はやし浩司

思索(4)
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はやし浩司


子どもの非行を防ぐ法(前兆を見落とすな!)

子どもが非行に走るとき  

●日々の生活の積み重ねで決まる

 よい子(?)も、そうでない子(?)も、大きな違いがあるようで、それほど違いはない。日々の
生活の積み重ねで、よい子はよい子になり、そうでない子はそうでなくなる。たとえば非行。盗
み、いじめ、暴力、喫煙、性犯罪、集団非行など。親が「うちの子に限って……」「まさか……」
と思っているうちに、子どもは非行に走るようになる。しかもある日、突然に、だ。それはちょう
ど、ものが臨界点を超えて、突然、爆発するのに似ている。

●こぼれた水は戻らない

 子どもは、なだらかな坂をのぼるように成長するのではない。ちょうど階段をトントンとのぼる
ように成長する。子どもが悪くなるときも、そうだ。(悪くなる)→(何とかしようと親があせる)→
(さらに悪くなる)の悪循環の中で、子どもは、トントンと悪くなる。その一つが、非行。暴力、暴
行、窃盗、万引き、性行為、飲酒、喫煙、集団非行、夜遊び、外泊、家出など。最初は、遠慮
がちに、しかも隠れて悪いことしていた子どもでも、(叱られる)→(居なおる)→(さらに叱られ
る)の悪循環を繰り返すうちに、ますます非行に走るようになる。この段階で親がすべきこと
は、「それ以上、症状を悪化させないこと」だが、親にはそれが理解できない「なおそう」とか、
「元に戻そう」とする。しかし一度、盆からこぼれた水は、簡単には戻らない。が、親は、無理に
無理を重ねる……。

●症状は一挙に悪化する

 子どもが非行に走るようになると、独特の症状を見せるようになる。脳の機能そのものが、変
調すると考えるとわかりやすい。「心の病気」ととらえる人もいる。実際アメリカでは、非行少年
に対して薬物療法をしているところもある。それはともかくも前兆がないわけではない。その一
つ、生活習慣がだらしなくなる。たとえば目標や規則が守れない(貯金を使ってしまう。時間に
ルーズになる)、自己中心的(ゲームに負けると怒る。わがままで自分勝手)になり、無礼、無
作法な態度(おとなをなめるような言動、暴言)が目立つようになる。この段階で家庭騒動、家
庭崩壊など、子どもを取り巻く環境が不安定になると、症状は一挙に悪化する。

●特徴

 その特徴としては、@拒否的態度(「ジュースを飲むか?」と声をかけても、即座に、「イラネ
エ〜」と拒否する。意識的に拒否するというよりは、条件反射的に拒否する)、A破滅的態度
(ものの考え方が、投げやりになり、他人に対するやさしさや思いやりが消える。無感動、無関
心になる。他人への迷惑に無頓着になる。バイクの騒音を注意しても、それが理解できない)、
B自閉的態度(自分のカラに閉じこもり、独自の価値観を先鋭化する。「死」「命」「殺」などとい
う、どこか悪魔的な言葉に鋭い反応を示すようになる。「家族が迷惑すれば、結局はあなたも
損なのだ」と話しても、このタイプの子どもにはそれが理解できない。親のサイフからお金を抜
き取って、それを使い込むなど)、C野獣的態度(行動が動物的になり、動作も、目つきが鋭く
なり、肩をいからせて歩くようになる。考え方も、直感的、直情的になり、「文句のあるヤツは、
ぶっ殺せ」式の、短絡したものの考え方をするようになる)など。心の中はいつも緊張状態にあ
って、ささいなことで激怒したり、キレやすくなる。また一度激怒したり、キレたりすると、感情を
コントロールできなくなることが多い。

 もっともこうした症状が「表」に出る子どもは、まだよいほうだ。中には「内」にこもる子どもが
いる。前者をプラス型というなら、後者はマイナス型ということになる。威圧的な家庭環境、親
の過干渉、過関心が日常的に続くと、子どもの心は閉塞的になり、マイナス型になる。家の中
に引きこもったり、陰湿ないじめや、動物への虐待などを日常的に繰り返したりする。妄想をも
ちやすく、ものの考え方が先鋭化し、大きな事件を引き起こすこともある。

●家庭生活の猛省を!

