はやし浩司
はやし浩司
日本の未来を考える法(子どもを甘やかすな!) 日本の将来を教育に見るとき ●人間は甘やかすと……? 官僚の天下りをどう思うかという質問に対して、ある大蔵官僚は、「私ら、学生時代勉強で苦 労したのだから、当然だ」「国のために仕事ばかりしているから、退職後の仕事をさがすヒマも ない。(だから国が用意してくれるのは、当然だ)」(NHK報道・九九年春)と答えていた。また 別の女子学生は、「卒業しても就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは言われるまま、ま じめに勉強してきたのだから」(新聞投稿欄)と書いていた。人間は甘やかすと、ここまで言うよ うになる。 ●最後はメーター付きのタクシー 私は以前、息子と二人で、ちょうど経済危機に見舞われつつあったタイを旅したことがある。 息子はともかくも、私はあの国にたまらないほどの懐かしさを覚えた。それはちょうど四〇年前 の日本にタイムスリップしたかのような懐かしさだった。あの国では誰もがギラギラとした脂汗 を流し、そして誰もが動きを止めることなく働いていた。若者とて例外ではない。タクシーの運 転手がこんな話をしてくれた。 若者たちは小銭ができると、まずバイクを買う。そしてそれで白タク営業をする。料金はその場 で客と交渉して決める。そこでお金がたまったら、「ツクツク」と呼ばれるオート三輪を買って、 それでお金をためる。さらにお金がたまったら、四輪の自動車を買って、それでまたお金を稼 ぐ。最後はメーター付き、エアコン付のタクシーを買う、と。 ●日本には活気があった 形こそ多少違うが、私たちが子どものころには、日本中に、こういう活気が満ちあふれてい た。子どもたちとて例外ではない。私たちは学校が終わると磁石を持って、よく近くの小川へ行 った。そこでその磁石で金属片を集める。そしてそれを鉄くず屋へ持っていく。それが結構、小 づかい稼ぎになった。父の一日の稼ぎよりも多く、稼いだこともある。が、今の日本にはそれは ない。「生きざま」そのものが変わってきた。先日もある大学生が私のところへやってきて、私と こんな会話をした。 学「どこか就職先がありませんか」、私「君は何ができる?」、学「翻訳ぐらいなら、何とか」、私 「じゃあ商工会議所へ行って、掲示板に張り紙でもしてこい。『翻訳します』とか書いてくれば、 仕事が回ってくるかもしれない」、学「カッコ悪いからいやだ」、私「なぜカッコ悪い?」、学「恥ず かしい……。恥ずかしいから、そんなこと、できない」 その学生は、働いてお金を稼ぐことを、「カッコ悪い」と言う。「恥ずかしい」と言う。結局その 学生はその年には就職できず、一年間、カナダの大学へ語学留学をすることになった。もちろ んその費用は親が出した。 ●子どもを見れば、未来がわかる 当然のことながら日本の未来は、今の若者たちが決める。言いかえると、今の日本の若者 たちを見れば、日本の未来がわかる。で、その未来。最近の経済指標を見るまでもない。結論 から先に言えば、お先まっ暗。このままでは日本は、このアジアの中だけでも、ごくふつうの国 になってしまう。いや、おおかたの経済学者は、二〇一五年前後には、日本は中国の経済圏 にのみ込まれてしまうだろうと予想している。事実、年を追うごとに日本の影はますます薄くな っている。たとえばアメリカでは、今では日本の経済ニュースは、シンガポール経由で入ってい る(NBC)。どこの大学でも日本語を学ぶ学生は急減し、かわって中国語を学ぶ学生がふえて いる(ハーバード大学)。私たちは飽食とぜいたくの中で、あまりにも子どもたちを甘やかし過ぎ た。そのツケを払うのは、結局は子どもたち自身ということになるが、これもしかたのないことな のか。私たちが子どものために、よかれと思ってしてきたことが、今、あちこちで裏目にでようと している。 (参考) ●日本の中高生は将来を悲観 「二一世紀は希望に満ちた社会になると思わない」……。日韓米仏四カ国の中高生を対象に した調査で、日本の子どもたちはこんな悲観的な見方をしていることが明らかになった。現在 の自分自身や社会全体への満足度も一番低く、人生目標はダントツで「楽しんで生きること」。 学校生活で重要なことでは、「友達(関係)」を挙げる生徒が多く、「勉強」としたのは四か国で 最低だった。 財団法人日本青少年研究所(千石保理事長)などが二〇〇〇年七月、東京、ソウル、ニュー ヨーク、パリの中学二年生と高校二年生、計約三七〇〇人を対象に実施。「二一世紀は希望 に満ちた社会になる」と答えたのは、米国で八五・七%、韓仏でも六割以上に達したが、日本 は三三・八%と際立って低かった。自分への満足度では、米国では九割近くが「満足」と答えた が、日本は二三・一%。学校生活、友達関係、社会全体への満足度とも日本が四カ国中最低 だった。 希望する職業は、日本では公務員や看護婦などが上位。米国は医師や政治家、フランスは 弁護士、韓国は医師や先端技術者が多かった。人生の目標では、日本の生徒は「人生を楽し む」が六一・五%と最も多く、米国は「地位と名誉」(四〇・六%)、フランスは「円満な家庭」(三 二・四%)だった。 また価値観に関し、「必ず結婚しなければならない」と答えたのは、日本が二〇・二%だった のに対し、米国は七八・八%。「国のために貢献したい」でも、肯定は日本四〇・一%、米国七 六・四%と米国の方が高かった。ただ米国では「発展途上国には関心がない」「人類全体の利 益よりわが国の利益がもっと重要だ」とする割合が突出して高く、国際協調の精神が希薄なこ とも浮かんだ。 千石理事長は「日本の子どもはいつの調査でもペシミスティック(悲観的)だ。将来の夢や希 望がなく、今が楽しければよいという現在志向が表れている。一九八〇年代からの傾向で、豊 かになったことに伴ったのだろう」と分析している。 子どもと平和を考える法(自分の中の敵と戦え!) 子どもに平和を語るとき ●私の伯父は七三一部隊の教授だった 平和教育について一言……。 私の伯父は関東軍第七三一部隊の教授だった。残虐非道な生体実験をした、あの細菌兵器 研究部隊である。そのことがある本で暴露されたとき、伯母はその本を私に見せながら、人目 もはばからず、大声で泣いた。「父ちゃん(伯父)が死んでいて、よかったア〜」と。伯父はその 少し前、脳内出血で死んでいた。 ●「貴様ア! 何抜かすかア!」 ドイツのナチスは、一一〇〇万人のユダヤ人絶滅計画をたて、あのアウシュビッツの強制収 容所だけで、四〇〇万人のユダヤ人を殺した。そういう事実を見て、多くの日本人は、「私たち 日本人はそういうことをしない」と言う。しかし本当にそうか? ゲーテやシラー、さらにはベート ーベンまで生んだドイツですら狂った。この日本も狂った。狂って、同じようなことをした。それ があの七三一部隊である。が、伯父は私が知る限り、どこまでも穏やかでやさしい人だった。 囲碁のし方を教えてくれた。漁業組合の長もしていたので、よく鵜飼の舟にも乗せてくれた。い や、一度だけ、こんなことがあった。 ある夜、伯父と一緒に夕食をとっていたときのこと。伯父が新聞の切り抜きを見せてくれた。