はやし浩司
子どもに勉強ぐせをつける法(五悪に気をつけろ!)
子どもが勉強から逃げるとき ●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。いかにも勉強しているという フリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しかしその実、何もしていない。 何も考えていない。次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラ しているだけ。マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時 間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなム ダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつ ぶすなど。 ●一時間で計算問題を数問! こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い 親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワ ークブックを持ってきた。見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも 子どもの能力を超えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけ で勉強がよくできるようになると思っていたらしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼん やりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り 返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の 段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易でない。 ●意欲を奪う五つの原因 子どもから学習意欲を奪うものに、@過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、A過関 心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、B過剰期待(「や ればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、C過干渉(何でも親が先に決めてしま う)、それにD与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ は誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶 をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度 な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては 誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでな ければやはり逆効果。 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし 方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しな い」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時 間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。 ●変わる「勉強」への意識 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには 「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育 はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も 変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で 子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそ れを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリ ーダーになった。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言う と、「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられる から、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別 にして、今はそういう時代なのだ。 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。 子どもを本好きにする法(方向性は図書館で知れ!) 子どもの方向性を知るとき ●図書館でわかる子どもの方向性 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自 由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカ ーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。そのと き子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子ど もは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのも のをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。 ●無理をしない まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一〜二年、レベルをさげる。親というのは、どうし ても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子ども には、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。そこで「うち の子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択 は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」 と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさ い」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。 ●動機づけを大切に 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの 前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを 与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のばあいだと、子どもを ひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがうまくいくと、あとは子 どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子ども の取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもに ポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないこと は、言うまでもない。 ●文字を音にかえているだけ? なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。 親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったの かな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質 問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。 あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。本を読み取る力のある 子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、あ る部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら読んでいる子どもは、読むとき、目が 静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じになる。さらに読みの深い 子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵をじっと見ながら 読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。 ●文字の使命は心を伝えること 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤 字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字 好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。 たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なか なかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかお いしい』『なかなかなきやまない』」と。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が 嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌い と言う子どもは、一〇人に三人はいる。 (付記) ●私の記事への反論 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときに は、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流 れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読 み聞かせをしている人からだった。 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多 い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。 たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけ でも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「ま どろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よ さ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレス は相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。 フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはず だ。
教育から身を守る法(教育カルトに気をつけろ!)
教育者が教育カルトにハマるとき ●教育カルト 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信 奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのも、それ。教育カルトともいう。この教育カルト にハマった教育者(?)は、「右脳教育」と言いだしたら、明けても暮れても「右脳教育」と言いだ す。「S方式」と言いだしたら、「S方式」と言いだす。 親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋 章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式教育法」 などという教育法を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。宗教だってそ うだ。あやしげな新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。 教育には哲学が必要だが、しかし宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教 育法もまた皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわから ない。わからないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけよう とする。これがこわい。 ●自分勝手な教育法 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、 小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性 など。これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てく る。自分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはま ちがっている」と言う。はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしな がら、それにすら気づかなくなってしまうこともある。
ある教育団体のパンフには、こうあった。「皆さんも、○×教育法で学んだ子どもたちの、す
ばらしい演奏に感動なさったことと思います」「この方式が日本の教育を変えます」と。あるいは こんなのもあった。「私たちの方式で学んだ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門をくぐるこ とになるでしょう」(ある右脳教育団体のパンフレット)と。自分の教育法だったら、おこがましく て、ここまでは書けない。が、本人はわからない。この盲目性こそがまさに教育カルトの特徴と 言ってもよい。 ●脳のCPUが狂う? 私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、 「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。そ れはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。脳 のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。が、問題は、先にも書いた攻撃性だ。 一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育法を批判してみるとよい。「S方式 の教育法に疑問をもっている評論家もいますよ」と。その教育者は、あなたの意見に反論する というよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている!
子どもの金銭感覚を考える法(ぜいたくをさせるな!)