 こうした症状が見られたら、できるだけ初期の段階で、親は家庭のあり方を猛省しなければ
ならない。しかしこれが難しい。たいての親は原因を外へ求めようとする。「友だちが悪い」「う
ちの子は、そそのかされているだけ」と。しかし反省すべきは、まず家庭のあり方である。で、こ
のタイプの親は、大きく次の二つのタイプに分けることができる。

 一つは、エリート意識が強く、他人の話に耳を傾けないタイプ。独断意識が強い。最近の傾
向として、「@外から特に指摘される外形的問題は見られない、A親は高学歴で経済的に安
定している、B教育熱心で学校にも協力的である、C親の過保護、過度の期待が潜在してい
る」(日本教育新聞社・教育ファイル)ということも指摘されている。で、このタイプの親は、私の
ような立場の者がアドバイスしても、ムダ。「子どものことは私が一番よく知っている」という確信
のもと、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたには本当のことがわかっていない」と、は
ねのけてしまう。本来そうならないためにも、ほかの父母との交流を多くして、風通しをよくしな
ければならない。が、その交流もしない。あるいはしても形式的。見栄、メンツ、世間体を優先
させてしまう。

 もう一つは、無責任で無教養なタイプ。その自覚がないばかりか、さらに強制的に子どもをな
おそうとする。暴力を加えることも多い。家庭の秩序そのものが、崩壊している。ある中学校の
校長は私にこう言った。「本当はこのタイプの親ほど、懇談会などにも来てほしいのですが、こ
のタイプの親ほど来てくれません」と。子育てそのものから逃げてしまう。あるいは子どもの言
いなりになってしまう。あとはこの悪循環。盲目的な溺愛が、子どもの変化を見落としてしまうこ
ともある。私が「どうもよくない遊びをしているようですよ」と話したとき、「私では何も言えませ
ん。先生のほうから言ってください」と頼んできた母親もいた。

●最後の「糸」を切らない

 家族でも先生でも、誰かと一本の「糸」で結ばれている子どもは、非行に走る一歩手前で、自
分をコントロールすることができる。が、その糸が切れたとき、あるいは子どもが「切れた(捨て
られた)」と感じたとき、子どもの非行は一挙に加速する。だから子どもの心がゆがみ始めたら
(そう感じたら)、なおさら、その糸を大切にする。「どんなことがあっても、私はあなたを愛して
いますからね」「どんなことがあっても、私はあなたのそばにいますからね」という姿勢を、徹底
的に貫く。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そういう
性質をうまく使って、子どもを非行から立ちなおらせる。そのためにも最後の「糸」は切っては
いけない。切れば切ったで、ちょうど糸の切れた凧ように、子どもは行き場をなくしてしまう。そ
してここが重要だが、このタイプの子どもは、「なおそう」とは思わないこと。現在の症状を今よ
り悪化させないことだけを考えて、時間をかけて様子をみる。一般に、この非行も含めて、「心
の問題」は、一年単位(一年でも短いほうだが……)で、その推移を見守る。無理をすれば、
「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返しながら、症状はさらにドロ沼化する。そし
てその分、子どもの立ちなおりは遅れる。

(参考)

●ふえる「いきなり型」の非行

 二〇〇一年度版『青少年白書』によれば、「最近の少年非行の特徴として、凶悪犯で検挙さ
れた少年のうち、過去に非行歴のない少年が全体の約半数を占めている」という。白書はそれ
について、「一見おとなしくて目立たない『ふつうの子』が、内面に不満やストレスを抱え、それ
が爆発して起きる『いきなり型』の非行が新たに生じてきている」と分析している。そして最近の
非行少年の共通点として、@自己中心的な価値観をもち、規範意識や被害者に対する贖罪感
が低い、Aコミュニケーション能力が低いことをあげている。その要因としては、「少年の内面
的な特徴について、対人関係がうまく結べないことをあげ、パソコンや携帯電話の普及で、性
や暴力に関する有害情報に接しやすい環境になっている」と、パソコンや携帯電話の弊害を指
摘している。ちなみに浜松市の西隣に湖西市という人口が四万人の町がある。その町にある
高校に通うの三年生に聞いてみたところ、二クラス計七二人のうち、携帯電話を持っていない
のは、五人のみだそうだ。普及率は、九四%(二〇〇一年一一月)。「携帯電話を持っていな
い人はどういう人か」と質問すると、「友だちがいないヤツ」「変わり者」「つきあいの悪いヤツ」
という答が返ってきた。



子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!)

