●神々の言葉
私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わないが、しかしこの本がその原点にあることはまちがいない。
その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(ぎはく)という学者の問答形式で書かれているが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾につぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。
一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」という形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書いている。
そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威ということになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由がある。
黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいかどうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。
もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこの私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるものは、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはできない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同じことが言えるが……。
●黄帝内経(こうていだいけい)の謎
私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎのような記述があることを知ったときのことだ。
黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にある」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいのか。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦七六二年の常識ではなかったはずである。ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるのが正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつである。その気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の状態ということになる。
もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのではないかと思う。
話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえた。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から五五〇〇年前ということになる。(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。
●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか
黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。
たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほうでは、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には一年のずれを生じます……」とある。薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。この部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……
「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこにもない!)
こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたともとれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的背景を忘れてはいけない。
が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについて、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」というように反論する。しかしこの視点はおかしい。もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除されたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されない。私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向こうにある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。
●三六五日余で、もとに戻るものは何か
黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とある。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。
今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。
しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そんな常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こうある。
「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きについて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほうが正しい。その理由はいくつかある。
もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。
つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改めて書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそまさに木に竹をつぐような文章になってしまう!
ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はおろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳している。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれは正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回って)」と訳すと、意味がすっきりする。
「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもどる」と。
地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転している。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったものである。
※コペルニクス
(ラテンNicolaus Ccpernicus ニコラウス―)本名はコペルニク。ポーランドの天文学者で、ローマカトリック教会の聖職者。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動説を提唱。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。(一四七三〜一五四三)
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