はやし浩司

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 子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司

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あと片づけとあと始末(1)

 あと片づけとあと始末は、基本的に違う。たとえば「部屋に散らかったものを片づける」は、あ
と片づけ。「使った食器をシンクへもっていき、そこで食器を洗い、ナプキンでふく」は、あと始
末。日本人はあと片づけには、うるさいが、あと始末には甘い。これは日本人の国民性のよう
なもの。日本人は何かにつけて、責任の所在をはっきりさせるよりも、ものごとをナーナーです
まそうとする。
 オーストラリア人の子育てをみても、彼らはあと片づけには、それほどうるさくない。子ども部
屋だと、散らかっているのが当たり前という状態。しかしあと始末にはうるさい。冷蔵庫から出
したものを、テーブルの上に置いておこうものなら、子どもたちは親にひどく叱られる。そうそう
以前、こんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「ヒロシ、日本の子どもたちは、皆、スポイ
ルされているよ」と。「スポイル」というのは、「ドラ息子化している」という意味だ。そこで私が「君
はどんなところを見てそう言うのか」と聞くと、こう話してくれた。
 彼はときどき日本の子どもたち(英会話教室の生徒)を、自宅にホームステイさせているのだ
が、それについて、「食事の前に料理を手伝わない」「食後も食器を洗わない」「シャワーを浴び
ても、アワを流さない」「朝起きても、ベッドをなおさない」「……何もしないのだよ」と。
 あと片づけをうるさく言い過ぎると、かえって子どもにとっては居心地の悪い世界になってしま
う。アメリカの作家のソローも、こう言っている。「ビロードのクッションの上に座るよりも、カボチ
ャンの頭に座るほうが、休まる」と。しかしあと始末は別。子どもにはどんどんとあと始末をさせ
る。そういう習慣が、責任感の強い子どもをつくる。


子どもの横を歩く(2)

 親には三つの役目がある。一つ目に子どもの前を歩く。子どものガイドとして。二つ目に、子
どものうしろを歩く。子どもの保護者として。そして三つ目に、子どもの横を歩く。子どもの友とし
て。昔、オーストラリアの友人が話してくれたことだ。
 日本人の子育てをみると、このうち一つ目と二つ目については問題はない。が、三つ目が弱
い。自分の子どもを「友」としてとらえていえる人は、少ない。あるいはそう感じていても、一方で
昔からの「親意識(権威意識)」が強いため、どうしても子どもを「下」に見てしまう。そこでテス
ト。
 あなたの子どもがあなたに向かって、「バカヤロー」と怒鳴ったとする。そのとき、あなたは、
@「『親に向かって、何だ!』と子どもを叱る。そういうことを言うのは許さない」、A「子どものこ
とだから口が悪いのは当たり前。相手にしない」の、どちらだろうか。親意識の強い人ほど、@
のように感ずるし、そうでない人ほど、Aのように感ずる。もちろんその中間もある。またこう書
いたからといって、子どもが親に「バカヤロー」と言うのを容認せよということでもない。むしろ問
題は、子どもがそういうことを言えないほどまでに、親の親意識で子どもを抑え込んでしまうこ
と。子どもは親の前では仮面をかぶるようになり、そのかぶった分だけ、子どもの心はあなた
から離れる。
 子どもと「友」になるということは、子どもの言いなりになれということではない。子どもを甘や
かせということでもない。子どもの「友」になるということは、子どもを「下」に見るのではなく、対
等の人間としてみるということ。たとえばアメリカでは、親子でもこんな会話をしている。父「お前
は、パパに何をしてほしい?」、子「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と。こうした謙虚な気持ち
が、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。 


家庭教育の誤解(3)

@忍耐力……よく「うちの子はサッカーだと一日中している。ああいう力を勉強に向けさせた
い」という親がいる。しかしこういう力は忍耐力とは言わない。好きなことをしているだけ。子ど
もにとって忍耐力というのは、「いやなことをする力」をいう。たとえば台所の生ゴミを手で始末
する、風呂場の排水口にたまった毛玉を始末するとか、そういうことができる子どもを忍耐力
のある子どもという。
Aやさしさ……公園でブランコを横取りされたとする。そういうときニッコリと笑いながら、その
ブランコを明け渡すような子どもを、「やさしい子ども」と考えている人がいる。しかしこれも誤
解。このタイプの子どもは、それだけ」ストレスをためやすく、いろいろな問題を起こす。子ども
にとって「やさしさ」とは、いかに相手の立場になって、相手の気持ちを考えられるかで決まる。
もっと言えば、相手が喜ぶように自ら行動する子どもを、やさしい子どもという。そのやさしい子
どもにするには、買い物に行っても、いつも、「これがあるとパパが喜ぶわね」「これを買ってあ
げるから、妹の○○に半分分けてあげてね」と、日常的にいつもだれかを喜ばすようにしむけ
るとよい。
Bまじめさ……従順で、言われたことをキチンとするのを、「まじめ」というのではない。まじめと
いうのは、自己規範のこと。こんな子ども(小三女子)がいた。バス停でたまたま会ったので、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、こう言った。「これから家で夕食を食べます
から、いらない。缶ジュースを飲んだら、ごはんが食べられなくなります」と。こういう子どもを「ま
じめな子ども」という。
Cすなおさ……やはり言われたことに従順に従うことを、「すなおな子ども」と考えている人は
多い。しかし教育の世界で「すなおな子ども」というときは、心の状態(情意)と、顔の表情が一
致している子どもをいう。怒っているときには、怒った顔をする。悲しいときには悲しい顔をす
る、など。情意と表情が一致しないことを、「遊離」という。子どもにとっては、たいへん望ましく
ない状態と考えてよい。たとえば自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)がいる。このタイプ
の子どもの心は、柔和な表情をしたまま、まったく別のところにある。
Dがまん……子どもにがまんさせることは大切なことだが、心の問題とからむときは、がまん
はかえって逆効果になるから注意する。たとえば暗闇恐怖症の子ども(三歳児)がいた。子ど
もは夜になると、「こわい」と言ってなかなか寝つかなかったが、父親はそれを「わがまま」と決
めつけて、いつも無理に寝させていた。がまんさせるということは、結局は子どもの言いなりに
ならないこと。そのためにも 親側に、一本スジのとおったポリシーがあることをいう。そういう
意味で、子どものがまんの問題は、決して子どもだけの問題ではない。


子どもに与えるものは、一〇〇倍(4)

 子どもの金銭感覚は、幼稚園の年長児から小学二年ぐらいにかけて完成する。「ふえた」「減
った」「トクをした」「損をした」など。お金で物欲を満たす、その満たし方まで、この時期に覚え
てしまう。そういうわけでこの時期の金銭感覚が狂うと、あとがたいへん。そこで、子どもに買い
与えるものは、心の中で一〇〇倍するとよい。たとえば一〇〇円のものは一万円。一〇〇〇
円のものは一〇万円、と。つまり子どもが一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円
のものから得る満足感と同じということ。一〇〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一〇
万円のものから得る満足感と同じということ。この時期に、一〇〇〇円や一万円のものをホイ
ホイと買い与えていると、やがて子どもが大きくなり、高校生や大学生になったとき、それこそ
一〇万円のものや、一〇〇万円のものを買い与えないと、満足しなくなる。もしあなたにそれだ
けの財力があれば話は別だが、安易な気持ちで買い与えるようなことは、やめたほうがよい。
 また「より高価なものを買ってあげればあげるほど、深い親の愛のあかし」と考えている人が
いる。戦後のあのひもじい時期を過ごした人ほど、この傾向が強い。しかしこれはまったくの誤
解。ではどうするか。
 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、魚釣りに釣れていけ』というのがあ
る。子どもの心をつかみたかったら、子どもにものを買い与えるより、魚釣りに行けという意味
だが、これは子育ての基本でもある。多くの親は、「高価なものを買い与えてやったから、子ど
もは親に感謝しているはず」と考える。しかし実際には、感謝などしていない。「ありがとう」とは
言うが、その場だけ。あるいはたいていのばあい、かえって逆効果。
 子どもの場合、不自由やひもじさ、さらには思いどおりにならないことが、子どもの生活力を
養う原動力となる。また子どもの心をとらえるということは、もっと別のこと。そういうことも考え
ながら、子どもの金銭教育を考える。


知識と「考えること(思考)」は別(5)

 たいていの親は、知識と思考を混同している。「よく知っている」ことを、「頭のよい子」イコー
ル、「よくできる子」と考える。しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえば幼稚園児でも、掛け
算の九九をペラペラと言う子どもがいる。しかしそういう子どもを、「頭のよい子」とは言わな
い。「算数がよくできる子」とも言わない。中には、全国の列車の時刻表を暗記している子ども
もいる。音楽の最初の一章節を聞いただけで、曲名をあてたり、車の一部を見ただけで、メー
カーと車種をあてる子どももいる。しかし教育の世界では、そういうのは能力とは言わない。「こ
だわり」とみる。たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、こうしたこだわりをも
つことが知られている。
 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、考えること自体
を避けようとする。あるいは考えること自体から逃げようとする。一つの例だが、夜のテレビを
にぎわすバラエティ番組がある。ああいった番組の中では、見るからに軽薄そうなタレントが、
思いついたままをベラベラというより、ギャーギャーと騒いでいる。彼らはほどんど、自分では
何も考えていない。脳の、表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言葉にしてい
るだけ。つまり頭の中はカラッポ。
 パスカルは「パンセ」の中で、『人間は考えるアシである』と書いている。この文を読んで、「あ
ら、私もアシ?」と言った女子高校生がいた。しかし先にも書いたように、「考える」ということ
は、もっと別のこと。たとえば私はこうして文章を書いているが、数時間も書いて、その中に、
「思考」らしきものを見つけるのは、本当にマレなことだ。(これは多分に私の能力の限界かも
しれないが……。)つまり考えるということは、それほどたいへんなことで、決して簡単なことで
はない。そんなわけで残念だが、その女子高校生は、そのアシですら、ない。彼女もまた、ただ
思いついたことをペラペラと口にしているだけ。
 多くの親は、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」と子どもに知識をつけさせることを、教育と
思い込んでいる。しかし教育とはもっと別のこと。むしろこういう教育観(?)は子どもから「考え
る」という習慣をうばってしまう。私はそれを心配する。


いつも前向きの暗示を(6)

 「あなたはどんどんよくなる」「あなたはさらにすばらしい子になる」という、前向きの暗示が、
子どもを伸ばす。前向きに伸びている子どもは、ものごとに積極的で攻撃的。何か新しいこと
をしようかと提案すると、「やる」「やりたい」とか言って、くいついてくる。これは家庭教育の常識
だが、しかし問題は、子どもにというより、親にある。
 親自身がまず子どもを信ずること。「うちの子はすばらしい子だ」という思いが、子どもを伸ば
す。心というのはそういうもので、長い時間をかけて、相手に伝わる。言葉ではない。そこでテ
スト。
 あなたが子どもを連れて街の中を歩いていたとする。すると向こうから高校時代の同級生が
歩いてきた。そしてあなたの子どもを一度しげしげと見たあと、「(年齢は)いくつ?」と聞いたと
する。そのときあなたはどのように感ずるだろうか。
 自分の子どもに自身のある親はこういうとき、「まだ」という言葉を無意識のうちに使う。「まだ
五歳ですけど……」と。「うちの子はまだ五歳だけど、すばらしい子どもに見えるでしょ」という気
持ちからそう言う。しかし自分の子どもに自信のない親は、どこか顔をしかめながら、「もう」と
いう言葉を使う。「もう五歳なんですけどねえ」と。「もう五歳になるが、その年齢にふさわしくな
い」という気持ちからそう言う。もちろんその中間ということもあるが、もしあなたが後者のような
なら、あなたの心をつくりかえたほうがよい。でないと、あなたの子どもから明るさがますます消
えていく。そうなればなったで、子育ては大失敗。ではどうするか。
 子どもというのは、一度うしろ向きになると、どこまでもうしろ向きになる。そして自ら伸びる芽
をつんでしまう。こんな子ども(中学女子)がいた。ここ一番というところになると、いつも、「どう
せ私はダメだから」と。そこでどうしてそういうことを言うのかと、ある日聞いてみた。すると彼女
はこう言った。「どうせ、○○小学校の入試で落ちたもんね」と。その子どもは、もうとっくの昔に
忘れてよいはずの、しかも一〇年近くも前のことを気にしていた。こういうことは子どもの世界
ではあってはならない。
 そこでどうだろう。今日からでも遅くないから、あなたもあなたの子どもに向かって、「あなたは
すばらしい子」を言うようにしてみたら……。最初はウソでもよい。しかしあなたがこの言葉を自
然な形で言えるようになったとき、あなたの心は今とは変わっているはずである。当然、あなた
の子どもの表情も明るくなっているはずである。


子どもの横を歩く(7)

 親意識の強い人は、「子どものことは私が一番よく知っている」と、何でもかんでも親が決め
てしまう。子どもの意思など、まったくの無視。たとえばおけいこごとを始めるときも、またやめ
るときもそうだ。「来月から、○○音楽教室へ行きますからね」「来月から、今の教室をやめて、
△△教室へ行きますからね」と。子どもは親の意向に振りまわされるだけ。
 こうした子育てのリズムは、親が子どもを妊娠したときから始まる。ある母親は胎教と称し
て、毎日おなかの子どもに、クラッシックや英会話のテープを聞かせていた。また別の母親は、
時計とにらめっこをしながら、その時刻になると赤ちゃんがほしがらなくても、ミルクを赤ちゃん
の口につっこんでいた。さらにこんな会話をしたこともある。ある日一人の母親が私のところに
きて、こう言った。
 「先生、うちの子(小三男児)を、夏休みの間、サマーキャンプに入れようと思うのですが、どう
でしょうか?」と。その子は、ハキのない子どもだった。母親はそれを気にしていた。そこで私が
「お子さんは行きたがっているのですか?」と聞くと、「それが行きたがらないので、困っている
のです」と。こうしたリズムは、一事が万事。そこでこんなテスト。
 あなたの子どもがまだヨチヨチ歩きをしていたころ、@あなたは子どもの前を、子どもの手を
引きながら、ぐいぐいと歩いていただろうか。それともA子どものうしろや横に回りながら、子ど
ものリズムで歩いていただろうか。Aのようであれば、よし。しかしもし@のようであれば、その
ときから、あなたとあなたの子どものリズムは乱れていたとみる。今も乱れている。そしてやが
てあなたは子どもとこんな会話をするようになる。
 母「あんたは、だれのおかげでピアノを弾けるようになったか、それがわかっているの。お母
さんが毎週、高い月謝を払って、あなたを音楽教室へ連れていってあげたからよ」、子「いつ、
だれが、お前にそんなことをしてくれと頼んだア!」と。
 そうならないためにも、子どもとリズムを合わせる。(子どもはあなたにリズムを合わせること
はできないので。)今日からでも遅くないから、子どもの横かうしろを歩く。たったそれだけのこ
とだが、あなたはすばらしい親子関係を築くことができる。


方向性は図書館で(8)

 子どもの方向性を知るためには、子どもを図書館へ連れていけばよい。そして数時間なら数
時間、自由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを、静かに観
察する。そのときその子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。たとえばサッカ
ーの好きな子どもは、サッカーの本を読む。乗り物や機械的なものが好きな子どもは、そういう
類の本を読む。この方向性をうまく利用すれば、子どもは伸びるし、それにさからえば、子ども
は伸びない。こんな例がある。
 子どもに「好きな本を一冊買ってあげるから、選びなさい」と言っておきながら、子どもが何か
本を選んでくると、「こんな本ではダメ。もっとおもしろいのにしなさい」と。こういう親の身勝手さ
は、子どもの方向性をつぶす。それがたとえ親の意向に反したものであっても、「おもしろそう
ね。ママも読んでみたいわ」と言ってあげる。そして子どもの方向性を前向きに伸ばしてあげ
る。たとえば本は嫌いでも、ゲームの攻略本は読むという子どもはいくらでもいる。そういうとき
は、ゲームの攻略本を利用して、本のおもしろさを子どもに教えればよい。
 要するに子育てで押しつけは禁物。イギリスの格言にも、「馬を水場に連れていくことはでき
ても、水を飲ませることはできない」というのがある。つまり最終的にどういう方向を選ぶかは、
子どもの問題。親のできることにも限界があるということ。また多くの親は、「うちの子はやれば
できるはず」と言う。それはそうだが、しかしやる、やらないも、「力」のうち。そういうときは「や
ってここまで」とあきらめる。このあきらめが子どもを伸ばす。
 話はそれたが、これからはプロが伸びる時代。そのためには、子どもの一芸を大切にする。
この一芸が子どもを側面から支え、ばあいによっては、子どもの職業となることもある。そうい
う意味でも、子どもの方向性は大切にする。


親像はぬいぐるみで(9)

 子ども(幼児から小学低学年児)に、母性や父性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人
形を抱かせてみればわかる。母性や父性が育っている子どもは、ぬいぐるみを手にすると、さ
もいとおしいといった表情で、それを抱く。中には頬をすりよせてくる子どももいる。しかしそうで
ない子どもは、ぬいぐるみをみたとたん、足でキックしたりしてくる。私が調べたところ、幼稚園
の年長児で、男女を問わず、一〇人のうち八名が、ぬいぐるみを見せるとうれしそうな顔をし、
約二人弱が、反応を示さないか、あるいはキックしたりするのがわかった。さらに小学校の四、
五年児について調べてみると、約八〇%が、「ぬいぐるみ大好き」と答え、そのうち約半数が、
ごく日常的に多くのぬいぐるみと接しているのがわかった。
 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり親によって育てられたという経
験が身にしみこんでいて、今度は自分が親になったとき、子育てができるようになる。それを
「親像」という。が、不幸にして、不幸な家庭で育てられ、この親像がしっかりしていない人がい
る。しかし問題は親像がないことではない。むしろ何不自由なく、親の温かい愛情に恵まれて
育った人のほうが少ない。問題は、その親像のないことに気づかないまま、それに引きまわさ
れ、同じ失敗を何度も繰り返すことである。ある父親は、私にこう相談してきた。「娘を抱いてい
ても、どれだけ抱けばいいのか。どう抱けばいいのか。それがわからない」と。その父親は、彼
の父親を戦争でなくし、母親の手だけで育てられていた。つまり彼の中には「父親像」がなかっ
た。
 話がそれたが、これだけは言える。ぬいぐるみを見せたとき、いとおしそうな表情を示す子ど
もは、将来、やさしいパパやママになることができる。(そうでない子どもは、そうでなくなるとは
言えないが……。)そんなわけでもし心配な点があるなら、子どもにはぬいぐるみをもたせると
よい。これには男女の差別はない。またあってはならない。男の子でも、ぬいぐるみで遊んでい
る子どもはいくらでもいる。


一芸を大切に(10)

 子どもには一芸をもたせる。「一芸」というのは、子どもの側からすれば、「これだけは絶対に
人には負けない」というもの。周囲の側からすれば、「このことについては、あいつにかなうもの
はいない」というもの。この一芸が子どもを伸ばす。あるいは子どもを側面から支える。中に
は、「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、あと
は坂をころげ落ちるかのように、成績がさがる。
 一芸は、見つけるもの。この一芸は、つくろうとしてつくれるものではない。子どもの日ごろの
様子を観察していると、「これは!」というものに気がつく。それが一芸。ある女の子(一歳)は、
風呂の中でも平気で湯にもぐって遊んでいた。そこで母親がその子どもを水泳教室へ入れて
みたが、案の定、「水を得た魚」のように泳ぎ始めた。また別の男の子(五歳児)は、父親が新
車を購入すると、スイッチに興味をもち、「このスイッチは何だ」と聞きつづけた。そこで私に相
談があったので、パソコンを買ってあげることをすすめた。この子どもも予想通り、パソコンに
夢中になり、やがて小学三年生になるころには、ベーシック言語で、自分でつくったゲームで遊
ぶようになった。
 ただし同じ一芸でも、ゲームがうまいとか、カードをたくさん集めるとかいうのは、ここでいう一
芸ではない。一芸というのは、将来に向って創造的なもの、あるいは努力と練習によって、より
光る要素のあるものをいう。そういう一芸を子どもの中に見つけたら、思い切り時間とお金をか
ける。この「思い切りのよさ」が、子どもの一芸を伸ばす。
 さらにその一芸が、子どもの天職になることもある。ある男の子(高校生)は、ほとんど学校
へ行かなかった。毎日、近くの公園でゴルフばかりしていた。しかし一〇年後、会ってみると、
彼はゴルフのプロコーチになっていた。当時私は四〇歳前後だったが、そのときすでに、私の
年収の何倍ものお金を稼いでいた。同じように中学時代、手芸ばかりしている女の子がいた。
学校ではほとんど目立たなかったが、今、市内の中心部で、大きなブテイックの店を構えてい
る。一芸には、そういう意味も含まれる。