子どもの金銭感覚が決まるとき ●結婚式のお金がなかった 一〇万円のお金が残ったとき、私は女房に聞いた。「このお金で香港へ行きたいか。それと も結婚式をしたいか」と。すると女房は、小さな声でこう言った。「香港へ行きたい……」と。当 時の私はほとんど毎週のように、台北や香港へ行っていた。マニラやシンガポールまで足をの ばすこともあった。いくつかの会社の翻訳や通訳、それに貿易の仕事を手伝っていた。そこで その仕事の一つに、女房を連れて行くことにした。そんなわけで私たちは結婚式をしていない。 ……と言うより、そのお金がなかった。 ●ホテルで七五三の披露宴 それから二八年あまり。二〇〇〇年のある昼、テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込 んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルでする親がいるという。豪華な披露 宴に、豪華な食事と引き出物。費用は一人あたり、二万円から三万円だという。見るとまだあ どけない子どもが、これまた豪華な衣装を身にまとい、結婚式の新郎新婦よろしく、皆の前で あいさつをしていた。私と女房はそれを見ながら、言葉を失った。 その私たち。何かをやり残した思いで、新婚時代を終えた。若いころ女房はよく、「一度でい いから、花嫁衣裳を着てみたい」とこぼした。そこでちょうど私が三〇歳になったとき、あるいは 四〇歳になったとき、披露宴だけはしようという話がもちあがった。しかしそのつど身内の親た ちの死と重なって、流れてしまった。さすがに四〇歳も半ばを過ぎ、髪の毛に白髪が混じるよう になると、女房も結婚式のことは言わなくなった。 ●現実感をなくす子ども ぜいたくに慣れれば慣れるほど、子どもは「現実感」をなくす。お金や物は、天から降ってくる ものだと思うようになる。子ども自身が将来、おとなになってからも、それだけの生活を維持で きればよい。が、そうでなければ、苦労するのは、結局は子ども自身ということになる。いや、 親だって苦労する。今では、成人式の費用は、たいてい親が出す。女性の晴れ着のばあい、 貸衣装でそろえても、一五万円から二〇万円(浜松市内の貸衣装店主の話)。上限はない。さ らに社会人になったときの新居の費用、結婚式の費用すらも、親が負担する。七五三の祝宴 ですら、ホテルで豪華に催すご時世である。どうしてそのときになって、「自分の費用は自分で 払え」と、子どもに言えるだろうか。が、それだけではすまない。 ●ストーブは一日中、つけっぱなし 現実感をなくした子どもは、「親の苦労」というものがどういうものか、わからなくなる。感謝も しない。「してもらって当然」と考える。ある母親が大阪で学生生活をしている息子のアパートを 訪ねてみたときのこと。それほど裕福な家庭ではない。その母親は息子が大学に入学すると 同時に、近くのスーパーでパートの仕事を始めた。母親は驚いた。春先だったというが、電気 ストーブは一日中、つけっぱなし。携帯電話の電話料も月に三万円近くもかかっていた。「バイ クがほしい」と言ったのでお金を送ったのだが、その息子は、三〇万円もするキンキラキンの アメリカンスタイルのバイクを買っていたという。「中古のソフトバイクなら、三〜四万円でありま すよ」と私が言うと、その母親は、「あら、ソ〜ウ!」と驚いていた。 ●「私なら出席しないわ」 人は人それぞれだが、ここから先は、私と女房の会話をそのまま書く。私が七五三の様子を 見てあきれていると、女房はこう言った。「何かおかしいわ」と。こうも言った。「私なら、あんな 披露宴、招待されても行かないわ」と。私は私でこう言った。「幼児のときから、あんなにぜいた くに育てれば、苦労するのは子どもだ」と。「子どもを大切にするということは、子どもを王様に することではない。金をかけて、楽をさせることではない。親としてやるべきことが違う」と。しか しこれは、結婚式ができなかった私たち夫婦の、ひがみかもしれない。私と女房はその報道を 見ながら、何度もため息をついた。 子どもの心を破壊から守る法(子どもの心をゆがめるな!) 子どもの心が破壊されるとき ●バッタをトカゲのエサに A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつ かまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてき て、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな 経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が 凍りつくのを覚えた。よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず 虫にポケットのフチを口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと 思ったのは、その虫の頭だった。また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長 男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかっ たが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった! ●心が壊れる子どもたち 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不 足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義 的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな ることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景に あるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破 壊することもある。 イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの 考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する 能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。 昔、こう言った高校生がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減 らせばいい。そうすれば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言 いかえると、愛情豊かな家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある 子どもになる。心もやさしくなる。 ●無関心、無感動は要注意 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動 (他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。 非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入 ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結 果的に、「悪」に染まってしまう。 ●心の修復は、四、五歳までに そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、 銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方 をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを 渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。 親像を考える法(親像を育てろ!) 親が子育てができなくなるとき ●親像のない親たち 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母 親すらいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして 不幸な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる 「親像」のない人とみる。 ●チンパンジーのアイ ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭 のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押 しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。 が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る のもいるという。いわんや、人間をや。 ●子育ては学習によってできる 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分 でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。……と言っても、今、これ以上のこ とを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、猛烈な抗議が殺到する。先日もある 新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけでその翌日、一 〇本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそ う」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」など。「離婚家庭を差別する発言で許せ ない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いた のではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒 動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題である ことは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。 ●原因に気づくだけでよい これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ る。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類 の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくした が、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に 傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。 ●幸福な家庭を築くために ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは 今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめ て、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。と言っても、 これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなかできない。だ からこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。 (付記) ●なぜアイは子育てができるか 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び 妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。これについて、つまり アイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを見せられたり、ぬいぐ るみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説明されている(報道)。 しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育と いっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育と いうワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てが できる本当の理由ではないのか。 (参考) ●虐待について 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、 「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親 は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇 〇人・二〇〇〇年)。 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合 を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」 などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一 点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待 あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一% であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしてい るのがわかる。 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。 ●ふえる虐待 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二 五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。) 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五 三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、 攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実 母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三 七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%と なっている。
人生をムダにしない法(世間体は捨てろ!)