見 ると、伯父がたった一人で中国軍と戦い、三〇名の満州兵を殺したという記事だった。当時と してもたいへんな武勲で、そのため伯父は国から勲章をもらった。記事はそのときのものだっ た。が、私が「おじさん、人を殺した話など自慢してはダメだ」と言うと、伯父は突然激怒して、 「貴様ア! 何抜かすかア!」と叫んで、私を殴った。その夜私は、泣きながら家に帰った。 ●敵は私たち自身の中に もしどこかの国と戦争をすることになっても、敵はその国ではない。その国の人たちでもな い。敵は、戦争そのものである。あの伯父にしても、私にとっては父のような存在だった。家も 近かった。いつだったか私は私の血の中に伯父の血が流れているのを知り、自分の胸をかき むしったことがある。時代が少し違えば、私がその教授になっていたかもしれない。いや、戦争 が伯父のような人間を作った。伯父を変えた。繰り返すが伯父は、どこまでも穏やかでやさし い人だった。倒れたときも、中学校で剣道の指導をしていた。伯父だって、戦争の犠牲者なの だ。戦争という魔物に狂わされた被害者なのだ。つまり戦争には、そういう魔性がある。その魔 性を知ること。その魔性を教えること。そしてその魔性と戦うこと。敵は私たちの中にいる。そ れを忘れて、平和教育は語れない。 (付記) ●戦争の責任論 日本政府は戦後、一貫して自らの戦争責任を認めていない。責任論ということになると、その 責任は、天皇まで行ってしまう。象徴天皇を憲法にいだく日本としては、これは誠に都合が悪 い。そこで戦後、政府は、たとえば「一億総ざんげ」という言葉を使って、その責任を国民に押 しつけた。戦争責任は時の政府にではなく、国民にあるとしたわけである。が、それでは「日本 はますます国際社会から孤立し、近隣諸国との友好関係は維持できなくなってしまう」(小泉総 理大臣)。そこで、二〇〇一年の八月、小泉総理大臣は、「先の大戦で、わが国は、多くの 国々、とりわけアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」(第五六回全国戦没者追悼 式)と述べ、「わが国」という言葉を使って、その戦争責任(加害主体)は「政府」にあることを、 戦後はじめて認めた。が、しかし戦後、六〇年近くもたってからというのでは、あまりにも遅すぎ るのではないだろうか。 (参考) この「平和教育を語るとき」の原稿と同時に書いたのが、次の「杉原千畝副領事のビザ発給 事件」である。 ●杉原千畝副領事のビザ発給事件 「一九四〇年、カウナス(当時のリトアニアの首都)領事館の杉原千畝副領事は、ナチスの迫 害から逃れるために日本の通過を求めたユダヤ人六〇〇〇人に対して、ビザ(査証)を発給し た。これに対して一九八五年、イスラエル政府から、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えられ る勲章、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を授与された」(郵政省発行二〇世紀 デザイン切手第九集より)。 ●たたえること自体、偽善 ナチス・ドイツは、ヨーロッパ全土で、一一〇〇万人のユダヤ人虐殺を計画。結果、アウシュ ビッツの「ユダヤ人絶滅工場」だけでも、ソ連軍による解放時までに、約四〇〇万人ものユダ ヤ人が虐殺されたとされる。杉原千畝副領事によるビザ発給事件は、そういう過程の中で起き たものだが、日本人はこの事件を、戦時中を飾る美談としてたたえる。郵政省発行の記念切 手にもなったことからも、それがわかる。が、しかし、この事件をたたえること自体、日本にとっ ては偽善そのものと言ってよい。 ●杉原副領事のしたことは、越権行為? 当時日本とドイツは、日独防共協定(一九三六年)、日独伊防共協定(三七年)を結んだあ と、日独伊三国同盟(四〇年)まで結んでいる。こうした流れからもわかるように、杉原副領事 のした行為は、まさに越権行為。日本政府への背信行為であるのみならず、軍事同盟の協定 違反の疑いすらある。杉原副領事のした行為を正当化するということは、当時の日本政府がし たことはまちがっていると言うに等しい。その「まちがっている」という部分を取りあげないで、今 になって杉原副領事を善人としてたたえるのは、まさに偽善。いやこう書くからといって、私は 杉原副領事のした行為がまちがっていたというのではない。問題は、その先と言ったらとよい のか、その中味である。当時の日本といえば、ドイツ以上にドイツ的だった。しかも今になって も、その体質はほとんど変わっていない。どこかで日本があの戦争を反省したとか、あるいは 戦争責任を誰かに追及したというのであれば、話はわかる。そうした事実がまったくないまま、 杉原副領事のした行為をたたえるというのは、「今の日本人と戦争をした日本人は、別の人種 です」と言うのと同じくらい、おかしなことなのだ。 ●日本はだいじょうぶか? そこでこんな仮定をしてみよう。仮に、だ。仮にこの日本に、一〇〇万単位の外国人不法入 国者がやってくるようになったとしよう。そしてそれらの不法入国者が、もちまえの勤勉さで、日 本の経済を動かすまでになったとしよう。さらに不法入国者が不法入国者を呼び、日本の人口 の何割かを占めるようになったとしよう。そしてあなたの隣に住み、あなたよりリッチな生活をし 始めたとしよう。もうそのころになると、日本の経済も、彼らを無視するわけにいかない。が、彼 らは日本に同化せず、彼らの国の言葉を話し、彼らの宗教を信じ、さらに税金もしっかりと払 わないとする。そのとき、だ。もしそうなったら、あなたならどうする? あなた自身のこととして 考えてみてほしい。あなたはそれでも平静でいられるだろうか。ヒットラーが政権を取ったころ のドイツは、まさにそういう状況だった。つまり私が言いたいことは、あのドイツですら、狂ったと いうこと。この日本が狂わないという保証はどこにもない。現に二〇〇〇年の夏、東京都の石 原都知事は、「第三国発言」をして、物議をかもした。そして具体的に自衛隊を使った、総合 (治安)防災訓練までしている(二〇〇〇年九月)。石原都知事のような日本を代表する文化人 ですら、そうなのだ。 ●「日本の発展はこれ以上望めない」 ついでながら石原都知事の発言を受けて、アメリカのCNNは、次のように報道している。「日 本人に『ワレワレ』意識があるうちは、日本の発展はこれ以上望めない」と。そしてそれを受け てその直後、アメリカのクリントン大統領は、「アメリカはすべての国からの移民を認める」と宣 言した。日本へのあてこすりともとれるが、日本が杉原副知事をたたえるのは、あくまでも結果 論。チグハグな日本の姿勢を見ていると、どうもすっきりしない。石原都知事の発言は、「私た ち日本人も、外国で同じように差別されても文句は言いませんよ」と言っているのに等しい。多 くの経済学者は、二〇一五年には日本と中国の経済的立場は逆転するだろうと予測してい る。そうなればなったで、今度は日本人が中国へ出稼ぎに行かねばならない。そういうことも考 えながら、この杉原千畝副領事によるビザ発給事件、さらには石原都知事の発言を考える必 要があるのではないだろうか。 