はやし浩司

思索(2)
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はやし浩司

子どもの教育費を考える法(学費を安くせよ!)

親が子どもの学費で苦労するとき

●親、貧乏盛り  

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人送ると、月々の仕送りだけで、毎月二七万
円(九九年東京地区私大教職員組合連合調べ、学費含む)(※)。が、それだけではすまな
い。アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に四〇〜五
〇万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常
識。となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! そんなわけで昔は、『子ども
育ち盛り、親、貧乏盛り』と言ったが、今は、『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。大学生を二
人かかえたら、たいての家の家計はパンクする。

●親の負担が大きい日本

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。しかも、だ。日本の対G
NP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。欧米各国が、七〜九%
(スウェーデン九・〇、カナダ八・二、アメリカ六・八)。日本はこの一〇年間、毎年四・五%前後
で推移している(UNESCO調べ)。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比が少ないと
いうことは、それだけ親の負担が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救
済のためだけに、四兆円という大金を使った。それだけのお金があれば、全国二〇〇万人の
大学生に、それぞれ二〇〇万円ずつの奨学金を渡せる!

●もの言わぬ従順な民

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰も文句を言わない。教育というのはそうい
うものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に名
だたるもので、戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的にたたき込まれている。いまだに封
建時代の圧制暴君たちが、美化され、英雄化され、大河ドラマとして放映されている! 日本
のこの後進性は、一体、どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくま
でも個人的利益の追求の場と位置づけている。世間は世間で、「あなたの子どもが得をするの
だから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だから隣人が、子どもの学費で四苦八
苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子ども
をもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、三〇年は遅れている。その意識となると、五〇年は遅
れている。かつてジョン・レノンが日本の税関で身柄を拘束されたとき、彼はこう叫んだ。「こん
なところで、子どもを育てたくない」と。「こんなところ」というのは、日本のことをいう。彼には彼
なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろうが、それからほぼ三〇年。この状態はいま
だに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなとこ
ろで、孫を育てたくない」と。私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれか
ら生まれてくるであろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果
でしかない。

(参考)

※……東京地区私立大学教職員組合連合の調査(一九九九年)によると、関東圏内の三一
の私大に通う大学生のうち、約九三〇〇人の学生について調べたところ、次のようなことがわ
かったという。
親の平均年収             ……一〇三四万円(前年度より二四万円減)
受験費、住居費、学費、仕送りの合計金額 ……三二二万円
子どものために借金した親        ……二八・〇%(自宅外通学のばあい)
親の平均借り入れ額           ……一七六万円
教育費の負担が「たいへん重い」と答えた親……四四・六%
 このため、子どもの学費は、親の年収の三一・八%を占め、平均仕送り額は、一二万一〇〇
〇円。そこから家賃の五万六九〇〇円を差し引くと、自宅外通学生の生活費は六万四〇〇〇
円ということになる(以上一九九八年度)。

(参考)

●かたよった日本の行政予算
 これは二〇〇一年度、静岡県浜松市における予算案だが、それによれば、歳出のうち、土
木費が二五・〇%、民生費が一九・五%、公債費が一二・一%、教育費が一〇・三%、衛生費
が九・四%、以下総務費九・三%、商工費四・五%、となっている。

 教育費が少ないのはともかくも、土木費が二五%(四分の一)というのは、世界的にみても異
常としか言いようがない。家計にたとえるなら、月収五〇万円の人が、毎月、一三万円ものお
金を家や庭の増改築に使っているようなものだ。こうしたいびつな予算配分が、結局は子ども
をもつ親の負担となってはね返ってくることを忘れてはならない。


教育の自由化を考える法(転学、転籍を認めろ!)

教育の自由化を考えるとき

●自由こそが教育を活性化する

 先に私は、「日本の教育制度は三〇年は遅れた。意識は五〇年は遅れた」と書いた。それ
について「憶測でものを書いてもらっては、困る。数字の根拠を示してほしい」と言ってきた人
がいた。それについて……。
 