過関心は百害のもと(11)

 ある朝、一人の母親から電話がかかってきた。そしてものすごい剣幕でこう言った。いわく、
「学校の席がえをするときのこと。先生が、『好きな子どうし並んでいい』と言ったが、(私の子ど
ものように)友だちのいない子どもはどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮が足り
ない。こういうことは許せない。先生、一緒に学校へ抗議に行ってくれないか」と。その子どもに
は、チックもあった。軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、そういうこ
とはこの母親にはわかっていない。もし問題があるとするなら、むしろ母親のほうだ。こんなこ
ともあった。
 私はときどき、席を離れてフラフラ歩いている子どもにこう言う。「おしりにウンチがついてい
るなら、歩いていていい」と。しかしこの一言が、父親を激怒させた。ある夜、猛烈な抗議の電
話がかかってきた。いわく、「おしりのウンチのことで、子どもに恥をかかせるとは、どういうこと
だ!」と。その子ども(小三男児)は、たまたま学校で、「ウンチもらし」と呼ばれていた。小学二
年生のとき、学校でウンチをもらし、大騒ぎになったことがある。もちろん私はそれを知らなか
った。
 しかし問題は、席がえでも、ウンチでもない。問題は、なぜ子どもに友だちがいないかというこ
と。さらにはなぜ、小学二年生のときにそれをもらしたかということだ。さらにこうした子どもどう
しのトラブルは、まさに日常茶飯事。教える側にしても、いちいちそんなことに神経を払ってい
たら、授業そのものが成りたたなくなる。子どもたちも、息がつまるだろう。教育は『まじめ七
割、いいかげんさ三割』である。子どもは、この「いいかげんさ」の部分で、息を抜き、自分を伸
ばす。ギスギスは、何かにつけてよくない。
 親が教育に熱心になるのは、それはしかたないことだ。しかし度を越した過関心は、子どもを
つぶす。人間関係も破壊する。もっと言えば、子どもというのは、ある意味でキズまるけになり
ながら成長する。キズをつくことを恐れてはいけないし、子ども自身がそれを自分で解決しよう
としているなら、親はそれをそっと見守るべきだ。へたな口出しは、かえって子どもの成長をさ
またげる。


子どもの心を大切に(12)

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無
理をすればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、
それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のよう
なものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。
 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。
子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。
 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるい
はあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子ども
には期待しないこと。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言
い方かもしれないが、子育てというのは、もともとそういうもの。


自分を知る(13)

 多動児と呼ばれる子どもがいる。診断基準のひな形が、二〇〇一年の春にできたばかりだ
から、正式には、この日本には多動児、つまり集中力欠如型多動性児(ADHD児)はいないと
いうことになる。それはともかくも、実際には、このタイプの子どもは、二〇名のうち約一人の割
でいる。が、問題はこのことではない。
 D君(中二)の男の子がいた。私はその子を、幼稚園の年中児のときから、中学三年まで教
えた。多動児だった。そのため、本当に苦労した。親も苦労した。学校の先生も苦労した。どう
苦労したかは、教えたものでないとわからないだろう。が、その子も、小学高学年になるころに
は落ち着きはじめ、中学生になるころには、騒々しさは残ったものの、まあ、ふつうの子どもと
いう感じになった。そのD君にこう話しかけたときのこと。私がそれとなく、「君は、小学生のこ
ろ、腕白で、みんなに迷惑をかけたのだが、それを覚えているか」と聞くと、D君は、こう言っ
た。「いいや、ぼくは何もしてない。みんな、ぼくのことを目の敵にして、ぼくばかり叱った」と。そ
こであれこれ遠まわしな言い方で、D君自身に問題がなかったのかを聞いてみたが、D君は
「なかった。ぼくはふつうだった」と。
 私はD君を前にして、考え込んでしまった。D君はまるで自分のことがわかっていなかった。
おそらく彼が教職の道を選んで、教師になって、多動児について学んでも、「自分がそうだっ
た」とは決して思わないだろう。いや、私が考え込んだのは、実のところD君のことではない。自
分のことだ。私は私のことは一番よく知っていると思っている。しかしそう思っているのは、自分
だけ。実のところ、自分のことはまったくわかっていないのでは……、と。
 自分を知るということは、本当にむずかしい。方法がないわけではないが、それについてはま
た別の機会に書く。ともかくも、私はD君を前にして、本当に考え込んでしまった。「人間という
のは、そういうものか」と。D君はそれを私に教えてくれた。


音読と黙読は違う(14)

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の文章題。
読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこちの数字を集め
て、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題をよく読まないのでしょ
う」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なことではない。
 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度
自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさど
る。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つ
まり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を
覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度
読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口をとじて本を読んで
ごらん」と指示する。ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約
三〇%程度、読解力が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。
 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別
の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」
ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、も
っとも効果的な方法である。
 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。


計算力は早数えで(15)

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせてほし
い。早く数えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができ
る。そうでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。
 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最
初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに
「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数え
ることができるようになる。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個く
らいのものを、瞬時に数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎
となる。たとえば、「3+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算
するなど。
 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算
が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。た
だし一言。
 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引
き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではな
い)、それは少し待ってほしい。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単
なことではない。子どもというのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得を
した、損をした」という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもを
して、算数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も忘れないように!


はだし教育を大切に(16)

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、いつも最
後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、ほとんど、は
だしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見られたこともありま
す」と。その子どもは二歳になるときには、うしろ向きにスキップして走ることができたそうだ。
 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏からの刺激
を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、どうして敏捷性
を養うことができるというのか。一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。
敏捷な子どもは、スタスタとリズミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手す
りにつかまって一段ずつ、恐る恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児
で一〇人に一人はいる。あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。
敏捷な子どもは、ピョンピョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。そうでない子ども
はそうでない。もしあなたの子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも遅くないから、はだしに
するとよい。あるいはよくころぶ(※)とか、動作がどこか遅いというようなときも、はだしにする
とよい。(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、はだしをいやがるが、そうであるなら
なおさら、はだしにしてみる。)
 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない子ども
に、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。

(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そういうと
きは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようであれば、一度
小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 

文字の前に運筆練習を(17)

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせるとよ
い。一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵のよい点が
見なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。ためしにあなたの子
どもに丸(○)を描かせてみるとよい。運筆能力の発達した子どもは、きれいな(スムーズな)丸
を描く。そうでない子どもは多角形に近い、ぎこちない丸を描く。言うまでもなく、文字は複雑な
曲線が組み合わさってできている。その曲線を描く力が、運筆能力ということになる。またぬり
絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小さな四角や形を、縦線、横線、あるいは曲線を
うまく使ってぬりつぶすことができる。そうでない子どもは、横線なら横線だけで、無造作なぬり
方をする。
 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それに中指で
はさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支えてもつ。鉛筆
をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。(とくに正しいもち方というの
はないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったとき、手がどうしても疲れやすくな
る。)ちなみに年長児で約五〇%が鉛筆を正しく(?)もつことができる。残りの三〇%はクレヨン
をもつようにして鉛筆をもつ。残りの二〇%は、それぞれたいへん変則的な方法で鉛筆をも
つ。
 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、さらに
は腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だけで描くこ
とができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことができる。さらに曲線
は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人もいるかもしれないが、幼児
にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。
 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置いてあげ、
自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いたとおりである。(


権威主義は断絶のはじまり(18)

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前でいい子ぶ
るようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮面をかぶった分だ
け、子どもの心は親から離れる。
 親子の間に亀裂を入れるものに、三つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観のズ
レ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威というの
は、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫が上で妻
が下」「親が上で子が下」と。もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考え方をするよう
になれば、それはそれで親子関係はうまくいくかもしれない。が、これからは権威がものを言う
世界ではない。またそういう時代であってはならない。
 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それには電
話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意識のう
ちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。地位や肩
書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別人のように尊大
ぶったりいばってみせたりする。このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強
い。そのためそれを無視したり、それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って
非難する。もしあなたがそうなら、一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを
疑ってみたらよい。それはあなたのためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよい
かもしれない。
 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸黄
門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲のもの
が皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。しかしそれが痛
快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威にあこがれを抱いてい
る人とみてよい。ご注意! 


頭をよくする方法(19)

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が載った。
「ガムをかむと頭がよくなる」と。この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、その話を母親
たちの席で話すと、「では……」と言って、それを実行する人が何人か出た。で、その結果だ
が、たとえばN君は、数年のうちに本当に頭がよくなってしまった。I君もそうだった。これらの子
どもは、年中児のときからかみ始め、小学一、二年になるころには、はっきりとわかるほどそ
の効果が表れてきた。N君もI君も、幼稚園児のときは、ほとんど目立たない子どもだった。ど
こかボーッとしていて、反応も鈍かった。が、小学二年生のころには、一〇人中、一、二番を争
うほど、積極的な子どもになっていた。
 で、それからもこの方法を、私は何一〇人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してきたが、
とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやりしているタイ
プの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子どもなど。
 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだけでは
ない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ごろになると、
急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガムをかむことによって、
それをなおすことができる。五、六歳になってもまだ昼寝グセが残っているようなら、一度ガム
をかませてみるとよい。
 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また一つのガムを最低でも三〇分はかむように指
導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心配しなけ
ればならない。息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけてしまうようなこ
ともある。走ったり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなどの指導も大切である。もち
ろんかんだガムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも守らせるようにしたい。


子どもに子どもの育て方を(20)

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あなた
がおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを
叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは足りない。しっかりと
体にしみこませておく。
 数年前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能ではなく、学習
である」と。つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親に育てられたとい
う経験があってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。たとえば一般論として、人工
飼育された動物は、自分では子育てができない。人間はなおさらで、つまり子育てというのは、
本能でできるのではなく、「学習」によってできるようになる。が、それだけではない。もしあなた
があなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら(当然だが…
…)、今あなたはここで、心豊かで温かい家庭とはどういうものかを子どもに見せておかねばな
らない。あるいはそういう環境で子どもを包んでおく。さらに「父親とはこういうものです」「母親と
はこういうものだ」と、その見本を見せておく。そういう経験が体にしみこんでいて子どもははじ
めて、自分が親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。
 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育てら
れただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育てを見なおし
てみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。たとえば極端に甘い親、
極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、たいてい不幸にして不幸な家
庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」が入っていない。が、問題はそのことで
はなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、さらにそのぎこちなさを次の世代に伝えてしまう
こともある。しかしあなた自身がその「過去」に気づくだけで、それを防ぐことができる。まずい
のはその「過去」に気づくことなく、それにいつまでも振り回されること。そしてそのぎこちなさを
次の世代に伝えてしまうことである。


教えるより好きにさせる(21)

 子どもに何かを教えるときは、「教えよう」という気持ちはおさえて、「好きにさせる」ことを考え
てする。これを動機づけというが、その動機づけがうまくいくと、あとは子ども自身の力で伸び
る。要はそういう力をどのように引き出すかということ。たとえば文字学習についても、文字そ
のものを教える前に、文字は楽しい、おもしろいということを子どもにわからせる。まずいの
は、たとえばトメ、ハネ、ハライ、さらには書き順や書体にこだわり、子どもから学習意欲を奪っ
てしまうこと。私も少し前、テニススクールに通ったが、そこのコーチは、スタイルばかりにこだ
わっていた。(私はストレス解消のため、思いっきりボールを叩きたかっただけだが……。)お
かげで私はすぐやる気をなくしてしまった。
 つぎに大切なことは、動機づけをしたら、あとは時の流れを待つ。イギリスの格言にも、「馬を
水場へ連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というのがある。最終的に「す
る、しない」は、子ども自身が決めるということ。……と書くと、「それでは遅れてしまう。まにあ
わない」という人がいる。しかしそれが、子どもの能力。よく親は「うちの子はやればできるは
ず」と言うが、「やる、やらない」も能力のうち。「やればできるはず」と思ったら、「やってここま
で」と思い、あきらめる。このあきらめが親子の間に風を通をとおす。親があせればあせるほ
ど、その分だけ、子どもの伸びは鈍化する。いわんや子どもを前にしてイライラしたら、子ども
の勉強からは手を引く。
 好きにさせるということは、子どもに楽しませること。また幼児期や小学校の低学年時には、
あまり勉強を意識せず、「三〇分すわって、それらしきことを五分もすればじょうでき」と思うこ
と。またワークにしてもドリルにしても、半分はお絵かきになってもよい。勉強といっても、何も
作法があるわけではない。床に寝そべってするのもよし、ソファに座ってするのもよし。そのう
ち子ども自身がもっとも能率のよい方法をさがしだす。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(22)

笑えば伸びる

 子どもの心を開放させるもっとも効果的な方法は、笑わせること。何かおもしろいことがあっ
たとき、大声でゲラゲラ笑うことができる子どもに、心のゆがんだ子どもはまずいない。しかし
今、大声で笑えない子どもがふえている。年中児で一〇人のうち、一〜二人はいる。皆が笑っ
ているようなときでも、顔をそむけてクックッと苦しそうに笑うなど。親の威圧的な過干渉、息の
抜けない過関心が日常化すると、子どもの心は萎縮する。
 「ゆがむ」ということは、その子どもであって、その子どもでない部分があることをいう。たとえ
ば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるうちは、静かで穏やかな様子を見せるが、親の
姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりす
る。そういう子どもを観察してみると、その子ども自身の「意思」というよりは、もっと別の「力」に
よってそう動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでな
い部分」ということになる。そういう子どもの心を表す言葉としては、日本語にはつぎのようなも
のがある。ねたむ、ひねくれる、つっぱる、いじける、こだわる、すねるなど。そういった症状が
見られたら、子どもの心はどこかゆがんでいるとみてよい。
 私は幼児を教えるようになってもう三〇年になる。そういう経験の中で、私はいつも子どもを
笑わせることに心がけている。だいたい一回の学習で、五〇分ほど教えるが、その五〇分間、
ずっと笑わせつづけるということもある。とくに心のどこかに何らかのキズをもっている子どもに
はこの方法は、たいへん有効である。軽い情緒障害なら、数か月でその症状が消えることも多
い。が、それだけではない。子どもは笑うことにより、ものごとを前向きにとらえようとする。学
習の動機づけには、たいへんよい。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というの
がある。「楽しかった」という思いが、子どもを伸ばす原動力になる。(はやし浩司のサイト:http:
//www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(23)

ガツガツした子どもは生き残る

 ガツガツすることに抵抗を感ずる人は多い。しかし日本はそのガツガツすることによって、こ
こまでの経済大国になった。もしここでガツガツすることをやめたら、日本はあっという間に、世
界の大波にのみこまれてしまうだろう。「スキあらば……」と日本をねらっている国はいくらでも
ある。
 しかし日本の子どもたちを見る限り、日本の将来はお先真っ暗。このままでは日本はアジア
でもごくふつうの国、あるいはそれ以下になってしまう。ロンドン大学名誉教授の森嶋氏も、「二
〇五〇年には本当に日本はダメになってしまう」と警告している。
 ……というのはマクロ的な見方だが、個人というミクロ単位でみても、同じことがいえる。これ
からの日本や世界で生きていくことができる子どもは、ガツガツした子どもである。ぬるま湯に
どっぷりとつかり、のんきに過ごしている子どもには、未来はない。言いかえると、どうすればそ
のガツガツした子どもを育てられるかということ。それがこれからの子どもをどう育てるかのヒ
ントになる。そこで……。
@子どもにはぜいたくをさせない……子育ては質素を旨とする。与えるもの、着せるもの、食
べさせるもの、あらゆる面で質素にする。中には「高価なものを買い与えることが、親の愛のあ
かし」と考えている人がいるが、これはとんでもない誤解である。
A子どもの言いなりにならない……結局は子どもの言いなりになってしまうという甘い環境が、
子どもをドラ息子(娘)にする。そのためにも、生活の場では、子どもを中心に置かない。いつ
も脇に置く。食事の献立でも休日の過ごし方でも、親は親で、親中心の生活を組み立てればよ
い。
B子どもは使う……「子どもは使えば使うほどいい子になる」と心得る。使えば使うほど、子ど
もは忍耐力を養い、生活力もそこから生まれる。「子どもに楽をさせることが親の愛のあかし」
というのも誤解。使えば使うほど、他人の苦労もわかるようになり、その分だけ、子どもはやさ
しく思いやりのある子どもになる。
 ガツガツする子どもを嫌う人も多いが、本来子どもというのは、ガツガツしているもの。またそ
れが子どものあるべき姿ということになる。今この日本では、どこかナヨナヨし、従順で、満足
げにおっとりしている子どもほど、「いい子」と見る風潮がある。しかしそういう子どもは、これか
らの世界で生き残ることはできない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi
/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(24)

許して忘れる

 親が子どもに感ずる愛には三種類ある。本能的な愛(赤ちゃんをいとおしく思うような愛)、代
償的愛(親のエゴ、あるいは親の心のスキ間を埋めるための愛)、それに真の愛(子どもを一
人の人間と認めた相互信頼に基づく愛)である。このうち問題なのは、代償的愛である。多くの
親は、この代償的愛をもって、親の愛と誤解する。よい例が子どもの受験勉強に狂奔する親で
ある。あるいは子どものテストの成績が悪いからといって、子どもにわめき散らしている親であ
る。このタイプの親は、「子どものため」を口にしながら、結局は自分のエゴのために子どもを
利用しているだけ。それはちょうど年頃の男が、自分の性欲や支配欲を満たすために女性を
愛する(?)愛に似ている。あるいはストーカーの男が、相手の迷惑も顧みず、相手の女性を
追いかけまわす愛に似ている。どこまでも自分勝手で、どこまでもわがままな愛ということにな
る。
 親の愛の深さは、どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れるかで決まる。もともと「許して
忘れる」は、英語では、「フォ・ギブ & フォ・ゲッ」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語
は、「与える・ため」とも訳せる。「フォ・ゲッ(忘れる)」は、「得る・ため」とも訳せる。つまり許して
忘れるということは、子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るために忘れろという
意味になる。
 もちろん許して忘れるといっても、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ども
に言いなりになれということでもない。子どもを許して忘れるということは、どんなに子どもので
きが悪くても、またどんな問題をかかえても、それを自分のこことして受け入れてしまうというこ
と。つまりその度量の深さによって、親の愛の深さが決まる。
 多くの親は「子どもを愛している」とは言うが、子どもを愛するということは、そんな簡単なこと
ではない。子どもを愛するということは、ある意味でつらくて苦しいこと。そのつらさや苦しみに
耐えてこそ、親は親であり、子どもを真に愛したことになる。(はやし浩司のサイト:http://
www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(25)

カボチャの頭

 親子を断絶させるものに、三つある。価値観の違い、リズムの乱れ、それに相互不信。それ
はまたべつのとろで考えるとして、親子の断絶は、最初は小さなキレツで始まる。しかもたいて
い親が気づかないところで始まる。そこでテスト。
 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどう心を休めるか、観察してみてほしい。そ
のときあなたのいる前で、あなたのことを気にしないで心を休めているようであれば、あなたと
子ども関係は良好とみてよい。しかしもしあなたの子どもが、好んであなたのいないところで心
を休めるとか、あなたの姿を見たとたん、どこかへ逃げていくようであれば、あなたと子どもの
関係はかなり悪化しているとみてよい。今は小さなキレツかもしれないが、やがて断絶というこ
とにもなりかねない。ちなみに子ども(中学生)が、「心が休まる場所」としてあげたのは、@風
呂の中、Aトイレの中、それにBフトンの中(学外研・九八年報告)だそうだ。
それはそれとして、子どもが小さいときはともかくも、子どもが大きくなったら、家庭は、「しつけ
の場」から、「いこいの場」、あるいは「いやしの場」とならなければならない。子どもは学校で疲
れた心を、その家庭でいやす。よく子どもに何か問題が起きたりすると、「そら、学校が悪い」
「そら、先生が悪い」と言う人がいる。学校や先生に問題がないとは言わないが、しかし、もし
子どもが家庭でじゅうぶん心を休めることができたら、それらの問題のほとんどは、その家庭
の中で解決するはずである。そのためにも、つぎのことに注意する。
もし先のテストで、「好んであなたのいないところで心を休めるとか、あなたの姿を見たとたん、
どこかへ逃げていく」というのであれば、子どもが心を休めている様子を見せたら、何も言わな
い、何も見ない、何も聞かない。できればあなたのほうがその場から遠ざかる。あれこれ気を
つかうのもやめる。仮にだらしない様子を見せたとして、それは無視する。「家庭」というのは、
もともとそういうもの。そういう前提で、家庭のあり方を反省する。(はやし浩司のサイト:http://
www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(26)

