」と言われる。いつでもその原稿を使えるという意味だ。たとえばニュース性のある原稿だと、場合によっては、発表が数日遅れただけでも、使いものにならなくなる。しかし実際のところ、「腐るものは腐る」。特に私の場合、何かの事件があり、そのことで頭が熱くなていないと、よい原稿は書けない。具体的には現場を離れてしまうと、アイディアそのものが浮かんでこない。よく退職した教職者が、エッセーを書くことがある。教育論の場合は、そういうふうに現場を離れてしまうと、新鮮味が消えてしまう。どこか総花的で、美辞麗句に包まれたような文章になってしまう。著名な教育者にも、そういう人はいくらでもいる。そういう意味で、教育論は子どもたちの顔を見ていないと、よい原稿が書けない。ここで私は「事件」という言葉を使ったが、事件といっても、必ずしも、原稿の内容と関係あることでなくてもよい。虐待についてかかりっきりになっているようなとき、別のところで親子の断絶について書く、など。

●原稿は寝さかす……

 また私の場合、原稿を書いたからといって、すぐには発表しない。しばらくその原稿を手元において、「寝さかす」。私はこれを勝手に「熟成期間」と呼んでいる。ワインの熟成期間のようなものだ。しばらく手元におき、その内容を忘れるほどまでに、寝さかす。その期間は、短くて数か月。長い場合は、半年とか一年。そして再びその原稿を取り出し、それに手を加える。教育論は、どうしても正当性を求められる。その正当性を自分で確かめるためだ。以前、こんな事件があった。事件というほど大げさなものではないかもしれないが、日本でも著名な教育評論家に、O氏という人がいる。名前を出せば誰でも知っている人だ。彼はいつだったか、A新聞系の単行本の中でこう書いている。「子どもには(親は)ナイフをもたせろ。それは親が子どもを信じているというあかしになる」と。とんでもない暴論だが、頭の中だけで教育論を組み立てると、こういうことを平気で書くようになる。その後、しばらくしてから、全国各地で、中学生のナイフによる殺傷事件が多発すると、O氏はこの持論を引っ込めた。引き込めざるをえなかったのだろう。O氏はさらにその後、世間の注目を浴びるような、派手なパフォーマンスを繰り返しているが、それとてどこか常識ハズレなものだ。教育評論をするときは、こういう「常識ハズレ」は危険なことである。親のみならず、日本の進路そのものを、まちがった方向に導きかねない。

●依頼に合わせて、手なおし

 で、私の原稿だが、しかしだからといって、すぐには発表しない。……発表できないというのが正しいかもしれない。こうした地方に住んでいると、原稿依頼というのは、めったにない。あってもそれまでに書いたテーマにそのまま合うのは、めったにない。そこで私はヒマなときには、ただひたすら原稿を書き、その原稿を書きためるという方法をとる。いつかあるかもしれない原稿依頼に、備えるためだ。そして何らかの依頼があれば、そのテーマに沿った原稿を出す。もちろん字数や体裁は、そのとき整える。よく私が原稿を提出すると、「書くのが早いですね」と言う人がいるが、私は早いのではない。すでに用意した原稿の中から、内容が一致するものを選んで出しているだけなのだ。事実、私の手元には、五〇〇作、あるいはそれ以上の原稿が、今の今も眠りつづけている。
 


イラスト見本(はやし浩司のオリジナルのイラストです。)
必要に応じて描かせてもらっています。