ドイツでは、小中学校は午前中で終わる。午後一時には、子どもたちは学校から解放されて、
それぞれのクラブに通う。スポーツクラブ、音楽クラブ、芸術クラブ、語学クラブなど。カナダで
は、午後三時半まで子どもたちは学校に拘束されるが、それ以後は、やはり子どもたちはクラ
ブに通う(バンクーバー)。オーストラリアやニュージーランドも、そうだ。さらにアメリカでは、ホ
ームスクール、チャータースクール、さらにはバウチャ(学校券)スクールなど、学校の設立そ
のものが自由化されている。日本で誰かが塾を開くのと同じくらい気軽に、その意思のある人
が学校を設立している。つまり教育の自由化は世界の流れであり、その「自由さ」が、教育をダ
イナミックなものにしている。

●転学、転籍は自由

 が、この程度で驚いてはいけない。アメリカでは大学では、入学後の学部変更は自由。自由
というより、日本でいう学部の概念そのものがない。目的とする学位(これをメジャーという)に
応じて、必要な講座を一講座ずつ「買う」。こうして二年間で、四回メジャーを変えた学生がい
る。四年間で六回メジャーを変えた学生がいる。教える教官も必死なら、学ぶ学生も必死だ。
さらにアメリカでは、大学の転籍すら自由。公立、私立の区別はない。日本で言えば、早稲田
大学で二年間過ごした学生が、三年目から静岡大学で学ぶようなことができる。しかも入学金
だの何だの、そういうめんどうな手続きなしに、即日に転籍できる。勉強しない学生はどんどん
と落第させられる一方、優秀な学生は、より高度な勉強ができる大学へと転籍していく。まだあ
る。単位の交換が、国際間でもなされている。外国の大学へ留学したばあい、そこで得た単位
も有効に認められる。日本でも少しずつだが、実験的にこうした制度を取り入れる大学がふえ
てきた。が、あくまでも「実験的」。

●権限にしがみつく官僚たち

 ……というようなことは、文部科学省の視学官あたりもみんな知っている。しかし教育を自由
化するということは、即、自分たちの立場をあやうくすることになる。権限を弱め、管轄を縮小
することは、そのまま自分たちの不利益につながる。旧文部省だけでも、いわゆる天下り先と
して機能する外郭団体が、一八〇〇団体近くもある。その数は全省庁の中でもダントツに多
い。こうした団体が日本の教育をがんじがらめにしている。一方、日本人は日本人で、国への
依存心がきわめて強い。子どもに何か問題があると、何でもかんでも、「学校で……」と考え
る。さらに隷属意識もある。いまだかって、親のほうから学校に向かって、たとえば、「うちの学
校では中国語を教えてみてほしい」というような要望を出した話など、聞いたことがない。親た
ちは、そして地方の教育者たちですら、上から言われるまま、何の疑問もなく受け入れてしまっ
ている。そしてそういうのが教育だと、思い込んでいる。……思い込まされている。

●二〇五〇年に日本はダメになる

 ここに書いたアメリカの大学制度は、私が知る限りでも、すでに三〇年前から常識だった。さ
らに日本人の教育意識となると、戦前のままと言ってもよい。五〇年前に私がもっていた「学校
観」と、今の若い親たちがもっている「学校観」は、それほど違わない。ロンドン大学の森嶋通
夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断
する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てな
ければ、二〇五〇年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」一九九八年・No.16)と書
いている。「五〇年」という数字はそこから書いた。


子どもの自立心を育てる法(依存心をもたせるな!)

日本人の依存性を考えるとき 
●森進一の『おくふろさん』

 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たち
は、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心過ぎる」と言った。そして結果として、日
本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独
立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。皆が帰りのしたくをするときになっても、机の前に立っているだけ。そこで私は、何
度も机の上のものをカバンにしまうように指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すらわか
らない。身振り手振りでそれを促すと、そのうちメソメソと泣き出してしまった。多分、家でそうす
れば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。が、その日は運の悪いことに、たまたま母親が教
室の外にいた。泣き声を聞きつけると、教室の中へ飛び込んできた。そして私をにらんで、こう
言った。「どうしてうちの子を泣かすのですか!」と。ていねいな言い方だったが、すごみのある
声だった。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、特にアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこ
と。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてき
た。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるの
よ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって、育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させ
ること」と考えるなら、依存心は、できるだけだけもたせないほうがよい。そこであなたの子ども
はどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というの
が、それである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすい
たア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」
と言う。もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」私「そうだ」子「きれいに消すのですか」私「そうだ」子「全部
消すのですか」私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男
児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ
……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、
日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)

●夫婦別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。特に夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した。それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答
は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(一九九六年)では反対派が
多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正
について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)に上ったというの
だ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・
八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が
高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感
に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま
る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。ただ、夫婦別姓が子供に与える影響につい
ては、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回っ
た。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は
六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現した場
合に結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとどま
った


子どもの巣立ちを考える法(フリーハンドの人生を渡せ!)