逃げ場を大切に

 どんな動物にも、最後の逃げ場というのがある。もちろん人間の子どもにもある。子どもがそ
の逃げ場へ逃げ込んだら、親はその逃げ場を荒らしてはいけない。子どもはその逃げ場に逃
げ込むことによって、体を休め、疲れた心をいやす。たいていは自分の部屋であったりする
が、その逃げ場を荒らすと、子どもの情緒は不安定になる。ばあいによっては精神不安の遠
因ともなる。あるいはその前の段階として、子どもはほかの場所に逃げ場を求めたり、最悪の
ばあいには、家出を繰り返すこともある。逃げ場がなくて、犬小屋に逃げた子どももいたし、近
くの公園の電話ボックスに逃げた子どももいた。またこのタイプの子どもの家出は、もてるもの
をすべてもって、一方向に家出するというと特徴がある。買い物バッグの中に、大根やタオル、
ぬいぐるみのおもちゃや封筒をつめて家出した子どもがいた。(これに対して目的のある家出
は、その目的にかなったものをもって家を出るので、区別できる。)
 子どもが逃げ場へ逃げたら、その中まで追いつめて、叱ったり説教してはいけない。子ども
が逃げ場へ逃げたら、子どものほうから出てくるまで待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
が、中には、逃げ場どころか、子どものカバンの中や机の中、さらには戸棚や物入れの中まで
平気で調べる親がいる。仮に子どもがそれに納得したとしても、親はそういうことをしてはなら
ない。こういう行為は子どもから、「私は私」という意識を奪う。
 これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の
立場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そういうと
きあなたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれを許すだ
ろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとかい
う次元の話ではない。
 むずかしい話はさておき、子どもの人格を尊重するためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵
の場所として大切にする。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(27)

友を責めるな

 あなたの子どもが、あなたからみて好ましくない友だちとつきあい始めたときの鉄則がこれ。
「友を責めるな、行為を責めよ」。イギリスの格言だが、たとえばどこかでタバコを吸ったとす
る。そういうときは、タバコは体に悪いとか、タバコを吸うことは悪いことだと言っても、決して相
手の子どもを責めてはいけない。名前を出すのもいけない。この段階で、たとえば「D君は悪い
子だから、つきあってはダメ」などと言うと、それは子どもに、「友を選ぶか、親を選ぶか」の、
二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなた(親)を選べばよいが、そうでなければあ
なたと子どもの間に大きなキレツを入れることになる。あとは子ども自身が自分で考え、その
「好ましくない友だち」から遠ざかるのを待つ。こういうケースでは、よく親は、「うちの子は悪くな
い。相手が悪い」と決めてかかることが多いが、あなたの子どもがその中心格になっていると
考えて対処する。が、それでもうまくいかないときがある。そういうときは、つぎの手を使う。
 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のよい面を見せようとする。そこであ
なたは子どもの前で、相手の子どもをほめる。○○君は、おもしろい子ね。ユーモアがあって、
お母さんは大好きよ」とか。あなたのそういう言葉は必ず相手の子どもに伝わる。その時点で、
相手の子どもは、あなたの期待にこたえようとし、その結果、あなたの子どもをよい方向に導
いてくれる。いうなればあなたはあなたの子どもを通して、相手の子どもを遠隔操作するわけ
だが、これは子育ての中でも高等技術に属する。
 ほとんどの親は、子どもが非行に向かうようになると、子どもを叱ってなおそうとする。暴力や
威圧を加える親もいる。しかし一度こわれた子どもの心は、そんなに簡単にはなおらない。もし
そういう状態になったら、今より症状を悪化させないことだけを考えながら、一年単位で子ども
の様子をみる。あせって何かをすればするほど、逆効果になるので注意する。(はやし浩司の
サイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(28)

相手を喜ばす

 子どもにとって(おとなもどうだが)、やさしい人というのは、思いやりのある人のことをいう。そ
の思いやりのある子どもに育てるコツがこれ、「相手を喜ばす」。
 たとえばスーパーなどでものを買い与えるときでも、直接子どもに買い与えるのではなく、「こ
れがあるとパパが喜ぶわね」とか、「あとでお姉さんに半分分けてあげてね。お姉さんは喜ぶ
わよ」とか言うなど。昔、幼稚園にこんな子ども(年長男児)がいた。見るといつも三輪車にだれ
かを乗せ、それをうしろから押していた。そこで私が、「たまにはだれかに押してもらったら?」
と声をかけると、その子どもはこう言った。「先生、ぼくはこのほうが楽しい」と。そういう子ども
をやさしい子どもという。
 よく誤解されるが、柔和でおとなしい子どもをやさしい子どもとは言わない。たとえばブランコ
を横取りされても、ニコニコ笑ってそのまま明け渡してしまうなど。むしろこのタイプの子どもほ
ど、表情とは裏腹のところでストレスをためやすく、その分、心をゆがめやすい。教える側から
見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子」といった感じになる。
 子どものやさしさは、心豊かな環境で、はぐくまれる。そのためにも、乳幼児期にはつぎの三
つを避ける。@闘争心、A嫉妬心、B不満と不安。攻撃的な闘争心は、子どもの動物的な本
能を刺激する。ばあいによっては、善悪の判断ができなくなり、性格そのものが、凶暴化するこ
ともある。嫉妬心はえてして情緒不安の原因となる。赤ちゃんがえりに見られるように、本能的
な部分で子どもの心をゆがめることもある。またこの時期、不満や不安は、子どもの性格をゆ
がめる。攻撃的になったり、反対にものに固着したり執着したりする。さらに神経症や情緒不
安、さらには精神不安の原因になることもある。要するにこの時期は、心静かで穏やかな環境
を大切にする。
 やさしさというのは、作って作れるものではない。家庭環境の中から、自然に生まれてくるも
のである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(29)

ベッドタイムゲーム
 
 子どもは床についてから眠るまで、毎晩、同じことを繰り返す習性がある。これを英語では
「ベッドタイムゲーム」(日本語では、「就眠儀式」)という。このベッドタイムゲームのしつけが悪
いと、子どもはなかなか寝つかなくなるばかりでなく、ばあいによっては情緒そのものが不安定
になることもある。もしあなたの子どもが寝る前になると決まって、ぐずったり(マイナス型)、暴
れたりするようであれば(プラス型)、このしつけの失敗を疑ってみる。
方法としては、@毎晩同じことを繰り返すようにする。A心安らかな状態を大切にし、就寝前少
なくとも一時間はテレビやゲームなど、はげしい刺激は避ける。Bベッドのまわりにぬいぐるみ
などを置いてあげ、心が暖まる雰囲気をつくるなどがある。毎晩本を読んであげるとか、静か
な音楽を聞かせるというのもよい。まずいのは子どもを子ども部屋に閉じ込め、強引に電気を
消してしまうような行為。こうした乱暴な行為が繰り返されると、子どもは眠ることそのものに恐
怖心を抱くようになる。
ところで今、年長児(満六歳児)でも、五人のうち三人が、「ほとんど毎朝、こわい夢をみる」こと
がわかっている(二〇〇一年・筆者調査)。「どんな夢?」と聞くと、「ワニに追いかけられる夢」
「暗い穴にいる夢」「怪獣の夢」という答が返ってきた。子どもの世界がどこか不安定になって
いると考えてよい。
ちなみに年中児で睡眠時間(眠ってから起きるまでのネット時間)は一〇時間一五分、年長児
で一〇時間(筆者調査)。子どもが小学生になると、睡眠時間はぐんと短くなるが、それでも最
低九時間半を確保する。睡眠不足が知能の発育に影響を与えるというデータはないが、しかし
睡眠不足が続くと集中力が弱くなる。あるいは突発的に興奮することはあっても、すぐ潮が引く
ようにぼんやりとしてしまう。園や学校などでの学習面で影響が出てくる。なお年中児になって
も「昼寝グセ」が残っているようなら、その時間ガムをかかせるという方法でなおす。(はやし浩
司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(30)

じゅうぶんな睡眠時間を

 目をさましてから起きあがるまでの時間には、特別の意味がある。この時間、人間の心はも
っとも静かな「時」を迎える。雑念や俗念、不安や心配、さらには恐怖や妄想から解放される。
つまりこの時間、自分の「原点」をそこで見つめることができる。もっと言えば、その人がもっと
もその人らしくなる……。
 パスカルは『思考が人間の偉大さをなす』(パンセ)と書いている。つまり考えるから人間は人
間である、と。言いかえると、考えるかどうかで、その人の「質」が決まる。知識や知恵ではな
い。技術や肩書きでもない。反対に考えない人間がどうなるか。その例というわけではないが、
深夜のバラエティ番組に出てくる若者たちを見ればそれがわかる。実に「軽い」。軽すぎて、「こ
れが同じ人間か」とさえ思うときがある。自ら考える習慣のない人間は、そうなる。
 子どもに考えさせる習慣を身につけさせるもっともよい方法は、子どもがひとり、静かに自分
の時を過ごせるような時間と場所を用意することである。総じてみれば日本人は、集団教育の
し過ぎ(……され過ぎ)。一人で静かに考えるという習慣そのものもないし、その価値を認めな
い。子どもが机に向かってひとりぼんやりしていたとすると、親や先生は、「何、しているん
だ!」と、それを叱る。しかし大切なことは、「自分で考えること」だ。子どもがあれこれ自分で考
える様子を見せたら、そっとしておいてあげる。
 で、その一つの方法というわけではないが、子どもが目をさましてから、起きあがるまでの時
間を大切にする。そういう意味でも、静かな目覚めを大切にする。またそのためにも、睡眠時
間はたっぷりととる。まずいのは、「もう起きなさい!」と、まだ眠気まなこの子どもを、床の中
から引きずり出すような行為。子どもが静かにものを考えることができる、せっかくの時間その
ものを奪ってしまう。
 前回と今回は、子どもの睡眠について考えてみたが、もう少し子どもの睡眠には、親は慎重
であってもよいのではないか。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(31)

子どもを自立させる

 子育ての目標は、子どもを自立させること。その「自立」には二つの意味がある。子ども自身
の自立と、親の自立である。依存心というのは相互的なもので、子どもに依存心をもたせるこ
とに無頓着な親は、一方で、自分自身もだれかに依存したいという潜在的な願望をもっている
と考えてよい。つまり子どもを自立させたいと思ったら、親もまた自立しなければならない。こん
な親(六〇歳女性)がいた。
 会うと私にこう言った。「先生、息子なんて、育てるもんじゃないですね。息子は横浜の嫁に取
られてしまいました」と。そしてさらに顔をしかめて、「親なんてさみしいもんですわ」と。その親
は、息子が結婚して、横浜に住んでいることを、「取られた」というのだ。
 こうした親は、親意識が強く、その強い分だけ、子どもを「モノ」と見る傾向が強い。そして自
分にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、よい子とし、親に反発する独立心の旺盛
な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。こうした親の意識の背景にあるのが、依存心ということにな
る。もう少しわかりやすい言葉でいうなら、「甘え」ということになる。
 子育ての目標は、子どもを自立させること。「あなたの人生だから、思う存分、あなたの人生
を生きなさい。たった一度しかない人生だから、思いっきり大空を飛びなさい。親孝行……? 
そんなこと考えなくてもいい」と、一度は子どもの背中をたたいてあげる。それでこそ親は親とし
ての義務を果たしたことになる。もちろんそのあと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみる
というのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。
 日本人は、国際的にみても、互いの依存心が強い国民である。長く続いた封建時代という時
代が、こういう民族性をつくったとも言える。どこかの国に移住しても、すぐ日本人どうしが集ま
り、そこにリトル東京(日本人街)をつくったりする。親子関係もそうで、互いに甘え、甘えられる
親子ほど、よい親子と評価する。しかし依存心が強ければ強いほど、その人から「私」を奪う。
しかしこれは、これからの日本人の生き方ではない。少なくとも、こうした生き方は、世界ではも
う通用しない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(32)

釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 子どもにより高価なものを買ってあげるのが、親の愛だと錯覚している人がいる。あるいは
「高価なものを買ってあげたから、子どもとのきずなは強くなった」と考える人がいる。親は子ど
もはそれで感謝するだろうと思ってそうする。あるいはそれで子どもの心をつかんだと考える。
しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。先日も一人の祖母が、孫(小四女児)のため
に、数万円もするような服を買ってあげているところがテレビで紹介されていた。レポーター
が、「(そんな高価なもの)、いいんですか?」と聞くと、その女性は、「いいんです、いいんです。
かわいい孫のことですから」と言っていた。が、こんな愚かなこと(失礼!)をするから、子ども
はドラ息子、ドラ娘になる。金銭感覚そのものがマヒする。たとえ一時的に感謝することはあっ
ても、その感謝は決して長続きしない。
 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。
 日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そして
オーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、
友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイ
ル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、
基本的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿を振り返ってみてほしい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(33)

先生の悪口は言わない

 教育もつきつめれば人間関係で決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基
本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の悪口は
言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づ
ち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生
の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとがで
きない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会
話には敏感に反応する。
 一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そう
いうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文
を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生
徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあな
たはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生
に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそう
いう言葉に耐えられるだろうか。
 教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、
いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた
「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係で
ある。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。
 あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなく
なる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが…
…)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に
入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いか
らでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.
ne.jp/~hhayashi/)
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(34)

まじめな子ども

 言われたことをきちんと、しかも従順にする子どものことを、まじめな子どもと考えている人が
いる。しかしこれは誤解。その子どもがまじめかどうかは、その子どもがどれだけ自己規範(自
分で考え、その判断に従って行動すること)を守れるかどうかで決まる。こんな子どもがいた。
 ある日、バス停で一人の女の子(小三)に会った。以前の生徒だったので、「ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけると、その子はこう言った。「いいです。これから家に帰って、夕ご飯
を食べますから。ジュースを飲んだら、夕ご飯が食べられなくなります」と。こういう子どもをまじ
めな子どもという。
 子どものまじめさは、家庭環境で決まる。しかも〇歳からの乳幼児期にかけて決まる……?
 そのことを、私は二匹の犬を飼ってみて知った。
 私の家には二匹の犬がいる。一匹は、保健所で処分される寸前にもらってきた犬(これをA
犬とする)。もう一匹は、愛犬家のもとで手厚く育てられた犬(これをB犬とする)。この二匹の
犬は、我が家へ来てからずっと、性格は幼犬のときのまま。A犬は、もう一五才にもなるが、忠
誠心も弱く、裏の木戸があいていようものなら、すぐ遊びに出て行ってしまう。だれにでもシッポ
を振るから、番犬にはならない。一方B犬のほうは、態度も大きいが、忠誠心も強い。見知ら
ぬ人が来たりすると、けたたましくほえる。実のところ人間も犬と同じ。生後まもなくから、親の
手を離れて育った子どもや、育児拒否、家庭騒動、虐待を経験した子どもは、A犬のような性
格をもつ。一方、心穏やかな環境で、親の愛をたっぷりと受けて育ったような子どもは、B犬の
ような性格をもつ。これ以上のことは、あれこれ誤解を招くので。ここでは書けないが、子ども
をここでいう「まじめな子ども」にしたかったら(当然だが……)、B犬が育ったような環境で、子
どもを育てる。もっと言えば、子どもの側からみて、絶対的な安心感のある家庭で、子どもを育
てる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう家庭があってはじめて子
どもは、善悪を静かに判断して、それに従って行動できるようになる。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(35)

マトリックスの世界

 少し前、キアヌ・リーブズ主演の、「マトリックス」という映画があった。おもしろい映画だった。
仮想現実の世界を母体(マトリックス)と思い込んだ人たち(?)が、本当の母体を知るという映
画だったが、しかしそれは映画の世界だけの話ではない。
 子どもを育てるということは、人間を育てることをいう。教育というのがあるとするなら、それ
は子どもに生きるために必要な知識や経験を、武器として与えることをいう。しかしそれが今、
逆転している。教育のために、子どもを育てるのが、この日本では子育ての基本になってい
る。そら進学だ、そら受験だ、と。人間を育てる世界を母体(マトリックス)とするなら、教育の世
界は、いわば仮想現実の世界ということになる。が、ほとんどの親はその仮想現実の世界に
ハマりながら、それが仮想現実の世界だとすら気づかないでいる……! こんなことがあっ
た。
 K君(中一)という、本当にまじめな子どもがいた。ただ能力的には、あまり恵まれていなかっ
た。私のところへ来ても、ただひたすらコツコツと勉強をしていたが、そんなわけで学校での成
績は思わしくなかった。で、最初の期末試験が終わったときのこと。K君の母親から電話がか
かってきた。いわく、「成績が悪かった。もっと息子をしぼってほしい」と。しかし私はこう言っ
た。「K君には、よくがんばったねと言うことはできても、これ以上がんばれとは、私には言えな
い」と。すると今度は父親から電話がかかってきて、「うちの息子はどうしても、S高(静岡県で
も最難関の進学高校)へ入ってもらわねばならない。S高へ入れてもらえるか」と。そこで私
が、「うちは進学塾ではありません」と言うと、「君はうちの子ではS高は無理と言っているの
か。失敬ではないか!」と、怒り出してしまった。
 この両親のばあいも、人間を育てるという本来の母体(マトリックス)を忘れてしまい、仮想現
実の世界で子どもを育てていた。本末転倒という言葉があるが、まさにその本末が転倒してい
た。
 映画「マトリックス」は、もちろんSF(空想科学)映画だが、しかしSFとばかり言えない面があ
る。一度仮想現実の世界にハマってしまうと、それが現実の世界だと思い込んでしまう。さて、
あなたも一度、あなたの仮想現実の世界を疑ってみたらどうだろうか。


子育て ONE POINT アドバイス! By はやし浩司(36)

こわい三大主義

 子育てで避けたい主義に、スパルタ主義、完ぺき主義、それに極端主義がある。スパルタ主
義や完ぺき主義はともかくも、問題は極端主義。子育てはどこか標準的、どこかいいかげん、
どこかふつうという感じが大切。「どこか極端?」と感ずるような子育て法は、効果よりもその弊
害を疑ってみたほうがよい。
 ところでこの世界、つまり教育(子育て)評論の世界では、他人の子育て法には干渉しないと
いう暗黙の了解がある。自分の正しさを前向きに主張しても、他人のそれは批判しない。しか
し、だ。それでもおかしな教育法がある。昔、Tヨットスクールという団体があった。それもその
ひとつだが、最近でも、不登校の子どもやそれをもつ親に向かって、「バカヤロー」とか、「おま
えら!」とか叫んでなおす(?)という女性が現れた。NHKテレビでも紹介されたというから驚き
である(新聞の広告)。私は彼女が書いた本を二冊ほど読んだが、とても読むに耐えない内容
の本だった。感情的というか、感情的すぎるほどの本だった。だいたいにおいて、不登校を
「悪」と決めてかかる発想が、短絡的である。
 いうなればこれもここでいう極端主義である。彼女は「不登校を怒鳴ってなおす」と言っている
ようだが、これは一方で、子どもの不登校問題を地道に考え、指導してきた人たちへの冒涜
(ぼうとく)でもある。仮にそれでなおったかのように見えるとしても、さらに大きなキズを子ども
の心に残すかも知れない。そのことはあのTヨットスクールですでに証明されたことでもある。
 ときどき、しかも忘れたころ、こうした極端な教育法がこの世界をにぎわす。不安のどん底に
いる人にとっては、魅力的な教育法に見えるかもしれないが、こうした極端な教育法はまず疑
ってみたほうがよい。あるいは近づかないほうがよい。
子育てというのは、あくまでも子どもという「人間」を見て判断する。しかしそれは難しいことでは
ない。もしそれがわからなければ、子どもを「あなた」と置き換えてみるとよい。いつも「自分な
ら、それを望むだろうか」「自分なら、それができるだろうか」「自分なら、どうなるだろうか」と考
えればよい。それでよい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(37)