学校神話を打ち破る法(ズル休みをさせろ!) 常識が偏見になるとき ●たまにはずる休みを……! 「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと えば……。 ●日本の常識は世界の非常識 @学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が 教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州 政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多 いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人 を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと 言われている。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真 に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同 で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で 約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。 Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通 う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位 (※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中 にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年調べ)。こう した親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一 四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最 長二七歳まで支払われる。 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性 に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対 する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住 所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときは どうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ 氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待って いると、先生のほうから電話がかかってきます」と。 B進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中 高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に 話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子 も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行 き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。 ●そこはまさに『マトリックス』の世界 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身 の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな い。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなた にしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶 対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこ が仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。 ●解放感は最高! ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと 動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に 行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。 ※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後 三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ とができる。 ●「自由に学ぶ」 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」 を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。 それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政 治を行うための手段として用いられてきている」と。 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社 会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を 破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、 国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事 的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき ではないのか」と(以上、要約)。 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。 進学塾を考える法(進学塾のあくどさを知れ!) 進学塾が金儲けに走るとき ●学費を「ガクヒ」で落とす進学塾 進学塾の月謝は、平均して二万〜二万五〇〇〇円(月刊「私塾界」九九年)。しかしこの額で は、決してすまない。すまないことは、入塾してみると、わかる。入会金、教材費、光熱費、模 擬テスト代、特訓講座費、補講費などが、「万」単位で、次々とのしかかってくる。しかも支払い は、銀行振り込み。