親が子どもをだますとき ●世間体を気にする人 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を病院から連れ出 してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかしい」と言って、 小さな雑貨店をがんばり続けた女性(八五歳)もいた。気持はわからないわけではないが、し かし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をするようになる。S氏(八一歳)もそうだ。隣 の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人がかけつけてみると、S氏は受話器をも ったまま玄関先で倒れていた。隣人が「救急車を呼びましょうか」と声をかけると、S氏はこう言 ったという。「近所に恥ずかしいから、どうかそれだけはやめてくれ!」と。 ●日本の文化は、恥の文化? 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日本人は、そ世間 体をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして、その世間体を気にする人 には、独特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざますら、他人との 比較の中で決める。そしてその結果、他人よりよい生活であれば安心する。他人より悪い生活 であれば不安になる。それだけではない。こういう尺度をもつ人は、自分より上の人をねたみ、 自分より下の人をさげすむ。が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめるこ とになる。先の雑貨点を営んでいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪 く言ってきた。「バチがあたったからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏も、 自分より先に死んでいった人たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑っていた。 ●息子の土地を無断で転売 こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気にしたも のになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間体を飾る道具 に利用されることも多い。たとえばYさん(七〇歳女性)がそうだ。 Yさんは言葉巧みに息子(四二歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま息子に 無断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、「先祖を守る ために親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を守るのは子どもの義 務だ」とも。Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。もちろんそれで親子の縁は切れた。 息子はこう言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行動は、お かしい。おかしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、これだけは言える。 恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっかくの、 それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、それも皮肉 なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。 教育者の美談にだまされない法(美しい話は疑え!) 教育者が美談を口にするとき ●どこかおかしい美談 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話 がある。 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやって きて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強 をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。そのタレントは、感きわまった様子で、ほ とんど涙ながらにこの話をしていた(二〇〇〇年夏、H市での教育講演)。しかしこの話はどこ かおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、「ペンをくれ」などと 物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充はどうするのか。「だ から日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いたかっ たのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。 ●日本の学用品は使えない? 一五年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を 持って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話は テレビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、 何とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。 で、その一年後、その学用品がどう使われているか、二人の教師が現地まで見に行った。 が、大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学 校の倉庫に眠っていたという。理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の一日の給 料よりも高価なノートや鉛筆を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使 いやすいです」とも。そういう話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは? そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか しい。貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取り あげられ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。 「私はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。私には私の生きる 誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私もおしまい。またこん な話も……。 ●「ぼくのために負けてくれ」 運動会でのこと。これから五〇メートル走というときのこと。横に並んだB君(小二)が、A君に こう言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。そこ でA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならないと思 い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、あ る雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。その教育者は、 二人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人ならすぐわかる が、こういう高度な判断能力は、まだ小学二年生には、ない。仮にあったとしても、あの騒々し い運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。 ●子どもたちは何をしていたか? ある小学校教師が一時間目の授業に顔を出したときのこと。小学一年生の生徒たちが、「先 生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因 は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。 そこでその教師は、三〇分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして 再び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つとき は心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。その三〇分間だが、子どもたちは どこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、その教師は子どもたちを教室に残し たまま散歩に行ったということになるのだが……? 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい 話で自分の説話を飾りたがる。 ※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がも てはやされている。それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言 った」と話したが、その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語 すらない。あえて言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそ ういう単語は、こういう会話では使わない。別の意味になってしまう。この点からも、そのタレン トの話は、ウソと断言してよい。 |