子どもの心が離れるとき 

●恩着せがましい日本の子育て

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。親孝行?
 ……そんなこと、考えなくていい。家の心配? ……そんなこと考えなくていい」と、一度は、
子どもの背中をたたいてあげる。それでこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。もち
ろんそのあと、子どもが自分で考えて、親孝行するとか、家の心配をするというのであれば、そ
れは子どもの問題。子どもの勝手。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌
手のI氏が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つ
で、育てられました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ
私は、I氏の母はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親
が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏
に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の
母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏をそこまで追い込んでしまったのかもしれな
い。

●子離れできない親、親離れできない子

 同じような例は、あの『かあさんの歌』の中にも見られる。「♪かあさんは、夜なべをして……」
という、あの歌である。が、この歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡とい
う人が作詞した『かあさんの歌』は三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになって
いる。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう思うだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう。
親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている!

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である。
欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期にきてい
るとみるべきではないのか。

(参考)

●生活力に応じて養うが六六%
 ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六年)は、
次のようになっている。
 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高)
 韓国     ……六七%
 タイ     ……五九%
 ドイツ    ……三八%
 スウェーデン ……三七%
 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読
むと、「生活力がなければ、養わない」ということになる。 



子どものやる気を引き出す法(四悪を避けろ!)

子どもがやる気をなくすとき 

●学習の四悪

 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超
えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト
で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「A君は、もう英検の四級
が受かったのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に
やる気をなくす。勉強嫌いになる。

●無理・強制・条件・比較

@無理……子どもに与える教材やワークなど、半分がお絵かきになっても構わない。そういう
おおらかさが、子どもを伸ばす。……と書くと、「何てことを言うのだ!」と怒る人もいる。が、私
は無数の市販教材を作った経験がある。「まなぶくん幼児教室」(指導制作)「ハローワールド」
(創刊)「TOM」(指導)「なぜなぜ子ども学習百科」(指導)(以上、学研)ほか。その昔は「幼児
の学習」「なかよし学習」(学研)なども担当した。こうした教材を作るときには不文律のようなも
のがあって、たとえばレベルも、次のようにして決める。「上位一〇%と、下位一〇%の子ども
は、読者対象からはずす。残りの八〇%の子どもで、平均点が六〇点くらいになる教材が、好
ましい」と。そういう意味では、実にいいかげんなものだ。だから半分はお絵かきになってもよ
い。大切なのは、子どもが勉強を楽しんだかどうか、だ。イギリスの格言にも、『楽しく学ぶ子
は、よく学ぶ』というのがある。

A強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませ
ることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要す
るに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子ど
もの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。
「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが
子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。

B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもし
れないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財
力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、「勉
強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」とい
う意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらい
た。そうなる。反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉
強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局
は子どもを自立させる原動力となる。

C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人
の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう
なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。……というのは、
少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族も
少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時代を経験したため
にそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だから、私は幸福」
「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。たとえば日本人は、「あ
なたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、それだけでへんに
納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、無理、強制、条
件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見れば、結局は逆
効果。かえって子どものやる気をつぶす。



賢い人、愚かな人

 どんな山にも登ってみるものだ。低い山だと思ってみても、登ってみると意外と視野が広い。
たとえば浜松市の北西に舘山寺温泉という温泉街がある。その温泉街の反対側に、小さな湖
をはさんで大草山という山がある。ロープウエィで一〇分足らずで登れる小さな山だが、そんな
山でも浜松市はもちろんのこと、遠くは太平洋すら一望できる。

 人もそうだ。どんなささいなことでもよい。賢くなった状態から、そうでない人を見ると、その人
の愚かさがぐんとよくわかる。しかし愚かな人にはそれがわからない。対等だと思っている。も
っとはっきり言えば、賢い人には愚かな人がわかるが、愚かな人には賢い人はわからない。