大半の進学塾は、そういう支払いをカモフラージュするために、「ガクヒ」と いう名目で引き落とす。親が通帳を見ても、学校の「学費」なのか、塾の「学費」なのかわから ないしくみになっている。まだ、ある。どこの進学塾も、夏休みや冬休みの特訓を、定例コース にしている。そういう連絡は前もって、目立たない方法で生徒にしておき、お金は自動的に引き 落とす。親が、「特訓授業を申し込んだつもりはない」と抗議しても、あとの祭り。「今からではキ ャンセルできません」と言われる。 ●結局は金儲け こうした進学塾のやり方は、ほぼどこの塾も同じ。はっきり言えば、親や子どもの不安を逆手 にとって、金儲けをする。たとえばたまたま今日、この原稿を書いている日に、この地域の進学 塾のチラシが新聞折込で入っていた。この静岡県では、高校入学が人間選別の節目になって いるが、その入学も、このところ約六〇%の合格者が学校の推薦で決まる。それについて、そ のチラシにはこうある。そのまま書く。「中三、冬期講習。内申点だけで合格できるほど、入試 は甘くない。実力伯仲の入試では、トップ高校はもちろん、各高校、それぞれの受験生の間 で、ほんの一題、わずか一点をかけた熾烈な争いが繰り広げられている」と。「甘い」とか「甘く ない」とか、そこらの進学塾に判断してもらっては困る。それこそ、いらぬお節介! ……とまあ、こう書くと、進学塾のあくどさばかりが目立つが、もともと進学競争の底流では、 人間のどす黒い欲望が渦巻いている。「他人を蹴落としてでも……」、あるいは「他人に蹴落と される前に……」と親は考えて、子どもを進学塾にやる。進学塾はそういう親の心理を、たくみ に利用して、それを金儲けにつなげる。現在ある進学塾の現状は、親と進学塾の、醜い闘い の結果ともいえる。塾の経営者に言わせれば、「親は信用できない」ということになるし、親に 言わせれば、「塾は必要悪」ということになる。もともと良好な人間関係が育つ土壌など、どこに も、ない。 ●塾のもつ矛盾と錯覚 一方、塾には塾の存在意義があると説く人たちもいる。塾こそ、自由教育の砦であると説く人 たちである。事実、すばらしい教育を実践している塾もあるにはある。しかしそういう塾でも、 「教育」と「受験指導」のジレンマの中で、もがき苦しんでいる。藤沢市在住の塾教師のI氏は、 「塾教育は、矛盾と錯覚の上に成り立っている」と結論づけている。矛盾というのは、今言っ た、ジレンマをさす。錯覚というのは、「大切でないものを、あたかも大切なものであると思いこ んで、教えることだ」そうだ。具体的には、受験教育そのものをさす。 ●「この時期だけだから」 この進学塾業界も、かつてない不況に見舞われている。少子化に不況。それにエリートの凋 落に見られる価値観の変化。それに中高一貫教育に見られる、制度の改変。これらが今、急 ピッチで進んでいる。そういう中、したたかな進学塾は、対象学年をより低年齢化させ、週二日 の授業を、週三日にふやしたりしている。金集めを、さらに巧妙化させている。親たちは、そう いう事実を知りながら、「この時期だけだから」とあきらめる。進学塾は、さらにそれを逆手にと る。もうそこには、「教育」という概念は、どこにもない。商売、だ。I氏はこうつなげる。
「この世界では、経験など、一片の価値もありません。親に教育論を説いてもムダです。そも
そもそういうものを塾に期待していない。生徒集めのチラシにしても、四色を使ったカラフルで 豪華なものでないと、生徒は集まりません。親は親で、子どもをお客様感覚で迎えてあげない と、文句を言う。そういう目でしか、教育をながめていないのですから」と。 ●塾の偽善、合格発表 毎年その時期になると、新聞の一面を借り切って、高校の合格者の名前が発表される。「S 高校、二三〇名合格。A高校、一五三名合格。B高校、八九名合格!」と。その下には、小さ い字でこう書いてある。「これらの合格者数の中には、夏期講座、冬期講座および模擬試験だ けの参加者の人数は含まれていません」と。進学塾としては、精一杯の誠意を演出したつもり なのだろうが、こういうのを偽善という。少し前までは、講座や模擬試験に参加した生徒まで合 格者に加えていた。それをマスコミがたたいたから、こういうことを書くようになった。事実、こう した合格者の陰で、いかに多くの、それ以上の数の子どもたちが不合格で泣いていることか! もしこうした進学塾の経営者に、良心のひとかけらもあるなら、こんな宣伝は、不合格した子 どもやその親に申し訳なくてできないはずだ。進学塾も少しは自分に恥じたらよい。 日本の教育レベルを考える法(規制を緩和せよ!) 日本の教育レベルがさがるとき ●日本の教育レベルは一六五カ国中、一五〇位? 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い 分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。あるいは こんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験) で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国 は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)だそうだ。オーストラリアあた りでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしか いない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、二五〇人もの受賞 者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのは 勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当 たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということ でしたが、まるでプロレスの授業でした」と。 ●低下する教育力 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校 の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。 いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師 が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が 「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで いる」(※1)と。 さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。今では分 数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正 解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西村和雄氏)(※2)だそうだ。