教育カルトにご注意

 以前、たまごっちというゲームがはやった。そのときのこと。あの電子の生き物(?)が死んだ
(?)だけで、おお泣きする子どもはいくらでもいた。一方、その少しあと、今度は、ミイラ化した
死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。
 この二つの事実は、まったく正反対で、関連性がないように思う人がいるかもしれないが、そ
の「質」は同じとみる。つまり生きていない生き物(?)を死んだと思い込む回路と、死んだ人間
を生きていると思い込む回路は、方向性こそ逆だが、その中身は同じ。子どもも、そしておとな
も、ふとしたきっかけで、こうした回路にハマりやすい。
 実のところ、教育の世界にもカルトは存在する。「S方式教育法」と言い出したら、あけてもく
れても、「S方式」と言い出す。「M方式」と言い出したら、あけてもくれても「M方式」と言い出
す。親や子どもではない。教育者自身がそう言い出す。そしてそれを盲信するあまり、ほかの
教育法を徹底的に攻撃する……。次のような症状があれば、教育カルトを疑ってみる。
 @「自分の教育法が絶対正しい」という反面、その返す刀で、「相手はまちがっている」とい
う。
 A絶対的な権威者をもちだし、その権威者を神か仏のようにあがめる。あがめる分だけ、
「私」がどこかへ消える。「この教育法で学んだすばらしい子どもたちの演奏をお聞きください」
と雑誌に書いていた人がいた。「私」というものがあれば、おこがましくて、ここまでは書けな
い。
C狂信的な説明が多くなる。常識ハズレなことを言い出す。「どこかおかしい」と感じるような発
言が多くなる。「この方式で学んだ子どもたちが、やがてゾロゾロと東大の赤門をくぐることにな
るでしょう」と書いている団体が、実際にある。
ひとつの教育法を盲信することは、その盲信する人にとっては、たいへん楽なことでもある。
「考える」ということには、それ自体苦痛がともなう。そこで人は自分の思想を他人に預ける。し
かしこれはたいへん危険なことでもある。いつしかとんでもない世界にハマりながら、それにす
ら気づかなくなる。それこそミイラ化した死体を見ながら、「生きている」とがんばるようなことも
するようになる。
子育てではいつも「常識」を基準にして考える。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp
/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(38)

帰宅拒否を疑う

 不登校ばかりが話題になるが、それと同じくらい問題なのが、帰宅拒否。今、園でも学校で
も、家に帰りたがらない子どもがふえている。もっとも子どものばあい、「帰りたくない」とは言わ
ない。態度や行動で、それを示す。そこでもしあなたの子どもが、毎日家に帰ってくるのが、不
自然に遅いとか、回り道をしてくるとか、あるいはいつも友だちの家に寄ってくるというのであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。こんな子ども(年長男児)がいた。
 帰りのバスの時刻になると、決まってどこかへ隠れてしまうのだ。炊事室の中や、園舎の裏
など。で、そのたびに幼稚園中が大騒ぎ。やがて先生が手を焼き、親に迎えにきてほしいとい
う手紙を出したが、このケースで、まず疑ってみるべきは、帰宅拒否である。「家に帰りたくな
い」という思いが、子どもをしてこうした行動をとらせるようになる。
 もちろん原因は、家庭にある。家そのものが狭いとか窮屈ということもあるが、子どもの側か
らみて、息が抜けない、気が休まらないなど。それをまず疑ってみる。親の神経質な過干渉、
過関心が原因となることも多い。ほかに家庭騒動、不和、崩壊などもある。家庭が家庭として
機能していないとみる。
 そこでテスト。あなたの子どもは、園や学校から帰ってきたとき、明るい声で、「ただいま!」
と、意気揚々と帰ってくるだろうか。もしそうならそれでよい。しかしここに書いたように、様子が
へんだと感じたら、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。こうした状態が長く続けば続く
ほど、子どもの心に深刻な影響を与える。最悪のばあいには、外泊、家出、さらには集団非行
へと進みかねない。
 前にも書いたが、「家庭(ホーム)」は、子どもにとっては、心をいやし、心を休める場所でなけ
ればならない。またそれができてこそ、「家庭」という。そういう家庭を用意するのは、親の義務
と考えてよい。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(39)

親のうしろ姿は見せない

 子育てのために苦労している姿。生活のために苦労している姿。そういうのを、この日本で
は、「親のうしろ姿」という。こうしたうしろ姿は、親が見せたくなくても、子どもは見てしまうもの
だが、しかしそれを子どもに押し売りしてはいけない。よい例が、窪田聡という人が作詞した、
「かあさんの歌」である。「♪かあさんは夜なべをして、手袋編んでくれた……」というあの歌で
ある。しかしあの歌ほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。そういう歌が、日本の名
曲になっているところに、日本の子育ての問題点が隠されている。ちなみに、歌詞は、三番ま
であるが、三、四行目は、かっこつきになっている。つまりその部分は、母からの手紙の引用と
いうことになっている。
 「♪木枯らし吹いちゃ、冷たかろうて、せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で、ワラ打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪も溶けりゃ、もうすぐ春だで。畑が待っているよ」と。
 あなたが息子であるにせよ、娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、それこそ羽ば
たける羽もはばたけなくなってしまう。たとえそうであっても、親が子どもに手紙を書くとしたら、
「村祭りに行ったら、手袋を売っていたから、買って送るよ」「おとうは居間で俳句づくり。新聞に
もときどき、載るよ」「春になったら、みんなで温泉に行ってくるからね」である。
 日本人は無意識のうちにも、子どもに、「産んでやった」とか「育ててやった」とか言って、恩を
着せる。子どもは子どもで、「産んでもらった」とか「育ててもらった」とか言って、恩を着せられ
る。そしてそういう関係の中から、日本独特の親意識が生まれ、親孝行論が生まれる。しかし
子どもが親のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。いわんや親がそれを子どもに求
めたり、期待してはいけない。親は親で、自分の人生を前向きに生きる。そしてそういう姿を見
て、子どもは子どもの人生を前向きに生きる。親子といえども、その関係は、一人の人間対一
人の人間の関係である。一見冷たい人間関係に見えるかもしれないが、一人の人間として互
いに認めあう。それが真の親子関係の基本である。あのイギリスのバートランド・ラッセル(イギ
リス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)もこう言っている。「子どもたちに尊敬されると同時に、
子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、決して限度を超えないことを知って
いる、そんな両親のみが、家族の真の喜びを与えられる」と。(はやし浩司のサイト:http://
www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(40)

成長を喜ぶ

 まずテスト。あなたの子どもは何か新しいことができるようになったり、おもしろいことを発見し
たようなとき、あなたのところにやってきて、「見て、見て!」と言うだろうか。もしそうならそれで
よし。しかしそういう会話が親子の間から消えているようなら、あなたはあなたの子育てをかな
り反省したほうがよい。
 子どもを伸ばす三大要素に、@好奇心(いつもあらゆる方向に触覚がのびている)、A生活
力(自立し、自分で何でもできる)、B頭の柔軟さ(頭がやわらかく、臨機応変にものごとに対処
できる)がある。もちろん生まれつきの能力も関係するが、これは遺伝子の問題だから、教育
的にはあまり論じても意味がない。で、こうした三大要素を側面から支えるのが、家庭、なかん
ずく「親」ということになる。こんな家庭があった。
 その家庭には三人の男の子がいたが、皆、表情が明るく、伸び伸びとしていた。そこでその
秘訣をさぐると、それは母親の言葉にあるのがわかった。子どもたちが何か、新しいことがで
きるようになるたびに、その母親がそれを心底、喜んでみせるのである。下の子が上の子のお
さがりをもらうときもそうだ。母親は下の子に、上の子のおさがりを着させながら、「おお、あん
たもお兄ちゃんのが着られるようになったわね」と、喜んでみせていた。こうした家庭のリズム
が、子どもたちを伸びやかにしていた。
 子どもを伸ばすためには、子どもの成長を喜んでみせる。ウソではいけない。本心からそう
する。そういう前向きな姿勢が親にあってはじめて、子どもも伸びる。が、そうでない親もいる。
「あんたはダメな子ね」式の言い方をいつもする親である。子どもの表情が暗くなって当然。こ
ういう家庭では、子どもは決して、「見て、見て!」とは言わない。「どうせ、ぼくはダメだ」と逃げ
てしまう。もしそうなら、今日からでも遅くないから、子どもの成長を喜ぶようにする。たとえテス
トの点が悪くても、「去年よりはずっとよくなったわね」などと言う。そういう姿勢が子どもを伸ば
す。子どもの表情を明るくする。


子どもを知る

 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で
見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれ
だが、こうした親の目は、えてして子どもの本当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。
 ある子ども(小六男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。ある夜一人の父親が、A君(中一)の
家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。A
君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心に
いた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子ども
の学力となると、さらに難しい。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思ってい
る。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少なかっただけ」とか「調子が悪かっただけ」と。そう思
いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものば
あい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、
子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。
 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成
績はますますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それ
まで見えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」という
のは、そういう父親をいう。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(42)

親孝行を美徳にしない

 日本では「親孝行」が、当たり前になっている。しかしそういう常識(?)の陰で、人知れず、そ
れに苦しんでいる人は多い。親を前にすると体中が緊張する(三四歳女性)、実家へ帰るのが
苦痛(三〇歳女性)など。しかし世の中には、親をだます子どもがいるが、子どもをだます親も
いる。Tさん(七〇歳)がそうだ。Tさんは息子(四五歳)がもっている土地の権利書を言葉巧み
に取りあげて、それを他人に転売してしまった。権利関係が複雑な土地だったこともあるが、そ
の息子はこう言う。「親でなかったら、刑務所へぶち込んでいるところです」と。が、当のTさんに
は、罪の意識がまったくない。間に入った人がそれとなく息子の気持ちを伝えると、Tさんはこう
言った。「親が息子の財産をつかって何が悪い。私が息子たちにかわって、先祖や家を守って
やっているのだ」と。
 親孝行するかしないかは、あくまでも子どもの問題。もっと言えば、一対一の人間関係が基
本。「親が上で、子は下」という関係では、そもそも良好な人間関係など育たない。親子はあく
までも平等だ。その基本なくして、親孝行はありえない。言いかえると、親は、子どもを「モノ」と
か、「所有物」として考えるのではなく、一人の「人間」として認める。すべてはここから始まる。
つまり親は子どもを育てながら、自らも「尊敬される親」にならなければならない。子どもが親を
孝行するかしないかは、あくまでもその「結果」でしかない。さらに言いかえると、子どもが親を
軽蔑し、親孝行を考えなくなったとしても、その責任は子どもにはない。そういう親子関係しか
作れなかった親自身にある。きびしいことを言うようだが、親になるということは、それくらいた
いへんなことでもある。
 親孝行を子どもに求める親というのは、それだけで、依存心の強い親とみる。「甘えている」
と言ってもよい。そういう親からは、自立した子どもは生まれない。前にも書いたが、依存心と
いうのは、あくまでも相互的なものである。そんなわけで子どもを自立させたかったら、親自身
も子どもから自立する。またそうであったほうが、結局は子どもから尊敬される親になる。 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(43)

負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもがいるため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。
 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、四〇歳前後で、二〇人に一人はい
る。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうま
ともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。
 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから…
…」となる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。
 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういっ
た苦情が耳に届くということは、よほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝
ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよい。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(44)

育児ノイローゼに注意

 子育てをしていて育児ノイローゼになる人は多い。圧倒的に母親に多いが、父親がノイロー
ゼになることも、珍しくはない。精神的な打撃によって起こる心的障害のことをノイローゼという
が、精神病というほど重くはない。ないが、対処のし方をまちがえると、深刻な結果を招くことが
ある。次のような症状が続いたら、育児ノイローゼを疑ってみる。
@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、
迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの
欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、C睡眠障害(早朝覚
醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかった
り(注意力欠陥障害)、Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、Fささいなこと
で極度の不安状態になる(不安障害)、G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待す
るなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。Jまた必要以上に自分を責めたり、罪
悪感をもつこともある(妄想性)。
もっとも育児ノイローゼになっても、本人がそれに気づくことはまずない。脳のCPU(中央演算
部分)が変調するため、本人はそういう状態になりながらも、「自分ではふつう」と思い込む。あ
るいは他人に「異常」を指摘されたりすると、反対に過度の罪悪感に襲われ、かえって深く落ち
込んでしまうこともある。そこで重要なのが、夫ということになるが、その夫の協力が得られな
いことが多い。で、もしここに書いたような症状のうち、いくつかに思い当たることがあれば、
「今の状態はふつうではない」という前提で、自分のまわりを見なおす必要がある。できれば子
育てそのものから離れる。でないと、(こういうことを書くと、ますます症状がひどくなってしまう
かもしれないが)、子どもに影響が出てくる。そんなわけで、もし症状がひどいようであれば、一
度、精神科のドクターに相談してみる。 


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(45)

心を通訳しない

 英語にはときどき、ハッと思うような表現がある。たとえば「トランスレイト(通訳)」という言葉。
相手の心を、「こうだろう」と思って代弁すると、「君の判断で通訳しないでくれ」と言われる。
が、日本では、甘い。親が子どもの心を決めてしまうことも、珍しくない。
 母「先日は、息子(年長児)が、いろいろお世話になりました。息子も『楽しかった』と喜んでい
ます」と。しかし肝心の息子は、そ知らぬ顔でプイと遠くを見ている……。
 さらに程度が進むと、こんな会話をするようになる。
 私、子ども(年長児)に向かって、「この前の日曜日は、どこへ行ったのかな?」、母、会話に
割り込んできて、「おばあちゃんちへ行ったでしょ。ね、そうでしょ」、私、再び子子どもに向かっ
て、「楽しかったかな?」、母、再び会話に割り込んできて、「楽しかったでしょ。そうでしょ! ど
うしてあんたは自分で楽しかったと言えないの!」と。
 典型的な過干渉ママの会話だが、こうした会話は親子断絶の第一歩とみてよい。「子どもの
ことは私が一番よく知っていると」と思い込む親。「親は何も私のことをわかってくれない」と思う
子ども。いや、子どもが小さいうちは、まだよい。子どもが親に合わせるが、少し大きくなると、
そうはいかない。子「うるさい!」、親「何よ、親に向かって!」となる。
 子どもの人格を認めるということは、子どもの心を大切にするということ。心を大切にするとい
うことは、常に子どもの心を確かめるということ。自分がそう思うからといって、子どももそう思う
と考えるのは、まちがい。まったくのまちがい。そういう前提で、子どもの心を確かめる。よくあ
るケースは、おけいこごとなど、親が勝手に決めてしまうケース。「来週から、ピアノ教室へ行き
ますからね」と。やめるときもそうだ。子どもの心を確かめることもなく、「来月から別の教室へ
行きます。今、行っているところは、今月でおしまい」と。
 子どもの心は通訳しない。これは正常な親子関係を築くための鉄則の一つと考えてよい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(46)

子育ての「時」は急がない

 時の流れは不思議なものだ。そのときは遅々として進まないようにみえる時の流れも、過ぎ
去ってみると、あっという間のできごとのようになる。子育てはとくにそうで、大きくなった自分の
子どもをみると、乳幼児のころの子どもが本当にあったのかと思うことさえある。もちろん子育
ては苦労の連続。苦労のない子育てはないし、そのときどきにおいては、うんざりすることも多
い。しかしそういう時のほうが、思い出の中であとあと光り輝くから、これまた不思議である。
 昔、ロビン・ウィリアムズが主演した映画に、『今を生きる』というのがあった。「今という時を、
偽らずに生きよう」と教える高校教師。一方、進学指導中心の学校側。この二つのはざまで一
人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、ひょ
っとしたら日本人に、一番欠けている生き方ではないのか。ほとんどの親は幼児期は小学校
入学のため、小学校は中学校入学のため、中学や高校は大学入試のため、と考えている。子
どもも、それを受け入れてしまう。こうしたいつも未来のために「今」を犠牲にする生き方は、一
度身につくと、それがその人の一生の生き方になってしまう。社会へ出てからも、先へ進むこと
ばかり考えて、今をみない。結果として、人生も終わるときになってはじめて、「私は何をしてき
たのだろう」と気がつく。実際、そういう人は多い。英語には『休息を求めて疲れる』という格言
がある。愚かな生き方の代名詞にもなっているような格言だが、やっと楽になったと思ったら、
人生も終わっていた、と。
 大切なのは、「今」というときを、いかに前向きに、輝いて生きるか、だ。もし未来や結果という
ものがあるとするなら、それはあとからついてくるもの。地位や肩書きや名誉にしてもそうだ。
まっさきにそれを追い求めたら、生き方が見苦しくなるだけ。子どももしかり。幼児期にはうんと
幼児らしく、少年少女期には、うんと少年や少女らしく生きることのほうが重要。親の立場でい
うなら、子どもと「今」という時を、いかに共有するかということ。そのためにも、子育ての「時」は
急がない。今は今で、じっくりと子育てをする。そしてそれが結局は、親子の思い出を深くし、親
子のきずなを深めることになる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(47)

子育ては子離れ

 子育てを考えたら、その一方で同時に、子離れを考える。「育ててやろう」と考えたら、その一
方で同時に、「どうやって手を抜くか」を考える。そのバランスよさが子どもを自立させる。こん
なことがあった。
 帰りのしたくの時間になっても、D君(年中児)はそのまま立っているだけ。机の上のものをし
まうようにと指示するのだが、「しまう」という言葉の意味すら理解できない。そこであれこれ手
振り身振りでそれを示すと、D君はそのうちメソメソと泣き出してしまった。多分そうすれば、家
ではだれかが助けてくれるのだろう。が、運の悪いことに、その日はたまたま母親がD君を迎
えにきていた。D君の泣き声を聞くと教室へ飛び込んできて、私にこう言った。「どうしてうちの
子を泣かすのですか!」と。
 このタイプの親は、子どもの世話をするのを生きがいにしている。あるいは手をかけること
が、親の愛の証(あかし)と誤解している。しかし親が子どもに手をかければかけるほど、子ど
もはひ弱になる。俗にいう「温室育ち」になり、「外に出すとすぐ風邪をひく」。特徴としては、@
人格の「核」形成が遅れる。ふつう子どもというのは、その年齢になるとその年齢にふさわしい
「つかみどころ」ができてくる。しかしそのつかみどころがなく、教える側からすると、どういう子
どもなのかわかりにくい。A依存心が強くなる。何かにつけて人に頼るようになる。自分で判断
して、自分で行動をとれなくなる。先日も新聞の投書欄で、「就職先がないのは、社会の責任
だ」と書いていた大学生がいた。そういうものの考え方をするようになる。B精神的にもろくな
る。ちょっとしたことでキズついたり、いじけたり、くじけたりしやすくなる。C全体に柔和でやさし
く、「いい子」という印象を与えるが、同時に子どもから本来人間がもっているはずの野生臭が
消える。
 人間の世界を生き抜くためには、ある程度のたくましさが必要である。たとえばモチまきのと
き、ぼんやりと突っ立っていては、モチは拾えない。生きていくときも、そうだ。そのたくましさ
を、どうやって子どもに身につけさせるかも、子育てでは重要なポイントとなる。もしあなたの子
どもが、先のD君のようであるなら、つぎのような格言が役にたつ。
「何でも半分」……子どもにしてあげることは、何でも半分にして、それですます。靴下でも片方
だけはかせて、もう片方は自分ではかせる。あるいは服でも途中まで着させて、あとは子ども
に任す、など。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(48)

子育ては楽しむ

 子育ては本来、楽しいもの。楽しくなかったら、どこかおかしいと思ってよい。実際には約七
二%の母親が、「子どものことでイライラする」(日本女子社会教育会・平成七年)と答えている
が……。ただこういうことは言える。子育てを楽しんでいる親の子どもは、表情が生き生きとし
て、明るいということ。そうでない親の子どもは、そうでない。
 子育てを楽しむ秘訣、それは子どもの世界に自分も入ること。相手が子どもだからといって、
幼稚だとか、愚かだとか考えてはいけない。子どもは未経験で知識はなく、未熟な面はある
が、しかしおとなが考えているよりはるかにその世界は純粋で美しい。人間の「原点」がそこに
あると言っても過言ではない。いろいろなことがあった。
 幼稚園で一人、両手を下へおろしたまま走っている子ども(年長児)がいた。そこで私が「手
を振って走れ!」と号令をかけると、何を思ったかその子どもは、「先生、バイバーイ、先生、バ
イバーイ」と言って走り出した。あるいは子どもたち(年長児)に、「春になると木に芽が出てきま
す」と話したときのこと。何人かの子どもたちが、「こわい、こわい」と言い出した。「芽」を「目」と
誤解したためだ。子どもといっても、心はおとな。私の子ども観を変えた事件に、こんなことが
あった。
 一人静かな女の子(年長児)がいた。いつもはほとんど発言しなかったが、その日は違ってい
た。たまたまその女の子の母親が授業参観に来ていた。何か質問すると、「ハーイ」と言って元
気よく手をあげた。そこで私が少しおおげさにほめて、みんなに手を叩かせた。するとその女
の子はポロポロと涙をこぼし始めた。私はてっきりうれし泣きと思ったが、それにしても合点が
いかない。そこで授業が終わったあと、「どうして泣いたの?」と聞くと、その女の子はこう言っ
た。「私がほめられたから、ママが喜んでいると思った。ママが喜んでいると思ったら、涙が出
てきちゃった」と。その女の子は、母親の気持ちになって涙をこぼしていたのだ!
 子どもの世界はあなたが思っているよりはるかに広い。それに気づくか気づかないかは、つ
まるところあなたの姿勢による。あなたも一度、まさに童心に返って、子どもとともにその世界
を楽しんでみたらどうだろうか。子育てもぐんと楽しくなる。そしてそれに合わせてあなたの子ど
もの表情も明るくなる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(49)