 ……と考えて、実は人は、もちろん私も、賢い部分と愚かな部分をいつも同時にもっている。
さらに賢いか愚かかということは、あくまでも相対的なものでしかない。私より賢い人はいくらで
もいる。つまり私が賢いと思っているのは、それは愚かな人に対してだけである。一方、そうい
う私を愚かだと思っている人はいくらでもいる。たとえば同じAさんならAさんとくらべても、「この
部分はAさんより賢いぞ」と思う部分もあれば、「そうでない」という部分もある。さらに自分のこ
とについても、同じことが言える。何か新しいことがわかったとする。すると、それまでの自分が
愚かに見えることがある。それは無数の道を同時に走るマラソンのようなものだ。一本の道を
マラソンで走るなら、Aさんが一番、Bさんが二番と、その順位がよくわかる。だれが賢くて、だ
れがそうでないか、よくわかる。が、無数の道を同時に走ったら、それはわからない。少し入り
組んだ話になってしまったが、要は、いかにして人は賢くなるかということ。

 方法はいくらでもある。しかしここで重要なことは、技術や知識では人は賢くならないというこ
と。いくらすぐれた技術にたけていたとしても、また世界中の科学者の名前を知っていたとして
も、それは「賢い」とは言わない。もっとわかりやすい例で言えばこうだ。たとえば一人の幼稚
園児が、剣玉をスイスイとしてみせても、また掛け算の九九をソラでペラペラと言っても、賢い
子どもとは言わない。となると、人の賢さは何によって決まるかということ。ここが重要だ。一つ
の方法としては、人間が本来的にもっている「愚かさ」を、徹底的に追及するという方法があ
る。その愚かさを追及することによって、他方で賢さを浮かびあがらせる。

 たとえば夜の繁華街を歩く。そこにはケバケバしいネオンサインが立ち並び、遊ぶ男と遊ぶ
女が、あたかもゾンビのように動き回っている。せっかくすばらしい健康と、明晰(めいせき)な
頭脳をもちながら、彼らは流れ行く「時」を、流れていくままムダにしている。あるいは威圧や暴
力を売り物にして、他人から金銭をまきあげている人がいる。ウソやゴマカシばかりをして、コ
ソコソと生きている人がいる。もっと身近な例では、空き缶やゴミを空き地へ平気で捨てていく
人がいる。こうした人たちに愚かさの原型があるとするなら、賢くなるためには、そうした世界
からの脱却をめざせばよい。しかしここ別の問題が起きる。仮に脱却するとしても、学校の先
生が子どもたちに校則のようにあたえるような、教条主義ではいけない。一つ、夜遊びはしな
いこと。二つ、暴力を振るわないこと。三つ、ウソはつかないこと。四つ、ゴミを捨てないこと、
と。

 こうした教条を守る人は、一見賢い人に見えるかもしれないが、しかし賢い人とは言わない。
人の賢さというのは、もっと根源的なもので、その人の底辺から上に向かって湧き出るようなも
のをいう。つまりそういう「教え」があるからするのではなく、「自らがつかんだ知恵」によってし
なければならない。「知性」や「智慧」と言ってもよい。問題のすべては、ここに集まる。「自らが
つかんだ知恵」だ。
 



子どもを溺愛児にしない法(溺愛を愛と誤解するな!)

親が愛に溺れるとき 

●溺愛は、愛ではない

 溺愛は愛ではない。代償的愛という。いわば自分勝手な愛もどきの愛と思えばよい。この溺
愛がふつうの愛と違う点は、@親子の間にカベがないこと。こんなことがあった。参観授業での
こと。A君(年長児)がB君(年長児)に向かって、「バカ!」と言ったときのことである。その直
後、うしろに並んでいた母親たちの間から、「バカとは、何よ!」という声が聞こえてきた。また
こんな例も。ある母親が私のところにやってきて、こう言った。「先生、私、娘(年中児)が、風邪
で幼稚園を休んでくれると、うれしいのです。一日中、娘の世話ができると思うと、うれしいので
す。それにね、先生。私、主人なんかいてもいなくても、どちらでもいいような気がします。娘さ
え、いてくれれば。それでね、先生、私、異常でしょうか?」と。私はしばらく考えてこう答えた。
「異常です」と。

ほかに中学三年の息子が初恋をしたことについて、激しく嫉妬した母親もいた。ふつうの嫉妬
ではない。その母親は、相手の女の子の写真を私の前に並べながら、人目もはばからず、大
声で泣き叫んだ。「こんな女のどこがいいのですか!」と。