日 本では大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言 った。「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本か ら受験制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部 の学生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い 方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%も ふえた。むべなるかな、である。 ●規制緩和は教育から 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと 生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護 送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね ばならない。が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、す でに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にあ る、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシ ア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。もちろん数学、英語、科学、地 理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。芸術は、 ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャン プ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボ ルン・ウェズリー・グラマースクール)。 ●規制緩和が必要なのは教育界 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。だいたいにおいて、頭ガチガチ の文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育という のはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵 時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている! 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社 人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために 命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ れからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められ るためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもし れない。よい例が、日本の総理大臣だ。 ●ヘラヘラする日本の首相 G8だか何だか知らないが、日本の総理大臣は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる (二〇〇〇年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。一国の長なのだ から、通訳なしに日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではない のか。が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。 そういう総理大臣しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかなら ぬ、日本の教育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも一五〇位レベ ル? 政治も一五〇位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。 ※1……東京都教育委員会は、「都立高校マネジメントシステム検討委員会」を設置した(二〇 〇一年六月)。これはともすれば経営感覚を無視しがちな学校運営者(校長)に、経営感覚を もってもらおうという趣旨で設置されたものだが、具体的には、各学校に進学率などの数値目 標を設定させ、目標達成に向けた校内体制を整備させようというもの。つまり進学率や高校へ の応募倍率、さらには定期考査の平均点などで、学校が評価されるという。またこれに呼応す るかのように、東京都では「代々木ゼミナール」などの予備校での教員研修を始めている(二 〇〇一年一〇月より)。 ※2……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであ ったという。 調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研 究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平 均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年 生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。 さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五 九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。 ●学力は世界第五位 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学 生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オ ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次 いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多い ということ。たとえば中学校では週四〜五時間を数学の時間をあてている(静岡県公立中学 校)。