国語力を豊かにするために

 「ほら、カバン! ハンカチは! バス、バス……、ほら、帽子!」と、こんな話し方をしてい
て、子どもに国語力が育つはずがない。こういうときは、たとえめんどうでも、「あなたはカバン
をもちます。ハンカチはもっていますか。もうすぐバスが来ますから、急いでしたくをしなさい。帽
子を忘れないでください」と。こうした会話環境があってはじめて、子どもは国語力を身につけ
ることができる。が、こんな方法もある。
 一人、バツグンの国語力のある子ども(年長女児)がいた。作文力をみたら、小学四〜五年
生程度の力があったのではないか。紙芝居を渡しても、その場でスラスラと物語をつくってみ
せた。そこで母親にその秘訣を聞くと、こう話したくれた。
 母親の趣味はドライブ。そこでほとんど毎日、それもその子どもが乳幼児のときからドライブ
に連れていったのだが、そのとき母親は、自分の声で吹き込んだ物語のテープを聞かせつづ
けたという。物語は、子ども向けのものから、もう少し年齢の大きい子ども向けのものまで、い
ろいろあったという。
 確かにこの方法は効果的である。別の母親は、芥川竜之介の難解な小説(「高瀬舟」)を吹
き込んだカセットテープをその子ども(小一)に、毎晩眠る前に聞かせた。数か月もすると、そ
の子どもはその物語をソラで言えるようになったという。
 この方法にはいくつかのコツがある。やはり一番よいのは、母親の声で録音したテープ。物
語は何でもよいが、読んで聞かせる目的なら、二〜四年レベルの高いものでも構わない。大き
な書店へ行くと、学校の教科書を売っている。そういうところで、いろいろな教科書を手に入れ
て読んであげるとよい。値段も安いし、内容もよく吟味されている。また国語に限らず、社会や
理科、あるいは道徳の教科書でもよい。子どもが興味をもっていることなら一番よいが、あまり
こだわらなくてもよい。
 さて冒頭の話だが、子どもの国語力の基本は、あくまでも親、なかんずく母親の国語力によ
る。あなたも子どもの前では、正しい日本語で話してみてほしい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(50)

子どもの体で考える

 体重一五キロの子どもがかん缶ジュース一本飲むということは、体重六〇キロの人が同じ缶
ジュースを四本飲むのに等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを四本は飲めない。飲めば飲ん
だで、腹の中がガボガボになってしまう。しかし無頓着な人は、子どもに平気で缶ジュースを一
本与えたりする。ソフトクリームもそうだ。横からみると、子どもの顔よりも大きなソフトクリーム
を子どもに与えている人がいる。それがいかに多い量かは、一度あなたの顔よりも大きなソフ
トクリームを特別に注文してみればよい。そういうものを一方で子どもに与えておいて、「うちの
子は小食で困ります」は、ない。(ちなみに約半数の親が、子どもの小食で悩んでいる。好き嫌
いがはげしい。食が少ない。ノロノロ食べるなど。)
 私は職業がら、そういう親子を見ると、つい口を出したくなる。先日もファミリーレストランで、
アイスフロートのジュースを飲んでいる子ども(年長児)を見かけたので、にこやかに笑いなが
らだったが、「そんなにたくさん飲まないほうがいいよ」と声をかけてしまった。が、それを聞い
た母親はこう叫んだ。「いらんこと、言わんでください!」と。いらぬお節介というわけだ。
 ほかにスナック菓子、かき氷しかり。世界を歩いてみても、日本ほどお菓子の発達(?)した
国は少ない。もっとも味についていえば、アメリカ人のほうが、日本人よりはるかに甘党で、健
康に害があるとかないとかいうことになれば、日本ではそれほど心配しなくてもよいのかもしれ
ない。しかし一時的に甘い食品(精製された白砂糖が多い食品)を大量に摂取すると、インスリ
ンが大量に分泌され、それが脳間伝達物質であるセロトニンの分泌を促し、脳に変調をきたす
ことが知られている。そしてそのため、脳の抑制命令が阻害され、子どもは突発的に興奮しや
すくなったりするという。もう二〇年ほど前に、アメリカで問題になったことだが、もしあなたの子
どもが日常的に興奮しやすく、突発的に暴れたり、ヒステリー状態になることが目立つようだっ
たら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては、たった一週間砂糖断ちしただけで、
別人のように静かになるということはよくある。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(51)

子どもの耳は長い

 イギリスの格言に『子どもの耳は長い』というのがある。もともとの意味は、子どもというの
は、耳がよい。親の会話などでも、聞いていないようで聞いてしまう。だから子どもの近くでは、
めったな話を軽率にしてはいけないという意味だが、私ははじめてこの格言を知ったとき、別
の意味に考えた。
 子どもというのは、親が説教しても、その説教の内容が理解できるようになるまでに時間が
かかる。たとえば子どもが母親のサイフからお金を盗んで使ったとする。そういうとき親は、そ
れが悪いことだと子どもに教えるが、子どもがそれが悪いことだと本当に理解するようになるま
でには、しばらく時間がかかる。親があせって早く理解させようとしてもムダ。強く叱ったり怒っ
たりすれば、一応しおらしい顔で、反省しているかのような様子を見せることもあるが、わかっ
ていてそうしているのではない。こわいからそうしているだけ。叱られじょうずな子どもほど、叱
られ方がうまい。このタイプの子どもは、叱る割には効果はない。親は言うべきことを繰り返し
言いながらも、あとはそれが子どもの脳に届くまで、待つ。ただひたすら待つ。そういう意味で、
『子どもの耳は長い』と。
 子どもを指導するというのは、まさに根気との勝負。イライラしたら負け。怒ったり、怒鳴った
りしたら負け。子どもが親のリズムに合わせることができない以上、親が子どものリズムに合
わせるしかない。親と子どもは平等ではあっても、決して対等ではない。親は絶対的な「強者」
であるのに対して、子どもは絶対的な「弱者」。強者は弱者に対して、どこまでも謙虚でなけれ
ばならない。それに親が絶対的に正義ということも、ありえないのだ。……とまあ、少し難しい
話になってしまったが、要するに、「しょせん相手は子ども」というおおらかさが、子どもを伸ば
す。善悪の判断もそれで身につく。まずいのは一方的に、ガンガンと親の価値観を子どもに押
しつけるような行為。子どもは自分で考える力そのものをなくしてしまう。そうなると、子どもはま
すます常識ハズレになり、もっと大きな失敗を繰り返すようになる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(52)

子育てはリズム

 子育てはリズム。しかもそのリズムは、あなたが子どもを妊娠したときから始まる。そしてそ
のリズムは、よほどのことがない限り、一生つづく!
 胎教だ何だと、おなかの赤ちゃんに英語やクラシックの音楽のカセットテープを聞かせる母
親もいれば、赤ちゃんのことはまったく気にせず、マイペースで自分の仕事をつづける母親も
いる。
 赤ちゃんが泣く前に、時間がきたからといってミルクビンを赤ちゃんの口につっこむ母親もい
れば、赤ちゃんが泣いてからもしばらくミルクをあげない母親もいる。
 子どもが望む前に、勝手に英語教室に入会届けを出す母親もいれば、子どもが「行きたい」
と言っても、なかなか動かない母親もいる。やめるときも、母親が決め、勝手にやめる母親も
いれば、そのつど子どもに「どうするの?」と、子どもの意思を確かめながら行動する母親もい
る。
 一事が万事。こうしたリズムは一度できると、姿や形こそ変わるが、そのリズムそのものは変
わることはない。ある日一人の母親が私のところにきてこう言った。「先生、うちの子はああい
う子でしょ。だから夏休みの間、洋上スクールに入れようと思うのですが、どうでしょうか」と。そ
こで私が「本人は行きたがっているのですか」と聞くと、「いえね、それが行きたがらないので困
っているのです」と。
 親が三拍子で子どもが四拍子では、うまくいくはずもない。そして子どもが親のリズムに合わ
せることができない以上、親が子どものリズムに合わせるしかない。でないと、やがてあなたは
子どもと、こんな会話をするようになる。
 母親「あんたはだれのおかげでピアノが弾けるようになったか、それがわかっているの! お
母さんが高い月謝を払って、毎週ピアの教室へ連れていってあげたからでしょ!」、子「だれが
そんなことしてくれと、いつあんたに頼んだア!」と。
こういう会話をしたくなかったら、今日からでも遅くないから、子どものリズムに合わせる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(53)

子どもは気分屋

 子どもの最大の弱点は、未経験で知識に乏しいということ。それは当然だが、そのためあと
先のこともわからないまま、そのときの気分で親と約束をしてしまうこがある。よくある例が、子
どもが水泳教室へ入りたいというから、親が水泳教室へ入れたようなばあい。やがて子どもは
そのハードな練習にいやになり、「行きたくない」と言ったとする。こういうとき親は子どもに、「ち
ゃんと約束したから行きなさい」と子どもに、それを強要したりする。あるいは「子どものときか
ら、こんないいかげんなことでは、うちの子はダメになる」と思い込んで、さらに無理に無理を重
ね、水泳教室へ通わせたりする。しかし……。
 子育てはまじめ八割、いいかげんさ二割。子どもに完ぺきさを求めても意味はないし、へた
に求めると、子どもからかえって伸びる芽をつんでしまう。ある程度は押しても、それで動かな
いときは、親のほうが引く。「そんなに行きたくないなら、いいわ」と。まずいのは、子どもをとこ
とん追いつめるような行為。子どもは行き場をなくし、それが原因となって情緒が不安定になっ
たり、精神的におかしくなったりする。(反対に粗放化する子どももいる。)
 いいかげんであることが悪いのではない。子どもはこの「いいかげんさ」の中で、羽をのば
す。心を休める。よくあるのが、「そういういいかげんなことで、子どもはいいかげんな人間にな
りませんか」という相談。しかし心配は無用。子どものまじめさや、それに対するいいかげんさ
は、もっと別のところで決まる。このことについては、ほかで説明するが、それよりも、親の完ぺ
き主義のほうが、はるかに弊害が大きい。いいかげんな親か、完ぺき主義の親か、どちらがい
いかと聞かれれば、子どもにとっては、いいかげんな親のほうがはるかによい。しかしいいか
げんばかりでも困る。だから「子育てはまじめ八割、いいかげんさ二割」。それくらいの割合が
よい。
 要するに子どもは気分屋。子どもの約束など、真に受けないこと。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(54)

子どもが育てる

 よく「育自」という言葉をつかって、「子育ては自分育て」と言う人がいる。まちがってはいない
が、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、いやおうなしに育てられる。
ある父親は、体の弱い息子(中一)と毎朝近くの湖の周囲をランニングした。また別の母親は、
子どもと毎週図書館通いをした。その父親や、母親はこう言った。「自分のためだけなら、そこ
まではしなかった」と。とくにできの悪い子(失礼!)をもった親ほど、子どもに育てられる。子育
てというのはそういうものだが、こんな例もある。
 自分の子ども(二歳男児)が、重い病気にかかり、生死の境目をさまよったとき、その母親
は、「自分の命はどうなってもよいから、息子の命を救ってほしい」と、自分の心の中で祈りつ
づけたという。こうしたことはあってはならないことだが、しかし自分の命すらも惜しくないという
深い愛は、人は子どもをもってはじめて知る。
 親が子どもを育てるというのは、とんでもない誤解。子どもが親を育てる。はじめて子どもを
園へ連れてくるような母親は、たしかに若くてきれいだが、どこかツンツンとしていて、中身がな
い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あいさつもしない。しかしそんな親
でも、子育てで苦労をしながら、野を越え、山を越え、そして谷を越えるうちに、しだいに姿勢が
低くなる。人間的な丸みができてくる。
 子どもに育てられることを恐れてはいけない。またそれが恥ずかしいことだと思う必要もな
い。むしろ実際には、子どもに教えを請うつもりで、子どもに接するとよい。子どもは未熟だと
か、未完成だとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。むしろ子どもの世界のほうにこ
そ、真理が隠されていることがある。私も自分の子育て論でわからないところがあると、子ども
の世界へ入って、そこで考えるようにしている。それだけではない。子どもと接していると、何が
大切で何が大切でないか、それを教えられることがある。あるいは忘れかけていた感動や生き
る力を教えられることもある。
 子どもが親を育てる……。もっともそれがわかるようになるのは、子育ても終わるころになっ
てからだが、あなたも一度そういう謙虚な気持ちで、あなたの子どもと接してみてはどうだろう
か。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(55)

子どもは社会の縮図

 おとなの世界に四割の善と四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善と四割の悪が
ある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。おとなの世界をよくしないで、子どもの世界
だけをよくしようとしても、それはおとなの身勝手。もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしよ
うと考えたら、おとなの世界をよくする。たとえばいじめにしても、非行にしても、おとなたちの世
界にもそれがあるのに、どうして子どもに向かって、それをやめろと言えるのか。子どもしても
はじめて読んだカタカナが、「ソープ」であったり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃ
ん」)。
 ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のようになってしまった
ら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。善と悪のハバがあるから、この世界は
おもしろい。無数のドラマもそこから生まれる。旧約聖書の中にも、こんな説話が残っている。
ノアが、神にこう聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。(滅ぼすくら
いなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対して神は、「(人間に)希望を与
えるため」と。つまり人間は悪いこともするが、一方努力によって、神のような人間にもなれる。
「それが希望だ」と。
 私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しかし四〇歳になり、五
〇歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れて、その反対に、結局は問題の根源は
おとなの世界にあることを知った。「犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこ
そ、その犠牲者に過ぎない。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとしたビジ
ョンを示せない私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。たとえば援助交際にしても、子ど
もたちにそれをやめろという前に、どうしておとなたちが、おとなに向かって、それをやめろと言
わないのか。あなたの友人や仲間が若い女の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリ
をしている!
 子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、「自分ならでき
るか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要だが、自分にできないことは、子ども
に求めないこと。期待しないこと。「子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味であ
る。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(56)

ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星
は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この
詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を見た
だけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声
高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。
 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四
〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。
 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕
著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県で
は、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。
 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切
にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(57)

机は平机

 以前、小学一年生について調べたところ、前に棚のある棚式机のばあい、購入後三か月で、
約八〇%の子どもが机を、物置にしていることがわかった。いろいろな附属品ついいる棚は、
一時的に子どもの関心を引くことはできても、あくまでも一時的。棚式の机は長く使っていると、
圧迫感が生まれる。その圧迫感が子どもを勉強から遠ざける。あなたも一度、カベに机を向け
て置き、その机でしばらく作業をしてみるとよい。圧迫感がどういうものか、理解できる。そんな
わけで机は買うとしても、長い目で見て、平机が好ましい。あるいはこの時期、まだ机はいらな
い。
 まず第一に、「勉強は学習机」という誤った固定概念は捨てる。日本人はどうしても型にはま
りやすい民族。型を決めないと落ちつかない。学習机その延長線上にある。小学校の低学年
児の場合、大半の子どもは、台所のテーブルなど利用して学習している。もしそうであれば、そ
れでよい。この時期、あまり勉強を意識する必要はない。「勉強は楽しい」という思いを子ども
がもつようにするのが大切。そこであなたの子どもと机の相性テスト。
 子どもが好きそうな食べ物などをそっと机の上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそれを
そのまま机に向かって座って食べればよし。そうでなく、その食べ物を別の場所に移して食べ
るようであれば、机との相性はよくないとみる。長く使っていると、それが勉強嫌いの遠因にな
ることもある。
 よく誤解されるが、子どもの学習机は、勉強するためにあるのではなく、休むためにある。ど
んな勉強でも、一〇〜三〇分もすれば疲れてくる。問題はその疲れたときだ。子どもがそのま
ま机に向かって休めればよし。そうでないと子どもは机から離れ、そこで勉強が中断する。勉
強というのは、一度中断すると、なかなかもとに戻らない。だから机は休むためにある。が、そ
れでもなかなか勉強しないというのであれば、奥の手を使う。
 あなたの子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を休めるかを観察してみ
る。たいては台所のテーブルとか、居間のソファだが、そういうところを思いきって勉強部屋に
する。あなたの子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。
 ものごとには相性というものがある。その相性があえばことはうまくいく。そうでなければ失敗
する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(58)

勉強部屋は開放感がポイント

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。結果、ドアから一
番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。子どもというのは無意識のうちにも、
居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図書室全体が見渡せた。このことから、
子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよい。
@机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよ
い。ドアが背中側にあると、落ち着かない。
A棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。
B光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法もあ
るが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。
C机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れな
どを用意する。
 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、そ
れが子どもを勉強嫌いにすることもある。
 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フ
ワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。また座る
と前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかしそのイス
では、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れてしまう。
一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休
むためにある。それを忘れてはならない。
 子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求め
るようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前につい
ては、ケースバイケースで考える。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(59)

動機づけの四悪

 子どもを勉強を遠ざける四悪に、無理、強制、比較、それに条件がある。能力を超えた学習
を押しつけることを無理。時間や量を決め、それを押しつけることを強制。無理や強制が日常
化すれば、子どもが勉強嫌いになって当然。さらに……。
 「A君はもうひらがな書けるのよ」とか、「お兄ちゃんはあなたの年齢のときには、算数は一〇
〇点ばかりだったのよ」というのを、比較という。この比較は一度クセになると、あらゆる面です
るようになるから注意する。勉強嫌いになるだけならまだしも、子どもから「私は私」というもの
の考え方をうばう。
 日本人は本当に他人の目をよく気にする。長くつづいた封建時代の名残(なごり)とも言え
る。他人と違ったことをすることができない。あるいは自分と違ったことをする人を、排斥する。
そして幸福感も相対的なもので、「隣の人よりいい生活だから、幸せ」「隣の人より悪い生活だ
から、不幸」というような考え方をする。ここでいう「比較」というのは、そういう日本人独特のも
のの考え方と深く結びついている。
 つぎに「条件」。「成績があがったら、自転車を買ってあげる」「一〇〇点をとったら、お小遣い
を一〇〇〇円あげる」など、何かの条件をつけて子どもを釣るのを、条件という。この条件も、
一度クセになると、習慣になるから注意する。が、それだけではすまない。条件が日常化する
と、子どもから「勉強は自分のためにするもの」という意識をうばう。そして子どもが小さいうち
はまだしも、この条件はやがてエスカレートし、中学生になると、バイク。さらに大学生になる
と、自動車となる。そうなればなったで、苦労するのはあたな自身だ。実際、今、親に感謝しな
がら高校に通っている高校生はいない。大学生でも少ない。中には、「親がうるさいから大学
へ行ってやる」と豪語する高校生すらいる。そうなる。
 子どものほうから何か条件をつけてくることもあるかもしれないが、そういうときは、「あなたの
ためでしょ」とはねのける。こういう毅然(きぜん)とした態度が、結局は子ども自立させる。
 ともかくも無理、強制、比較、それに条件は子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だ
が、それだけに弊害も大きい。

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(60)

子どもは人の父

 イギリスの詩人ワーズワース(一七七〇〜一八五〇)は、次のように歌っている。

 空に虹を見るとき、私の心ははずむ。
 私が子どものころも、そうだった。
 人となった、今もそうだ。
 願わくば、私は歳をとって、死ぬときもそうでありたい。
 子どもは人の父。
 自然の恵みを受けて、それぞれに日が
 そうであることを、私は願う。

 原詩は、「The Child is Father of the Man」となっている。私はその「Man」の訳に苦しんだ。こ
こでは、ほかの訳者と同じように、「人」と訳したが、どうもしっくりこない。「おとな」、あるいは
「人格者」と訳すこともできる。つまりワーズワースがこの詩の中で言わんとしていることは、子
ども時代がその人の原点であるということ。いくらおとなになっても、その子ども時代の美しい
心や純粋な心を忘れてはいけないということ。もっと言えば、人はおとなになるにつれて、知識
や経験はたしかに豊富になるが、ともすればそれと引き換えに、子ども時代に覚えた感動を踏
みにじってしまう。ワーズワースは、そうであってはいけない、と。
 私はこの詩に出会ってからというもの、この詩をずっと子育て評論の座右の銘としている。そ
してそのつど、ふとどこかで袋小路に入りそうになったとき、この詩を思い出して、自分を取り
戻すようにしている。たしかに子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。自尊心もあ
れば、嫉妬心もある。むしろ人はおとなになればなるほど、悪賢く、そして醜くなっていく。その
ため失うものも多い。
 「子ども的」であることは、何ら恥ずべきことではない。子ども的であるということは、それ自体
すばらしいことなのだ。あなたも一度、空の虹を見ながら、童心に返って、「わーっ」と大声をあ
げて感動してみたらどうだろう。遠慮することはない。「わーっ」とだ。あなたも子どものころを純
粋さを、心のどこかに感ずるはずだ。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(61)