 次にA溺愛する親は、その溺愛を、えてして「親の深い愛」と誤解する。ある中学での懇談会
で、先生が親たちに向かって、「皆さんは、お子さんたちが汚してきた運動着をどうしています
か」と聞いたときのこと。そのとき一人の母親がまっ先に手をあげて、こう言った。「私は息子が
汚してきたシャツは、いとおしくていとおしくて、頬ずりしています!」と。

●精神的な弱さが原因

 親が溺愛に走る背景には、親自身の精神的な弱さと、情緒的な欠陥がある。それがたとえ
ば生活への不安や、夫への満たされない愛、あるいは子どもの事故や病気が引き金となっ
て、親は溺愛に走るようになる。が、溺愛に走るのは親の勝手だとしても、その影響は、子ども
に表れる。子どもはいわゆる溺愛児と呼ばれる子どもになる。特徴としては、@幼児性の持続
(年齢に比して幼い感じがする)、A退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心的にな
る)、B服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな反面、優柔不断)、柔和でおとなしく、
満足げでハキがなくなる。ちょうどひざに抱かれたペットのように見えるから、私はペット児(失
礼!)と呼んでいる。が、それで悲劇が終わるわけではない。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば
子どもには、満四・五歳から五・五歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期
を中間反抗期と呼ぶ人もいる。この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行す
る。しかし溺愛児にはそれがない。ないまま、大きくなる。そしてある時、そのカラを一挙に脱ご
うとする。が、簡単には脱げない。たいてい激しい家庭内暴力をともなう。子「こんなオレにした
のは、お前だろ!」、母「ごめんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。しかし子どもの成
長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げない子どもは、超マ
ザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」という男性がいたが、そうなる。

●生きがいを別に

 この溺愛を防ぐためには、親自身が子どもから目を離さなければならない。しかし実際には
難しい。このタイプの親は、「子離れをしよう」とあせればあせるほど、子育てのアリ地獄へと落
ちていく……。では、どうするか。親自身が、子育てとは別に、別の場所で生きがいを求める。
ボランティア活動でも、仕事でも。子育て以外に、没頭できるものを別に求める。ある母親は手
芸の店を開いた。また別の母親は、医療事務の講師を始めた。そういう形で、その結果とし
て、子どもから離れる。子育てを忘れる。 



親子のきずなを深める法(成長を喜べ!)

親子のきずなが切れるとき 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、八五%。「親に反
抗してはいけない」と考えている高校生は、五%。この数字を、アメリカや中国と比較してみる
と、親に反抗してもよい……アメリカ一六%、中国一五%。親に反抗してはいけない……アメリ
カ八二%、中国八四%(「日本青少年研究所」九八年調査)。日本だけは、親に反抗してもよい
と考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダントツ
に少ない。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」
(評論家O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だ
けがそうなのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人
主義が進んでいるということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのも
おかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。さらに「あんたを幼稚園児のときから、高い月謝を払って
英語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子
どもからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親
子の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「八
五%」という数字は、まさにその結果であるとみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には二人の娘がいた。一人は大学一年生、もう一人は高校三年生だった。R
氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費
が難しくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘は
それに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの義
務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻まで、
「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう
言う。「家族って、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と
いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を
変えてみたら……。たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イッ
ト・イージィ(気楽にやりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あ
なたの子どもがテストの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。
「気楽にやりなよ」と。この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子
どももそれでやる気を起こす。   



子どもをドラ息子にしない法(がまんさせろ!)

子どもがドラ息子になると

●ドラ息子・ドラ娘

教育の世界には、誤解がまん延している。その一つが「忍耐力」。ある日一人の母親が私のと
ころにやってきて、こう言った。「うちの子はサッカーだと、一日中している。忍耐力はあるはず
だ。そういう力を、勉強のほうに向けさせたいが、どうしたらいいか」と。しかしそういう力は、忍
耐力とは言わない。その子どもは好きなことをしているだけ。子どもにとって忍耐力とは、いや
なことをする力のことをいう。試しにあなたの子どもにこう言ってみてほしい。「台所の生ゴミを
始末して!」と。風呂場の排水口にたまった、毛玉でもよい。そのときあなたの子どもが、「ハ
ーイ」と言って、それを手で始末できれば、よし。あなたの子どもは忍耐力のある子どもというこ
とになる。このタイプの子どもは、学習面でも伸びる。理由は簡単だ。もともと学習には、ある
程度の苦痛がともなう。その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だから、である。