アメリカのばあい、単位履修制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週 三〜四時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、ほとんどの学校では、小学一、二年の間 は、テキストすら使っていない。 ●今の改革でだいじょうぶ? また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点) だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学 校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持し ていると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、 「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対 照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科 が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外 で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビ やビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。 同じような調査だが、ベネッセコーポレーションの「第三回学習基本調査」によれば、次のよう になっている(二〇〇一年五月と六月に小、中、高校生約八七〇〇人について調査)。 学習時間が三〇分以下……小学生 四〇・三% 中学生 三〇・七% 高校生 三七・一% 家ではほとんど勉強しないと答えた中、高校生……二三・一% 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていること が、これらの調査でわかる。 明日の教育を考える法(不公平社会を是正せよ!) 日本の社会が不公平になるとき ●日本は民主主義国家? Yさん(四〇歳女性)は、最近、二〇年来の友人と絶交した。その友人がYさんにこう言ったか らだ。「こういう(不況の)時代になってみると、夫が公務員で本当によかったです」と。たったそ れだけのことだが、なぜYさんが絶交したか。あなたにはその理由がわかるだろうか。 ●知事も副知事も皆、元中央官僚 平安時代の昔から、日本は官僚主義国家。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐ら く日本人だけ。三〇年前だが、オーストラリアの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国 家」となっていた。「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。当時の私はこの記述 に猛烈に反発したが、しかしそれから三〇年。日本はやはり官僚主義国家だった。 現在の今でも、全国四七都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜九 の県では副知事も元中央官僚(二〇〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元中 央官僚。いや、官僚が政治家になってはいけないというのではない。問題は、こうした官僚によ る支配体制が、日本の社会をがんじがらめにし、それが一方で日本の社会を硬直化させてい るということ。それが悪い。 ●がんじがらめの日本の社会 たとえばよく政府は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。 が、これはウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこの ほか、公団、公社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの 職員の数だけでも、「日本人のうち七〜八人に一人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。が、こ れですべてではない。この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、 協会、組合、施設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全国の 津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体 が、一八〇〇団体近くもある。こうした団体が日本の社会そのものを、がんじがらめにしてい る。そのためこの日本では、何をするにも許可や認可、それに資格がいる。息苦しいほどまで の管理国家と言ってもよい。そこで構造改革……ということになるが、これがまた容易ではな い。 ●日本は平安の昔から…… 平安の昔から、官僚が日本を支配するという構図そのものが、すでにできあがっている。「日 本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者もいる。こうした団体で働く職員は、この不況も どこ吹く風。まさに権利の王国。完全な終身雇用制度に守られ、満額の退職金に月額三〇〜 三五万円近い年金(旧国鉄職員)を手にしている。「よい仕事をするためには、身分の保証が 必要条件」(N労働組合、二〇〇一年度大会決議)と豪語している労働組合すらある。こういう 日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にするほうが、おかしい。実際、こうした 団体の職員の数は、今の今も、ふえ続けている。 ●不公平社会の是正こそ先決 この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受ける。そうでない人はまったくと言ってよいほ ど、受けない。もちろん一人ひとりの、つまりそれぞれの公務員に責任があるわけではない。な いが、こうした社会から受ける不公平感は相当なもので、それがYさんを激怒させた。 Yさんはこう言った。「私たちは明日の生活をどうしようと、あちこちを走り回っているのです。そ ういうときそういうことを言われると、本当に頭にきます」と。が、それではすまない。この不公 平が結局は、学歴社会の温床になっている。いくら親に受験競争の弊害を説いたところで、意 味がない。親は親で、「そうは言っても現実は現実ですから……」と言う。現に今、大学生の人 気職種ナンバーワンは、公務員(財団法人日本青少年研究所・二〇〇一年調査)。ちょっとし た(失礼!)公務員採用試験でも倍率が、一〇倍から数一〇倍になる。なぜそうなのかというと ころにメスを入れない限り、日本の教育に明日はない。 日本の教育を見なおす法(教育を自由化せよ!) 