子どもは水

 私は幼児教育の世界に入って、まずしたことは、アンケート調査だった。そのアンケート調査
だけを、ただひたすら繰り返した。で、その調査の中でも、最初にしたのが、つぎのような調査
だった。私は静かな住宅団地に住む子どもは静かで、街中の交通のはげしいところに住む子
どもは騒々しいと思っていた。それを証明したくて、調査をした。が、結果はハズレ。住環境と
子どもの静かさ、騒々しさはまったく関係がないことがわかった。静かな環境に住んでいる子ど
もでも、騒々しい子どもはいくらでもいた。騒々しい環境に住んでいる子どもでも、静かな子ども
はいくらでもいた。
 子どもというのは、物理的な環境の変化、たとえば引っ越しなどによっては、ほとんど影響を
受けない。とくに満四・五歳までの子どもは、あたかも水のように自在に形を変えて、それぞれ
の環境に適応していく。むしろ引っ越しなどは、子どもによい影響を与えることが知られてい
る。よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言うが、それもその一つ。そんなわけで、私は『子ども
は水』という格言を考えた。が、子どもは、愛情の変化には、たいへん敏感に反応する。こんな
ことがあった。
 俗にいうツッパリ症状というのがある。目つきが鋭くなる、肩をいからせて歩く、ものの考え方
が投げやりになり、言動が乱暴になるなど。私が経験した中での最年少は、小学一年生のI君
だった。彼は夏休みを境に、ここでいうツッパリ症状が出てきた。そこで母親に聞くと、母親は
「思い当たることはありません」と。そこでさらに調べてみると、こういうことだった。
 それまでI君は、両親の間で、「川」の字になって寝ていた。が、夏休みに入って子ども部屋が
でき、I君はそこでひとりで寝ることになった。I君はI君なりに、親の愛情が変化を感じたのかも
しれない。私がそれを指摘すると、母親は「そんなことで!」と言ったが、もとのようにまた床を
移すと、ツッパリ症状もウソのように消えた。
 家庭騒動、離婚騒動など、子どもの側からみて愛情の変化と見られるような行動は、慎重に
するにこしたことはない。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(62)

子どもは見るもの、聞くものではない

 子どもはうるさいのが当たり前。ワーワーと自己主張する。ワーワーと驚いたり、親に反発し
たりする。時には大声で歌を歌ったり、笑ったりする。それが子どものふつうの姿と考えてよ
い。そういう意味で、『子どもは見るものでは、聞くものではない』という。イギリスの格言であ
る。
 これに対して静かな子どもは、それだけで何らかの心の問題を疑ってみたほうがよい。たと
えば親の神経質な過干渉が日常的につづくと、子どもの心は内閉する。さらに症状が進むと、
精神の発達そのものが阻害され、心が萎縮する。今、幼稚園の年中児でも、皆がドッと笑うよ
うなときでも、大声で笑えない子どもが、一〇人のうち、一人二人はいる。
 ところで日本では、静かで、先生の言うことをハイハイと聞く子どもほど「いい子」と考える傾
向が強い。少なくとも二、三〇年前までは、そう考えられていた。今でも、そういうふうに思って
いる先生や親は多い。しかしそれは世界の常識ではない。たとえば日本では、学校の先生
は、「わかったか?」「では、つぎ!」と授業を進める。しかしアメリカやオーストラリアでは、「君
はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。日本では、先生が教えたことをスラ
スラとできる子どもを優秀な生徒と考え、アメリカやオーストラリアでは、自分の考えをしっかり
ともち、それを発言できる子どもを、優秀な生徒と考える。科目にしても、向こうには「ドラマ(演
劇)」という科目があるくらいだ。さらに日本では子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をしっ
かりと聞くのですよ」と言う。しかしアメリカでは(特にユダヤ系の家庭では)、「わからないところ
があったら、先生によく質問するのですよ」と言う、などなど。日本で常識になっていることでも、
外国ではそうでないということはいくらでもある。
 ただし同じ騒々しいといっても、キャーキャーと奇声をあげて騒ぐというのは、別問題である。
以前、オーストラリアの幼稚園を訪問したことがあるが、日本の子どもたちとは比較にならない
ほど静かだったのには驚いた。サワサワとした風の音すら聞こえていた。「子どもはうるさいも
の」と言っても、その内容は国によってかなり違う。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(63)※

学力は低下している?

 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学
生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以下、オ
ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、台湾、シンガポー
ルに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシア、と。
この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメントを寄せて
いる。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与え
るのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割
合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二で
あった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。
一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一
時間にふえている。
で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表
している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。
この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小学
六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・五%に
低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混合計算は、
三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に低下している(同じ
問題で調査)、と。
いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見。あるいは文部科学省を批判した
意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑いようがな
い。同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、
二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答えた
子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるのだろう
が、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。少なくとも、「(日本の教育が)
国際的にみてトップクラスを維持していると言える」というのは、もはや幻想でしかない。(はや
し浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(64)

子どもを飾らない

 「私はどこの中学でもいいのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先生、息子の
願いをかなえてあげてください」と。あるいは「学校の先生はB中学でも合格できると言っている
のですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言うことを聞きません。しかたな
いので、C中学にしました」と。さらにこんな例もある。
 かなり情緒が不安定な女の子(小六)がいた。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで
突発的に泣き叫んだり、暴れたりした。が、母親の悩みはそのことではなかった。ある日私に
こう言った。「ああいう子でしょ。中学の面接試験のときだけでも、落ち着いていてくれればいい
のですが……」と。
 子どもを飾る親は少なくない。見栄やメンツ、世間体が親をして、子どもを飾らせる。「近所の
人に子どもの制服を見られると恥ずかしいから」という理由で、毎朝、駅まで子どもを送り迎え
していた親がいた。あるいは高校の進学校別懇談会に、やはり「恥ずかしいから」という理由
で、一度も出席しなかった親もいた。不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまっ
た親もいた。こうした親の気持ちはわからないわけではないが、しかしこうした卑屈な気持ち
は、親子の間に大きなキレツを入れることになる。どう入れるかは別のところで書くとして、「子
どもは飾らない」。ありのままを認めて、ありのままを受け入れる。そして子どもは子どもで、あ
りのままの自分を、外の世界に向かって見せることができるようにする。つまりありのままの
「自分」に自信をもたせるようにする。こうした姿勢が、子どもの中に「私は私」という意識を育
てる。また「私は私」と堂々と生きるところから、その人の価値が生まれる。
 「飾る」ということは、他人の目を意識した生き方をするということ。しかし他人の目の中で生
きれば生きるほど、結局は「私」を犠牲にすることになる。が、これほどつまらない人生はな
い。他人から見ても、これほど見苦しい生き方もない。たとえば見栄やメンツにこだわればこだ
わるほど、その分、時間をムダにする。世間体を気にすればするほど、結局はその世間から
笑われる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(65)

神経症は親を疑う

 子どもの神経症(心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、ま
さに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑う。その神経症は、大きくつぎの
三つに分けて考える。
@精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。
A身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。
B行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
 こうした神経症が表れると、親は園や学校、さらには友人関係を疑うが、まず疑うべきは、家
庭環境である。こんな母親がいた。学校でその子ども(小四男児)の吃音(どもり)が笑われた
というのだ。その母親は「教師の指導が悪いからだ」と怒っていたが、その子どもにはほかに、
チックによる症状(目をクルクルさせる)もあった。問題は「笑われた」ということではなく、現に
今、吃音があり、チックがあるということだ。たいていは親の神経質な過干渉が原因で起こる。
なおすべきことがあるとするなら、むしろそちらのほうだ。子どもというのは、仮に園や学校でつ
らい思いをしても、(またそういう思いをするから子どもは成長するが)、家庭の中でキズついた
心をいやすことができたら、こうした症状は外には出てこない。
 神経症が子どもに現れたらら、子どもの側からみて、親の存在を感じないほどまでに、家庭
環境をゆるめる。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもがひとりでぼんやりと
できる時間と場所を大切にする。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(66)

子どもは環境で包む

 私はときどき、たとえば小学五、六年生の子どもを、中学生のクラスに座らせて勉強させるこ
とがある。何かを教えるのではなく、「好きな勉強をしなさい。本読みでも、宿題でもいい」と言っ
て、子どもの自由に任せる。(クラスといっても、私のばあいは、一クラス、五〜六名の小さなク
ラスだが……。)この方法は、下の子どもが上の子どもの勉強グセを受け継ぐには、たいへん
効果的である。週一回程度でも、数か月もすると、下の子どもは上の子どもを見習って、黙々
と勉強するようになる。実際、私はこの方法で、ツッパリ始めた子どもをなおしたこともあるし、
騒々しくて落ち着かない子どもをなおしたことがある。
 それはそれとして、子どもを指導したいと考えたら、環境で包む。……包むことを考える。釣
り好きの親の子どもは、釣りが好きになる。読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。社
交的な親の子どもは社交的になる。しかし押しつけはいけない。親が本を読まないのに、「うち
の子はどうして本を読まないでしょう」は、ない。子どもというのはそういうもので、親の考え方
や感じ方をそのまま受け継いでしまう。たとえば今あなたが、「男なんてつまらないもの」とか、
「うちの夫はだらしない」などと思っていると、あなたの娘もそう思うようになる。これは一つのテ
ストだが、こんなことをしてみると、親子の密着度を知ることができる。
 紙と鉛筆を用意し、まずあなたが山、川、木を二本、家、雲、太陽を描いてみる。そしてその
絵をどこかへ隠し、つぎに子どもに、同じように山、川、木を二本、家、雲、太陽を描かせてみ
る。子どもの絵ができあがったら、あなたの絵と見比べてみる。親子の密着度が高い親子ほ
ど、実によく似た絵をかく。年長児で三〇組に一組は、ほとんど同じ絵を描く。
 子どもに何かをさせようと思ったら、まず自分でしてみる。環境で包む。そういう姿が、子ども
を前向きに伸ばす。ただし一言。あなたが努力しても、子どもがそれに乗ってこなければ、それ
はそれでおしまい。あのレオナルド・ダ・ビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、
健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。何
ごとも無理強いは禁物。子どもというのは、親の期待を一枚ずつ剥ぎ取りながら成長するも
の。そういう前提で、子育てを考えること。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(67)

休息を求めて疲れる

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言
でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。
 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八十八か
所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないの
か?」と。
 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。名誉
や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというの
か。私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。だから○○部長の名前で稼
いだ一〇〇万円も、幼稚園の講師で稼いだ一〇〇万円も、一〇〇万円は一〇〇万円。問題
は、そのお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組
織に、義理立てをしなければならないのか。
 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分
の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。幼稚園は小学校の入学
のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。
社会へ出てからも、そうだ。子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを
途中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終
わる。
 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試
験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しかし実際そのテストが終わると、その気力も
消えてしまった。どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望
が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。先の「四国八十八か所
を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをしたら、その人はよほど意思
の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人は四国八十八か所めぐりはしないと思う。
退職したとたん、その気力は消えうせる……?
 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日とい
う結果は明日になればやってくる。そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけは
してはいけない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(68)

こまかい指導は、子どもをつぶす

 文字を覚えたての子どもは、親から見てもメチャメチャな文字を書く。形や書き順は言うにお
よばず、逆さ文字、鏡文字など。このとき大切なことは、こまかい指導はしないこと。日本人は
とかく「型」にこだわりやすい。トメ、ハネ、ハライがそれだが、今どき毛筆時代の名残をこうま
でこだわらねばならない必要はない。……というようなことを書くと、「君は日本語がもつ美しさ
を否定するのか」と言う人が必ずいる。あるいは「はじめに書き順などをしっかりと覚えておか
ないと、あとからたいへん」と言う人がいる。しかし文字の使命は、自分の意思を相手に伝える
こと。「美しい」とか「美しくない」というのは、それは主観の問題でしかない。また、これだけパソ
コンが発達してくると、書き順とは何か、そこまで考えてしまう。
 一〇年ほど前、オーストラリアの小学校を訪れたときのこと。壁に張られた作文を見て、私は
びっくりした。スペルはもちろん、文法的におかしなものがいっぱいあった。そこで私がそのクラ
スの先生(小三担当)に、「なおさないのですか」と聞くと、その先生はこう言った。「シェークスピ
アの時代から正しいスペルなんてものはないのです。音が伝わればいいのです。またルール
(文法)をきつく言うと、子どもたちは書く意欲をなくします」と。
 私もときどき、親や祖父母から抗議を受ける。「メチャメチャな文字に、丸をつけないでほし
い。ちゃんとなおしてほしい」と。しかしこの時期大切なことは、「文字はおもしろい」「文字は楽
しい」という思いを子どもがもつこと。そういう「思い」が、子どもを伸ばす原動力となる。このタイ
プの親や祖父母は、エビでタイを釣る前に、そのエビを食べようとするもの。現に今、「作文は
大嫌い」という子どもはいても、「作文は大好き」という子どもは少ない。よく日本のアニメは世
界一というが、その背景に子どもたちの作文嫌いがあるとするなら、喜んでばかりはおれな
い。
 ある程度文字を書けるようになったら、少しずつ機会をみて、なおすところはなおせばよい。
またそれでじゅうぶん間に合う。そういうおおらかさが子どもを勉強好きにする。(はやし浩司の
サイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(69)

子をもって知る子育ての深さ

 「家のしつけがなっていない」「親がだらしない」などと平気で口にする人は、自分で子育てを
したことがない人とみてよい。自分で子育てをしてみると、この考えが消える。「クレヨンしんち
ゃん」の中に、こんなシーンがある。
 向こうから二人の高校生が歩いてくる。それを見た母親のみさえが、「何よ、あのかっこうは。
親の顔を見てみたい」と。するとその高校生たちが、しんのすけを見て、こう叫ぶ。「何だ、こい
つ。親の顔を見てみたい」※と。みさえがその方向を見ると、しんのすけがチンチン丸出しで歩
いてくる……。
 思うようにならないのが子育て。もちろん成功する人もいるが、失敗する人のほうがはるかに
多い。しかし成功したからといって、それはその人の力というよりは、子ども自身の力によると
ころが大きい。反対に、失敗したからといって、その人の責任ではない。その人はその人なり
に、一生懸命しているのだ。一生懸命しても、あるいは皮肉なことに一生懸命すればするほ
ど、子どもだけがどんどんわき道に入ってしまう……。子育てというのは、もともとそういうも
の。
 そこでどうだろう、こう考えたら。失敗を失敗と思うから失敗であって、子育てには失敗などな
い、と。たとえばこんな教授がいた。それまでは受験雑誌などにエッセイを書いていたし、彼の
書いた「受験攻略法」(仮称)は、数一〇万部を超えるベストセラーになった。が、彼の息子のう
ち、長男は京大に入ったが、二男は京都のある私立大学に入った。それについてその教授
は、「私は二男を、東大もしくは京大へ入れることができなかった。教育に失敗した」と、「失敗」
という言葉を使って、「受験攻略法」について書くのをやめてしまった。「失敗」という言葉がそう
いうふうにも使われることもある。
 自分の子育てにはもちろんのこと、他人の子育てにも謙虚であること。この世界には、こんな
鉄則がある。「他人の子育てを笑うものは、いつか自分が笑われる」と。たとえばAさんはいつ
も、その出身高校でその人を判断していた。「あの親は結構、教育熱心でしたけど、息子さん
はC高校ですってねエ」と。しかしいざ自分の娘(中三)が受験となったときのこと。娘にはその
力がなかった。だからAさんは、毎晩のように娘と、「勉強しなさい」「うるさい」の大乱闘を繰り
返すことになった。こうした例はあなたのまわりにも、一つや二つは必ずあるはずだ。だから繰
り返す。他人の子育てには謙虚であること。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(70)

親は自分の過去を再現する

 子どもが受験期を迎えると、たいていの親は言いようのない不安感に襲われる。自分自身が
自分の受験期にいやな思いをした人ほどそうで、記憶というのは、そういうもの。親は子育てを
しながら、自分の過去を再現する。
 もっとも親が不安になるのは、親の勝手だが、その不安感を子どもにぶつけてはいけない。
ぶつけてもいけない。今はそういう時代ではない。むしろ受験そのものがもつ弊害というか、子
どもの心への悪影響のほうが問題にされ始めている。親子関係そのものを破壊することも多
い。しかし親子関係を犠牲にするほどの価値が受験にあるかというと、それは疑わしい。日本
人が「何が本当に大切で、何が大切でないか」ということを、少しずつだが考え始めている。そ
の一つの表れとして、一九九九年に文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」とし
て、約四〇%が「家族」をあげた。さらに一九九五年ごろを境として、全国の塾数、塾の講師数
ともに減少に転じている(通産省資料)。長引く不況と少子化が原因だが、それ以上に、「エリ
ートの凋落(ちょうらく)」が大きな影を落としている。Y証券会社という日本を代表するような証
券会社が倒産したとき、そのときの社長が、「みんな、私が悪いんです」と、子どものように泣い
てみせた。そう、あのとき日本のエリート神話が崩壊した!
 もちろん子育てには不安がついてまわる。子どもの将来はだいじょうぶだろうか、と。そして
一方、この日本には不公平格差が歴然としてある。そのコースに入った人は、必要以上に得
をし、そうでない人は、公的な保護をまったくといってよいほど受けない。こうした不公平感を親
たちは日常的に感じているから、ついつい子どもには「勉強しなさい」と言ってしまう。しかしこ
の時点でも、おかしいのは社会であって、子どもではない。戦うべき相手は社会であって、子ど
もではない。
 話がそれたが、親は子育てをしながら、結局は、子どもの年齢ごとに自分の子育てを再現す
る。自分が受けた子育てを繰り返すといってもよい。しかしそれがよいものであれば問題はな
いが、そうでないものだったら、再現しないほうがよい。いや、本当の問題はこのことではな
い。本当の問題は再現しているということにすら気づかないまま、自分の中の「過去」に振りま
わされることだ。そしていつも同じような失敗を繰り返す。あなたもそういう視点で、一度あなた
の心の中をのぞいてみてほしい。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(71)

さえを伸ばす

 子どもの頭をよくする方法というのは、そんなにないが、その一つが、この「さえを伸ばす」。
ここでいう「さえ」というのは、子どものひらめきや直感力、洞察力を言うが、頭のやわらかい子
どもは、さえが鋭く、しかも頻繁に現れる。
 たとえば幼児との会話で、「電線にさわると、真っ黒こげになってしまう」と話したときのこと。
一人の子ども(年長児)が、すかさずこう言った。「わかった、だからカラスは黒いんだ」と。こう
いうのをさえという。学習に限らない。遊びにしても、「ああすればいい」とか、「こうすればいい」
とか、つぎつぎとアイディアを出してくる。こういうさえを見せたら、おとなの立場で意見を加えた
りしながらも、そのさえを伸ばすようにする。「それはおもしおろいね」「そればすばらしい考え
だ」とかなど。こんな子ども(四歳男児)もいた。
 ある日客がきたとき、その子どもがスリッパを出して、その客にほめられたというのだ。それ
でその子どもはすっかり気をよくしてしまい、それ以来、集金の客がきてもスリッパを出したり、
お茶を出したりするようになったという。「うちの子はよく気が回るのです」と母親は笑っていた
が、「よく気が回る」というのも、ここでいうさえと考えてよい。
 反対に頭のかたい子どもには、このさえがない。何かの説明をしても、そのワクの中だけで
考えようとする。いわゆる融通のきかない子どもといった感じになる。決められたことや、言わ
れたことはきちんとするものの、それ以外のことはしようとしないなど。そしてひとりにしておく
と、「退屈だ」「つまらない」と言い出す。
 こうしたさえを伸ばすコツは、子どもの視点で、「あれっ!」と思うような意外性を大切にする。
お金をかけろということではない。木の葉をかんで、味を調べさせたり、石を拾ってきてペイン
ティングしてみるなど。おもちゃのトラックにお寿司を並べた母親がいたが、それでもよい。子ど
もの側から見て、子どもの頭の中でかたまりつつある常識をいつも破るようにする。(はやし浩
司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(72)

砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。
原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメ
リカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を
大量に摂取すると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロト
ニンの大量分泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約一〇〜一五グラム。この量は
イチゴジャム大さじ一杯分程度。もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶
暴になったり、あるいはキーキーと声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すよう
なら、一度、カルシウム、マグネシウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考
え、砂糖断ちをしてみるとよい。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着
く。
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性
を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れ
ず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯
ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだや
かにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶
けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処する。
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を
加えた食品(ジャンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャ
ンクフードは)疲労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不
能、アレルギーなどの原因になっている」とも。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(73)