●使えば使うほどよい子

 子どもは使えば使うほど、すばらしい子になる。忍耐力もそこから生まれる。が、今の子ども
たちは、家の手伝いをしない。……というより、させることが、ない。ある母親はこう言った。「掃
除は掃除機で、ものの一〇分ですんでしまう。洗濯も全自動、料理も電子レンジ、食器も食器
洗い機に任せている。何をさせるのですか」と。「料理のときキッチンの前でウロウロされると、
かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と言った母親すらいた。しかしこういうス
キをねらって、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。

 その症状は、@自己中心的(自分勝手でわがまま)、A退行的(目標や規則が守れない。生
活習慣がだらしなくなり、無礼、無作法。依存心が強い割に、無責任になる)、Bものの考え方
が消費的(一時的な楽しみに走りやすい)になり、Cバランス感覚(ものごとを静かに考えて、
正しく判断する感覚)が消える、など。子どもは自分で苦労をして、はじめて他人の苦労が理解
できるようになる。これも試しに、子どもの前で重い荷物を持って歩いてみてほしい。そのとき
「ママ、手伝ってあげる」と走り寄ってくれば、よし。しかしそういうあなたの姿を、見てみぬフリ
をしたり、ゲームに夢中になっているようであれば、あなたの子どもはかなりのドラ息子、ドラ娘
と見てよい。今は、体も小さく、あなたの保護のもとで、おとなしくしているかもしれないが、やが
てあなたの手に負えなくなる。

●バランス感覚を大切に

 子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感のある生活に心
がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせ
る。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意
識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつけさせるた
め、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生活の基本で
あることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもは、ここに書いたバランス感覚をなくす。

もし今、あなたが「子どもに楽をさせるのが、親の愛」などと誤解しているようなら、今すぐ、そう
いうまちがった子育て観は改めたほうがよい。子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将
来苦労するのは、結局は子ども自身ということを忘れてはならない。



子どもをよい子にする法(子どもは使いまくれ!)

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。そればかりではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力
や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●一〇〇%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカの友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、
日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「ときどき
ホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを浴び
ても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の子ど
もは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言っ
て驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけ
は手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

@ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜ば
せるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思いど
おりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が皆
の中心にいないと、気がすまない。Aものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目
標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつ
けては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣その
ものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費
的な行動が多くなる。Bものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が
強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。C
バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動するこ
とができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度こ
の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ド
ラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、原因が家庭のあり方そのものにある
からである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱
って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、
それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「おじさんが持って
いってくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父
さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの
家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れて
いて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもは
使って使って、使いまくる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけ
はできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカ−だと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたら」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好きなことをしているだ
けである。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所
の生ゴミを手で始末できるとか、寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができるとか、そうい
う力をいう。こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんが
いた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どもの
お母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口を
ぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強には苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の
子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える原動力が、
ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)
→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋
さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、台所の周囲でうろうろされる
と、かえって迷惑だから、テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもがやってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
そ知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省した
ほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンでそれを拭かせ
る。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、重い荷物を運んでいたとすると、子どものほうからサッと手伝いにくる。庭の草むしり
をしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それが、「いい
子にする条件」ということになる。

●バランス感覚を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。@生活感の
ある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうこ
とをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るの
だ」という意識をもたせる。A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。B忍耐力をつ
けさせるため、家事の分担をさせる。C生活のルールを守らせる。D不自由であることが、生
活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、Eバランスのある生活に心がけ
る。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方が先鋭化したり、極端になったりする。
子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。



家族の心を守るする法(家族は大切だと言え!)