日本の教育が遅れるとき ●英語教育はムダ? D氏(六五歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英 語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法がまかり 通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地 球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏 は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてか ら、英語の勉強をしても遅くはない」と。 ●多様な未来に順応できるようにするのが教育 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、 公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。たとえばルイ サ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、四歳児から子どもを預か り、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にその ことについて聞くと、こう教えてくれた。「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対 応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使 館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子ども たちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカ ナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語ク ラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは! ●文法学者が作った体系 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法 学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こういう教育を「教育」と思い込まされている日 本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。たとえば英語という科目にしても、大 切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それ を動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます 英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答え る。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。 ●数学だって、無罪ではない 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。こう した教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上 で必要な基礎学力だ」と。もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、そ れを説明してほしい。「なぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。ま た学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上 から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。現に今、中学生の五六・五%が、この数学 も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているとい うではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学習基本調査」二〇〇一年)。 ●教育を自由化せよ さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい 親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学び たくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はない という人もいる。要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、 カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校 ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のある べき姿ではないのか。それでほとんどの問題は解決する。 ※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示している が、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はそのガ イダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。 ※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日イ ギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九〇年代半 ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われた認識があ った。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はIT(情報技術)革 命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に直面しているが、こ れも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急激に変化する世界で生 活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度が必要と考えたからであ る」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあった が、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革 は、サッチャー首相の時代から、もう丸四年になろうとしている(二〇〇一年一一月)。 |