参観は「動」と「静」を見る

 よい授業かどうかは、「動」と「静」をみる。「動」のときは、子どもたちが活発に意見を言った
り、笑ったりする。「静」のときは、子どもたちが一転して静かに、黙々と作業をする。そういう授
業をよい授業という。またそういう指導ができる教師を、すぐれた教師という。が、そうでない授
業はそうでない。そうでない教師はそうでない。「動」と「静」の区別がつかないばかりか、いつも
ダラダラと時間だけが過ぎていくといった感じになる。
 もっともこういう「動」と「静」がはっきりとした、つまりメリハリのある授業をするということは、
教師にとってもかなりたいへんなことで、それだけの準備と労力が必要である。実際、小学校
の低学年児を相手に、真剣に授業をしたら若い教師でもヘトヘトになる。子どもたちのもつエネ
ルギーは想像以上のものだし、もともと教育というのは、そういうもの。
 こうした基準は、あなたの子どものおけいこ塾や学習塾を選ぶときにも応用できる。さらに保
育園や幼稚園を選ぶときにも応用できる。私はこういう評論活動をしているため、よく「どこの
幼稚園がいいですか」と聞かれる。立場上、名前を出すことはできないが、一つの目安はあ
る。つぎのような点を見ると、よい保育園や幼稚園を選ぶことができる。
(1)ピカピカにみがかれたような園、子どものにおいがしない幼稚園は避ける。
(2)園長がスーツを着て、職員室にふんぞりかえっているような幼稚園は避ける。
(3)やることだけは派手だが、ポリシーを感じない幼稚園は避ける。
 反対によい園は、
(1)現場の先生たちが生き生きしている園。
(2)休み時間になると、子どもたちが先生のまわりに集まってワイワイと喜んでいる幼稚園。
(3)いたるところに子どものにおい(落書きや、いたずら、遊具など)がプンプンとする園。
(4)子どもの視線で見て、どこか楽しさを覚える幼稚園。
(5)園長が作業服などを着て、率先して指導している園。
 以上あくまでも参考的意見として。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(74)

三〇分で五分

 子どもの勉強は、三〇分やって五分と思うこと。つまり三〇分の間で、五分間だけ勉強らしき
ことをすればよいとみる。家庭でする勉強というのは、しょせんそういうもの。小学一年生や二
年生が、家へ帰ってから、一時間も二時間も、黙々と漢字の書き取りをするほうがおかしい。
もしそうなら、心の病気を疑ってみたほうがよい。
 無理や強制が日常化すると、子どもは勉強から逃げるようになる。これは当然のことだが、さ
らにその症状が進むと、@フリ勉、A時間つぶしがうまくなる。フリ勉というのは、いかにも勉強
していますという様子だけを見せる勉強法をいう。が、その実、何もしていない。たとえば一時
間で、計算問題を数問解くだけ、あるいは英文を数行書くだけなど。つぎに時間つぶし。つめを
ほじったり、鉛筆をかんだりして、時間ばかりムダにする。先生や親の視線を感ずると、そのと
きだけ、いそいそと本のページをめくってみせたりする。
 こうしたフリ勉や時間つぶしをするようになったら、家庭教育のあり方をかなり反省したほうが
よい。……というより、一度、こういう症状(これを「空回り」という)が身につくと、それをなおす
のは容易ではない。たいてい(親が叱る)→(ますますフリ勉、時間つぶしがうまくなる)の悪循
環の中で、子どもは勉強から遠ざかっていく。
 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ
ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しな
い」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。
 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時
間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ
ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/
~hhayashi/)
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(75)

幸せにするのが最高の教育

 あなたはいつかあなたの子どもに幸せな家庭を築いてほしいと願っている。そうであるなら、
今、あなたは子どもに、幸せな家庭というものがどういうものか、夫婦とはどういうものか、親子
とはどういうものかを見せておく。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませておく。そ
ういう「しみこみ」があってはじめて、子どもが自分で家庭をもったとき、自然な形で、幸せな家
庭を築くことができる。「幸せにするのが最高の教育」(イギリスの教育格言)というのはそうい
う意味。
 子育ては本能ではなく、学習によってできるようになる。しかし学習だけでは足りない。経験
が必要である。たとえば一般論として人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子
育ての情報が脳にインプットされていないからである。人間の子どももしかり。不幸にして不幸
な家庭に育った人ほど、「幸せな家庭を築こう」「理想的な親になろう」という気負いが強く、か
えって幸せな家庭づくりに失敗しやすい。ただ人間がほかの動物と違うところは、仮に不幸な
家庭に育っても、親類や近所の家庭をのぞくことによって、自分の中に別の家庭像、親像をつ
くることができるということ。だから自分の過去が不幸だったからといって、絶望的になることは
ない。問題は、不幸な家庭に育ったということではなく、そういう自分自身の心のキズに気づか
ないまま、それに振り回されること。そしていつまでも同じ失敗を繰り返すことである。たとえば
子どもに暴力を振るう親というのは、自分自身も親に暴力を振るわれた経験をもっていること
が多い。それを世代伝播(でんぱ)というが、そういう形で繰り返す。もしあなたにそういう面が
あるなら、自分自身の過去はどうだったかと、静かに自分をみつめてみる。それでよい。この
問題だけは、自分の中の心のキズに気づくだけでよい。時間はかかるが、それでなおる。
 「幸せ」といっても、もちろん子どもを王様にすることではない。子どもの言いなりになるという
ことでもない。「幸せな家庭」というのは、家族が理解しあい、いたわりあい、信じあい、励まし
あい、なぐさめあい、助けあい、守りあい、教えあう家庭をいう。そういう家庭で子どもを包む。
それが「最高の教育」と。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(76)

自慰は笑って見過ごせ

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。六
歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっ
ているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつける
ように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいので
しょうか」(三二歳母親)と。
 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。@口唇期……口の中にいろいろ
なものを入れて快感を覚える。A肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に興
味を示したり、そこをいじったりする。B男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をも
つようになる。
 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為
をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自
慰もその一つと考える。つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレ
スの原因(ストレッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症
状(ふさぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)を
ともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を
悪化させることもあるので注意する。
さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自分
の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情緒
障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこと
を言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗するそ
ぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。
 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。
 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(77)

生きることを原点に

 リチャード・マクドナルドという人がいた。数年前に八九歳でなくなったが、あのハンバーガー
チェーンの「マクドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている。が、当のマクドナルド氏自
身は、早い時期にレストランの権利を別の人物に売り渡している。それについて生前、テレビ
のレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。マクドナルド氏はこう答えてい
る。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオフィスで、弁護士や会計士に
囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。(こういう農場でのんびり暮らしている)今のほ
うが、ずっと幸せです」と。 
 話は大きくそれるが、私には三人の息子がいるが、そのうちの二人をあやうく海でなくしかけ
たことがある。とくに二男は助かったのが奇跡としか言いようがない。そんなこともあって、私は
二男に何か問題があるたびに、「こいつは生きていてくれるだけでいい」と思いなおすことで、
それらの問題を乗り越えることができた。生きることを原点にしてものを考えるということは、そ
ういうことをいう。
 私はマクドナルド氏の話を聞いて、大きな衝撃を受けた。日本人には信じられないような生き
方だが、アメリカやオーストラリアでは珍しくない。私の友人のピーター君も、宝石加工会社を
おこし、四〇数歳の若さで「輸出高ナンバーワン」で、オーストラリア政府から表彰されている。
しかしそののちまもなく権利を売り渡し、今はシドニー郊外で悠悠自適の隠居生活を楽しんで
いる。ほかにもこういう例は多い。よく知られた人物としては、ジェームズ・ルービン報道官がい
る。彼は妻の出産を理由に、ホワイトハウスの報道官を退任。今はロンドン郊外で「主夫業」
(報道)をしている。
 ものの考え方というのは相対的なものである。日本人が「あれっ!」と思うということがあれ
ば、ちょうどその反対のことで、彼らもまた同じように、「あれっ」と思うもの。アメリカ人やオース
トラリア人にしてみれば、日本人の生き方のほうが奇異に見えることだって多い。……いや、だ
からといって日本人の生き方がまちがっているというのではない。日本人は日本人で、今、精
一杯がんばっている。こういう生き方しかできないといえば、それはし方ないことだ。しかし心の
基本が、どこにあるかで生き方そのものも変わってくる。ものの考え方も変わってくる。もちろ
ん子育てのし方も変わってくる。仕事は大切だ。名誉も地位も肩書きも大切だ。しかしそれは
決して世界の常識ではない。世界の常識は、もう少し違った位置にある。
 要は、生きる本分を忘れないということ。忘れると、世界から日本はいつも奇異な目で見られ
る。個人について言えば、結局は自分の人生をムダにすることになる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(78)

広い視野で日本を見る

 テレビの討論番組で、「ぼくたちはアジア人ではない! 日本人だ!」と叫んだ小学生たち
(五、六年生くらい)がいた。それに対して、アフリカ人の留学生が、「君たちの肌は黄色いでは
ないか」とたたみかけると、その小学生はさらに、こう叫んだ。「黄色ではない。肌色だ!」と(二
〇〇〇年)。
 そこで私も小学校の高学年児を対象に、独自に調べてみた。結果、「日本人はアジア人」と
思っている小学生は一人もいないことがわかった(二〇〇一年、小学生約二〇人について調
査)。「欧米人とアジア人の中間」「欧米人に近いアジア人」、あるいは中には「ぼくたちは欧米
人」と答えた子どももいた。
 日本人はまちがいなく、アジア人である。しかしこの日本で教育を受けていると、そういう意識
が消える……らしい。また、そういう教育をしていない。三〇年前のことだが、私がオーストラリ
アという国から日本を見ても、日本人の目は欧米には向いていたが、アジアにはまったくといっ
てよいほど向いていなかった。そういう日本人をさして、「黄色い白人」というニックネームすら
つけられたが、日本人はそれをむしろ「誇り」に思ったようなところがある。(実際には、日本人
はバカにされたのだが……。)
 問題はなぜ、こういうゆがんだ民族意識をもってしまったかということ。その理由の一つが、
日本史を東洋史と切り離してしまったところにある。しかしこれは世界の常識ではない。たとえ
ばフランスの大学では、日本語学部や日本語学科は、朝鮮学部や朝鮮語学科の中に組み入
れられている。また欧米の大学では東洋学部というときは、中国研究を意味し、日本学科はそ
の一部でしかない。……いや、こう書くと、「君は日本人としての誇りを捨てるのか」という人が
必ずといってよいほど現れる。しかし私は何も日本人を否定しているのではない。日本人はア
ジア人であり、その先では人間だ。日本人が人間であるとか、アジア人であると言ったところ
で、日本人を否定したことにはならない。むしろ短絡的な民族主義は、えてして国粋主義に姿
を変える。それがこわい。「日本人はすばらしい」と思うのはその人の勝手だが、だからといっ
て、その返す刀で、「他の民族は劣っている」と考えるのは、まちがいだということ。
 これからの日本が、世界の中で生きていくためには、日本人自身が、もっと広い目で自分を
見なければならない。でないと、結局は、日本はいつまでたっても東洋の島国から抜け出るこ
とができないままになってしまう。私はそれを心配する。(はやし浩司のサイト:http://www2.
wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(79)

叱ったらほめる

 「かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って、よき人となせ」と言ったのは、二宮尊徳だ
が、まさにその通り。子どもを叱ったら、必ずほめて仕上げる。「ほら、あなたもちゃんとできる
でしょ」と。決して叱りっぱなしにしてはいけない。これは子育ての大原則。……と言っても、実
際にその場になると難しいので、頭の中で格言として、この言葉を何度も繰り返しておくとよ
い。「叱ったら、ほめる」と。
 叱り方にもコツがある。
@子どもに威圧感を与えない……「威圧で閉じる、子どもの耳」と覚えておく。親がガミガミと叱
れば叱るほど、子どもの耳は閉じる。つまり叱っても意味がないということ。
A相手が幼児のときは、目線を幼児の目線まで落とす……親のほうが腰を落とし、幼児の目
線まで自分の目線を落とす。
B子どもの肩をしっかりと固定し、視線を子どもの目からはずさない……両手で子どもの肩を
両側からはさみ、肩をしっかりと固定する。そして叱るときは、子どもの目をしっかりと見つめ、
視線をはずさないようにする。
C言うべきことを繰り返す……怒鳴ったり、大声をあげたりしない。言うべきことをしっかりと繰
り返す。
 そして最後、というより、しばらく時間をおいて、子どもが叱ったことを守ったり、できるように
なったら、ほめて仕上げる。
 ふつう叱るときは内緒で、ほめるときは皆の前でする。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠
告は秘かに、賞賛はおおやけに』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少し
おおげさにほめる。そのとき頭をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあと
は繰り返しほめる。
 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔や
スタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見て
くれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女
子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重に
する。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。(はやし浩司の
サイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(80)

子どもは甘えるもの

 スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受
けた子どもほど、甘え方が自然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい
柔和な表情で、人に甘える。甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、
そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染み込んでいくのがわかる。
 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。
こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一
もいるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど
感じなかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨
床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三
三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後
見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固
い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。
さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。
 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。
 果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(81)

「今」を知らない子どもたち

 私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと二人で、車で日本一周をするつもりです」と。し
かし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。
 日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視する。
「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。しかし大切な
のは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。こうした結果を大切にする考え方は、日
本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。その一つが、「未来」のためにいつも
「今」を犠牲にするという生き方。たとえば幼稚園は小学校入学のため、小学校は中学校や高
校の入学のため、さらに高校は大学入試のため、大学は就職するためと考える親は多い。そ
う考えるのは親の勝手だとしても、子どももまた、そういう生き方を身につけてしまう。そしてい
つまでたっても「今」がつかめなくなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリスには、
『休息を求めて疲れる』という格言がある。「いつか楽になろうなろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまい何もできなくなる」という意味である。
 一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そのまま
一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。たとえば今、一〇日間の
休暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」をそのまま楽しむ。……楽しむ
ことができる。しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇が終わってからの仕事を考える。子ど
ももそうだ。子どもが学校から三日間の休日を与えられたとする。そして子どもが家でブラブラ
していたとする。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こんなことでいいの!」と。つまり
日本人は休みを休みとして楽しむことすらできない。別の友人はこう言った。「一〇日も休みを
もらっても、過ごし方がわらない」と。こうした生き方は、よく「仕事中毒」という言葉で説明され
るが、そんな簡単なことではない。根は深い。
 さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても旅か
ら帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のようなものだ。試
験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」とか、「旅行しよう」と
か考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。あなたにもそういう経験があると思う
が、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩きする。しかしその抑圧から解放されると、同
時に夢も消える。いや、その前に健康がそれまで続くかどうかさえわからない。命だってあぶな
い。そんなあやふやな「未来」に夢を託してはいけない。夢があるなら、条件をつけないで、
「今」始めることだ。繰り返すが、結果は必ずあとからついてくる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(82) 

過関心は心をつぶす

 親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。そ
の過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。
 私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて授業そ
のものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線である。それがピリ
ピリと伝わってくる。そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張し
ている様子はない。柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い
……!
 親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮したりす
る。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返した子ども
とみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。また自分で考えて
行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動をしやすい。バスの窓か
ら体を乗り出してみせた子ども(小四男児)や、先生のコップに、殺虫剤を入れた子ども(中一
男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚がない。ないばかりか、かえって
子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもをますます悪い方向に追い込む。
 実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中まで、
こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうした親は、口で
は「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。自分の心のすき間を
埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。さらにその原因は何かと言えば、子ども
を信じられないという不信感がある。「うちの子は何をしても心配だ」という思いが転じて、過関
心になる。もちろん親自身の情緒的欠陥が原因となることもある。このタイプの親は、うつ型タ
イプの人が多く、一度こまかいことを気にし始めると、そのことばかり気にするようになる。そし
てささいなことを問題にしては、おおげさに騒ぐ……。
 子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもしそうなら、
一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法はいくらでもあ
る。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、子育てとは関係のな
い世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。(はやし浩司のサイト:
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(83)

生きるのがマトリックス(母体)

 生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。生きることがマトリックス
(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、仕事のために生きている
人はいくらでもいる。たとえば休暇。
 私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、休みにな
ったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇のすごし方を知らな
いと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育とて例外ではない。
土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいたとする。そういうとき親は、
「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」とか言って、子どもを追い立てる。
 生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。この世界
にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世だの、地位だ
の肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだしも、その一方で、
本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴任だ。昔、私のオーストラ
リアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と。
 もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。この
本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になったと思った
ら、人生も終わっていた……、と。
 私たちがなぜ子どもを育てるかといえば、子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んでほし
いからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子どもに与えるこ
とだ。つまりそれが教育のマトリックス(母体)。たしかにこの日本には学歴社会があり、それに
まつわる受験競争もある。しかし何のために子どもを教育するのかという本分は忘れてはいけ
ない。これを忘れると、子ども自身もまた、いつまでたっても自分の人生をつかめなくなる。い
や、その前に、あなたと子どもの関係は、まちがいなく断絶する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(84)

愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教して
も意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。
 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「五〇%」というのが不満
なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、一〇〇%だった親の愛情が、五〇%に減ったこ
とが問題なのだ。もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」では
なく「落差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよ
い。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言った
としたら、あなたはそれに納得するだろうか。
 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなた
の新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれ
たというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。
ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。
 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、@様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度一〇〇%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
A症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(五〇%五〇%)を貫き、そのつど、上
の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生
活にこころがける。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(85)

嫉妬はこころをゆがめる

 嫉妬心と闘争心。これら二つの感情は、おそらく人間がきわめて下等な生物であったときか
らもっていた原始的な感情ではないか。この二つをいじると、子どもの心はゆがむ。とくに嫉妬
心は、人間をして、えてして常識ハズレの行動へとかりたてる。
 たとえばいじめ。陰湿ないじめが、長期間にわたって続くときは、この嫉妬を疑ってみる。い
ろいろなケースがある。K子さん(小四)は、学校で、陰湿なもの隠しに苦しんでした。かばんや
上履きなどは言うにおよばず、教科書やノート、運動着さらには通知表まで隠された。そのた
めK子さんと母親は、転校まで考えていた。が、ひょんなことから、その犯人(こういう言い方は
好きではないが……)がわかった。そのもの隠しをしていたのは、そのK子さんの一番の親友
と思われていた子どもだった。その子どもは、いつもK子さんの心配をしながら、最後の最後ま
でいっしょになくなったものをさがしてくれていたという。
 K子さんは背も高く、頭もよかった。学校でもたいへん目立つ子どもだった。一方、そのもの
隠しをしていた子どもは、背も低く、器量も悪かった。そんなところにその子どもが嫉妬する理
由があったのかもしれない。
 またこんなことも。Oさん(中二女子)も、同じようにもの隠しに悩んでいた。私に相談があった
ので、私はその母親にこう聞いた。「Oさんの一番そばにして、親友と思われる子どもはだれで
すか?」と。する母親はこう言った。「そう言えば、毎朝、娘を迎えにきてくれる子がいます」と。
私はその子どもをまず疑ってみるべきだと話したあと、母親にこう言った。「明日その子が迎え
にきたら、その子の目をしっかりと見て、『おばさんは何でも知っていますからね』とだけ言いな
さい」と。その母親は翌日、私が言ったとおりにしたが、その日を境に、Oさんのまわりでのもの
隠しは、ピタリとなくなった。
 つぎに闘争心だが、いわゆる動物的な、かつ攻撃的な闘争心は、幼児期はできるだけ避け
る。幼児期は「静かな心」づくりを大切にする。この時期に一度、攻撃的な闘争心(興奮状態に
なって、見境なく相手を暴力で攻撃するという闘争心)が身につくと、それをなおすのは容易で
はない。スポーツの世界では、こうした闘争心がもてはやされることもある。たとえばサッカーな
どでも、能力というよりも、攻撃心の強い子どもほど、よい成績をあげたりする。ある程度の攻
撃心は、子どもを伸ばすのに必要だが、幼児期にはそれにも限度があるのでは……? もっ
ともこれ以上のことは、親自身の判断と方針に任せるしかない。それがよいと思う人は、そうす
ればよいし、それが悪いと思う人は、やめればよい。あくまでも参考意見の一つと考えてほし
い。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(86)

仮面治癒に注意!