家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち
は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽
い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな
相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい
るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日
本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、
家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され
る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。「家族全体」で担当しているのは一割程度。夫が担当して
いるケースは、わずか一%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話でも、六割が妻
の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で
七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわか
ったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は
比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない
人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、
積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の学歴社会があり、それを
支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。それ
が冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、家族
を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を平気
で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの
は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ
のまま欧米人の幸福観の基本になっている。


 少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」という映画を見たが、あの中でも、深い家族愛
がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」と
いうのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の言葉に由来す
る。)「国のためには戦わない」と言う欧米人も、「家族のためなら、命がけで戦う」とか「カントリ
ー(郷土)を守るためなら、戦う」とか言う。家族を守るということには、そういう意味も含まれ
る。回りまわって、愛国心にもつながる。

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても、「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四
〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四
五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本
人にとっては革命とも言えるべき大変化である。そこであなたもどうだろう、今日から子どもに
はこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助けあい、理解しあい、励ましあい、教え
あい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変え、日本を変え、日本の教育を変え
る。

(参考)
※……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委員
会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だという
(二〇〇一年一一月)。


子どもに性教育を語る法(男女の差別を撤廃せよ!)  

子どもに性教育を語るとき

●性の解放とは偏見からの解放 

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ
ッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリ
ーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であ
るからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっと
ベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなん
か、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわ
サ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのか
た、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパー
がないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

●家事をしない男たち

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳
以上の男性について言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは……? この年代の
男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかりではない。私
も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱ら
れた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手を貸している。
が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査で
は、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という
夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

●男も昔はみんな、女だった?

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は…
…」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが
ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば
遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出
がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。
が、決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、男も女も、母親
の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。

 つまりある時期までは人間は皆、女で、発育の過程でその女から分化する形で、男は男にな
っていくと。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのです
か?」と笑った。正確には、「妊娠後数か月までは男女の区別はなく、それ以後、胎児は女か
ら、男と女にそれぞれ分化していく」ということらしい。このことを女房に話すと、女房は「あなた
は単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だっ
たのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え
方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテル
グレン女史は、それを言った。

(参考)

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし
ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。
 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
     (全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について、一九九八年に調査)

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる
が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、
女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す
べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(同調査)。

 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した
「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答
えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイント
も低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と
答えた妻も、五二・五%もいた。


子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)

親が子どもを許して忘れるとき※ 
 
●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分
を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではな
い。親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の
親」へと、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親
は、確かに若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手
さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を
卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてく
る。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。特に二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは
近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ち
ゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私
は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟にも
どり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなかった。
そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から二男
を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。私の母はいつも、こう言っている。「上見てキリな
し。下見てキリなし」と。人というのは、上ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活は
やってこないということだが、子育てで行きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのでは
ない。下から見る。「生きている」という原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決
するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。
同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そ
のときだ。この言葉が頭を横切った。「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前
の子どもはお前の子どもではないか。許して忘れてしまえ」と。

 つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るた
めに忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の
愛の深さが決まる。もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろという
ことではない。子どもの言いなりになれということでもない。許して忘れるということは、子どもを
受け入れ、子どもをあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとし
て受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。
 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

(追記)
※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。



子どもの心を安定させる法(原因を家庭の中に求めろ!)

子どもの心が不安定になるとき 

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。@精神の完成度、A情緒の安定度、B知育の発達度、
それにC運動能力。このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるとき
をみて、判断する。運動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機
嫌、無口(以上、マイナス型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなけ
れば、情緒が安定した子どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わな
い。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的
な疲れにたいへん弱い。それこそ日中、五〜一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れ
てしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり、反
対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりすることもある(プラス型)。表情にだ
まされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。このタイプの
子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っ
ただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的な非行行
動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親の放
任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒動、家庭不和、何らかの恐怖
体験など。ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、
自閉傾向(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)は、
母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱
状態になる)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚(やきょう)、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃ
ぶり、チック、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾
向、潔癖症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿
症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子ど
もの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家
庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。子どもが小学生になったら、家庭は、「心を休
め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなければならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一
七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、カボチャの頭』と書いている。人というのは、高
価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが気が休まるとい
う意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置
づける。学校という「場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」
と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高
校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもを
ひとりにすること。自身が誰にも干渉されないような時間と場所をもてるようにする。親があれ
これ気をつかうのは、かえってまずい。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。特にカルシウムは天然の精
神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で与え
るという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもない。な
お情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親があ
せって何とかしようと思えば思うほど、逆効果。一度不安定になった心は、そんなに簡単には
なおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えながら、子どものリズムに合わせた生活
にこころがける。