親が子どもを社会に送り出すとき

●フリーハンドの人生 

 「あなたの人生は、あなたのものだから、思う存分、自分の人生を生きなさい。家の心配はし
なくていい。親の心配はしなくていい。親孝行なんて考えなくていい」と。一度はフリーハンドの
形で子どもに子どもの人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子ども
を「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけな
い。もちろん子どもが自分で考え、その後、家のことを心配したり、親に孝行をするというので
あれば、それは子どもの勝手。あくまでも子どもの問題。

●恩着せがましい日本の子育て

 NHKテレビを見ていたら、日本を代表する演歌歌手のI氏が、切々と、しかも涙をこぼしなが
ら、自分の母親について語っていた(二〇〇〇年夏)。I氏はこう言った。「私の母は、貧しい生
活の中、懸命に私を育ててくれた。私はその母に恩返しをしたい一心で歌手になりました」と。
最初私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。司会者の人も、さかんにうなずいてい
た。が、私はI氏の話をしばらく聞くうちに、I氏の母親が本当にすばらしい母親なのかどうか、
わからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、親として、そこまで思わせてしまってよいもの
か。I氏を、そこまで追い込んでしまってよいものか。もちろんI氏は、「私の母は、すばらしい母
です」と言っていたが……。

●『かあさんの歌』論

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そして無意識のうちに
も、子どもにそれを負担に思わせてしまう。あるいは「産んでやった」「育ててやった」と、親の恩
を押し売りしてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、言いだす。そ
の一例が、『かあさんの歌』だ。「♪かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた……」という、あ
の歌である。こうした恩着せがましい歌、お涙ちょうだい式の歌が、すばらしい歌になっている
ところに、日本式の子育ての問題点がある。

 親は子育てをするが、その子育ては、あくまでも自分のためにしているに過ぎない。しかも子
育ての目標は、子どもを自立させること。子どもを勝手に産んでおいて、「♪おとうは土間でわ
ら打ち仕事、お前もがんばれよ」は、ない。言うとしたら、たとえそうであっても、「♪おとうは居
間で俳句づくり、お前は心配するな」だ。……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がい
た。自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そうい
う言い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉
を、四〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●あなたの人生はあなたのもの

 子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のものでもない。一見
ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。私たちは親と
いう立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。親のために犠
牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの親もそれを望
まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。
あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「たった一度しかない人生だか
ら、思う存分、羽をのばして空を飛びなさい。私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸
命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

(付記)

●私の意見への反論

 この話を、ある中学校の講演会で話したら、終わりのあいさつの席で、その学校のPTAの会
長が、こう言った。「はやし先生は、かあさんの歌を否定なさいますが、私はすばらしい歌だと
思います」(二〇〇一年春)と。こうも言った。「日本には日本のよさがあります。親孝行も、そ
の一つです。こうした日本人がもつ美徳を、はやし先生は否定なさいますが、私は納得できま
せん」と。私は何も、かあさんの歌を否定しているのでも、親孝行を否定しているのでもない。し
かしそう聞こえる人にはそう聞こえるようだ。そのPTA会長のような意見もあるにはある。参考
までにここに付記しておく。

(参考)

●窪田聡の「かあさんの歌」
 窪田聡の作曲した「かあさんの歌」は、三番まである。それぞれのうち、三行目と四行目はか
っこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用という形になっている。その三
行目と四行目だけを書きだしてみる。
「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて、せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事、お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで、畑が待っているよ」
 しかしあなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなた
はどう思うだろうか。それを考えながら、この歌をもう一度考えてみてほしい。



子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!)

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を
学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お
兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親
なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども
(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子ども
は、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いて
も、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるの
は、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の
概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日
が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、
一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解す
るのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な
力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真
にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、そ
れだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見
る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようにな
る。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、
私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たと
きのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだ
ったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ
た。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を
しているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバム
を置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

(参考)

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達で、
記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる
記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォフらの
研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということになる。
現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。



子どもを過保護から守る法(手を抜け!)