 子どもの心の問題をあつかっていると、ときどき不思議な現象にであう。私が最初にある子
どもに出会ったとき、「この子の心の問題がなおるには、数年かかるだろうな」と思ったとする。
で、それなりの対処をしているのだが、数か月もたたないうちに、「なおった?」ような状態にな
ることがある。たとえばF君(年中児・五歳)がそうだった。最初母親も、「三歳のとき、病院で自
閉症と診断されました」と話していた。(たしかに自閉傾向はあったが、私がみたところ自閉症
ではなかった。母親が聞きまちがえたのだろうとそのときはそう思った。)自分勝手な行動が目
立ち、私の言うことなどほとんど聞かなかった。が、指導を始めて数か月後のこと。ふと気づく
と、F君が別人のようにおとなしく、しおらしい様子で、私の指示に従っていた! 驚いてうしろ
で参観していた母親のほうを見ると、母親はそれを見て喜んでいたが、どうもおかしい。そこで
母親からあれこれ話を聞くと、F君はある訓練教室で訓練を受けているという。はげしい暴力的
な訓練で有名な訓練教室である。
 こうしたケースは極端なケースだが、大前提として、子どもの心の問題は、簡単にはなおらな
い。無理をすれば一見、なおったかのように見えることがある。私はこれを仮面治癒と呼んで
いるが、仮面は仮面。なおったのではない。症状はさらに奥の深いところにもぐったと考える。
心の問題は、決しておさえてなおるものではない。むしろ反対に、不登校にせよ、引きこもりに
せよ、もろもろの情緒障害にせよ、心の問題は、外へ解放させることによってなおす。一年単
位の恐ろしく時間のかかる作業だが、これが大原則である。こうした問題で、たとえば別の形
で強度の恐怖心を与えたりすると、子どもは退避的に、自己コントロールするようになる。F君
がその教室で受けた訓練は、そういうものだったが、しかしそれは風邪をひいて熱を出してい
る子どもに、頭から水をかけるようなものである。熱はさがるかもしれないが、それですむわけ
がない。事実そのあと数か月もすると、F君に妙な現象が出てきた。絵を描いているときでも、
何を思ったのかひとりでニヤニヤ笑ってみせたり、突発的に大声を張りあげて、泣き叫んだり
するなど。
 子どもに心の問題を感じたら、親のほうが一歩も二歩も引きさがる。今の状態をそれ以上悪
くしないことだけを考えて、無理をしない。無理をすればするほど逆効果。さらに無理をすれ
ば、ここでいう仮面治癒を引き起こすことがある。こうなると、「教育」という場で対処できる問題
ではなくなってしまう。その訓練教室では、「なおった、なおった」とさかんに宣伝しているが、本
当に「なおった」とみてよいのか。私がいう仮面治癒に、皆さんもじゅうぶん注意してほしい。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(87)

しつけは普遍

 五〇歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし六〇歳を過ぎると、その人の
人格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(七〇歳女性)は近所でも、
「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。近所を散歩しながら、よそ
の家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。人はそれを、Tさんが老人
になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさんが二、三〇歳のときか
らあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。しかし
七〇歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例する
かのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。
 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。たとえばゴミを捨てる子どもがい
る。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを捨てなくなる。しかし中学生と
もなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しかない。あるいは小ずるくなっ
て、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。
 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたとき
には、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そして
それを教えるのが、「しつけ」ということになる。そういう意味ではしつけというのは、国や時代を
超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」という。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(88)

教師は聖職者にあらず

 たまたま私はこの原稿を、石川県のK市にあるホテルで書いている。小さな会議に出席する
ためにやってきた。約束の時刻までまだしばらくあるということで、何気なく、……というより部
屋の空気を入れかえるために窓をあけて眼下を見ると、露天風呂。しかも女湯! その無防
備さに、私は我が目を疑った。私の部屋からその露天風呂までは、ちょうど一〇階分の落差
がある。女性たちがはっりと見える距離ではないが、しかし遠過ぎるという距離でもない。とた
ん、私の鼓動が高まるのを覚えた。
 人は私のことを勝手に「教育評論家」と呼んでいる。最初はこの言葉に大きな抵抗を感じた
が、今では自分からこの名前を使うことがある。しかしこの言葉はどこかいやだ。「教育者」と
いうイメージが強過ぎる。たしかに私はいろいろな子育て論を論ずるが、しかし教育者ではな
い。いわんや教育者という言葉から受けるような聖職者ではない。その証拠に、現に今、心臓
がドキドキしている。五四歳にもなって、そんな世界とはまあ、半ばあきらめたというか、無縁の
世界にいるはずなのに、何という現象。何という愚かさ。しかしそれにしても露天風呂の女性た
ちの大胆さといったらない。大きな石の上に、まさにあぐらをかいて連れ添った別の女性と話し
込んでいる。小さな風呂だが、バシャバシャと足で蹴って、水しぶきをたてているのもいる。私
はやがてそういう光景を見ている自分がなさけなくなった。今の私はまさに本能の虜(とりこ)に
なっている。「見たところでどうということはないではないか」という私。これが理性のあるほうの
私。しかし「見ていたい」という私。これが本能の私。が、そのうち、こんなことに気づいた。「こう
した無防備さこそが、ホテル側の意図的な戦略ではないか?」「わざと私のような人間に見せ
るようにしくんでいる?」と。とたん自分の心の中で、スーッと本能が冷めていくのを感じた。
 私はあえていう。教師は決して聖職者ではない。教師と言っても、あなたの夫や、あなたの兄
や弟とどこも違わない、ただの人間である。この私ですらそうなのだから……という言い方は変
だが、私はだれが見ても、「まじめな人間?」に見えるらしい。その私ですらそうなのだから、少
なくとも男の教師は皆、そうであるとみてよい。露天風呂に遊ぶ若い女性を見て、「何も感じな
い」と、窓をしめる教師などいない。いたらいたで、その「ふつうでないこと」を疑ってみたほうが
よい。おなかがすけば何かを食べたくなる。それと同じように、こうした性欲はだれにでもある。
もっともあったからといって、それがまちがっているというのではない。それが正常な人間という
ことになる。
 さて本論。よく教師による女生徒へのセクハラ事件が話題になる。教師がハレンチ事件を起
こすこともある。そういうとき世間は、鬼の首でもとったかのように騒ぐが、そもそもそういうスキ
を与えたのもその世間ではないのか。もっとはっきり言えば、教育のシステムをそういう前提、
つまり教師といえどもただの人間であるという前提で組み立てるべきではないのか。私はそん
なことを考えながら、今度は本気で窓を閉じた。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(89)

仮面をかぶらせるな

 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。
 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が
日常化すると、子どもの心はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込
むと、その不安を解消しようと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいる
が、反対にそうした不安定さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮
面をかぶるようになる。一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる
前に、自分から相手を裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、
わざと意地悪をしたり、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、
つっぱりなどの症状を引き起こすこともある。
 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せ
というのではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。子
どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表れ
る。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放させ
ることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれば、
改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満六歳でこうした症状が一度出たら、子ど
もをなおすのに六年かかると思うこと。満一〇歳で出たら、一〇年かかると思うこと。心という
のはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、注意す
る。  


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(90)

行きつくところまで行く

 子育ては、失敗してみて、それが失敗だったとはじめて気づく。その前の段階で、私のような
ものがあれこれ言ってもムダ。ほとんどの親は、「うちの子に限って」とか、「まだ何とかなる」と
考えて、無理に無理を重ねる。が、やがてそれも限界にくる。
 よくある例が、子どもの燃え尽き(バーントアウト)。概してまじめで、従順な子どもがなりやす
い。はげしい受験勉強をくぐりぬけ、やっとの思いで目的の学校へ入学したとたん、燃え尽きて
しまうなど。浜松市内でも一番と目されている進学校のA高校のばあい、一年生で、一クラス
中、二〜三人。二年生で、五〜六人が、燃え尽き症候群に襲われているという(B教師談)。一
クラス四〇名だから、一〇%以上の子どもが、燃え尽きているということになる。この数を多い
とみるか、少ないとみるか? 
 燃え尽きは初期症状を的確にとらえ、その段階で適切に対処することが大切。登校前に体
や心の不調や、無気力、倦怠感を訴えたりする。不登校の初期症状に似た症状を示すことも
ある。そういうとき親が、「そうね、だれだってそういうときがあるよ」と言ってあげれば、どれだ
け子どもの心は救われることか。が、親にはそれがわからない。ある母親はあとになって、私
にこう言った。「無理をしているという気持ちはどこかにありましたが、目的の高校へ入ってくれ
れば、それで問題のすべては解決すると思っていました」と。もっともこういうふうに反省できる
親はまだよいほうだ。中には、「わかっていたら、どうしてもっと早くアドバイスしてくれなかった
のだ」と、私に食ってかかってきた父親がいた。
 結論を先に言えば、結局は親というのは、自分で行き着くところまで行かないと、自分で気づ
かない。一度(無理をする)→(症状が悪化する)→(ますます無理をする)の悪循環に入ると、
あとは底なしの泥沼状態に陥ってしまう。これは子育てにまつわる宿命のようなものだ。そこで
大切なことは、いつどのような形で、その悪循環に気づき、それをその段階で断ち切るかという
こと。もちろん早ければ早いほどよい。そしてつぎのことに気をつける。
@あきらめる……「あきらめは悟りの境地」という格言を以前、私は考えたが、あきらめる。
A今の状態を保つ……「何かおかしい」と感じたら、なおそうと考えないで、今の状態をそれ以
上悪くしないことだけを考える。
B一年単位でみる……子どもの「心」の問題は、すべて一年単位でみる。「心」の問題はその
つど一進一退を繰り返すが、それには一喜一憂しない。
 これは燃え尽きに限らず、子どもの心を考えるときの大鉄則と考えてよい。
 

子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(91)

見栄、メンツ、世間体

 見栄、メンツ、世間体……どれも同じようなものだが、この三つから解放されたら、子育てに
まつわるほとんどの問題は解決する。親はこの三つに毒されると、とんでもないこと(失礼!)
をし始める。常識そのものが狂う。
 まず見栄。ある高校生(男子)が私のところにやってきて、こう言った。「先生、法政大学と明
治大学、どっちがカッコいいですかね」と。そこで私が「どうしてそんなことを聞くのか?」と言う
と、「結婚式での披露宴のこともありますから」と。まだ恋人もいないような高校生が、結婚式で
の見てくれを気にしていた。
 つぎにメンツ。このH市では、市内の進学校に進学できなかった子どもは、隣のS市の全寮
制の学校に入るということが、どこか習わしになっている。(もちろんそうでない子どもも多いが
……。)もともと無理をして受験したような子どもが多い。で、地元に残って、ランクの低い高校
へ入るよりは、そのほうが格好がつくと親や子どもは考える。
 三つ目に世間体。日本人ほど、他人の目を気にしながら生きる民族は少ない。長く続いた封
建時代が、こういう民族性をつくったと考えられる。まわりの人と同じことをしていれば安心、そ
うでなければ不安と。今でも、「世間が許さない」「世間が笑う」「世間体が悪い」などという言葉
を日常的に使う人はいくらでもいる。それが子どもの世界に入ると、子どもの姿そのものまで
見失うことになる。たとえば自分の子どもが不登校児になったとき、子どもを地元の精神科医
院に通わせるのは「恥ずかしいから」という理由で、隣町の精神科医院に通わせていた母親が
いた。あるいは近所をブラブラされると、やはり「恥ずかしいから」という理由で、不登校になっ
た子どもを一日中マンションの一室に閉じ込めていた母親もいた。
 しかしもうそろそろ日本人も、見栄、メンツ、世間体と決別してもよい時期にきているのではな
いだろうか。そういうものを気にするということは、その人自身が小さな世界で生きていることを
意味する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(92)

汝(なんじ)自身を知れ

 「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・七賢人の一人)だが、自分を知ることは難し
い。こんなことがあった。
 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。「君は、学
校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとその子ども
は、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼくを怒っ
た」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものことではな
い。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。
ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあっ
たし、軽いが吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」
ということのほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。
話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。このタイプの親たちは、なぜそういうことをす
るかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のど
こかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレーキをかけることができない。「自分であって
自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」というが、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、
いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中
にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それに気づくこ
とが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつまでも自分で
ない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(93)

裸で生きる

 私には六〇人近いいとこがいる。そのいとこの中でも、一番の出世頭(こういう言い方は好き
ではないが)は、京都に住むUさんだ。Uさんは某一流大学(この言い方も好きではない)を出
たあと、これまた某一流銀行(この言い方も好きではない)に入社。あとはトントン拍子に出世
して、現役時代はその銀行のドイツ支店の支店長も経験している。
 このUさんと同じ歳のいとこに、Bさんがいる。Bさんは田舎の中学を卒業すると、理容師な
り、今は長野県の山村で理容店を営んでいる。魚釣りがうまく、そのあたりでは「名人」というニ
ックネームで呼ばれている。が、それだけではない。魚釣りが高じて、Bさんは釣り竿を自分で
作るようになり、今ではBさんが作る釣り竿は、「芸術品」とまで評判されている。
 私はときどきUさんとBさんを頭の中で比較する。一昔前の尺度でみれば、Uさんは勝ち組
み、Bさんは負け組みということになる。しかし今、結果としてこの二人を比較すると、勝ち組
み、負け組みという言い方すら、空しく聞こえてくる。Uさんはあのバブル経済が崩壊したあと、
子会社の金融会社に出向している。それなりに出世したとはいえ、し烈な競争世界で犠牲にし
たものも多い。金融会社に出向する少し前、Uさんは私の家にやってきて、こう言った。「いえ
ね、こうなってみると、何もかもむなしいよ。女房なんか、『私の人生は何だったの。返して!』
と言って、ぼくを困らすのだよ」と。Uさんはともかくも、夫の出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、
また大きい。
 もちろん今でもUさんは、自慢のいとこだ。ときどきいとこ会を開くが、Uさんが席の中央に座
っても、それをおかしいと思う人は一人もいない。しかし今、もし私にもう一度人生が与えられ、
Uさんか、それともBさんのどちらか一つの人生を選べと言われたら、私は迷わず、Bさんの人
生を選ぶ。現在の私の生活そのものがBさんのそれに近いこともある。が、理由はもっとほか
にある。
 人は生きるために、食べる。食べるためにお金を稼ぐ。そのお金を稼ぐために働くとしたら、
働くことはあくまでも補助的なことだ。その補助的なことが、本末転倒して、「柱」になったとして
も、それは錯覚でしかない。Uさんは銀行という会社のために人生を捧げたが、銀行に人生を
捧げること自体おかしなことなのだ。一見華々しい社会に見えるが、それは生きることとは本
来、無関係なものである。いくら華々しく働いたとしても、その人の人生が豊かになるわけでは
ない。人生の豊かさ、美しさは、もっと別のところにある。もっと言えば、その人が裸になったと
き、その人の価値が決まる。つまり「生きる」という原点をみる限り、BさんのほうがUさんより、
はるかに豊かな人生を送ったということになる。Bさんには地位や肩書きがないにしても、それ
がないからといって、Bさんの人生には何ら影響はない。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(94)

知識と教養

 知識と教養は、まったく別物。たとえば幼稚園児がスラスラと掛け算の九九を言うのは知識。
しかしいくらこの知識があるからといって、その子どもが教養のある子どもということにはならな
い。教養とは、もともとその人の深い人間性と結びついたもの。たとえばA君がB君に「チビ!」
と言ったとする。そのときそれを聞いたC君がA君に、「そういうことを言ってはダメ」とたしなめ
たとする。そのたしなめる原動力となる深い人間性を、教養という。
 ところがこの日本では、知識と教養が区別されていない。されていないばかりか、知識のある
子どもイコール、教養のある子どもということになってしまっている! あるいは勉強のよくでき
る子どもイコール、教養のある子どもとか、人格的にすぐれた子どもということになってしまって
いる! しかしこれはとんでもない誤解である。むしろ事実は逆で、勉強のできる子どもよりも、
勉強のできない子どものほうにこそ、豊かな人間性を感ずることのほうが多い。福田恒存も
「伝統に対する心構」の中でこう書いている。「教育と教養は別物です。……教養を身につけた
人間は、知識階級よりも職人や百姓のうちに多く見出される」と。福田ばかりではない。世界の
哲学者も、知識に対する見方はきびしい。「思考と知識はつねに歩みを一緒にすべきである。
さもなければ、知識は死物で、不毛のまま死滅する」(語録)と言ったパスツール。「教養と知識
は別物だ。危険だと思われるのは、勉強していくにつれて陥る、あの呪われた知識というヤツ
だ。どんなものもみな、頭を通らなくては気がすまなくなる」(青春時代)と言ったヘッセなどがい
る。
 もちろん知識を否定してはいけない。知識は人間がよりよい人生を築くための武器となる。し
かしその知識は常に両刃の剣。使い方をまちがえると、とんでもないことになる。そこでその使
い方を教えるのが、教養ということになる。
 さてあなたはどうだろうか。あなたは子どもに知識をつけさせることが教育だと誤解していな
いだろうか。そうでなければそれでよいが、もしそうなら、一度、知識と教養を頭の中で分けて
みたらどうだろうか。あなたの子どもについて言うなら、勉強がよくできるとかできないとかとい
うことではなく、「うちの子は本当に教養があるのだろうか」と、一度じっくりと観察してみたらど
うだろうか。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(95)

子どもの自慰は笑ってすます

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。六
歳になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなっ
ているのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつける
ように感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。こういうとき、どう対処したらいいので
しょうか」(三二歳母親)と。
 フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に分けている。@口唇期……口の中にいろいろ
なものを入れて快感を覚える。A肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に興
味を示したり、そこをいじったりする。B男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をも
つようになる。
 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為
をする。これを代償行為という。指しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自
慰もその一つと考える。つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレ
スの原因(ストレッサー)となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症
状(ふさぎ込み、ぐずぐず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)を
ともなうことが多い。そのため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を
悪化させることもあるので注意する。
 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこ
とを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗する
そぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。
 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。
 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(96)

スキンシップは魔法の力 

 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二〇年ほ
ど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の
講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく『抱く』とい
う方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。
が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言いかえる
と、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問題」があるとみてよい。
 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。
許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら
丸太を抱いているような気分になる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと
身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じ
になることがある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子ども
も女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうで
ないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。
 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、
濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自
然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで
きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染
み込んでいくのがわかる。
 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人
に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる
のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。
私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、
私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。
 ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行
きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき
である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら
くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も
安定する。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(97)

慈善は家庭から

 『慈善は家庭から』。これはイギリスの格言。「善良な人になるための心の基本は家庭ででき
る」という意味だが、子どもは「絶対的な安心感のある家庭」の中でこそ、心をはぐくむことがで
きる。「絶対的」というのは、不安感や疑いを抱かないという意味。子どもというのは、転勤や転
校のような環境の変化など、物理的な変化にはたいへんタフな適応能力をみせる。が、心、と
くに愛情がからんだ変化にはたいへんもろい。もろいだけならまだしも、愛情がからんだ変化
は子どもの心に大きな影響を与える。たとえば離婚。離婚そのものは子どもにはほとんど影響
はないとみてよい。離婚が離婚として子どもに影響を与えるのは、離婚にいたるまでの家庭不
和、家庭騒動である。離婚するとしても、子どもの前での騒動は最小限にする。
 一方、子どものやさしさ、思いやる心、いつくしむ心というのは、愛情豊かで、心穏やかな環
境ではぐくまれる。それがよいか悪いかということはさておき、(あまり好ましくないのは言うまで
もないが)、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような溺愛児は、柔和で心も穏やか。それにた
いへんやさしい。反対に生まれてまもなくから施設などに預けられた子どもは、愛情飢餓(き
が)の状態におかれ、独特の症状を示す。だれにも愛想がよい反面、他人に心を許さない。許
さない分だけ、孤立感が強く、情緒的に不安定になるなど。ほかに知育の発達が遅れがちに
なるとか、貧乏ゆすりなどの症状がつきやすいことを指摘する学者もいる(長畑氏ほか)。さら
に親の育児拒否や虐待を経験した子どもは、心の発達そのものが阻害されることが知られて
いる。
 要するに子どもを心豊かな子どもにしたかったら、子どもは温かい家庭で包む。同じイギリス
の格言に、「子どもを幸せにするのが、最高の教育」というのがある。「幸せ」の中身も問題だ
が、「幸せな家庭」がどういうものであるかをいつも考えながら、そういう家庭づくりを考える。そ
れが本当の意味で「よい子」を育てるための、必要条件ということになる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(98)

四割の善と、四割の悪

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。つまり子どもの世界をよくしたいと思っ
たら、社会そのものと闘う。
 ただし一言。悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たち
のように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまった
ら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもし
ろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が
残っている。
 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。
 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通
いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘
が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言っ
た。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許
せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめ
でたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。


子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(99)

常識を大切に

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

 
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(100)

不登校は前兆をとらえる

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま。が、その中でも恐怖症の症
状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区
別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソ
ン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわ
かりやすくしたのが次である。
@前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐
き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になる
と、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学
校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除す
ると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど
移動するのが特徴。
Aパニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂った
ように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一
転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌
っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と
思うことが多い。
B自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的
態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピ
リした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすること
はある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不
安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子
どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わか
らなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
C回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊び
に行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて
登校できるようになる。日に一〜二時間、週に一日〜二日、月に一週〜二週登校できるように
なり、序々にその期間がンなる。
 要はいかに@の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親は
ひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化さ
せ、Aのパニック期を招く。この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行き
たくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子
どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればする
ほど、症状はこじれる。悪化する。 


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