親が子どもに手をかけ過ぎるとき

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいは物をバッグの中に押し込むだけ。し
かも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という意味すら理解できない。そういうときは片づけが終わ
るまで、じっと待つしかない。S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、その
うちメソメソと泣き出してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイ
プの子どもは泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しか
しその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を
聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうして泣かすのですか!」と。ていね
いなだが、すご味のある声だった。

●過保護と溺愛

 原因は手のかけ過ぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけ過ぎを指摘しても、意味がない。第一
に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるい
は子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、生きがいになってい
るケースも多い。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書いて渡
した母親すらいた。「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こういうときには、こう指導してく
ださい」と。

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
かえって反対に遠ざけてしまう。S君のケースでは、片づけを手伝わなかった私に、母親はか
えって不満をもったらしい。そのあとその母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室
から出ていってしまった。こういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立
幼稚園で講演をしたときのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレ
ストラン感覚で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。

●ペットのようなペット児

 手をかけ過ぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ということになるが、その「核」形成
が遅れる。また目標やルールが守れないなど、溺愛児と過保護児の症状をあわせもった子ど
もになる。ちょうど膝に抱かれたペットのような子どもになるので、私は勝手にペット児(失
礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。もう少し大きくなると、こんな会話をする。これは
私が実際、小学四年の男児との間で経験した会話である。私「そこはまちがっているから、や
り直しなさい」、子「ケシで消すのですか」、私「そうだ」、子「自分で消すのですか」、私「そう
だ」、子「きれいに消すのですか」、私「きれいに消せばいい」、子「全部、消すのですか」、私
「……」。もう二〇年ほど前のことだが、こんなこともあった。

 中学生をキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて逃げ
てきた男子中学生がいた。「先生、こわい」と。私は子どものときから、ワンパク少年だった。喧
嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今でも、そう
だ。そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。こ
のタイプの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「指導しないほうが、かえって
この子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●子育ての目標は子どもの自立

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。が、このタイプ
の子どもは、(手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、ますま
すひ弱になっていく。が、それで終わらない。このタイプの子どもは、やがて豹変するタイプと、
その後「いい子(?)」のまま、おとなになるタイプの二つに分かれる。私は七対三の割合とみて
いるが、豹変するといっても、ふつうの変化ではない。激しい家庭内暴力を伴うことが多い。子
「誰だ、オレをこんなオレにしたのは!」、母「お母さんが、悪かったア〜。ごめんなさア〜イ」
と。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうず
に、だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やり過ぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。特に満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。が、その時期に溺愛と過
保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくなる。たいていは、ものわか
りのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それはちょうど借金のようなもの
で、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。同じようにカラを脱ぐべき
ときに脱がなかった子どもほど、あとあとたいへんいなる。それを脱ぐとき、親との間で大きな
衝突を繰り返す。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけ過ぎは、かえって子どものためにな
らない。これは幼児教育の常識である。


子どもをよい子にする法(子どもは使いまくれ!)

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)、父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。そればかりではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力
や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●一〇〇%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカの友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、
日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「ときどき
ホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを浴び
ても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子ど
もは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言っ
て驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけ
は手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

@ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ば
せるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いど
おりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆
の中心にいないと、気がすまない。Aものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目
標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつ
けては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣その
ものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費
的な行動が多くなる。Bものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が
強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。C
バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度こ
の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ド
ラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、原因が家庭のあり方そのものにある
からである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱
って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、
それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持って
いってくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父
さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの
家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れて
いて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもは
使って使って、使いまくる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけ
はできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカ−だと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたら」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだ
けである。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所
の生ゴミを手で始末できるとか、寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができるとか、そうい
う力をいう。こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんが
いた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どもの
お母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き戻すと、娘がタオルで、口を
ぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強というのは、いやなものだ。中学生でも、高校生でも、「勉強が好きだ」という子ど
もは、どこかおかしいと思ってよい。まともな子どもなら、嫌って当然。そのいやな勉強をする原
動力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(で
きない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋
さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、台所の周囲でうろうろされる
と、かえって迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
そ知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省した
ほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンでそれを拭かせ
る。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、重い荷物を運んでいたとすると、子どものほうからサッと手伝いにくる。庭の草むしり
をしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それが、「いい
子にする条件」ということになる。

●バランス感覚を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感の
ある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうこ
とをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るの
だ」という意識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつ
けさせるため、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生
活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がけ
る。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方が先鋭化したり、極端になったりする。
 子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それ
を忘れてはならない。